市川喜一著作集 > 第15巻 対話編・永遠の命T > 第16講

第三節 弟子たちのつまずきと分裂

9 弟子たちの分裂(6章 60〜71節)

 60 すると、これを聞いた弟子たちの中の多くの者が言った、「この言葉はひどい。誰がこんな言葉を聴いておられようか」。 61 イエスは、自分の弟子たちがこのことについてつぶやいているのを知り、彼らに言われた。「このことがあなたたちをつまずかせるのか。 62 それでは、人の子が前にいたところに昇っていくのを見るならば・・・・。 63 御霊こそが命を与えるものであって、肉は何の役にも立たない。わたしがあなたたちに語ってきた言葉は霊であり、命である。 64 しかし、あなたたちの中には信じない人たちがいる」。イエスは最初から、誰が信じない者たちであるか、また、誰が自分を裏切る者であるか知っておられたのである。 65 そして、こう言われた、「だからこそ、父からその人に与えられるのでなければ、わたしのもとに来ることはできないと言っておいたのだ」。
 66 この時から、弟子の多くの者たちが離れ去り、もはやイエスと一緒に歩まなくなった。 67 そこでイエスは十二人に言われた、「あなたたちもまた、去って行こうとするのか」。 68 シモン・ペトロが答えて言った、「わたしたちは誰のところに行きましょうか。あなたには永遠の命の言葉があります。 69 わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」。 70 イエスは彼らにお答えになった、「あなたたち十二人を選んだのはわたしではなかったか。ところが、あなたたちの一人は悪魔である」。 71 イエスはイスカリオテのシモンの子ユダのことを言っておられたのである。彼がイエスを裏切ることになるからである。実に、十二人の中の一人が裏切ったのである。

弟子たちのつまずき

 すると、これを聞いた弟子たちの中の多くの者が言った、「この言葉はひどい。誰がこんな言葉を聴いておられようか」(六〇節)

 五一節後半から五八節までが挿入であるとすると、原著において「この言葉」は、それ以前の「命のパン」についてのイエスの説話を指すことになります。たしかに、「わたしは天から降ってきた命のパンである」というような言葉は、ユダヤ人には受け入れがたい言葉です。しかし、「わたしの肉を噛みしめ、わたしの血を飲む」というような挿入部分の言葉は、さらに受け入れがたい言葉となります。挿入であるとしても、編集者は原著の文脈を損なうことなく、イエスとユダヤ人との立場の違いと対比をさらに強烈にしていると言えます。この強烈な対比が、これまでイエスに従ってきた弟子たちさえもつまずかせて、多くの弟子が去ることになります。
 ヨハネ福音書の霊的使信を聴こうとするとき、編集過程の分析はあまり意味はありません。わたしたちは現形のヨハネ福音書を理解するように努めなければならないと思います。そして現形の文脈では、「この言葉」は直前の「わたしの肉を噛みしめ、わたしの血を飲む」という言葉を指し、それが弟子たちさえつまずかせ、弟子たちに「この言葉はひどい。誰がこんな言葉を聴いておられようか」と言わせることになります。先に、「わたしは天から降ってきた命のパンである」というイエスの言葉にユダヤ人がつまずきました(四一〜四二節)。今、「わたしの肉を噛みしめ、わたしの血を飲む者は永遠の命を持ち、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(五四節)という言葉に「弟子たちの中の多くの者」がつまずくのです。
 弟子たちもみなユダヤ人です。イエスに対するつまずきはユダヤ人の間で一段と先鋭になり、これまでイエスがなされる力ある働きに圧倒されて従ってきた弟子たちでさえ、「この言葉はひどい。このようなひどい言葉を語る者に、誰がこれ以上聴き従って行くことができようか。このようなひどい言葉は、まともに相手にすることはできない」と言わせることになります。対話の相手は、群衆からユダヤ人に、そしてユダヤ人から弟子たちに絞られ、つまずきはますます深刻になってゆきます。

