補説 2 イエスの生い立ち
ガリラヤ社会の中のイエス
イエスの家系と両親
先に「系図」のところで見たように、イエスの父となったヨセフはダビデの家系に属しますので、イエスの家系はイスラエル十二部族の中ではユダ族に属すことになります。先の「系図」には「ヤコブ、ユダ・・・・・ダビデ・・・・ヨセフ」の系列が見られます。そうすると、ユダ族に割り当てられた土地は南のユダヤですから、ヨセフあるいは彼の先祖はもともと南のユダヤの住人であった可能性が高いことになります(ディアスポラのユダヤ人であった可能性も否定できませんが)。イエスがお生まれになった土地の問題は後で取り上げますが、少なくともイエスの幼少の頃から、両親はガリラヤのナザレに住んでいます。おそらくヨセフ自身か、あるいはヨセフの父とか祖父の世代にユダヤからガリラヤに移住した可能性があります。先にマカバイ時代のところで見たように、ガリラヤがマカバイ家の勢力下に入るようになったマカバイ時代の中期(前一〇〇年前後)から、南のユダヤからガリラヤに移住するユダヤ人が多くなっていました。マリアについては、「ヤコブ原福音書」と呼ばれる外典文書が、マリアの奇跡的な誕生、その成長、神殿での養育、ヨセフとの縁組み、イエス出産の物語を伝えています。この文書は、処女降誕の教義を擁護するために書かれた後代の文書であり、旧約聖書のサムエルの誕生物語をモデルとし、マタイとルカの誕生物語に基づいて巧みに構成されています。この文書によれは、マリアもダビデの家系であり、エルサレムの子のない富裕な夫妻に奇跡的に与えられた娘です。汚れを受けないように神殿の一室に隔離されて養育され、神託により選ばれた(妻を亡くし息子もある)寡夫ヨセフの保護の下に置かれます。その期間中に妊娠し不義を疑われますが、神聖裁判で疑いが晴れ、ヨセフと正式に結婚します。皇帝の人口調査の命令により、ベツレヘムへ行く途中の洞窟で、マリアはイエスを産みます。その後、ヘロデの幼児殺害の手を逃れて、ユダヤを避け、「自分の国」へ帰ります。
この文書はオリゲネスも知っており、三世紀前半までに成立していると見られます。この文書は広く流布し、ギリシア正教会は、イエスの処女降誕を擁護するために、この文書に基づいて、ヨセフを年老いた寡夫とし、イエスの兄弟とされているヤコブらを先妻との間にできた息子たち(従ってイエスより年上の異母兄弟)とします。本書は、このヤコブの作とされています。「原福音書」とは、福音書が扱う内容以前の物語という意味で用いられています。内容と様式は聖者伝説的な物語ですが、歴史的な痕跡が断片的に含まれている可能性もあります。たとえば、マリアはエルサレムの娘ですし、ヨセフも当然のようにエルサレム(またはその近郊)の人として扱われています。この伝承は、ヨセフのユダヤからガリラヤへの移住説を補強します。
イエス誕生の時と場所
イエスの誕生の次第については、マタイ福音書とルカ福音書の「誕生物語」が語っています。そこで語られている物語、とくに処女降誕の物語をどのように受け取るかは、信仰の問題として「誕生物語」の講解で扱いますが、ここではイエスがこの世に誕生されたという歴史的事実に関連する問題だけを見ていきます。キリニウスは紀元六〜七年にシリアの総督であり、紀元六年にユダヤがローマ総督直轄の属州となったときのシリア州総督として人口調査(住民登録)を行っています。しかし、これはヘロデの死後一〇年ほど経っているのですから、「イエスはヘロデ王の時代にお生まれになった」という事実と矛盾します。その他、アウグストゥスの時代に帝国全体に対する住民登録が布告されたことはないとか、ヘロデ王が支配している領地に王の在世中にローマの住民登録が行われることはありえないとか、またヨセフスは紀元後六年に行われた人口調査を最初のものとしているなどの理由で、ルカの記述は歴史的正確さを欠くという議論があります。