市川喜一著作集 > 第19巻 ルカ福音書講解V > 第22講

129 いちばん偉い者(22章24〜30節)

 また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。(二二・二四)

 この段落の前半(二二・二四〜二七)はマルコ一〇・四一〜四五と並行しています。イエスが死を覚悟してエルサレムに向かわれたとき、弟子たちは最後まで栄光の位にあげられたイエスによる神の支配の実現を期待し、その御国での高い地位を願っています。そのことを語る段落は、マルコではエルサレムに向かう旅の途上、エルサレムに入る直前に置かれていましたが、ルカでは最後の晩餐の席に置かれています。また、マルコではゼベダイの子のヤコブとヨハネがイエスに御国での高い地位を願い出たことに対して他の弟子たちが腹を立てたので、イエスが語り出されたことになっていますが(マルコ一〇・三五〜四一)、ルカはヤコブとヨハネの名をあげず、「使徒たち」一同の議論としています。イエスがご自分の死を見据えて語っておられるのに、弟子たちは自分の栄光と高い地位を求めて、他者と較べて自分の価値を誇るという議論をしています。

ルカは必ずしもマルコに従って書いているとは限りません。自分がもつ特殊資料に基づいて書いている場合が多くあります。この場合も、おそらくルカの特殊資料に基づいて書いていると考えられます。しかし、少なくともマルコを知っているルカが、ヤコブとヨハネの願いの部分を、ペトロへのイエスの叱責(マルコ八・三二〜三三)と共に省略した理由については検討が必要だと考えられます。その理由がマルキオンに対抗するためではなかったかという推測については、 拙著『福音の史的展開U』 463頁末から8行目以下を参照してください。

 そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている」。(二二・二五)

 そのような弟子たちの議論を聞かれた(あるいは察知された)イエスは、この世に残していく弟子たちの集団にとってもっとも重要な心構えを説かれます。ここのイエスの言葉(二五〜二七節)は、並行するマルコ記事と較べますと、内容と主旨は同じですが用語や表現は違っています。ルカは、マルコとは別の独自資料を用いて書いていると考えられます。もっとも大きな違いは、マルコの伝承の最後に置かれている「人の子は多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ一〇・四五)という言葉を欠いていることです。
 イエスは弟子たちの共同体の根本原理を説くために、それと対照してこの世の共同体の構成原理を指し示されます。「異邦人の間では」、すなわち神の支配の外にあるこの世の民の間では、「王が民を支配し、民の上に権力を振るって」います。この世で共同体を成立させている基本原理は「権力による支配」です。この世の共同体は、大きい者・強い者が小さい者・弱い者を力で支配することによって成り立っています。しかも、力をもって支配する者たちが、秩序を維持し安全を保障する者として、「守護者」などの尊称をもって崇められています。
 この短い言葉は、この世の原理を見事に指し示しています。この世、人間の世界を構成する原理は支配欲です。人に対する支配欲は権力欲であり、物に対する支配欲は所有欲です。他者の上に立って、少しでも多くの人間を支配したいという欲求が権力欲であり、少しでも多くの物を支配して、自分の欲するままに使いたいという欲求が所有欲です。この人と物に対する支配欲が、この世界を構成しています。そのために争いと戦いが起こり、より大きな力をもって支配する者が王として民と財貨を支配することになります。その力をもって共同体の秩序と平和を維持する者は、《エウエルゲテース》(守護者、恩人)とか《ソーテール》(救済者、救世主)などと呼ばれます。当時の通貨には、ヘレニズム王朝の王やローマの皇帝などの肖像にこのような称号が刻まれていました。

 「しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」。(二二・二六)

 この世の原理に対して、イエスは「しかし、あなたがたはそれではいけない」と言って、神の支配がまったく別の原理によるものであることを示されます。神の支配において「偉い者」とは、上に立って力で支配する者ではなく、下にいて人に仕える者であると言われます。古代の社会、とくに部族社会では長老が支配し、「若い者」は長老の支配の下で実際の働きの担い手、「仕える者」でした。イエスのこの短い言葉は、この世界の構成原理と神の国の構成原理の対比を端的に指し示しています。この世界では多く支配する者が価値ある者であり、神の国では多く仕える者が価値ある者となります。

 「食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である」。(二二・二七)