 イエスは、自分の弟子たちがこのことについてつぶやいているのを知り、彼らに言われた。(六一節前半)

 弟子たちはこのような思いを口に出して言ったのではないでしょうが、イエスは弟子たちの思いを見抜いて語り出されます。「イエスは知り」とあるところは、原文では「ご自分の中で認め」となっています。この福音書では、イエスは人々の心の動きを見通しておられる方として、対話や物語が進行します(二・二四〜二五参照)。
 著者あるいは彼の共同体は、イエスの弟子であると称する周囲のグループの中にも、十字架の奥義を理解せず、表面的にイエスに従っているだけの人たちがいることを知っており、そのような「弟子たち」に向かって、「わたしの肉を噛みしめ、わたしの血を飲む者こそが永遠の命を持つ」という霊的真理、すなわちキリストの死に合わせられて自分が死に、復活者キリストに結ばれて生きる者が永遠の命を持つのだという真理を、改めて提示します。

 「このことがあなたたちをつまずかせるのか。それでは、人の子が前にいたところに昇っていくのを見るならば・・・・」。(六一節後半〜六二節)

 「人の子」は本来黙示思想の用語であり、終末時に天から現れる審判者であり救済者である超自然の人物を指します。ヨハネ福音書は、イエスをこの「人の子」が天から降ってきて地上に現れた方として描いています(一・五一、三・一三、五・二七など)。したがって、「人の子が前にいたところに昇っていく」というのはイエスの復活・昇天を指すことになります。

用いられている動詞も自動詞の「昇る」《アナバイノー》であって、十字架上の死を指すのに用いられる「上げられる」(《ヒュプソー》の受動態)ではありません。ここに十字架に上げられることを読むことは無理です。

 この文(六二節)は、「もしあなたたちが〜を見るならば」という条件文ですが、この条件文に対応する「〜するであろう」という帰結を示す主文がありません。この文が前節の弟子たちのつまずきに対する発言であることから、「あなたたちがつぶやくことはなくなるであろう」という意味の主文を補ってよいでしょう。ユダヤ人や弟子たちが「命のパン」に関するイエスの言葉につまずくのは、イエスが復活者であることを信じないで、地上の人間の言葉として受け止めているだけだからです。「人の子が前にいたところに昇っていくのを見る」ことによって、「命のパン」の言葉の主語が復活者であることを悟れば、「わたしは天から降ってきたパンである」という言葉が真理であることを悟り体験することになるはずです。
 十字架につけられた一ユダヤ人であるナザレのイエスを「天から降ってきた」神の子、唯一の救済者であるとする点が、福音告知の最大のつまずきです。それは、イエスが復活して天に昇られたことを信じないからです。イエスの復活を信じるならば、地上のイエスが「天から降ってきた」人間、すなわち神の子が人間の姿をとって現れた方であることを信じることができます(これが受肉の信仰です)。ですから、受肉の信仰は、逆方向に見た復活信仰に他なりません。

受肉の信仰が逆方向に見た復活信仰であることについては、拙著『キリスト信仰の諸相』281頁以下の「受肉」と「人にして神」の項を参照してください。

 このように理解すると、六二節は直前の「わたしの肉を噛みしめ、わたしの血を飲む者こそが永遠の命を持つ」という主張の弁証ではなく、その前の「わたしは天から降ってきたパンである」という告知の根拠を説明していることが分かります。このことも、五一節後半から五八節の部分が原著に後から挿入された部分であるとの主張を擁護します。
 では、現形の福音書においては、六二節はどう理解すればよいのでしょうか。もしわたしたちが「人の子が前にいたところに昇っていくのを見るならば」、すなわちイエスを復活者キリストと信じ、御霊によってその事実を体験するならば、その方の地上での十字架の死が終末的な出来事であることを悟るはずです。すなわち、イエスの十字架はたんに一人の義人が殉教したというのではなく、終末時に神が世に遣わすと約束されていた方による最終的な「あがない」の出来事であることを悟ります。イエスが「天から降ってきた人の子」であることを悟ることは、その十字架の死が神の終末的なあがないの業であることを悟り、その死に合わせられることが救いであることを悟るに至らせます。このようにして、「人の子が前にいたところに昇っていくのを見る」ことは、イエスが天から降ったパンであることを悟るだけでなく、同時にその十字架の死がわたしたちの救いであることを悟ることを含むことになります。すなわち、「わたしの肉を噛みしめ、わたしの血を飲む者こそが永遠の命を持つ」という謎の言葉を悟ることになります。

