市川喜一著作集 > 第13巻 パウロによる福音書 ― ローマ書講解U > 第12講

第九章 強い者と弱い者




第一節 互いに受け入れよ

38 互いに受け入れよ (14章1〜12節)

 1 確信の弱い人を受け入れなさい。意見の違いについての論争に陥らないように。 2 何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べます。 3 食べる人は食べない人を軽蔑してはなりません。食べない人は食べる人を裁いてはなりません。神はその人を受け入れておられるからです。 4 他人の召使いを裁くあなたは、いったい何者ですか。彼が立つのも倒れるのも、彼の主人によるのです。彼は立たせられるでしょう。主は彼を立たせることができるからです。
 5 ある日を他の日よりも尊ぶ人もあれば、すべての日を同じであると判断する人もいます。それは、各自が自分の心に確信しているべきことです。 6 日を重んじる人は、主によって重んじるのです。食べる人は主によって食べるのです。その人は神に感謝しているからです。食べない人は主によって食べないで、神に感謝するのです。 7 わたしたちの中では、だれ一人自分で生きる者はなく、だれ一人自分で死ぬ者はありません。 8 わたしたちは、生きるとすれば主によって生き、死ぬとすれば主によって死ぬのです。従って、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのです。9 キリストが死に、また生きておられるのは、まさに死せる者たちにも生きている者たちにも主となるためなのです。10 それなのに、なぜあなたは兄弟を裁くのですか。また、なぜあなたは兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の座の前に立つことになるのです。 11 こう書かれています。主は言われる。「わたしは生きている。すべての膝はわたしの前にかがみ、すべての舌は神に言い表すことになる」。 12 このように、わたしたちは一人ひとり神に自分のことを申し述べることになります。

確信の弱い人と強い人

 一二章と一三章で、キリストに属する者としてこの世でどのように歩むべきかを説き勧める一般的な勧告をした使徒は、ここから宛先のローマ集会について聞き及んでいる特殊な問題についての勧告に入ります。その特殊な問題は、「確信の弱い人」と「強い人」との対立という表現で取り上げられます。
 「確信の弱い人を受け入れなさい。意見の違いについての論争に陥らないように」。(一節)
 最初に「確信の弱い人」と言われていますが、以降では「弱い人」とだけ言われます。反対の「強い人」という句は、一五章一節になってはじめて登場します。ここで「確信」とは、原語では《ピスティス》です。《ピスティス》は普通「信仰」と訳される語です。しかし、ここでは「信仰によって義とされる(救われる)」というときの信仰、すなわちイエスを主キリストと告白する信仰を指すのではなく(その意味での信仰には強いとか弱いはありません)、キリストに結ばれて生きるさいの、その生き方に対する確信を指します。ここで具体的には、キリストにある者は律法から解放されているという自由の確信を指しています。

 新共同訳は、ここでは《ピスティス》を「信仰」と訳し、他の箇所(一四・二二〜二三)では「確信」と訳しています。NRSVは、本文で faith と訳し、欄外に conviction という訳語をあげています(一四・一、二二、二三)。

 この「強い人」と「弱い人」の対立が具体的にはどのような種類の人たちを指すのかは、以下の本文の解釈に待たなければなりませんが、この対比が最後にはユダヤ人と異邦人の対比で終わっている(一五・七〜一三)ことを念頭に置いて理解しなければなりません(もちろん、後述するように、単純にユダヤ人信徒を「弱い人」、異邦人信徒を「強い人」と言っているのでありません)。
 キリストを信じる者たちの中で、モーセ律法を守らなければならないと信じている人たちと、守らなくてもよいと考えている人たちの融和は、パウロの異邦人伝道において最大の課題でしたが、本書簡ではこの問題が「弱い者と強い者」の問題として扱われることになります。
 使徒は「受け入れなさい」という勧告で、このローマ集会の特殊な問題についての勧告を始め、最後に「互いに相手を受け入れなさい」(一五・七)という段落で締め括っています。この最初と最後に出てきて全体を囲い込んでいる、「互いに相手を受け入れなさい」という勧告こそ、ローマ集会に対する使徒の勧告の鍵です。
 使徒はローマの集会の兄弟たちに、「意見の違いについての論争に陥らないように」説き勧めます。すなわち、ただ相手の考えを批判し、互いに非難して交わりを拒否するようなことはしないで、相手をあるがまま受け入れることを求めます。

