市川喜一著作集 > 第13巻 パウロによる福音書 ― ローマ書講解U > 第14講

第三節 「宗教」の相対化

40 隣人を喜ばせる(15章 1〜6節)

 1 わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであって、自分自身を喜ばすべきではありません。 2 わたしたちはそれぞれ、隣人を喜ばせ、その人を建て上げるのに益となるようにすべきです。 3 キリストでさえ御自分を喜ばせることはされませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。 4 以前に書かれたものはすべて、わたしたちを教えるために書かれたのであって、それは聖書が与える忍耐と慰めによって、わたしたちが希望を持つようになるためです。 5 どうか忍耐と慰めの神があなたがたに、キリストにならって、互いに同じ思いを与えてくださり、 6 一つの心で声をあわせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神を讃えさせてくださるように。

弱い者を担う

 「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであって、自分自身を喜ばすべきではありません」。
(一節)

 一四章一節以下、「確信の弱い人」を受け入れるようにという勧告がなされてきましたが、ここで初めて、その勧告の対象となる人たちが「強い者」と呼ばれて、名指されます。パウロは自分も「強い者」の立場に置いて、「わたしたち強い者」と言って、「確信の強い者たち」に勧告します。
 「確信の強い人」は、ともすると自分の確信の強さに誇り、自分の自由を見せつけるような振舞いをして、「確信の弱い人」の意識を傷つけ、困惑と苦悩に陥れるようなことをします。使徒は、そのような行動を強く戒め、むしろ「強くない者の弱さを担う」ように求めます。すなわち、確信の強さを誇示して「自分を喜ばす」(自己満足の喜びを持つ)のではなく、キリストとの交わりとそこから生まれる自由の確信が弱く、ユダヤ教律法や宗教的伝統に拘束されて「肉を食べない」とか「日を守る」ことにこだわっている「弱い人」の意識を傷つけないように配慮することを求めます

 「わたしたちはそれぞれ、隣人を喜ばせ、その人を建て上げるのに益となるようにすべきです」。
(二節)

 ここの「喜ばす」は、その人の益になるように振舞うことで、「仕える」に近い意味で用いられています。「その人を建て上げるのに益となるように」という箇所は、直訳すると「建て上げることに向かって善となるように」となります。「建て上げる」という動詞やその名詞形は、信仰の確立やエクレシアの形成について、パウロがよく用いる重要な用語で(一四・一九参照)、「徳を建てる」ではありません。

 「キリストでさえ御自分を喜ばせることはされませんでした。『あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった』と書いてあるとおりです」。(三節)

 わたしたちは自分自身を喜ばすべきではなく、隣人を喜ばせるべきであるという在り方のモデルとして、使徒はキリストご自身の場合を指し示します。この場合の「キリスト」は、わたしたちの救い主キリストであるイエスの具体的な姿を指しているわけで、地上のイエスの働きについて読者が一定の知識を持っていることを前提としています。
 イエスは、安息日にも病人をいやすなどの働きがユダヤ教指導層からの憎しみを買い、苦しみを受けるようになることを覚悟の上で、すなわち「御自分を喜ばせることをせず」、弱い隣人たちに仕えていかれました。そのように、キリストであるイエスが自分のことを顧みず、父の御心に従うことによって、神に従わない者たちから苦難を受けられることを預言する聖書の言葉として、「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」という、七十人訳ギリシャ語聖書の詩篇六八編一〇節後半が引用されます(新共同訳では六九編一〇節)。
 この節の前半は、「あなたの家への熱心がわたしを食い尽くした」となっています。この前半はヨハネ二・一七に引用されており、この詩編の一節はキリストにおいて成就した聖書の言葉の一つとして、初期の宣教において重視されていたと見られます。

聖書が与える忍耐と慰め

 「以前に書かれたものはすべて、わたしたちを教えるために書かれたのであって、それは聖書が与える忍耐と慰めによって、わたしたちが希望を持つようになるためです」。(四節)

