市川喜一著作集 > 第17巻 ルカ福音書講解T > 第25講

29 十二人を選ぶ(6章12〜16節)

十二人選出の経緯

 そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。(六・一二〜一三)

 マルコは、安息日のいやしの記事の後に、「海辺の群衆」と呼ばれる段落(マルコ三・七〜一二)を置き、その後に「十二人」の選びの記事を置いています。ルカはその順序を変えて、安息日のいやしの記事の後にすぐ「十二人」の選びの記事を置き、その後にマルコの「海辺の群衆」に相当する段落(六・一七〜一九)を、いわゆる「平地の説教」の導入部として置いています。したがって、この「十二人を選ぶ」という段落は、弟子団の形成を主題とする区分の最後に位置することになり、その区分の締めくくりとなります。
 マルコはこの出来事を、「さて、イエスは山に登り、ご自分が望んでおられた者たちを呼び寄せられたので、その人たちはみもとに来た」とだけ書いています(マルコ三・一三)。ルカはそれをもう少し詳しく、「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた」と伝えています(一二〜一三節)。ルカは、イエスが山に登られたのは祈るためであり、「神に祈って夜を明かされた」と、十二人を選ぶにあたってイエスがいかに真剣に祈られたかを強調しています。これは、祈りを重視するルカの傾向が現れていますが、それ以上に、十二人の選任がイエスにとっていかに重大なことであったかをうかがわせます。
 夜明けになって、イエスはお心にかなう者を呼び寄せられます。早朝の山の霊気の中で、徹夜の祈りから立ち上がられたイエスの周りに、選ばれた十二人の弟子たちが集います。これは、シナイ山から下りてきたモーセをイスラエルの民が迎えた時以上に厳粛な時であると言えるでしょう。
 ここでマルコ(三・一四)は、イエスは「十二人」を「創設された」と書いています。この文で用いられている動詞は、このような場合に期待される「任命する」とか「選任する」という動詞ではなく、「造る」という動詞《ポイエーン》です。ここで行われたことは、十二人という数の弟子が何か既存の役職に任命されたということではなく、新しい共同体が創造されたのです。ちょうど新しい事業を行うために新会社が設立されるように、新しい使命を担う新しい共同体が創設されたのです。それに対してルカは、ただ「選ばれた」とだけ書いています。この新しい共同体は「十二人」と呼び慣わされるようになります。
 マルコ(三・一四〜一五)は、この「十二人」が創設されたのは、「それは彼らをご自分と一緒におらせるためであり、また宣教に遣わし、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった」と、その目的とか使命を明記しています。それに対してルカは、ただ「使徒と名付けられた」とだけ書いて、その役目については具体的には何も書いていません。マルコの記述は、実際にイエスが十二人を選任された時の状況が反映していますが、ルカはもはやその状況には関心がなく、この十二人が最初期の共同体で「使徒」として活動した事実だけに関心が集中しているので、後で第二部として書く「使徒言行録」に登場する「使徒」は、このようにしてイエスに選ばれたのだ、とその選出の経緯を語るだけになっています。

選ばれた十二人

 こうして選出された十二名の弟子たちの名前が列記されます。

 「それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである」。(一四〜一六節)