食べ物の問題

 集会の中には、モーセ律法で「汚れたもの」として禁じられている肉(たとえば豚肉)であろうと、偶像に供えられた肉であろうと、市場で売っている肉は何を食べてもよいと確信している人がいます。このような人が、そのような肉は食べることができないとして、野菜だけを食べる「弱い人」との対比で、(その表現はまだ出てきませんが)「強い人」と見られていることになります。
 「何を食べてもよいと信じている人」がいる一方、市場で売っている肉は偶像に供えられた肉である可能性があるので、偶像に供えられた肉を食べることで汚れを受けるのを避けるために、肉を一切食べないで、野菜だけを食べている人たちがいました。これは宗教的な殺生禁止や栄養学上の菜食主義のことではありません。どの肉でも食べる人と肉をいっさい食べない人との対立の問題は、すでにコリント第一書簡(八章)でも取り上げられていて、食べない人が「弱い人々」と言われています。

 「食べる人は食べない人を軽蔑してはなりません。食べない人は食べる人を裁いてはなりません。神はその人を受け入れておられるからです」。(三節)

 軽蔑して相手をあるがままに受け入れないことは、裁くことと同じです。相手を軽蔑する者は、自分を裁く者の場(相手の価値を判断する立場)に置いていることになります。「軽蔑するな」は、続く「裁くな」と一対になって、「互いに裁き合わないように」(一三節)という勧告となります。そして、相手を軽蔑したり裁いたりしないで、互いに受け入れ合うようにという勧告の根拠が、「神はその人を受け入れておられるからです」と明確に述べられます。
 コリント第一書簡(八・一〜一三)では、使徒は食べる人に対して、知識に誇って、食べない「弱い人々」をつまずかせるような行動をしないように、愛によって行動しなさいと勧めていましたが、ここでは別の原理で勧告されます。すなわち、神が(肉を)食べる人も食べない人も受け入れておられるのだから、あなたもその人を受け入れなさいと勧告されます。神が受け入れておられる者を拒むことは、自分の判断(相手に対する価値判断)を神の判断よりも上に置くことを意味します。これはあってはならないことです。
 このように、「互いに受け入れなさい」という勧告の根拠を示すところで、神に受け入れられる(救われる、義とされる)のに人間の側の資格や条件や行為は何も関わりがないという、パウロの「恩恵の支配、信仰による義」の原理が具体的な形で現れていることになります。

 「他人の召使いを裁くあなたは、いったい何者ですか。彼が立つのも倒れるのも、彼の主人によるのです。彼は立たせられるでしょう。主は彼を立たせることができるからです」。(四節)

 「互いに裁き合わないように」という勧告が、主人と召使いの関係を比喩として、繰り返されます。
 キリスト者はそれぞれ主キリストに仕えるキリストの僕であって、あなたの僕ないし召使いではない。それゆえ、あなたが他のキリスト者を裁く(その価値を定める)ならば、それはあなたが勝手に自分をその人の主人としているのであり、「他人の召使いを裁く」ことになります。そのような僭越行為は許されません。
 後半の文の「彼」は「召使い」を指しています。ここでパウロは、批判され裁かれている兄弟を指しています。あなたが批判しているその兄弟が立つのも倒れるのも、彼の主人である主キリストによるのです。あなたは駄目だと断定しても(裁いても)、主は彼を立たせられます。主はいかなる人をも恩恵の力で立たせることができるからです。この宣言の背後には、主は迫害者であり敵であったパウロをも、御自分の僕とし、福音の器として立てられたという体験があるのでしょう。

日を守る問題

 弱い者と強い者の対立の問題について、使徒は食べ物の問題に続いて、ある特定の日を重んじるかどうかというもう一つの問題を取り上げます。

「ある日を他の日よりも尊ぶ人もあれば、すべての日を同じであると判断する人もいます。それは、各自が自分の心に確信しているべきことです」。(五節)

