市川喜一著作集 > 第15巻 対話編・永遠の命T > 第2講

本  論

序詩 言(ことば)は肉と成った 

       ―― ヨハネ福音書 一章 一〜一八節 ――

1 序詩 ロゴス賛歌 (1章1〜18節)

1 はじめに言(ことば)が在(いま)し、
言(ことば)は神と共に在(いま)し、
  言(ことば)は神であった。
2 この方は、はじめに神と共に在(いま)し、
3 すべてのことは彼によって成り、
  彼によらずに成ったものは何一つなかった。
4 彼において成ったものは命であり、
  その命は人々の光であった。
5 その光は闇の中で輝き、
  闇は光に打ち勝たなかった。

6 神のもとから遣わされた人が現れた。
  その名をヨハネという。
7 この人は証のために来た、
  その光について証をするために、
  彼によってすべての人が信じるようになるために。
8 彼自身は光ではなく、
  光について証をした。

9 その光はまことの光であって、
  世に来て、すべての人を照らす。
10 彼は世にいた。
世は彼によって成ったのに、
  世は彼を認めなかった。
11 彼は自分に属する者たちのところに来たが、
  彼に属する者たちは、彼を受け入れなかった。
12 だが、彼を受け入れた者たち、
  彼の名を信じる者たちには、
  神の子となる力を、彼は与えた。
13 この人たちは血統からではなく、
  肉の意志からでもなく、
  人間の意志からでもなく、
  神から生まれたのである。

14 そして、言(ことば)は肉と成って、
  わたしたちの間に幕屋を張った。
  わたしたちは彼の栄光を見た。
  父からのひとり子としての栄光であって、
  恩恵と真理に満ちていた。
15 ヨハネは彼について証をして、叫んで言った、
  わたしが言ったのはこの方のことである、
  わたしの後に来ようとしている方は、
  わたしより優れている、
  わたしより先におられたからである、と。
16 わたしたちは皆、彼の充満の中から、
  恩恵の上に、さらに恩恵を受けた。
17 律法はモーセを通して与えられ、
  恩恵と真理はイエス・キリストを通して成った。
18 いまだかって、神を見た者はない。
  父の懐にいるひとり子なる神、この方が解き明かされた。

ロゴス・キリスト

 はじめに言(ことば)が在(いま)し、
言(ことば)は神と共に在(いま)し、
  言(ことば)は神であった。(一節)

 ヨハネは、自分が現在聖霊によってその方との交わりを体験している復活者イエス・キリストを証言するために、この福音書を書こうとしています。そして、その冒頭に、その方の本質と栄光を賛美する賛歌を置きます。その方の名「イエス・キリスト」は、この賛歌の最後(一七節)になって現れますが、この賛歌は初めから終わりまで、この方について語り、この方を賛美しているのです。この賛歌は、すでにこの福音書全体を胸中に抱いている著者の魂から溢れ出て、最初に置かれるのです。
 この方は、死者の中から復活して神の右に上げられ、神と共に在(いま)す方です。神と共に在(いま)すこの方は、神的存在であり、神と共に世界の存在よりも先に在(いま)す方です。復活者キリストは、神の身分にある方として、世界の初めに先立っています方であることは、すでに信じられ告白賛美されていましたが(フィリピ二・六以下)、ヨハネはその方を「ロゴス」と呼び、「はじめに《ロゴス》が在(いま)した」と叫びます(一節一行目)。

一節二行目の「神」には定冠詞がついていて、この方が神と対面していますことが示唆されていますが、三行目の「神」は冠詞なしで、この方が神性をもつ方、神の身分でいます方であることを示しています。

 ヨハネがここで用いているギリシア語《ロゴス》は、もともと「言葉」を意味するギリシア語ですが、ギリシア哲学では(とくにストア学派で)すでに古くから全存在の根底にある理法を意味する重要な語になっていました。そして、ギリシア文化が地中海世界に拡大してヘレニズム世界を形成した時、その中でユダヤ教徒も自分たちの宗教と思想をギリシア語で表現するようになります。そのさい、イスラエルの宗教的伝統の中で核心的な位置を占める神の「ことば」《ダーバール》がこの《ロゴス》というギリシア語で訳されたのです。
 「神は、光あれと言われた。すると光があった」という創造の言(ことば)は、造られた世界よりも先にありました。世界はこの言(ことば)によって成り、保たれています。この信仰の消息を、ギリシア思想との遭遇の中で形成されたイスラエルの知恵思想は、それを「知恵」《ソフィア》の働きとして表現するようになります(箴言八章、知恵の書、シラ書二四章、バルク書)。そこでは、「知恵(ソフィア)」は創造の言(ことば)とほとんど同じ資格で登場します。「知恵(ソフィア)」は、世界が造られる前に神から生まれ、神と共に働いて世界を創造し、世界を保持し支配します。しかも、「知恵(ソフィア)」は「わたし」と称して、ほとんど人格的主体として人間に語りかけます。しかし、ヘレニズム期のユダヤ人聖書解釈者や思想家(たとえばアレクサンドリアのフィロン)は、自分たちの信仰と知恵をギリシア語で語るとき、《ロゴス》の方を多く用いるようになります。
 こうして、この賛歌の最初の部分(一〜五節)がユダヤ教の知恵文学から出てくる素地は十分にあります。ギリシア語を用いるユダヤ人信徒が、復活者イエス・キリストを世界に先立っています「神の身分にある」方として賛美するとき、その方を《ロゴス》と等置して賛美する土壌は、ヘレニズム期のユダヤ教に十分用意されていたと言えます。事実、このような賛歌がヨハネ共同体で、あるいはもっと広くギリシア語を用いるキリスト信徒の群れで用いられていたと見られます。
 ヨハネはこの賛歌を自分の福音書の冒頭に置きます。しかし、この賛歌がいかにユダヤ教の知恵文学などと似ていようと、それとは決定的に違う点があります。それは、この《ロゴス》が「肉と成って、わたしたちの間に幕屋を張った」(一四節)という事実です。ユダヤ教では、神の身分である言(ロゴス)とか知恵(ソフィア)が人間となることはありえません。ところがこの賛歌は、「肉となって」わたしたちと同じ人間の姿をとられたロゴス、すなわちナザレのイエスとして現れた復活者キリストを賛美するのです。賛歌の冒頭で賛美されている言(ロゴス)は、復活者イエス・キリストを指しています。それが存在の根底としての理法だとか神の知恵という次元のものではなく、復活者イエス・キリストを指しているので、その方について述べる文では「ある」ではなく、「在(いま)す」という動詞を用いることになります。

