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第二節 弟子の足を洗うイエス

45 弟子の足を洗うイエス(13章 1〜20節)

 1 過越の祭りの前になって、イエスはこの世から父のもとに移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる御自分に属する者たちを愛して、彼らを最後まで愛し抜かれた。2 さて、夕食のときになって――悪魔はすでにイスカリオテのシモンの子ユダの心にイエスを引き渡そうという思いを入れていたのであるが――、 3 イエスは父がすべてを自分の手に委ねたこと、また自分が神から出てきており、神のもとへ行こうとしていることを悟り、 4 食事の席から立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰に巻きつけ、 5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗い、巻きつけた手ぬぐいで拭き始められた。
 6 さて、イエスはシモン・ペトロのところに来られる。ペトロはイエスに言う、「主よ、あなたがわたしの足を洗われるのですか」。 7 イエスは答えて言われた、「わたしがしていることは、今あなたには分からない。しかし、後で分かるようになる」。 8 ペトロが言う、「わたしの足など、決して洗わないでください」。 イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたを洗わないならば、あなたはわたしと何の関わりもないのだ」。 9 シモン・ペトロがイエスに言う、「主よ、足だけでなく、手も頭も」。 10 イエスは彼に言われる、「沐浴した者は洗う必要はなく、全身が清いのだ。あなたたちは清いのだ。しかし、皆ではない」。 11 イエスは自分を引き渡そうとしている者を知っておられた。それで、皆が清いのではないと言われたのである。
 12 さて、イエスは弟子たちの足を洗い、上着をつけ、再び食卓に着いてこう言われた。「わたしがあなたたちにしたことが分かるか。 13 あなたたちはわたしを師とか主と呼んでいる。それは正しい。わたしはそうである。 14 主であり師であるわたしがあなたたちの足を洗ったのであれば、あなたたちもまたお互いの足を洗わなければならない。 15 わたしがあなたたちにしたように、あなたたちも同じようにするようにと、わたしはあなたたちに模範を示したのである。 16 アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う。僕はその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさることはない。 17 このことが分かっており、そのことを行うなら、あなたたちは幸いである。
 18 わたしは、あなたたち皆について言っているのではない。わたしは、自分が選んだ者を知っている。しかし、『わたしのパンを噛みしめる者が、わたしに向かってかかとを上げた』という聖書は実現しなければならない。 19事が起こる前に、今言っておく。それは、事が起こったときに、『わたしはある』ことをあなたたちが信じるようになるためである。 20 アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う。わたしが遣わす者を受け入れる人はわたしを受け入れるのであり、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わした方を受け入れているのである」。

象徴行為としての洗足

 過越の祭りの前になって、イエスはこの世から父のもとに移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる御自分に属する者たちを愛して、彼らを最後まで愛し抜かれた。(一節)

 イエスは過越祭に合わせてエルサレムに入られました。それは、この年の過越祭こそ御自身が地上での働きを成し終えて父のもとに帰る「その時」であると思い定めておられたからです。イエスはこれまでも度々その時のことを「わたしの時」と呼んで来られました(二・四、七・六)。また、福音書記者はそれを「イエスの時」と呼んできました(七・三〇、八・二〇)。今、「過越の祭りの前になって」、イエスはいよいよその時が来たことを自覚されます。
 「その時」は、イエスがこの世を去るとき、すなわち「御自分に属する者たち」をこの世に残して世を去る時、彼らとの最後の別れの時となるのですから、イエスは彼らに対する愛を最後の時まで貫かれます。その「彼らを最後まで愛し抜かれた」イエスの姿が、この一三章から一七章にいたる「告別説教」の場面で描かれます。イエスはまず弟子たちの足を洗うという象徴行為でその愛を現し、続いて切々と語る告別の言葉で、その愛を示されます。

「最後まで」の原語は「終わりへと」という意味の句です。これは、「極みまで」(岩波版)とか「この上なく」(新共同訳)と訳すこともできます。しかしここでは、御自分に属する者で「この世にいる」者たち、すなわちイエスが「この世から父のもとに」移られた後にこの世に残る者たちを、イエスがこの世にいる時の「最後まで」愛されたと理解します。著者は両方の意味を重ねて用いていると理解してよいでしょう。ヨハネ福音書は、イエスの十字架の死を「御自分に属する者たち」への愛の現れとしています(一五・一三)。

