市川喜一著作集 > 第14巻 パウロ以後のキリストの福音 > 第24講

終章 パウロとパウロ以後

はじめに ― 時代区分について

 キリストの福音が歴史的に展開する跡をたどるさい、それぞれの時代における特質を理解することは、福音の本質を追究するうえで有益と考えられます。新約聖書を構成する諸文書が成立した時期を、福音の歴史的展開の「最初期」と呼ぶならば、この「最初期」は第一次ユダヤ戦争(66〜70年)を境として、その前の時期とその後の時期の二つに分かれます。話を簡潔にするため、その分かれ目をこの戦争のクライマックスをなすエルサレム陥落・エルサレム神殿崩壊の年(70年)としますと、30年のイエスの復活顕現から70年のエルサレム神殿崩壊までの四〇年間が前期、70年以後二世紀初頭までの四〇〜五〇年間の後期に分かれることになります。
 前期は使徒たちが活躍し、使徒たちの直接の指導下にあった時代です。ところが、60年代にはペトロとパウロという代表的な使徒が殉教して世を去り、他の使徒たちも年齢的に舞台から退場することになり、後半の時期は使徒たちの弟子、またさらにその弟子という第二世代、第三世代の後継者が福音を宣べ伝え、キリストの民を指導することになります。これらの第二世代、第三世代の後継者たちは、福音を証言したり、集会を指導したりする文書を書いたとき、それを使徒たちの名を用いて書き送りましたので、後期は(本書の「序章」で見たように)「使徒名書簡」の時代となるわけです。
 この二つの時期の区分は、たんに指導者の世代交代による傾向や特質の変化だけではありません。この二つの時期は、エルサレム神殿の崩壊という救済史的にきわめて重要な出来事によって区分されています。この出来事の前と後では、福音の理解や提示に重大な違いが出てきます。前期における福音の提示は、パウロの書簡によってほぼ確認できますので、後期の「使徒名書簡」によって提示されている福音の内容は、いつもパウロ書簡(問題なくパウロの真筆とされている七書簡)と比較しながら進めてきました。その具体的な比較は個々の使徒名書簡の講解でしてきましたが、最後にこの終章で、前期と後期では、すなわち、エルサレム神殿の崩壊の前と後では福音の理解と提示がどのように変化したかをまとめておきたいと思います。それは「パウロによるキリストの福音」と「パウロ以後のキリストの福音」の比較という形を取ることになります。

「ユダヤ人キリスト教」と「異邦人キリスト教」という用語について

 ところで、ユダヤ人の間で始まったイエスをメシア・キリストと信じる信仰運動は、かなり初期からギリシア語を話すユダヤ人によって異邦人にも伝えられ、イエスをキリストと言い表す信仰はユダヤ人以外の諸民族、すなわち異邦諸民族の間に広がっていきます。とくに使徒パウロの働きによって、主イエス・キリストを信じ言い表す信仰は、急速にヘレニズム世界に広がり、確立していきます。この過程を描くのに、一般に「ユダヤ人キリスト教」と「異邦人キリスト教」という用語が使われています。わたしもこの著作集(とくに「パウロによるキリストの福音」シリーズ)で、これまで一般の慣例的な用法に従って、この用語を使ってきました。
 しかしこの用語は、この時代の実態に合わず、誤解を招く不適切な用語です。というのは、この時代では、「ユダヤ人」とは「ユダヤ教徒」のことですから、「ユダヤ人キリスト教」というのは、「ユダヤ教徒のキリスト教」という意味になり、矛盾しています。ユダヤ教徒でイエスを信じた人たちは、ユダヤ教をやめたのではなく、あくまでユダヤ教徒としてイエスを信じたのです。この時にはまだキリスト教はありません。彼らはあくまでユダヤ教徒です。では、彼らのイエスをキリストと信じる信仰はどう表現すればよいのでしょうか。わたしは、この信仰を「イエス・キリストの信仰」または「キリストの信仰」と呼んだパウロの表現に従って、「イエス・キリスト信仰」または「キリスト信仰」と呼んでいます。それはまだユダヤ教と区別される「キリスト教」という別の宗教ではありません。キリスト信仰はユダヤ教の中で成立し、キリスト信仰の民はユダヤ教の内側に存在したのです。

