市川喜一著作集 > 第13巻 パウロによる福音書 ― ローマ書講解U > 第11講

第三節 終末の場に生きる

35 権威への服従 (13章 1〜7節)

 1 すべての人間は上にある権威に服従しなさい。神によらない権威はなく、現にある権威は神によって立てられたものだからです。 2 それゆえ、権威に逆らう者は神の定めに反抗したのであり、反抗した者はその身に裁きを招くことになるのです。 3 支配者たちは善をなす者には怖れではなく、悪をなす者に怖れとなるのです。ところで、あなたは権威を怖れないことを願っています。では、善を行いなさい。そうすれば権威から賞賛を得ることになります。 4 権威はあなたにとって善のために神に仕える者なのです。しかし、悪を行うのであれば怖れなさい。権威は無意味に剣を帯びているのではないのですから。神に仕える者として、悪にたずさわる者に怒りをもって報いるのです。 5 それゆえ、怒りのためだけでなく良心のためにも服従しなさい。 6 そのためにあなたがたは税金も納めているのですから。彼らは神の奉仕者として、まさにこのことのために日夜励んでいるのです。 7 あなたがたはすべての人に負債を返しなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、怖るべき人は怖れ、敬意を表すべき人には敬意を表しなさい。

上にある権威

 第四部(一二章以下)で、キリストにある者の実際の歩み方についての勧告に入った使徒は、基本的な心構えを説き(一二・一〜二)、キリストの体である集会での一員としての務めについて勧告し(一二・三〜八)、続いて個人の基本的倫理として、集会の交わりにおいても外の人に対しても採るべき愛の道を説き勧めました(一二・九〜二一)。その上で、現実の社会に生活する者として、その社会の秩序に対する心構えに説き及びます。それがこの一三章一〜七節の段落の内容になります。
 この段落は、後世のキリスト教会の歴史に及ぼした影響という点では、新約聖書の中でもっとも重要なテキストの一つとなりますが、その「影響史」を詳しく見ることはこの講解の範囲を超えますので、後でこのテキストを理解するのに必要な限度内でごく簡単にまとめることにして、まずテキストの言おうとするところをできるだけ正確に聴き取ることにしましょう。
 最初に、この問題に関するパウロの勧告が端的に語られます。
 「すべての人間は上にある権威に服従しなさい」(一節前半)。
 これがこの段落の基調です。この勧告の文章で、「すべての人間は」と言われている最初の句が目を引きます。原語は「すべての《プシューケー》は」となっています。この表現は、背後にあるヘブライ語の慣用からすれば、「すべての人間」を意味します。ところで、《プシューケー》は、新約聖書では普通《ゾーエー》(永遠のいのち)に対して、人間の生まれながらの命を指します。ここではその命に生きる人間、すなわち、生まれながらの命をもってこの世に生きている人間を指すことになります。それで、ギリシャ語で(《アントローポス》ではなく)《プシューケー》という語を使ったのは、「人間はすべて、この世に生きているかぎりは」という気持ちを含むと見てよいでしょう。人間はすべて、この生まれながらの命をもってこの世に生きているかぎりは、「上にある権威」に服従することが必要だと説いていることになります。
 「上にある権威」の「権威」は、四節の「剣を帯びている」という表現からも明らかなように、国家権力および国家権力を行使する官憲を指しています。「上にある」は「上位にあって支配する」という意味で、「上にある権威」は社会の秩序を維持するために民の上位にあって統治する権力者を指すことになります。

 「権威」と訳している原語《エクスーシア》というギリシア語は、パウロ書簡を含め新約聖書では、《アルコーン》(支配者)とか《デュナミス》(力)と並んで、霊界の支配力を指すのが普通であるので、地上の国家権力も背後にある天界の天使的「権威」と一体として理解しなければならないという指摘(クルマン)もあります。また、バルトがそう解釈して様々な議論を呼びました。しかし、そういう霊界の支配力としての《エクスーシア》は、キリストに属する者はその支配から解放されているとすることが福音の重要な告知ですから、ここの「権威」にそういう霊界の支配力を重ねることは適切でないと考えられます。

 パウロは使徒としての立場で説き勧めます。すべての人間は、キリスト者であろうとなかろうと、この世に生きる限りは「上にある権威」、すなわちその社会を統治する立場の者たちに「服従する」ことが必要だと説きます。
 ここに用いられている「服従する」という動詞は、神とか福音(神の言葉)に「聴き従う」という時の動詞とは別の動詞で、強いて訳せば「下位の者として(秩序に)服する」という意味の動詞です。「聴き従う」(従順)と区別するため、「服従する」という訳語を用いています。「権威」は「上にある」ものであるのに対して、「すべての人間」は下位にある者として、神が立てられた上下の秩序に服しなさいという勧告です。

 この段落には、命令とか上下秩序を意味する語幹からの派生語(《タッソー》とか《タグマ》の系列の動詞や名詞)が多いのが目立ちます。パウロがここや他で「服従する」という動詞をよく用いるからといって、パウロをイエスの自由な愛の倫理を(上下の)服従の倫理に変えたとすることは、当たっていません。この問題については、パウロにおける「従順」と「服従」の違いを解説した、フィリピ書二章一二節への講解(拙著『パウロによるキリストの福音V』 232頁以下)を参照してください。

 このように基本の原則を説いた後、権威に服従するように説き勧める理由を述べます。
 「神によらない権威はなく、現にある権威は神によって立てられたものだからです」(一節後半)。
 「神によらない権威はなく」という文は、すべての権威は神によって立てられたものであることを、否定の否定という形式で強調して表現しています。パウロはさらに進んで、「現にある権威は神によって立てられた」と言います。「現にある権威」がどのような経緯で権威の座に着いたかは問わず、現に社会の秩序を維持する立場にある以上、その立場は「神によって立てられた(秩序づけられた)」のであるとします。「上にある権威」は神によって立てられた権威であるから、人はみな「上にある権威」に服従しなければならないのです。
 この言葉は、後年「王権神授説」の根拠として用いられ、政治思想上、また神学上大いに議論を呼ぶことになります。この聖句は、その経緯がどうであろうと現に王としての座にある者の権威は神によって授けられたものであるから、その統治下にある民は、王の命令は神の命令であるとして、その内容を問わず無条件に服従しなければならないという思想の根拠づけに用いられることになります。王に限らず現に権力の座にある者に無条件の服従を求める政治思想は、この聖書の言葉を根拠としてよく用いました。しかし、このような解釈は、一つの聖句をその文脈から切り離して、民の絶対服従を欲する権力の側からの方向で解釈した誤りです。
 逆の方向の解釈も成り立ちます。すなわち、権威が神によって立てられるものであれば、権威自体が神に背く場合は、神によって廃されるべきであるという思想の根拠にもなりえます。権威が神によって立てられているのであれば、その権威の正当性はその行使が神の御旨に合致しているかどうかという基準で計られることになります。もし、権力をもつ者が神の意志に背いているならば、その権力は正当性を失い、神によって廃されるべきものになります。神に従う民は、ペトロが「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(使徒五・二九)と言ったように、神に背く権力に不服従を貫くか、その権力を倒すことが求められることになり、革命の根拠づけにもなります。
 現にパウロ以後の新約聖書文書の中に、当時の権力を神からではなくサタンから来たものとして、神の裁きによる崩壊を語る文書が出て来ます。すなわちヨハネ黙示録です。ドミティアヌス帝のキリスト教徒迫害の時代に書かれたと見られるヨハネ黙示録は、ローマ帝国の権力をサタンによるものと見ており(黙示録一三章)、このローマ書一三章の立場とは逆の思想を示しています。

