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第五章 大祭司キリスト

            ―― ヘブライ書のキリスト ――


            ( 本章で書名のない引用箇所はすべてヘブライ書の章節をさします。)

はじめに

 この「パウロ以後のキリストの福音」シリーズでは、パウロ以後の時代に、パウロ系の諸集会とその関連地域で、キリストの福音がどのような形と内容になっていったかをたどっています。それを知るためのおもな資料は、パウロの名によって書かれた書簡です。パウロが世を去った後、この地域で福音を担ったのはパウロの若き弟子たちであり、パウロ系の諸集会で育った次の世代の指導者たちでした。彼らは師に倣って、書簡の形で福音を提示し信徒を指導するために、「パウロの名による書簡」を書きました。こうして「使徒名書簡」の時代が始まります。
 しかし、パウロ以後の時代にキリストの福音を提示する文書は「パウロの名による書簡」だけではありません。ヨハネ黙示録のヨハネはパウロ系の人物ではありませんが、その預言は明らかにアジア州のパウロ系諸集会に向けられた書簡の形をとっており、当時この地域での福音信仰の重要な一面を示しています。今回取り上げる「ヘブライ人への手紙」も、パウロの名を用いた書簡ではありませんが、パウロ以後の時代にこの地域で成立した文書として、この時代の「キリストの福音」の一面を知る上で重要な文書です。このシリーズでは、パウロの名による書簡と、パウロの名を用いていなくてもこの時代に成立したパウロと関連のある書簡を取り上げて、「パウロ以後のキリストの福音」を追求していきます。



第一節 ヘブライ書の成立

誰に宛てられた手紙か

 新約聖書に「ヘブライ人への手紙」という名称で収められているこの文書は、手紙の形式は最後の結びのところ(一三・二二〜二五)に僅かに見られるだけで、手紙には欠かせない最初の「誰から誰へ」と差出人と宛先人を表示する部分と挨拶がありません。したがって差出人(著者)が誰で、受取人がどのような人々であったのか、文書の内容から推察する他はなく、確実なことは分かりません。
 「ヘブライ人への手紙」という名称は、受取人がヘブライ人すなわちユダヤ人であるとしていますが、これも内容から推察して後の時代の人がつけた名であって、厳密に読むと必ずしも宛先をユダヤ人に限定することはできません。この文書がユダヤ人キリスト教徒に宛てられた手紙であると推察する主要な根拠は、著者がいつも旧約聖書を典拠として議論をしている事実ですが、これは決定的ではありません。すでにパウロも異邦人が多いガラテヤやコリントの集会に宛てた手紙で、旧約聖書を多く引用し、その解釈を論拠にして議論を進めています。パウロの時代からさらに数十年後の本書の時代には、異邦人信徒も当時の彼らにとって唯一の聖典である旧約聖書(七十人訳ギリシア語聖書)に習熟し、キリスト信仰を旧約聖書によって根拠づける議論には慣れていたはずです。
 宛先を示唆する唯一の手がかりは、結びの挨拶にある「イタリア出身の人たちが、あなたがたによろしくと言っています」(一三・二四)という表現です。この「イタリア出身の人たち」という句の原語は、イタリア在住の人たちという意味にも、イタリア以外の地に在るイタリア人という意味にもなります。イタリア在住の人たちだとすると、著者も一緒にいてイタリアから他の地の信徒たちに手紙を書いていることになります。その宛先の地はエルサレムだとかアレクサンドリアとか様々な都市が候補にあげられますが、どれも困難をかかえています。これはやはり著者がイタリア以外の地(たとえばエフェソ)にいて、そこからイタリアの信徒たちにこの手紙を送るときに、一緒にいるイタリア出身の人たちが故国の兄弟たちに挨拶を送っていると見る方が自然です(新共同訳もこの解釈)。そして、当時イタリアにあるキリスト者の集会としては、まずローマの集会が考えられます。ローマではユダヤ人信徒と異邦人信徒が混在していました。
 この解釈は、ローマのクレメンスの手紙にヘブライ書が引用されていることからも強められます。ローマのクレメンスが九五年頃にコリントの集会に宛てて書いた勧告の手紙(第一クレメンス書)に、ヘブライ書が直接間接に引用され、用語や議論の仕方にもヘブライ書との並行が見られます。このことからヘブライ書がローマでよく知られており、重んじられていたことがうかがえます。

