市川喜一著作集 > 第15巻 対話編・永遠の命T > 第1講

序章 対話編としてのヨハネ福音書

復活者イエスとの対話

 新約聖書にある四つの福音書の中で、ヨハネ福音書は他の三つの福音書とは性格が少し違うように感じられます。もちろん、イエスの伝記ではなく、地上のイエスを物語るという形で復活者キリストを宣べ伝えるという福音書の基本的性格は同じです。しかし、他の三つの福音書があくまで地上のイエスの出来事を物語るという枠組みを基本にしているのと比べると、ヨハネ福音書はかなり大胆に、自分たちが体験している復活者イエスが直接語りかける形を取っています。ヨハネ福音書のイエスは、復活者として弟子たちやユダヤ人たちに語りかけます。この福音書でイエスが語られる「わたし」は、復活者イエスを指すと理解してはじめて、その言葉を理解することができる場合が多くあります。
 それで、ヨハネ福音書は「復活者イエスとの対話」という性格をもつ文書になっています。わたしたちは、復活されたイエスが「四十日にわたって弟子たちに現れ、神の国について話された」(使徒一・三)と聞いています。復活者イエスを慕う者にとっては、その時のイエスの言葉を聴くことができたらと願わずにはおれません。事実、この願いに答えるために、初期には復活者イエスの言葉を記録して伝えていると主張する文書が書かれ、広く流布していました。著者ヨハネ(および彼の共同体)は、聖霊によって復活者イエスとの交わりを体験し、その交わりの中で聴いている言葉を、イエスの言葉として証言します。そして、自分たちが周囲の批判者としている論争を、イエスとユダヤ人の論争として語ります。ヨハネ福音書は、イエスと弟子たち、イエスと批判者たち(ユダヤ人)との対話という形で「永遠の命」を提示します。
 この福音書は、著者ヨハネの証言と指導によって成立している信徒たちの交わり(この交わりを本稿では「ヨハネ共同体」と呼んでいます)の場で成立しています。ヨハネ共同体は、地上のイエスが語られた言葉と、自分たちが聖霊によって復活者イエスの語りかけとして聴いている言葉を区別なく、「イエスは言われた」と書いて伝えています。さらに、イエスが語られた言葉と、自分たちがする証言の言葉とを「継ぎ目なく」並置しています。どこまでがイエスの言葉で、どこからが共同体の証言か決定できない場合がよくあります。こうしてこの福音書は、ヨハネ共同体のキリスト証言が、復活者イエスと世の人々(弟子と批判者の両方)との対話という形で提示される文書となっています。
 プラトンは対話という形で哲学的な真理を追究しましたが、ヨハネ福音書は復活者イエスとの対話という形で「永遠のいのち」という宗教的・霊的真理を提示するのです。ヨハネ福音書という対話編の主題は「永遠の命」です。この福音書には『対話編・永遠の命』という標題をつけるのがふさわしいと考えます。この対話によって復活者イエスとの交わりに導き入れられる者が、その交わりによって永遠のいのちを得るために、この福音書は書かれました(二〇・三一)。

 ヨハネ福音書の主題としての「永遠のいのち」については、拙著講話集『神の信に生きる』のW「永遠の生命への道」を参照してください。そこに、この福音書の代表的な箇所(三章、六章、一一章)を用いて、永遠のいのちに至る道について、その出発点、旅路、到達点という三つの視点からなされた三回の講話と二つの補講が集められています。