 共観福音書では最後の夜の食卓についたのは「十二人」ですが(マルコ一四・一七)、ヨハネ福音書はそれが「十二人」であるかどうかを明示していません。少なくとも「イエスが親しくしておられた弟子」がその席にいるのですから(一三・二三)、「十二人」よりも範囲は広いことになります。しかし、これが(前述したように)過越の食事であれば、十数人程度であることは推察できます。女性がいたかどうかは確認できません。「御自分に属する者たち」というのは、食事の席への出席者を示す句ではなく、イエスの愛の質を語るための表現であると理解しなければなりません。この「御自分に属する者たち」という表現は、序詩ではイスラエルの民を指していましたが(一・一一)、ここではイエスに従うことで真のイスラエルとなる弟子たちを指すことになります。

 さて、夕食のときになって――悪魔はすでにイスカリオテのシモンの子ユダの心にイエスを引き渡そうという思いを入れていたのであるが――、(二節)

 「夕食」と訳した原語《デイプノン》は、夜の食事という意味ではなく、一日の主要な食事という意味の語です。英語の「ディナー」が、昼か夜かにかかわりなく一日の主要な食事を指すように、この語も食事の時間ではなく、正式の主要な食事を指す語です。当時のユダヤ人は、午前一〇時前後に軽い食事をして、一日の働きを終えた後、午後の遅い時刻に(おそらく夕方が近い頃に)家族揃って食卓についてする正式の食事をしたようです。それで「夕食」と訳しています。この「夕食」は、(前述したように)ヨハネ福音書によると、小羊が殺される午後から見ればその前夜の食事(ユダヤ暦ではニサンの月の一四日が始まる夜の《デイプノン》)ということになりますが、これが最後の日の夕食であることは共観福音書と同じであり、夜遅くまで続く過越の食事であると考えられます(一三・三〇参照)。

なお、四節の「《デイプノン》から立ち上がり」は、「食事の席から立ち上がり」と訳しています。この最後の夜の食事を記念する共同の食事が、初期の教団で「主の《デイプノン》」と呼ばれていたことがパウロ書簡に伝えられています(コリントT一一・二〇)。これは「主の晩餐」と訳されることが多いようですが、初期のキリスト者の交わりでの共同の食事は早朝に行われたこともあるのですから、「主の食事」とか「主の食卓」とする方がよいようです。

 この最後の食事の描き方は、共観福音書とヨハネ福音書とではずいぶん違いますが、その席でイエスがユダの裏切りを予告されたという点は共通していて、大きく取り扱われています。この裏切りの予告は最後の食事の席での重要な出来事であったことが分かります。
 ユダの中にサタンが入って裏切りを実行させるのは後のことですが(一三・二七)、その思いはすでに心の中に入れられていたという、ユダの裏切り行為の事前の説明がここでなされます。その説明は、一節から五節に続く文の流れをやや不自然に中断する形で挿入されています。それは、一節と三節で語られているイエスの尊い自覚と対照して、ここに挿入されたと見られます。
 ユダがイエスを裏切った動機は不明です。ユダの心の奥の闇を、ヨハネは「悪魔」の仕業とします。しかし、ユダの裏切りも「その時」が来たことの一部として、著者はここに入れたのでしょう。

ここでユダの父親が「イスカリオテのシモン」と呼ばれていることから、「イスカリオテ」は地名であるとする説明が根拠づけられます。ただし、ここの原文は「シモンの子イスカリオテのユダ」と読むこともできるので、この根拠づけは絶対ではありません。それで「イスカリオテの」という句の意味についての議論が続くことになります。「イスカリオテ」の意味に関する議論は、拙著『マルコ福音書講解U』175頁「イスカリオテのユダ」の項を参照してください。

 イエスは父がすべてを自分の手に委ねたこと、また自分が神から出てきており、神のもとへ行こうとしていることを悟り、(三節)

 著者ヨハネは、これから描こうとしているイエスの行為、すなわち弟子たちの足を洗うという意表をつく行為が、イエスのどのような自覚から出ているのかを語ります。それは、すでに一節でも(同じ「を悟り」という句を用いて)語られていましたが、ここで繰り返します。それは、イエスこそ父からすべてを委ねられた方であり、神から出て神に帰る方であるという著者の理解を、イエスの自覚として語っています。そうすることで、続いて語られるイエスの弟子の足を洗うという人の目には卑しい行為が、いかに高貴な方から出ているかを印象づけます。