 「ユダヤ人キリスト教」は、英語では Jewish Christianity と言われています。しかし最近、最初期にイエスをメシアと信じたユダヤ人の信仰、とくに「主の兄弟ヤコブ」に代表されるエルサレム共同体のユダヤ人の信仰は、 Jewish Christianity というより Christian Judaism と呼ぶ方が適切であるという主張が強くなっています。彼らは、ユダヤ教からChristianity という新しい宗教に変わったのではなく、ユダヤ教徒のままであり、彼らの宗教は Judaism(ユダヤ教)であるからです。ただ、そのユダヤ教がイエスをメシア・キリストと信じるという内容をもつ特別なユダヤ教になっただけです。このイエスをメシア・キリストと信じるという信仰を Christianという形容詞で表すならば、彼らの信仰はまさに Christian Judaism と呼ぶことができます。ここでの用語でいえば、「キリスト信仰のユダヤ教」ということになります。

 一方、新約聖書で「異邦人」というときは、ただユダヤ人以外の民族を指しているのではなく、ユダヤ教徒でない民、すなわちユダヤ教から見た異教徒を指しています。はじめの頃には、異教徒がイエスをメシア・キリストと信じて神の民となりうるとは、ユダヤ教徒には考えられませんでした。ところが、ステファノをはじめとするギリシア語系のユダヤ教徒によって、とくに使徒パウロの働きによって、福音がユダヤ教徒以外の民に伝えられ、異教徒の間にキリスト信仰が広がっていきます。異教徒でキリスト信仰を言い表す者を多く含む集会がアンティオキアに成立したときはじめて、彼らがユダヤ教徒《ユーダイオイ》とは別の民と認められるようになり、《クリスティアノイ》(キリストの民)と呼ばれるようになりました(使徒一一・二六)。ユダヤ教徒のキリスト信仰の民も、この異教徒のキリスト信仰を、同じ神の御霊によって与えられた信仰と認めざるをえませんでした。
 こうして、この時代の実態に即して表現すると、この時代にはキリスト信仰に、ユダヤ教徒のキリスト信仰、すなわち「ユダヤ教の枠の内のキリスト信仰」と、異教徒のキリスト信仰、すなわち「ユダヤ教の枠の外のキリスト信仰」という二つのタイプがあったと言わなければなりません。以後、表現を簡潔にするため「ユダヤ教内キリスト信仰」、「ユダヤ教外キリスト信仰」と呼ぶ場合もあります。
 同じキリスト信仰ですが、この二つのタイプのキリスト信仰の関わり方は、新約聖書の範囲内では複雑な様相を示しています。前期(エルサレム神殿崩壊以前)では、この二つのタイプのキリスト信仰の間には、激しい葛藤がありました。この関わりは、エルサレム神殿の崩壊を境目として劇的に変わります。後期、すなわちエルサレム神殿崩壊以後の「使徒名書簡」の時代には、ユダヤ教枠内のキリスト信仰は衰退し、やがて歴史の舞台から消えていきます。ユダヤ教枠内のキリスト信仰は、ユダヤ教とは別の宗教を生み出すことはありませんでした。それに対して、ユダヤ教外のキリスト信仰はますます拡大し、成長します。もともとユダヤ教の枠の外にあったのですから、そのキリスト信仰からやがて「キリスト教」という、ユダヤ教とは別の新しい宗教が生まれてくることになります。



第一節 使徒名書簡のキリスト信仰

律法(ユダヤ教)の問題

「律法」という語の用例における変化

 パウロとパウロ以後の福音提示の違いを考察しようとするとき、その手がかりとして文書に現れる用語の違いを見ますと、まず「律法」《ノモス》という用語の頻度の違いが目立ちます。パウロ自身が書いた七書簡(ギリシア語原文)では、《ノモス》という語が一一八回用いられています。これは、全新約聖書の一九四回の中の数字ですから、パウロがいかに《ノモス》の問題と格闘した使徒であるかが分かります。その中でもローマ書の七四回とガラテヤ書の三二回が突出しています。ローマ書とガラテヤ書で見てきたように、パウロはキリストの福音を語るとき、《ノモス》という語を繰り返し用いて、福音と《ノモス》の関係を論じています。他ではコリント第一書簡の九回とフィリピ書の三回だけです。「律法とは別の義」が論争の主題となったローマ書とガラテヤ書で多いのは当然の結果です。
 それに対して、パウロの名によって書かれた六書簡では、エフェソ書に一回、テモテ書Tに二回、計三回出てくるだけです。しかもエフェソ書(二・一五)の一回は、《ノモス》が廃されたことを語るところです。テモテ書T(一・八〜九)の二回は、律法が不法な者のために用いられるべきものであることを説くだけです。この事実からも、パウロにおいては大問題であった律法の問題が、パウロ名書簡では問題にならなくなっていることが分かります。なお、パウロ以後の書簡では、ヘブライ書に一四回出てきます。ここでは祭儀制度の規定としての律法が問題になっています。
 本書に先行する「パウロによるキリストの福音」シリーズ(ローマ書講解を含む五巻)で繰り返し論じましたように、パウロが《ノモス》というときは「ユダヤ教」の全体を意味することが大部分でした。パウロが「律法とは別に神の義が現れた」と叫び、「信仰による義」を高らかに唱えるとき、それはユダヤ教の枠の外で、ユダヤ教とは無関係に、キリスト信仰によって人は救われるのだという福音の提示でした。パウロはキリストの福音を提示するとき、人を救うキリスト信仰がユダヤ教の外で成立するものであることを、文字通り命がけで主張しました。この主張のために、パウロはユダヤ教を絶対化するユダヤ教徒から命を狙われ、ついにはこの主張が原因で殉教する結果になったのです。
 ところが、パウロ以後の時代になると、もやは《ノモス》の問題は取り上げられません。ユダヤ教との関係は問題ではなくなっています。なぜこのような違いが生じたのでしょうか、その理由を考えてみましょう。

