市川喜一著作集 > 第19巻 ルカ福音書講解V > 第54講

9 羊飼いと天使(2章8〜21節)

 先の段落で、馬小屋での誕生という事実がキリストの《ケノーシス》のしるしであることを見ましたが、神の右にまで上げられる方の誕生であることを指し示す「瑞兆」も与えられていたことが、この段落で語られます。この二つの段落が一組となって、イエス誕生の様子を伝える箇所になります。この二つの段落を一つの段落にまとめて扱う注解書も多くあります(たとえばNTD)。

 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。(二・八〜九)

 その「瑞兆」は、野宿をしながら夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちに与えられます。ここで、羊飼いという身分が当時のユダヤ教社会できわめて低いものであったことを思い起こす必要があります。彼らは、徴税人や遊女や盗賊と並んで、証言の資格もない、ユダヤ教社会の枠外の階層の人たちでした。そのような人たちに天使(単数)が現れて、救い主の誕生を告げ知らせます。これは、宮廷の博士たちにその誕生が告げられ、彼らからの高価な宝物の捧げ物で飾られたマタイの物語と対照的です。ルカでは、汚れた衣服の貧しい羊飼いたちが、馬小屋の飼い葉桶を取り囲むことになります。なお、この段落の羊飼いの物語は、メシアの原型となったダビデが若いときはベツレヘムの羊飼いであったという伝承が背景にあるとされています。
 誕生物語では天使が舞台に登場して活躍することの意義については、先に述べました。神から遣わされた天使が発する神の栄光の光が、野宿している羊飼いたちを照らします。人間は異界との遭遇に恐れを感じますが、この時の羊飼いたちも突然の天からの光に照らし出されて、非常に恐れます。

 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。(二・一〇〜一一)

 怖じ恐れる羊飼いたちに、天使は「恐れることはない」と呼びかけ、その理由を続けます。すなわち、天使は恐ろしいことを告知するために来たのではなく、「わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる」ために来たのだから、と告げます。この文は、理由を示す《ガル》で始まっています。
 ここでルカは、「福音する」という特愛の動詞(福音《エウアンゲリオン》の動詞形)を使って、「見よ、わたしはあなたたちに大きな喜びを福音する」と書いています。この動詞は単独で「福音を告知する」という活動を指すこともありますが(たとえば九・六)、ここのように目的語がある場合には「告知する」という意味で用いられています。しかし、特定の目的語を伴う場合でも、それはいつも福音告知の一面を担う告知です。ここでは、一人の幼子の誕生が福音として告知されます。この報せは「大きな喜びを告げる」ことなのです。
 この大きな喜びは「民全体に与えられる」喜びとされています。ここの《ラオス》(民)は単数形です。《オクロス》が無組織の群衆を指すのに対して、単数形の《ラオス》は七十人訳ギリシア語聖書や新約聖書では普通「イスラエルの民」を指します。ここでも、誕生物語の強いユダヤ教的背景の中で素直に読めば、「イスラエルの民全体に与えられる」大きな喜びを指していることになります。「民全体」は、すべての階層を含むイスラエルの民全体を指すと理解しなければなりません。ここに直ちに「世界のすべての民」という意味を読み込むことは困難です。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」の「あなたがた」は、この誕生物語ではイスラエルの民を指します。そのイスラエルの救い主メシアが、やがて世界の諸国民の救い主と告知されるようになることこそルカの福音告知の主題ですから、現代の読者がここに「世界の諸国民の救い主」誕生の告知を聴き取ることは間違いではありません。すでに新約聖書全体の福音告知を聴いている者には、むしろ当然でしょう。
 天使は「今日、救い主がお生まれになった」と告知します。この「今日」は、何月何日の今日ではありません。イエスの誕生日は一二月二五日ではありません。イエスの誕生日は分かりません。福音告知における「今日」はいつも終末的な出来事が起こったその日を指します。イエスはガリラヤ福音告知の活動を始められたとき、ナザレの会堂でイザヤの預言を引用して、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言されます(四・二一)。ナザレのユダヤ人がこのイエスの言葉を聴いたときが「今日」なのです。イエスが生まれた時が、世界に救いが臨んだ「今日」なのです。世界の歴史を「その前」と「その後」に区切る「今日」なのです。
 天使がベツレヘムと言わないで「ダビデの町」と言ったこと、またルカがこの呼称を用いていることの意義については前述しました。天使は「ダビデの子」の到来を待ち望んでいるイスラエルの民に「救い主」の誕生を告知します。そのために誕生する子が「ダビデの町」に生まれたことを強調します。そして、今日「ダビデの町」に生まれた「救い主」《ソーテール》が「メシア」《クリストス》であり、「主」《キュリオス》であると、三つの称号を並べて、この方がどのような身分の方であり、どのような働きをされる方であるかを告知します。この三つの称号の使用の意義については、後述の「補論1 誕生物語の位置と性格」で詳しく扱うことになりますが、ここでは新約聖書におけるこの三つの称号の用例を簡単にまとめて見ておきます。
 「救い主」という称号は、先に一章四六〜四七節の講解で述べたように、キリスト教二千年の歴史でイエス・キリストの名の前にいつも用いられてきた重要な称号ですが、新約聖書の用例は意外に少なく、前期の使徒時代ではほとんど用いられず、二世紀に入ってからの成立と見られる最後期の牧会書簡やペトロ第二書簡に多数見られるようになります。この事実はこのルカの両文書(福音書では誕生物語など付加部分)が牧会書簡などと同じ時期に成立したことを示唆しています。