 食事の席から立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰に巻きつけ、それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗い、巻きつけた手ぬぐいで拭き始められた。(四〜五節)

 ヨハネはイエスが弟子たちの足を洗われる行為を一つずつ丁寧に描きます。このように食事に招かれた客の足を洗うことは奴隷の役目でした。普通は奴隷がする卑しい仕事を、神から世界を裁く全権を委ねられている方がされるのです。これは、エルサレムに入られるときに民衆のメシア歓呼に対して、子ろばに乗って入城することでご自分の使命の質を示されたことと並んで、イエスが神から来た者としての働きの質を示そうとされた象徴行為です。その象徴行為が何を意味しているのかは、これからの物語で展開されます。

 さて、イエスはシモン・ペトロのところに来られる。ペトロはイエスに言う、「主よ、あなたがわたしの足を洗われるのですか」。(六節)

 ペトロの言葉は、原文では「あなた」が強調されています。師であるあなたが、弟子であるわたしの足を洗われるのですか、という驚きの発言です。

イエスがペトロの足を洗われる場面を描くこの箇所(六〜一一節)では、動詞は「来る」、「言う」など、おもに現在形が用いられて、劇的な場面構成になっていますが、その中に「答えて言った」など、過去の出来事を物語る(定型的な)過去形が混じっています。

 イエスは答えて言われた、「わたしがしていることは、今あなたには分からない。しかし、後で分かるようになる」。 (七節)

 師が弟子の足を洗うことで、お互いにへりくだって仕え合うことの模範を示されたという意味があることは、この後すぐにイエスご自身が語っておられます(一三・一二〜一七)。したがって、「今あなたには分からない」と言われるのは、そのような模範としての意味よりも深い別の意味があることを指しています。その意味は次の八節で示唆されますが、その意味の真の理解については、「後で分かるようになる」と言われています。
 今イエスがされる象徴行為の深い霊的意味が分かるのは、イエスが去って行かれた後、真理を悟らせる「真理の御霊」が来るときです(一六・一三)。「その日には、あなたがたは分かる」と言われています(一四・二〇)。著者とその共同体は、御霊による復活者イエスとの交わりにあってその意味を理解しています。しかしここでは、「まだ御霊が降っていないので」(七・三九)その意味が分からないペトロの姿を描くことで、その落差を強調します。

 ペトロが言う、「わたしの足など、決して洗わないでください」。(八節前半)

 弟子たちは、地上のイエスと共にいる間は、霊的な真理を理解することができず、人間的な立場でイエスがそのようなことをされるのを拒否します。人間の常識はしばしば、常識を超える神の働きを拒否します。

  イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたを洗わないならば、あなたはわたしと何の関わりもないのだ」。 (八節後半)

 イエスのお言葉の後半部は直訳すると、「あなたはわたしとの関わりにおいて何の分も持たない」となります。ペトロがいくら努力しても、また、いくら立派な人物になっても、イエスがペトロを「洗う」のでなければ、すなわちイエスがペトロにしてくださることを受け取るのでなければ、ペトロはイエスと何の関わりもないのです。
 これは「後で分かる」ことですが、イエスがご自身の命をもってペトロを罪から贖い出すのでなければ、ペトロは復活者イエスの中に何の分もない、復活の命とは何の関わりも持つことができないと、この節は言っているのです。したがって、イエスが弟子の足を洗われた行為は、後で語られる模範としての意味よりも深く、イエスが命を投げ出して成し遂げてくださった贖罪によってはじめて、人は復活の命の次元に入ることができるという霊的現実を象徴する意味を持つことになります。

 シモン・ペトロがイエスに言う、「主よ、足だけでなく、手も頭も」。(九節)

 イエスに洗っていただくことによって、イエスとの関わりを持つことができるのであれば、少しでも多くの部分を洗っていただいて、イエスとの関わりを多く持ちたい(多くの分をいただきたい)という願いから、ペトロはこう言ったのでしょう。これは、共観福音書でゼベダイの子がイエスの左右に座る高い地位を求めたこと(マルコ一〇・三五〜三七)のヨハネ版と言えるのでしょう。

  イエスは彼に言われる、「沐浴した者は洗う必要はなく、全身が清いのだ。あなたたちは清いのだ。しかし、皆ではない」。(一〇節)