 比較のためマルコ(三・一六〜一九)があげているリストを並べておきます。
 「まずシモンにはペトロという名をつけられた。ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち『雷の子ら』という名をつけられた。さらに、アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、カナン人シモン、それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである」。
 最初に「イエスがペトロと名付けられたシモン」があげられているのは、ルカもマルコと同じです。「十二人」の名があげられるときには、いつもこのシモン・ペトロが筆頭者としてあげられています。これは、十二人のことを語る福音書伝承が成立するころには、全共同体のトップとしてのペトロの権威が確立していたことを示すのでしょう。
 彼のヘブル名は「シメオン」ですが、ギリシア音読みで「シモン」と呼ばれていました。「バルヨナ」と呼ばれている(マタイ一六・一七)ことから、ヨナの子(あるいはヨハネの子)であることがわかります。「十二人」のひとりアンデレの兄弟であり、ガリラヤ湖の東北岸ベッサイダ出身の漁師でした。イエスと出会ったときにはカファルナウムに住み、すでに結婚していて妻があり、おそらく子供もいたと考えられます。
 バプテスマのヨハネが宣教を開始した時、兄弟のアンデレと一緒に馳せ参じて、ヨハネの弟子になります。そしてヨハネのもとにいる時、アンデレに紹介されてイエスに出会います。その時すでに、イエスは彼に「ケパ」という名(アラム語で岩の意)を与えておられます(ヨハネ一・三五〜四二)。このアラム語にあたるギリシア語《ペトラ》から出た呼び名が「ペトロ」であり、これが後に彼の呼び名として最もよく用いられるようになります。その後ガリラヤに帰って漁師をしていた彼を、アンデレと共にイエスが弟子として召されることになります。マルコの記事では、イエスが彼を十二人団の一人として召されたときに、ペトロという名をつけられたことになりますが、ヨハネ福音書では洗礼者ヨハネのところで出会ったときにペトロと名付けておられます。ルカは名付けられた時期にふれないで、イエスがその名をつけられた事実だけを伝えています。
 次にアンデレが来ます。アンデレはペトロの兄弟であり、ペトロと一緒に召されています。彼はペトロよりも先にイエスを知り、ペトロをイエスのもとに導いた重要な人物ですが、マルコは、イエスのもっとも内輪の弟子団を形成し、最初期共同体で最高指導部となったペトロ・ヤコブ・ヨハネの三人のグループを初めにあげるためか、アンデレの名を四番目に置いています。しかし、ルカはペトロの兄弟として、ペトロのすぐ次に置いています。マタイも同じです。
 ルカでは、ペトロとアンデレの兄弟の後に、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネがあげられています。この二人の兄弟も、シモンとアンデレと同じくガリラヤ湖の漁師であり、同じように召されています(マルコ一・一九〜二〇)。彼らの父ゼベダイは雇い人もいるかなりの資産のある家であったと推察されます。彼らの母は、「ゼベダイの子らの母」として、イエスの十字架のもとに立っていた数人の女性の中にいますが、その記事(マルコ一五・四〇、マタイ二七・五六、ヨハネ一九・二五)の比較から、彼女はイエスの母マリヤの姉妹であって、この二人がイエスの従兄弟になる可能性があります。また、彼らがペテロやアンデレと一緒にバプテスマのヨハネの弟子になっていた可能性はありますが、その記録はなく、確認できません。マルコでは、この二人には「ボアネルゲ」という呼び名が与えられています。この名はアラム語の崩れた形で正確な意味はわかりません。マルコはこれを「雷の子」と解して伝えています。これはおそらく彼らの気性の激しさから来たものでしょう。しかし、これを彼らのゼロテ的傾向を示す呼び名であるとする説もあります。ルカはこのような呼び名にはふれず、名前だけをあげています。この二人はペテロと共に、イエスの生涯の重要な場面に立ち会うイエスに最も身近な三人のグループを形成します。
 フィリポは、ペテロとアンデレの同郷のベッサイダの人で、彼らと同じくバプテスマのヨハネの弟子となっていた時、イエスに出会っています。それ以上のことはわかりません。
 バルトロマイの名は「トロマイの子」の意味であり、このリストに名があげられているだけです。ナタナエルと同一人物であるとする試みもありますが、確証はありません。
 マタイは徴税人であったという伝承は確かなようです。マタイ福音書(一〇・三)では「徴税人マタイ」と明記されています。マタイ福音書では、この人物が徴税人レビと同一人物とされていますが、「徴税人レビの召命」の項で述べたように、ルカは同一人物とする必要も理由もないので、そのような同一視はしていません。
 トマスは、共観福音書ではこのリストに名前が出てくるだけですが、ヨハネ福音書では「デドモ(双子)と呼ばれているトマス」と言われており(一一・一六)、数回登場して、重要な役割を果たしています。これまでの経歴はわかりません。