 前節で原理として示されたことが、ここでは具体的な実例、すなわち食卓の実例をもって語られます。食事の席では、客は食卓に寄り掛かって横になって食事をします。その食事の世話をする者は、横になることはなく、立ち働いて給仕します。その実例を念頭において、イエスは弟子たちに質問されます、「どちらが偉いか、横になっている者か、それとも仕える者か」(直訳)。ここの「仕える者」は前節の「仕える者」と同じギリシア語です。ここは食事の席のことですから、「給仕する者」と訳されています。そして「横になっている者」は「食事の席に着く人」と訳されています。この世では当然横になって食事の席に着いている人が、立ち働いて仕えている者、すなわち給仕している人より偉いとされます。
 このような価値判断に対して、イエスは「しかし」と言って、ご自分を「給仕する者=仕える者」としてお示しになります。あなたたちの師であり、あなたたちが「主」と呼んでいるわたしは、実は「仕える者」として、あなたたちの間にいるのだと言っておられます。ここのイエスの言葉は直訳すると、「しかし、わたしはあなたたちの間で仕える者として居る」となります。ここの「仕える者として居る」という表現を、新共同訳は「いわば給仕する者である」と訳しています。イエスは「仕える者」として弟子たちの間におられます。この「仕える者」としてのイエスの姿を、ヨハネ福音書(一三・一〜二〇)は弟子たちの足を洗うイエスの姿で描きます。この短い一節が言おうとしていることを、ヨハネは弟子たちの足を洗うイエスの姿と、その後の弟子たちとの対話で詳しく展開して見せています(その意義内容については、同箇所の講解を参照してください)。

ルカのこの箇所(二二・二四〜二七)を並行するマルコ(一〇・四一〜四五)の記事と較べますと、用語や表現がずいぶん異なり、別の伝承から来ていることが推察されます。しかしもっとも重要な相違は、マルコの記事の結びに置かれている、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ一〇・四五)という語録が伝えられていないという事実です。これはルカによる省略ではなく、ルカが用いた特殊資料になかったからだと考えられます。もともと独立した「人の子」語録の伝承が、マルコ系の伝承では、自分の命を与えて多くの人の救いのために「仕える者」として、「仕える者」の伝承に加えられたと推察されます。この「人の子」語録の意義については、拙著『マルコ福音書講解T』431頁以下の「多くの人の身代金」の項を参照してください。

 「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる」。(二二・二八〜二九)

 支配を構成原理とするこの世の国と、仕えることを構成原理とする神の国の対比を語られた語録の後に、仕える者になって自分の力とか価値で支配することを放棄した弟子たちに、イエスは上から与えられる「支配権」(この訳語の問題点については後述)のことを語り出されます。
 まず、イエスはこの最後の食事の席で、ご自分の生涯、とくに「神の国」を告知された激しい働きの期間を「わたしの諸々の試練《ペイラスモス》の時」と総括され、弟子たちをその期間中ずっと自分と「一緒に踏みとどまった者たち」と呼ばれます(二八節)。イエスがお受けになった《ペイラスモス》とは、ここではとくにイエスがユダヤ教支配層からお受けになった迫害を指していると考えられます。その迫害の中で、今ここにいる弟子たちは最後までイエスと一緒にいて、イエスが受ける迫害を受ける側に立ち、イエスと共に「仕える者」としての道を歩んだ者たちとされます。ここの文では「あなたたち」が強調されています。他の者たちはともかく、「あなたたちは」最後まで一緒に踏みとどまってくれた者たちであるから(二八節)、その「あなたたちに」わたしもまた与えるのだと続きます(二九節)。
 イエスの言葉は、「わたしの父がわたしに《バシレイア》をゆだねてくださったように、わたしもまたあなたたちにゆだねる」(二九節)と続き、何をゆだねるかは次節(三〇節)の(英語のthatに相当する《ヒナ》で導かれる)文で指し示されます。すなわち、三〇節の内容が「《バシレイア》をゆだねる」という表現の内容を示すことになります。
 たしかに《バシレイア》という語は「王《バシレウス》の支配」を意味し、「王国」と訳してよいギリシア語です。それは語意からすると(新共同訳がしているように)「支配権」と訳すこともできますが、そう訳すのは問題を孕みます。そのような用語で訳しますと、「神の国」が権力による支配と誤解されかねない危険を孕むことになります。神がイエスに支配権を与え、復活されたイエスが使徒たちに支配権を与えて、神の民を支配させられるという構造は、先に(二五〜二六節で)イエスが否定された権力による支配というこの世の構成原理に陥る危険があります。事実、二千年の教会の歴史は、このような危険が杞憂でないことを示してきました。全ヨーロッパを傘下に置いた中世のローマ・カトリック教会は、教会の教義や儀礼に服従しない多くの「異端者」をその支配権によって処刑してきました。このような歴史は、イエスが弟子たち(使徒たち)にゆだねられた《バシレイア》についての誤解があると考えざるをえません。では、どう理解し、どう訳せばよいのでしょうか。そのために、イエスが弟子たちにゆだねることになる《バシレイア》の内容を語る三〇節を見ましょう。

なお、新共同訳で「ゆだねる」と訳されている動詞《ディアティセマイ》は、「遺言で与える、遺贈する」という意味があります。イエスは死を目前にした席で、弟子たちに自分の死によって《バシレイア》を遺贈すると言っておられると理解することもできますが、父がイエスに《バシレイア》をお与えになったことを語る文にも用いられているので、「遺贈する」は用いられません。「父がわたしに《バシレイア》を受け継がせてくださったように、わたしもあなたたちに(次節の現実を)受け継がせる」でよいのではないかと思います。

 「あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」。(二二・三〇)