ヨハネ福音書の成立

 このような霊的対話編が、いつどこで、どのような事情の下に成立したのか、著者は誰であるのか、正確なことは分かりません。おそらく、シリア・パレスチナ地域のどこかの都市に成立し活動していた、おもにユダヤ人から成る信徒の共同体が、ユダヤ教会堂と厳しく対立して危機的な状況にあったときに、敵対するユダヤ教社会に自分たちの信仰を弁証し、共同体の信徒に信仰の励ましを与えるために、その共同体の指導的人物が説いた教えが核になっていると推察されます。
 その危機とは、70年のエルサレム神殿崩壊後、ヤムニアに法院を形成して世界のユダヤ教徒を指導するようになったファリサイ派律法学者たちが、イエスをキリストと告白するユダヤ人を会堂から追放し、「民を惑わす者」として探索と裁判の対象とするようになった状況も考えられます(この事情については九章の講解を参照)。しかし、ユダヤ教会堂との厳しい対立はそれ以前からも長く続いており、その状況に限定することはできません。現在の福音書は一人の著者によって一気に書かれたものではなく、何段階かの編集過程を経て現在の形になったと見られますので、成立年代にはかなりの幅を見なければなりません。最終的な形の成立はおそらく一世紀末(九〇年代)ではないかと見られます。
 著者と彼の共同体はユダヤ戦争(六〇年代後半)の前後にシリアからエフェソに移住したと推察され、この福音書の成立をエフェソとする二世紀の教父たちの証言も多くあります。最終的な成立を共同体がシリアからエフェソに移って異邦人伝道に携わっていた時期とすると、この福音書に見られる強いユダヤ教の背景と異邦人に向けられた姿勢の両方が理解しやすくなります。
 ここでは福音書の成立事情については簡単にして、テキストに集中したいと思います。この福音書の成立事情については、それを論じた拙著『「もう一人の弟子」の物語――ヨハネ文書の成立について』を、本書下巻に補講として収録しますので、それを参照してくださるようにお願いします。

ヨハネ福音書の構成

 ヨハネ福音書は、冒頭に全体を要約するような詩の形の序詞(一章一〜一八節)を置き、最後にガリラヤでの復活者イエスの顕現を伝える章を補遺として付け加えています(二一章)。この序詩と補遺の部分に囲まれた本論は、大きく二つに分かれます。
 前半の一章(一九節以下)から一二章までは、天から世に下ってこられた救済者の地上での働きを描き、後半の一三章から二〇章では、地上での働きを終えられ救済者が天に帰る出来事を語っています。ただ後半部分は、最後の夜に弟子たちに語られた遺訓の言葉がまとめれらた部分と、受難と復活の出来事を伝える部分という二つの大きな区分が認められますので、本稿では次のような区分で扱います。

 序 詩 ロゴス賛歌(1章1〜18節)
 
 第一部 救済者の地上の働き(1章19節〜12章)
 
 第二部 救済者の天への帰還(13〜20章)
    T 弟子たちへの告別説教(13章〜17章)
    U 受難と復活(18章〜20章)
 
 補 遺 復活者の顕現(21章)

 共観福音書では、イエスはガリラヤで活動し、最後に一度過越祭のときにエルサレムに上って十字架につけられます。それに対してヨハネ福音書では、イエスはガリラヤとエルサレムを何回か行き来して活動されています。むしろ、活動のおもな舞台はエルサレムにあります。この点が構成の上で最大の相違です。
 先にこの福音書は自分たちの霊的体験を基にした対話編であると言いましたが、この福音書は同時に地上のイエスの働きについての伝承をかなり正確に伝えているという面があり、地上のイエスの働きを語るという形で復活者キリストを伝えるという福音書の基本的性格を維持しています。共観福音書よりもヨハネ福音書の伝承の方が歴史的に正確である場合もあります。たとえば十字架刑の日付が両者で一日違いますが、ヨハネ福音書の方が正確であるという見方が強くあります。詳しいことは、必要に応じてその都度、適当な場所で扱うことにします。

ヨハネ福音書の思想的・神学的特色については、拙著福音講話集『キリスト信仰の諸相』59頁以下の「受肉した神イエス」を参照してください。

 なお、この福音書には、頁を綴じるときに五章と六章が入れ替わったのではないかという「錯簡」の問題があります。この問題についての研究者の意見は分かれていますが、「錯簡」を認めて四章の続きに六章を読み、その後で五章に戻ってきても、この福音書の霊的使信を受け取るのに差し支えがあるとは考えられません。その方がガリラヤでのイエスの働きが自然に続きます。本書では福音書の現形を尊重して配列していますが、実際にこの福音書を読むときに、四章、六章、五章の順に読み進んでも問題はありません。むしろ、その順序で読む方が勧められます。詳しくは当該箇所の「錯簡」に関する注を参照してください。