市川喜一著作集 > 第17巻 ルカ福音書講解T > 第20講

24 中風の人をいやす(5章17〜26節)

律法学者たちの登場

 ルカはマルコの順序に従い、次に足が麻痺して歩けない人が立ち上がって歩いたという奇跡を伝えます。このような奇跡は、先に終わりの日の到来を指し示す「しるし」としてあげられていた、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り」(七・二二〜二三)という奇跡の中の一つで、四福音書がすべて取り上げて報告しています。共観福音書だけでなく、ヨハネ福音書(五・一〜九)も、エルサレムのベトザタの池での出来事としていますが、同じ奇跡を報告しています。四福音書すべてに共通するのは、足が麻痺して立てない人に、イエスが「起き上がり、床を担いで歩きなさい」とお命じになると、その人が立ち上がって、床を担いで歩いたという点です。このような神の力の劇的な現れは重視されて語り伝えられ、三つの共観福音書では少しずつ違った形で、そしてヨハネ福音書では大きく違った形で記録されることになります。

並行記事のマルコ(二・一〜一二)では広く足の不自由な人を指す用語が使われていますが、ルカは中風を病んでいる人を指すやや一般的な用語(マルコの用語と同根)を使っています。当時では体の麻痺によって手足が不自由な人はみなこの用語でくくられていたようです。このギリシア語から出た英語の paralyticも同様です。しかし、現在では「中風」は脳梗塞など脳血管の病変による半身不随や手足の麻痺を指す病名です。足の麻痺は、中風だけでなく、筋萎縮など他の病気による場合もありますから、足が不自由で立ち上がれない人をすべて「中風の人」と訳すことは問題があります。ここのギリシア語は、原因の病気が何であれ、足が麻痺または萎縮して正常に立って歩けない人を広く指すと見るべきでしょう。

 ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。(五・一七)

 マルコ福音書(二・一〜一二)の並行記事と較べると、ルカでは「ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たファリサイ派の人々と律法の教師たち」が物語の最初から登場していることが大きな違いです。マルコでは、カファルナウムの自宅に戻られたイエスが大勢の病人をいやしておられるとき、足が不自由で歩けない人が運ばれてきます。イエスがこの人に「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたのを聞いて、その場にいた数人の律法学者が心の中で批判します(マルコ二・五〜六)。マルコではここから律法学者が登場しますので、律法学者に対する反論の部分(原文で五節後半〜一〇節)は本来の奇跡物語に後から挿入されたものではないかという推察が行われることになります。たしかに、その部分を括弧に入れますと、一つの典型的な奇跡物語が現れますので、マルコまたはマルコ以前の伝承の段階で、このような罪の赦しの宣言に対するユダヤ教側からの批判に答える部分が、元の奇跡物語に後から挿入された可能性が考えられます。
 それに対してルカは、初めからファリサイ派の人々と律法学者たちを登場させて、この物語全体を福音における罪の赦しの宣言に対するユダヤ教からの批判を論駁する記事にしています。ルカは、すでにその部分を含むマルコ福音書を見ているのですから、全体を罪の赦しの福音を提示する記事とするのは当然です。また、罪の赦しはルカが福音の中心に置く使信ですから、このような書き方はルカにふさわしいと言えます。
 なお、ここに登場するファリサイ派の人々と律法の教師たちに、ルカでは「ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来た」という丁寧な説明がつけられています。ガリラヤにはファリサイ派の人々と律法の教師たちもいるのですから、そのような人たちがイエスの働きに注目してそこに来ていたとしても不思議ではありません。しかし、遠くの「ユダヤのすべての村、そしてエルサレムから」もそのような人たちが来ていたというのは何を意味するのでしょうか。
 すでにマルコ福音書も、ガリラヤでのイエスの宣教活動が始まったことを語る記事の直後に、ファリサイ派の律法学者たちとの論争を描く大きな区分を置いています(マルコ二・一〜三・六)。ルカもマルコの順序に従ってこの区分をまとめていますが、ルカでは(先に見たように)順序を少し変えることで、この区分を弟子の召命を主題とする区分にしています。しかし、マルコの物語を踏襲していますので、やはり律法学者たちとの論争という性格も強く残っています。そして、イエスが行かれるいたるところに現れて、イエスを批判的な目で監視していた律法学者たちが、「ユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来た」者たちであるとルカが報告していることには歴史的事実の核があると見ることができます。マルコも少し後で、この律法学者たちがエルサレムから来た者たちであることを明言しています(マルコ三・二二、七・一)。
 イエスがエルサレム神殿で犠牲の動物を売り買いしたり両替をする商人の台をひっくり返して追い出すという過激な象徴行為をされたことは、イエスの生涯の中で重要な意義を持つ出来事として、四福音書すべてが報告しています。ただその時期が、マルコ(およびマルコに従う共観福音書)では最後の過越祭の時とされ、ヨハネ福音書ではイエスがガリラヤで宣教活動をお始めになる前の出来事とされています。マルコに従っても、ガリラヤでのイエスの活動が多くの民衆を集め、過激なメシア運動になることを恐れたエルサレムのユダヤ教指導層が、監視のために律法学者を派遣したことは考えられますが、それよりもヨハネ福音書に従って、イエスが初期にエルサレム神殿で過激な象徴行為をされたので、イエスを危険視したエルサレムの指導層が、イエスを訴えるための口実をつかむために監視団を派遣したと見る方が、ガリラヤでの状況をよく説明することができると考えられます。他の状況も考慮すると、この出来事に関してはヨハネ福音書の記事の方が歴史的に正確だと、わたしは考えています。

