市川喜一著作集 > 第13巻 パウロによる福音書 ― ローマ書講解U > 第10講

第二節 愛の道

34 愛の道 (12章 9〜21節)

 9 愛には偽りがありません。悪を憎み、善に固着し、 10 兄弟愛をもって互いに慈しみ、尊敬を示すことにおいて互いに他に先んじ、 11 勤勉で怠けることなく、霊に燃えて、主に仕え、12 希望によって喜び、患難を耐え忍び、祈りにおいて絶え間なく、13 聖徒たちの窮乏を分かち合い、旅にある者をもてなします。
 14 あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福するのであって、呪ってはなりません。 15 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。 16 互いに同じ思いを抱き、高ぶった思いを持つことなく、低い境遇の者たちと共に歩みなさい。自分で賢い者とならないようにしなさい。 17 誰に対しても悪をもって悪に報いることなく、すべての人のために善を配慮するようにしなさい。 18 あなたがたから出ることでできるならば、すべての人たちと平和に過ごしなさい。 19 愛する人たちよ、自ら復讐しないで、御怒りに場所を譲りなさい。書かれているように、「復讐はわたしのもの。わたしが報復する」と主が言われるからです。 20 むしろ、あなたの敵が飢えているなら食べさせなさい。彼が渇いているなら飲ませなさい。そうすることで、彼の頭に燃える炭を積み上げるのです。 21 悪に征服されることなく、善をもって悪を征服しなさい。

共同体の中での愛

 文頭に立つ「愛」《アガペー》の語は、この段落(九〜二一節)全体の標題としての位置を占めています。異なる賜物を与えられた者たちが一つの体を形成するという集会の一致を説いた後に、統合の最高原理である愛《アガペー》を説くのはコリント書T(一二・三一)の場合と同じです。
 まず「愛には偽りがありません」と語られます(九節前半)。ここには動詞はありません。「愛とは偽りのないものだ!」と感嘆して、主題を掲げているのです。
 「偽りのない」と訳した語は、「演技する」という動詞から出た語に否定語がついた形で、「演技していない」という意味です(この「演技する《ヒュポクリノマイ》」という語が「ヒュポクリシー(偽善)」の語源となります)。愛に生きるにさいして、演技で愛を演じるのではなく、命の発露として内から溢れるのが愛の本質です。
 その後一三節まで、その内から溢れる命の発露としての愛がどのような姿で現れるのかが、すべて分詞形の動詞で列挙されます。コリント書(T一三章四〜七節)の場合は、「愛」を主語として「愛は〜する」とか「愛は〜しない」と、愛が働く姿が動詞で描かれていましたが、ここでも(分詞形ですが)愛に生きる者の姿を動詞を用いて描き、あなたがたがこのように歩むところに愛が現れるのだと、愛の姿が描写されます。
 最初に来る「悪を憎み、善に固着し」という表現(九節後半)は、この段落最後(二一節)の「悪に征服されることなく、善をもって悪を征服しなさい」というまとめの言葉と呼応して、キリストにある愛《アガペー》の特質を指し示しています。段落の中程にも「誰に対しても悪をもって悪に報いることなく、すべての人のために善を配慮するようにしなさい」(一七節)という表現があります。この言葉がイエス伝承(マタイ五・三九)を強く反映していることから、また、一四節も「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」と言われたイエスの語録伝承(マタイ五・四四)に基づくものであることから、この段落に描かれる《アガペー》の特質は、イエス伝承を基調としていることが分かります。しかしパウロは、イエスがこう教えられたのだからとイエスの言葉を引用するのではなく、聖霊がもたらす愛の命の質から、その愛に生きている自分の言葉で、愛に生きる者たちの姿を描きます。
 次に「《フィラデルフィア》をもって互いに慈しみ」と来ます。《フィラデルフィア》という語は後に「博愛」と訳されることが多くなりますが、原意は「《アデルフォス》(兄弟)への愛」です。ここ(九〜一三節)は、勧告の内容からして、集会内の交わりについて語っていると見られますので、この《フィラデルフィア》は「兄弟愛」のことを言っているのだと理解できます。キリストに属する者はみな同じ父から生まれた子として互いに兄弟姉妹であるのですから、肉親の兄弟姉妹としての情をもって互いに慈しみ合います。
 次に「尊敬を示すことにおいて互いに他に先んじ」という姿が来ます。この世界においては、尊敬とか名誉を受けるために互いに他に先んじようとして競争しています。しかし、キリストにあっては方向が逆になり、他者に尊敬を示すことにおいて他の人に先んじようとするようになります。それは、恩恵の場に生きる者として、自分をゼロの立場に置いているからです。自分が自分のために主張する価値がゼロであれば、周囲の人たちはみな何か優れたものをもっていて、自分を向上させてくれる師となります。恩恵の場では、人は互いに誰にでも敬意をもって対する関係になります。
 さらに続いて、愛に生きる者の姿が、きわめて簡潔で引き締まった文体で列挙されます。これは愛の命に生きる者の姿ですが、当然キリストにある者はこのように歩むのだという勧めの意味も含んでいます。
 「勤勉で怠けることなく、霊に燃えて、主に仕え、希望によって喜び、患難を耐え忍び、祈りにおいて絶え間なく」(一一〜一二節)。

