市川喜一著作集 > 第15巻 対話編・永遠の命T > 第23講

第一〇章 良い羊飼い

       ―― ヨハネ福音書 一〇章 ――




第一節 「良い羊飼い」をめぐる論争

34 羊飼いと羊の群れ(10章1〜21節)

 1 「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う。羊たちの囲いに入るのに、門を通らないで、ほかのところを乗りこえて来る者は、盗人であり、強盗である。 2 門を通って入ってくる者が、羊たちの羊飼いである。 3 この人には門番は戸を開き、羊たちはこの人の声を聴きわける。そして、彼は自分の羊たちをその名で呼び、群れを連れ出す。 4 自分の群れをすべて出してしまうと、先頭に立って群れを導く。そして、羊たちは彼の後に従う。羊たちは彼の声がわかるからである。 5 ほかの者にはついて行かないで逃げ出すことになる。ほかの者たちの声はわからないからである」。
 6 イエスはこの謎を彼らに語られたが、彼らはイエスが彼らに語られたことがわからなかった。 7 そこでイエスは再び言われた、「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う。わたしが羊たちの門である。 8 わたしよりも前に来た者はみな、盗人であり、強盗である。羊たちは彼らの言うことを聴かなかった。 9 わたしが門である。わたしを通って入る者は救われ、入ったり出たりして、牧草を見つけるであろう。 10 盗人が来るのは、盗み、屠り、滅ぼすためにほかならない。わたしが来たのは、彼らがいのちを得るためであり、豊かに得るためである。
 11 わたしが良い羊飼いである。良い羊飼いは羊たちのために自分のいのちを捨てる。 12 雇い人にすぎず羊飼いでない者、すなわち羊たちが自分のものでない者は、狼が来るのを見ると、羊たちを置き去りにして逃げてしまう。――狼は羊たちを奪い、散らしてしまう。―― 13 彼は雇い人であって、羊たちのことを心にかけていないからである。 14 わたしが良い羊飼いである。わたしはわたしの羊たちを知っており、わたしの羊たちはわたしを知っている。 15 父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは、羊たちのために自分の命を捨てる。
 16 わたしには、この囲いに属さないほかの羊たちもいる。わたしはその羊たちをも導かなければならない。その羊たちもわたしの声を聞き分けるようになり、一つの群れ、一人の羊飼いとなるであろう。
 17 わたしが自分の命を捨てるので、父はわたしを愛してくださる。それは、わたしがその命を再び得るためである。 18 その命をわたしから奪う者はだれもいない。わたしが自分からその命を捨てるのである。わたしは自分の命を捨てる力があり、それを再び得る力がある。この定めを、わたしはわたしの父から受けた」。
 19 これらの言葉のために、ユダヤ人たちの間に再び分裂が生じた。 20 ユダヤ人たちの中の多くの者は、「彼は悪霊につかれており、気が狂っている。あなたたちはなぜ彼の言うことを聴くのか」と言っていた。 21 他の者は言っていた、「このような言葉は悪霊につかれた者の言葉ではない。悪霊は目の見えない人の目を開けることなどできないではないか」。

一〇章の構成について

 九章からの続きとして一〇章を通読すると、その構成に不自然さを感じます。まず、九章の末尾(四一節)と何のつながりもなく突然一〇章の羊飼いの説話が始まっていることに驚きます。さらに、一九〜二一節で目の見えない人の目を開いた出来事が締めくくられた後、冬の神殿奉献祭という別の祭りのさいに再び同じ羊飼いの説話が繰り返され(二二〜三〇節)、それを聞いてイエスを石打ちにしようとするユダヤ人との論争が続きます(三一〜三九節)。
 仮に一七〜二一節を九章の直後に続けると、目の見えない人の目が開かれた記事の結びとして自然に続きます。そして、一〜一八節の羊飼いの説話を神殿奉献祭の時の対話として二二〜二六節(または二二〜二七節)の後に続けると、これも自然に続き、全体として自然な流れになります。研究者の中には、これが元の構成であったと見て、現在の構成は後の編集者の手によるものと見る人もいます。
 誰の手によるものであれ現在の構成では、一〜一八節の羊飼いの説話は、九章の目の見えない人の開眼の結びの記事の後に置かれることによって、その出来事を機縁として行われた説話になっています。この説話をこの位置に置いた意図から解釈すると、イエスをキリストと言い表したためにユダヤ教会堂から放逐された目の見えない人に出会われたイエスこそ、その人に真の命を与える真の羊飼いであることを説いていると理解できます。

