市川喜一著作集 > 第13巻 パウロによる福音書 ― ローマ書講解U > 第16講

第二節 これからの計画

43 ローマ訪問の計画 (15章 22〜33節)

 22 こういうわけで、わたしはこれまで幾度もあなたがたのところに行くことを妨げられてきました。 23 しかし今や、この地域にはもはや余地がないので、また、わたしは永年あなたがたのところへ行くことを切望してきたので、 24 イスパニアに行くようになる場合には、途中であなたがたに会い、まず幾分でもあなたがたとの交わりが満たされたならば、あなたがたによってイスパニアに送り出してもらうことを願っています。
 25 しかし今は、聖徒たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。 26 マケドニア州とアカイア州の人たちが、エルサレムの聖徒たちの貧しい人々に幾分かの援助をするように、進んで同意したからです。 27 たしかに彼らは進んで同意しましたが、彼らには聖徒たちに負い目もあるのです。異邦人が聖徒たちの霊的なものに与ったとするならば、異邦人は肉のもので聖徒たちに奉仕する負い目があるからです。 28 このことを成し遂げ、この実を確実に手渡した後、わたしはあなたがたのところを経由してイスパニアへ行きます。 29 あなたがたのところに行くときには、キリストの溢れる祝福を持って行くことになると思っています。
 30 兄弟がたよ、わたしたちの主イエス・キリストにより、また御霊の愛によってお願いします。わたしと一緒に力を尽くして、わたしのために神に祈っていただきたい。 31 すなわち、わたしがユダヤの不信の者たちから救われ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖徒たちに受け入れられるものとなるように、 32 そして、神の御心によって喜びをもってあなたがたのところに到着し、あなたがたと共に憩うことができるように祈ってもらいたい。 33 平和の神があなたがた一同と共にいてくださるように。アーメン。

ローマ訪問とイスパニア伝道の予定

 他の手紙でもしているように、パウロは手紙の終わりでこれからの行動予定を知らせます。パウロは手紙の前置きのところでローマ訪問の熱い願いを述べていました(一・八〜一五)。手紙の結びを書くにあたって、ローマを訪れたいという切望を再度述べるとともに、それを具体的な予定として表明します(二二〜二四節)。

 「こういうわけで、わたしはこれまで幾度もあなたがたのところに行くことを妨げられてきました」。
(二二節)

 「こういうわけで」というのは、直前(一四〜二一節)に述べた異邦人への使徒としての使命から、「キリストの名がまだ知られていない所で福音を宣べ伝える」働きをまず果たさなければならない事情を指しています。それで、ローマを訪れることはすぐにはできなかったわけです。
 異邦諸国民に福音を伝える働きを進めてきたパウロは、アンティオキアを出て以来西に向かって急いでいます。パウロが目指す先には、異邦諸国民を統括する帝国の首都ローマがあったことは、パウロ自身がこの言葉によって打ち明けています。ところが、このように使命を果たす必要からだけでなく、騒乱や反対運動に妨げられて一度ならず進路を違う方向に変えなければなりませんでした。パウロはそのことを「これまで幾度もあなたがたのところに行くことを妨げられてきました」と言っています。ローマを目前にしているのに、やむをえない状況に迫られて、反対の東に向かいエルサレムに急がなければならないことも起こりました(使徒一八・一八〜二二)。そのような時にもローマを目指すパウロの決意は固かったことを、ルカは「わたしはそこ(エルサレム)へ行った後、ローマを見なくてはならない」というパウロの言葉として描いています(使徒一九・二一)。

 「しかし今や、この地域にはもはや余地がないので」。(二三節前半)

 今パウロは「エルサレムからイリリコン州まで」(一五・一九)、すなわちローマ帝国の東半分の地域での宣教の働きを終えて、コリントに来ています。「今や、この地域にはもはや(福音のために働くべき)余地がない」と言える段階です。東半分での使命を果たした今、西に向かい念願の帝都ローマを訪れることができる時が来ました。
 当時ローマ帝国の重要な部分である北アフリカは視野に入っていないようです。パウロの目は地中海北側の西半分の地域(そこにはガリアも含まれます)に向かい、ガリアを越えてその西端、すなわちイスパニア(現在のスペイン)を目指します。おそらく、当時ローマから到達するには海路で直行できるイスパニアの方が、かえって身近な目標となったものと思われます。

 「また、わたしは永年あなたがたのところへ行くことを切望してきたので」。(二三節後半)