 実は一〇節から始まっているのですが、一〇〜一二節は三格の名詞に動詞の分詞形が続くだけの同じ構文で、多くの項目が羅列されています。その三格の名詞は、「〜をもって」とか「〜によって」(具格)、「〜において」(位格)、「〜に」(与格)など、ギリシア語名詞の三格の多彩な意味合いを示しています。

 ともすれば陥りがちな怠惰とか無精を克服して、勤勉さによって先にあげられたような務めを果たすことが求められています。しかし、その勤勉さは内に燃える熱心がなければ維持できません。その内に燃える熱心が「霊に燃え」と表現されています。ここの「霊」には定冠詞がついているので、「御霊によって燃え」という意味に理解し、御霊の賜物《カリスマ》を熱心に追い求めることを勧めているとも理解できます。この内的な熱心を意味するにしても、また御霊の《カリスマ》の熱心を意味するにしても、この段落の全体が聖霊の働きの結果であることを見失ってはなりません。
 その熱心さですることは、「主に仕える」ことです。地上でなすべきこと、果たすべき義務は多々ありますが、わたしたちは何よりも主に仕えて、主が求めておられることを行うことに熱心です。

 「主に仕え」の《キュリオス》(主)を《カイロス》(時)と読む写本もあります。その場合、「時に仕える」とは、今の時を自覚して(目を覚まして)、時(機会)を適切に用いることを意味することになります。この読み方は、前後の文脈によく適合し、捨てがたいものがあります。

 「希望によって喜び、患難を耐え忍び(直訳は、患難において耐え忍び)」は、すでに五章(二〜五節)で、キリストにある者は聖霊により注がれた神の愛によって、苦難の中で希望をもち、勝ち誇って喜ぶことが語られていました。ここでそれが愛に生きる者の姿の中に改めて組み込まれています。
 「祈りにおいて絶え間なく」という姿は、霊における主との交わりという自分の霊性のためだけではなく、周囲の人たちのための執り成しの祈りを絶やすことがない、という愛の姿を描いています。この意味であることは、この祈りが愛の姿を描く文脈の中に出てくることと、次節の仲間の者たちへの配慮を描く文に自然に続くことからも分かります。
 「聖徒たちの窮乏を分かち合い、旅にある者をもてなします」(一三節)。
 「聖徒たち」というのは、キリストに属する信徒たちを指す用語です。兄弟である聖徒が困窮しているとき、乏しい中からでも持ち物を分かち合って助け合うのが、愛の姿です。パウロは「聖徒たちへの献金」を命がけで集めることで、このことを身をもって実行してきました。パウロの場合は、エルサレムの「貧しい者たち」のための募金活動でしたが、そのような特別のものだけでなく、愛は普段の交わりの中で常に実行しています。この「聖徒」という用語が用いられていることから、また内容からしても、愛についての勧告の前半(一〇〜一三節)は、キリストの民の共同体内部での愛の交わりについて語られていると理解できます。
 最後の「旅にある者をもてなします」は、直訳すると「ホスピタリティーを追求します」となります。客人、とくに旅の人を受け入れてもてなすこと(ホスピタリティー)は、イスラエルを含む古代オリエント社会での基本的な徳目でした。ここでもおそらく、キリストに属する者同士のホスピタリティーが第一に考えられているのでしょうが(当時ではこのホスピタリティーがなければ、伝道者が各地に福音を伝える旅をすることは不可能でした)、共同体の内か外かは問わず、愛はホスピタリティーの実践を熱心に追求する原動力です。
 この「ホスピタリティー」という用語からでしょうか、使徒の目は外に向かい、共同体の外の人たちに対する愛の働きに説き及ぶことになります(一四〜二一節)。そのさい「追求する」と言った言葉が、一三節と一四節の連結環の役割を果たします。