 底本は「足の他は」という句を入れています。ほとんどの現代語訳はこれに従い、「沐浴した者は足の他は洗う必要はなく」と訳しています。写本はこの句を入れたものの方が有力です。しかし、この句がない写本もあります。この私訳ではこの句を入れていない写本に従います(NTDも同じ)。わたしは、この句を入れると洗足の根本的意義が失われると考えます。
 ヨハネ福音書は最後の食事に、共観福音書のような過越の食事という意味を持たせないで、過越の食事の代わりにこの洗足を置いています。したがって洗足は、イエスが仕える者として人のために命を捧げられることを象徴する行為となっています(マルコ一〇・四五参照)。そのことは、イエスが御自分の死を自覚してこの行為をされたこと(一節、三節)や、八節の「もしわたしがあなたを洗わないならば、あなたはわたしと何の関わりもないのだ」という言葉によって明確に示されています。したがって、イエスが弟子の足を洗われる行為は、キリストであるイエスの死によってイエスに属する者が清められる(神に所属する者になる)という贖いの真理を象徴していることになります。
 ところが、「足の他は」という句を入れると、ここでの洗足がすでに全身が清い者の足だけを清くする行為となり、すでに全身が清いのはイエスの死以外のものによることになります。イエスの死は、すでに神に所属している者の日常的な律法違反の行為を清めるという意味になってしまいます。これでは、洗足の象徴的意義を見誤ることになります。おそらくこの句が入れられたのは、ペトロが「足だけでなく、手も頭も」と言ったのに対して、論理を一貫するためでしょうが、比喩としても理解しやすいからだと考えられます。すなわち、食卓に招かれた者は沐浴して体を洗ってきますが、サンダル履きの足は途中で汚れるので、足は入り口で洗う必要があるという日常の経験を比喩として見ますと、理解しやすくなります。

日常の食事や宴会では食事の前に沐浴する必要はありませんが、過越の食事などのように大きな祭りの食事前には沐浴して清めるように定められていました。エレミアスは前掲書で、ここでこの沐浴が言及されているとして、この食事が過越の食事であったと判断する根拠の一つとしています。

 しかし、「足の他は」を入れた理解では、イエスが足を洗われる前に、すでに清い者になっていることになります。その根拠として、よく「わたしの話した言葉によって、あなたたちは既に清くなっている」(一五・三)という言葉が引用されます。しかし、「わたしの話した言葉」という表現は、ヨハネ福音書では十字架・復活を含むキリストの出来事全体を指すと理解しなければなりません。「わたしの話した言葉」が終わりの日に裁くとか、「わたしの話した言葉」が永遠の命であると言われているのは、そういう意味であるはずです。十字架の前に、地上のイエスの言葉によって清められたとするのは、ヨハネ福音書の基本的な使信に反します。
 ここでイエスが「沐浴した者は洗う必要はなく、全身が清いのだ」と言われるのは、ペトロが「足だけでなく、手も頭も」洗ってくださるように願ったのに対して、イエスがこれからなそうとしておられる贖いの業が、そのような部分的な清めのためではないことを示すためです。ここで「沐浴した者」というのは、キリストであるイエスの死によって贖われ、神に属するようになった(清められた)者を比喩的に指しています。キリストにある者は、沐浴した者としてその全身(全存在)が清いのです。復活者キリストの死は、そのように人間の全存在を清めて神の所属とするための出来事です。わたしたちはキリストの死による贖いを、個々の行為の清めとか、人生の中の何か部分的な出来事と理解してはなりません。
 イエスは、これから成し遂げられる贖いの働き(洗足はその象徴です)にあずかる者として、弟子たちに「あなたたちは清いのだ」と宣言されます。ところがこの宣言に、「しかし、皆ではない」と、重大な例外があることが付け加えられます。その例外が付け加えられた理由が次節で述べられます。

 イエスは自分を引き渡そうとしている者を知っておられた。それで、皆が清いのではないと言われたのである。(一一節)

 イエスはすでにユダが自分を引き渡すようになることを知っておられます。それで、イエスに弟子として従ってこの場にいる者がみな清い(神に所属している)者であるのではない、と言われます。弟子たちの中に、イエスが選ばれた十二人の弟子の中に、清くない者、神のものでない者がいるのです。「皆が清いのではない」という言葉を書き記すとき、ヨハネは自分の共同体への警告の気持ちもこめていたのではないかと推察されます。

模範としての洗足

 さて、イエスは弟子たちの足を洗い、上着をつけ、再び食卓に着いてこう言われた。「わたしがあなたたちにしたことが分かるか」。(一二節)