 使徒は、自分を喜ばせるのではなく隣人を喜ばせるようにという勧告のモデルとしてキリストの実例を取り上げ、それを聖書の一節で根拠づけたのをきっかけに、聖書がキリストの民に対して持っている意義を語ります。
 「以前に書かれたもの」とは、これまでのイスラエルの歴史の中で書かれたもの、すなわち、「律法」と「預言者」と、(パウロの時代ではまだ「正典」としては確立していませんが)詩編などその他の「諸書」を広く指しています。「聖書」と訳した語も、原文は「書かれたもの」(複数形)で、ここでは宗教的権威のある書を指しているので「聖書」と訳しています。
 イスラエルの歴史の中で生み出されたこれらの諸書(わたしたちが「旧約聖書」と呼んでいる諸書)は、終わりの日に出現する真の神の民である「わたしたち」を教え戒めるために書かれたものです。パウロは、すでにコリント書I(一〇・一〜一三)で、旧約聖書を予型的に解釈して、キリストの民を教え戒めています。その用い方に見られるように、聖書(旧約聖書)は、キリストの民にとってはもはや神の要求をまとめた律法の書ではなく、神の救済史の証言として、わたしたちがキリストにあって抱いている希望を確かなものにして、わたしたちキリストの民に忍耐と慰めを与えるための書です。

 聖書が救済史の証言であることについては、拙著『パウロによるキリストの福音T』の第八章「福音におけるユダヤ教遺産の継承」を参照してください。

 「どうか忍耐と慰めの神があなたがたに、キリストにならって、互いに同じ思いを与えてくださり、一つの心で声をあわせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神を讃えさせてくださるように」。
(五〜六節)

 このような救済史の証言としての聖書を与えてくださった神は、「忍耐と慰めの源である神」(新共同訳)です。この神がキリストの民に「互いに同じ思いを与えてくださり」、一切の対立を超えて、「一つの心で声をあわせて」わたしたちの主イエス・キリストの父なる神を讃えさせてくださるようにと、使徒は祈ります。キリストの民がすべての対立を克服して一つの思いになることは、結局は神の恩恵の働きに待たざるをえないのです。
 対立を超えて同じ思いになるように説き勧めるさい、使徒は「キリストにならって」と言っています。そのキリストは、「キリストでさえ御自分を喜ばせることはされませんでした」と言われたキリストです。使徒は、すこし前にフィリピの集会に書き送ったときにも、集会の兄弟がみな同じ思い、同じ心になるように強く求めましたが、その時にも「キリスト・イエスにあるのと同じ思い」を持つように求め、自分を空しくされたキリストの姿を模範としてあげ、有名なキリスト賛歌を引用しています(フィリピ二・五以下)。ローマ書では、キリスト賛歌は引用されていませんが、「キリストにならって」と言うとき、使徒の心にはこの賛歌のキリストの姿があったと見てよいでしょう。

41 ユダヤ人と異邦人のためのキリスト(15章 7〜13節)

 7 だから、キリストもあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたは神の栄光のために互いに相手を受け入れなさい。 8 わたしは言う。キリストは神の真実を現すために割礼の者たちに仕える者となられたが、それは父祖たちへの約束を確立するためであり、 9 他方、異邦人が憐れみを受けて神を讃美するようになるためです。このように書かれています。「このゆえに、わたしは異邦人の中であなたを讃え、あなたの名をほめ歌おう」。 10 そして、さらにこう言っている。「あなたがた異邦人よ、主の民と共に喜べ」。 11 さらにこう言う。「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民よ、主を讃美せよ」。 12 そして、さらにイザヤも言っている。「エッサイの根が生えいで、異邦人を治めるために立ち上がる者が来る。異邦人は彼に望みを置く」。
 13 どうか希望の神が、信じることによるあらゆる喜びと平和であなたがたを満たしてくださり、あなたがたが聖霊の力によって希望に溢れますように。

互いに受け入れなさい

 「だから、キリストもあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたは神の栄光のために互いに相手を受け入れなさい」。(七節)