敵を愛する愛

 「あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福するのであって、呪ってはなりません」(一四節)。
 直前で「ホスピタリティーを追求します」(一三節後半)と言ったときの「追求する」という動詞は、もともと「追いかける」という意味の動詞で、何かよいものを「追求する」という意味にも使いますが、「追及する」とか「責める」、「迫害する」という意味にも用いられます(マタイ五・一〇、一一、一二、四四にこの動詞が「迫害する」という意味で使われています)。キリストにある者は外の人々に対しても「ホスピタリティーを追求します」と描かれますが、外の人たちはしばしばキリストに属する者を追及し迫害します。パウロは(原文で)一三節の最後にこの動詞を口にしたとき、同じ動詞を用いたイエスのお言葉を思い起こさざるをえなかったのでしょう。この一四節の言葉は明らかに、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」というイエスの語録(マタイ五・四四)を反映していますが、パウロはそれをイエスの言葉として引用するのではなく、自分の言葉で語っています。

 一四節以下は、すべて分詞形で表現した一三節までとは異なり、普通の命令文で勧告をしています。また内容でも、おもに外部の人たちとの関わりについて語っているという点で違ってきています。それ以上に、イエス伝承を初め、初期の教団が継承してきたユダヤ教伝承に依存することが多い点で、文体が違ってきています。このことから、この部分(一四〜二一節)は初期の教団に共通の教理問答のようなものが引用されているか、または色濃く反映していると見る説が多いようです。

 パウロはイエス語録の「祈りなさい」を「祝福しなさい」に言い換え、さらに「祝福するのであって、呪ってはなりません」と付け加えています。「祝福する」とは、相手の人によいものが与えられるようにと神に祈り願う言葉です。それに対して「呪う」とは、相手に悪しきことが来るようにと神に祈り願う言葉です。この段落では「悪をもって悪に報いることなく、すべての人のために善を配慮する」ことが強調されていますが、最初にそれが心の中の願いとして、またそれを言い表す言葉としてなければならないことが、「祝福する」と「呪う」という宗教的な用語で語られます。

すべての人と平和に

 外の人たちに対するキリスト者の姿勢を説くこの箇所(一四〜二一節)では、自分たちに悪をもって対する外の人たちに対して、悪をもって対するのではなく、愛をもって対するように説く言葉が繰り返されています(一四節、一七節、一九〜二一節)。しかしそのような言葉の間に、外の人たちとも進んで平和なよい関わりを築くようにという積極的な勧告が織り交ぜられています(一五節、一六節、一八節)。外の人たちといっても迫害する者ばかりではないからです。外の人たちを初めから迫害する者と決めてかからないで、善意をもってよい交わりを形成するように務めることはキリスト者にふさわしいことです。
 そのような積極的な勧告の最初に、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(一五節)が来ます(この言葉はユダヤ教知恵文学の一つであるシラ書の七章三四節から取られています)。共同体内部の兄弟姉妹に対しては当然ですが、それだけでなく外の人たちが普段の社会生活の中で体験する幸福や不幸も自分のことのように一緒になって喜んだり泣いたりして、彼らの体験を分かち合い、交わりを持ちなさいという勧めです。キリスト者はこの世の喜怒哀楽から超然としているのではなく、共同体の内と外とを問わず、周囲の人たちとこの世の喜怒哀楽を共にしながら、内に与えられている平安によって周囲の人たちを支えることがふさわしいことです。
 次の「互いに同じ思いを抱き、高ぶった思いを持つことなく、低い境遇の者たちと共に歩みなさい。自分で賢い者とならないようにしなさい」(一六節)という勧告の「互いに」という語も、(この箇所の前後関係から)共同体の内部だけでなく外の人たちも含めて、自分と関わりのある人たちとの間で「互いに」と言われていると理解すべきでしょう。
 キリスト者はともすると、外の人たちに比べて自分たちは賢い者であると考えがちです。自分たちには神に関わる特別の知識が与えられているので、人間に関する理解でも一段と深いものがあると考えることが多いようです。パウロはそのような「高ぶった思いを持つこと」を戒め、人間として願う幸福は同じなのですから、「互いに同じ思いを抱き」と説き、「高ぶった思いを持つことなく」の具体的な現れとして、むしろ「低い境遇の者たちと共に歩みなさい」と勧めます。