羊飼いと盗人のたとえ

 「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う。羊たちの囲いに入るのに、門を通らないで、ほかのところを乗りこえて来る者は、盗人であり、強盗である」。(一節)

 羊飼い説話の最初の一段(一〜五節)は、羊飼いと盗人・強盗との違いをたとえの形で語っています。
 パレスチナでは、一つの村の羊は共同の囲いに入れられている場合が多かったようです。その共同の囲いの門番は、顔見知りの羊飼いたちだけに門を開き、羊飼いは門から囲いに入り、自分の羊の名を呼んで、多くの羊の中から自分の羊だけを連れ出します。羊も自分の羊飼いの声を聞き分けて、その人だけについていきます。ですから「門を通らないで、ほかのところを乗りこえて来る者は、盗人であり、強盗である」ということになります。
 羊飼いは朝ごとに門から囲いに入って、自分の羊たちを牧草地に連れ出します。それに対して盗人や強盗は、夜ひそかにやって来て、塀を乗り越えて囲いに侵入し、羊たちを奪い殺します。
 一〜五節は、このような現実の羊飼いの仕事ぶりを比喩として用いて、イエスと敵対するユダヤ教指導者たちを対照しています。神の民の指導者を羊飼いにたとえる語り方は、イスラエル古来の伝統です(民数記二七・一六〜一七、エゼキエル三四、ゼカリヤ一一・四〜一七など)。また、イエスもこの比喩をよく用いられたことは、共観福音書伝承の「羊飼いのいない羊の群れ」という表現(マタイ九・三六)や「失われた一匹の羊を捜す羊飼い」のたとえ(ルカ一五・三〜七)などにも示されています。

 「門を通って入ってくる者が、羊たちの羊飼いである。この人には門番は戸を開き、羊たちはこの人の声を聴きわける。そして、彼は自分の羊たちをその名で呼び、群れを連れ出す」。(二〜三節)
 真の羊飼いの条件は、まず門を通って囲いに入ってくることです。門番に顔を知られていて、「この人には門番は戸を開き」となることが必要です。しかし、それだけではありません。肝心なことは、「羊たちはこの人の声を聴きわける」ことです。普段から羊たちの世話をして、羊たちにその声がよく知られている必要があります。突然、他の人が来て羊を連れ出そうとしても、羊はついて行きません。
 多くの羊の中から自分の羊だけをまとめて連れ出すために、羊飼いは「自分の羊たちをその名で呼び」ます。羊飼いは自分の羊を一頭ごとに知っており、普段からその名を呼んで世話をしていますから、自分の羊の名を呼ぶことで、自分の羊だけを選び出すことができます。羊飼いでない者にはこのようなことはできません。

 「自分の群れをすべて出してしまうと、先頭に立って群れを導く。そして、羊たちは彼の後に従う。羊たちは彼の声がわかるからである」。(四節)

 自分の羊たちをその名で呼んで囲いから連れ出した羊飼いは、「先頭に立って群れを導き」、命を養う牧草や水のあるところに連れて行きます。羊たちは彼の後に従って行きます。この光景は、「主はわが牧者」というあの美しい詩編二三編を思い起こさせます。

 「ほかの者にはついて行かないで逃げ出すことになる。ほかの者たちの声はわからないからである」。(五節)