 一般にヨハネ黙示録はヨハネ福音書を生み出したヨハネ共同体において成立したと見られていますが、最近ヨハネ黙示録の著者はヨハネ共同体伝承よりもパウロ共同体伝承に親しい人物であるとする説(E・S・フィオレンツァ)が出されています。もしそうだとすれば、ローマ書一三章とヨハネ黙示録一三章は、いっそう緊迫した関係に立つことになります。

 この勧告を正しく理解するためには、この段落のパウロの言葉を(当時の状況の中で)正確に理解した上で、この段落が置かれている文脈全体の中で理解しなければなりません。まず、パウロがここで語るところを詳しく見ていきましょう。

権威への反抗

 「それゆえ、権威に逆らう者は神の定めに反抗したのであり、反抗した者はその身に裁きを招くことになるのです」。(二節)
 権威が神によって立てられたものであるならば、権威に逆らうことは神の定めに反抗することになります。ここで「神の定め」とは何を指すのかが問題になります。ここで王の命令とか国の法律などが直接神の命令と等置されて「神の定め」と言われているのではなく、神がこの世の秩序を地上の「権威」によって維持することをよしとされた事実を指しています。ここの「定め」は単数形であり、諸々の規定や命令を指す複数形ではありません。
 この世が「権威」によって秩序を与えられて存続することは、「神の定め」なのです。したがって、権威に反抗する者はこの「神の定め」に反抗したことになり、神の裁きを身に招くことになります。ここで言われている「裁き」は裁判のことではなく、神の裁きを指しています。王の命令に背いたり、国の法律に違反すれば裁判にかけられることは、言うまでもない当然のことです。この当然の事実を比喩として用いて、権威に逆らうことによって神の定めに反抗する者は、その神の定めへの反抗のゆえに神の裁きを身に受けることになるであろう(未来形の動詞)と、使徒は警告するのです。
 このように使徒がローマのキリスト者たちに、世俗の権力(ローマ帝国の支配)に対する服従を、信仰的・宗教的な根拠をもって強く説き勧め、権力への反抗を厳しく戒めるのは、もちろん(後で見ることになりますが)恩恵の支配の下に生きるとか、終末の切迫の中で生きるというような福音の本質から出るものですが、当時の状況によるという一面もあると考えられます。それで、この書簡が宛てられた当時のローマにおけるキリスト者の諸集会の状況を一瞥しておきましょう。
 先にこの書簡の宛先であるローマの集会の状況を解説したときに見たように、この書簡が執筆された55年から56年にかけての冬には、直前の54年にクラウディウス帝のローマからのユダヤ人追放令(49年発令)が解除されて、ローマ集会で指導的な立場のユダヤ人が帰って来ていました。その追放令の原因となったユダヤ教会堂内の争乱の後、キリスト信徒の集会はもはや合法宗教(レリギオ・リキタ)として認められていたユダヤ教の会堂の中で活動することはできなくなっており、ユダヤ教とは別の非公認の宗教団体または結社として、個人の家に集まり、活動を続けていました。そのような非公認の団体に対しては、反乱の意図や危険がないかローマの官憲の監視が厳しかったようです。そのような状況において、使徒はローマの兄弟たちに、ローマの官憲に僅かの疑いももたれることのないように厳しく勧告しなければならなかったと考えられます。

 ネロ帝(在位54〜68年)治世の初期に、(ヨセフスが伝えているところによると)ユダヤおよびエルサレムで熱心党の反ローマ活動が盛んになったようですが、それが直ちにローマのユダヤ人に波及したとか、まして別個の歩みをしていたキリスト信徒の集会に影響したと見ることは困難です。しかし、ユダヤ戦争前の一般的な情勢から、ローマがユダヤ人とその一派のように見ていたキリスト信徒たちに対する監視を強めていたという状況は推察できます。

権威は善のため

 権威への服従を説き勧めるために、使徒はさらに直前の段落(一二・九〜二一)で繰り返し用いた「悪をなさず善をなせ」という原則を根拠づけに用います。キリスト者が、悪に対しても悪をもって対抗するのではなく、善を行うことで悪を征服するべきであるならば、善を確立するために神が立てられた制度である国家などの「上にある権威」に服従するのは当然であると続きます。
 「支配者たちは善をなす者には怖れではなく、悪をなす者に怖れとなるのです」。(三節前半)
 まず「支配者たち」《アルコーン》とは、ここでは(ヘレニズム世界で多く見られる用法の)霊界の支配力ではなく、国家権力を行使する役人たちを指します。「上にある権威」を具体的に行使する立場の人たちです。使徒はいきなり権力の本質を抽象的に論じるのではなく、具体的に「支配者たち」に対する実際の関わり方から説き起こします。
 ここでも議論が抽象的にならないように、「支配者たち」とか「善と悪」を具体的にイメージする必要があります。「善と悪」について先に「愛の道」を説いた段落で述べたように、ここでの善と悪は、哲学的・倫理学的に定義する必要はなく、わたしたちが日常の生活の中で体験する善いことと悪いことと理解してよいでしょう。わたしたちが隣人との関係でしたりされたりすることで、辛くて苦しい思いをするようなこと、たとえば暴行を加えて身体を傷つけたり(最大のものは殺人です)、中傷して名誉を傷つけたり、仲を裂いたり、脅したり騙したりして財貨を奪ったりすることは「悪」です。それに対して、親切にしたり、苦境にあるとき助けたり(看病や介護や援助)、励ましの言葉で支えたりすることは「善」です。人が人として生きることを助けることは善でり、それを妨げることは悪です。「支配者たち」というのは、裁判所や警察の働きを考えると分かりやすいでしょう。権威や権力が悪を抑えて秩序を維持し、共同体の善を増進するためにする働きが一番身近に現れるところが裁判所であり警察であるからです。
 わたしたちは隣人に善をなそうとするとき、警察を恐れたり、裁判を心配することはありません。それに対して悪をなそうとするときは、警察による摘発や裁判による処罰を恐れます。これは、ごく素朴な庶民の日常の体験です。この素朴な日常体験から、パウロは後で述べることになる権威の本質、すなわち「権威はあなたにとって善のために神に仕える者である」という本質を示唆するのです。

 これは一般的な原理です。ところが、歴史上の個々の権力者の中には、善をなす者に怖れとなる場合があります。善をなそうとすると権力からの弾圧を恐れなければならないというケースが稀にあります。このような場合はどう考えればよいのか、後でまとめて取り扱いますが、ここでは通常の場合について使徒が説く原則論を聴いていきます。