ルカにおける《ソーテール》の使用については、拙著『福音の史的展開U』414頁「異邦人向けの表現」の項を参照してください。

 《クリストス》は「油を注がれた者」という意味のギリシア語です。このギリシア語は、旧約聖書の《マーシアハ》(メシア、油を注がれて王とか祭司というような職務に任じられた者)の訳語として用いられ、後のユダヤ教では、終わりの日に神の霊を注がれてイスラエルの救いのために遣わされると約束されている救済者を指すようになります。福音書ではイエスがこういう意味での《クリストス》であるかどうかが問題となり、復活後ではそういう《クリストス》であると告知されるようになります。ルカは誕生物語で、「今日ダビデの町で生まれた」幼子をそういう意味の《クリストス》だと告知するのです。その《クリストス》を、新共同訳は当時のユダヤ教での呼び方である「メシア」に戻して訳出しています。協会訳(口語訳)は「キリスト」と訳しています。

新約聖書における《クリストス》の訳語については、、拙著『マルコ福音書講解T』330頁「メシアとキリスト」の項、および拙著『マタイによるメシア・イエスの物語』224頁の「ペトロのメシア告白」の項を参照してください。

 《キュリオス》というギリシア語はもともと財産(とくに奴隷)の所有者を指す語で、「主人」という意味です。「キリスト」という称号が終末的救済者を指すという聖書的背景がなく、「イエス・キリスト」が一人の人間の呼び名のようになりがちなギリシア語圏で、復活されたイエスの地位を指すのに、支配者や神々を指す《キュリオス》という称号が用いられるようになります。復活されたイエスは、ギリシア語圏では《キュリオス・イエスース・クリストス》と呼ばれるようになります。ルカは誕生物語で、この幼子こそ《キュリオス》となる方だと告知するのです。

《キュリオス》という称号については、拙著『福音の史的展開T』238頁以下の「V ギリシア語系ユダヤ人の福音告知」、とくに「《キュリオス》としての復活者イエス」の項を参照してください。

 こうしてルカは、復活されたイエスを告知するこの三つの称号を並べて、誕生物語で今日生まれた方が誰であるかを指し示しています。

 「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。(二・一二)

 天使はこのように告知した後、羊飼いたちがその方を正しく見つけることができるように、その方を指し示す「しるし」を与えます。その「しるし」が「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」という姿です。飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子が「救い主」であり、「メシア」であり、「主」であるというのです。そのような称号にふさわしい宮殿とか華麗な衣服ではなく馬小屋であり、おむつにくるまった赤子です。なんという大きなギャップ、落差、裂け目でしょうか。人の常識はこの裂け目を乗り越えることができません。この「しるし」は逆のしるし、「逆徴」です。