 イスパニアへ行くようになる場合には、ローマを素通りしたくない、是非ともローマを訪れたいという希望を、それが永年の切望であったことを述べて理由付けます。このような言い方は、「他人の土台の上に建てるようなことはしない」(二〇節)ことを原則としてきたパウロが、自分が建てて指導してきたのではないローマの集会で働こうとしていることへの理解を求める気持ちがあるからでしょう。パウロは異邦諸国民への使徒として、帝都に働きの拠点をもつことを切望していますが、それをローマの兄弟たちに理解してほしいのです。

 「イスパニアに行くようになる場合には、途中であなたがたに会い、まず幾分でもあなたがたとの交わりが満たされたならば、あなたがたによってイスパニアに送り出してもらうことを願っています」。
(二四節)

 パウロはイスパニアに行くことを決めていますが(本節後半、二八節)、ここでは「行くようになる場合には」と接続法を用いて、断定的な言い方を避けています。自分としてはイスパニアに行くことを決意し計画を立てているが、主が許してくださるならば(状況が許すならば)実際に行くことになるであろうが、その場合には、という気持ちでしょう。
 そして、「途中であなたがたに会い」という言い方にも、ローマに滞在して宣教活動をすることが目的でないことを示唆して、この場合も「他人の土台の上に建てるようなことはしない」という原則を貫こうとするパウロの気持ちを滲ませています。
 「幾分でもあなたがたとの交わりが満たされたならば」という言い方も、自分が建てたのではないローマ集会に対するパウロの控え目な態度が出ています。使徒としての権威をもって教えたり命令したりするのではなく、同じ信仰に生き、福音のために共に働く同志として、対等の立場で交わりを求めます。パウロは「前置き」でローマ訪問の目的を、「わたしがあなたがたに会うことを熱望しているのは、あなたがたに御霊の賜物をいくらかでも分け与えて、あなたがたを強めたいからです。いやむしろ、あなたがたの中で、お互いの信仰、すなわち、あなたがたの信仰とわたしの信仰によって、共に励まされたいからです」と言っていました(一・一一〜一二)。しばらくでも滞在してこの願いが満たされたならば、それでローマ訪問の目的は達せられたのであり、こうしてローマ集会とパウロの信頼関係が確立すれば、「あなたがたによってイスパニアに送り出してもらう」ことができるようになります。
 「幾分でも」と抑制した言い方をしているのは、ローマに腰を据えて活動するつもりはないのですから、十分なことは望めないにしても、「幾分でも交わりが満たされ」、信頼関係ができあがり、異邦人への使徒としてのパウロの使命が理解されれば、という気持ちでしょう。
 パウロは、イスパニア伝道という大きな計画にローマの集会が参加して、背後から支援してくれることを期待しています。「あなたがたによってイスパニアに送り出してもらうこと」の中にどのような内容が期待されているのか、具体的には何も言っていませんが、アカイア州ではコリントが、アジア州ではエフェソが周辺地域への宣教活動の拠点となったように、ローマが帝国西部への新しい宣教活動の拠点となることを期待していると見てよいでしょう。
 地の果てまで福音を伝えるという《エクレーシア》の使命を共にすることにより、そのために共に祈ることが何よりの支援ですが、具体的には協力者の提供とか金銭的な援助が考えられます。後で(一六章の個人的挨拶の段落で)見るように、パウロはローマの諸集会に多くの同志をもっていますから、その中から協力者を期待していたことは考えられます。しかし、金銭的な援助については、当時のローマ諸集会がどれほどの経済力を持っていたかが分かりませんので推察は困難ですが、たとえそれがなくても、これまでしてきたように天幕造りの仕事をしながら福音のための活動をする覚悟はしていたはずです。パウロは最後まで独立伝道者として活動する決意であったと推察しますが、ローマ集会の理解と祈り、そして何らかの協力という支援を期待し、それを「あなたがたによって送り出してもらうことを願っています」と表現します。
 これまで活動してきた帝国東部の諸州とは違い、ガリアとかイスパニアというような帝国西部の諸州は、まだ誰も福音をもたらしていない処女地であったと考えられます。常に処女地を求めて開拓伝道を進めようとするパウロの姿勢に、主から選ばれた「異邦人の使徒」パウロの真面目が出ています。しかも、それを独立で貫こうとするパウロの気概に聖霊の力を実感します。

エルサレム訪問の必要

 「しかし今は、聖徒たちに仕えるためにエルサレムへ行きます」。(二五節)