 「ある日を他の日より尊ぶ人」というのは、安息日や断食日や祝祭の日など、ユダヤ教律法に規定されている日に、特別の宗教的行事をしなければならないと考えている人を指していると見られます。異教の祝祭の日を守ることは、もはや問題にはなっていないでしょう(後で述べるように、ガラテヤ四・一〇の場合とは状況が違うと考えられます)。そのような人に対して、「すべての日を同じであると判断する人」とは、キリストに属する者はモーセ律法から解放されているのだから、ユダヤ教律法に定められた特定の日に特別の行事をする必要はないと考えている人を指すのでしょう。
 「ある日」を、他の日とは違う特別の意味のある日とするか、特別の意味を認めず他の日と同じとするかという問題は、おもに安息日のことではないかと考えられます。少なくとも、それを安息日の問題として見ますと、ここで問題になっていることが具体的に理解できます。
 ユダヤ人にとっては、安息日の定めは命をかけても守らなければならない聖なる定めであり、長年守ってきた民族の宗教的習慣でした。それはイエス・キリストを信じるようになったからといって、すぐに止めることができるような習慣ではありません。一方、異邦人信徒にはこのような習慣はなかったのですから、安息日も他の日と変わらない一日にすぎません。ユダヤ人信徒が異邦人信徒に一緒に安息日を守るように求めたのか、あるいは(ローマの知識人がユダヤ教徒の安息日習慣を怠慢として嘲笑したのと一緒に)異邦人信徒がユダヤ人信徒の安息日習慣を嘲笑したのか、実際に何があったのかは分かりませんが、安息日についてユダヤ人信徒と異邦人信徒の間にトラブルがあることを、パウロは伝え聞いたのではないかと考えられます。
 この問題に対するパウロの態度は、きわめて慎重です。「それは、各自が自分の心に確信しているべきことです」と言っています。すなわち、どちらかを正しいとするのではなく、どちらの態度も認めて、両者が互いに受け入れ合うように促します。
 使徒は、安息日を順守すべきかどうかは各人の確信の問題だとします。ユダヤ人信徒が、安息日の定めは神の定めであって、それは生涯順守すべき定めであると確信して、安息日規定を守るのであれば、それは彼のキリスト信仰を妨げるものではないとします。一方、異邦人信徒がモーセ律法から自由であるという確信をもって、モーセ律法によって安息日には禁じられている労働をしたとしても、それは彼のキリスト信仰を妨げることはないとします。ユダヤ人にとって絶対的であった安息日律法は相対化されています。パウロは安息日律法を相対化することによって、それを守るユダヤ人信徒も、それを守らない異邦人信徒も、互いに受け入れ合うことができる場を造ったのです。
 特定の日についての宗教的規定を守ることに関しては、パウロはガラテヤの信徒たちが「いろいろな日、月、時節、年などを守っている」ことを伝え聞いたとき、それを「あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りする」ことだとし、「あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではないか」と心配しています(ガラテヤ四・八〜一一)。これはローマ書の勧告とはずいぶん違っています。この違いは状況の違いから理解されます。
 ガラテヤでは、もともとモーセ律法と関係なく、信仰によって聖霊を受けて歩んでいた異邦人信徒が、後から来たユダヤ主義者たちの要求によって、割礼を受け、モーセ律法の日や時節に関する律法とか、宇宙の諸霊の礼拝のために日、月、時節、年などの宗教規定を守るようになったのでした。これは、律法と無関係にキリスト信仰によって与えられる神の義という福音からの脱落であり、異邦人信徒のユダヤ教改宗は福音の真理の否定として、パウロにとってどうしても阻止しなければならないことでした。
 それに対してローマでの問題は、すでにユダヤ教徒として「日を守る」ことを続けようとする信徒たちと、ユダヤ教徒であっても「確信の強い人」で、そのような律法の規定から解放されている人および彼らの同調者である異邦人信徒たちという二つのグループの間の対立であって、問題の性格が違います。この違いを理解するために、ここでもう一度当時のローマの状況を見ておきたいと思います。