変化の理由

 パウロがガラテヤ書やローマ書で激しく主張した「律法とは別の神の義」とか「信仰による義」の主張がよく理解されるようになって、次の世代ではもはやその問題は議論する必要がなくなったのでしょうか。たしかに年月が経って、パウロの福音がだんだんと理解されるようになったのは事実でしょう。少なくとも理解する人の数が増えたのは事実でしょう。しかし、理解の程度は外から判断することは困難です。だいたいこの時期にガラテヤ書やローマ書がどの程度流布して読まれていたかも分かりません。内的な理解の進展で、このような劇的な変化を説明することは困難です。このような変化には、外的な状況の劇的変化が予想されます。
 先の「時代区分について」の項で見ましたように、パウロの時代と「使徒名書簡」の時代との間には、エルサレムの陥落と神殿の崩壊というユダヤ教にとって決定的な出来事が起こっています。この出来事が、その前の時期と後の時期におけるキリストの民とユダヤ教との関係を劇的に変えることになります。
 66年から始まり70年のエルサレム陥落を頂点とする第一次ユダヤ戦争の時期に、エルサレム共同体はエルサレムから去り、辺境のペラに移ります。エルサレム共同体を率いてきた「主の兄弟ヤコブ」も、少し前の62年に殉教しています。このような状況によってエルサレム共同体は、イエスをメシア・キリストとして宣べ伝える新しい信仰運動の中核としての位置を失い、パレスチナのユダヤ教内のキリスト信仰運動は歴史の舞台から去っていきます。それに伴い、異邦人も割礼を受けてユダヤ教に改宗しなければ神の民とは認められないとして、パウロの時代には激しく活動した「ユダヤ化主義者」の活動も終息したと考えられます。70年以後の時期には、もはやパウロのようにキリスト信仰はユダヤ教の枠の外でも成立するのだと激しく主張して戦う必要がなくなっていたと見られます。
 70年を境として、ユダヤ教団とキリスト信仰の民との関係も劇的に変わっていました。それ以前の時期においては、イエスをキリストと信じる信仰運動もユダヤ教の中に存在することができました。ユダヤ教指導層は、キリストの民を危険なメシア運動の一派として弾圧しましたが、それでもなおユダヤ教内の対立であり弾圧でした。ところが、70年以後の時期においては、ファリサイ派主導のユダヤ教再建の過程で、黙示思想的メシア運動をもはやユダヤ教内の運動として認めることはできなくなり、ヤムニヤに再建された「法院」(かってのエルサレム最高法院を継承するユダヤ教の指導機関)は、イエスを信じるユダヤ教徒を異端者としてユダヤ教から放逐します。キリストの民は、そのユダヤ人メンバーがユダヤ教団に残るという形でユダヤ教団と重なる部分を持つことは、もはやできなくなります。パウロの時代にはその重なりがあったので、パウロはユダヤ教との関係を真剣に問題にしなければなりませんでした。その重なりの中の一部のユダヤ人が、キリストの民全体をユダヤ教の枠の中に引き戻そうとしたので、パウロは激しく反対してガラテヤ書を書き、キリストの民をユダヤ教の枠の外へ解放するために戦ったのでした。
 ところが70年以後の時期においては、このような重なりがなくなり、ユダヤ教団とキリストの民は別の領域を形成するようになったので、キリストの民の内部でユダヤ教へ引き戻そうとする力と戦う必要はなくなりました。キリストの民は、完全にユダヤ教の枠の外で生きるようになります。ユダヤ教との関係は、自分たちを迫害する敵対的な教団を非難攻撃するだけのものとなりました。たとえばこの時期に成立したマタイ福音書は、その共同体の構成員がユダヤ人であり、自身はユダヤ教的体質を保持しながらも、ユダヤ教団に対してはただ偽善者として非難攻撃するだけになっています。その構成員の大部分が異邦人となってきているエーゲ海地域のパウロ系諸集会では、もはやユダヤ教との関係は問題にならなくなり、ここで見たように、当時ではユダヤ教を意味する「律法」という用語は、その文書に出てこなくなります。
 状況がこのように劇的に変化したのに伴い、思想的・神学的にも大きな変化が見られるようになります。パウロにおいては、イスラエルが神の救済史の担い手でした。「イスラエル」という名は、ユダヤ人を神との契約関係にある、神の働きの担い手として選ばれた民として見たときの呼び名です。従って、他では普通に「ユダヤ人」と呼んでいるパウロも、神の救済史の担い手として語るときは「イスラエル」と呼び、救済史におけるユダヤ人の立場を語るローマ書九〜一一章でこの呼び名を繰り返し用いています(新共同訳で一五回)。ところが、パウロ名書簡になると、エフェソ書(二・一二)で、読者が「イスラエルの民に属さない」ことを語る箇所に一回出てくるだけで、一切用いられなくなっています。ということは、使徒名書簡の時代においては、イスラエルは救済史の担い手ではなくなっていることを意味しています。ルカは、エルサレムの陥落を語る箇所で、その出来事を「異邦人の時代」の到来としています(ルカ二一・二四)。イスラエルではなく異邦人が神の救済の働きを担う時代が到来したことを見ているのです。イスラエルが救済史の担い手でなくなるとともに、そして(先の項で見たように)、キリスト信仰がユダヤ教の枠の外に踏み出したこともあって、救済史的思考そのものが衰退し、ギリシア的な宇宙論的な思考の枠組みが優勢になってきます。しかし、救済史的な枠組みと終末待望が消失したのではなく、底流として流れ続け、状況によっては表面に噴出します。この面を次の「終末待望の変化」の項で見ることになります。