万物の根元であるロゴス

 この方は、はじめに神と共に在(いま)し、
  すべてのことは彼によって成り、
  彼によらずに成ったものは何一つなかった。(二〜三節)

 冒頭の三行(一節)で、「はじめに」神と共にいます言(ロゴス)を賛美した後、賛歌は次の三行(二〜三節)で、天地の万物がこの言(ロゴス)によって「成った」ことを謳います。賛歌冒頭の「はじめに」は、創世記一章一節の「はじめに神は天と地を造られた」に対応していますが、「はじめ」《アルケー》の意味合いは少し変わってきていると感じられます。創世記では、壮大な救済史の最初の業として天地の創造が語られているのですが、ギリシア思想を深く身にしみこませているこの福音書では、やはり存在の根源という意味が強くなっていると考えられます。
 すでにストア派の人たちは、宇宙存在《コスモス》の根源に《ロゴス》があると考えていました。目に見える存在の根源にあるものを追求することは、ギリシア哲学の常識ですが、その世界に向かってこの福音書は、復活者イエス・キリストを《ロゴス》とすることで、この方こそ万物の根源に他ならないと宣言するのです。
 言(ロゴス)は「はじめに(エン・アルケー)」(すなわち万物の根源に)在(いま)して、創造者なる神と共に働き(二節)、万物を成らせるのです。そして、そのことが「すべてのことは彼(ロゴスであるキリスト)によって成り」と宣言され、さらに「彼によらずに成ったものは何一つなかった」という否定の形で繰り返されて、強調されます(三節)。
 このように、キリストを万物の根源とする見方は、すでにパウロあるいはその共同体に見られるものと同じです。

 「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました」。(コロサイ一・一五〜一六)

 このパウロ文書が「御子」とか「造る」という用語で語っていることを、ヨハネは「ロゴス」と「成る」という用語で語ります。この「成る」という動詞は、短い賛歌の中に(原語で)九回も現れ、重要な鍵語となっています。これは、成る、起こる、生じるなどを意味する動詞です。著者にとって、創造も(3節に三回、10節)、歴史上の出来事も(6節)、キリストの出来事も(14節)、救済の事実も(12節、15節)、啓示も(17節)、すべて神とロゴスの働きによって生起した出来事であって、すべてこの動詞で語られます。これは、旧約聖書のヘブライ語動詞《ハーヤー》の思想世界の継承です。

 神がモーセに御自分の名を語られた箇所(出エジプト記三・一四)を、七十人訳ギリシア語聖書は「わたしは『存在する者』である」と訳しました。神を存在の根源として理解するのはギリシア思想では避けられません。しかし、本来のヘブライ語の表現は、生起するという意味の動詞《ハーヤー》を重ねて用いて、「わたしはハーヤする者としてハーヤーする」というような意味であって、「存在する者」とは違います。ヘブライの思想では、生起する働きそのものを神としているのであって、神は存在ではありません。ヨハネは「ロゴスが在(いま)した」というギリシア的な表現を用いていますが、「成る」という動詞を繰り返すことで、神を《ハーヤー》の働き自体とする旧約聖書の思想世界を継承していると言えます。なお、ギリシアの存在論的な思考とヘブライの《ハーヤー》思想の関係について詳しくは、有賀鉄太郎『キリスト教思想における存在論の問題』(創文社)を参照してください。

 この動詞の用例からも分かるように、賛歌が「すべて」と言うとき、それは天地の万物というだけでなく、歴史(とくに救済史)の出来事すべてを指しています。万物の根源にロゴスがあるから、万物はそのロゴスの発現として現象するのです。そうであれば、「すべて」はこの根源であるロゴス・キリストに向かって現れることになり、万物・万象はキリストに帰一して完成することになります。それは、パウロ系文書では「万物は御子のために造られ」(コロサイ一・一六)、「あらゆるものが頭であるキリストのもとに一つにまとめられる」(エフェソ一・一〇)と表現されており、ヨハネ福音書を経て、やがてエイレナイオス(二世紀末の教父)のキリストを頭とする「再統合」の思想へと至ることになります。

エイレナイオスの「キリストを頭とする再統合」という視点からなされた全聖書の救済史的な理解は、最近になって発見された彼の著作『使徒たちの使信の説明』に簡潔に要約されています。その邦訳が上智大学中世思想研究所編訳「中世思想原典集成1」の『初期ギリシア教父』の中に収められていますので、関心のある方は参照してください。

命であり光であるキリスト

 彼において成ったものは命であり、
  その命は人々の光であった。
  その光は闇の中で輝き、
  闇は光に打ち勝たなかった。(四〜五節)