 パウロはこの手紙をコリントで書いています。コリントから海路西に向かえばイタリア本土はすぐそこです。永年訪れることを切望してきたローマは目の前です。「しかし今は」正反対の東に向かい、はるか遠くにあるエルサレムに向かって出発しようとしています。どうしてもそうしなければならない事情があるのです。
 エフェソでコリント第一書簡を書いた時点では、異邦人諸集会の代表たちと一緒に自分もエルサレムへ行くかどうかは決めていませんでした(コリントT一六・四)。ここでやはり自分も一緒に行くことを決心しています。この時点でのパウロのエルサレム行きは、このエルサレム訪問がパウロの働きの成否を左右する重大な意味をもつものであると、パウロが考えていたことをうかがわせます。
 この段落の「聖徒たち」はユダヤ人信徒で構成されるエルサレム教団を指しています。エルサレムの「聖徒たち」がユダヤ人キリスト教を代表する表現であることは、二七節で「聖徒たち」が異邦人と対照されて語られていることからも確認されます。
 「仕えるために」というのは、具体的には異邦人諸集会で集めた献金を手渡すことを指しています(二八節およびコリントT一六・一〜四参照)。

 「マケドニア州とアカイア州の人たちが、エルサレムの聖徒たちの貧しい人々に幾分かの援助をするように、進んで同意したからです」。(二六節)

 マケドニア州にはフィリピ、テサロニケ、ベレアが、アカイア州にはコリントがあります。これらの諸都市と周辺地域の集会の人たちが、「エルサレムの聖徒たちの貧しい人々に幾分かの援助をするように、進んで同意しました」。ここでこの二つの州だけが名をあげられているのは、今、献金を携えてエルサレムに向けて出発しようと、パウロと一緒にコリントで待機しているのは、この二州の人たちだからであると考えられます。
 パウロは二年半あまりのエフェソでの活動を終えて、マケドニア経由で今はアカイア州のコリントに来ていますが、この旅は募金旅行であり(コリントU八章と九章)、マケドニア州の諸集会の代表が彼らの献金を携えてパウロと一緒にコリントに来ていると考えられます。アジア州(その州都がエフェソ)も当然その募金活動に参加しているはずですが、アジア州の代表は海路エルサレムに向かうパウロ一行と途中で合流する予定であると見られるので、同行していないのでしょう(エルサレムへの航海の途中、パウロ一行がミレトスでエフェソ集会の代表者たちと会ったことについては使徒言行録二〇章が報告しています)。
 ガラテヤの諸集会については、募金活動が行われたことは伝えられていますが(コリントT一六・一)、ここには名があげられていません。ガラテヤではパウロに反対する「ユダヤ主義者」の活動が浸透して、ガラテヤの諸集会がパウロから離れ、この募金活動から脱落した可能性があります。しかし、地理的な位置からして、途中で合流する予定であったことも十分ありうるので、ガラテヤの諸集会が募金活動から脱落したのかどうかの判断の根拠にはなりません。
 エルサレム会議のとき、パウロには「無割礼の者たちへの福音」が委ねられましたが、そのさい「貧しい人たち」を顧みることが要望されました(ガラテヤ二・一〇)。この「貧しい人たち」はエルサレムの「聖徒たち」の別称です。最初期のユダヤ人信徒は、詩篇の敬虔や預言者の言葉、また身近なエッセネ派からの影響、そして何よりイエスの貧しい者たちへの幸いの言葉を受けて、自らを「貧しい者たち」と呼んでいました。
 このように「貧しい者たち」は宗教的な呼称ですが、この時代には実際に経済的に困窮していたと見られます。エルサレムに成立した最初期の信徒共同体は、エッセネ派共同体に倣って、資産を持ち寄って共同生活をしましたが、孤立した生活共同体は二十年あまりを経て、外からの援助を必要とする状況に陥っていたと考えられます。パウロの募金の手紙(コリントU八章と九章)には、実際の貧しさへの救援の呼びかけの面があります。

 ローマ書執筆の55年当時はもちろん、50年前後と見られるエルサレム会議も、エルサレム教団成立から二十年近く経っていて、このような援助を必要とする状況があったと推察されます。
 なお、原文の「聖徒たちの貧しい人々」という表現は、「聖徒たちの中の(一部の)貧しい人々」と理解するか、「聖徒たちという貧しい者たち」と理解するか、両方の理解が可能です。ガラテヤ書(二・一〇)でエルサレムの聖徒たち全体が「貧しい者」と呼ばれていることから、後者の理解が順当であると考えます。前者の理解では、献金の経済的意義が前面に出ますが、次節の理由づけが示すように、パウロはエルサレム集会自体を援助(奉仕)の対象としていると見られます。