 そうすると、支配者たちからの処罰を恐れることなく平安の中に生きようと願うならば、常に善を行うようにすればよいことになります。
 「ところで、あなたは権威を怖れないことを願っています。では、善を行いなさい。そうすれば権威から賞賛を得ることになります」。(三節後半)
 権威は悪を処罰することで悪を抑制するだけでなく、善を推進するために、善をなす者を賞賛します。たとえば、どの国にもある褒賞制度などは、社会的に貢献した人たち、善の増進に寄与した人たちを権威が賞賛する制度です。
 このように、権威とか支配者に対する服従が具体的に説かれる中に、権威の本質を語る言葉が自然に組み込まれます。
 「権威はあなたにとって善のために神に仕える者なのです」。(四節前半)
 このように、悪を処罰し善を賞賛する権威の働きから見ても、権威が悪を抑え善を推進するために、善そのものにいます神に仕える者であることが分かります。
 神は善です。人間の善は相対的ですが、神は絶対の善です。すなわち、人間は自分に善をもって対してくれる相手には善をなしますが、悪をもって対する者には善をなすことができません。相手の善に応じて善を報いるのですから、その善は「相対的」です。それに対して神の善は「絶対」です。相手の善悪に絶して、常に善だけを行われます。このことをイエスは印象深い言葉で述べられました。
 「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」。
(マタイ五・四五)
 父が「完全」であると言われるのは、このような意味で絶対的な善であることを指しています。「完善」と訳してもよいでしょう。絶対的な善である神は、地上に善が実現することを願われ、地上での善の実現のために奉仕する制度をお立てになりました。それが国家などの「上にある権威」です。
 地上の人間、生まれながらの人間は、その自然本性に従っていつも善を行うという者ではなく、悪を行う者、むしろ悪に傾いている者ですから、地上で善を実現するためには、力をもって悪を抑え、善を行うことができる秩序を維持する必要があります。その目的のために神が立てられた制度が国家などの「上にある権威」です。このような意味で、「神によらない権威はなく、現にある権威は神によって立てられたもの」です。権威によって地上の秩序が保たれることは「神の定め」です。

 新共同訳はここを「あなたに善を行わせるために」と訳していますが、「あなたに」という三格は善を行う主格的な意味に理解することは困難です。権威は「あなたにとって善の(実現の)ために」神に仕える者である、という理解が順当です。その場合の「善」は社会全体の福祉であり、権力はそれを実現して個々の成員がその福祉にあずかるようになるために働く「神の奉仕者」である、という意味になります。この理解は現代の「公僕」の思想に近いと言えます。協会訳の「彼は、あなたに益を与えるための神の僕なのである」は、この理解に立っていると見られます。

 「しかし、悪を行うのであれば怖れなさい。権威は無意味に剣を帯びているのではないのですから。神に仕える者として、悪にたずさわる者に怒りをもって報いるのです」。(四節後半)
 このように権威は善の実現のために神に仕える者ですから、悪を抑えるために働きます。そのさい権威は力を用います。「上にある権威」が力を用いて悪を抑えることができるのは、その社会で「上にある権威」だけが武力をもっているからです。その権威を権威ならしめる武力の所有が「剣を帯びている」という象徴で語られます。「悪にたずさわる者」は普通何らかの力(不正な力、暴力)を用いて悪を行います。権威はその悪の力にまさる力をもって、悪を抑止し、処罰し、正義を回復し、秩序を維持します。

 「悪にたずさわる者」と訳したところは、本節の最初に出てきた「悪を行う」とは違う動詞(英語の practice に相当する動詞)が用いられており、個々の行為ではなく継続的な状態を示す現在分詞形であることから、「悪にたずさわる」と訳しています。

 権威がその力を用いて悪を処罰するとき、権威は善を実現しようとされる神に仕えているのです。権威は神に仕える働きとして、「悪にたずさわる者に怒りをもって報いる」、すなわち悪を処罰するのです。この場合の「怒り」は権力による処罰を意味しますが、その背後には悪に対する神の怒りとか裁きを代行しているという含みがあります。
 「それゆえ、怒りのためだけでなく良心のためにも服従しなさい」。(五節)
 「それゆえ」、すなわち権威は「神に仕える者として」、悪にたずさわる者に怒りをもって報いるのですから、わたしたちキリストにある者は、たんに処罰を恐れて権威に服従するのではなく、神を怖れ、神の御旨に従おうとする内面的な動機から権威に服従することが求められます。この心の内からの自発的な動機が「良心のために」と表現されています。

 「良心」と訳したギリシア語は、本来意識とか自覚という意味の語ですが、それが哲学用語の影響から、善悪を見分ける生得的能力とか自分の行為の善悪を判断する意識という意味で用いられるようになり、われわれが「良心」と呼んでいる意味になります。ここでは外面的な処罰と対照されて、内面的な自発性が問題になっており、「(神に仕えているのだという)自覚をもって」という意味と理解してよいでしょう。

 「そのためにあなたがたは税金も納めているのですから。彼らは神の奉仕者として、まさにこのことのために日夜励んでいるのです」。(六節)
 「そのために」、すなわち権威が悪を抑え善を実現するために神に仕える働きをすることができるように、「あなたがたは税金を納めているのです」と、税金の意義が再確認されます。そのさい、この権威とか支配者たちの働きが、改めて「彼らは神の奉仕者として、まさにこのことのために日夜励んでいるのです」と繰り返されています。

 「奉仕者」と訳した語は、「礼拝」と同系の語で、本来神殿で神に奉仕する聖職者を意味する語です。パウロは自分の福音宣教の活動を真の「礼拝」であるとして、この語を用いています(ローマ一五・一六、フィリピ二・一七、二・二五)。ここではさらに、世俗の支配者たちも神によって立てられ、神の目的に奉仕する者たちとして、聖職者と同じ用語が用いられています。英語で「ミニスター」は聖職者を指すと同時に、大臣という意味にも用いられます。

 国家など「上にある権威」に税金を納めるのは、彼らがまさにこのこと(悪を抑え善を実現するために神に仕えること)を行っていることを認めて、その働きをしてもらうために納めているのです。ですから、税金を納めることは、権威の存在と働きによって悪の跳梁を免れ、善の恵沢にあずかっている者の当然の義務となります。使徒は、この当然の義務を「負債を返す」という表現で語ります。
 「あなたがたはすべての人に負債を返しなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、怖るべき人は怖れ、敬意を表すべき人には敬意を表しなさい」。(七節)
 「負債を返す」ことは、人間が社会の中で(隣人との関わりの中で)生きるさいの基本的な原理(倫理)です。各人がこの基本的原理を守らなければ、人間社会は成り立ちません。使徒はこの人間としての基本原理を「税を納める」という問題に適用して、税を納めるのは権威に「負債を返す」ことであるから、その当否を問題にすることなく、税を納めるように説き勧めます。そのさい、「良心のために」とは明言されていませんが、ここでも納めなければ処罰されるからという怖れのためではなく、それが神の定めに従うことだという自覚をもって、進んで納めなさいという意味が含まれています。
 「税を納めよ」というパウロの勧告は、当然のことを言っているようですが、当時の状況、とくにユダヤ人が置かれていた状況からすると、重大な意味をもっています。当時のユダヤ教徒にとって、支配者であるローマ皇帝に税を納めることは、信仰上の重大問題であって、その当否が熱く議論されていました。異教のローマ皇帝に税を納めることは、唯一の主であるヤハウェの支配を否定することになるから、律法(十戒の第一戒)に違反し、イスラエルの民には許されないことだと、律法厳格派の熱心党は主張しました。イエスにも、「皇帝に税金を納めることは律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」(マタイ二二・一七)と、この問題が突きつけられています。
 この問題はパレスチナのユダヤ人にとって重大問題でしたが、パレスチナ以外のヘレニズム都市に住むディアスポラ・ユダヤ人にはそれほど差し迫った問題ではなかったのかもしれません。しかし、パウロがローマ書を書いた時から一〇年後にはユダヤ戦争が始まっています。パウロの時代にはローマ帝国とユダヤ人との関係は一触即発のきわめて微妙な段階に来ていました。律法学者として問題の所在を十分理解しているパウロが、このような律法とはまったく別の理由付けで税を納めるように説き勧めるのは、パウロが新しく成立した信仰共同体をユダヤ教とはまったく別の原理で指導していることを示しています。
 その「別の原理」とは、「負債を返す」という表現が示唆しているように、すでにイエスが「皇帝に税金を納めることは律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」という問いにお答えになったお言葉と姿勢を継承しています。イエスは、罠を仕掛けたこの問いに、皇帝の肖像と銘を刻んだ銀貨をもってこさせ、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せ」とお答えになりました。パウロはここで、イエスのお言葉の中の「皇帝のものは皇帝に返せ」と同じことを言っているのです。