 復活者イエス・キリストを万物に先在する「ロゴス」として賛美し、その「ロゴス」によって「すべて」が成ったことを宣言した後、賛歌はこの「ロゴス」である復活者イエス・キリストにおいて起こった出来事こそ、命であり光であると謳います(四〜五節)。

文語訳、協会訳、新共同訳は「成ったもの(生じたもの)」の後ろに終止符を置く四世紀末から始まった読み方に従っています。ここでは、終止符を「成ったもの」の前に置く底本(韻律から見てこれが原型であると見られます)に従って訳しています。NRSV、岩波版も同様に訳しています。

 賛歌はここに来て、「彼において成ったもの」、すなわち復活者イエス・キリストにおいて起こった出来事こそ、われわれ人間にとって命であり光であると謳います。「人々の」という句は「光」の後についていますが、「命」にもかかると理解してよいでしょう。
 「命」は、先に述べたように、この福音書の主題です。ここで主題が提示されるのです。この福音書は、主題である復活者イエス・キリストによって与えられる「命」《ゾーエー》が、人が生まれながらに持っている生命とは別種のものであることを示すために、「永遠の命(ゾーエー)」という表現を用いています。しかし、「永遠の」という句をつけないで、《ゾーエー》だけで、生まれながらの人間の生命《ビオス》とか命《プシュケー》と区別された「永遠の命」を指して用いることも多くあります。ここでは、その《ゾーエー》だけの形で、主題が提示されるのです。
 この福音書においては、命はすなわち光です。復活者イエス・キリストにおいて起こった神の出来事にあずかることによって命を得た者は、その命によって真理を照らし出す光を得たのです。神は復活者イエス・キリストによって、彼を信じる者に命と光を与えて、死と闇の中から救い出してくださるのです。これがこの福音書の使信です。
 命の反対は死です。光の反対は闇です。この福音書では、命と光は一体として、死と闇の世界に対立しています。この福音書では、命と光が満ちる領域と、死と闇が支配する領域は、厳しく対立する別の原理で形成された別世界です。この対立する二つの領域を橋渡しするものはありません。ヨハネ福音書は、この厳しい二元論の枠組みの中で、キリストにおける救いを語るのです。

ヨハネ福音書の二元論については、拙著講話集『キリスト信仰の諸相』64頁以下の「光と闇の二元論」を参照してください。

 ここまで過去形で語ってきた賛歌は、ここで突然現在形の動詞を用いて、「その光は闇の中で輝いている」(五節)と謳います。これは、著者またはこの賛歌を用いる共同体が現在の体験を告白しているのです。自分たちは「彼によって成ったもの」、すなわち復活者イエス・キリストにおいて起こった神の出来事によって命を受け、その命が今や自分たちの中で光となって輝いている、と告白するのです。
 その光は「闇の中で」輝いています。今自分たちがいる世界は、それ自体の中に光をもたない闇なのです。その闇の世界は、この光を理解せず、対立し敵対しています。著者およびその共同体は、自分たちがこの敵対する闇の世界のただ中に置かれていることを十分自覚しています。しかし、この世界の闇は自分たちの中にある光に打ち勝つことはありません。その光の光源である方、すなわちイエス・キリストはすでに復活して死と闇に打ち勝っておられるからです。それで、賛歌はこの光の勝利を既成の事実として、「闇は光に打ち勝たなかった」(五節)と、過去形で謳います。これは復活者イエス・キリストを信じる者たちの勝利宣言です。わたしたちも、主イエス・キリストにあって、この賛歌の勝利宣言を共にすることができるのです。

光についての証人

 神のもとから遣わされた人が現れた。その名をヨハネという。
  この人は証のために来た、その光について証をするために、
  彼によってすべての人が信じるようになるために。
  彼自身は光ではなく、光について証をした。(六〜八節)

 この福音書は、キリストに属する者が内に宿す光についても語りますが(ここや一一・一〇)、その光の光源である方、この世に光をもたらす方としての復活者イエス・キリスト御自身を光として語ることが多くあります(八・一二など)。ここでも、「光」は復活者イエス・キリストを指す意味に自然に移って、その光が世に現れる前に出現した証人のことが語られます(六〜八節)。その証人とは、洗礼者ヨハネです。

賛歌の中に、洗礼者ヨハネに関する部分(六〜八節と一五節)がやや唐突に現れますが、この部分は本来のロゴス賛歌にはなくて、後から加えられたものであることが、広く認められています。ヨハネ福音書も初期の福音宣教における共通の枠組み(マルコ福音書参照)を用いて、イエスの物語を洗礼者ヨハネの活動から始めています(一・一九以下)。この序詩の中で、洗礼者ヨハネを位置づけ、その物語を導入するために、ロゴス賛歌に挿入されたと見られます。