終末待望の変化

来臨待望の衰退と終末の現在化

 もともと復活者イエスの来臨による神の支配の完成を待ち望む信仰共同体であったエルサレム共同体から始まる来臨待望が、福音の進展とともにどのように変化していったのか、先にやや詳しくたどりました(本書148頁の第三章第一節「来臨待望の変遷」)。それでここでは繰り返しませんが、そこで見たように、来臨待望の面でもエルサレム陥落・神殿崩壊が決定的な意義をもち、その前と後では来臨待望に大きな変化が見られます。それ以前の時代では、パウロも含め、キリストの民は復活者キリストが天から現れて、世界を裁き、神の支配を完成される終わりの日の到来を熱く待ち望んでいました。ユダヤ教における終末待望では、イスラエルの回復が中心にあり、異邦諸民族が回復されたイスラエルに加わることで神の民が完成されるとされていました。パウロもこのユダヤ教終末待望を共有しています(ローマ書九〜一一章)。ところが、イスラエルは回復されるどころか、その聖地エルサレムと神殿を異教徒ローマ人によって破壊されて、滅亡の危機に瀕します。この出来事は、キリストの民の間では、イエスを殺し、イエスを信じる民を迫害し、義人ヤコブを殺したイスラエルに対する神の審判と理解されて、もはやイスラエルを中核とする終末的完成の希望は成り立たなくなります。「人の子」の来臨を待望するエルサレム共同体が舞台から退場するにともない、ユダヤ教黙示思想の影響は急速に退潮します。

 エルサレム共同体が「人の子」の到来を待ち望む黙示思想的終末待望の集団であったことについては、本書附論第一章の「ユダヤ教内のキリスト信仰―主の兄弟ヤコブとヤコブ書」、とくに第四節最後の「ヤコブと黙示思想」の項を参照してください。