 原文の「低いもの」を中性名詞と見て、「低い事柄、卑しい事」と理解することも可能です。しかし、本節は対人関係を扱っているので、人物を指すと理解する方が順当と考えられます。なお、「自分で賢い者とならないように」という言葉は、箴言三・七からです。

 「低い境遇の人たち」は、高遠な理想を語ることはなく、身近で卑近な幸福を求めるだけかもしれませんが、そのような人たちと喜怒哀楽を共にし、人生の体験を分かち合うことで、そのような人たちにも自分の内に与えられている永遠の命を分かち合うようにすることこそ、社会から疎外され、上層の教養ある「義人」たちから「罪人」と呼ばれていた人たちと食卓を共にして「神の国」を伝えていかれたイエスの弟子にふさわしいことでしょう。
 この世の人々との関わりに生きるとき、様々な悪が身に及ぶことがあります。そのように悪しき扱いを受けたときの心構えが続いて説かれます。
 「誰に対しても悪をもって悪に報いることなく、すべての人のために善を配慮するようにしなさい」(一七節)。
 イエスは「悪人に手向かうな」と説かれました(マタイ五・三八〜四二)。殴られたから殴り返したり、悪口を言われたから罵り返すのでは、「悪をもって悪に報いる」ことになります。悪に対して善をもって報いることこそ、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ雨を降らせてくださる父」の子にふさわしいことです。すなわち、相手の善悪に絶して(これが「絶対」です)、無条件に善いことをしてくださる神を父とする者にふさわしいことです(マタイ五・四三〜四八)。イエスはこれを「敵を愛しなさい」という一言葉で宣言されました。パウロは同じことを自分の言葉でキリストの民に勧告します。この勧告は、ほぼ同じ言葉でもっとも初期の書簡であるテサロニケ書(T五・一五)でもなされており、パウロがその伝道活動の全期間を通じて強調していたことがうかがえます。
 この段落(一二・九〜二一)と次の段落(一三・一〜七)で、善と悪という語が繰り返し用いられています。使徒は善とは何かとか悪とは何か、説明や定義はしないで用いています。ここでの善と悪は、わたしたちが日常の生活の中で体験する善いことと悪いことと理解してよいでしょう。わたしたちが隣人との関係でしたりされたりすることで、辛くて苦しい思いをするようなこと、たとえば暴行を加えて身体を傷つけたり(最大のものは殺人です)、中傷して名誉を傷つけたり、仲を裂いたり、騙して財貨を奪ったりすることは「悪」です。それに対して、親切にしたり、苦境にあるとき助けたり(看病や介護や援助)、励ましの言葉で支えたりすることは「善」です。強いて定義するならば、人が人として生きることを助けることは善であり、それを妨げることは悪です。このような日常的で実際的な内容を念頭において、パウロの勧告を具体的な形で読むべきであると思います。
 さて、この箇所の主要テーマである「善をもって悪に報いよ」の一つの形として、次に平和の道を歩むように勧められます。
 「あなたがたから出ることでできるならば、すべての人たちと平和に過ごしなさい」(一八節)。
 「あなたがたから出ること」とは何を指すのか、理解困難な句です。おそらく、「すべての人たちと平和に過ごす」ことはできない状況も多いことであろうが、「あなたがたの方からできることがあれば」、できる限り努力して平和に過ごしなさいという意味であると考えられます。この場合の「平和」は、たんに争いや対立がないだけでなく、和合とか融和というような積極的な意味で用いられていると見られます。わたしたちは、わたしたちの側からできることがあれば、周囲の「すべての人たち」、すなわちどのような種類の人たちとも、できるだけ積極的に融和し、交わりを形成し、友人となっていく方向で努力をするように求められています。この勧告の言葉とイエスの「平和を造り出す人は幸いである」という語録とは、(伝承史的な関連を追跡することは困難ですが)その意味内容において深いつながりがあることを見逃すことはできません。
 ともすれば、キリスト者の中には、この世から隔離された世界で、自分たちだけの孤高の道を歩むことが立派だと考える人もあるようですが、パウロはむしろ積極的にこの世の人たちと関わりを形成するように勧めます。わたしたちの側からできることがあれば、周囲の「すべての人たち」と和合を保つこと、これはキリスト者がこの世で活動するさいの重要な原理となります。