 六節は直訳すると、「人が成った(起こった)、神から遣わされて、その名はヨハネ」という、この序詩の鍵となる動詞「成る」を用いた表現です。神が人を遣わされるという出来事が起こったという意味ですので、「人が現れた」と訳しています。洗礼者ヨハネの出現は、神の出来事であるというのです。そして、神がヨハネを遣わされたのは、「光について証をするため」であるというのです(七節)。
 洗礼者ヨハネの出現と彼のバプテスマ運動は、一世紀半ばのユダヤ教社会に強い衝撃を与えていました。終末審判の接近を告知する彼の燃えるような激しい宣教は、神の支配を待望していた多くのユダヤ教徒を引きつけ、彼らは続々と彼のもとに来てバプテスマを受け、終末審判に備えようとしました。イエスの神の国宣教も、このヨハネのバプテスマ運動から出発しています。そのことは他の福音書も伝えていますが、とくにこのヨハネ福音書は、洗礼者の弟子がイエスに従うようになった消息を具体的に伝えています(一章)。ここからも、ヨハネ共同体の中核をなすメンバーには洗礼者ヨハネの弟子であった者が多くいたことが推定されます。
 彼らはヨハネの証言に導かれてイエスを信じるようになり、光を得ました。その体験から、洗礼者ヨハネを、光について証しして人々を光に導く、神から遣わされた証人と高く評価しました(七節)。しかし同時に、ヨハネは証人であって光そのものではないという面も強調しなければなりませんでした(八節)。
 それは、この福音書が成立した一世紀末には、洗礼者ヨハネをメシアと仰ぐ洗礼者宗団が存在していて、イエスをキリストと告白する共同体と対抗していたからです。イエスを復活者キリストと告白するヨハネ共同体は、洗礼者宗団に対して、洗礼者ヨハネはたしかに神から遣わされた尊い預言者であるが、光そのものではなく、復活者イエス・キリストこそ光であると宣言するのです。このことは洗礼者ヨハネに関する一章一九節以下の本論で繰り返し取り上げられますが、この序詩で簡潔に提示されます。

世に来た光

 その光はまことの光であって、世に来て、すべての人を照らす。
  彼は世にいた。世は彼によって成ったのに、世は彼を認めなかった。(九〜一一節)

 ヨハネは、自分たちの共同体で用いられている「ロゴス賛歌」を福音書の序詞として用いるにさいして、もとの賛歌に書き加えていると見られます。それは洗礼者ヨハネに関する部分については明白ですが、光が世に来たことを語る次の部分(九〜一三節)にも書き加えがあるようです。おそらく、賛歌のもとの形は九〜一一節で、それにヨハネが一二〜一三節を書き加えたのではないかと見られます。
 もとの賛歌は、最初に万物に先立って存在するロゴスを賛美した後(一〜四節)、そのロゴスが本来自分に属する民であるイスラエルに来たのに拒否されたことを語り(九〜一一節)、最後にロゴスが「肉となって、わたしたちの間に幕屋を張り」、信じる者がその方から恩恵と真理を授けられたことを賛美する(一四、一六、一七節)という三部構成を取っていたと見られます。その第二部を、ヨハネは一二〜一三節を書き加えることによって、世に来た光を拒否した者と受け入れた者の対比を描く詩に再構成します。
 この箇所で「世」《コスモス》という用語が登場します。《コスモス》は、世界とか宇宙、存在界全体を指す語で、ギリシアの宗教思想で重要な意義を担っていますが、この福音書でも光としての復活者キリストが働く場として重要な役割を果たすことになります(この福音書において《コスモス》がどのような意味で用いられているかは、必要に応じてその都度触れることにします)。その《コスモス》とそこに到来した光の関わりは、この福音書全体で繰り返し描かれることになるのですが、ここで簡潔に要約されて提示されます。
 復活者イエス・キリストは光として世に来られました(一二・四六)。この方こそ「まことの光」であって、世を構成するすべての人を照らして、真理を見させるのです(九節)。これがこの福音書の主題です。
 世界には様々な種類の光があり、その種類にふさわしい働きをしています。たとえば、太陽の光は夜の闇を駆逐して、地上のすべての物体を見えるようにします。そのように、復活者キリストという光は、すべての人の霊性を照らし出して、霊的次元の真理を見えるようにするのです。この福音書がいう「真理」を見させる光という意味で、また、地上の光線が象徴している本体として、復活者イエス・キリストこそ「まことの光」と言われます。

九節の最初の部分は、「彼はまことの光であって」と訳すことができるし、また、九〜一一節全体の統一からもそう訳す方が自然ですが、ここで「彼」を用いると、直前の洗礼者ヨハネを指すことになるので避けます。あるいは、「まことの光」を述語ではなく主語と理解して、「すべての人を照らすまことの光があって、世に来ようとしていた」という訳も可能です。

 「彼は世にいた」、すなわち、この光である復活者キリストは、永遠のロゴスとして「はじめから」全存在(コスモス)の根底におられたのです。万物万象(全存在と全歴史)はこのロゴスによって成った(三節)のに、《コスモス》は自分を成らせている(存在させている)根源のロゴスを認めなかったのです(一〇節)。復活者イエス・キリストを存在の根底にあるロゴスとする信仰によって、キリストにある者はキリストなき世界《コスモス》が自己の根底を認識しない矛盾に陥っている世界であることを知るのです。

この認識は、「じっさい、神の知恵(が啓示されている)にもかかわらず、この世はこの知恵によって神を認めなかった」(コリントT一・二一のNTDヴェントラント訳)というパウロの主張と同一線上にあると見られます。パウロは、コスモス(世)は神の知恵によって存在し、その知恵の中にいるにもかかわらず、コスモスはその知恵によって神を認識するにいたらなかった、と主張しているからです。この句の理解の仕方については、「パウロによるキリストの福音」の当該箇所の講解を参照してください。

 その矛盾は、救済史の担い手として選ばれたイスラエルの民において露わになります。永遠のロゴスである「彼」が、自分の働きの場として選び分かった民、すなわち「自分に属する者たち」のところに来たことは、すでにイスラエルの民も自覚していました。たとえば、「シラ書」二四章では、知恵(ソフィア)がイスラエルに宿ったことを美しく歌っていますが、この知恵(ソフィア)はヨハネが言う「ロゴス」にほかなりません。また、神が預言者を通して、あるいは祭儀制度や歴史的な出来事などによって、直接間接にイスラエルに語りかけて言(ロゴス)を与えておられたことは、「神は、かって預言者たちによって、多くの形で、また多くのしかたで先祖たちに語られた」(ヘブライ一・一)と言われています。ところが、この「ロゴス」が実際にイスラエルの民の中に現れたとき、「彼に属する者たち」は彼を受け入れず、彼を拒否したのです(一一節)。

