市川喜一著作集 > 第17巻 ルカ福音書講解T > 第16講

20 多くの病人をいやす(4章38〜41節)

シモンの家での出来事

 イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。(四・三八)

 ルカ福音書では、ここで初めてシモンの名が出て来ます。ペトロという呼び名は、十二弟子の名が列挙されるところ(六・一四)で、イエスが「ペトロと名付けられたシモン」という形で出てくるところから始まります。それよりも先にイエスがシモンを弟子とされた記事(五・八)に「シモン・ペトロ」という形で出てきていますが、この記事をどのような性格の記事として理解するかは問題がありますので(当該箇所の講解を参照)、この段落を別にしますと、シモンという名で出てくるのは、ここと最後の晩餐の記事(二二・三一〜三三)、および復活後の弟子仲間の会話(二四・三四)だけで、他はすべてペトロという名で呼ばれています。
 シモンという名はギリシア語の名であり、ギリシア人にもユダヤ人にもよくある名です。シモンというギリシア名は、イスラエルの父祖の一人シメオンにちなんだ名として用いられていました。それで、ユダヤ人仲間ではシメオンという名が用いられることもありました(使徒一五・一四、ペトロU一・一)。彼はガリラヤ湖東北岸に面したベトサイダの生まれです(ヨハネ一・四四)。
 ベトサイダは、ヘロデの息子でギリシア文化の心酔者であるフィリポスによってギリシア風の都市として再建され、アウグストゥスの娘の名をとってユリアスと名付けられました(前二年)。したがってギリシア人住民も多く、ギリシア風の施設も多くあって、ギリシア風の生活が営まれていました。そのような町の生まれの彼は、その兄弟アンデレと同じくギリシア語の名を与えられていました。十二弟子の一人フィリポも同じベトサイダの出身です(ヨハネ一・四四)。このようなギリシア風の都市で育ったフィリポはかなりギリシア語が出来たようですが(ヨハネ一二・二〇〜二二)、シモンとアンデレがどれほどギリシア語を使えたかは確認できません。
 シモンがイエスと出会った時には、結婚していてカファルナウムに住んでいます。「しゅうとめ」というのは、彼の妻の母親のことですから、シモンが結婚していたことが分かります。おそらく子供もあったことでしょう。カファルナウムへの移住が結婚前であるのか、結婚して移住したのか、いつ頃であったのかは分かりません。イエスに出会った頃には、彼はカファルナウムに一戸を構えていました。

「ペトロの家」 カファルナウムは、近年の考古学的発掘調査によると、直交する道で区画され、各区画には数家族が住む集合住宅が建てられていました。多くの場合、一つの住宅は中庭を囲むように数家族の住居が配置され、道路に面した入口は一つで、外壁は窓がなく、部屋はみな中庭に面していました。住民は中庭で日常の生活や作業をしたり、交流したようです。中庭には屋上に出るための階段があり、部屋の屋根は木の梁に押し固めた泥土が用いられていました。一九六八年の発掘で、湖岸近くで会堂にも接している住居跡が発見され、「ペトロの家」と呼ばれるようになっています。それは、ヘレニズム期に建てられたもので、カファルナウムに移住したペトロ一家が住んだ可能性があり、使徒時代には「家の教会堂」として用いられ、後年さらに改築されて巡礼たちの家となり、壁にキリスト教徒による各種古代語の落書きが残されているということです。

 先に見たように、シモンが洗礼者ヨハネのところでイエスに出会い弟子となっていたのであれば、彼はバプテスマを受けた後、カファルナウムに帰り、生業である漁業の生活に戻っていたときに、再びイエスに会ったことになります。しかしルカは、ここで初めてシモンを登場させ、このような形でイエスに出会い、その後で弟子として召された(五・一〜一一)としています。
 会堂での集まりは午前にあります。それが済むと、親族や友人を家に招いて、食事をしたり懇談することが普通でした。シモンは自分の家にイエスを招きます。シモンの家では、彼の妻の母親が高熱を出して苦しんでいました。人々はイエスに彼女をいやすように頼みます。おそらくシモンも進んで頼んだことでしょう。

 イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。(四・三九)

 ここでも高熱を伴う病気が「病気の霊」の仕業とされ、イエスがその霊を叱りつけて命じられると、病気の霊が出て行って熱が去ったとされています。彼女はすぐに起き上がって「彼らに仕えた」とされていますが、この「彼ら」はイエスを含む招かれた知人たちや縁者を指すのでしょう。

夕暮れのいやし

 日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。(四・四〇)

 イエスが会堂で悪霊に取りつかれた男から悪霊を追い出し、続きに入られたシモンの家で彼のしうとめの熱病をいやされたのは安息日でした。「日が暮れると」安息日が終わります。安息日には病人を運んだり、病気をいやす行為は律法によって禁じられていましたから、日が暮れて安息日が終わると、すでにイエスの評判を聞きつけていたカファルナウムの人々は、大挙して病人を連れてきます。シモンの家の中庭は病人を連れてきた人々で一杯になったことでしょう。
 イエスは連れてこられた病人の一人一人に手を置いていやされます。ここでは説教もなく、イエスはもっぱら病人をいやす霊能者として活動されています。おそらくイエスは病人に手を置くだけでなく、病人に語りかけ、病気の霊に命じるなど、言葉を用いられたと考えられますが、手を置くとか、手を取って起こす(マルコ一・三一)などの行為は、霊の働きの接点となるだけでなく、それを受けた人の信仰を発動させるきっかけになると考えられます。

 悪霊もわめき立て、「お前は神の子だ」と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。(四・四一)

 イエスのもとに連れてこられた病人の中には、現代では精神病とされている人たちも多くいました。イエスのもとに連れてこられた病人の中に巣くう悪霊どもは、イエスの前に出るとわめきだし、「お前は神の子だ」と叫びながら、取りついている人から出て行きます。これは、先に会堂で起こったことと同じですが、そこでは「神の聖者」と表現されていましたが、ここでは「神の子」と言われています。両方とも、神から遣わされた方、神に属する方を指しますが、「神の子」はさらにその人物と神との同質性を指す方向にあります。
 当時のユダヤ教では、終わりの日にイスラエルの救いのために神から遣わされるメシアは「神の子」であるという見方もありました(マルコ一四・六一)。弟子たちもイエスをメシアと言い表すときに「神の子」という表現を用いたと伝えられています(マタイ一六・一六)。悪霊はイエスがメシアであることを知っており、そのことを「お前は神の子だ」という形で叫び出します。
 イエスは悪霊がそのように叫ぶのを聞いて、悪霊を叱りつけて、悪霊が語ることをお許しになりませんでした。ここに用いられている「戒めた」という動詞は、会堂で汚れた霊を「叱りつけた」とか(三五節)、シモンのしゅうとめの熱を「叱った」というときの動詞(三九節)と同じです。力ある言葉で対抗するものを圧倒する働きを指しています。
 イエスが悪霊にもの言うことをお許しならなかったのは、悪霊どもがイエスをメシアだと知っていたからだと、その理由が説明されています。マルコ福音書では、イエスはメシアでありながら、自分がメシアであることをけっして公にされず、それを知った者たちにそれを秘めておくように厳しく命じられたとする、いわゆる「メシアの秘密」の動機が貫かれています。ルカではそのような動機はとくに強調されていませんが(マルコ九・九にある、山上での変容の後、見たことを口外しないように命じられたイエスの言葉を、ルカは省略しています)、イエスがメシアであることを秘められたという事実は、ここではマルコに従ってその通りに伝えています。