復讐するな

 最後にもう一度、自分たちに敵対し迫害する者たちへの対応が説かれます(一九〜二一節)。
 まず「愛する人たちよ、自ら復讐しないで、御怒りに場所を譲りなさい」と、復讐しないように説いて、それを「『復讐はわたしのもの。わたしが報復する』と主が言われるからです」と、聖書の言葉(申命記三二・三五)を引用して根拠づけます(一九節)。
 復讐とは、自分に対して行われた悪に対して、それに相当する悪を相手に報復して、自分の手で正義を実現しようとする行為です。人間は本性的に正義を欲求する者ですから、自分に対してなされた悪を一方的に自分だけが甘受することはできません。相手にも同じだけの悪を報復しないと気が済みません。そこで復讐は人間の本性的なものになります。世に多くの復讐劇があり、それが人々の共感を呼ぶことになります。
 しかし、正義の実現を個人の復讐に任せると、限度のない報復の連鎖が起こり収拾がつきません。それで、人間社会は法律を制定して、悪に対する報復を個人から取り上げ、社会を支配する権威だけが悪に報復して正義を実現するようにしました。イスラエルではヤハウェこそ民を支配する最終的な権威ですから、ヤハウェが「復讐はわたしのもの。わたしが報復する」と言われます。隣人に対する悪行はヤハウェの怒りを招き、ヤハウェがその悪に報復し、復讐を為し遂げて正義を実現されます。この原理を根拠にして、使徒は神の支配を信じるキリスト者に、自分で復讐しないで、自分に対してなされた悪に対する復讐を神の御怒りに委ねるように求めます。
 復讐というのは悪をもって悪に報いることの一つの表現ですが、キリスト者は復讐しないだけではなく、悪に対して善をもって報いることが求められます。イエスの言葉で言えば、敵を愛することが求められます。そのことが、やはり聖書の言葉を引用して語られます。
 「むしろ、あなたの敵が飢えているなら食べさせなさい。彼が渇いているなら飲ませなさい。そうすることで、彼の頭に燃える炭を積み上げるのです」(二〇節)。
 この二〇節の言葉は、ほぼ箴言二五章二一節〜二二節前半と同じです。ここでは敵を愛することが、「敵が飢えているなら食べさせ、彼が渇いているなら飲ませなさい」と具体的に語られています。ここで問題になるのは、「そうすることで、彼の頭に燃える炭を積み上げるのです」という部分の解釈です。
 この文の解釈は分かれています。ヘブライ語聖書を「彼の頭から火の炭を取り除くであろう」と訳すべきであるという説もありますが、パウロはここで「積み上げる」とする七十人訳ギリシャ語聖書をそのまま引用しています。アウグスティヌスなどラテン教父は、「燃える炭」を燃えるような恥の意識の象徴と解釈し、敵はその恥の意識から悔い改めに導かれるのだとしています。ギリシア教父には、それでも悔い改めない敵にさらに厳しい審判を積み重ねることになると解釈する人もいますが(たとえばクリュソストモス)、オリゲネスはやはり、そうすることが敵を悔い改めに導くとしています。最近、前3世紀のエジプトの祭儀文書に、罪を犯した者が悔い改めのしるしに、燃える炭を入れた皿を頭に載せたという記事が発見され、箴言はその象徴行為を使用しているとする説も出されています。いずれにせよこの文は、悪に対して悪をもって報いる(復讐する)のではなく、善をもって報いる(敵を愛する)ことを勧める文脈で用いられているのですから、愛敵の行為が敵を心からの悔い改めに導くことを象徴的に表現していると理解するのが順当であると考えられます。

