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第三節 イエスについての証し

14 イエスについての証し(5章31〜47節)

 31 「もしわたしがわたし自身について証しをするのであれば、わたしの証しは真実ではない。 32 わたしについて証しをする者は他にあり、彼がわたしについてする証しは真実であることを、わたしは知っている。 33 ヨハネのもとに人を送ったのはあなたたちであり、彼は真理のために証しをした。 34 だが、わたしは人間からの証しを受けない。しかし、あなたたちが救われるために、このことを言っておく。 35 彼は燃えて輝くともしびであった。あなたたちはしばらくの間、彼の光の中で楽しもうと願った。
 36 だが、わたしにはヨハネよりも大きな証しがある。父が、成し遂げるようにとわたしに与えてくださった業、すなわち、わたしが行っている業そのものが、わたしについて、父がわたしを遣わされたことを証ししているのである。 37 また、わたしを遣わされた父ご自身が、わたしについて証しをしてくださってきた。あなたたちはいまだかってその方の声を聴いたこともないし、お姿を見たこともない。 38 また、あなたたちはその方のお言葉を自分の内に留めていない。その方が遣わした者をあなたたちは信じないからである。39 聖書を調べてみなさい。あなたたちは、聖書の中に永遠の命があると考えているのだから。だが、聖書はわたしについて証しをするものである。 40 それなのに、あなたたちは命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。
 41 わたしは、人からの誉れは受けない。42 しかし、あなたたちの中に神への愛がないことを、わたしは知っている。 43 わたしが父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし他の者が自分の名によって来るならば、あなたたちは受け入れるのであろう。 44 お互いの間で誉れを受けるのに、唯一の神からの誉れを求めないあなたたちは、どうして信じることができようか。
 45 わたしがあなたたちを父に告発すると考えるな。あなたたちを告発するのは、あなたたちが望みをかけてきたモーセである。 46 あなたたちがモーセを信じたのであれば、わたしをも信じたであろう。彼はわたしについて書いたのであるから。 47 だが、彼が書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしの語ることを信じることがあろうか」。

証人としての洗礼者ヨハネ

 先行する段落(五・一九〜三〇)では、イエス自身が自分のことを「父から遣わされた子である」と証ししておられます。それに対してユダヤ人からは、「あなたは自分について証しをしている。だから、あなたの証しは真実ではない」(八・一三)という批判が出ることを前提にして、その批判に応えるためにこの段落が始まります。

 もしわたしがわたし自身について証しをするのであれば、わたしの証しは真実ではない。(三一節)

 人が自分自身について立てる証言は信用できないとするのが、ラビのユダヤ教における原則です。イエス(ひいてはヨハネ共同体)もそれを認めます。その上で別の証人を登場させます。

 わたしについて証しをする者は他にあり、彼がわたしについてする証しは真実であることを、わたしは知っている。(三二節)

 「わたしについて証しをする者は他にあり」というその「他の者」(単数形)が洗礼者ヨハネを指していることは、後に続く三三〜三四節から明らかです。この福音書(とくに前半)では、洗礼者ヨハネが最大の証人です。彼はこの証言のために神から遣わされたとされます(一・六〜八)。
 ここまでにすでに洗礼者ヨハネはイエスについて度々証言してきました(一・一八〜三四、三・二二〜三六)。洗礼者ヨハネがイエスについて語る証言が真実であることを、イエスの言葉の形で、ヨハネ共同体はユダヤ人に主張します。共観福音書は、イエスが御自分の権威が問題にされたとき、洗礼者ヨハネの権威を認めるかどうかと迫る形で応答された神殿での問答(マルコ一一・二七〜三三とその並行箇所)を伝えています。ヨハネ福音書はその神殿での問答を伝えていませんが、その代わりこのような形で、洗礼者ヨハネの権威を認めて、イエスを信ずべきことを主張するのです。

 ヨハネのもとに人を送ったのはあなたたちであり、彼は真理のために証しをした。(三三節)

 この文では「あなたたち」が強調されています。著者ヨハネはイエスの権威を認めないユダヤ人たちに対して論争しています。あなたたち自身がヨハネのもとに人を遣わして、ヨハネの証言を求めたではないか(一・一九)。彼の証言をあなたたちはよく知っているはずだというのです。その洗礼者ヨハネは、自分はメシアではなく、自分の後に来る方が「世の罪を負う神の子羊」であり、「聖霊によってバプテスマする方」であると、「真理のために」証言したではないか(一・二〇〜三四)。あなたたちは彼がイエスについてなした「真理のための」証言を受け入れるべきではないか、と迫ります。