 「御霊こそが命を与えるものであって、肉は何の役にも立たない。わたしがあなたたちに語ってきた言葉は霊であり、命である」。(六三節)

 この節の「霊と肉」の対比は、人間の内面的・精神的側面と外的・身体的側面の対比ではなく、神の霊に属する次元と人間の本性に属する次元の対立です。新約聖書で《ト・プニューマ》(定冠詞つきの霊)は普通神の霊、御霊を指します(ここもその形です)。「御霊こそが命を与える」という宣言は、実はパウロの福音の核心です。「文字は殺し、御霊は生かす」のです(コリントU三・六)。復活者キリストは「命を与える霊」です(コリントT一五・四五)。ヨハネも同じことを主張します。
 この福音書でも、「肉」《サルクス》は神の霊の質と対立する生まれながらの人間本性を指し、そこからは神に属する命の次元は生じえないことが主張されています(ここや一・一三、三・六、八・一五)。「肉は何の役にも立たない」のです。その点で、パウロにおける「肉」《サルクス》の用法と同一線上にあります。

ところが、五一節後半から五八節までの部分の「肉」は、「体」とほぼ同じ意味で肯定的に用いられ、キリストの体を指しています。それに対して、ここや他の本体部の用例ではキリストの体を指すことは決してなく、意味が全然違います。この部分が本来の福音書の一部ではないと判断される理由となります(五一節の「わたしの肉」についての注を参照)。

 「わたしがあなたたちに語ってきた言葉」という主語を説明する「霊であり、命である」という述語(霊にも命にも定冠詞はついていません)は、その言葉の属する次元と質を説明しています。すなわち、イエスが語られるものとしてこの福音書に記録されている言葉は、神の霊の働きと、その結果生まれる命という次元を語るものであって、人間的に判断される種類のものではないと主張しているのです。この福音書のイエスの言葉は、ヨハネ共同体がユダヤ人に対して語る言葉と重なっており、「わたしたちがあなたたちに語っている言葉」、すなわちこの福音書の言葉はそのような質の言葉であると主張しているのです。
 この福音書のイエスの言葉(ひいてはヨハネ共同体が宣べ伝える福音の言葉)は、神の霊の働きと、その結果生まれる命という次元を語るものであるのに、対話の相手のユダヤ人や弟子たちがそれを生まれながらの人間本性の体験とか理解の範囲内でしか受け取らないので、対話はいつも深い溝で隔てられて平行線をたどります。

弟子たちが去る

 「しかし、あなたたちの中には信じない人たちがいる」。イエスは最初から、誰が信じない者たちであるか、また、誰が自分を裏切る者であるか知っておられたのである。(六四節)

 イエスは弟子たちに向かって、「あなたたちの中には信じない人たちがいる」と言われます。この「信じない人たち」というのは、自らイエスの弟子であると称していながら、この福音書で告知されている受肉者としてのイエスの本質を悟らず、結局イエスから離れて行く者たち(六六節)を指していると見られます。
 この「信じない者たち」への言及は、ヨハネ共同体で起こった分裂を念頭に置いているのかもしれません。イエスの弟子の集団であるヨハネ共同体からも多くの人たちが出て行きました(ヨハネの手紙T二・一九)。著者ヨハネは、弟子たちの中にも信じない者が出ることをイエスが「最初から知っておられた」こととし(すなわち、神のご計画の中の出来事であるとし)、去って行った者たちは「父から与えられた」者たちではないからだと理由づけます(次節)。