 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。(二・一三〜一四)

 羊飼いたちに現れて救い主の誕生を告知した天使が、ザカリアやマリアに現れた天使ガブリエルであったのかどうかは分かりません。この天使は単数形で指されています。この一人の天使に突然「天の大軍」が加わります。「部隊」という軍隊用語が使われていますが、これは旧約聖書の「天の万軍」という表象を受け継いだもので、ここでは一群の天使を指しています。当時のユダヤ教には、ヤハウェは多くの廷臣をもっているという考え方がありました。この「天の大軍」が天使たちの群れを指すことは、この一群がすぐ後(一五節)で「天使たち」と言われていることから確認できます。最初に羊飼いたちに現れた天使(単数形)は高位の天使であり、その下で仕える大勢の天使たちが、この天使(単数)の告知が終わったとき突然、この出来事を与えた神を賛美する合唱に加わったのでしょう。
 天使たちの合唱が夜空に響き渡ります。その合唱はまず、「いと高きところには栄光、神にあれ」と神を賛美します。ギリシア語を用いるヘレニズム・ユダヤ教では、単数形の「いと高き方」は神を指します。ここでは複数形ですから「いと高きところ」、すなわち多くの階層をなす霊界の最高の層(そこに神がいます層)、あるいはそこにいる霊的諸存在を指します。ここの「いと高きところでは、神に栄光」という賛歌は、その領域にいる仲間たちに神への賛美を呼びかけていると解釈することも可能です。
 そして、「いと高きところ」と対照して、「地には平和、御心に適う人々にあれ」と歌います。原語は「人々」と複数形ですから、この平和《エイレネー》は個人の無事平穏ではなく、人間社会の平和です。人間社会は憎しみ、抗争、暴虐、戦争、流血に満ちています。世界の歴史は血塗られています。そのような悪がいっさいなく、人々の間に同情、いたわり、敬意、助け合いが満ちて、生の喜びと充実に満ちた人間関係が行き渡ること、それが「地には平和」ということでしょう。そして、「地には平和!」という天使たちの賛美は、そういう平和が人間社会に成りますように、という願望または祈りにも聞こえますが、この救い主の出現を告知する場面では、そういう平和がこの方によって実現するのだ、という告知でもあります。
 ここで「人々」に「《エウドキア》の」という修飾語がつけられているのが問題になり、その意味が議論を呼んでいます。この《エウドキア》というギリシア語は「善い思い、善意」という意味の名詞ですが、もしその善意が人間の善意を指すのであれば、もともと善意で社会を構成している人たちにはすでに平和があるのですから、平和が「善意の人々」に与えられるというのは当然で、あまり意味がないことになります。したがって、この「善意の人々」の善意は神の善意と理解し、神が善意によって(=無条件の恩恵によって)選ばれた人々と理解して、そうして選ばれた人々(=神の民)の中に平和が実現するとの告知と解釈することになります。新共同訳の「御心に適う人々」という訳はこの理解から出ています。近年死海文書にこのような用例があることが発見されてこの解釈が確立され、大多数の翻訳がこの訳を採っています。そうすると、《エイレネー》を宿す民として、神の民が「《エイレネー》を創り出す」(マタイ五・九)働きを進め、世界に平和を実現することが、この天使の使信の意義となります。

 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。(二・一五〜一六)

 羊飼いたちに現れて救い主の誕生を告知した天使(単数)と、告知の後突然現れて賛美の合唱に加わった「天の大軍」が、ここでは「天使たち」と呼ばれています。その一群の天使たちが役目を終えて、そこから派遣された場所である天に戻って行ったとき、あまりにも不思議な出来事に茫然となっていた羊飼いたちは我に返り、「さあ、ベツレヘムへ行こう」と語り合います。ベツレヘム近郊の野で野宿していた羊飼いたちは、天使が言った「ダビデの町」がベツレヘムを指すことを直ちに理解します。そして、「主が(天使を遣わして)知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合ってベツレヘムへ急ぎます。おそらく彼らはごった返すベツレヘム中の家々の戸を叩いて捜し回ったことでしょう。そして、ついに飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てます。「捜す ― 見つける」の図式は、ルカの信仰物語において重要な意義を担っています(たとえば二・四一〜五〇の両親がいなくなったイエスを捜し神殿で見つける物語)。