 だが、わたしは人間からの証しを受けない。しかし、あなたたちが救われるために、このことを言っておく。(三四節)

 イエスの言葉が真理であることは、人間の証言を得て初めて成立するのではありません。すぐ後(三六節以下)に語られるように、神ご自身が証ししてくださるのです。しかし、洗礼者ヨハネの権威を認めているユダヤ人たちが、ヨハネの証言によってイエスを信じるようになるために、本来は人間の証しは必要ではないのだが、あえてヨハネの証言をあげておく、と著者はユダヤ人に語りかけます。

 彼は燃えて輝くともしびであった。あなたたちはしばらくの間、彼の光の中で楽しもうと願った。(三五節)

 イエスが常に輝く「世の光」であるのに対して、ヨハネはしばらくは「燃えて輝く」が、いずれは消えていく(松明(たいまつ)のような)「燈火(ともしび)」とされています。洗礼者ヨハネが霊感を受けて、終末的な審判の切迫を告知している短い宣教活動の期間中、多くのユダヤ人はヨハネこそメシアではないかと期待し、イスラエルの復興を夢見て、期待の高揚を経験しました。洗礼者ヨハネの活動を見たユダヤ人の体験を、このような「しばらくの間燃えて輝くともしび」にたとえて、洗礼者ヨハネの証言は後に来る復活者イエス・キリストの証言であることをユダヤ人に思い起こさせます。
 このように、子としてのイエスの権威については本来は人からの証しは必要はないとしながらも、洗礼者ヨハネの権威を認めているユダヤ人たち(とくに洗礼者ヨハネをメシアとして仰いでいるユダヤ人たちの集団)に対して、彼の証言を思い起こさせた後、著者はイエスに関しては本来の証しである父御自身の証しを取り上げます。

父御自身の証し

 だが、わたしにはヨハネよりも大きな証しがある。父が、成し遂げるようにとわたしに与えてくださった業、すなわち、わたしが行っている業そのものが、わたしについて、父がわたしを遣わされたことを証ししているのである。(三六節)

 ヨハネ福音書は繰り返し、病気を癒し悪霊を追い出すなどのイエスの働き(奇跡)を、イエスが神から遣わされた方であることの「しるし」として指し示しています。その「しるし」がここでは「証し」として、それを見た者がイエスを信じるべき根拠とされます。この福音書は、「しるしを見て信じる」だけでは不十分としながらも(二・二三〜二五)、イエスがなされる業が、イエスを信じるために与えられた「しるし」であるという意義を強調します(一四・一一)。

この福音書における「しるし」の意義については、二章の「カナの婚礼」についての講解、とくに「最初のしるし」の項(本書86頁以下)を参照してください。

 そのような業は、イエスご自身の霊的能力によってなされる業ではなくて、「父が、成し遂げるようにとわたしに与えてくださった業」と言われています。子は父がなさることを見て同じことをされているのです。イエスがなさっている業は、人の業ではなく、父の業です。その業(働き)がとうてい人間にはできないものであることが、イエスが父から遣わされた方であることを証ししているのです。

 また、わたしを遣わされた父ご自身が、わたしについて証しをしてくださってきた。あなたたちはいまだかってその方の声を聴いたこともないし、お姿を見たこともない。(三七節)