エルサレム神殿での象徴行為の時期については、拙著『対話編・永遠の命―ヨハネ福音書講解T』102頁の「神殿での象徴行為はいつ行われたのか」の項を参照してください。

罪の赦しの福音

 すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。(五・一八〜二〇)

 マルコはこの出来事をイエスがカファルナウムに戻り自宅(おそらくペトロの家)におられる時のこととしていますが(マルコ二・一〜二)、ルカはこのような状況には触れず、ただちに律法学者たちを登場させて、段落全体を律法学者たちとの論争の記事としています(一七節)。
 足の麻痺した人が運ばれてきた様子はほぼマルコと同じですが、マルコでは「四人の男」とあるのが、ルカでは人数は略されて「男たち」となっています。また、マルコが「屋根をはがして穴をあけ」と書いているところを、ルカは「屋根に上って瓦(タイル)をはがし」と書いています(一八〜一九節)。当時のパレスチナの家屋は屋根に上る階段が外にあり、屋根は材木の梁に木の枝を編んだものと粘土の覆いをのせただけの簡単な造りでしたから、このような「屋根をはがして穴をあけ」、病人を吊り降ろすことが可能でした。ところがルカは「瓦(タイル)をはがし」としています。これはルカが自分の周囲にあるタイル葺きの屋根をもつ(ヘレニズム都市の)家屋のイメージから使った表現でしょうが、パレスチナ農村の状況とは合いません。しかし、そうまでしてこの人をイエスのもとに連れて行きたいという熱い思いは伝わります。
 イエスは「その人たちの信仰を見て」、救いの言葉をお与えになります。元の奇跡伝承では、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と続いていたのでしょう。足の麻痺した人本人も、その人を運んできた男たちも、イエスのもとに来て、イエスから一言葉をいただくなり、手を置いて祈っていただくならば、イエスの内に働く神の力によっていやされると信じたことが、彼らの切実な行動によく表れています。イエスはこの行動に表れた「彼らの信仰を見て」、救いの言葉をお与えになります。このようなイエスを神からの方と信じ、イエスの中に働く力を神の力と信じる信仰に出会うとき、イエスを通して神の救いの力が注ぎこまれます。「その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って」行きます。それを見た人たちは、大いに驚き、神を賛美します(二五〜二六節)。しかし、故郷のナザレの人たちのように、イエスをそのような方と信じない人々の中では、イエスの中に来ている神の力は働くことができません(マルコ六・一〜六)。
 ところが、マルコ以来福音書は、イエスがこの人にまず「あなたの罪は赦されている」と宣言されたとし、それを批判した律法学者たちに「人の子が罪を赦す権威を持っている」ことを知らせるために、この足の麻痺した人を立ち上がらせたとしています(二〇〜二四節)。これは、最初期の福音がまずキリストにおける罪の赦しを告知し、その福音が神からのものであることを示す「しるし」として病気のいやしを行ったことの反映であると見られます。
 はじめ福音が人々にキリストによる罪の赦しを告知したとき、ユダヤ教側からは厳しい批判の矢が放たれました。メシア・キリストであるイエスが信じる者に罪の赦しを与えられるという福音の告知に対して、ユダヤ教からは「神を冒?するこの男は何者か。ただ、神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」という批判・非難が行われたのは当然です。ユダヤ教では、罪を赦す権限は神だけのものです。来るべき終末時のメシアも、イスラエルを異教徒の支配から解放することは期待されていましたが、民の罪を赦す権限は考えられていませんでした。
 マルコ福音書が書かれるようになるまでには、福音活動はすでに四〇年ほど続けられています。その間、キリストにおける神の贖いの働きは、「罪の赦し」という解りやすい表現で宣べ伝えられました。パウロは「罪の赦し」という表現をほとんど用いないで福音を語っていますが、一般の福音活動の大勢は「罪の赦し」を中心に置いていたようです。そのことは、パウロ以後のキリストの福音を証言するコロサイ書(一・一四、二・一三)やエフェソ書(一・七)などで「罪の赦し」が福音の中心に置かれていることや、パウロ以後のキリストの福音を集約するような位置にあるルカ文書が「罪の赦しの福音」を前面に出している事実(ルカ二四・四七、使徒一三・三八など)からも十分推察することができます。
 そうであれば、マルコまたはマルコ以前の伝承が、罪の赦しを前面に出して福音を語り、それに対するユダヤ教からの批判に対して反論しようとしたことは当然です。マルコはその反論を、イエスご自身がユダヤ教律法学者たちになされた反論として書き記します。マルコではまだこの反論の部分は本来の奇跡物語伝承に後から挿入された可能性が残りますが、「罪の赦しの福音」を中心にするルカは、はじめから律法学者を登場させて、この段落全体を「罪の赦しの福音」を弁証する記事にしています。

