市川喜一著作集 > 第18巻 ルカ福音書講解U > 第8講

66 マルタとマリア(10章38〜42節)

ベタニアでの出来事

 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。(一〇・三八)

 マルタ・マリア姉妹はベタニア村の住人であることが福音書から知られています(ヨハネ一一・一)。その「ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオン(三キロ弱)ほどのとろこにあった」村です(ヨハネ一一・一八)。ベタニアはエルサレムの東三キロ足らずにある村ですから、歩けば半時間程度でエルサレムに着きます。マルタの家にお入りになったイエスは、目的地のエルサレムを目の前にしておられることになります。ところが、ルカの「旅行記」は始まったばかりですから、その位置にベタニア村での記事が置かれていることには奇異な感じを受けます。
 しかし、先に見たように、ルカの「旅行記」は、旅行の行程や出来事を報告する本来の旅行記ではなく、ガリラヤでの「神の国」告知の活動とエルサレムでの受難を語るマルコの二極構造の間に、マルコにはない「語録資料Q」やルカの特殊資料からの素材を置くために割り込ませた物語空間ですから、地理的・時間的継起は無視されることになります。
 マルタにマリアという姉妹がいたことはすぐに次節で言及されます。マルタにはラザロという兄弟もいて、イエスはこのマルタ・マリア・ラザロのきょうだいと親しくされていたことがヨハネ福音書一一章に語られています。また、ヨハネ福音書によればイエスは活動期間中に祭りの度ごとにエルサレムに上っておられますから、その度ごとにベタニアのマルタの家に立ち寄っておられたと推察されます。その中の一回で起こったことを、ルカはここに置いたと考えられます。この出来事は、必ずしも最後の過越祭のエルサレム入りの直前でなくともよいことになります。

無くてならぬものは一つ

 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。(一〇・三九)

 マリアはマルタの「姉妹」とあるだけで、姉か妹かは分かりません。しかし、ここやヨハネ福音書一一章に描かれている様子から、マルタは長女で、マリアはその妹、ラザロはその弟と推察されます。
 イエスは行き先のどこでも、相手の立場に応じた形で「神の国」のことを語られたのでしょう。宿泊先のマルタの家で、「人を見て法を説く」イエスの姿が伝わってきます。マリアはイエスの足もとに座って、諄々と語られるイエスの言葉に耳を傾けます。

 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」。(一〇・四〇)

 マルタは長女で、おそらくすでに両親がなくなっていたその家を取り仕切っていたのでしょう。イエスとその一行がベタニアに来て泊まったときには、一行をもてなすために台所で忙しく立ち働きます。そのマルタが、イエスの足もとに座ってじっとイエスの話を聴いているマリアを見て、こう言ったのも当然の感情として理解できます。当時の庶民の家の構造からすると、片隅の台所で働くマルタは部屋の他の隅で客人の足もとに座って話を聞いているマリアの姿を見ていたのでしょう。なお、ここでマルタがイエスに「主よ」と呼びかけているのは、復活されたイエスに対する称号ではなく、日常的な会話での呼びかけ、とくに目上の人や男性に対する呼びかけと見るべきでしょう。

 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。(一〇・四一〜四二)

 イエスが「マルタ、マルタ」と名を繰り返して呼んでおられるところに、マルタに対するイエスの優しい思いやりが感じられます。イエスはマルタの求めを叱責するのではなく、マルタの奉仕を受け入れながら、この状況でマルタに重要な事柄を教えようとされます。
 イエスのお答えの中心は「多くのこと」と「ただ一つ」の対照です。この世界での生活が要求する多くの思い煩いと、神が求められる「ただ一つ」のことの対照です。わたしたちはこの世で生きていく限り、生活するために計画し、準備し、苦労し、疲労し、配慮し、後悔し、失望するなど、実に多くの思い煩いがあり、心を乱すことが山ほどあります。しかし、わたしたちが神に受け入れられ、神からの恵みと祝福を受けるために必要なことは「ただ一つ」、神の言葉を聴くことだけなのです。イエスは、この神の言葉を語る者として、生活の中での思い煩いの中にいるマルタに優しく諭されます。
 マリアも日頃はこのような多くの思い煩いの中で生きているのでしょう。しかし、今は神の言葉を語るイエスにじっと耳を傾けています。マリアはイエスに奉仕するより、イエスが与えてくださるものを受け取る方を選んだのです。今マリアが選んだ場、すなわちイエスを通して語られる神の言葉を聴き、神がイエスを通して与えてくださる恩恵を受け取る場を、彼女から取り上げてはならない、とイエスは言われます。

最初期共同体の状況で

 四一節の「主はお答えになった」の「主」《キュリオス》は、先の会話の中のマルタの「主よ」とは違い、ルカが用いている「主」です。ルカが「主」《キュリオス》を用いるときは、復活されたイエスを「主」と呼んでいた彼の時代の用例が重なってくることは避けられません。伝承されていたイエスの語録を用いるとき、そのイエスの言葉を復活者イエスと共に生きる共同体が自分たちへの言葉として聴くことを願って、ルカは「主《キュリオス》はお答えになった」と書きます。
 マルタは「イエスを家に迎え入れた」とあります。この「迎え入れた」は、先に「七十二人の派遣」のところで問題になっていた、使者を迎え入れる家と拒む家の対照が響いています。マルタの家はイエスを迎え入れたことによって、救いが来ているのです。それは、イエスを家に迎え入れたザアカイに救いが来たのと同じです(一九・六、九)。今このイエスの語録の言葉を聴いている人たちは、福音の使者を迎え入れることによって復活者イエスを迎え入れ、キリストの救いを体験し、「家の集会」に集まっている人たちです。この家の人たちにイエスは名を呼んで、この「マルタよ、マルタよ」の言葉を語られます。
 「家の集会」は「主の食卓」と御言葉を聴く営みから成っています。もし集う人の一部(たいていは女性)が「主の食卓」の準備に忙殺されたり、また一同が飲食だけに終始して、御言葉を聴く機会や姿勢を失うようなことがあれば、それは本末転倒です。無くてならぬものはただ一つ、神の言葉を聴くことですから、誰からもその機会を取り上げてはなりません。女性を含むすべての人が十分に御言葉を聴く機会が与えられた上で、飲食のことが準備され、交わりが楽しまれなくてはなりません。
 ここのイエスの言葉は、現代のわたしたちに語りかける「主」の言葉です。主は、多忙な現代社会の生活の中で、「多くのことに思い悩み、心を乱している」わたしたちに語りかけておられます。主は言われます、「本当に必要なことはただ一つだけである」。マリアがイエスの足もとに座って、イエスが語られる言葉にじっと耳を傾けたように、今わたしたち現代人も、すべての営みに優先してただ一つの「無くてならぬもの」、すなわち神の恩恵の言葉に耳を傾け、恩恵の場に生きることを学ばなければなりません。どのように忙しくても、複雑な現代社会に対応するため必要なことがどれほど多くても、それを理由にこの恩恵の言葉を聴く機会を取り上げてはなりません。まずすべての人が、キリストであるイエスを通して語られる父の恩恵の言葉を聴いて、その恩恵の場に生きるようになることが、この複雑で多忙な現代社会に生きる人たちに、平安の根底を与えることになります。