 ここで論争相手のユダヤ人に対して強烈な言葉が投げかけられます。自分たちこそまことの神を知っている世界で唯一の民であると自負するユダヤ人に対して、この福音書のイエス(ひいてはヨハネ共同体)は、「あなたたちはいまだかってその方の声を聴いたこともないし、お姿を見たこともない」と断言するのです。この節の動詞(証しをする、聴く、見る)はみな現在完了形で、現在までずっと続いてきた状況を描いています。それは、現在に至るまでのイスラエルの歴史を総括する宣言です。
 イスラエルはモーセをはじめとする預言者たちを通して神の声を聴き、その姿を目で見ることはないにしても、神の本質の啓示を受けてきた(霊的な意味で姿を見た)と確信してきました。それが「イエスを遣わした父」の声を聴いたのではなく、その本質の啓示を受けたのではないのであれば、「イエスを遣わした父」とイスラエルの神(旧約聖書の神)は別の神になります。これはグノーシス主義の主張です。グノーシス主義は、イエスを世界に遣わした愛の霊神と、物質世界を創造し、イスラエルをモーセ律法によって支配するヤハウェ神とは別の神であって、イエスは真の霊知を与えることによって、人間を半神に過ぎない旧約の神から救い出して、至高の霊神に帰らせる救済者であるとしたのです。このような理解を可能にする言葉があるので、この福音書は後のグノーシス主義者たちに好まれたのでしょう。
 しかしそうではなく、著者ヨハネは、「イエスを遣わした父」はイスラエルの神であるが、その神がイスラエルの歴史の中でイエスについて証しされたことを受け入れなかったと、ユダヤ人の不信仰を非難しているのです。イエスを遣わされた父は、すでにイスラエルの歴史の中で、やがてイスラエルに遣わすことになる子について証しをしてこられたのに、「あなたたち」すなわちユダヤ人は、子について証しされる「その方の声を聴いたこともないし、お姿を見たこともない」という不信のかたくなな姿勢を変えることなく、ついにその方が来られたとき、その方を拒否するに至ったのだと、ユダヤ人の不信仰を断罪します。
 イスラエルの神がやがて遣わす子について証しされたことは、以下に続く聖書に関する箇所(三九節)とモーセに関する箇所(四六節)で具体的に語られることになりますが、その前にイスラエルの不信仰に対する攻撃がさらに続きます。

 また、あなたたちはその方のお言葉を自分の内に留めていない。その方が遣わした者をあなたたちは信じないからである。(三八節)

 あなたたちユダヤ人は、イエスを遣わされた父の「声を聴いたこともないし、お姿を見たこともない」だけでなく、「その方のお言葉を自分の内に留めていない」と、著者はユダヤ人を非難します。
 ユダヤ人(ユダヤ教徒)は、モーセ律法を熱心に学び、それを神の言葉として実行しようとしてきました。その歴史がこの言葉によって全面的に否定されます。ユダヤ人は熱心に神の言葉を追い求めましたが、神の言葉はユダヤ人たちの中に宿っていないとするのです。ユダヤ人はその目標に達しなかったのです。それは、「その方が遣わした者を信じないから」です。イエスを信じないかぎり、子について語ってこられた父の言葉を受け入れていないのですから、「その方の声を聴いたこともないし、お姿を見たこともない。また、その方のお言葉を自分の内に留めていない」ことになります。三七〜三八節は、イエスを信じないユダヤ教に対する過激な否定の宣言です。

聖書の証し

 聖書を調べてみなさい。あなたたちは、聖書の中に永遠の命があると考えているのだから。だが、聖書はわたしについて証しをするものである。(三九節)

 こうして、イエスの父、すなわちイスラエルの神が、やがて遣わされる子について語ってこられたことが、聖書について具体的に取り上げられます。

ここで「聖書」と訳した語は、原文では「書かれたもの」(複数形)です。1世紀末(この福音書が書かれる頃)までユダヤ教の正典は確定していませんでした。「トーラー」(モーセ五書)と「預言者」は確定していましたが、「諸書」はまだ流動的であり、全体をまとめて「聖書」と呼ぶことはありませんでした。当時ユダヤ教において権威のある文書は、たんに「書物」とか「聖なる書」(複数形)と呼ばれていました(ロマ一・二)。

