市川喜一著作集 > 第20巻 福音の史的展開T > 第20講

第二節 救いに至らせる神の力 ― パウロにおけるキリストの福音

はじめに

 前節ではパウロがアンティオキアを離れて独立の福音活動を進め、エーゲ海地域に異邦人を主体とするキリストの民の諸集会を設立し、ローマで殉教するまでのパウロの働きを見ました。この節ではそれを承けて、そこでパウロが告知したキリストの福音、その共同体に保持されたキリストの福音とはどのような内容のものであったのか、それをこの時期に書かれたパウロの書簡を資料として追究することにします。
 新約聖書にはパウロが書き送ったとされる十三の書簡が収められています。その中で以下の七書簡が問題なくパウロ自身がこの時期に書いた書簡として認められます。ほぼ書かれた年代順に並べると、テサロニケ第一書簡、ガラテヤ書簡、コリント第一書簡、第二書簡、フィリピ書簡、フィレモン書簡、ローマ書簡の七書簡です。その他の六書簡、すなわちコロサイ書簡、エフェソ書簡、テサロニケ第二書簡、牧会書簡(テモテ書TとU、テトス書 ― ただしテモテUについては前項の補説478頁を参照)は、パウロの名で書かれていますが、パウロ以後の後継者がパウロの名を用いて書いたものと見られます(その理由は下巻所収の第六章でこれらの書簡を扱うときに触れます)。ここではこの時期に書かれたパウロの真正の書簡と認められる七書簡によって、この問題を追究します。

T パウロが告知した福音

福音の基本的内容

 パウロがその独立の福音活動の時期に異邦人に向かって告知した福音の内容は、ルカも使徒言行録で要約的に報告していました。その一つは、パウロがリストラで行った演説です(一四・一四〜一七)。しかしこの演説は、異邦人聴衆がパウロとバルナバを人間の姿で現れた神としていけにえを献げようとしたとき、それを止めさせるために叫んだ言葉で途切れ、福音の全体を語るところまではいっていません。パウロが異邦人聴衆に告知した福音の内容は、先に見たように、アテネで行った「アレオパゴス説教」(一七・二二〜三一)によくまとめられています。
 パウロの福音告知は異邦人だけになされたのではなく、むしろまずユダヤ人に対してなされ、ユダヤ人に拒まれたので異邦人に向かったのでした。そのユダヤ人に向かってなされた福音告知もルカによってまとめられています(一三・一六〜四一)。その他、裁判の席でなされた弁明などにもパウロが告知した福音の内容は出てきています。福音にユダヤ人向けと異邦人向けの二つがあるわけではなく、福音は一つですから、パウロが世界に告知した福音を理解するためには、両者を統合して理解しなければなりません。そのさい、使徒言行録に報告されているパウロの福音告知はすべてルカがまとめたものであって、ルカの視点とか関心で構成されており、そのままパウロの福音告知の内容とするわけにはいきません。やはりパウロ自身が書いたものに証言されている内容から、この時期にパウロが告知した福音の内容を理解しなければなりません。
 出発点となるのは、やはりパウロ自身が後にコリントの共同体に告知した福音の内容として、「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」と言って引用している次の言葉です。

 「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」。(コリントT一五・三〜五)

 告知される福音の内容がこのように定型化されたのは、パウロが回心後はじめてエルサレムを訪問した三五年頃までに、エルサレム共同体においてなされていたと見られることは、先に見たとおりです(本書156頁「定型的なキリスト告知の形成」の項を参照)。それがアンティオキア共同体にも伝えられ、最初期の福音活動に共通の福音告知の内容になっていました。そのことは、パウロが「とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした」(コリントT一五・一一)と言っている通りです。ここの「彼ら」が誰を指すにしても、このパウロの証言は、ここに引用した福音告知の文が、パウロ自身を含め当時のすべての福音活動の共通の告知内容《ケリュグマ》であったことを保証しています。
 ただ、この定型文に含まれている告知内容は、最初期のエルサレム共同体で形成され、アンティオキア共同体にも継承された福音の最小限の内容であって、実際の福音活動においてはこれよりも広い範囲の内容が含まれていたことを見逃してはなりません。その内容については先に(本書150頁の「キリスト告知の主要内容」の項で)見たとおりですが、念のためにここでその項目だけを引用しておきます。

 1 イエスは神の力によって死者の中から復活されたが、これはイスラエルの敬虔な者たちが終わりの日に神が
   成し遂げられる業として待ち望んでいた「死者の復活」の開始である。