ローマ集会の状況

 帝国の首都ローマに誰がどのようにして福音を伝えたのか、またどのような形でローマにキリストの民が成立したのか、その事情は正確には分かりません。ローマのユダヤ人共同体がエルサレムとの間に保っている密接な交流からすると、おそらく30年代初頭にエルサレムで始まったイエスをメシア・キリストと信じる新しい信仰が、無名のユダヤ人信徒によってローマにも伝えられて、ユダヤ教会堂の内部に、ユダヤ人の信徒と「神を敬う」異邦人の信徒からなるキリストの民が生まれていたと推察されます。

 ローマにおけるキリストの民の成立とその状況について詳しくは、本講解の最初に執筆事情を解説した箇所の「ローマの信徒たちへ」という項)で述べましたので、そこを参照してください。なお、そこでも述べましたが、当時のローマの信徒たちの状況を推定するさい、ローマ書一六章をローマに宛てられた手紙本体の一部と見て、参考にしています。

 当時ユダヤ教はローマの公認宗教(レリギオ・リキタ)でしたので、キリストを信じる者たちは、ユダヤ教会堂の中でユダヤ教徒の一部として、公認宗教の保護の下に活動することができました。ところが、おそらく律法順守の問題をめぐって会堂指導層とイエスの信徒の間に紛争が生じ、それが騒乱となります。この「ユダヤ人の間の騒乱」が原因となって、クラウディウス帝は49年にすべてのユダヤ人をローマから追放します。
 ユダヤ人信徒がローマから追放された後、異邦人信徒はユダヤ教という公認宗教の保護を失い、いわば非合法集会として信徒個人の家で小さい集会を続けることになります。ところが、クラウディウス帝の死と共に、54年にユダヤ人追放令は解除され、ユダヤ人は続々とローマに帰ってきます。キリストの信徒たちは、もはやユダヤ教会堂の中ではなく、会堂とは別に「家の集会」を続けますが、そこにユダヤ人信徒を迎え入れることになります。
 ユダヤ人信徒が追放されている五年間に状況は大きく変わっていました。残された異邦人信徒たちは力強く福音を証しして多くの異邦人信徒を獲得し、帝国の首都のキリスト信仰が「全世界に言い伝えられる」ようになっていました(一・八)。そこへユダヤ人信徒が戻ってきて問題が生じることになります。
 パウロはここで、肉を避け野菜だけを食べる人、また特定の日を守る人を「確信の弱い者」と呼び、そのような区別を超えている人を「強い人」と呼んでいますが、これは単純にモーセ律法を守るユダヤ人と、そのような律法による区別を知らない異邦人を指しているのではありません。むしろ、ユダヤ人信徒の間で野菜だけを食べ日を守る人たちと、その区別を超えている人たちの対立を指していると見られます。
 何と言っても、この時期では聖書の民であるユダヤ人信徒が集会で中核的な立場を保っていたのではないかと考えられます。そのユダヤ人の間の対立に異邦人信徒も加わって、「弱い人」と「強い人」の対立が生まれていたと見るべきでしょう。おそらく「弱い」ユダヤ人信徒に説得されて肉を避け日を守る異邦人信徒は僅かで、本来モーセ律法とは関係のない異邦人信徒の大部分は、そのような区別を認めない「強い人」の側についたと見られます。ユダヤ人の中で、たとえばプリスキラ・アキラ夫妻のようにパウロのよき理解者であり協力者であったユダヤ人は「強い人」の代表であったでしょう。
 肉を避け日を守る人を「確信の弱い者」と呼ぶ呼び方自体に、パウロがそのような食べ物や日の区別を乗り越えて信仰に生きることを求めている姿勢がうかがえます。しかし、パウロはまず「強い人」に「確信の弱い人を受け入れる」ことを求めます。おそらく、モーセ律法の規定を守ることにこだわるユダヤ人信徒は、ローマでは少数派となり孤立していたのではないかと想像されます。お互いに受け入れることができるように、パウロは続いて両者とも「主によって」生きているのだという原理を掲げます(六〜九節)。