 「あなたたち」、すなわちユダヤ人たちは「聖書の中に永遠の命があると考えている」人たちでした。ユダヤ教においては、律法(トーラー)を正しく理解して順守することが命に至る唯一の道ですから、律法を記した聖書こそその中に命を持っている書だと考えられていました。救いとか永遠の命を書物の中に求めるという性格は、捕囚後のユダヤ教において始まっていましたが、70年の神殿崩壊以後は、「書かれたもの」がさらに重要な信仰の拠り所になり、「書物の宗教」としての性格が一段と決定的になっていました。著者ヨハネはそのような段階のユダヤ教に向かって、「(あなたたちが命の拠り所としている)聖書はわたしについて証しをするものである」、すなわち聖書は御子イエス・キリストについて証言するもので、御子こそユダヤ教の本体であると主張するのです。
 イエスの出現、とくにその十字架の死と復活は聖書(旧約聖書)を成就する終末的な出来事であるという主張は、福音の第一項をなす重要な内容です。福音は、イエス・キリストの十字架の死と復活が聖書に預言され約束されていた終末の救いの出来事であると告知します(コリントT一五・三〜五、ローマ一・二)。この告知は、新約聖書の各文書の著者たちによってそれぞれの独自の形で強調されています。たとえば、マタイはイエスの生涯の出来事の一つ一つに「それは聖書が成就するためであった」という意味づけを与えています。ルカは復活のイエスの言葉として、「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩篇に書いてある事柄は、必ずすべて実現する」と言っています(ルカ二四・四四)。そのことをヨハネは「聖書はわたしについて証しをするものである」という形で宣言するのです。
 こうして、イエスについて証しをするものとして、洗礼者ヨハネとイエスがされている力ある業(奇跡)に続いて、聖書があげられることになります。ところが、この聖書に対してもユダヤ人は正しい対応をしていないという非難が続きます。

 それなのに、あなたたちは命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。(四〇節)

 あなたたちがその中に命があると考えている聖書はわたしについて証しをする書であるのに、その聖書の本体であるわたしを受け入れようとしないのは間違いではないかというイエスの言葉(三九〜四〇節)は、イエスを父から遣わされた子であると信じないユダヤ人(ユダヤ教会堂)に対する著者ヨハネ(ヨハネ共同体)の論争です。
 もちろんこの論理は、聖書が御子イエス・キリストを証しする書であることを前提としてます。ところが、ユダヤ人たちがイエスを信じないのは、聖書がイエスが神の子であると証言していることを認めないからです。むしろ、イエスの言動は聖書の根本原理を否定するものとして、死に値すると判断したのです。ユダヤ教は、自分たちが理解する律法としての聖書を基準にしてイエスを判断したのです。それに対して、ヨハネ共同体(ひいてはイエスを信じる者たち)はイエスをキリストと信じる信仰を基準にして聖書を解釈するのです。ここに、聖書に対する態度の根本的な対立があります。
 聖書(旧約聖書)は、ヤハウェとの関わりの中で歩んだイスラエルの歴史の中から生み出された信仰の文書です。しかし、イエスやヨハネの時代のユダヤ教会堂においては、民の信仰と生活を外から律する戒めの体系になっていました。それに対して、ヨハネ共同体は自分たちが御霊によって体験して内に宿している復活者イエス・キリストの現実から聖書を解釈し、聖書の中に自分たちと同じ御霊の働きを認めて、聖書と対話したのです。このような外から人間の行為を律する戒めの言葉を(それが石の板に刻まれたものであれ羊皮紙にインクで書かれたものであれ)、パウロは「文字」と呼んで、「文字は殺し、霊は生かす」と喝破しましたが、ヨハネはそれをこのような聖書に関するユダヤ教との論争の形で表現するのです。
 この聖書に関する論争は、現代の聖書信仰についても重要な示唆を与えます。キリスト教会は聖書(旧約聖書と新約聖書)を神からの啓示の集成である正典とし、その中に永遠の命があるとして世界に提示しています。しかし、その文書の言葉を外から人間を律する基準とすると、パウロがユダヤ教について「文字は殺す」と言った事態が、そのままキリスト教においても起こります。キリスト教ファンダメンタリズム(根本主義)には、しばしばこのような傾向が見られます。ファンダメンタリズムは信徒に聖書の信仰内容を「文字通りに」言い表し、聖書の行為規定を「文字通りに」行わなければならないと要求します。しかし、御霊によるキリストの現実がないところでの外からの規制は、魂を圧迫し、霊的生命を圧殺する結果になります。
 聖書は復活者イエス・キリストについて証言する文書です。聖書はあくまで、その本体である復活者イエス・キリストの現実から理解されなければなりません。そのためには、まず復活者イエス・キリストのもとに来て(というのは、この方に身を委ねることです)、御霊によってこの復活者キリストと結ばれて生きる現実がなければなりません。その現実の中で聖書と対話し、その個々の内容を解釈し、全体を復活者イエス・キリストの証言として理解するように努めなければなりません。このように、御霊によって生かされている現実がなければ、「聖書主義」は、ユダヤ教の聖書主義や律法主義と同じく、「文字は殺す」という結果を招きます。