 パウロの勧告がイエスの語録に依拠しているのかどうかは分かりません。共観福音書の中ではルカが伝えている語録伝承が用語の点などからこの箇所との親近性があるので、またパウロは他のルカ伝承を知っていた可能性が書簡からうかがえるので、パウロはルカが伝えるイエスの語録を知っていた可能性があります。しかし、確証はありません。ただ、パウロが使徒として受けている「恩恵によって」キリストにある者としての歩みについて勧告するところが、イエスの語録と同一線上にあり、イエスの言葉(とくにその前半)を詳しく解説する結果になっていると言えるだけです。

 パウロはそのことをさらに具体的に、しかしきわめて簡潔な表現で語ります。パウロはこう言います。「貢を(負っている)人には貢を(返し)、税を(負っている)人には税を(返し)、怖れを(負っている)人には怖れを(返し)、敬意を(負っている)人には敬意を(返しなさい)」(かっこ内は原文にはなく補った語です)。

 「貢」《フォロス》は、マルコとマタイではラテン語形の《ケーンソス》という語が用いられています。福音書ではローマの支配者が被支配民に課す人頭税や土地税を指します。ここでは役人が徴収する直接税一般を指すと見られます。「税」《テロス》は、通商される物品にかかる税や道路や橋の通行税などの間接税を指します。福音書ではこの《テロス》を請負制で徴収する者が「徴税人」《テローネース》と呼ばれています。

 「貢を負っている人」とは、直接税を徴収する役人を指し、「税を負っている人」とは関税や通行税を徴収する係の役人を指すのでしょう。この場合、貢と税の違いは重要ではありません。ローマ帝国の制度としての税金を、当否を論じることなく「良心のために」納めなさいと説き勧めます。
 「怖るべき人」とは、ここでは神ではなく、剣を帯びて処罰を科す官憲を指します。このような立場の人たちには、その処罰する権限を無視したり軽視したりしないで、服従するように勧めます。また、「敬意を表すべき人」も、ここでは神ではなく、「権威」の中で地位の高い人物であり、社会的儀礼として敬意を表す対象を指します。そういう地位の人たちには、相応の敬意を表して、敬うようにと勧めます。

人に従うより神に従うべき場合

 さて、キリストに属する者としてこの世に生きるさい、国家というような「上にある権威」に対してどのような態度を取るべきかという問題について語る新約聖書の箇所は、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せ」というイエスの語録と並んで、ここが代表的な箇所です。正典中の書簡は、ほぼこの箇所の姿勢を継承しています。たとえばペトロT二・一三〜一七はこの箇所と同じ内容であり、この箇所の注解のような観を呈しています。テモテT二・一〜三、テトス三・一も同じ方向の勧告をしています。このように権威に対する服従を勧める姿勢は、当時のファリサイ派ユダヤ教の主流の姿勢を継承していると見られます。
 しかし、この問題について語る新約聖書の箇所はここだけではありません。すでにパウロ書簡内においても、コリントT六・一〜七のように「上にある権威」が行う通常の裁判を無視するような言説があります。パウロ書簡の外に目を向けると、ヨハネ黙示録のようにはっきりとローマの支配権力をサタンからのものとして(黙示録一三章)、神からの断罪を宣告する文書もあります。たしかに、国家権力は、自分だけが「剣を帯びている」、すなわち武力を独占しているところから、自分の欲するままに力ずくで服従を強要することが起こりえます。その服従の要求がキリスト者としての信仰告白と良心に正面から衝突する場合は、権力の要求に服従することはできません。このような場合には、ペトロと使徒たちが大祭司に言ったように、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(使徒五・二九)と言って、その要求に服従することを拒否しなくてはならない場合が出てきます。このような場合には、その拒否から生じる処罰や社会的不利益という実際上の苦しみだけでなく、権威を神によって立てられたものとして服従を求める使徒の教えに反して拒否する根拠をどこに求めるのかという信仰的な問題も伴います。それとの関連で、そもそも国家とは福音信仰の中でどういう位置を占めるのかという神学的・思想的問いが出てきます。この問題を詳しく論じることは講解の範囲を超える大問題となりますので、ここではこの問題を考えるにさいして留意すべき点を数点あげて要約するにとどめます。
 1 パウロがここで上にある権威に服従するように求めたのは、「皇帝のものは皇帝に返す」ことを求めているのであって、もし皇帝が神のものまでも自分に求めた場合は、それを拒否せざるをえません。これは、イエスが「神のものは神に返せ」と言われた言葉で表現されていますが、これはもともと信仰の本質に属することであって、神のものを神に返すことがなければ信仰は成り立たないのです。
 地上の権力は、たしかにここでパウロが言うように、放置すれば混沌に陥る人間社会に秩序を維持し、悪を抑え善を実現するために神によって立てられた制度です。原理的にはそうですが、個々の権力とか支配体制は、あくまで歴史の中の相対的な現象にすぎません。その相対的な権力が自己を絶対化するとき、すなわち自分を神とするとき、その権力はサタン的な様相を帯びることになります。サタンとはもともと自分を神としようとする高ぶりの霊なのです。国家などの権力機構が自分を絶対化して、その支配下にある人間に、本来神に帰すべき賛美と献身を求めて、絶対無条件の服従を要求するとき、国家は自分が神によって立てられた歴史内の相対的な制度にすぎないことを忘れ、神に返すべきものを自分に要求するというサタン的傲慢に陥っています。そのような傲慢は必然的に、善そのものにいます神に反抗して、その支配を悪の場にしていきます。自分を神とする絶対的な独裁政治が、どれほど人間の尊厳を破壊し、多くの民を殺戮してきたかは、歴史が語る通りです。
 権力は、自分だけが支配力(武力)を所有しているところから、自分を絶対化する傾向を内在させています。その傾向をチェックして、国家などの権力を相対的な場に位置づけるのは、神を絶対者として告白する信仰者だけです。天地の創造者にして歴史の支配者・完成者である唯一の神を信じる民は、キリストにあってそのような絶対的な神を告白することによって、すなわち「神のものを神に返す」ことによって、国家など地上の権力を相対化するのです。それは権力がサタン的な傲慢に陥って悪の支配を招かないようにするための信仰者の使命です。このように地上の権力を相対化する使命は、主ヤハウェの支配を根拠に王権を相対化して批判し、時には断罪したイスラエルの預言者の精神を継承するものです。
 2 わたしたち信仰者は、「神のものを神に返す」さいに、それを力づくで実現しようとする律法主義的
原理主義に陥らないように注意しなければなりません。話を分かりやすくするために実例を挙げましょう。パウロとほぼ同じ時期に、ユダヤ教(おもにパレスチナのユダヤ教)の中に、ローマの支配は神の律法に従うことと矛盾するとして、神の律法を順守するためにはローマの支配を覆さなければならないとし、武力闘争に立ち上がった勢力がありました。「熱心党」《ゼーロータイ》と呼ばれるユダヤ教徒です。彼らも「神のものを神に返す」ために戦ったのです。しかし、彼らの拠って立つ唯一の基盤は律法ですから、彼らの戦いは律法を完全に実行するための地上の制度を確立するためのものであり、それに反する地上の政治体制は武力を用いても破棄しなければならないのです。彼らの反ローマ武力闘争はエルサレム神殿の崩壊とユダヤ国家の壊滅という悲惨な結末を迎えることになります。律法の完全順守を標榜するエッセネ派クムラン共同体も同じ精神から反ローマ戦争に参加して滅びました。
 現代においてもイスラームの中にこのような律法主義的原理主義の動きが見られます。イスラームはユダヤ教の律法主義的な体質を受け継いでいる面があり、イスラーム法の実施のための政治体制を地上に建てようとします。そのさい過激な一派は武力を用いてもよいとし、むしろジハード(聖戦)とか殉教という宗教的理念を用いて、命をかけた政治的武力闘争を励まします。
 イエスもパウロも、律法主義を克服したところに生きた人です。福音の場では、神の絶対無条件の恩恵とそれを無条件で受ける信仰だけが神と人との関わりを形成します。もはや律法順守は条件ではありません。したがって、(パウロが次の段落で言うように)神の無条件の愛の恩恵を受ける者として、同じ無条件の愛をもって隣人を愛することが、神に対してわたしたちが負っている負債を「神に返す」ことになるのです。このような場では、律法主義的原理主義は成り立ちません。
 恩恵の原理によって形成される共同体は、法律と力の支配によって正義を実現しようとする地上の権力と、同じ土俵で戦うことはありません。地上の生命と財産などは、善を実現するために神によって立てられた制度である「上にある権威」に委ねて服従します。もし信仰の証しのために服従できないときは、権威が要求する処罰に身を委ね、生命と財産を差し出します。暴力を用いて抵抗したり、権力を倒そうとはしません。信仰のゆえに迫害する権力のために祈ります。権力が正義に立ち、神から祝福を得るようになることを祈ります。それが権力を相対化し、本来の位置に戻すためのキリスト者の戦いです。
 3 上にある権威に服従しなさいというここのパウロの勧告は、信徒は下にあって支配される側の者であるという一方的な支配・服従関係を前提にしています。信徒が支配する側に立つとか、政治権力の形成や行使に携わることを予想していません。しかし、コンスタンティヌス帝以来、状況は変わりました。帝によってキリスト教が公認され、その後キリスト教がローマ帝国の国教としての地位を得るにともなって、キリスト教徒が国家権力の形成と行使に携わるようになり、国家権力とキリスト教信仰の関係が新しい視点から問題とされるようになりました。市民が政治に参加するようになった現代の民主主義社会でも同じです。それは新約聖書の諸文書が予想しなかった状況であり、キリスト信仰の本質と国家権力の本質から改めて神学的思考を深めて両者の関係を明確にしなければなりません。
 国家と宗教の問題、あるいは福音における国家の位置づけの問題においては、国家などの地上の権力の絶対化をチェックして、権力が悪に陥らないようにし、善の実現のために立てられた制度として維持することが主要な課題になります。そのためにキリスト教政治思想は、立憲政治とか政教分離とか三権分立というような思想や制度を生み出してきました。この問題についての議論や努力を跡づけることは、この講解の限度をはるかに超えますので、問題の指摘に止め、その分野の専門書に委ねます。