トマスについては、拙著『対話編・永遠の命―ヨハネ福音書講解T』404頁を参照してください。

 アルファイの子ヤコブは、ゼベダイの子のヤコブと区別するために「小ヤコブ」とも呼ばれています。経歴など詳しいことは何もわかりません。マルコ二・一四の徴税人「アルファイの子レビ」と同一視しようとする試みがありますが、これも無理です。
 マルコとマタイにあげられている「タダイ」という名はルカのリストにはなく、かわりに「ヤコブの子ユダ」があげられています。「十二人」の中に二人のユダがいたことは確かであると考えられます(ヨハネ一四・二二)。同名の者がいる場合には副名を用いて区別するのが通例ですので、ルカは本名を伝え、マルコとマタイは副名のタダイを伝えたと考えられます。この「ヤコブの子ユダ」も、ここに名があげられているだけで、詳しいことはわかりません。
 十一番目のシモンのことを、マルコ(とマタイ)は(ギリシア語原語で)「カナン人シモン」と呼んでいますが、これは「カンナー(熱心党)」というアラム語を民族名と誤解したものと考えられます。これを「熱心党と呼ばれたシモン」と訳したルカの方が正しいと考えられます。このシモンについても、元熱心党員であったこと以外は何もわかりません。
 最後に「イスカリオテのユダ」の名があげられ、その名に「後に裏切り者となった」という説明がつけられています。イエスが選ばれた弟子の一人がイエスを裏切った事実は、イエスをメシアと宣べ伝える共同体にとって重荷でしたが、その事実が率直に記録されています。「イスカリオテ」という語は「ケリオテの人」の意味であると考えられます。彼はイスカリオテのシモンの子であって(ヨハネ六・七一)、「十二人」の中でただ一人、ガリラヤではなく南のユダヤの地の出身者であることになります。ユダがイエスを裏切ったことについては、その該当箇所で触れることになります。

「イスカリオテのユダ」という呼び名の意味については、拙著『対話編・永遠の命―ヨハネ福音書講解T』261頁を参照してください。

 さて、この「十二人」の名前を見ると、ギリシア名やギリシア読みにされた名が多くあり、当時のガリラヤがヘレニズム世界と深い交流の中にあったことがうかがえます。また彼らの出身や経歴を見ると、漁師や徴税人や熱心党員というように、さまざまの職業や違った立場の人たちが混じっています。その中に律法学者はいません。イエスは「無学のただ人」、「地の民」を選んで新しいイスラエル、まことの神の民を創設されたと言えます。

「使徒」の称号

 四福音書の中で、この「十二人」を使徒と呼ぶのはルカ福音書だけです。他の福音書はこの「十二人」を使徒と呼ぶことはありません。ルカだけが、この段落で「十二人を選んで使徒と名付けられた」と明記し、以降福音書の中でもこの「十二人」を使徒と呼び、その呼び方を第二部の「使徒言行録」に自然に続けていきます。むしろ、使徒言行録で「使徒」とされる「十二人」を福音書の時期に遡らせたと見るべきでしょう。

マルコ福音書の三・一四に「使徒と名付けられた」という文がありますが、これは有力な写本になく、ルカのこの箇所から補われたものと見られます。また、マルコ六・三〇の《アポストロイ》は「使徒たち」ではなく、「遣わされた者たち」の意です。

 パウロ書簡などでは、この「十二人」以外の人たちも「使徒」と呼ばれていますが、ルカはイエスによって直接任命されたこの「十二人」以外の人を「使徒」と呼ぶことはありません。パウロでさえ、ルカは「使徒」と呼んでいません。使徒言行録で「使徒」という語が出てくるのは十六章四節までです。すなわち、ペトロを主人公とする前半だけで、パウロの活動を描く後半には出てきません。
 最初期の共同体においては、「使徒」の概念は流動的でした。「十二人」以外の人も使徒と呼ばれていました。しかし、時と共に共同体の土台となる使徒の範囲は固定されるようになり、ペトロやパウロが天に召された以後の時代においては、ペトロを代表とする「十二人」のように、直接イエスによって任命された者だけを使徒とし、彼らの証言を信仰の土台として語るようになります。ヨハネ黙示録(二一・一四)になると、「都の城壁には十二の土台があって、それには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけてあった」と語られるようになります。このような時代の福音の進展を総括するような立場でその二部作を書いたルカは、「使徒」をイエスが任命された「十二人」に限るようになったと考えられます。