神の子となる力

 彼は自分に属する者たちのところに来たが、彼に属する者たちは、彼を受け入れなかった。
  だが、彼を受け入れた者たち、彼の名を信じる者たちには、神の子となる力を、彼は与えた。
  この人たちは血統からではなく、肉の意志からでもなく、人間の意志からでもなく、神から生まれたのである。(一二〜一三節)

 もともとの「ロゴス賛歌」では、ここは先在のロゴスと受肉のロゴスの間にあって、イスラエルの歴史の中で働いたロゴスを歌う部分であったのかもしれません。しかし、ヨハネはこの部分に一二〜一三節を加えることで、世に到来した「まことの光」である復活者イエス・キリストを拒否したユダヤ人と、この方を受け入れて神の子となった自分たちを対照する賛歌にします。現在の形の賛歌は、一四節の受肉の出来事を先取りして、ナザレのイエスとして世に現れた方を拒否する者たちと受け入れる者たちを対照しています。
 ここでは「彼に属する者たち」と呼ばれていますが、本論の部分では、彼を拒否した「彼に属する者たち」は「ユダヤ人」と呼ばれて、復活者イエス・キリストとその方を信じる者たちの共同体に激しく敵対する勢力として描かれます。ユダヤ人はナザレのイエスを憎んで十字架につけて殺しましたが、それは自分の存在を成らせている根源たる方を殺す行為だ、とヨハネは現在自分たちに敵対するユダヤ人の不信仰を責めるのです。
 それに対して「だが」という語で導かれて、「彼を受け入れた者たち」、すなわち「彼の名を信じる者たち」が対照して描かれます(一二〜一三節)。この者たちとは、ここでは復活者イエス・キリストを信じ受け入れたヨハネ共同体を指しています。もちろん、ここで描かれるヨハネ共同体の姿は、代々の「彼の名を信じる者たち」すべての姿でもあります。
 彼を受け入れた者たち、すなわち彼の名を信じる者たちには、神の子となる力を、「彼は与えた」と謳われていますが(一二節)、この「彼」は神ではなく、この賛歌の主題として登場しているロゴスなる復活者イエス・キリストを指すと見てよいでしょう。文章の上でも、ここだけが別の方を指すと見るよりは、ここまで(九〜一二節で)「彼」と呼ばれてきた方を指すと見る方が自然です。さらに、この福音書では、命を与え、復活させるのは復活者イエス・キリストの働きとされている(五・二一、六・四〇など)ことからも、こう理解してよいと考えられます。
 復活者イエス・キリストがその名を信じる者に与える「神の子となる力」とは、どのような力でしょうか。「神の子と成る」のは一つの出来事です。あの「成る」という動詞が用いられています。神の子でない者が神の子と成るには、力が要ります。変化をもたらすには力が必要です。その力は、ここでは名指されてはいませんが、神の御霊、聖霊にほかなりません。聖霊が神の子の身分を与え、その実質を形成する力であることは、すでにパウロが繰り返し強調していたことです(ローマ八・一四〜一六など)。
 この神の子とならせる力である聖霊は、復活者イエス・キリストが信じる者に与えてくださる恩恵の賜物です。恩恵によって与えられるとは、受ける側の人間に何の資格も条件も要らないということです。御霊を受けて神の子となるのは、「神から生まれる」と表現されます。その消息はやがて三章のニコデモとの対話で詳しく語られることになりますが、ここではその「神から生まれる」出来事が人間の側の一切の資格や条件に関わりのないことが謳われます(一三節)。
 まず、人間はある「血統から」生まれることによって神の子となるのではないことが最初にあげられます。これは、自分たちはアブラハムの血統から生まれた者として神の子であると主張するユダヤ人に向かって、人が神の子に生まれるのはユダヤ人であるか非ユダヤ人(異邦人)であるかは関係がないと宣言していることになります。
 次に、「肉の欲からでなく、また男の欲からでもなく」(直訳)という、自然の誕生を示唆する句が来ますが、これは「神の子となる」ことが一切の人間の欲求や計らいや営みによる出来事ではなく、「神から生まれる」こと、すなわち、ただ神の意志と働きによって生じる出来事であると、対比によって強調するための表現であると見られます。
 こうして、この一段(九〜一三節)は、光として世に来た方を拒む者と、その名を信じて受け入れる者とが厳しく分けられることになるという福音書全体の主張を先取りして簡潔に謳うことになります。

ロゴスの受肉

 そして、言(ことば)は肉と成って、わたしたちの間に幕屋を張った。
  わたしたちは彼の栄光を見た。
  父からのひとり子としての栄光であって、恩恵と真理に満ちていた。(一四節)