人からの誉れと神からの誉れ

 ユダヤ人が子について証しをする聖書を持っていながら、子であるイエスを信じない理由を、著者はどこに誉れを求めるかという視点から論じます。以下の一段(四一〜四四節)は、誰からの誉れを求めるかで、その人物がどこから来たかが判別できるという主張をかかげています。

 わたしは、人からの誉れは受けない。(四一節)

イエスは人から遣わされたのではなく、また、この世から来られたのでもないので、「人からの誉れは受けない」と言われます。これは、イエスは人からの誉れを受ける必要はない、人からの誉れをイエスの証しとする必要はない、あなたたちユダヤ人の承認を必要としない、とヨハネ共同体がユダヤ人に言っているのです。

 しかし、あなたたちの中に神への愛がないことを、わたしは知っている。(四二節)

 冒頭の「しかし」は、人からの誉れを求めないイエスと、神への愛がないため人からの誉れだけを求めるユダヤ人とを対比しています。
 イエスはユダヤ人に認めてもらってはじめて子であるのではありませんが、ユダヤ人がイエスを子であると認めないのは、ユダヤ人の中に「神への愛がない」からだと、著者はユダヤ人を糾弾します。「わたしは知っている」は、実はヨハネ共同体がユダヤ教会堂に投げつける判断です。
 原文は「神の愛がない」ですが、文脈からして、「神から愛されていない」という意味ではなく、「神への愛がない」と理解すべきです。そうするとこれは、自分たちこそ神を愛し、熱心に律法を守ることでその愛を現していると自負するユダヤ人に対する激しい糾弾になります。著者がユダヤ人には神への愛がないと断定するのは、神が遣わされた子であるイエスを受け入れることで神からの誉れを求めようとはしないからです。そのことが次節で語られます。

 わたしが父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし他の者が自分の名によって来るならば、あなたたちは受け入れるのであろう。(四三節)

 「名によって来る」は「遣わされる」の別表現です。イエスは父の名代として遣わされて、この世に来た方です。だから、イエスは自分を遣わした父の誉れだけを求め、自分には父からの誉れだけを求められます。イエスがそういう方であるのに、ユダヤ人はイエスを受け入れません。ユダヤ人は父を愛し敬っていないからだと、著者は断定します(四二節)。
 それに対して、「もし他の者が自分の名によって来るならば」、すなわち、神から遣わされるのではなく、自分の価値を拠り所にし、自分の主義思想を根拠にして人々に呼びかける人物が現れるならば、彼らはあなたたちと同じ立場に立つのであるから、あなたたちは彼らを理解し賞賛して「受け入れる」ことになろうと言われます。当時のヘレニズム世界では、様々な宗教的・哲学的立場の教師たちが自分の教えを説いて、人々の賞賛と帰依を得ていました。著者は、そのような種類の教師たちと比べて、イエスは父から遣わされた方であるので、人からの誉れとか賞賛を必要としない別種の方であることを強調します。

 お互いの間で誉れを受けるのに、唯一の神からの誉れを求めないあなたたちは、どうして信じることができようか。(四四節)

 自分の価値を根拠にして立つ者は、その価値に対する人からの承認と賞賛を求めます。彼らは神からの承認を必要としません。人間同士の間での賞賛とか誉れだけを求めている者たちは、神からの誉れを求めないのですから、神が遣わされた方を受け入れる必要がありません。著者は、ユダヤ人がイエスを信じないのは、彼らが人間からの誉れだけを求めているからだと診断します。

モーセの告発

 わたしがあなたたちを父に告発すると考えるな。あなたたちを告発するのは、あなたたちが望みをかけてきたモーセである。(四五節)

 イエスは、自分を信じないユダヤ人を神の前に告発して裁きを求めることはされません。イエスは民を裁くために来られた方ではなく、民を救うために来られたのです(三・一七)。ここの「告発する」は未来形です。最後の裁きの場で、ユダヤ人のイエスへの不信仰を告発するのは、イエスではなくモーセであるとされます。モーセといえば、イスラエルに神の契約と律法を与えて、イスラエルを神の民としたユダヤ教の最高の預言者です。ユダヤ人は、自分たちはモーセの弟子であるとし、モーセを自分たちが神の民であることの最終的な拠り所としていました。そのモーセが、神の裁きの場でイエスを信じないユダヤ人を告発するというのです。