主によって生きる

 「日を重んじる人は、主によって重んじるのです。食べる人は主によって食べるのです。その人は神に感謝しているからです。食べない人は主によって食べないで、神に感謝するのです」。(六節)
 特定の日を重んじる人は、そうすることで主に仕えるのだと、「主によって」、すなわち、主に仕えることを理由として特定の日を重んじているのです。

 六節に二回繰り返されている「重んじる」と訳した動詞は、八・五〜七で「志向する」と訳した動詞と同じです(この語の意味についてはその箇所の注を参照してください)。

 偶像に供えられた肉でもよいとして肉を食べる人は、主が与えてくださった自由によってそうする確信を得ているのですから、彼は「主によって」肉を食べると言えます。このような主からの自由によって食べる人にとっては、「すべての食べ物は清い」(一四・二〇)ものであって、その人はすべての食べ物を神から賜っているものとして感謝しているから食べるのです。
 また、「食べない人」も「主によって食べない」と言われます。この場合の「主によって」は、主を信じる者は律法のより徹底した順守を必要とすると確信しているから食べないという意味でしょう。そして、食べないことを主に感謝するのです。おそらくこれは、そのような律法が神から与えられていることと、律法が禁止しているものを食べない力を与えてくださった神に感謝するという意味でしょう。

 「神に感謝するのです」という文は《カイ》で始まっていますが、「食べないで、そして感謝する」という単純な結果を示すのか、または、「食べる人」が神に感謝するように、「食べない人もまた」神に感謝すると言っているのか、決定することは困難です。いずれにしても、食べる人も食べない人も神に感謝することは共通で、それが大切なのであるから、お互いに非難することはないと言おうとしています。

 「わたしたちの中では、だれ一人自分で生きる者はなく、だれ一人自分で死ぬ者はありません。わたしたちは、生きるとすれば主によって生き、死ぬとすれば主によって死ぬのです」。(七節〜八節前半)
 使徒はローマのキリスト者たちに呼びかけます。「わたしたち」キリストに属する者は、復活者キリストが自分のために死なれた事実に自分の全存在を委ねることでキリストに属する者となっている者たちです。七節から九節までの「わたしたち」は、コリントU五・一四〜一五で「わたしたちはこう考えます」と告白する「わたしたち」と同じです。この「わたしたちの中では」、だれ一人自分で生きる者はなく、だれ一人自分で死ぬ者はないのです。

 七節から八節前半では、三格の形の「自分自身に」と「主に」という名詞の後に「生きる」と「死ぬ」という動詞が続いて、二つの生き方・死に方が(正確に対応する構文で)対比されています。直訳すれば、「わたしたちの中では、だれ一人、自分に生きるものはなく、自分に死ぬ者はいません。わたしたちは、生きるとすれば、主に生きるのであり、死ぬとすれば、主に死ぬのです」となります。「主に生きる」という日本語表現は、ガラテヤ二・一九の「神に生きる」の並行表現として理解できますが、「主に死ぬ」は理解困難です。「自分に死ぬ」は、「神に生きるために自分に死ぬ」という場合は理解できますが、ここではそのことが「自分に死ぬ者はない」と否定されているのですから、この訳は不適切となります。それで、意味を狭く限定する嫌いはありますが、何かの語(欧米諸語では前置詞)を補って訳さざるをえなくなります。問題はここで用いられている三格の意味です。三格の本来の意味は「誰それに」(与格)ですが、ギリシャ語の三格には「〜によって」という手段や道具の意味(具格)や「どこそこに」(位格)など、他の意味もあって、用例は複雑です。日本語訳(協会訳、新共同訳、岩波版とも)は「のために」と訳しています。フランス語訳もほとんど pour を用いています。ところが、英語訳はほとんどみな (forではなく) to を用いています。ラテン語訳(ウルガタ)やドイツ語訳は三格だけで訳しています。日本語では、六〜八節の三格をみな同じ語を補って訳そうとすると、内容から「のために」よりも、手段を示す三格(具格)として「によって」と理解する方が適切と考えます。四節の三格は明らかに「主によって」の意味です。「自分によって」の場合は、日本語の自然さを考慮して「自分で」と訳しています。