それに対して、E・シュタウファーはその著『イエス』(高柳伊三郎訳、日本基督教団出版部)において、その一つ一つに反論して、ルカの記事を擁護しています。シュタウファーによると、新たに支配下に組み入れた属州の住民登録は、数十年の年月を必要とする困難な事業で、皇帝の「布告」から始まり、現地民の激しい抵抗を鎮圧しながら、「税額査定」で完了します。キリニウスはアウグストゥス帝の腹心であり、帝から東方の統治を支えるために派遣され、様々な地位で活躍します。総督在任中もそれ以外の立場の時も、彼はシリア州の徴税活動を進めます。彼は前一二年から後一六年まで、帝国の東部を副王のように統治します。一方、ヘロデ王はその独裁的な統治がローマから嫌われ、前八年には徴税権を含め、大幅に権力を失っています。したがって、キリニウスが前七年に何らかの高位の資格で(特使として)シリアに派遣されてアウグストゥスの「布告」をもたらし、シリア州の総督であったとき(六年)に、パレスチナで「税額査定」を完了して、住民登録事業を完成させたと見ることができます。十四年で困難な属州の住民登録を完了したことは彼の大きな功績とされました。シュタウファーは、マタイに報告されている星の記事も根拠にして、イエスの誕生を前七年としています。
一方、「ユダヤのベツレヘムで」お生まれになったとされる誕生の地については、議論があります。イエスは、ユダヤ教社会では「ナザレのイエス」として知られていた方であり、当然ガリラヤのナザレでお生まれになったと考えられていました。もしわたしたちがマルコ福音書とヨハネ福音書しか持っていなかったら、わたしたちも当然イエスはガリラヤのナザレでお生まれになったと考えたことでしょう。それにもかかわらず最初期の共同体は、「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」という伝承を形成し、伝えてきました。マタイとルカは「誕生物語」で、それぞれ違った形で、イエスがユダヤのベツレヘムでお生まれになったことを物語っています。では、「ナザレのイエス」がどうして、遙かに遠いユダヤのベツレヘムでお生まれになったとされたのでしょうか。マタイの「誕生物語」が、歴史的記述ではなく、モーセ・ハガダー(会堂の聴衆のためにモーセについて解説的に敷衍した物語)を下敷きにして構成された物語であることについては、拙著『マタイによるメシア・イエスの物語』78頁以下を参照してください。しかし、ヘロデ王の幼児虐殺については、前出のシュタウファー『イエス』は最晩年のヘロデの残虐な殺戮行為を多くあげて、十分史実でありうることを論証しています。
ルカの「誕生物語」は、キリニウスの住民登録が舞台となっています。その歴史性については先の注記で説明しましたが、誕生地についてはなお以下のような問題点が指摘されています。ナザレに住んでいるヨセフがなぜユダヤのベツレヘムに行って登録をしなければならなかったのか。ローマの住民登録の制度は、実際にそれを求めていたのか。さらに、なぜヨセフはマリアを連れて行かなければならなかったのか。住民登録は戸主が出頭して家族の状況を申告するだけでよいのではないか、というような問題点があります。これらの問題点についても、前出のシュタウファー『イエス』は、ダビデの家系に属するヨセフには父祖からの土地がベツレヘムまたはその近郊にあったのでそこで申告をしなければならかったこと、戸主の申告だけでよいのはイタリア本土だけで属州では本人の出頭が必要であったこと、その出頭要求は病人・妊婦にも容赦はなく過酷であったことを論証して、ルカの記事の歴史性を擁護しています。
イエスの家族と職業