 一四章一節以下、使徒は対立する二つのグループに対して、互いに受け入れるように求めてきました。とくに強い者が弱い者を受け入れるように求めてきました。そのように勧告するにあたって、使徒はすでにキリストをモデルとしてきましたが(三節、五節)、その勧告が最後にもう一度キリストをモデルにして、というよりキリストの出来事を根拠にして、要約されます。
 キリストは、酒を飲まず肉を避け、日を重んじる弱い兄弟をも御自分の民として受け入れ、また、そのような宗教的戒律から解放されている強い者も、御自身に属する者として受け入れておられます。そうである以上、共にキリストに属する民として、当然あなたたちも互いに相手を受け入れなければならないではないか、と使徒は迫ります。あなたたちが互いに受け入れるならば、それは神の栄光を顕すことになり、互いに受け入れず裁き合うならば、それは神の栄光を傷つけることになると、使徒はローマの兄弟たちを励まし、かつ警告します。

 「神の栄光のために」という句は、原文では「キリストもあなたがたを受け入れてくださった」の後ろにあり、この文を修飾すると理解できます(日本語訳は例外なくそうしています)。しかし、この句は、直前にカンマを入れることにより、「あなたがたは互いに相手を受け入れなさい」を修飾する句として読むこともできます(RSV、NRSV)。ここでは、互いに相手を受け入れることの意義を強調するために、このように読む方が適当と考えます。互いに受け入れることは神の栄光になり、受け入れないことは神の栄光を傷つけるという意味になります。

ユダヤ人と異邦人のためのキリスト

 「わたしは言う。キリストは神の真実を現すために割礼の者たちに仕える者となられたが、それは父祖たちへの約束を確立するためであり、他方、異邦人が憐れみを受けて神を讃美するようになるためです」。(八節〜九節前半)

 ローマの兄弟たちの間の対立は、これまで「強い者」と「弱い者」の対立として語られてきました。先に見たように、この対立は、単純にユダヤ教律法にこだわるユダヤ人とユダヤ教律法にこだわらない異邦人の対立ではなく、むしろユダヤ人信徒の間において、キリストを信じながらもなおモーセ律法の順守にこだわる人たちと、キリストにあってすべてのものは清いことを知り、ユダヤ教の宗教的細則から解放されて自由であることを強く確信している人たち(パウロも自分をそのような強い者の一人としています)との対立であったと考えられます。その対立に異邦人信徒も巻き込まれて、ローマの兄弟たちは二つに割れていたと見られます。そのさい異邦人信徒は大部分「強い者」の側についたと推測されますので、この対立は実質的には、「強い」ユダヤ人信徒を核とする異邦人信徒と、モーセ律法の順守にこだわるユダヤ人信徒との対立であったと見られます。
 そうすると結局ローマでも、これまでパウロの働きで形成されたユダヤ人と異邦人とから成る集会で問題とされていたこと、すなわちユダヤ教律法をどう扱うかという問題、キリスト信仰におけるモーセ律法の位置づけの問題が対立の原因となっていることが分かります。
 そこで使徒は改まって「わたしは言う」と宣言して、モーセ律法の中で生きてきたユダヤ人と、その外にいた異邦人との両者を共に、キリストが受け入れて御自分の民としてくださっていることを改めて強調し、両者が互いに相手を受け入れるための根拠とします。
 「割礼の者たちに仕える者」は、原文では「割礼の仕え人」です。キリスト・イエスは「割礼の民」であるユダヤ人として生まれ、イスラエルの民の中でその働きを全うされましたが、それは終わりの日にイスラエルに救済者を送るとイスラエルに約束された「神の真実を現すため」でした。

 「神の真実を現すために」の原文は「神の真実《アレーテイア》のために」であり、次節の「憐れみのために」と一対をなしています。この《アレーテイア》は、コリントT一・九の《ピストス》(信実な)とは違う用語ですので一応違う訳語を用いていますが、「信実」と同じです。詩篇などで、次節の「憐れみ」と並んで讃美されている神の「信実」(《エメス》または《エムナー》)を指しています。