 そして、こう言われた、「だからこそ、父からその人に与えられるのでなければ、わたしのもとに来ることはできないと言っておいたのだ」。(六五節)

 先に(四四節で)言われた言葉が改めて引用されて、イエスから離れ去る者が出ることも神の御計画の中の出来事とされます。このことは逆に、イエスのもとに来ることができるのは、父の恩恵によるのであって、決して人間の側の理解や意志によるのではないと告白しているのです。イエスの弟子としてイエスのもとに留まり、イエスと共に歩むことができるのは、神の恩恵の選びの結果です(四四節の講解参照)。

 この時から、弟子の多くの者たちが離れ去り、もはやイエスと一緒に歩まなくなった。(六六節)

 「この時から」というのは、直前の「わたしの肉、わたしの血」についての対話の時だけをさすのではなく、五つのパンで五千人に食べ物を与えられた出来事と、それに続く「命のパン」の対話全体(すなわち六章の出来事の全体)を指しています。パンの出来事は、イエスの宣教活動の転機となります。

「この時から」の原文は「これから」です。「これ」を「この時」と理解するか(協会訳、岩波版)、「このこと」と理解して「このために」と訳すか(新改訳、新共同訳)、両方が可能です。ここではパンの出来事がイエスの宣教生涯の転機になったことを重視して、時を指すと理解します。

 パンの奇蹟を見て、イエスに対する民衆の期待は高揚します。人々は「この方こそほんとうに世に来るはずのあの預言者である」と言って、イエスを王にしようとします。ところが、イエスは人々を去らせて一人で山に退かれます(六・一四〜一五)。この記事は、民衆のメシア期待とイエスの道がかけ離れていることを示していましたが、イエスがパンについて語られた言葉によって、これまでイエスにつき従ってきた弟子たちもつまずき、イエスから去っていきます。残った者は十二人だけとなります(六七〜六九節)。
 パンの出来事がイエスの宣教生涯の転機になったことは共観福音書も伝えています。この時までは期待に燃えたガリラヤの民衆がイエスを取り囲んでいましたが、この時からイエスは十二人の弟子だけを連れて遠く北方の異郷の地を巡り歩かれることになります。マルコなど共観福音書はこの事実だけを描いて、このパンの出来事が転機となったことを示唆していますが、ヨハネ福音書はこの転機をはっきりと「弟子の多くの者たちが離れ去り、もはやイエスと一緒に歩まなくなった」と語り、その理由も六章全体で詳しく描くのです。

十二弟子の告白とその中の一人の裏切り

 そこでイエスは十二人に言われた、「あなたたちもまた、去って行こうとするのか」。 (六七節)

 この福音書では、ここではじめて突然「十二人」という呼称が出てきます。ヨハネ福音書にはイエスが十二人を選ばれた記事とか十二人の人名表はありません。「十二人」が登場するのは、ここ(六六〜七一節)と二〇章二四節だけです。著者は「十二人」を周知の弟子団として扱っていますが、その権威を重視することなく、むしろリストにない弟子を重視する傾向があります。これは、ヨハネ共同体が「十二使徒」を権威と仰ぐ教団主流と距離を置いた流れにあることを示唆するものと考えられます。

ヨハネ共同体が「十二人」とは別の「もう一人の弟子」によって形成された共同体であることについては、「『もう一人の弟子』の物語――ヨハネ文書の成立について」を参照してください。

 シモン・ペトロが答えて言った、「わたしたちは誰のところに行きましょうか。あなたには永遠の命の言葉があります。わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」。(六八〜六九節)