 国家と宗教の問題、とくにローマ書一三章をめぐる神学的議論の歴史的展開については、参考文献は山ほどありますが、簡明にして的確にまとめた著作として、日本における代表的な政治思想史の専門家であり、かつ神学にも造詣が深い著者による次の二書をお勧めします。
 宮田光雄集「聖書の信仰」W『国家と宗教』(岩波書店)
 宮田光雄『権威と服従―近代日本におけるローマ書一三章』(新教出版社)

36 愛は律法を満たす(13章8〜10節)

 8 誰にも負債がないようにしなさい。もっとも互いに愛し合うという負債は別ですが。人を愛する者は律法を満たしたのです。 9 姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな、その他どんな戒めがあっても、「隣人を自分自身のように愛しなさい」という言葉に要約されます。10 愛は隣人に悪を行うことはありません。だから愛は律法を満たすのです。

愛の負債

 「誰にも負債がないようにしなさい。もっとも互いに愛し合うという負債は別ですが」。(八節前半)
 七節で、キリストに属する者も社会の一員としては、社会の秩序と安寧を維持する権威に対して返すべき負債があるので、その負債はすべて返すように説き勧めた使徒は、続いて個人間でも負債がないようにしなさいと勧めます(八節前半)。この場合の「負債」は、借金とか、何か返さなければならないような具体的な負い目を指すのでしょう。そのような負債があれば、どうしても独立とか自由を失いがちであり、信仰の歩みを進める上で妨げになる場合があるからです。
 現代社会では、企業活動をするためには銀行から資金を借りなければなりません。また個人に対しても、住宅の購入などに公の金融機関や銀行などが融資してくれる制度が整い、それを利用して生活の計画を立てることが普通になっています。ローン利用は社会のシステムの一部になっており、わたしたちはその中に生きているので、ともすると借金することに慣れてしまって、負債があることの重荷とか拘束に無感覚になる危険があります。その安易に借金に頼る体質から、借金の蟻地獄に陥って破滅を招くケースが多いようです。
 そのような社会のシステムとしての融資制度がなかった時代では、負債(借金)は個人間のことで、金を借りた者(債務者)はどうしても貸した人(債権者)に対して卑屈になり、自由とか尊厳を失うことが多くなります。それで、昔の気骨のある人は、どんなに苦しくても借金だけはしないという生き方をしました。現代でも、このような気骨を失わないようにするために、とくに信仰生活での気骨を失わないように、使徒の勧めは傾聴しなければなりません。制度としてのローンの利用はやむを得ないとしても、人生の状況に安易に対処するために借金に頼ることは避けなければなりません。まして、自分の欲望の充足のために借金をするなどは論外です。
 使徒は、負債を負うなと説き勧めるさい、「互いに愛し合うことを除いては」(直訳)と例外を加えます。実は、この例外の方が主役で、それを引き立たせるために、「誰にも負債がないように」という一般原則が用いられています。キリスト者は「上にある権威」に対しても、また社会生活で関わりをもつどの個人に対しても、負債のないように生きなければなりませんが、「互いに愛し合うこと」だけはいつも負っていなければならない負債であって、この負債だけは払いきることができません。
 この負債は誰に対する負債でしょうか。直接には、関わりにある隣人です。わたしたちは自分自身を愛するように隣人を愛するように求められています。わたしたちと何らかの関わりをもつどの隣人に対しても、その人に返すべき負債はなく、何の責任を負う立場になくても、その人を愛するという負い目を負っているのです。
 しかしこの負い目は、神がわたしたちにそうすることを求めておられるところから来る負い目です。イエスがもっとも大切な掟としてまとめられたように、わたしたちが自分自身を愛するように隣人を愛することは、心を尽くして神を愛することの内容として、神がわたしたちに求めておられる唯一のことなのです(マルコ一二・二八〜三一)。だから、隣人を愛することは、神に対して果たさなければならないわたしたちの負い目なのです。
 そのことをパウロは、「人を愛する者は律法を満たしたのです」(八節後半)と表現します。律法とは神が人に求められる行いとか生き方ですから、隣人を愛する者は神が人に求めておられることを満たしている、すなわち律法を満たしていると言えます。隣人を愛する者は、神に負っている負債を果たしていると言えます。しかし、この負債はもうこれで返し切ったとは言えない負債です。もう負債はないとは言えません。わたしたちは人間として生きる限り、この負債を負っています。負債のない生涯の中で、「互いに愛し合うという負債は別です」ということになります。
 パウロは七節と八節で「負債」という用語を用いて、キリスト者の歩みに関する勧告を行っていますが、これは「皇帝のものは皇帝に返し、神のものは神に返しなさい」と言われたイエスの言葉の解説になっています。七節の「あなたがたはすべての人に負債を返しなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、怖るべき人は怖れ、敬意を表すべき人には敬意を表しなさい」という勧めは、「皇帝のものは皇帝に返しなさい」と言われたイエスの言葉を説明しています。そして、この八節は「神のものは神に返しなさい」というイエスの言葉を解説することになります。隣人を愛することこそ、神がわたしたちに求めておられる唯一のことであり、わたしたちが神に対して負っている負い目です。わたしたちは隣人を愛することによって、神のものを神に返すことになるのです。隣人を自分自身のように愛することによって、わたしたちは神がわたしたちに求めておられることを果たす、すなわち律法を満たすのです。