 あなたたちがモーセを信じたのであれば、わたしをも信じたであろう。彼はわたしについて書いたのであるから。(四六節)

 「彼はわたしについて書いた」というのは「モーセ五書」を指しています。ユダヤ教においては、《トーラー》と呼ばれる「モーセ五書」はみなモーセが書いたとされていました。その「モーセ五書」は子であるイエスについて証言しているのであるから、モーセを真に信じたのであれば、イエスを信じることになるし、逆にイエスを信じないことはモーセを信じないことになると、著者はイエスを信じない現在のユダヤ教会堂を告発しているのです。
 モーセを通して語ったイスラエルの神は、イエスを遣わした父であることが本節で明言されています。ヨハネは、モーセを通して語ったイスラエルの神とイエスを遣わした父とは別の神であるとするグノーシス主義者ではないことが明らかです。著者は、他のすべての新約聖書文書の著者たちと同じく、旧約聖書は福音の証人であるとの立場に立っています。

 だが、彼が書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしの語ることを信じることがあろうか。(四七節)

 「彼が書いたこと」の原文は「彼の文字(複数形)」です。ユダヤ教においてモーセの著作とされる「トーラー」(モーセ五書)全体を指しています。「トーラー」は「聖書」の核であり、基礎となる部分ですから、この節でも先の「聖書はわたしについて証しするものである」という主張が繰り返されていることになります。
 著者は、現在のユダヤ教会堂がイエスの語られること(とくにこの段落でイエスが御自分について証ししておられること)を信じないのは、彼らがモーセが書いたことを信じていないからだとします。そのさい、「わたしの語ること」にヨハネ共同体の証言を重ねています。ユダヤ人たちがイエスについてのヨハネ共同体の証言を信じないのは、正しく「トーラー」を信じていないからであると、ユダヤ人の聖書理解の間違いを糾弾するのです。
 このイエスを信じないことはモーセを信じないことを意味するという著者の議論は、ユダヤ教に対する著者(ヨハネ共同体)の重大な挑戦です。モーセによって創始されたイスラエルの宗教を真に継承して完成しているのは、キリストとしてのイエスを信じる民であって、イエスを信じないで敵対する現在のユダヤ教会堂はモーセの宗教から脱落しており、モーセ自身がイエスを信じない現在のユダヤ人を告発すると、著者は主張するのです。

むすび ―― ヨハネ共同体とユダヤ教会堂との論争

 以上見てきましたように、ヨハネ福音書五章は、地上のイエスとその時代のユダヤ人との対話というよりは、復活者イエス・キリストを神として告白するヨハネ共同体と、たとえメシアであっても人間を神とすることを最大の?神とするユダヤ教会堂との激しい論争を描いていることが分かります。もちろん、福音書はこの論争を通して、復活者イエス・キリストを神とする自分たちのキリスト告白を、世界に向かって告知しているのです。しかも、著者は自分たちのキリスト告白を地上のイエスに重ねて語ります。これが受肉信仰を形成することになります。
 復活者イエス・キリストをどのような方として理解し言い表すか、それをキリスト論と言いますが、新約聖書の内部でも、各文書のキリスト論は一様ではなく多様多彩です(その中の代表的のものについて、拙著『キリスト信仰の諸相』の第一部「キリストの諸相」を参照してください)。その中でヨハネ福音書は、復活者イエス・キリストを明確に神として告白することにおいて、他の文書に比べて際だっています。
 初期の福音宣教の多様な流れの中で、どのような事情で、ヨハネ共同体の中でこのような特異で高度なキリスト論が形成されるにいたったのか、その過程を探求することは興味深い課題です。また、こうして形成された高度なキリスト論をめぐる論争が、どのような状況に促されて、現在の福音書の形になったのかを探求することも、この福音書を理解する上で有益な仕事です。しかし、それはこの講解の範囲を超える課題ですので、機会があれば別に扱うことにして、ここでは五章の論争が、このような高度のキリスト論をめぐるヨハネ共同体とユダヤ教会堂の論争であることを指摘するにとどめます。