 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。(二・一七〜一八)

 「飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子」という光景は、当時でもきわめて異例の光景で、それを見た羊飼いたちは直ちに、この場面こそ天使が自分たちに語った「しるし」であることを悟ります。そして、出産を世話したり祝福するためにそこに集まってきていた人々に、自分たちが天使のお告げを受けてここに来た次第を話します。彼らは出て行って町の人々にも知らせたのかもしれません。「聞いた者は皆、羊飼いたちの話に驚いた」(直訳)とありますが、聞いた人たちは皆ユダヤ教徒です。日頃神を信じ聖書の物語に親しんでいる人たちですが、彼らもこの出来事の不思議さにただ驚くばかりでした。

 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。(二・一九)

 この不思議な出来事の話を聞いてただ驚いている周囲の人たちと対照的に(この節は《デ》という小辞で前節と対照されています)、「マリアはこれらの言葉すべてを思い巡らし、心に納めておいた」(直訳)と、マリアの態度が描かれます。《レーマタ》(《レーマ》の複数形)は言葉という意味のギリシア語ですが、ヘブライ語の《ダーバール》と同じく、出来事という意味にもなります。マリアが思い巡らした「すべての《レーマタ》」というのは、羊飼いたちが語った言葉とそれが指し示す出来事だけでなく、受胎告知からこの出産に至る「すべての出来事」を指していると見るべきでしょう。
 「思い巡らす」と訳されている《シュンバロー》という動詞は、新約聖書ではルカ文書だけが用いているルカ特有の動詞で、「一緒に置く」という原意から、(ここでは)様々な出来事や言葉を付き合わせて、その出来事や言葉の真意を見つけようとすることです。マリアはこれまで自分の身に起こったすべての出来事を関係づけて、そこに神の御心を探ろうとします。しかし、それを誰にも口外することなく、自分一人の心に深く秘めておきます。実際の結婚生活に入る前に聖霊によって妊娠したなどという話を誰が信じてくれるでしょうか。しかし、後にマリアが洩らしたこの秘密が、共同体で語り継がれて何十年かの後に、ルカの誕生物語となります。

 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。(二・二〇)

 ここの「帰って行った」は、ベツレヘムの町から出て、天使のお告げを受けた野宿の場所に帰って行ったことを指します。自分たちが体験したことがすべて天使が告げたとおりであったことから、それが神から出たことであることを知り、神がこれから民のために大きなことを成し遂げようとしておられることを予感して、神をあがめ、賛美しながら帰って行きます。

 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。(二・二一)

 ユダヤ人の男性はすべて生まれて八日目に割礼を受けることが律法で定められています。その時に名前がつけられます(一・五九の講解参照)。イエスも八日目に割礼を受けます。イエスの割礼を記述するのは、新約聖書ではルカのこの記事だけです。この割礼の記事は、イエスはユダヤ教徒であったという、あまりにも当然でありながら、イエス理解の営みにおいてしばしば見落とされる事実を、改めて確認させます。割礼を受けた者はモーセ律法をすべて行う義務があります(ガラテヤ五・三)。イエスは割礼を受けたユダヤ教徒としての生涯を送られます(ガラテヤ四・四)。
 そのとき父親のヨセフは「イエス」という名をつけます。その名は、妻のマリアに「胎内に宿る前に天使から示された名」でした(一・三一)。ヨセフはマリアからこの出来事を聞いていて、その天使のお告げに従います。この名は、モーセの後継者であったヨシュアと同じ名であり、ユダヤ人男性の間で珍しい名ではありません。この名については、マタイ(一・二一)は、その名の意味を「自分の民を罪から救うからである」と説明していますが、ルカはそのような説明をつけていません。その役割はすでに洗礼者ヨハネに帰せられていました(一・七七)。ルカは羊飼いたちへの告知において「救い主」という称号を用いて、この名の意味を指し示しています(二・一一)。