 この節は、羊は自分の羊飼いの声がわかるので従って行くという三節と四節の主張と同じことを、裏側から描いています。
 この一〜五節の比喩は、ユダヤ人がイエスを信じない理由を語る二六節の「ところが、あなたたちの方が信じないのである。あなたたちはわたしの羊たちに属さないからである」という言葉の後に置くと自然に続き、二七節の「わたしの羊たちはわたしの声を聞き分け、わたしもまた彼らを知っており、羊たちはわたしについて来る」とほぼ同じ内容になっています。それで、この羊飼いの説話はもともと神殿奉献祭のときのメシア論争(二二〜二六節)を導入部として語られたものであるという見方が出てくることになります。

 イエスはこの謎を彼らに語られたが、彼らはイエスが彼らに語られたことがわからなかった。(六節)

 「謎」の原語《パロイミア》は、共観福音書で「たとえ」の意味で用いられる《パラボレー》とは別の語で、たとえで真の意図を隠した表現、諺とか格言を意味する語です。ヨハネ福音書では霊的次元の現実を覆い隠すような、謎めいた比喩的表現を指すのに用いられています(他には一六・二五、一六・二九)。この「謎」は、七節以下でイエス自身によって解き明かされます。
 ここで謎を語りかけられた「彼ら」とは、九章からの続きだとすると、ファリサイ派の人たちを指すことになります(九・四〇参照)。イエスを信じた目の見えない人を追い出したユダヤ教会堂にとって、ヨハネ共同体が告知する復活者イエスは謎のままにとどまります。「彼らはイエスが彼らに語られたことがわからなかった」のです。

わたしが門である

 そこでイエスは再び言われた、「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う。わたしが羊たちの門である」。(七節)

 この謎がわからないファリサイ派のユダヤ人たちに、イエス自身が謎を解き明かされます。それは、ユダヤ教会堂に対するヨハネ共同体の宣言です。「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う」という荘重な形式で、ヨハネ共同体は復活者イエスの本質を告知します。その謎を解き明かすイエスの言葉は二重になっています。すなわち、ヨハネ共同体はこの謎を二重の比喩として解き明かし、復活者イエスの本質の二つの面を告知します。
 一つは、「わたしが門である」という面です(七〜一〇節)。もう一つは、「わたしが(良い)羊飼いである」という姿です(一一〜一八節)。「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う」の後に、「《エゴー・エイミ》〜」という復活者イエスの自己宣言の句が続くヨハネ福音書特有の形で、復活者イエスの本質が告知されます。「わたしが羊飼いである」という宣言には、「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う」がついていませんが(一一節と一四節)、七節のアーメン句はここの二つの「わたしが〜である」という宣言句にもかかっていると理解できます。

「《エゴー・エイミ》〜」という形の宣言句については、本書319頁以下の「特注―ヨハネ福音書における《エゴー・エイミ》」を参照してください。

 「わたしよりも前に来た者はみな、盗人であり、強盗である。羊たちは彼らの言うことを聴かなかった」。(八節)