 その結果、70年以後の「使徒名書簡」では、《パルーシア》(来臨)という用語が出てこなくなります。パウロが《パルーシア》という用語を用いているのは五回だけですが、主が「来られる時」とか「現れる時」、また「主の日」や栄光の「顕現」などの表現で、終わりの日の主キリストの到来を繰り返し語り、最後まで熱烈に待ち望んでいます(ローマ八・一八〜二五)。それに対して、コロサイ書やエフェソ書や牧会書簡などのパウロ名書簡になると、《パルーシア》という用語が出てこないだけでなく、終わりの日の来臨に触れることがほとんどなくなります。パウロ以後の福音理解を代表するコロサイ書やエフェソ書は、もはや目を将来に向けるのではなく、目を上に向けて、天上にいますキリストに満たされることを信仰の目標とするようになります。
 これはパウロ以後の時代の一般的な傾向ですが、迫害など特殊な状況では、例外的に黙示思想的終末待望が燃え上がり、キリストの来臨待望が熱烈に表現されることがあります。ヨハネ黙示録はその代表例です(しかしヨハネ黙示録には《パルーシア》という用語は出てきません)。パウロ名書簡にも、テサロニケ第二書簡のように、テサロニケ第一書簡を継承して黙示思想的な傾向を示す文書も現れています。テサロニケ第二書簡では、一回だけですが《パルーシア》という用語が出てきます。
 ペトロ第一書簡も迫害という特殊な状況において成立したと見られますが、使徒名書簡の中で独自の終末観を示しています。この書簡は、終わりの日が差し迫っていることを強調して、迫害に直面している信徒を励ましています。ペトロの名によって書かれたこの書簡は、ペトロの来臨待望の姿勢を忠実に継承したのでしょう。しかし、キリストの到来を語るのに《パルーシア》という語を用いることはなく、もっぱら《アポカリュプシス》(顕現)という表現を用いています。これは、パウロの協力者であったシルワノあるいはシルワノ周辺の著者が、パウロの福音理解の一面をしっかり継承している結果だと、わたしは思います。すなわち、パウロにおいては黙示思想的な終末待望がなお生きていましたが、一面キリストにあってすでに終末の事態である新しい質の命が来ているのだ、わたしたちはいま現在キリストにあって聖霊によってその命に生きているのだという自覚がありました。栄光のキリストは、今はおられないが将来突然に来臨されるのではなく、すでにわたしたちの内に隠された姿で生きておられるのだから、いわゆるキリストの《パルーシア》とは、その隠された姿のキリストの栄光が現れることに他ならないという理解です。それが、終わりの時を語るのに、《パルーシア》(来臨)ではなく《アポカリュプシス》(顕現)という語だけを(三回)使わせたと考えられます。ここに終末の「現在化」の一つの現れが見られます。

復活信仰の現在化

 この終末の現在化は、とくに復活信仰に著しい形で見られます。パウロにおいては、復活は将来の希望でした。イエスはすでに復活されましたが、その出来事は将来のわたしたちの復活を保証する「初穂」と理解されていました。パウロが、キリストにある者の復活を語るときはいつも未来形の動詞を用いていました(ローマ六・五)。ところが、コロサイ書やエフェソ書になると、わたしたちの復活が過去形で語られるようになります(コロサイ二・一二、三・一、エフェソ二・六)。わたしたちはすでにキリストにあって、キリストと共に復活させられたのです。したがって、コロサイ書やエフェソ書は、将来の復活を語ることはありません。パウロにおいて、将来の終末的な復活を語るのに用いられていた《アナスタシス》(復活)という用語は、コロサイ書やエフェソ書には出てきません。
 しかし、この違いはパウロ名書簡のキリスト信仰がパウロのキリスト信仰の質とは違ってきたことを意味するのではなく、用語の違いと視点の違いを意味するものです。パウロも、将来の終末的な復活《アナスタシス》を待望しつつ、キリストにあって現在すでに新しい命に生きている現実を強調しました。その命は復活に至る命、復活に至らざるをえない質の命として語られていました。わたしたちが死に定められたこの生まれながらの命とは別に、上からの新しい質の命に生きるようになったことを、ペトロ第一書簡の著者は「神はわたしたちを新たに生まれさせた」(一・三、二三)と言い、コロサイ・エフェソ書は「キリストと共に復活させた」と表現するのです。このように復活を現在の霊的現実として表現する傾向は、ヨハネ福音書に至って頂点に達します。
 このような復活信仰における表現の違いは、パウロとパウロ以後の時代のキリスト信仰における視点の違いによるところが大きいと考えられます。パウロにおいてはまだユダヤ教の救済史的な思考の枠組みとか視点が強く残っています。その視点で見るとき、わたしたちの復活は将来の終末的出来事として語らなければなりません。ところが、使徒名書簡の時代は、思考の枠組みそのものがユダヤ教的なものからギリシア的なものに移っていますから、本来終末的な復活が、現在の霊的・空間的なイメージ(ギリシア思想特有の宇宙論的霊的空間)で語られるようになったと見られます。それで、キリストにあって賜っている復活を目指す新しい命が、上から与えられている現在の体験として、それが「新生」とか「復活」という用語で語られることになります。