 わたしたちキリストに属する者は、自分で、すなわち自分自身によって生きる者はいません。わたしたちは、生きるとすれば主によって生きるのです。自分自身の中に生きる根拠とか意味とか力があるのではありません。それは主から賜るのです。わたしたちは主によって生かされているのです。
 わたしたちキリストに属する者は、自分で、すなわち自分自身によって死ぬ者はいません。自分の死を決めたり、自分で死を実行する者はいません。死ぬ時も主から賜るのです。わたしたちの死は主が決められることであるという意味で、わたしたちは「主によって」死ぬのです。
 このように、わたしたちは、生きるにしても死ぬにしても、自分自身のもの(自分自身に所属する者)ではなく、主のもの(主に所属する者、主が所有される者)なのです。

 「従って、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのです。キリストが死に、また生きておられるのは、まさに死せる者たちにも生きている者たちにも主となるためなのです」。(八節後半〜九節)

 この、わたしたちが生きるにも死ぬにも、主に属する者であることが、キリストの十字架の死と復活という救済の根源的な出来事によって根拠づけられます。わたしたちの救済者であるキリストが、たんに生きて働いておられるというのではなく、ひとたび死んで、その後復活して生きておられるのだと福音が告知するのは、この方が生きている者たちだけでなく、死せる者たちの主となるためであったのです。ここに、キリストの十字架の死の意義が、贖罪のためというだけでなく、キリストを死者の世界の主であることを告知するものとされていることに注目しなければなりません。
 このことはすでに、パウロは最初の手紙であるテサロニケ書Tで語っていました。キリストの来臨の前に世を去った兄弟たちのことで動揺していたテサロニケの信徒たちに、使徒はこう言っています。

 「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても(生きていても)眠っていても(死んだ後も)、主と共に生きるようになるためです」。(テサロニケT五・一〇)

 死後の世界においても、主はわたしたちの主であり、わたしたちは主と共に生きるのです。このことがローマ書では、わたしたちが生きるのも死ぬのも主によるのであり、生きていても死んでいても主のものであるということを根拠づけるために用いられています。

 「それなのに、なぜあなたは兄弟を裁くのですか。また、なぜあなたは兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の座の前に立つことになるのです」。(一〇節)

 このように、わたしたちは生きていても死んでいても主に所属する者であるのに、なぜ主人でもないあなたが主に所属する兄弟を裁いたり侮ったりするのかと、使徒は互いに兄弟を裁くことの非理を諭します。わたしたちを裁く方は神だけであることを思い起こさせ、それを聖書の言葉で確認します。

 「こう書かれています。主は言われる。『わたしは生きている。すべての膝はわたしの前にかがみ、すべての舌は神に言い表すことになる』」。(一一節)

 これは七十人訳ギリシャ語聖書のイザヤ四九・一八とイザヤ四五・二三の一部を合成した引用です。後者はフィリピ二・一一にも引用されています。
 後者のギリシャ語動詞「言い表す」は、フィリピ書二・一一の引用ではイエスを主と「言い表す」という意味で用いられていますが、ここでは自分のありのままの姿を裁き主である神の前に言い表すという意味で用いられ、次節で解説されます。この動詞は新約聖書では「罪を言い表す」という形で用いられるようになります(マルコ一・五、マタイ三・六、使徒一九・一八)。
 「このように、わたしたちは一人ひとり神に自分のことを申し述べることになります」。(一二節)
 「申し述べる」と訳した箇所は、「決算書《ロゴス》を提出する」という表現が用いられています。この表現は、マタイ一二・三六やルカ一六・二にも用いられています。終わりの日に神がすべての人を裁かれるとき、各人は神の御前に出て、自分の生涯の「決算書を出し」、自分の行為や言葉について「申し開きをする」ことが求められるという初期の共通の確信を引用して、使徒は、裁くのは神であって、わたしたちは互いに裁く立場ではないことを重ねて確認します。