 一〜五節は本来、羊飼いと盗人の違いを示すための比喩ですが、著者はそれを「謎」として寓喩的に取り扱い、それぞれの語句に特定の意味を持たせて解釈し、それをもって復活者イエスを告知する説話を構成します。まず、その比喩にあった門が取り上げられ、復活者イエスこそが「羊たちの門」、すなわち「羊たちが出入りするための門」であるとされます(七節)。
 門は朝に開かれ、夕方に閉じられます。ですから、朝に門が開く前に、門を通らないで塀を乗り越えて囲いに入ってくる者は盗人であり強盗であることになります。復活者イエスこそがその門であれば、朝に門が開く、すなわちイエスが復活される前に、羊たちのところに来る者はみな、盗人であり、強盗であることになります。
 「わたしよりも前に来た者たち」(複数形)が誰を指すのかは議論されています。「わたしよりも前に」という句を欠く有力な写本が多くあるので、底本は括弧に入れています。「来た」という動詞がアオリスト形であるので、この句がなくても過去の出来事であることには違いありませんが、イエスとの前後関係は明確ではなくなります。
 「(わたしよりも)前に来た者たち」がモーセや預言者たちという旧約聖書の指導的人物を指すと理解することは、イエスだけを啓示者として旧約聖書の啓示を全面的に拒否することになり、この福音書を完全にグノーシス主義の書とすることになります。この見方は、ヨハネ福音書の内容と矛盾するので、成り立ちません。イエスより以前に現れた自称メシアたちを指すとする理解も、それだけに限定して理解する必然性が乏しいようです。
 八節を解く鍵は、この節の「わたし」は復活者イエスを指しているという事実です。イエスが死人の中から復活してキリストとして立てられるという終末的な出来事の前に、羊たちの救済者であり導き手である地位を自分に要求する者たちが、「前に来た者たち」あるいは「わたしよりも前に来た者たち」と呼ばれていることになります。「前に来た」は、必ずしも時間的な意味ではなく、「復活という終末的な出来事と無関係に」来たという意味に理解すれば、「わたしの前に」という句があってもなくても、復活者イエスが門であるという宣言の結論として八節を理解することができます。この理解は、復活者イエスこそが最終的な神の啓示であると主張するこの福音書の基本的な主張と一致します。

織田『新約聖書ギリシア語小辞典』は、ここの《プロ・エムウ》を、「わたしの前に」ではなく、「わたしに取って代わって」の意としています。

 旧約の預言者たちは、彼らの預言が復活者イエスにおいて成就したという意味で、復活という終末的な出来事にあずかっており、門を構成する一部とみなされ、「門を通らないで、ほかのところを乗りこえて来る者」には入りません。それに対して、ヨハネ共同体に対立するファリサイ派ユダヤ教会堂は、復活者イエスを拒否することで、自分たちが門を通って入ってきた者ではなく、「門を通らないで、ほかのところを乗りこえて来る者」であることを示しています。

 「わたしが門である。わたしを通って入る者は救われ、入ったり出たりして、牧草を見つけるであろう」。(九節)

 八節は、復活者イエスが門であることが、門を通らないで塀を乗り越えて入ってくる盗人との関係で見られていましたが、九節ではその門を通って出入りする羊たちとの関係で見られています。復活者イエスという門を通って「キリストにある」という場に入ってきますと、そこは御霊の命が豊かに溢れる恩恵の世界です。その霊的現実が「牧草を見つける」という比喩で語られます。その恩恵の世界に妨げられることなく自由に入っていけることが、「入ったり出たり」という句で表現されます。

 「盗人が来るのは、盗み、屠り、滅ぼすためにほかならない。わたしが来たのは、彼らがいのちを得るためであり、豊かに得るためである」。(一〇節)

 ここでたとえ本来の目的である羊飼いと盗人の対比が取り上げられます。盗人が来るのは、羊を盗み、屠り、滅ぼすためですが、羊飼いが羊たちのところに来るのは、羊を牧草地や水辺に導いて、羊たちが豊かに養われるためであるという日常生活の事実を比喩として、イエスがその民のところに来られた目的が宣言されます。すなわち、イエスが復活者イエスとして世に到来しておられるのは、彼に属する民が彼によって「いのち《ゾーエー》を得るため」です。
 この「いのち《ゾーエー》」は「永遠の命」を指しています。「永遠の命」は、この福音書ではしばしば《ゾーエー》という語だけで表現されます。この福音書の中心使信は「永遠の命」を与えることですが(三・一六、二〇・三一)、ここではそれが羊飼いを比喩として宣言されています。
 ここでの「わたし」は、門であるよりは羊飼いのイメージに移行しており、次の「良い羊飼い」の一段(一一〜一六節)を導入することになります。

羊のために命を捨てる羊飼い

 「わたしが良い羊飼いである。良い羊飼いは羊たちのために自分のいのちを捨てる」。(一一節)