律法を満たす愛

 この「人を愛する者は律法を満たす」ということを、パウロはきわめて簡潔な論理で提示します。
 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな、その他どんな戒めがあっても、『隣人を自分自身のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行うことはありません。だから愛は律法を満たすのです」。(九〜一〇節)
 使徒は、モーセの十戒の中から「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という四つの戒めを代表としてあげ、それに「その他どんな戒めがあっても」と加えることですべての戒めを指し、そのすべての戒めが「隣人を自分自身のように愛しなさい」という言葉に「要約される」と言います。

 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という順序は、七十人訳ギリシャ語聖書の申命記五・一七〜二一に従っています。この順序は、ルカ(一八・二〇)やフィロンなどにも見られ、ギリシャ語を用いるヘレニスト・ユダヤ人の間で親しまれていたことがうかがわれます。
 なお、「要約する」と訳した動詞は、パウロはここで一回使っているだけですが、「(ばらばらのものを)一つの頭に統合する」という意味の動詞で、後にエフェソ書の著者が神の救済の働きを語る重要な箇所(エフェソ一・一〇)で用い、それがエイレナイオスの救済史神学の中心概念になります。

 先に見たように、イエスも律法全体を、申命記六・四〜五と一体にした形を用いて、この「隣人を自分自身のように愛しなさい」というレビ記(一九・一八)の言葉で要約しておられます(マルコ一二・二八〜三四)。ラビたちも六〇〇を超える戒めをレビ記一九・一八の展開と見ていました(ルカ一〇・二五〜二八)。この点ではラビたちもイエスもパウロも同じ線上にあります。ただ、パウロの場合は律法を要約するとき、申命記の「心を尽くし、力をつくして神を愛すべきである」という規定に触れることは少ないことが目立ちます。パウロが「神の愛」というときは、神がわたしたちを愛してくださったという面が圧倒的です。これは、パウロが恩恵に圧倒されて生きていることの結果であり、ヨハネがその手紙(T四・一〇)で、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」と言っていることと同じ線上にあります。
 だいたい律法というものは、その大部分は「なになにするな」という禁止規定です。すなわち、律法は人が悪を行うことを禁止するための規定です。ところが、もともと愛から出る行為には隣人への悪はないのですから、「だから」愛は律法を満たすと続けることができます。相手を愛しているとき、その愛する相手を苦しめ悲しませるような悪を行うことはありません。愛しているならば、自然に相手に善だけを行うようになります。隣人を愛しているとき、わたしたちは自然に律法を満たしているのです。
 ここで注意しなければならないことは、「愛は律法を満たす」のですが、その逆の「律法を順守することは愛を満たす」とはなりません。律法は本来禁止規定ですから、その規定を全部守って、相手に悪をなさなかったからといって、それが愛になるわけではありません。道徳的に完璧な行いをする人がただちに愛の人であるとは限りません。愛は内から溢れ出る命の営みです。悪をしないという外面的行為あるいは不作為をいくら積み上げても愛にはなりません。愛は、愛という命の源泉である神から賜るものです。神の愛を受けてはじめて、わたしたちは神が求めておられるような質の愛で、互いに愛し合うことができるようになるのです。「父が慈愛深い方であるのだから、(その慈愛を受けて)あなたたちも慈愛深い者であれ」と言えるのです。
 律法を「要約する」ことと「満たす」ことは別です。ユダヤ教においても律法は隣人愛に要約されていました。しかし、要約したことは律法を満したことにはなりません。イエスも、律法を見事に要約した律法学者に向かって、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と言っておられます(ルカ一〇・二五〜三七参照)。律法を満たす、すなわち人間が神の意志を実現するためには、人が神の愛を受けて、その愛によって愛し合う必要があります。律法を満たす愛は、(悪を行わないというような)人の行為の集積ではなく、神から受ける愛、すなわち聖霊によって注がれる愛(五・五)によって可能になります。愛は聖霊による神の賜物であるという消息を、パウロはガラテヤ書(五章)やコリント書(T一三章)で詳しく展開していましたが、ローマ書ではあまり詳しくは語っていません。しかし、「愛は律法を満たす」という場合の愛は、聖霊によって注がれる神の愛であることを見落としてはなりません。

37 時をわきまえて (13章 11〜14節)

 11 あなたがたは時をわきまえて、以上のことをしなさい。あなたがたが眠りから覚めるべき時がすでに来ているからです。今やわたしたちの救いは、わたしたちが信仰に入った時よりも近づいているのです。 12 夜は更け、日は近づいたのです。それゆえ、わたしたちは暗闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身につけようではありませんか。 13 わたしたちは、日中に歩く者としてふさわしく歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみに歩むことはないように。 14 むしろ、主イエス・キリストを身にまとい、欲望を満たすために肉に心を向けないようにしなさい。

眠りから覚める時

 「あなたがたは時をわきまえて、以上のことをしなさい」。(一一節前部)
 使徒は、ここまでに語ってきた実践的な勧告をこの言葉でまとめます。原文では「そして、(時をわきまえて)このことを」とあるだけですが、「このこと」というのは以上の勧告全体を指すのですから、「このことをしなさい」と補って訳します。
 「時をわきまえて」というときの「時」の原語は《カイロス》です。これは、新約聖書の用法では救済史的な意味をもつ用語で、救済史の中で神の決定的な働きが行われる時点を指します。「《カイロス》をわきまえる」とは、今が救済史の上でどのような時であるかを把握し自覚していることを意味します。
 キリスト者の生き方は、《カイロス》をわきまえることが重要な動機となります(テサロニケT五・六、コリントT七・二六、二九〜三一など)。この段落(一三・一一〜一四)は、キリストに属する者がどのような「時」に生きているのかを改めて自覚させようとしており、「今のアイオーン(時代)と同じかたちになることなく、かたちを変えられよ」という導入の段落(一二・一〜二)と対応して、キリスト者の生き方についての勧告(一二〜一三章)を囲い込み、その勧告全体の根拠を示していることになります。
 キリストに属する者は、今の時はキリストの十字架と復活という出来事において、新しいアイオーンがすでに到来していることを知っています。パウロはそのキリスト者の自覚を前提として、そのキリストの出来事の意味内容をさらに説明します。
 「あなたがたが眠りから覚めるべき時がすでに来ているからです」。(一一節中間部)
 ここの「時」は《ホーラ》という語が用いられています。これはあることが起こる「時点」を指す語で、ここでは《カイロス》とほぼ同じ意味で用いられているので、両方を同じ「時」で訳しています。