いつ、どのような状況で書かれたのか

 第一クレメンス書に引用されていることから、ヘブライ書は九五年ごろまでに書かれたことが分かります。本書の内容(後述)から、パウロの時代からはかなり時が経っていることがうかがわれますので、八十年代から九十年代前半と見るのが順当でしょう。
 この時期はドミティアヌス帝(在位八一〜九六年)の時代と重なります。彼はネロの次にキリスト教徒を迫害した皇帝として有名ですが、その迫害の実体はよく分かっていません。時期や地域によってかなりばらつきがあり、まだローマ帝国による組織的迫害とは言えません。本書には過去の迫害に言及している箇所がありますが(一〇・三二〜三四)、その迫害がネロによる迫害(六四年)を指すのか、ドミティアヌスによる迫害を指すのか議論があります。「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」(一二・四)は、文脈からすると内面的な罪の力との戦いではなく、外から来る神に背く罪人との戦い、すなわち迫害を指していると考えられます。ネロの時もドミティアヌスの場合も迫害は組織的ではなく、同じローマでも殉教者を出したのは一部のグループであったと考えられます。当時はまだローマ教会という一つの教会があるのではなく、家庭ごとに集まる小さな集会が多くあり、本書の宛先の集団はそこまでの迫害を体験していなかったと理解しなければなりません。しかし、とにかく著者の時代(ドミティアヌス帝の時代)には迫害の予感があったようです。著者は迫害という外からの患難と試練に立ち向かう覚悟を繰り返しうながしています。
 宛先の集会の人たちは、信仰に入った初めの頃には「苦しい大きな戦いによく耐えた」のですが(一〇・三二)、その後の長年の信仰生活の中で安逸に馴れ、内的な緊張感を失い、その信仰生活にほころびが見え始めたようです。彼らの中には、集会から離れ(一〇・二五)、異なった教えに迷わされ(一三・九)、みだらな生活に陥る(一三・四)者たちも出てきたようです。このような内外の試練と危険な兆候を知って、かってこの集会の指導者であった著者が、遠くにいて直接語りかけることができない状況で、この勧告の書を書き送ったと見られます。
 なお、本書をユダヤ人キリスト教徒に向けられたと見る人たちは(そのように見る研究者もかなりあります)、イエス・キリストを信じることから生じる困難に疲れ果てて、元のユダヤ教に戻ろうとするユダヤ人に対して、イエス・キリストがユダヤ教の諸人物や諸祭儀と較べていかに優っているかを聖書に基づいて論証し、キリストへの信仰を励ますために書かれたとします。しかし、本書はユダヤ人キリスト教徒一般に宛てられた神学的論争の書ではなく、具体的な問題をかかえている特定の一集団に宛てられた勧告であり、この見方は不適切と思われます。

著者は誰か

 このヘブライ書は、洗練されたギリシア語で書かれており、一貫した文体とよく組織された構成で全体が貫かれています。このような文書を書いたのは、高い教養がある個人であると見なければなりません。それは誰でしょうか。手紙の始めにあるはずの差出人と宛先を表示する前書きがないので、推察する他はありません。
 本文中で著者を推察させる唯一の手がかりは、結びの中でテモテに言及している箇所(一三・二三)だけです。この箇所で著者はテモテと一緒に行動できる人物であることを示唆しています。そうなると第一に思い浮かぶ名前はパウロです。事実、すでに二世紀末、アレクサンドリアの教父たちは本書をパウロのものと見ていました。しかし同時に、そのギリシア語の用語や文体がパウロの書簡とは違うことも認めていたようで、パウロがヘブライ語で書いたものをルカとかローマのクレメンスがギリシア語に翻訳したという説明がなされていました。ただ、オリゲネスは「思想はパウロのものだが、文章はその後継者のものである。真の著者はただ神だけが知っておられる(=誰も知らない)」としました。
 このように東方では著者をパウロとする見方がありましたが、西方ではパウロのものとはされていません。ローマのクレメンスも、本書を引用していますがパウロのものとして引用しているのではありません。マルキオンもパウロ書簡集に本書を入れていません。ローマで成立したと見られるムラトリ正典表にもヘブライ書の名はありません。テリトゥリアヌスによると、西方ではバルナバの作と考えられていたようです。
 ところが東方ではパウロ説が有力となり、新約聖書正典を決定したと言われる三六七年の「第三九復活節書簡」で、アタナシオスがパウロ書簡を一四と数え、ヘブライ書をその中に入れたことで、本書がパウロ書簡の一つとして正典の中に入れられることになります。その後一〇〇〇年以上にわたり、本書はパウロ書簡として扱われてきましたが、宗教改革の時代に文献批判が進み、パウロ説は疑問とされるようになりました。それ以後、ルターはアポロ、カルヴァンはルカかクレメンスを推定し、他にもバルナバやシラスなど様々な説が立てられました。しかし、現代に至るまで決定的な説はありません。
 著者の名は知ることができませんが、その人物像は本書の文体や内容から、ある程度描くことができます。高度なギリシア語能力と旧約聖書の深い理解から、著者は教養の高いヘレニスト・ユダヤ人(ギリシア語を用いるディアスポラのユダヤ人)であると見られます。著者はおそらくヘブライ語はできず、聖書はいつも七十人訳ギリシア語聖書を用いています。その聖書解釈は、アレクサンドリアのフィロンの流れにあることをうかがわせます。著者は、アレクサンドリアのヘレニスト・ユダヤ人の教養を深く身につけた人物であり、おそらくパウロの活動圏でキリストの福音に接し、信仰に入った人物であろうと考えられます。ヘブライ書は、細かい点ではパウロとの違いも多々ありますが、基本的にはパウロの信仰を継承しており、パウロの影響抜きにはその成立が考えられません。しかもその論述は、パウロおよびヨハネ福音書と並んで、新約聖書における三つの大きな神学構想の一つであるとされます。その意味で、この手紙はパウロの名によって書かれたものではありませんが、パウロ以後の福音の姿を追求するにさいして、取り上げなければならない文書の一つとなります。