「人の子」の権能

 ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」。そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。(五・二一〜二六)

 神だけが人間の罪を赦すことができるのに、人間が罪を赦す権威を行使するのは、神への冒?だとするユダヤ教からの批判に対して、イエスをメシア・キリストと宣べ伝える福音は反論します。「イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった」というのは、ユダヤ教からの批判を十分に知っている福音の宣教共同体が、彼らへの反論をイエスの口に置いているのです。その反論の要旨はこうです。

イエスは足が麻痺して立ち上がれない人を、「立って歩け」という命令の一言葉で立ち上がらせたではないか。だいたい、「あなたの罪は赦された」と言うのと、足の麻痺した人に「起きて歩け」と言うのと、どちらがやさしいか、答えてほしい。どちらも人間にはできないことではないか。ところが、イエスが足の麻痺した人に「起きて歩け」と命じられると、その言葉によって現にその人が立ち上がって、自分を運んできた床を取り上げて歩いて帰ったのだ。この事実は、イエスが人間にはできないこと、神だけができることをしておられることを示している。すなわち、地上の一人の人であるイエスが、神から遣わされた方として、神の権能をもって行為しておられることを証明している。そのイエスが、本来は神だけの権能である「あなたの罪は赦されている」という宣言をしたとしても、どうしてそれを冒?だと言うのか。
 そもそもイエスは終わりの日に現れると預言されている「人の子」なのだ。「人の子」は終わりの日に神の審判を執り行う。その「人の子」が地上に現れて、「あなたの罪は赦されている」と宣言しても、それは当然ではないか。あなたたちはイエスをそのような神から遣わされた方、終わりの日の「人の子」と信じないで、イエスの行為を冒?と批判するが、イエスは足の麻痺した人を立ち上がらせるなどの多くのしるしによって、「人の子」であることを示されたではないか。あなたたちの方こそ、イエスをこのような「人の子」と信じて受け入れなければならない。

 この反論は、イエスに「人の子」という称号を帰して、イエスが誰であるのかを宣言しています。この事実は、これが初代の宣教共同体による反論であることを示唆しています。こう理解するのは、イエスご自身が批判する律法学者たちに反論された可能性を否定するものではありません。しかし、イエスが反論されたとしても、その語録を伝承した最初期の共同体が、それを伝承する過程で「人の子」という称号を用いて自分たちの批判者たちに答える反論を形成したことも事実です。イエスをこのような終わりの日に現れる「人の子」として宣べ伝えたのは、黙示思想的待望に燃える最初期の共同体なのですから。
 イエスが「人の子」という表現を用いて語られたことは、イエス伝承に深く組み込まれている事実です。これがユダヤ教黙示思想世界の特殊な表現であって、ギリシア語世界では理解されないものであるにもかかわらず、ギリシア語で伝承されたイエスの語録伝承で語り伝えられてきた事実は、これがイエスご自身の用語として尊重され、変更されることなく伝えられたからです。ただ、イエスがどのような意味内容をこめてこの称号を用いられたのか、また、ご自分を指して用いられたのか、他の誰かを指しておられるのか、さらに最初期の黙示思想的待望に生きた共同体の影響がどの程度及んでいるか、議論が絶えず、福音書研究の難関です。
 ここでその議論の詳細に立ち入ることはできませんので、ここでの必要最小限のことに触れて、この段落の意義を考えてみましょう。「人の子」という称号は、ダニエル書などのユダヤ教黙示文学に出てくる、終わりの日に天から現れて神の支配をもたらす超自然の審判者であり救済者を指す称号です。ところが、この時代のアラム語の用法では、「ある人」とか「一人の人間」を指す場合もあり、むしろこの方が普通の用法でした。もしイエスが面前の律法学者に反論されたのであれば、この意味で用い、「一人の人間が地上で罪を赦す権威を持っていることを示すために」という意味で用いられた可能性が高いことになります。
 ところが、ギリシア語の世界ではこの「人の子」という奇妙な表現は、「ある人」とか「一人の人間」と言う意味ではありえず、どうしてもユダヤ教黙示文学の「人の子」称号を指すことになります。それで、パウロとかパウロ名書簡の著者は決してこの「人の子」という句を用いません。この称号がギリシア語でのイエス伝承に用いられた結果、福音書では「人の子」称号は、いつもユダヤ教黙示思想における「人の子」、すなわち終わりの日に天から現れて神の支配を実現する超自然的人格を指すことになります。イエスご自身がこのような意味内容を承知の上でお用いになったとしなければならない場合もあります。
 以上の事情を総合すると、もしイエスが反論されたとしても、どのような言葉で反論されたかは確認困難ですが、少なくとも現在の福音書の記事は、罪の赦しの福音に対するユダヤ教からの批判に対して、最初期の共同体が「人の子」という称号を用いて行った反論であると理解するのが順当であると考えられます。