 ヨハネ福音書では、十字架・復活という決定的な出来事が起こる時を指すのに、《カイロス》ではなく、この《ホーラ》が用いられています。

 「眠りから覚める」という比喩は、宗教上の様々な体験や出来事を象徴するのによく用いられる表現です。たとえば、福音書では死者が復活することを指し(マルコ五・三九、ヨハネ一一・一一など)、後のグノーシス主義では無知の状態(眠り)にある魂が天来の霊知に目覚めて救われることを指します。ここでパウロはこの比喩を、終末が近いことを自覚して祈り備えることを意味する黙示思想的な方向(マルコ一三・三二〜三七)で用いています。しかし、パウロの場合、正確に言うと、たんに未来の出来事を待ち望むのではなく、八章で示したように、現在すでにキリストにあって終末(来るべきアイオーン)の命である聖霊を宿すことによって、「このアイオーン」に埋没している(眠っている)者ではなく、終末に属する者であるという自覚をもって(目覚めて)生きるようになることを指しています。
 このような終末に属する者であるという自覚は、キリストにあって賜っている聖霊によって、「すでに来ている」のです。この意味でパウロの終末論は「実現された終末論」の一面を持っています。同時に次の文の「近づいている」という句が示すように、将来への待望の面も持っています。この「すでに来ている」と、まだ来ていないが間近に「近づいている」という二つの面の緊張が、パウロの終末論、ひいては新約聖書の終末論の特質をなします。
 「今やわたしたちの救いは、わたしたちが信仰に入った時よりも近づいているのです」。(一一節後部)
 パウロにおいて「救い」は、キリストの来臨《パルーシア》のときに死者からの復活にあずかることで完成するという、将来の事態を指す用例が多くあります。ここはその典型的な一例です。そのような意味の「救い」は、「わたしたちが信仰に入った時よりも近づいている」と言えます。
 キリストの来臨によって完成される救いまでの期間が、信仰に入った時から数年、あるいは十数年分だけ短くなったという表現は、パウロがキリストの来臨をきわめて具体的に近い将来に期待していたことをうかがわせます。キリストの来臨まで数百年、あるいは数千年にわたる地上の歴史を予想しなければならないとすれば、このような表現はできません。パウロは自分の生涯の期間中に来臨を迎えると期待していた(コリントT一五・五二参照)ので、このような語り方になったと言えます。

 このような使徒時代の切迫した来臨待望を現代のわたしたちはどのように受け止めるべきかについては、拙著『マルコ福音書講解U』155頁の「現代におけるパルーシア待望」を見てください。

日は近づいた

 この間近に迫っている主の来臨に備えて歩むようにという勧告を、パウロはこれまでの福音宣教においてしてきたように、きわめて黙示思想的色彩の濃い用語を用いて、ローマの兄弟たちにも説き勧めます。
 「夜は更け、日は近づいたのです。わたしたちは暗闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身につけようではありませんか」。(一二節)
 悪が支配する「このアイオーン」と、神が支配される「来るべきアイオーン」を、夜と昼の比喩で語り、夜が更けてその暗闇がますます深くなるのは、朝の到来が近いことの兆候であるとするのは、黙示思想の典型的な表現です。
 黙示思想の文書では、この昼と夜の比喩から、神に属する者(義人)たちを「光の子ら」、神に敵対する者(迫害者)たちを「暗闇の子ら」と呼び、彼らの働きをそれぞれ「光のわざ」、「暗闇のわざ」と表現します(たとえば死海文書の「宗規要覧」や「戦いの書」など)。ここでは、パウロもこの黙示文書の比喩を用いて語っています
 パウロはすでにこの黙示思想的な比喩をテサロニケ書(T五・五〜八)で用いて、主の来臨に備えるように説き勧めていました。パウロの切迫した来臨待望は、最初の書簡とされるテサロニケ書から最後の書簡とされるローマ書まで、すなわちパウロの福音宣教の働きの全期間を通して、一貫して変わらないことが分かります。

 パウロの福音宣教における黙示思想の影響とその意義については、拙著『パウロによるキリストの福音T』のテサロニケ書講解の部分を見てください。

 パウロは、「わたしたちは暗闇のわざを脱ぎ捨てようではありませんか」と、自分を含めてキリストの民の在り方を一人称で勧告します。「暗闇のわざ」は、次節(一三節)で「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」と具体的に内容があげられ、それがさらに一四節で、「肉の願うところ」と表現されます。この「暗闇のわざ」のリストは、ガラテヤ書(五・一九〜二一)で「肉のわざ」としてあげられている内容とかなり重なっています。このような肉の働きは、衣服を脱ぐように、脱ぎ捨てることが求められます。
 そして、「わたしたちは光の武具を身につけようではありませんか」と勧告されます。「暗闇のわざ」がやや詳しくその内容が列挙されていたのに対し、「光の武具」の場合は、個々の内容は列挙されず、ただ「主イエス・キリストを身にまとう(着る)」と表現されています(一四節)。テサロニケ書(T五・八)では、「光の武具」は「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり」と表現されていました。また、後にエフェソ書の著者はこの「光の武具」の内容をさらに詳しく「神の諸々の武具」として列挙するようになります(エフェソ六・一〇〜一八)。しかし、ローマ書では「主イエス・キリストを身にまとう」という一句で語られます。
 こうして、わたしたちは「夜にも暗闇にも属せず、光の子、昼の子」なのですから、昼の光の中に歩むように求められます。
 「わたしたちは、日中に歩く者としてふさわしく歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみに歩むことはないように」。(一三節)
 「眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔う」のですから、昼に属するわたしたちは「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみに歩むことはない」はずです。昼に属する光の子として、わたしたちがなすべきことは「主イエス・キリストを着る」ことです。
 「むしろ、主イエス・キリストを身にまとい、欲望を満たすために肉に心を向けないようにしなさい」。(一四節)
 終末の待望を黙示思想の用語を用いて語りながら、ここでパウロは黙示思想と決定的な違いを示します。黙示思想では「光の子ら」の武具は律法順守の精神と献身ですが、福音においては「主イエス・キリスト」ご自身です。キリスト者は「キリストの中へバプテスマされる」ことによって「主イエス・キリストを着た」のです(ガラテヤ三・二六〜二七)。すでに着たキリストをしっかり身にまとって歩むことが、暗闇の力と戦うための「光の武具」であり、光の中を歩み、救いに達するための力なのです。
 キリストに属する者は光の子ですが、自分自身の中に光と力をもってはいません。上に着たキリストが光であり、光の子にふさわしく歩ませる力であるのです。このキリストを着て、キリストの中にしっかりとくるまれて生きる姿を、パウロは繰り返し「エン・クリストー」という句で語っています。わたしたちがキリストに結ばれ、キリストに合わせられて生きるとき、その「キリストにある」という場に働いてくださる聖霊の力により、わたしたちは「肉」に心を向けることなく、「肉の欲」に打ち勝つことができるのです。
 パウロがいう「肉」とは、生まれながらの人間の本性です。その本性の欲求は、「酒宴と酩酊、淫乱と好色」というような身体的な欲望だけでなく、支配欲や名誉欲など内面的な欲求を含み、「争いとねたみ」、怒りと利己心、傲慢と冷酷など、様々な人間の悪徳の源になっています。パウロはこのような悪徳を、ガラテヤ書(五・一九〜二一)で「肉の働き」として詳しく語っていましたが、ここではその代表的なものをあげて、そのような欲望を満たすために肉に心を向けないように求めます。
 ガラテヤ書では、そのような肉の欲求に対立し、それを克服するのは聖霊の働きでした(ガラテヤ五・一六〜一七)。ローマ書では、御霊とか聖霊という用語は出てきませんが、御霊が働かれる場である主イエス・キリストに結びつくことを指し示すことによって、御霊に導かれ、肉の働きを克服することを求めているのです。主イエス・キリストに心を向けることと肉に心を向けることは、まったく逆の方向の志向であり、わたしたちはどちらか一方を選ばなければなりません。