エクレシア理解の進展

《エクレーシア》の用例

 ここでも、キリストに所属する民の共同体を指す用語が、パウロとパウロ以後とではその用い方が違ってきていることを手がかりにして、パウロ以後のエクレシア理解の進展を見ていきます。パウロ書簡でもパウロ以後のパウロ名書簡でも、キリストの民の共同体を指すのに《エクレーシア》というギリシア語が使われていることは同じです。このギリシア語はもともとギリシアの《ポリス》(都市国家)で招集された市民の集会を指すのに用いられた語ですが、それがイスラエルの《カーハール》(会衆を意味するヘブライ語)の訳語として(《シュナゴゲー》と共に)七十人訳ギリシア語聖書で用いられ、新約聖書でもその用語が継承されて、キリストを信じる人たちの集団あるいは集会を指す用語となりました。ところが、子細に検討すると、パウロと使徒名書簡(とくにパウロ名書簡)とでは、その用い方に違いがあり、その違いにパウロ以後の時代においてエクレシア理解が進展していることがうかがわれます。
 もともとイエスをキリストと信じる者たちの共同体は「神の会衆」《エクレーシア・トゥ・テウー》と呼ばれました(テサロニケT二・一四、コリントT一・二、コリントU一・一などパウロ書簡に多数)。これはユダヤ教黙示文書(死海文書など)において終末時に形成される神の民を指すのに用いられた《カハル・エール》(神の会衆)というヘブライ語のギリシア語訳です。エルサレムに成立した最初期のキリスト者の共同体は、自分たちをそのような終末的な「神の会衆」と自覚し、自らを「神の会衆」《エクレーシア・トゥ・テウー》と呼んだのです。その後、《シュナゴゲー》がユダヤ教会堂を指す用語になっていたこともあって、各地の《カーハール》(会衆)を指すのにもっぱら《エクレーシア》が用いられるようになったと考えられます。
 パウロもその七書簡で《エクレーシア》を四四回用いています。それは終末的な「神の会衆」を指していますが、「神の」がつかないで《エクレーシア》だけで用いられている時も、同じ内容の終末時に神に召された神の民を指していることに変わりはありません。ただ、パウロはその《エクレーシア》(会衆・集会)を複数形でよく用いています。たとえば「ガラテヤの諸集会」(ガラテヤ一・二)とか「ユダヤにある諸集会」(ガラテヤ一・二二)、「キリストのすべての集会」(ローマ一六・一六)、「神の諸集会」(コリントT一一・一六)などです。その「諸集会」の個々の集会を指すときは当然単数形で「誰それの家にある集会」というような形で出てきます(コリントT一六・一九、フィレモン二、ローマ一六・五)。また個別の集会での礼拝の在り方を指導するときにも、単数形で「集会」を用いています(コリントT一四章)。このような用例からすると、パウロはある地域の個々の集会を指すのに《エクレーシア》という語を使っていたことが分かります。しかし、それだけでなくある地域のキリスト者の全体を単数形で指す場合もありました(コリントT一・二)。また、《エクレーシア》の全体を人の身体の比喩で語るなど(コリントT一二・二七〜二八)、キリストの民の全体を視野に入れて語ることもありました。しかしそれはまれで、パウロにおいては《エクレーシア》は個々の具体的な集会を指していたと言えるでしょう。
 それに対して、コロサイ書やエフェソ書になると、《エクレーシア》はすべて(計一三回)単数形で用いられるようになり、それはキリストの民の総体を指しています。挨拶の部分に出てくる「ニンファと彼女の家にある集会」と「ラオディキアにある集会」(コロサイ四・一五〜一六)の二カ所は具体的な個別の集会を指していますが、他のすべての用例では、キリストの民の全体を指す単数形で出てきます。コロサイ書とエフェソ書の講解で見たように、この両書簡では、キリストはその体である《エクレーシア》の「頭」であり、その体である《エクレーシア》に充満する方として語られ、キリストの民の目標は成長して「頭」であるキリストに到達することと語られるようになります。キリストは《エクレーシア》と一体なる方として語られるようになります。このような《エクレーシア》理解は、パウロから発するものでありながらも、パウロの場合とはかなり違ってきていると言わなければなりません。
 パウロ以後の時代の使徒名書簡は他にもあり、とくにパウロの名によって書かれた牧会書簡は、パウロの時代からかなり年月が経った時期の、かなり制度化した集会の姿が見られるようになります。しかしここでは、パウロ書簡と比べて、コロサイ書とエフェソ書に見られる《エクレーシア》観の進展がどうして起こったのか、それは何を意味するのかという問題に絞って見ておきます。