 ヨハネ共同体においても、ペトロが「十二人」を代表する使徒であることは、知られていたようです。「あなたたちもまた、去って行こうとするのか」というイエスの問いかけに、ペトロは十二人を代表して、「わたしたちはあなたから去って誰のところに行きましょうか。そんなことはできません」と言って、去ることができない理由をイエスに対する信仰告白の形で述べます。
 共観福音書では、ペトロは「あなたはメシアです」と告白したことになっていますが、ヨハネ福音書では、ペトロは「あなたには永遠の命の言葉があります」と告白します。「永遠の命の言葉」とは、それを聴いて受け入れる者に永遠の命を与えるという質の言葉のことです。この文の直訳は、「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」ですが、イエスが自分とは別にそのような言葉を持っておられるのではなく、イエス自身がそのような次元の言葉《ロゴス》の受肉者であるというのがこの福音書の立場ですから、少しでもそのような意味に近づけるために、「あなたには永遠の命の言葉がある」と訳しています。むしろ、「あなたこそ永遠の命の言葉そのものです」というのが、この福音書の本音であると言えるでしょう。
 共観福音書では、ペトロは「メシア」という表現を用いて告白していますが、ヨハネ福音書では「神の聖者」という表現が用いられています。ヨハネは別の伝承を用いているのかしれません。しかし、もしヨハネがマルコを知っているのであれば、この福音書が「メシア」という語を避けたのは、イエスがユダヤ人のメシア概念の枠内で理解されることを避けるためであると考えられます。しかし同時に、この福音書が明白に告知している「神の子」という称号(二〇・三一)も用いないで、旧約聖書的でやや古風な「神の聖者」という称号(マルコ一・二四参照)を用いたのは、おそらく、この時のペトロの告白をなお復活前の地上の出来事としての相で描こうとしたからでしょう。
 ペトロは「わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」と言っています。この福音書においては、「信じる」と「知る」はほとんど同じです。この福音書で「信じる」とは、「の中へ」という表現と一緒に用いられることからも分かるように、復活者であるイエスの中に自分の全存在を投げ込む実存的行為です。その中でイエスがどのような方であるかを身をもって知るのですから、「信じる」と「知る」は一体となり、「信じ、また知っています」と一息に語られます。

 イエスは彼らにお答えになった、「あなたたち十二人を選んだのはわたしではなかったか。ところが、あなたたちの一人は悪魔である」。(七〇節)

 「十二人」の権威は、イエスが直接彼らを弟子に選ばれたという事実にあるとされていました。ところが、まさにその中の一人がイエスを裏切ったのですから、イエスが選ばれたという事実が直ちに権威の源になるのではないことが分かります。権威はあくまで、現実に復活者イエスに忠実に従っているかどうかにかかっています。その点では「十二人」以外にも忠実な弟子はいるのであって、「十二人」が唯一の権威ではないと、この節は暗に示唆していることも考えられます。
 なお、神に敵対する霊的人格を指すのに、共観福音書では「サタン」という呼称が多く用いられていますが、ヨハネ福音書では「サタン」は一回だけで(一三・二七)、もっぱら「悪魔」《ディアボロス》が用られます(八・四四など三回)。

 イエスはイスカリオテのシモンの子ユダのことを言っておられたのである。彼がイエスを裏切ることになるからである。実に、十二人の中の一人が裏切ったのである。(七一節)

 ユダがシモンの子であることを述べるのはヨハネだけで、共観福音書では「イスカリオテのユダ」と呼ばれています。「イスカリオテ」の意味については議論が続いており、決着していません。大別すると、「シカリ」(短刀)から出た語で、ユダが「シカリ派」とも呼ばれる熱心党の出身であるという見方と、ユダの出身地を示す地名であるという見方があります。地名と見る場合も、それがどこであるかについては見解が分かれています。「カリオテ出身の」を、ヨシュア記(一五・二五)に出てくる「ケリヨト」(ユダ族に割り当てられた地)として、ユダをユダヤ地方出身とする説、また、シケム近くのアスカル出身とする説、さらに、これを元にあるアラム語表現から「町の出身」として、ユダをエルサレム出身者と見る説などがあります。いずれにしても、「十二人」の中でユダだけがガリラヤの出身ではないことになります。なお、「偽り者」とか「引き渡す者」というアラム語をそのままギリシア語で音訳した語であるという説もありますが、ヨハネ福音書のここの記述では、「イスカリオテの」は(格の形から)ユダにはかからず父親のシモンを説明しているので無理です。また、父親の説明であるので、出身地を指すと見るのが自然だと言えます。
 原文の語順は、裏切った者が「十二人」の中の一人であったことを強調しています。訳文では、「実に」を補って、この強調を表しています。この強調には、一般に権威と認められている「十二使徒」に対抗する気風がヨハネ共同体にあったことを反映しているのかもしれません。ユダの裏切り行為は著者にとってよほど深く記憶に刻み込まれたのでしょう、後でその情景が詳しく描かれることになります(一三・二一〜三〇)。その詳しさは、著者が「イエスが愛された弟子」としてその場に居合わせたことを示唆しています。