 キリストがユダヤ人の中に現れたのは、ユダヤ人に対して「父祖たちへの約束を確立する」だけでなく、「異邦人が憐れみを受けて神を讃美するようになるため」でもあることが九節以下で強調されます。
 まずユダヤ人に対しては、キリストは「父祖たちへの約束を確立するため」に、ユダヤ人の中に生まれ、ユダヤ人の中でその働きを全うされました。イエスが十字架上に死なれたこと、復活してキリストとして立てられたこと、信じる者に聖霊を送って救いの働きを進めておられること、これらの出来事はすべて、神がイスラエルの歴史の中で、終わりの日にイスラエルの中に実現すると約束してこられたことの成就でした。
 そして、そのキリストの出来事は同時に「異邦人が憐れみを受けて神を讃美するようになるため」でもあったのです。異邦人に対するキリスト出現の目的が、「憐れみのために」または「憐れみのゆえに」(ギリシア語原文)と表現されています。キリストが来られたのは、今まで神と無縁であった異邦人が「憐れみを受けて」、すなわち無条件の恩恵によって、神の民とされるようになるためでした。
 パウロは、この手紙の九〜一一章で、神が信実のゆえにイスラエルに約束しておられた救い主をイスラエルの中に送られたが、イスラエルはその救い主を拒み、彼らの不信仰・不従順のゆえに福音は異邦人に向かい、異邦人が神の憐れみ(恩恵)によって神の民となったという救済史の奥義を詳しく語っていました。「あなたがた(異邦人)は、かっては神に不従順でしたが、今は彼ら(イスラエル)の不従順によって憐れみを受けました」(一一・三〇)。こうして、神の信実のゆえにイスラエルの中に成就したキリストの救済の出来事が、同時に異邦諸国民が神の憐れみを受ける出来事となったのです。
 ここで神の民となることが「神を讃美するようになるため」と言われています。ここの「神」はキリストの父なる神であり、イスラエルの神です。キリストは、異邦人がイスラエルの神を拝むようになるために出現されたのです。キリストが「父祖たちへの約束を確立するため」に来られたということは、ユダヤ人信徒には納得しやすいことですが、そのキリストの出来事が異邦人も異邦人のままでイスラエルの神の民となるためであるということは納得しにくいことです。それで、使徒はそのことを論証するために、とくにユダヤ人を説得するために、聖書の箇所を多く引用します。

 「このように書かれています。『このゆえに、わたしは異邦人の中であなたを讃え、あなたの名をほめ歌おう』」。(九節後半)
「そして、さらにこう言っている。『あなたがた異邦人よ、主の民と共に喜べ』」。(一〇節)

「さらにこう言う。『すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民よ、主を讃美せよ』」。
(一一節)
「そして、さらにイザヤも言っている。『エッサイの根が生えいで、異邦人を治めるために立ち上がる者が来る。異邦人は彼に望みを置く』」。(一二節)

 九節後半は、七十人訳ギリシャ語聖書の詩篇一七編五〇節(新共同訳では一八編五〇節)からの引用です。
 一〇節は、申命記三二章四三節からの引用です。ヘブライ語テキストでは「国々よ、主の民に喜びの声をあげよ」となっていますが、パウロは七十人訳ギリシャ語聖書から引用しています。
 一一節は、詩篇一一七編一節からの引用です。
 一二節は、七十人訳ギリシャ語聖書のイザヤ書一一章一〇節からの引用です。ただし、「そしてかの日には」が省略されています。七十人訳ギリシア語聖書は、新共同訳の底本になっているヘブライ語聖書と表現はやや違っていますが、異邦人がダビデ的メシアの支配に入ってくることを語っている点では同じです。
 パウロの聖書引用の仕方については、本書77頁の「パウロの聖書引用」の項を見てください。

 これらの引用箇所はみな、異邦人がイスラエルの神である主《ヤハウェ》を賛美することを主題にしています。「異邦人」という語は、一一節の引用詩篇の並行表現が示しているように、「諸民族・諸国民」と同じ意味です。パウロは、聖書がキリスト出現のずっと前から、世界の諸国民がイスラエルの神を賛美するようになることを預言していることを示して、キリストの出来事によって異邦人が異邦人のままでイスラエルの神を賛美するようになることを根拠づけます。
 こうして、モーセ律法の順守をめぐって生じた「強い者」と「弱い者」の対立について、「互いに相手を受け入れるように」という一四章から始まった勧告をここで終えて、使徒は祈りをもって締め括ります。この結びの祈りは、同時に一二章から始まったキリスト者としての歩みに関する勧告全体を締め括る祈りにもなっています。

勧告のむすび

 「どうか希望の神が、信じることによるあらゆる喜びと平和であなたがたを満たしてくださり、あなたがたが聖霊の力によって希望に溢れますように」。(一三節)