エクレシア理解変化の理由と意義

 エクレシア理解にこのような変化あるいは進展が見られるのは、やはりユダヤ戦争・エルサレム神殿崩壊を境として、キリストの民がユダヤ教から離脱して、別の信仰集団としての自覚が強くなったからだと考えられます。それ以前の時期においては、イエスをメシア・キリストと信じる者たちは、ユダヤ人はもちろん異邦人も含めて、自分たちは契約の民、選びの民であるイスラエルに連なることによって神の終末的な救済にあずかっているという自覚が強くありました。パウロも、イスラエルを救済史の担い手として語り(ローマ九〜一一章)、キリストの民を「神のイスラエル」と呼んでいます(ガラテヤ六・一六)。従って、キリストの民をイスラエルとは別の神の民として自覚する必要はありませんでした。ユダヤ教側からは迫害されていましたが、思想的・神学的には、キリストの民はこの時期にはまだイスラエルの内側にいたのです。それで、パウロも信仰者の共同体について語るときには、おもに個々の具体的な集会について語ることになります。
 たしかにこの時期においてすでに、自分たちは「新しい契約」の民であるという自覚はありました。「最後の晩餐」の伝承がエルサレムのユダヤ人共同体から発するものであれば、エルサレム共同体にも「新しい契約」の民であるという自覚があったことになります(ルカ二二・二〇)。パウロは「新しい契約」によって神に結ばれているいるのだという自覚を明確に語っています(コリントU三・六、ガラテヤ四・二四)。しかし、契約が新しくされたという自覚と、イスラエルへの所属とは別です。たとえば、クムランのエッセネ共同体も自分たちは「新しい契約」の民であると自覚していましたが、イスラエルとは別だとは考えていませんでした。自分たちこそ真のイスラエルであると自覚していたのです。
 ところがエルサレム陥落と神殿崩壊によって事情が一変します。キリストの民はもはやイスラエルの内側に安住していることはできなくなりました。イスラエルはもはや救済史の担い手ではなく、キリストの民はイスラエルとは別の民として、別の原理で救済を語り、イスラエルを土台とする救済史とは別の原理で共同体を基礎づける必要を感じるようになります。先に見たように(本書412頁)、パウロ名書簡では「イスラエル」という用語は出てこなくなります。
 コロサイ書・エフェソ書の著者(とくにエフェソ書の著者)は、キリストの民はキリストの体であるというパウロの比喩を継承して、キリストの民をキリストの生命によって結合され成長する有機体として描きます。そのさい、もはやユダヤ教的な時間軸に沿った救済史の枠組みではなく、彼らが呼吸しているヘレニズム世界の霊的空間の枠組みで語ります。キリストの体としてのエクレシア(民)は、霊的な諸々の空間(層)の最上位にいますキリストがその中に満ちている霊的現実態であり、キリストの支配の下にあり、キリストを目標として成長する生命体であるとされます。そして、その関係が体に対する頭の比喩で語られます。
 このように、キリストの民がイスラエルから分離したという歴史的状況と、ユダヤ教的救済史思考からヘレニズム世界の宇宙論的思考へと、思考の枠組みが変わったことによって、キリストの民としてのエクレシアの自覚の仕方が変わったと考えられます。