補論―永遠の命と死者の復活

編集者による挿入 ?

 第六章には、「信じる者は永遠の命を持っている」というこの福音書の中心の使信に、「わたしはその人を終わりの日に復活させる」という終末的な約束が付け加えられている場合が、四回も繰り返されていました(三九節、四〇節、四四節、五四節)。ヨハネ福音書は全体として、イエスを信じる者は現在すでに永遠の命を持っているという事実を強調し、永遠の命を「来るべき世」でのこととしたユダヤ教黙示思想を克服するだけでなく、なお黙示思想的な枠組みを強く残していて、永遠の命を将来のこととしている周囲の主流のキリスト教と対抗しています。それで、「わたしはその人を終わりの日に復活させる」という終末的な約束は、この福音書本来の部分に属するものではなく、周囲の主流の教団に協調するために後で編集者が付け加えた挿入であると見る注解者が多くいます。ヨハネ福音書の成立過程は複雑で、数次の編集を経ていることは事実ですから、この部分が原著にはなく後で編集者によって加えられた可能性は否定できません。 
それで、この部分の翻訳にあたって、「わたしはその人を終わりの日に復活させる」という言葉をすべて取り除いて訳す人があります。たとえば、八木誠一氏訳の「ヨハネによる福音書」(講談社版「聖書の世界」第5巻)はそうしています。このような態度はヨハネ福音書の成立過程についての学問的批判として、また原著はこういう形ではなかったかという提案としては意味がありますが、もしそれが終わりの日の死者の復活を否定することの表明であるならば、そのように訳された福音書はもはや福音書でなくなります。死者の復活こそ福音の本質をなす内容だからです。

死者の復活の希望がキリストの福音の本質(それがなければ福音が福音でなくなる内容)であることについては、拙著『パウロによるキリストの福音U』の第六章「死者の復活」を参照してください。