 この箇所についてオリゲネスは次のように解釈しています(ローマ書注解)。「おそらくここでもまた、敵の頭に積み上げられる燃える炭というのは、彼の益になるように積み上げられるのです。というのは、粗野で未開の心も、われわれの善意、親切、愛、敬虔さを感じるならば、それに打たれて悔い改めることもありうるからです。彼は、あたかも火に取り囲まれているように、自分がなした悪について良心の呵責に責められ、それを認めるにいたることになります」。

 「悪に征服されることなく、善をもって悪を征服しなさい」(二一節)。
 最後に締めくくりとして置かれたこの一文は、聖書の二つの箇所を引用して「報復しないで、敵を愛しなさい」と説いた部分(一九〜二〇節)の結論を述べるだけではなく、「悪を憎み、善に固着し」で始まるこの愛の段落全体(九〜二一節)、とくに外部の人たちに対する態度を説いた部分(一四節以下)のまとめにもなっています。
 すでに「誰に対しても悪をもって悪に報いることなく、すべての人のために善を配慮するようにしなさい」(一七節)と言われていましたが、最後に同じことが「征服する」という激しい動詞を用いて語られます。もしわたしたちが悪に対抗するのに悪を用いるならば、それはわたしたちが悪に征服されたことになります。そこでは悪が敵も私も支配する原理となり、勝ち誇って支配しています。それに対して、もしわたしたちが悪に対して善をもって報い、無条件に善を行うならば、わたしたちは善をもって悪を征服したことになります。悪が悪を生み、悪だけが支配する循環を断ち切り、善が悪よりも強いことを身をもって示したからです。わたしたちイエスの弟子でありキリストに所属する民は、敵を愛する愛に生きることによって、「善をもって悪を征服する」という人類にとっての究極の課題を実現すべく召されているのです。神は絶対の善(マタイ五・四五、四八)にいますのですから、その神の子にふさわしい課題です。

段落へのむすび

 キリストの民に愛の歩みの実際を説くこの段落(九〜二一節、とくにその後半)は、それぞれの箇所で指摘したように、聖書(律法と預言書)の引用、さらにユダヤ教知恵文学の伝承、とくにイエスの語録伝承が多く用いられており、(ユダヤ人である)使徒たちが形成途上の若いキリスト共同体に与えた教えがどのようなものであったのか、その内容と様子(与え方)がよく出ています。しかもそれがユダヤ教の戒めを守り行うという形ではなく、ヘレニズム世界で常識的な善と悪という用語で語られていることが印象的です。
 この段落全体の印象としては、「悪に対して悪をもって報いるのではなく、善をもって悪に報いる」という在り方が求められていることが強い印象を与えます。これは、イエスが「敵を愛しなさい」と言われた一言が詳しく展開された内容であることは、すぐに分かります。この段落は、愛《アガペー》を善と悪という日常的な概念を用いて具体的に描いていると言えます。この段落は、イエスの「敵を愛しなさい」という言葉が、初期のキリスト者共同体で日常的に実行すべき課題として真剣に受け止められていたことを示しています。
 「敵を愛しなさい」を頂点とする、いわゆる「山上の説教」の倫理は、人間には実行不可能なものであり、イエスの言葉は人間が神の意志に従いえない存在であることを示して、すなわち罪を示して、悔い改めに導くために語られたのだというような解釈がなされることがあります。しかし、このローマ書の箇所を読むと、そのような解釈が見当違いであることがよく分かります。使徒たちはキリスト者の一人ひとりに、「敵を愛する」愛に生きることを真剣に求めており、決してそれを罪の認識に至らせる機縁にしようとしたのではありません。
 ローマ書の一二章以下の部分は、キリストにある者は御霊の命に生きている(八章)ことを前提として与えられた実践的な勧告です。敵を愛する愛は、御霊によって始めて実現される質の愛であり、御霊の賜物です。この賜物は、パウロがコリントI一三章(八〜一三節)で論じたように、他の賜物《カリスマ》のように部分的で一時的であるのではなく、すべてのキリスト者に必然の永続的な賜物であり、キリスト者の標識となるべき質の賜物です。
 実際の歴史においても、初期のキリスト者共同体は、それまでの人間社会が知らなかった「敵を愛する愛」、「善をもって悪に報いる愛」を実際に示して、古代社会の人々に強烈な印象を与え、人々を信仰に引きつけたのでした。この愛に生きることは、現代においてますます切実な課題であり使命です。