 万物に先立って在(いま)した先在のロゴスと、その方が御自分に属す民の中で働かれたことを謳った賛歌は、最後の部分で、そのロゴスの受肉の出来事を謳います(一四節)。賛歌は、このロゴスがわれわれと同じ人間の姿を取って世に現れた出来事を、「言(ことば)は肉と成って、わたしたちの間に幕屋を張った」と表現します。この出来事こそ、この福音書が世界に向かって提示しようとする真理の核心にほかなりません。
 「肉」という語は、ここでは肉体をもったわたしたち人間のことを指しています。「肉と成った」とは、万物に先在し、万物万象を成らせ、イスラエルの中で様々な形で働いてこられたあのロゴスが、ついにわたしたちと同じ人間の姿をとって、ナザレのイエスとして歴史の中に現れたということです。
 「幕屋を張った」という表現の背景には、旧約聖書の「臨在の幕屋」があると見られます。ヤハウェは「臨在の幕屋」に宿り、その栄光を現し、そこから民に語りかけられました(出エジプト記四〇・三四など)。そのように、いま神は人としてのイエスに宿り、イエスの中で栄光を現し、イエスの中から民に語りかけられたのです。「わたしたちの間に」は、ここでは「わたしたち信じる者の共同体の中に」ではなく、「わたしたち人間世界に」を意味することになります。ロゴスの受肉は、特殊な集団の内部での出来事ではなく、人間の歴史そのものにおける出来事なのです。
 ところが、「彼の栄光」、すなわちナザレのイエスがこのような神である永遠のロゴスの受肉した方であるという事実を見たのは、すべての人ではなく、ごく一部の人たちでした。その「彼の栄光を見た」人たち(すなわちここではヨハネ共同体)が、「わたしたちは彼の栄光を見た」と証言するのです。それがこの福音書です。
 「わたしたち」(著者ヨハネとヨハネ共同体)が見たと証言する「彼の栄光」は、「父からのひとり子としての栄光」です。初期の福音宣教や他の福音書では、イエスは「神の子《フィオス》」として宣べ伝えられています。このヨハネ福音書だけが、イエスを父から遣わされた「ひとり子」《モノゲネース》という特殊な用語で語ります。これは「ただ一人生まれた者」という意味の語で、この方の他に神から直接生まれ、神と栄光を分かち合う「子」はいないという主張を込めた表現です。
 イエスに「父からのひとり子としての栄光」を見た「わたしたち」とは、イエスを復活者イエス・キリストと信じている者たちの共同体です。イエスを信じて聖霊を受け、その聖霊によって復活者イエス・キリストと現に霊の交わりに生きている者たちです。イエスを復活して神の右にあげられた方であることを知っている(体験している、あるいは見ている)者だけが、ナザレのイエスを永遠に神と共にいます方(ロゴス)の受肉であると告白することができるのです。受肉の信仰は、逆方向の復活信仰にほかなりません。

受肉信仰が逆方向の復活信仰であることについては、拙著講話集『キリスト信仰の諸相』277頁以下の「神の子の誕生」を参照してください。

 なお、一四節には最後に「恩恵と真理に満ちていた」という句がありますが、これは内容的には一六節に自然に続きますので、一六節のところで扱うことにします。ヨハネは、一四節から一六節に続く流れを中断するやや不自然な位置に、再び洗礼者ヨハネの証言を入れています(一五節)。

先におられた方

 ヨハネは彼について証をして、叫んで言った、わたしが言ったのはこの方のことである、
  わたしの後に来ようとしている方は、わたしより優れている、わたしより先におられたからである、と。(一五節)

 イエスの中に「父からのひとり子としての栄光」を見たとする「わたしたち」の証言を保証するために、著者ヨハネはイエスについての洗礼者ヨハネの証言をもう一度取り上げます(一五節)。「わたしたち」だけでなく、多くのユダヤ人に神からの預言者として信任されている洗礼者ヨハネも、同じことを証言していると主張するためです。
 洗礼者ヨハネが「わたしの後に来ようとしている方」と言ったのは、洗礼者の本来の宣教においては、彼の出現と活動のすぐ後に現れるはずの終末的な審判者を指していたのでしょう。その方は、終末的な存在であるので、神の救済史のご計画においては、歴史的な現象である洗礼者よりも先にその出現が定められていたわけです。そのことを洗礼者は「彼はわたしより先におられた」と語り、先におられた方であるゆえに「わたしよりも優れている」と断言するのです。古代の思考では、古いものほど根源的であり価値があるのです。
 洗礼者が、自分は終末的な審判者の出現の道備えをするために活動しているのだと語った言葉を、イエスを復活者キリストと信じる者の共同体は、イエスこそ洗礼者ヨハネが語った「わたしの後に来ようとしている方」にほかならないと理解して、洗礼者を復活者イエス・キリストの出現の道備えをする先駆者としたのです。
 このことは、本論の洗礼者ヨハネに関する記事(一・二五〜二七)において、共観福音書(マルコ一・七と並行箇所)と同じ表現を用いて語られていますが、著者ヨハネはそのことを「後に来る者が先にいる者だ」という謎めいた(それだけに刺激的な)逆説的表現で序詩に置くのです。

恩恵と真理

 わたしたちは皆、彼の充満の中から、恩恵の上に、さらに恩恵を受けた。
  律法はモーセを通して与えられ、恩恵と真理はイエス・キリストを通して成った。(一六〜一七節)