 イエスは「わたしの父がわたしに《バシレイア》を受け継がせてくださったように、わたしもあなたたちに受け継がせる」と言って(二九節)、受け継がせる内容をこのように語られます。それは二つの文で表現されています。一つは「わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にする」という文であり、もう一つは「王座に座ってイスラエルの十二部族を治める」という文です。前者は他の福音書に並行記事はありませんが、後者はマタイ福音書(一九・二八)に、「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」という並行記事があります。基本的な内容は同じですが、マタイに伝えられている語録では、「人の子が彼の栄光の座に着く更新《パリンゲネーシア》の時には」(直訳)という形で、このことが起こるのは新しい《アイオーン》の到来の時のことであることが、黙示思想に特有の表現を用いて明瞭に語られています。

「飲み食いする」は《ヒナ》節の中で(ギリシア語では通例の)接続法が用いられていますが、「座る」はマタイと同じく未来形です。これは、ルカが後半ではマタイと共通の語録伝承を用いた結果であると推察されます。

 「わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にする」という表現も黙示思想の表現です。すでにイザヤ書の黙示録的部分で、「万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される・・・」と、来たるべき終末の救済が饗宴の比喩で語られています(イザヤ二五・六〜一〇)。黙示思想的なクムランの共同体も、自分たちこそ終末的な契約の民であるとして、その表現としての共同の食卓を祝っていました。イエスも来たるべき神の支配を饗宴の比喩を用いて語っておられます(一三・二九、一四・一五〜二四)。比喩を用いて語るだけでなく、イエスは実際の食卓を神の支配の現実を指し示す象徴行為としておられます。すなわち、イエスは徴税人や娼婦などユダヤ教社会では罪人として疎外されている人々と食卓を共にして、そのような人たちこそ神の国に招かれているのだと、神の恩恵の支配を行為で指し示されました。さらにガリラヤの山地で多くの民を僅かのパンで満腹させるという奇跡で来たるべき「メシアの饗宴」の予型を示しておられます。
 今地上での最後の食事の席で、イエスは饗宴の比喩を用いて弟子たちが《バシレイア》を受け継ぐことを語り出されます。ここでの言葉が今までの終末的饗宴の比喩と違うところは、ここでははっきりと「わたしの《バシレイア》で、わたしの食事の席に着く」という形で、イエスが神の支配を体現する方として、その終末的な饗宴を提供される方であることが明言されていることです。イエスは目前に迫った苦難の死の向こう側に、栄光の終末的事態を見ておられます。そして、その栄光の終末的事態をもう一つの象徴で語られます。それが、「あなたたちは王座に座ってイスラエルの十二部族を治めるであろう」という言葉です。
 この言葉はマタイにも並行記事があり、「語録資料Q」から採られたものと考えられます。「語録資料Q」は当時のユダヤ人の黙示思想的終末待望を色濃く反映していますが、この語録もその典型です。当時のユダヤ人は、神がイスラエルを回復される終わりの日には、アッシリアに滅ぼされた北王国の「失われた十部族」が「河の彼方から」帰ってきて、イスラエル本来の十二部族が神の民として世界に君臨すると考えられていました。イエスも、この十二部族回復の待望を当時のユダヤ人と共有しておられたと推察されます。その終末待望を象徴的に表現する行為として、十二人の弟子を選び、「十二人」と呼ばれるご自身の弟子団を形成されました。イエスが、いつも自分の傍にいる弟子団を「十二人」とされたのは、まさに古い十二部族のイスラエルに代わる新しい神の民を予示する象徴行為であったと見ることができます。今、最後の食事の席でイエスはこのことを明確に語り出されます。

イエスが当時のユダヤ人と「十二部族回復」の待望を共有されていたことについては、E・P・サンダース『イエス―その歴史的実像に迫る』(土岐・木村訳、教文館)、とくに邦訳226頁の「十二部族の再興」に関する叙述を参照してください。

 しかし、この「十二使徒」が新しい神の民を「治めるであろう」という言葉を、(先に見たように)使徒または使徒の後継者がキリストの民である教会に対して「支配権」を振るうと理解してはなりません。それは、並行するマタイの語録にあるように、あくまで「人の子が彼の栄光の座に着く更新《パリンゲネーシア》の時」に実現する終末的事態であって、地上の共同体の支配体制を予告するものではありません。たしかにキリストの民は「十二人」に代表される「使徒たち」の復活証言を土台としています。そのことは黙示録にも象徴的に描かれています(黙示録二一・一四)。しかし、地上の歴史においてキリストの民は、この世界の構成原理とはまったく別の原理で構成される共同体として、(先にイエスが言われたように)権力による支配・被支配の関係ではなく、仕える者たちの共同体であることを忘れてはなりません。
 この節でイエスが弟子たちに、「わたしもあなたたちに受け継がせる」として語り出された内容は、「メシアの饗宴」と「十二部族の回復」という、当時のユダヤ人たちに共有されていた二つの終末待望の象徴を結び合わせて、受難後に来る新しい事態を弟子たちに約束されたことになります。