 「希望の神」と言う表現はここだけです。「希望の源である神」(新共同訳)と理解してよいでしょう。イスラエルの神、聖書の神は、約束と成就という救済史的構造で働かれる神ですから、すなわち、約束の言葉を与えることで信じる者が希望に生きるようにされる神ですから、本質的に「希望の神」です。パウロはこのイスラエルの神の本質を見事に表現しています。この神を信じることは、ヘブル書一一章が描くように、必然的に希望という姿を取ることになります。
 使徒は、「信じることによる喜びと平和」と言っています。《ピスティス》(信仰)という名詞ではなく、《ピステオー》(信じる)という動詞が用いられていることが注目されます。特定の信仰箇条を告白する「信仰」ではなく、約束された方の信実に自分をすべて投げ込む生き方が「信じる」ことです。このような生き方をする者に「あらゆる喜びと平和」が与えられます。その消息は、すでに五章一〜一一節で語られていましたが、勧告の最後にあたって、使徒は「希望の神が、信じることによるあらゆる喜びと平和であなたがたを満たしてくださる」ように祈ります。
 そしてさらに、「信じること」に伴う「聖霊の力によって」ローマの兄弟たちが、ひいてはこの勧告を聴くすべてのキリストの民が「希望に溢れる」ように祈ります。将来の約束を各人の内なる現実とするのは聖霊の力です。福音における希望とは、将来に対するたんなる願望ではなく、聖霊によって将来を先取りして現在に生きることです。この希望の姿はすでに八章で力強く語られていました。パウロは最後に、信じる者が希望に溢れることを祈って、勧告の部分を閉じます。ローマ書本体部分の最後を締め括るこの文(一三節)からも、キリストの福音において希望がいかに本質的な構成要素であるかがうかがわれます。