 アレクサンドリアのフィロンについては、H・ケスター『新しい新約聖書概説・上 ―ヘレニズム時代の歴史・文化・宗教』359頁、またはE・ローゼ『新約聖書の周辺世界』163頁の「アレクサンドリアのフィロン」の項を参照してください。

 では、なぜ著者はパウロの名を用いてこの書簡を書かなかったのでしょうか。それについてタイセンは、その著『新約聖書』で、テモテに言及する一三・二三の文言を次のように説明しています。
 「それはこのパウロに最も近かった同労者の名(テモテ)が手がかりになって、パウロ自身との関係が生じるだろうということである。これも偽名の著者を想定させるやり方なのだが、この手紙の本当の著者はあまりにも教養がありすぎて、自分ではあけすけに偽名をかかげるようなぶざまなことはできない。というわけで、読者自身がその偽名関係を読解しなければならない形になっているのである」。
 そうだとすると、最初に差出人の名を出さないのは意図的であることになります。著者の意図がそうであったのかどうかはともかく、結果としては本書は一〇〇〇年以上も、隠された形での「パウロの名による書簡」として通ってきたことになります。

ヘブライ書の性格と構成

 著者は結びのところで、自分が書き送った手紙についてこう言っています。
 「わたしはあなたたちに勧めます。兄弟たちよ、どうかこの勧告の言葉を受け容れてください。実際、わたしは手短に手紙で書き送ったのですから」(一三・二二私訳)。
 著者はこの手紙を「勧告の言葉」と呼んでいます。この表現は、この文書の性格をよく示しています。この手紙の実質は「勧告の言葉」です。実際の信仰生活の中で、様々な困難や誘惑に遭遇している信徒たちに、キリスト信仰に固く立つように励まし、情理を尽くして説き勧める説教です。そのさい、著者はまず自分たちが信じているキリストがいかに優れた方であり、頼るに値する方であるかを明らかにした後、キリストがこのような方であるから、このキリストに従い、信じ抜いて困難に立ち向かい、誘惑に打ち勝つように説き勧めます。このキリストの告知と実際的な勧告が交代で現れ、両者が緊密に織り合わされていることが本書の構成上の特色です。
 今回はヘブライ書の内容を節を追って詳しく講解することはできませんので、まずその勧告の概要を見て(第二節)、その後で著者のキリスト信仰とその告知の特色をまとめ(第三節)、「パウロ以後のキリストの福音」探求の一章といたします。

 ヘブライ書全体の詳しい註解はいろいろありますが、その中で、有賀鉄太郎『ヘブル書註解』(一九三五年、「現代新約聖書註解全書」の第一三巻として出版、『有賀鉄太郎著作集』第二巻所収)は、年代的にはやや古いものですが、ヘレニズム世界の思想や言語についての広範な学識と信仰の情熱が溶け合った、名著の誉れ高い註解書であり、今日でも十分有益です。本稿もこの註解に負うところが多いものです。