 復活者イエスこそが羊飼いであることは、盗人と対照して一〜五節の比喩で十分示されていました。ヨハネ共同体はさらに、他の羊飼いたちと対照して、復活者イエスこそが「良い羊飼い」であることを宣言します。この「良い羊飼い」という表現は、英語で言えば定冠詞つき大文字の単数形で書かれる「羊飼い」で、「真の、唯一の羊飼い」という意味を含んでいます。復活者イエスこそ、その「真の、唯一の羊飼い」なのです。
 復活者イエスがそのような「真の、唯一の羊飼い」であるのは、イエスが神の民のために御自身の命を捧げられたからです。イエスの十字架の死は、神の民が永遠の命を得るために御自身の命を捧げられた出来事です(三・一六)。その死によって、イエスは「真の羊飼い」、「良い羊飼い」であることを示されたのです。そのことが、やはり羊飼いの比喩を用いて、「良い羊飼いは羊たちのために自分のいのちを捨てる」と語られます。
 この比喩はけっして誇張ではなく、イスラエルの羊飼いは羊を狙う野獣と命がけで戦って羊を守りました(サムエル記上一七・三四以下参照)。イエスは神の民のために御自分の命を投げ出して、「真の羊飼い」であることを示されました。復活者イエスが十字架の死を負っておられる事実こそ、この方を「真の、唯一の羊飼い」とします。このことを際だたせるために、次の節で真の羊飼いでない者の姿が対照して語られます。

 「雇い人にすぎず羊飼いでない者、すなわち羊たちが自分のものでない者は、狼が来るのを見ると、羊たちを置き去りにして逃げてしまう。――狼は羊たちを奪い、散らしてしまう。―― 彼は雇い人であって、羊たちのことを心にかけていないからである」。(一二〜一三節)

 自分は羊飼いであると自称しているが、実は「雇い人にすぎず羊飼いでない者、すなわち羊たちが自分のものでない者」は、羊のために自分の命を捧げるというようなことはしません。逆に、「狼が来るのを見ると、羊たちを置き去りにして逃げてしまう」のです。
 神の民の指導者をもって任じているが、実は民のために身を捨てて仕えるのではなく、民を食い物にして自分の益を図る偽りの指導者は、ここで語られている「良い羊飼い」の反対の「悪い羊飼い」、「偽の羊飼い」です。「災いだ、羊を見捨てる無用の羊飼いたちは」(ゼカリヤ一一・一七)と叫んだ預言者と同じく、イエスは、ローマの権力を恐れ自分の地位の保全のために民を見捨てる大祭司を初めとする神殿の祭司階級(一一・四七〜五〇)を「雇い人にすぎない者」と弾劾されます。
 この対照はすでに旧約聖書のエゼキエル書三四章に詳しく語られていました。この章の一〜一〇節では、「羊たちのことを心にかけず」、羊を養わずに自分自身を養うイスラエルの牧者たちが厳しく弾劾されます。真の牧者のいない羊たちを「狼が奪い散らす」様も見事に描かれています。続く一一〜一六節では、主なる神御自身が御自分の群れを探し、救い養われると預言され、最後に二三節以下で、主は彼らを養う一人の真の牧者を起こすと約束されます。
 「良い羊飼い」の比喩を語る著者やヨハネ共同体はもちろん、対論相手のユダヤ教会堂もこのエゼキエル書の預言はよく知っているはずです。この福音書が「わたしが良い羊飼いである」と宣言するとき、それは復活者イエスこそがエゼキエルが預言し、神の民が終わりの日に待ち望んでいた、主御自身によって立てられる真の牧者(単数形)である、とユダヤ教会堂に向かって宣言しているのです。

 「わたしが良い羊飼いである。わたしはわたしの羊たちを知っており、わたしの羊たちはわたしを知っている。父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは、羊たちのために自分の命を捨てる」。(一四〜一五節)