ヘレニズム諸宗教との関係

論敵の質の違い

 パウロはキリストの福音を危うくする論敵として、「ユダヤ主義者」と激しく戦わなければなりませんでした。異邦人信者に割礼を受けることを要求する「ユダヤ主義者」こそ、パウロの主要な論敵でした。パウロの福音は、神が成し遂げられた救いの出来事であるキリストに結ばれることによって、すなわち信仰(キリスト信仰)によって義とされ、救われ、神の民とされるという使信です。もし割礼を受けてユダヤ教徒となり、モーセ律法を守らなければ救われないとすれば、信仰によって(=恩恵によって)救われるというパウロの福音の土台が覆ります。パウロはこのような「ユダヤ主義者」の主張に対して、ガラテヤ書を書いて激しく論駁しています。パウロがキリストの福音の全体を提示するために最後に書いたローマ書でも、この信仰による義の主張が強く前面に出ています。
 パウロは、この「ユダヤ主義者」との戦いの他に、もう一つの戦線でも戦わなければならなかったことが、コリント書簡などからうかがえます。コリントのようなヘレニズム世界の宗教と生活が深く浸透している典型的な異教(ユダヤ教から見た異教)の都市では、その宗教と生活の両面で福音を異教の誘惑から守るための戦いが必要となりました。コリントの集会を福音から逸脱させようとしたパウロの論敵がどのような内容の主張をしたのかは、議論が絶えないところですが、霊魂と肉体を峻別する二元論的なギリシア思想の影響から、体の行為を霊魂の救済と無関係として、放縦な生活に陥る誘惑があったと考えられます。パウロの時代ではまだ「グノーシス主義」というような体系的な宗教思想ではないでしょうが、そこに向かう傾向とか萌芽があったのではないかと見られます。後世の「グノーシス主義」では、同じ二元論から肉体の営みを卑しいもの、この物質世界の支配者である神《デーミウルゴス》の策略に陥る行為として結婚を禁じたりするようになります。パウロの福音のための戦いには、このような傾向との戦いもあったことになります。
 ところが、先に見たように、使徒名書簡の時代になると、律法(ユダヤ教)の問題は決着しており、「ユダヤ主義者」との戦いはなくなっています。しかし、福音の確立のために戦う必要は、別の形で続きます。一つには、この時代には、ユダヤ教とは別の宗団として周囲の異教世界との対比を鮮明にしてきたキリストの民は、異教社会や権力からの圧迫や迫害を受けることが多くなります。使徒名書簡には、このような迫害や圧迫に耐えて、信仰を守り抜くようにという励ましが多くなります。しかし、このような外からの試練だけでなく、集会の内側にも福音を変質させる危険な教えとか傾向が出てきます。とくに、この使徒名書簡の時代の宗教性を代表するコロサイ書・エフェソ書には、このような福音を変質させかねない内側の教えに対する戦いが正面に出てくることになります。
 この時代に福音を脅かした異なる教えとはどのようなものであったのかは、先にコロサイ書の成立のところで取り上げた「コロサイの『哲学』」の項(本書16頁)で簡単に触れました。そこで見たように、この時代には、パウロの時にはまだ萌芽の形で入ってきていたグノーシス主義的な傾向が、かなりはっきりとした宗教的形態をもつようになっていたことがうかがえます。パウロの次の世代の著者たちは、このようなギリシア的宗教性の色彩の強い論敵と戦わなければならなかったのです。
 しかし、論敵との戦いはしばしば論敵の土俵の上で行われます。ヘレニズム時代初期に、地中海世界を席巻したギリシア思想と対決して固有の宗教伝統を維持しようとしたユダヤ教の「ハシディーム」(敬虔主義者)の運動は、対決の相手方であるギリシア思想の土俵で(ギリシア的思考法と用語で)戦ったので、そこからギリシア化したユダヤ教であるファリサイ派ユダヤ教を生み出す結果になりました。それと同じように、コロサイ書よりもさらに後の時期にグノーシス主義的な宗教思想と戦わなければならなかったエフェソ書において、グノーシス的な宇宙論的普遍主義が色濃く見られるようになります。ケスターはエフェソ書を「グノーシス主義との闘争」という標題で扱っていますが、同時に「著者が自己の普遍主義を可能にする神学的範疇を得たのは、グノーシス主義からであった」としています。従って、グノーシス主義との違いと対決は倫理の領域に移され、著者は間違った宗教思想との対決を、キリストにある者にふさわしい実際の生活で示すように求めます。それが典型的に現れるのは結婚に関する教えです。グノーシス主義では、性的放縦か結婚の禁止という両極端に向かう傾向がありますが、エフェソ書は天的キリストとエクレシアの一体関係に基づいて、地上の結婚生活を聖なるものとするように説きます。エフェソ書は、当時のローマ社会の倫理とか家庭訓を信仰的に解釈された徳と悪徳表にまとめて、徳を行うことによって誤った信仰と一線を画するように求めます。この倫理的な在り方で異端と一線を画するというやり方は、後の時代に正統派の教会がグノーシス主義諸派と戦う時の方針となります。

むすび

 以上、使徒名書簡の時代のキリスト信仰が、パウロ書簡に代表される使徒時代のキリスト信仰と違ってきている面があることをまとめてみました。しかし、重要なことは、結果としての相違ではなく、そのような相違を生み出すダイナミックス(動的過程あるいは動態的力学)です。同じキリストが、同じ御霊によって、異なる状況において働かれた結果、以上のような違いが生じたのです。結果としての相違に目を奪われることなく、その違いを生み出さざるをえなかった状況の違いを念頭に置いて、このような文書(使徒名書簡)を生み出したキリスト信仰の命の質を探求することが、わたしたちの課題です。この課題は各人の信仰の問題であり、祈りと御霊の導きの中で成し遂げられるべき課題です。