市川喜一著作集 > 第19巻 ルカ福音書講解V > 第33講

137 ピラトから尋問される(23章1〜5節)

 そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。(二三・一)

 ルカのこの記事に並行するマルコ(一五・一)とマタイ(二七・一)の箇所では、「最高法院全体で議決して、・・・・ピラトに引き渡した」となっています(議決と理解することについては236頁の注記を参照)。この並行関係からすると、ルカの「立ち上がり」は、法廷の採決で議員全員が起立して死刑に賛成の意思表示をしたことを指すと理解できます。その上で、イエスを縛ったままピラトの官邸に引いていって、ピラトに訴え出ます。彼らがイエスをピラトの官邸に引いて行ったのは、ヨハネ(一八・二八)によると「明け方であった」のですから、「夜が明けると」すぐに開かれた最高法院の正式判決がいかに迅速に行われたかがうかがわれます。
 最高法院が正式に死刑の判決を下しながら、なぜユダヤ教における処刑の方式である石打を行わなず、イエスをピラトのもとに連れて行ったのかが問題にされます。これは当時ユダヤ教側に死刑の執行権が認められていなかったので(ヨハネ一八・三一)、ローマ総督によって処刑してもらうためです。ルカは「連れて行った」という動詞で記述していますが、イエスの十字架と復活を告知した最初期共同体の福音告知では、このユダヤ教指導層の行動は「ローマ人の手に引き渡した」(使徒二八・一七)とか「律法を知らない者の手を借りて殺した」(使徒二・二三)という表現で糾弾されることになります。

当時、最高法院に死刑執行権がなかったというヨハネ一八・三一の証言については議論があります。すぐ後でステファノが石打で殺されています。しかし、この事件はリンチであったのか、裁判だとしてもどのような法廷の裁判であるのかが争われており、イエスの場合の議論の根拠になりません(ステファノの場合については拙著『福音の史的展開T』181頁の「ステファノに対する石打」の項を参照)。もし死刑執行権があるのであれば、ピラトに引き渡す必要はないのですから、これは歴史的事実であるとしなければなりません。同じ属州シリアの中でも、ガリラヤなどの「領主」は死刑執行権を認められていました(ヘロデ・アンティパスは洗礼者ヨハネを処刑しています)。また、少し後ではユダヤでも、ローマから王とされたヘロデ・アグリッパ一世(在位41〜44年)は、十二人の中の一人であるゼベダイの子ヤコブを逮捕処刑しています(使徒一二・一〜二)。しかし、6年のヘロデ失脚以来イエスの時代のユダヤは総督直轄領となっており、死刑執行権は総督だけにあったとされます。これは、ローマ側につく者を現地の権力が処刑することを防ぐ意味もあったとされています。

 そして、イエスをこう訴え始めた。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」。(二三・二)

 ここから総督ピラトによるローマ側の裁判が始まります。ピラトに訴え出た祭司長たちは、自分を神と等しい者とする冒?の罪でイエスをローマ側に訴えて死刑の執行を求めても、総督はそのような宗教的理由で裁判は受け付けないことをよく知っています(使徒一八・一四〜一五参照)。祭司長たちはイエスをローマの支配に反逆する運動の扇動者として訴えます。
 「わが民族を惑わし」というのは、本来はヤハウェの民であるイスラエルに、律法に違反するようなことを教えて、ヤハウェに背かせるように働きかける教師を断罪する言葉です。祭司長たちは最高法院の法廷では、このような意味での「背教の教師」と断罪して死刑を宣告したのでした。ところが、ローマ総督に訴えるときは、その理由を巧みにすり替えて、ローマ皇帝に背かせるようにユダヤ人を扇動する叛徒のリーダーとして訴えます。
 「皇帝に税を納めるのを禁じる」のは、当時の「熱心党」《ゼーロータイ》の反ローマ運動のスローガンでした。紀元六年にユダヤがローマ総督の支配する直轄領になったとき行われた人口調査(課税のための資産調査)に反対して、ローマ皇帝に税を納めることはイスラエルにとって唯一の主権者である神とその律法に対する背きだとして、ガリラヤのユダが反税運動を起こしました。その運動が「熱心党」の反ローマ運動として進展し、イエスの時代にも民衆の間に拡がっていました。それで、イエスに反対するユダヤ教教師(律法学者)たちは、イエスを陥れるために、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか」と質問したのでした(二〇・二〇〜二六)。もしイエスが、熱心党的な民衆に迎合して皇帝への納税を否定すれば、ローマ総督に叛徒として訴える口実ができます。そのときイエスは「皇帝のものは皇帝に返せ」と言って、納税を否定されませんでしたが、ピラトに訴えた祭司長たちは、民衆の熱い支持を勝手に熱心党指導者に対する支持だとして、イエスが皇帝に税を納めるのを禁じたという訴えをします。
 「自分が王たるメシアだと言っている」という訴えは、最高法院での「今から後、人の子は全能の神の右に座る」というイエスの証言を、イエスが自分をメシアであるとした発言だとし、しかもそのメシア宣言は、自分を政治的な支配者である王とする宣言であると勝手に意義づけて、イエスをローマ帝国の統治権に反逆する政治的反逆者として告訴します。
 もともとイエスの裁判は、宗教的な面と政治的な面が分かちがたく結びついています。祭司長たちがイエスを亡き者にしようとしたのは、先に見たように、イエスの運動がユダヤ教教団国家に対する自分たちの支配権にとって脅威となったからでした(ヨハネ一一・四五〜五三)。彼らはそのような政治的動機を隠して、イエスを律法違反とか神への冒?というような宗教的な理由で最高法院で裁き、ローマ総督に訴えるときは、自分を主権者である王として、ローマの支配に対抗している政治的叛徒と訴えます。