 すでに一一節にあった「わたしが良い羊飼いである」という宣言が繰り返されて、改めて「良い羊飼い」とはどういう羊飼いであるかが、二つの点について述べられます。一つは、良い羊飼いは自分の羊たちをよく知っていることです。一匹一匹の名前とその性質をよく知っていることです。もう一つは、羊たちのために自分の命を捨てるほど、羊たちを大事にしていることです。
 まず、復活者イエスが「良い羊飼い」として、御自身に属する民を一人ひとり知っておられ、民もイエスを自分の救い主として知っていることが、父と子であるイエスの交わりと同質であるとされ、「父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」と述べられます。この「知っている」は、相手について様々な情報を持っているという意味ではなく、人格間の交わりと結びつき、すなわち愛を内容としています。この「知る」は、ヨハネ福音書の特色ある中心概念の一つです。
 そして、わたしが自分の羊たちを、父が自分を知ってくださっているように知っている、すなわち愛しているのであるから、「だから」という気持ちで、「わたしは、羊たちのために自分の命を捨てる」と続きます。ただ、この命を捨てることについては一七〜一八節で詳しく取り上げられますが、その前にこの「良い羊飼い」に属する羊たちの範囲について大切なことが語られます。

他の囲いにいる羊たち

 「わたしには、この囲いに属さないほかの羊たちもいる。わたしはその羊たちをも導かなければならない。その羊たちもわたしの声を聞き分けるようになり、一つの群れ、一人の羊飼いとなるであろう」。(一六節)

 「この囲いに属さないほかの羊たち」というのは、「この囲い」、すなわち律法《トーラー》という囲いの中にいない民、イスラエルという契約の民に属さない異邦諸民族の中にいる神の民を指しています。ヨハネ共同体はもともとユダヤ人信徒の共同体であると考えられますが、この福音書が執筆されたときには、異邦人信徒を受け入れるようになっていたことが、本節からうかがえます。
 ヨハネ共同体でも、本来のユダヤ人構成員と、後から参加した異邦人構成員とが融合して、一人の主イエス・キリストの下で一つの共同体を形成すること、すなわち「一つの群れ、一人の羊飼いとなる」ことが緊急の課題になっていたことがうかがわれます。この課題は、最後の夜のイエスの祈りにも表現されています(一七・二〇以下を参照)。
 「この囲い」、すなわち律法《トーラー》という囲いの中にいる民ユダヤ人は、律法(契約)を成就するために来られた自分たちのメシアの声を聞き分けるのが当然です。ところが、その声を聞き分けることができたのは少数でした。それに対して、その囲いの外にいる多くの異邦人が、イエスの声を聞き分けて、この復活者イエスこそ自分たちの救い主であり、命への導き手であるとして、イエスに従ったのです。こうして、、囲いの中の羊たちと囲いの外の羊たちが同じ一人の羊飼いの導きに従うようになり、一つの群れとなります。キリストの民の中では隔ての中垣は取り去られています(エフェソ二・一四)。
 ところで、ここで「一つの群れ、一人の羊飼いとなるであろう」と言われていますが、「一つの囲いとなる」とは言われていないことが注目されます。ここでの「囲い」はモーセ律法に基づくユダヤ教という宗教ですが、視野を広くして世界を見渡しますと、世界の諸民族は様々な宗教の囲いの中にいることが見えてきます。その多くの囲いを一つにすることはできない相談です。また、する必要もありません。囲いはそのままでよいのです。それぞれの囲いの中にいる民が、真の牧者である復活者イエスの声を聞き分けて、その方の羊として従えばよいのです。

カトリックの標準ラテン語訳であるウルガタでは、ここを「一つの囲い(unum ouile)、一人の羊飼いとなる」と訳していますが、「一つの囲い」は訳としては誤りで、「一つの群れ」とすべきです。この訳が、世界の宗教を一つにしなければならないというカトリック思想の原動力の一つになったのではないかと思われます。 カトリック側の注釈( The Jerome Bible Commentary )は、このウルガタ訳について、「ヨハネは、複数の違った囲いの中に留まっている一つの群れのことを考えていると示唆するものは何もない」というバレットのコメントを引用して擁護しています。しかし、このバレットの断定は、四・二一から見ても問題があります。