 この箇所(一三・一一〜一四)は、アウグスティヌスの回心との関連で有名です。彼が三二歳のころ、それまでの生涯への悔悟と内面の矛盾に苦悩してある庭園で泣いていたとき、隣の家から子供たちが歌う「取れ、読め」という声を聞き、それを天からの声と感じて、聖書を取り、開いて読んだ箇所がこの箇所です。彼はその中の「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲望を満たすことに心を向けてはならない」という言葉に打たれて回心を体験します。

 パウロはこの段落で、ローマのキリスト者だけではなく、世々のキリストの民に向かって、人間の生まれながらの本性が欲求することに心を向けることなく、主イエス・キリストにしっかりと結びついて歩むことによって、主の来臨に備えるように励ましています。
 このように、主の来臨が近いことを自覚し、「時をわきまえて」歩むようにという勧告は、最初の手紙であるテサロニケ書Tから最後の手紙であるローマ書まで一貫して変わらないことを見ました。テサロニケ書Tを扱ったとき詳しく触れたように、パウロの表現には当時のユダヤ教黙示思想の用語や枠組みが用いられていて、現代のわたしたちはそのような黙示思想の枠組みを受け入れることは困難かもしれません。むしろ、無理に受け入れることは危険であるかもしれません。現代では脱黙示思想化が必要でしょう。しかし、パウロが「キリストの来臨《パルーシア》」とか「死者の復活」という形で語っている将来への希望は、福音の本質に属する事柄です。御霊の現実に生きるとき、その御霊の命は時間の中では将来の完成・顕現の希望という形にならざるをえません。その希望を捨てることは、福音を破壊することになります。この段落は改めて、キリストの福音に生きる者にとって希望が本質的なものであること、それがなければ福音が福音でなくなる質のものであることを思い起こさせます。

恩恵と終末の場での勧告

 使徒パウロがキリスト者の地上の歩みについて与える実際的な勧告(一二〜一三章)は、「あなたがたの身体を、神に喜ばれる聖なる生きたいけにえとして献げなさい。それがあなたがたの霊的な礼拝です」という一二章一〜二節の導入の段落で始まり、「あなたがたは時をわきまえて、以上のことをしなさい」という、終末の時に生きている自覚を促すこの段落(一三・一一〜一四)で締め括られています。ここで述べられる勧告はすべて、「そこで、兄弟たちよ、わたしは神の憐れみによってあなたがたに勧めます」(一二・一)という最初の言葉が指し示しているように、わたしたちが神の恩恵によって救われているという事実から出るものです(一二・一の講解を参照)。
 そもそもパウロが神から遣わされた使徒として世界に語りかけるさい、神がキリストにおいて成し遂げてくださった救いを受け取るように語るときも、救われてキリストに属する者となったとき実際の生活においてどのように歩むべきかを説くときも、同じ「わたしは勧める」《パラカレオー》という言い方で語りかけます。たとえば、恩恵による救い(和解)を告知する福音を受け取るように語るとき、使徒はキリストの使者として、また神の協力者として、聴く者たちに「勧めます」(コリントU五・一九〜六・二)。そして、同じ「わたしは勧めます」という語を用いて、このローマ書の実践的な勧告を語り始めます。使徒としてのパウロにおいては、福音の告知(preaching)も実践的な勧告(teaching)も、ともに「わたしは勧めます」《パラカレオー》という語り方に含まれます。このことはすでに最初の書簡であるテサロニケ書に顕著に見られます。

 テサロニケ書簡Tはよく「勧告《パレネーシス》の手紙」と呼ばれますが、パウロが信徒に実践的な面で勧めをするとき、《パレネーシス》系の用語を用いることはほとんどなく、《パラクレーシス》とその動詞形を用いることが圧倒的に多くあります。テサロニケTでも、名詞《パラクレーシス》は二・三の一回ですが、動詞形《パラカレオー》は、この短い手紙に八回(二・一二、三・二、三・七、四・一、四・一〇、四・一八、五・一一、五・一四)も繰り返されています。そして、この動詞こそ「励ます、慰める、勧める」という広い意味合いをもつ動詞であり、パウロの福音における働きを指し示すのに最適の用語です。その中で少なくとも二・一二は福音の招きについて語られていると見られます。パウロがこの語をよく用いたことが、ヨハネ福音書の《パラクレートス》という聖霊の呼び方と関連があるのかどうかは分かりませんが、興味深い問題です。

 パウロの実践的な勧告には、たしかに当時のギリシア・ローマ世界の倫理的教訓やユダヤ教会堂の実践訓と用語や内容で似たところもありますが、パウロの場合は福音の告知、すなわち恩恵の支配の告知と一体として語られていることを見逃してはなりません。パウロが語る倫理的・実践的勧告はすべて、恩恵の場に生きることの具体化です。このことは、「悪をもって悪に報いるな」という勧告に典型的に見られました。それだけでなく、「上にある権威に服従しなさい」という勧告も、恩恵によって神の国の栄光の富にあずかる者として、地上の富はその富を支配する者に任せておけばよいという距離感が背景にあると見てよいでしょう。
 イエスが敵を愛する愛を説かれたとき、それは父の無条件絶対の恩恵を受けて恩恵の場に生きる者の生き方として説かれたのでした。そのことは、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」という一言にまとめられています。「あなたがたは父の無条件絶対の愛を受けて生かされているのであるから、あなたがたも隣人に対して無条件絶対の愛をもって対しなさい」と言っておられるのです(ルカ六・二七〜三六)。パウロの実践的な勧告も同じ原理に立っています。
 もう一つ、パウロの勧告で見逃すことができない原理は、それが終末の場に生きる者の自覚から出ているという点です。すでに、実践的勧告を導入する序説(一二・一〜二)で、「この世と同じかたちになることなく」と言っていました。そこで指摘したように、「この世」と訳した「この《アイオーン》」という表現は、黙示思想の概念であって、神の支配が顕現する「来るべき世《アイオーン》」に対して、神に敵対する力が支配する現在の時代を指しています。キリストの民は「来るべき《アイオーン》」に属する民であり、聖霊によりその現実を先取りして与えられているのですから、その第一の勧告は、「来るべき《アイオーン》」と対立する「この《アイオーン》」のかたち(原理、姿、外観)に同化しないこととなります。以下に続く実践的な勧告は、「来るべき《アイオーン》」に属する民として、「この《アイオーン》」の原理に同化しないで生きる生き方を具体的に説いていることになります。
 上にある権威に服従しなさいという勧告も、権威の支配は「この《アイオーン》」での事柄であり、やがて過ぎ行くものであるから、「来るべき《アイオーン》」に属する民であるあなたがたは、地上に生きている間は地上のことは彼らに委ねておけばよいという姿勢から出ている一面があります。朽ちるべき地上の富ではなく、「来るべき《アイオーン》」が到来するときに受ける栄光の富を目指して歩むことが求められているのです。イエスも、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命(終末的な永遠の命)を失ったら、何の得があろうか」(マルコ八・三六)と言い、また「天に富を積みなさい」(マタイ六・一九〜二一)と勧めておられますが、これも終末の場に生きる者の姿勢から出ています。
 パウロは、一般的な実践的勧告を締め括る最後の段落(一三・一一〜一四)で、これまでの勧告が主の来臨が差し迫っている場でなされていることを明白に語っています。このことは、最初の書簡であるテサロニケ書Tの時から最後の書簡であるこのローマ書まで変わっていません。使徒パウロは、自分が地上にいる間に主の来臨があるという差し迫った意識で、地の果てまで福音を宣べ伝えようとし、また、主に属する民に歩み方を説き勧めるのです。