 ここから一七節までの部分は、先行する部分(六〜一一節)と内容的に矛盾し、福音書の本来の部分ではなく、後から加えられた編集部分であると見る見方があります。たしかに、ここの「言われた」は一八節に自然に続きます。先行する部分では、イエスが弟子の足を洗われる行為の意味は「今は分からないが、後で分かるようになる」と言われていました。すなわち、足を洗う行為で象徴されるイエスの受難によって、弟子たちは復活者キリスト・イエスと真の関わりを持つことができるようになるという霊的奥義が、聖霊が来る日にはじめて理解できるようになるとされていました。
 ところがこの部分では、イエス自身が、足を洗う行為を互いにへりくだって仕え合うことの(倫理的な)模範とされています(一五節)。そうすると、その意味はすでに「今わかっている」ことになります。おそらく、ヨハネ共同体の中で、そのように互いにへりくだって仕え合うことが緊急に求められるような状況があり(そのような状況があったことはヨハネの手紙から推察されます)、編集者が洗足というイエスの象徴行為を、同時に共同体への勧告として利用したのではないかと推察することになります。しかし、「互いに足を洗うように」という勧告を、イエスの洗足の象徴的意義を理解した上で(一七節)、同じようにするようにという主の求めである(一五・一二〜一四参照)と理解すれば、現在の構成のまま理解することは十分可能です。

NTDでシュルツは、後の説明(模範としての意義づけ)を前ヨハネ的伝承(ヨハネの著作より前にあった伝承)とし、著者が自分の象徴的意義づけに矛盾しないとして用いたと説明しています。

 「あなたたちはわたしを師とか主と呼んでいる。それは正しい。わたしはそうである。主であり師であるわたしがあなたたちの足を洗ったのであれば、あなたたちもまたお互いの足を洗わなければならない」。(一三〜一四節)

 「師とか主と呼んでいる」とある原語は、「《ディダスカロス》とか《キュリオス》と呼んでいる」です。《ディダスカロス》は本来「教師」を意味する語で、「師」または「先生」という意味です。《キュリオス》は、ここでは復活されたイエスを指す尊称ではなく、奴隷に対する「主人」とか、弟子が師に対して用いた尊称です。著者は「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない」というイエスの語録(マタイ一〇・二四)を念頭において、「師とか主」という呼び名を用いていると見られます。
 ヨハネはこの語録をここで用います。師であり主であるイエスが身を低くして弟子の足を洗われたのであるから、弟子たちもお互いにへりくだって仕える姿勢で接しなければならない、と共同体に向かって説きます。

 「わたしがあなたたちにしたように、あなたたちも同じようにするようにと、わたしはあなたたちに模範を示したのである」。 (一五節)

 「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない」という語録は、マタイ福音書(一〇・二四)では、イエスが受けた迫害は弟子も受けるようになることを指しています。ルカ福音書(六・四〇)は、「弟子は師にまさるものではない」という語録を、「しかし、だれでも修行をつめば、その師のようになれる」として、弟子の目標と意味づけています。ヨハネはマタイよりもルカに近く、僕は主人の模範に従うべき者であるという意味で用いていることになります。同じ語録が福音書の著者によって様々な意味で用いられていることが分かります。

 「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う。僕はその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさることはない」。(一六節)

 マタイ(一〇・二四)が伝える語録の前半「弟子は師にまさるものではなく」が、ここではヨハネ特有の「遣わされた者」と「遣わした者」の対比に言い換えられて、「僕はその主人にまさらず」という句と対句にされています。弟子たちはイエスから遣わされた者として、遣わしたイエスにまさることはないのだから、自分を遣わされた方の模範に従うべきだ、ということになります。

 「このことが分かっており、そのことを行うなら、あなたたちは幸いである」。(一七節)

 「このことが分かっており、そのことを行うなら」というのは、文章の上では、直前の「僕はその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさることはない」ということが分かっており、師の模範に従うならば、という意味になります。しかし、この理解では、洗足の意味を説明する二つの部分(一〜一一節の象徴的意義と一二〜一六節の模範としての意味)が矛盾のまま残ります。二つの部分を一貫して理解するためには、「このことが分かっており」を、洗足の象徴的意義(イエスの贖罪の死によってはじめて復活者との関わりをもつことができるという意義)を理解することとし、その上で「そのことを行う」、すなわちイエスが弟子たちを愛してご自身の命を捧げられた模範にならって、お互いに愛し合うなら、と理解しなければなりません。このことは後(一五・一二〜一五)で直接的な表現で語られることになります。