 イエスを復活者キリストと信じる「わたしたち」は、その方の中に「父からのひとり子としての栄光」を見ると同時に、その方が「恩恵と真理に満ちている」ことを体験します(一四節後半)。そして、その体験を「わたしたちは皆、彼の充満の中から、恩恵の上に、さらに恩恵を受けた」と告白します(一六節)。その上で、「わたしたち」がイエス・キリストにおいて受けたものを、モーセを通して与えられたものと対照して、「律法はモーセを通して与えられ、恩恵と真理はイエス・キリストを通して成った」(一七節)と謳います。
 「恩恵」は福音の内容そのものです。イエスは「神の支配」を宣べ伝えられましたが、その中身は「恩恵の支配」であることを、すでに『マルコ福音書講解』や『マタイ福音書講解』(とくに「山上の説教」の講解)で明らかにしてきました。また、パウロも、『パウロによるキリストの福音』で見てきたように、人が律法の行いではなく信仰によって救われるという福音を、恩恵の出来事として繰り返し語っています。
 「恩恵」とは、それを受ける資格も価値もない者に、神が無条件に救いとか御霊というような神からの賜物を与えてくださる事態を指しています。ところで、この「恩恵」《カリス》という語の新約聖書における用例を調べると、これはパウロ独自の用語であることが分かります。新約聖書の用例のほとんどはパウロ文書にあり、次にルカ文書(福音書と使徒言行録)にもやや多く出てきます。マルコとマタイにはなく、ヨハネ文書(福音書と手紙)では(手紙の挨拶を除くと)、序詩のこの箇所(一四〜一七節)に四回出てくるだけです。
 ヨハネが「恩恵」という用語を用いないからといって、ヨハネがキリストにおける恩恵を宣べ伝えていないのではありません。ヨハネは別の表現で、パウロが語る恩恵の事態を繰り返し語るのです。それは、マルコとマタイもこの用語は用いていませんが、イエスの宣教が「恩恵の支配」の告知であることを語っているのと同じです。そのことは本論部分の講解で見ていくことになります。
 ヨハネが本論の部分で「恩恵」という語を一度も用いていないのに、この序詩に四回出てくるのは、序詩が本来ヨハネの筆になるものではなく、すでに共同体で用いられてきた賛歌をヨハネが利用したと見る説の根拠の一つになります。しかも、それがパウロ独自の用語であるとなると、この賛歌はもともとエフェソを中心とする小アジアのパウロ系の共同体で用いられていた賛歌でないかという推定も示唆することになります。なお、《ロゴス》という語も序詩に出てくるだけで、本論にはその用語も思想も現れません。
 「真理」《アレーセイア》という語はヨハネ特愛の用語で、福音書にも手紙にも繰り返し現れます。しかし、この語はパウロ文書にもかなりよく用いられており、「恩恵と真理」という組み合わせは、パウロ系共同体の賛歌に現れても不思議ではありません。《アレーセイア》という語に込められた意味合いは、パウロとヨハネとでは微妙に違うところもあるようですが、基本的にイエス・キリストにおいて起こった霊的現実を指すことにおいて一致しています。
 ヨハネ福音書において「真理」《アレーセイア》が何を意味しているかは、本論の講解においてその都度触れることになりますが、ここではモーセを通して与えられた律法と対比される「恩恵と真理」(一七節)について簡単に触れておきます。
 律法は神からその民に与えられた要求です。これをしてはならない、それをすべきである、このような祭儀を行いなさい、このように考えなさいと、民が神との関わりを持つために必要な条項が並べられています。人間はその条項を行うことによって神との関わりを形成して神の民となるのです。モーセによって与えられた「契約」は、そのような性質の神との関わり方でした。ユダヤ教はこのモーセ契約に基づいた宗教です。
 それに対して恩恵は、そのような条項を行っているかいないかに関係なく、神が無条件に人を受け入れ、御自分に属する者として関わりをもってくださる事態です。このような事態はイエス・キリストの出来事において「成った」(起こった)のです。人は「イエス・キリストにあって」、すなわちイエス・キリストに結ばれることによって、このような恩恵による神との関わりの領域に入るのです。
 さらに、律法にはやがて現れる本体を予示する影としての側面があります。すなわち、律法は最終的に実現されるはずの神と人の関係を予め指し示しているのです。あれはするな、これをせよという要求は、人が神との関わりを完成したときに示す姿を、現実の人間生活の制約の中で不十分ながら指し示しているのです。また、このような祭儀を行いなさいという求めは、目に見えない神と人との霊的な関係を、目に見える象徴行為で指し示しているのです。祭儀は象徴体系です。そのように祭儀が影として指し示していた神と人との霊的なつながりの本体が、イエス・キリストの出来事において実現したのです。このキリストにおいて実現した神と人との霊的なつながりの実体を、ヨハネは「真理」《アレーセイア》と呼ぶのです。
 このように、イエス・キリストにおいて起こった出来事は、一面でモーセ律法とまったく別の原理による神と人との関わりをもたらすと同時に、そのことによって、モーセ律法が影として予示していたものの本体として、律法を完成成就するのです。ここに、福音は律法を否定すると同時に、否定することによって律法を成就するという逆説が賛歌独自の形で表現されています。

キリストの充満

 賛歌は「わたしたちは皆、彼の充満の中から、恩恵の上に、さらに恩恵を受けた」と謳います(一六節)。キリストを信じる者は皆、誰一人例外なく、「恩恵と真理に満ちた」(一四節)方の「充満」《プレーローマ》から「恩恵の上に、さらに恩恵を受けた」のです。この「恩恵の上に、さらに恩恵を」という表現は、キリストにある者の現実が、ただひたすら恩恵によるものであることを強調するものでしょう。

「恩恵の上に、さらに恩恵を」の部分の直訳は、「恩恵に代わって、恩恵もまた」となります。前置詞《アンティ》は本来「に代わって」の意であるので、岩波版はモーセを介して与えられた恵みとイエスを介して来た恵みを対立させて、「恵みに代わる恵みまでも受けた」と訳しています。しかし、当時の用例から、「の上に、の後に」と理解することも可能であるので(バウアー)、「充満の中から」受ける恵みの豊かさを表現する句として、「恩恵の上に、さらに恩恵を」と訳します。大多数の現代語訳はこの訳を取っています。岩波版のように、ヨハネが「モーセを通して与えられた律法」を恵みと理解していたと見ることには、問題が残ります。

 ここで注目されるのは、《プレーローマ》(充満)という語が用いられていることです。少しでもグノーシス主義系の文書を開いた者は、この《プレーローマ》という用語がグノーシス主義思想の鍵となっていることをよく知っています。