 このように、パウロの募金活動はエルサレム会議の要望に応える救援活動ですが、同時にユダヤ人と異邦人がキリストにあって一つにされることを願ったパウロの悲願の実践でもあります。この援助を受け入れることは、ユダヤ人共同体が無割礼の異邦人信徒を同じ主に属する民として受け入れることを意味します。そのようになることを願って、パウロはこの募金活動を熱心に進めてきました。しかし、律法に熱心なユダヤ人にとって、これがいかに難しいことかは、パウロは十分に承知しています(一五・三一)。
 このような悲願をこめたパウロの献金の呼びかけに、異邦人集会の人たちは「喜んで」応じました。そして、彼らが進んで同意したことの霊的意義が続いて語られます。

 「たしかに彼らは進んで同意しましたが、彼らには聖徒たちに負い目もあるのです。異邦人が聖徒たちの霊的なものに与ったとするならば、異邦人は肉のもので聖徒たちに奉仕する負い目があるからです」。
(二七節)

 「彼ら」、すなわち異邦人信徒たちは、「聖徒たち」、すなわちエルサレムのユダヤ人信徒たちに「負い目がある」のです。イエスの直弟子たちとその周囲に集まったユダヤ人信徒の共同体は、福音の土壌であるイスラエルの宗教的伝統、イエスの言葉や働きの伝承(イエス伝承)、復活者キリストの体験と告白(キリスト伝承)を保持する共同体であり、異邦人はこの根につながることによって霊的な救済の現実に与ることになるのです。このことをパウロは、「異邦人が聖徒たちの霊的なものに与った」と表現します。異邦人は「オリーブの根の養分にあずかる者になった」のです。ですから、パウロは異邦人に向かって「あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです」と言います(一一・一七〜一八)。
 そうであるならば、異邦人は「聖徒たちに負い目がある」立場ですから、「肉のもので聖徒たちに奉仕する負い目がある」ことになります。この場合の「肉のもの」は物質的なものを指します。具体的には、金銭の援助で奉仕するという負い目(義務、責任)があることになります。

 「このことを成し遂げ、この実を確実に手渡した後、わたしはあなたがたのところを経由してイスパニアへ行きます」。(二八節)

 「このこと」、すなわち「聖徒たちに仕えること」(二五節、二七節)を成し遂げるとは、「この実を確実に手渡す」ことと同じです。「この実」とは、異邦人諸集会から集めた援助の寄金を指し、それは異邦人信徒たちの愛の実であると同時に、パウロが祭司として神に献げる「献げ物」でもあります(一五・一六)。
 「確実に手渡した後」と言っていますが、ここに用いられている動詞はもともと「封印する」とか「証印を押す」という動詞で、正式に受け取ったという証印をもらって引き渡すという意味で用いられているので、「確実に手渡す」と訳しています。このような言い方にも、この献金がエルサレムの指導者たちに問題なく受け入れられるかどうかについて、パウロが不安を感じていることがうかがえます。
 この使命を成し遂げた後、パウロは念願のローマ訪問を果たし、ローマを経由してイスパニアに行く計画です。ローマを経由することは、たんにイスパニアに行く旅程の問題ではなく、パウロのこれからの福音活動にとって重要な意義をもつ一段階であることは、ここ(二二〜二四節)で控えめな表現ながら語り、ローマの兄弟たちに理解してもらおうとしました。

 「あなたがたのところに行くときには、キリストの溢れる祝福を持って行くことになると思っています」。(二九節)

 ローマ訪問は、パウロがこれから成し遂げようとしているイスパニア伝道の拠点として期待している面がありますが、それだけでなく、使徒としてローマの兄弟たちに「キリストの祝福」をもたらすという一面があります。パウロは訪れることを永年切望していたローマに、 手ぶらで行くのではありません。これまでキリストの使徒として受けてきた御霊の賜物のすべてを携え、それをローマの兄弟たちに分かち与えるために行くのです。
 パウロは使徒として、「キリストの祝福の充満をもって」(直訳)ローマを訪れようとしています。その「キリストの祝福」の豊かさは、すでにこの書簡(ローマ書)に詳しく展開されていました。今その実質を携えて、その体現者である使徒自身がローマに行こうとしています。後で見るように、パウロは計画したイスパニア伝道の途上でローマに到着したのではなく、囚人としてローマに護送されてきます。しかし、どのような形であれ、使徒パウロ自身からこのような「キリストの祝福」を直接受けることができたローマの兄弟たちは、なんと恵まれていることでしょうか。