ヨセフとマリア夫妻にはイエスの後に、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの四人の男の子と何人かの女の子が生まれます(マルコ六・三)。イエスは、四人の弟と何人かの妹をもつ長兄として育たれます。イエスとユダヤ教
ヨセフは熱心なユダヤ教徒でした。ヨセフの家系は(ダビデの家系に属する家族として)代々ベツレヘムの住人であって(ヨセフ自身またはヨセフを育てた父親もベツレヘムの住人であった可能性があります)、ヨセフはエルサレムを本拠とするユダヤ教の直系に属する熱烈なユダヤ教徒であったと見られます。そのことは、ヨセフが「義人」と呼ばれており(マタイ一・一九)、その息子であるヤコブもエルサレムのユダヤ教徒たちに「義人」として名を知られていたことからも推察されます。イエス誕生の前後の時期には、エルサレムでファリサイ派の高名な律法学者ヒレルとシャンマイが活躍していました(前二〇年頃〜後一〇年頃)。しかし、少年イエスが彼らの下で学んだという痕跡はありません。イエスが公に宣教を開始されたとき、周囲の人たちは「この人は学んだこともないのに、どうして聖書が分かるのか」(ヨハネ七・一五)と驚きますが、これはラビの弟子として正式の印可を受けた教師でもないのにという驚きです。詳しくは拙著『対話編・永遠の命―ヨハネ福音書講解T』283頁を参照してください。
そのことを示す一つのエピソードをルカが伝えています(二・四一〜五二)。ヨセフは熱心なユダヤ教徒として年ごとにエルサレムに巡礼して神殿に詣でていました。イエスが十二歳になったとき、(おそらく初めて)イエスを巡礼に連れて行きます。両親は帰途について一日の道のりを行ったとき、イエスがいないことに気づき、エルサレムに引き返します。そして、イエスが神殿で律法学者たちの中に座って、学者たちと律法を論じておられるのを見つけます。その時、周囲の人たちはイエスの鋭い受け答えに驚いていたと伝えられています。この出来事を引いて、フルッサーは、イエスを「無学な農民」とする誤りを指摘した上で、こう言っています。シュタウファーは、イエスの誕生を前七年とし、イエスが十二歳になったのは紀元六年とします。この年はキリニウスの住民登録(正確には税額査定)が行われた年になるので、ヨセフはこの時にベツレヘムに赴いて税務を処理したとしています。そうすると、両親が少年イエスを見失った状況が納得しやすくなります。
イエスは、生まれたとき神殿で捧げられ、幼いときからユダヤ教律法によって教育され、ユダヤ教徒の中で教え、ユダヤ教の代表者から死刑の判決を受け、ユダヤ教聖書の一節を口にして死なれた方、すなわち誕生から死に至るまで、その生涯を徹底的にユダヤ教徒として送られた方です。そのイエスの福音が、ユダヤ教を超えてすべての人間に救いの使信となる姿を、わたしたちは福音書の中に見ていくことになるのですが、その前提として、イエスが「ユダヤ人イエス」であること、すなわちイエスがユダヤ教徒としてその生涯を歩まれた事実と、それが意味するところを見過ごしてはなりません。イエスが聖書とファリサイ派の口伝律法以外のユダヤ教文書や思想にどれだけ通じておられたかは難しい問題です。それと関連して、イエスがどれだけギリシア語に通じ、ギリシア語で書かれた黙示文書などの外典に接しておられたかも確認困難な問題です。パレスチナにもギリシア語を話すユダヤ人は多くいたのですから、イエスもある程度の日常的なギリシア語は用いられた可能性はありますが、イエスの母語と日常の用語はアラム語であったことは確実です。イエスの教えや言葉が、当時のユダヤ教各派とどのように関わるのかの問題は、福音書の講解で個々の出来事や語録を扱う時に触れることになります。
以上、イエスが育たれ、活動されたガリラヤの歴史と社会、およびその中でのイエスの生い立ちを見てきました。ここで本論に戻り、ルカが伝えるイエスのガリラヤでの「神の国」告知の活動を見ていくことにしましょう。