グノーシス主義において《プレーローマ》は、「至高神以下の神的存在によって満たされた超越的な光の世界を表現するために、グノーシス主義の神話で最も頻繁に使用される術語」です。この説明は、岩波書店『ナグ・ハマディ文書U』の「福音書」巻末の補注からの引用です。

 しかし、この用語が出てくるからと言って、この賛歌がグノーシス主義的であるというわけではありません。この語を多く用いるグノーシス主義文書はヨハネ福音書よりも後に成立したものです。むしろ、この賛歌の《プレーローマ》は、パウロ文書の流れから出ていると見られます。パウロ自身もローマ書とかコリント書で数回用いていますが、「パウロの名による書簡」に多く、しかも重要な位置に出てきます。コロサイ書には「神は御子の内にすべての充満(プレーローマ)を宿らせることをよしとされた」(一・一九)とか「キリストの内に神性のすべての充満(プレーローマ)が身体的に宿っている」(二・九)のような表現があり、またエフェソ書には「諸々の時の充満(プレーローマ)」(一・一〇)、「すべてにおいてすべてを満たしておられる方の充満(プレーローマ)」(一・二三)、「神のすべての充満(プレーローマ)」(三・一九)、「キリストの充満(プレーローマ)」(四・一三)という表現があります(引用はすべて直訳)。こうして見ると、この賛歌はもともとエフェソを中心とする小アジアのパウロ系の共同体で用いられたものを、(エフェソに移ってきた後期の)ヨハネ共同体が継承したのではないかという推定が強められます。
 復活者イエス・キリストには、「恩恵と真理」が満ちています。信じる者はその方の恩恵と真理の「充満(プレーローマ)」から「恩恵の上に、さらに恩恵を受け」、その方に結ばれることによって「真理に導き入れられる」(一六・一三)、すなわち、もはや影にすぎない象徴体系としての宗教ではなく、御霊の現実という本体の世界に生きるようになるのです。

ひとり子なる神

 いまだかって、神を見た者はない。
  父の懐にいるひとり子なる神、この方が解き明かされた。(一八節)

 ヨハネは、この受肉したロゴスへの賛歌を、彼独自の「ひとり子なる神」という表現を用いて締めくくります(一八節)。最初に述べたように、著者ヨハネは《ロゴス》というようなギリシア的な用語と概念を用いていますが、彼がこの賛歌で語っているのは実は、彼および彼の共同体が聖霊によってその交わりを体験している復活者イエス・キリストにほかなりません。最後にその復活者イエス・キリストを「父の懐にいるひとり子なる神」という表現で、その栄光を讃えます。
 ヨハネ福音書は、最後に復活されたイエスの顕現を語っていますが、その中でトマスは復活して現れたイエスに、「わたしの主、わたしの神よ」と言って、ひれ伏しています(二〇・二八)。これが、この福音書の信仰告白です。イエスを神とするのは、あくまでイエスが復活者キリストと「成って」おられるからです。ナザレのイエスがイスラエルの歴史の中に現れ、十字架上に死に、復活して神の右に上げられた出来事全体が、神の出来事として神を啓示しているのです。ヨハネ共同体は世界に向かって、その方を神として告知するのです。
 ヨハネは賛歌の冒頭で、「ロゴスは神であった」と言い、賛歌の最後にその方を「ひとり子なる神」と呼んで、賛歌を神であるロゴスの賛歌とします。そして、その賛歌と最後のトマスの告白をもって福音書全体を囲い込み、地上の人間イエスが受肉した神であるというこの福音書の主題を示しています。
 このような書き方からしばしば、ヨハネ福音書はイエスを「地上を歩む神」として描いていると評されます。しかし、ヨハネは人間イエスを直接神としているのではありません。そうであれば、人間を神とするのは神を汚すことだとするユダヤ人の批判は当たります。この福音書はあくまで復活者イエスを神としていることに留意しなければなりません。「受肉」という見方は、すでに復活を含んでいるのです。受肉は逆方向に見た復活です。受肉者イエスは復活者イエスです。この福音書で、「わたしは」と語るイエスは、地上の人間の姿で語る復活者イエスです。
 復活者イエス・キリストは神であるとは、(一節の講解で述べたように)神の身分にある方として、天地の創造者なる父なる神に向かい合い、共に寄り添っておられる方であることを意味しています。そのことがここでは「父の懐にいる」と表現されています。万物に先立って父から生まれた唯一の子として、永遠に父と親密な交わりの中におられます。それでこの福音書では、地上のイエスは常に「父のもとから来た」(受肉した)方として、そしてまた「父のもとに帰る」(復活する)方として語られることになります。
 「父の懐にいるひとり子なる神」である方が受肉して地上に現れたのは、神を見ることができない地上の人間に神を「解き明かす」ためです。わたしたち人間は直接神を見たり体験することはできません。神と人間の無限の隔たり、質的相違、越えがたい断絶は、当時のユダヤ教も深く自覚していました。そのため、神と人との間に立ってその結びつきを仲介する存在が考えられていました。天使とか知恵もそのような仲介者として活躍していました。そのような断絶した世界に、この福音書は復活者イエス・キリストこそ、隠された神の秘義を啓(ひら)き示す方であることを告知するのです。この方が啓(ひら)き示し(啓示し)解き明かす霊の事態がどのようなものであるのか、この福音書はその全体で語ります。
 そのさい、その「解き明かし」は復活者イエス・キリストとの対話という形で進みます。イエスに反対するユダヤ人も、イエスに従う弟子たちも、地上のことしか見えない人間として無知をさらけ出します。その無知に対して、復活者イエスは神の世界の奥義を語り、信じる者を真理に導き入れ、永遠の命を与えようとされます。その対話が、この福音書の内容となります。