 そのようなことはありうるでしょうか。わたしはありうると信じています。典型的な事例としてガンジーを取り上げてみましょう。ガンジーはヒンドゥー教徒であり、最後までヒンドゥー教という囲いにとどまりました。しかし、若き日に英国で聖書に接し、イエスの愛敵と非暴力の教えに感動し、イエスの精神でインドの独立運動を指導しました。ガンジーは「他の囲い」の中で、真の羊飼いの声を聞いた人たちの中の代表的な一人です。そのような人たちが一人の羊飼いに導かれる一つの交わりを形成し、歴史を形成する要因となるとき、世界の歴史はその根底に神の救済の働きを体験するはずです。
 現在では、イエスをキリストと信じる民の共同体が「キリスト教会」を形成しています。そのキリスト教会も、ギリシア正教会と東方諸教会、ローマカトリック教会とプロテスタント諸教会など、数え切れないほどの教会に分かれており、それぞれが民を囲い込む「囲い」となっています。その中のどれかが、他の教会を吸収したり支配して、一つの教会にすることは不可能ですし、そのような努力は争いと戦いをもたらすだけで有害無益です。また、世界の諸国民をみなキリスト教会に組み込むため働くこと(いわゆる「伝道」)も、神が求めておられることではありません。復活者イエスに属する民がなすべきことは、自分たちが聞いている真の牧者の声を響かせて、「他の囲い」の中にいる人たちがそれを聞くことができるようにすることです。その声が、囲いを超えて一つの群れを形成します。宗教という「囲い」は相対的なものであり、力ずくで一つにするべき性質のことではありません。

キリスト教も含めて「宗教」が相対的なものであることについては、拙著『教会の外のキリスト』の「終章 キリストの絶対性とキリスト教の相対性」を参照してください。

命を得るために命を捨てる

 「わたしが自分の命を捨てるので、父はわたしを愛してくださる。それは、わたしがその命を再び得るためである」。(一七節)

 先にイエスは「わたしが良い羊飼いである。・・・・わたしは、羊たちのために自分の命を捨てる」と言われました(一四〜一五節)。この「自分の命を捨てる」は、イエスの十字架の死を指しています。ここ(一七節)でその結果が語られます。イエスが自分の命を捨てるまでに父の御旨に従われたので、父はイエスを愛して、イエスにその命を再びお与えになった、すなわちイエスの立場から言えば、「わたしがその命を再び得る」ことになります。これが復活です。
 一七節の後半「それは、わたしがその命を再び得るためである」は、原文では直前にある「わたしは自分の命を捨てる」という文の目的とか意図を示す節になっています。自分の命を捨てることは、真の命を得るためであるという逆説は、他の福音書(マルコ八・三五など)と同じですが、この福音書も独自の表現で強調するところです(一二・二四〜二五参照)。
 しかし、ここではこのような霊的な世界の原理を一般的に述べているのではなく、イエスの十字架と復活という出来事が、イエスを愛される父の働きとして述べられています。イエスの十字架と復活の出来事をすでに知っている著者とわたしたち読者にとっては、「わたしがその命を再び得る」は意図ではなく結果です。イエスが「自分の命を捨て」死に至るまで父の御旨に従われた結果、父がイエスに再び命を与えて、高く引き上げられたのです。この節は、フィリピ書二章六〜一一節にある「キリスト賛歌」のヨハネ版であると言えるでしょう。

 「その命をわたしから奪う者はだれもいない。わたしが自分からその命を捨てるのである。わたしは自分の命を捨てる力があり、それを再び得る力がある。この定めを、わたしはわたしの父から受けた」。(一八節)