共に祈るようにとの願い

 「兄弟がたよ、わたしたちの主イエス・キリストにより、また御霊の愛によってお願いします。わたしと一緒に力を尽くして、わたしのために神に祈っていただきたい」。(三〇節)

 パウロは、まだ会ったことのないローマの兄弟たちに、「兄弟がたよ」と呼びかけ、「わたしたちの主イエス・キリストにより」、すなわち同じ主イエス・キリストに属する者として、また「御霊の愛によって」一緒に祈るように願います。「御霊の愛によって」とは、同じ御霊が与えてくださっている愛による交わりにある者として、という意味ですが、この句が加えられているところに、パウロが御霊による交わりを現実として強く感じていることがうかがえます。
 パウロはローマの兄弟たちに、「祈りにおいてわたしと一緒に苦闘してください」(直訳)と願っています。「わたしと一緒に力を尽くして祈ってください」と訳していますが、「苦闘する」という語を使っていることに、この時のパウロの心境がうかがえます。この動詞は《アゴニア》(苦悩)と同系の動詞ですが、この語は(辞書によると)もともとは競技を開始する直前の心理を指す語であるとのことです。パウロは今エルサレムに上って、異邦人伝道の実を献げて祭司の務めを果たそうとしていますが、これがいかに困難で危険な務めであるかを十分自覚しています。この困難で危険な決勝戦を目前にして、パウロは《アゴニア》(苦悩)の中で祈っています。そして、ローマの兄弟たちに、パウロの苦悩を理解して、「一緒に苦闘する」ように願うのです。
 パウロは「わたしのために」祈ってくださいと願っていますが、これはパウロが危険から救われるようにという個人的な願いだけではなく、パウロがこのエルサレム行きで果たそうとしている福音のための課題、すなわちユダヤ人と異邦人からなる一つのエクレシアの形成という課題の実現のための祈りも含んでいます。その願いの内容は、続く三一〜三二節の三つの副文で表現されています。この訳では「すなわち」で続けています。

 「すなわち、わたしがユダヤの不信の者たちから救われ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖徒たちに受け入れられるものとなるように」、(三一節)

 「ユダヤの不信の者たち」とは、イエスをキリストと認めないエルサレムと周辺地域のユダヤ人たちです。ローマ書執筆当時(50年代半ば)のユダヤは、熱心党の活動の影響もあって、律法(モーセ律法と父祖の伝承)順守の熱意が高揚しており、エルサレム教団は孤立していました。エルサレム教団は、律法順守で評判の高い「義人ヤコブ」を代表に立ててかろうじて存続していましたが、そのヤコブも62年に「ユダヤの不信の者たち」によって殺されます。
 そのようなエルサレムに入ることは、これまでも律法を汚す者として命を狙われていたパウロにとってどれほど危険なことであるかを、パウロは十分自覚しています。今回のエルサレム上京の目的を果たすためには、まずこの危険から救われなければなりません。しかし、その上でなお、「エルサレムに対するわたしの奉仕」、すなわち命がけで持参した異邦人集会からの献金が、「聖徒たちに受け入れられる」かどうかが不確かなのです。
 献金を受け入れることはパウロの「無割礼の福音」を認めることになるとして、この献金の受け取りが拒否されることを、パウロは真剣に心配しています。エルサレム会議の合意にもかかわらず、エルサレム教団のユダヤ人指導層の中には、パウロの律法から自由な福音を拒否する勢力が強力であったことをうかがわせます。「前置き」の講解で見たように、ローマ書はエルサレムを「隠れた宛先」として、このようなエルサレム教団のユダヤ人指導層に対するパウロの福音の弁証という一面を持っているとも見られます。

 「そして、神の御心によって喜びをもってあなたがたのところに到着し、あなたがたと共に憩うことができるように祈ってもらいたい」。(三二節)

 そして、神の加護の下に、エルサレムでこの重大で危険な課題を無事果たした喜びをもってローマに到着し、ローマの兄弟たちとしばらくの間一緒に「憩うことができるように」、祈ってもらいたいと願います。「憩う」というのは、休息の日々が与えられるようということではなく、妨げられることのない平安の中で、お互いに信仰の励ましと賜物の分かち合いができるようにという願いでしょう。

 「平和の神があなたがた一同と共にいてくださるように。アーメン」。(三三節)

 この結びの挨拶をもって書簡の本文は一応終わります。この後に続く一六章の問題は別に扱います。