 そこで、ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになった。(二三・三)

 このような告訴を受けて、ピラトはイエス本人に「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問します。おそらくピラトはイエスが逮捕されるときの状況について報告を受けていたことでしょう。ヨハネ(一八・一二)によると、ローマの正規軍もイエスの逮捕に向かったのですから、その隊長から報告を受けていたことは十分推察されます。その報告によると、イエスと一緒にいた僅かの弟子たちは逃げ去り、イエスも抵抗することなく縄をかけられたということです。いま縛られて前に立っているユダヤ人大工が、王として大規模なユダヤ人の反ローマ運動を指揮したというようなことは考えられません。おそらくピラトは侮蔑の目でイエスを見つめてこう言ったのでしょう。
 ピラトの尋問に対して、イエスは「それは、あなたが言っていることです」とだけお答えになります。イエスのお答えの文《シュ・レゲイス》は直訳すると、「あなたが言う」だけです。ただ「あなたが」という主語が、人称代名詞を用いる形で強調されています。イエスがユダヤ人の王であると言うのは、わたしが言うのではなく、他の誰でもなく、あなたが言うのである、という意味になります。
 イエスは自分をユダヤ人の王と宣言されたことはありません。むしろ、イエスを王としていただいてローマに対するユダヤ人の独立を目指すメシア運動を起こそうとする民衆から逃れて、一人山にこもり、「主の僕」としての苦難の道を歩まれたのでした(ヨハネ六・一五)。支配する王としての道を、イエスはサタンの誘惑として厳しく退けてこられました(四・五〜八)。それにもかかわらず、今イエスは自分を王とする者として訴えられ、そのような者として(=反逆者として)裁くことができる権力者の前に立っておられます。ピラトは、王と言ったとして裁くことも、それを認めないで、王とは言わなかったとして放免することもできる立場です。そのような立場のピラトに、「それを言うのはあなただ」と言って、イエスは自分をピラトの判断にお委ねになります。イエスは、ピラトも(ユダがそうであったように)神の御旨を成し遂げるための道具であることを受け入れておられます。
 ピラトの法廷は公開です。裁判は官邸の外の「敷石」と呼ばれる場所で行われます(ヨハネ一九・一三)。群衆もその場にいます(次節参照)。ピラトとイエスの問答は、取り巻いている群衆も聞いています。祭司長たちがいろいろと訴えるのに対して、ピラトが不思議に思うほどイエスは何も答えず、沈黙を貫かれます(マルコ一五・三〜五)。そのイエスがこの裁判の場でただ一言なされた発言が、この「あなたが言う」という発言です。それだけに印象が強く、それを聞いた多くの人が語り伝え、福音書に書かれるに至ります。この発言は、三つの共観福音書において正確に一致しています。ピラトの裁判におけるイエスのこの一言の印象がきわめて強いので、この言葉が伝承される過程で、最高法院の裁判におけるイエスの答え方の報告(二二・七〇)に影響を与えたとする見方も出てきます。

 ピラトは祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言った。(二三・四)

 ピラトは訴え出た祭司長たちと取り巻いて成り行きを見守る群衆に向かって、イエスが無罪であることを宣言します。ピラトの言葉は直訳すると、「わたしはこの男の中に有罪とする何も見出さない」となります。まだ取り調べらしいことは何もしていない段階で、ピラトがこのような判断を下したのは、やや不自然な感じがします。しかし、「お前はユダヤ人の王か」という尋問に対して、イエスから「あなたが言う」という言葉を突き返され、それを発したイエスの犯すことのできない霊的権威に畏怖の念を覚え、聖なる方を殺す責任から逃れたくて、このような宣言をしたことも想像されます。
 ピラトが実際にはどのような発言をしたのか、その動機は何であったのかは、確認のしようがありませんが、ルカにとってはピラトがイエスの無罪を宣言したという事実が重要です。ルカが二部作を執筆した動機の一つに、イエス・キリストを主《ホ・キュリオス》と信じる信仰はローマ帝国の秩序に反するものではないことを明らかにしようとする護教的意図があります。使徒言行録では、この信仰のために訴えられた使徒たちに対して、ローマの官憲が無罪を認めていたことを繰り返し書き記しています。ここでルカは創始者イエスについても、ローマ帝国を代表する総督が無罪を宣言していることを書き留めて、この信仰がローマの支配と対立するものではないことを主張しています。

 しかし彼らは、「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張った。(二三・五)

 ピラトの無罪宣言に対して、イエスを訴えた祭司長たちは引き下がらず、イエスの有罪を言いつのります。彼らは、イエスが「民衆を扇動している」と訴えます。イエスが御霊の力をもって多くの病人をいやし「神の国」を宣べ伝えられ、多くの人々がイエスの回りに集まった事実を、ローマの支配に対する反抗を扇動した行為として訴えます。
 そのさい祭司長たちは、「ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら」その扇動活動をしたと言っています。たしかにイエスの運動はガリラヤから始まりました。しかし、この場合「ガリラヤから始めて」という言い方は、イエスの運動が熱心党の反ローマ運動であることを印象づけようとしています。ローマの支配層は、六年にガリラヤのユダがローマへの納税を拒否する運動を始め、それが反ローマの熱心党の運動として続いていることをよく知っています。それ以来、ガリラヤは反ローマ運動の巣窟となっていました。祭司長たちは、イエスの運動がガリラヤから始まったことを言って、それが反ローマの運動であることを総督に印象づけようとしています。