弟子による裏切りの予告

 「わたしは、あなたたち皆について言っているのではない。わたしは、自分が選んだ者を知っている。しかし、『わたしのパンを噛みしめる者が、わたしに向かってかかとを上げた』という聖書は実現しなければならない」。(一八節)

 弟子たちの足を洗われたイエスは、弟子たちに向かって「あなたたちは清いのだ」と言われました(一〇節)。しかし、その言葉は弟子の全員について言うことができないのだ、と制限が付けられます。弟子の中に「清い」と言えない者、すなわち神に所属しているとは言えない者がいるからです。
 自分が選んだ弟子の中に自分を裏切る者がいることについて、イエスは聖書を引用して、それがご自身に関わる定めであることを語られます。引用される聖書は詩篇四一編一〇節です。その詩篇は、「わたしの信頼していた仲間、わたしのパンを食べる者が、威張ってわたしを足蹴にします」(新共同訳)となっています。聖書にそうある以上は、信頼する仲間である弟子が裏切るのは、聖書を成就するために遣わされた自分の定めであるとされます。

この詩篇の七十人訳ギリシア語聖書は普通の「食べる」という動詞を使っていますが、ヨハネはこの詩篇の引用で、「噛む」とか「かじる」という意味の別の動詞を用いています。この動詞はヨハネ福音書だけに用いられており(マタイ二四・三八は例外)、ここ以外では、六・五四〜五八に「わたしの肉を噛みしめる」という形で4回出てきます。この動詞の特別の意味は、その箇所の講解を参照してください。

 「事が起こる前に、今言っておく。それは、事が起こったときに、『わたしはある』ことをあなたたちが信じるようになるためである」。(一九節)  ヨハネ共同体は世に向かって、とくに対立するユダヤ教会堂に向かって、イエスこそ神から遣わされた方、神を啓示する方と宣べ伝えてきました。そのさい、イエスが神の顕現態であることを表現するのに、イエスは「わたしはある」という方であるという特別の表現を用いました(八・二四、二八)。このことは自分を神とすることだとして、ユダヤ人の激しい憤りを引き起こし、イエスを石打にしようとする試みになりました(八・五八〜五九)。

「わたしはある」という呼び方は、ギリシア語の《エゴー・エイミ》の直訳です。この称号の意味については、『ヨハネ福音書講解T』319頁以下の「特注 ヨハネ福音書における《エゴー・エイミ》」を参照してください。

 ユダヤ人たちは、弟子に裏切られて逮捕され、十字架刑で処刑されたような者がどうしてそのような身分の者であろうかと嘲笑しました。それに対してヨハネは、それは聖書に預言されていたことであるから、イエスが弟子に裏切られて死に至った事実こそ、かえってイエスがそのような身分の方であることを指し示しているのだとします。
 「事が起こる」というのは、弟子に裏切られて処刑にいたるという出来事を指しています。それが起こったとき、その出来事のゆえにイエスを信じるようになるために、イエスはそのことを予告しておられたのだと、ヨハネは(他の初期の宣教活動と同じく)強調します。
 このように、弟子の裏切りという事実にもかかわらず、むしろその事実のゆえに、イエスを神から遣わされた方として受け入れるように呼びかけます。

 「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う。わたしが遣わす者を受け入れる人はわたしを受け入れるのであり、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わした方を受け入れているのである」。(二〇節)

 その呼びかけとイエスを受け入れることの重大な意義を、ヨハネは、伝承されているイエスの語録を独自のアーメン句の形式で荘重に引用して語ります。
 この語録は、マタイでは弟子たちを宣教に派遣されるときに語られた訓話の結びとして、「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」という形で出てきます(マタイ一〇・四〇)。おそらくこれが原型だと考えられますが、ヨハネは「あなたがた」を「わたしが遣わす者」に言い換えています。師を裏切った者がいたとはいえ、イエスの弟子はイエスの復活後、イエスを復活者キリストとして宣べ伝えるために、復活者イエスによって世に遣わされます。それが使徒たちです。この使徒たちの証言によって、イエスをそのような方として受け入れる者は、イエスを世に遣わされた方、すなわち父を受け入れ、イエスと共に父の子として生きるのです。