復活に至る命

 問題は、たとえそれが編集者による挿入であるとしても、正典として受け入れられて伝えられた現形のヨハネ福音書をわたしたちがどのように受け取るかです。たとえこの終わりの日の復活の約束が後で編集者によって原著に挿入されたものであっても、ヨハネ福音書の言う「永遠の命」には、復活に至らざるをえない質の命という面があることは、この福音書自身が示しています。それは、イエスがラザロを生き返らせたことを伝える十一章の記事です。そのことを理解すれば、この約束が外から(本来のヨハネ福音書に異質な内容が)付け加えられた挿入ではなく、ヨハネ共同体自身の中にある復活信仰の表明として、内的必然をもって加えられた約束であること、すなわちヨハネ福音書の本来の一部として受け取ることができます。
 十一章のラザロの記事の内容は、その箇所の講解で詳しく検討することになりますが、ここではヨハネ福音書の言う「永遠の命」は復活に至らざるをえない質の命であることを理解するのに必要な最小限で見ておきましょう。
 イエスは死んで四日もたつラザロを生き返らせました。これはイエスがなされた「しるし」の最後の、そして最大のものです。もし、ヨハネが言う永遠の命が復活と関係のないものであれば、このような復活の「しるし」を最後の重要な位置で語る必要はないはずです。
 この「しるし」が何を意味するのかは、二五節と二六節のイエスの言葉が明白に語っています。「わたしが復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。これは、イエスが兄弟の死を嘆くマルタに「あなたの兄弟は復活する」と言われたところ、マルタが「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えますが、このマルタの答えに対するイエスの言葉です。マルタは信心深いユダヤ人として、当時のユダヤ教の信仰を言い表しています。当時のユダヤ教はファリサイ派の教えが主流となっていましたから、彼らの教えに従って人々は神の律法を守るイスラエルの民は終わりの日の復活に与ると信じていました。このように復活は信じるが、それを将来のこととして待ち望むだけのユダヤ教の信仰に対して、イエスは「わたしが復活である」と宣言されるのです。これはユダヤ教の復活信仰に対する福音の宣言であり、ヨハネ共同体の告白です。この言葉によって、ヨハネ共同体はユダヤ人に対して、「あなたがたが将来に待ち望んでいる死者の復活は、いますでにこの方において到来している」と宣言しているのです。
 ヨハネ福音書において、地上のイエスは復活者キリストと分かちがたく重なっています。ユダヤ人の目の前で語られる地上のイエスと、福音が告知する復活者キリストが重なって、この方こそユダヤ人が神の約束によって待ち望み、そしてすべての民が心のうめきの中で待望していた死者の復活そのものである、と宣言しているのです。「わたしが復活である」という宣言は、パウロが復活者キリストを終わりの日に復活する死者たちの初穂であるとしているのを、ぎりぎりまで煮つめた表現です。人類が死の問題の最終的な解決として待ち望んでいた復活が、いまイエス・キリストにおいて到来しています。この方が復活そのものです。ですから、終わりの日の死者の復活を否定すれば、この「わたしが復活である」という言葉は中身を失ってしまいます。
 「わたしが復活である」は、直ちに「わたしが命である」となります。来るべき世で与えられる命ではなく、いまわたしたちの前にいますイエス・キリストが死を克服した永遠の命そのものなのです。このイエス・キリストを信じて結ばれる者は「死んでも生きる」のです。この死に定められた存在の中で、死を克服して復活したキリストの命を生きるのです。「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」。この地上でキリストとの交わりに生きる者は、復活してもはや死ぬことのないキリストの命を生きるので、その自分は死ぬことはありません。こうして、「わたしが復活であり、命である」と一息に語られることによって、復活はたんなる将来の希望ではなく、現在すでに死を克服して生きることであることがさらに強調されます。
 しかし、この言葉を一般的な命題としてではなく、マルタの言葉に言い表されているユダヤ教の復活信仰に対して福音の復活信仰を提示しているという文脈において理解する時、すなわち終わりの日の死者の復活を前提にして理解する時はじめて、この言葉は、現在わたしたちが体験するキリストがその終末的復活そのものであり、わたしたちはキリストに結ばれて現在その復活の命を生きるのであるという力強い告白になります。
 こうして、ヨハネ福音書の現在の「永遠の命」は、終わりの日の復活を否定するものではなく、それを含み、それと一体であることが分かります。永遠の命を語るところで、終わりの日の復活が語られるのは当然のことになります。永遠の命とは復活に至る命であると言えます。ですから、ヨハネ福音書のイエスは、「信じる者は永遠の命を得ている」と語られると同時に、「わたしはその人を終わりの日に復活させる」と言われるのです。
 実に、イエスは復活されました。イエスを葬った墓は空になっていました。ラザロの墓を空にし、自分の墓を空にしたイエスの出来事を語るヨハネ福音書が、死者の復活を否定して、復活をただ信じる者の現在の内面の変化に限っていると、どうして言えましょうか。ヨハネ福音書においても、復活者イエスはわたしたちの復活の初穂なのです。

永遠の命と死者の復活の関係については、拙著『神の信に生きる』の第W部「永遠の命への道」補講一「永遠の命と復活」(183頁)を参照してください。この「復活に至る命」の項は、その一部を要約して引用しています。