「宗教」の相対化

 ところで、このローマ集会の特殊な問題に関する勧告(一四・一〜一五・一三)においては、パウロの議論の進め方はなにか少し歯切れの悪い印象を与えます。おそらく主題がきわめて微妙な問題をはらんでいるので、使徒は断定的な議論を避けて、慎重な表現をとったのではないかと推察されます。その「微妙な問題」とは、やはりキリストの民の中におけるモーセ律法の位置の問題です。
 キリストにあって神の無条件絶対の恩恵によって義とされ救われるのにモーセ律法の順守は必要ではないという「福音の真理」に関しては、このローマ書の第一部に見られるように、パウロは断固とした主張をしています。とくに、もともとモーセ律法に関係のない異邦人にモーセ律法の順守を要求することについては、ガラテヤ書に見るように、パウロは命がけで反対しています。そこには何のあいまいさもありません。
 しかし、ここでは問題が違います。モーセ律法の順守という宗教的習慣の中に生きてきたユダヤ人がキリストを信じるようになったとき、モーセ律法に対してどのような態度をとるべきかという問題です。キリスト信仰によって救われることには変わりはありません。その上でモーセ律法順守の習慣(それがユダヤ教です)を続けるべきか、それともそのような習慣は不必要として放棄すべきかの問題です。
 多くのユダヤ人信徒は、キリストにおいて与えられた救いを感謝して受け入れつつ、これまでのユダヤ教の宗教的習慣を変える必要を感じることなく、またそれが信仰の妨げになると感じることなく続けていたと見られます。それに対して、パウロ自身を含む「強い者」は、キリストにあって御霊の命に生きるようになった今は、もはや外から行為を規制する養育係のような律法は必要ない(ガラテヤ三・二三〜二五)のだという理解と強い確信から、律法をもたない異邦人信徒との交わりのためにも、モーセ律法順守の必要はないとしました。そのような「強い者」の中には、モーセ律法を無視して、ユダヤ人でありながら「異邦人のように」振舞う人もあったようです。ここに、二つのグループがモーセ律法順守の問題をめぐって、互いに相手を批判し、交わりが妨げられることになります。
 このような事態に対して、パウロはモーセ律法が神の律法として有効か無効かを論じて、どちらかを支持し、他を断罪するという仕方ではなく、各人の確信の問題として、どちらの信仰生活もそれぞれ自分の確信に従って生きている限り、信仰を妨げるものではないとし、その上で「お互いに相手を受け入れるように」勧告します。
 そのさい使徒は、律法順守にこだわる「確信の弱い人たち」を、キリストの恩恵から落ちているなどと断罪することなく、しかも彼らの生き方を認めることがモーセ律法の絶対的な有効性(それを順守しないと救われないというような有効性)を認めるような発言にならないように、細心の注意を払いながら、言葉を選んで勧告します。その結果、この部分のパウロの議論が歯切れの悪い印象を与えるのではないかと考えられます。
 ところで、モーセ律法順守の習慣というのはユダヤ教のことですから、ここでパウロはキリスト信仰の中でユダヤ教という宗教をどのように取り扱えばよいのかという問題を論じていることになります。パウロが形成した集会はユダヤ人と異邦人の両者が混在した集会ですから、この問題は避けて通ることができませんでした。
 ところが、今はほとんどの集会にユダヤ人はいませんから、現在ではもはや問題にならないのでしょうか。この問題は使徒時代に限られる過去の問題に過ぎないのでしょうか。たしかに、現在ではユダヤ教を直接問題にしなければならない場面はほとんどないでしょう。しかし、ここで使徒がユダヤ教という宗教的習慣を取り扱っている仕方は、現在の福音宣教における「宗教」の扱い方に重要な示唆を与えています。
 福音は様々な「宗教」の中にいる人々をキリストの恩恵に招き入れます。福音によって招かれ、キリストにあって恩恵の場に生きるようになった者は、それまで自分が生きてきた「宗教」をどのように扱えばよいのでしょうか。
 ここで「宗教」という語は、人間の霊的次元の活動全体を広く指す用語としてではなく、それぞれの民族や共同体が歴史の中で受け継いできた(広い意味での)祭儀的習慣を指す用語として用いています。人間はみな何らかの形の「宗教」の中に生まれ落ち、その中で育ち、その中で生きています。そのような伝統的な宗教的習慣をどのように扱うかは、現在においても福音の重要課題です。
 そこで、パウロがモーセ律法順守の習慣(それがユダヤ教という「宗教」です)を取り扱っている仕方が、現在のわたしたちに大きな示唆と指針を与えます。結論を言うと、使徒はここでユダヤ教という「宗教」を相対化していると言えます。すなわち、モーセ律法の順守は救いに絶対的に必要なものではないから、順守しなくても神に生きることに差し支えはないが、それを順守して神に仕えることも一つの生き方であることを認めることができるというのです。パウロは、モーセ律法の順守というユダヤ教を否定したのではありません。それが救いに不可欠であるとするユダヤ教の絶対性を否定したのです。その上で、ユダヤ教の外で生きる生き方も、ユダヤ教の中に生きる生き方も受け入れているのです。これがユダヤ教を「相対化」するということです。
 今まで絶対的とされてきた「宗教」を相対化するためには、「宗教」以外に人を救う絶対的な根拠が必要です。福音においては、その絶対的な根拠はキリストです。キリストにおいて与えられている神の絶対恩恵です。この箇所では、「キリストがあなたがた(両方の者)を受け入れてくださった」という事実(七節)が、このユダヤ教の相対化を可能にしています。
 実はヨハネ福音書も「宗教」の相対化を明確に主張しています。ヨハネ共同体は、その形成の過程でサマリア人(サマリア教徒)を含むようになったと見られますが、この福音書のイエスは「この山(ゲリジム山)でも、エルサレムでもなく、父を礼拝する時が来る」と宣言されます。すなわち、ヨハネ福音書は、ゲリジム山でのサマリア教という「宗教」でもなく、エルサレム神殿におけるユダヤ教という「宗教」でもなく、「御霊と真理によって父を礼拝する時が来る。今がその時である」と告知するのです(ヨハネ福音書四章)。「御霊と真理による礼拝」という絶対的な根拠によってサマリア教とユダヤ教が相対化されているのです。
 この「宗教」の相対化の問題は、現在の福音宣教に課せられた大きな課題ですが、この講解の範囲をはるかに超えますので、ここではローマ書のこの箇所がこの課題に示唆を与えていることを指摘するに止めます。

 「宗教」の相対化については、拙著『教会の外のキリスト』の終章「キリストの絶対性とキリスト教の相対性」を参照してください。