 イエスの十字架上の死について、共観福音書ではいつも「渡される」とか「殺される」と受動態で語られていますが、ヨハネ福音書では「わたしが自分からその命を捨てるのである」と、イエスの自発的な行為として描かれています。誰か他の者がイエスから命を奪うのではありません。それは「羊たちのために」(一五節後半)、すなわち信じる者たちが「いのちを得るために」行われる救い主の自発的行為です。
 敵対する地上の勢力がイエスから命を奪うのではなく、イエスが「自分からその命を捨てる」のであることは、ゲツセマネでの逮捕の記事にも表現されています。師を渡すまいとして戦おうとした弟子たちに向かって、イエスはこう言っておられます。「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」(マタイ二六・五三〜五四)。この共観福音書のイエスの姿を、ヨハネ福音書はイエス御自身の言葉として語るのです。
 イエスは、「わたしは自分の命を捨てる力《エクスーシア》があり、それを再び得る力《エクスーシア》がある」と言われます。《エクスーシア》というのは、普通「権威」とか「権能」と訳されれる語ですが、ここではそのような行為をすることができる立場を指していると理解してよいでしょう。自分の命を捨て、それを再び得ることができる立場、すなわち十字架を通って復活に至る道を歩むという「この定め」を、イエスは父からお受けになりました。イエスは「この定め」に従い、十字架の死に至るまで父への従順を貫かれました。その結果、父から再び命を与えられ、「主《キュリオス》」という高い立場に上げられました。この全体が、イエスが受けられた「定め」です。

目の見えない人の開眼物語への結び

 これらの言葉のために、ユダヤ人たちの間に再び分裂が生じた。(一九節)

 この一段(一九〜二一節)は、もともとは九章の物語の結びとして、その末尾に続いていたと見られますが、その場合は「これらの言葉」は、九章でのイエスの言葉、とくに四一節のファリサイ派の人たちに対する言葉を指すことになりますが、「良い羊飼い」の説話(一〇・一〜一八)が挿入された現行の形では、その説話の言葉を指すことになります。どちらにしてもイエスの「これらの言葉」のために、「ユダヤ人たちの間に再び分裂が生じ」ます。イエスをめぐって「ユダヤ人」の間に「分裂」《スキスマ》が生じたことは、すでに 七・四三 と九・一六で報告されていました。ここの「ユダヤ人」は、九・一六の場合のように、イエスを裁く会堂の指導者たちを指しています。この目の見えない人の開眼の出来事とそれに続くイエスの説話の言葉のために、会堂評議会(イエスの時代では最高法院)の中に意見の対立が生じます。

 ユダヤ人たちの中の多くの者は、「彼は悪霊につかれており、気が狂っている。あなたたちはなぜ彼の言うことを聴くのか」と言っていた。(二〇節)

 ここでも多数の者は「イエスは悪霊につかれている」と判定します。ユダヤ人はすでに繰り返しイエスをこう判定していました(七・二〇、八・四八、八・五二)。共観福音書でも、律法学者たちがこう判定しています(マルコ三・二二)。同じことが「彼は気が狂っている」とも言われています。共観福音書(マルコ三・二一)でも、(原語は異なる用語ですが)同じように判断されています。イエスが目覚ましい奇跡を行われたことは否定できない事実であったので、イエスを認めない当時のユダヤ人たちは、このような言葉や「詐欺師」とか「魔術師」というようなレッテルを貼って攻撃し、イエスの信用を失わせようとしました。

 他の者は言っていた、「このような言葉は悪霊につかれた者の言葉ではない。悪霊は目の見えない人の目を開けることなどできないではないか」。(二一節)

 しかし、指導層のユダヤ人の中にもニコデモのように、イエスがされる業を見て、イエスが悪霊につかれた者ではなく、神から遣わされた方であることを認める者も、少数ながらいました。しかし、このような少数派の声は多数派の声に圧倒され、ユダヤ教会堂は公式にはイエスを断罪します。イエスの時代の最高法院は、イエスを神を汚す者として断罪し、異邦人に引き渡します。この福音書の時代のユダヤ教会堂は、イエスを言い表す者を会堂から追放します。
 この一段(一九〜二一節)をもって、著者は九章の目の見えない人の開眼の物語を締め括ります。