 2 復活されたイエスは神の右にあげられ、やがて世界を裁く「人の子」として栄光の中に来臨される。

 3 復活・高挙によってメシア・キリストとして立てられたイエスが十字架上に死なれたのは、神の御計画による   もので、その死は万民の罪を贖う贖罪の献げ物である。

 4 神はこのキリスト・イエスを通して、彼を信じて従う者に、終わりの日に注ぐと約束しておられた聖霊を与え
   てくださる。

 5 イエスはダビデの家系から生まれた方で、イスラエルに約束されていた諸々の神の約束を成就する方である。
 
 パウロはこの福音を「受けて」、それを世界の諸国民に告げ知らせるのですが、もちろんパウロはこの文を鸚鵡返しに唱えていたのではありません。この文は、キリストの十字架と復活の出来事において神が罪の支配下にある人間を救う働きを成し遂げてくださったことを告知していますが、パウロはそれをそれぞれ聴衆の立場にふさわしい形にして語りかけています。

ユダヤ人に対するパウロの福音告知

 パウロは、この福音をユダヤ人に告知するときには、このキリストの出来事が「聖書に書いてあるとおり」に起こった終末的な出来事であることを強調します。パウロはユダヤ人に向かっては、このキリストの出来事はイスラエルの歴史が準備し待望してきた出来事であり、預言者が預言し、神が終わりの日に成し遂げると約束された救いの出来事であることを、ユダヤ人が神からの啓示の書であると信じている聖書を引用し、聖書を論拠として説得しようとしています。それは、ピシディアのアンティオキアの会堂でパウロがユダヤ人聴衆に向かってなした福音告知(一三・一六〜四一)によく現れています。
 しかし、パウロがパレスチナ以外のディアスポラのユダヤ人に告知したキリストの福音は、エルサレム共同体を主要な発信地としてパレスチナのユダヤ人に宣べ伝えられたイエス・キリストの福音と較べると、違った面が出ていたと見られます。
 パウロはキリストの福音を告知するさいに、イエス伝承を用いていません。イエスはこのように語られたとか、このような奇跡を行われたという、イエスの言葉や働きを伝える伝承を用いていません。この事実は、パレスチナ・ユダヤ人の福音活動においてはイエス伝承が重要な位置を占めていたことと較べると、パウロの福音告知の特色と言えるでしょう。パレスチナ・ユダヤ人の福音活動においてイエスの働きや教えが重要な部分を占めていたことは、使徒一〇章のコルネリウスたちに対するペトロの福音告知の要約からもうかがわれますが、何よりも「語録資料Q」を生み出したユダヤ人の福音活動がよく示しています。彼らはイエスの教えの言葉を伝えて、その教えに従うように呼びかけたのでした。それに較べると、パウロはイエス伝承をほとんど用いていません。
 パウロはイエス伝承を知らなかったわけではありません。回心後三年目に初めてエルサレムに行ってペトロと一五日間も一緒に過ごして語り合ったとき、イエスにつき従って直接イエスの言葉を聞き、イエスの働きを目撃したペトロからイエスの言葉や働きを十分聞いたはずです。また、エルサレム共同体との親しい交わりを通してイエス伝承を受けていたアンティオキア共同体に一〇年以上もいて、イエス伝承には十分親しんでいるはずです。しかし、パウロがディアスポラのユダヤ人や異邦人に福音を語ったとき、イエス伝承を用いて、イエスの教えを引用したり奇跡を伝えたりしていません。もちろんイエスをキリストと宣べ伝えるのですから、イエスのことを語りますが、それはイエスの死と復活の出来事が聖書の成就であるという点に限られています。そのことは、ルカが要約したユダヤ人向けのパウロの福音告知(一三・一六〜四一)にもよく現れていますが、パウロ書簡にもパウロが福音告知においてイエス伝承を用いた痕跡がほとんどない事実からも推察されます。
 パウロがイエス伝承を用いなかった理由は、それがパウロにとっては「また聞き」だったからです。イエスの言葉も人から伝え聞いた言葉であり、パウロが直接イエスから聞いて、その言葉に従い、その言葉の力を身に体験したものではありません。パウロは復活されたイエスから直接啓示され、自分が聖霊によって身をもって体験したキリストを宣べ伝えようとします。パウロは自分の使徒としての権威が、エルサレム共同体の使徒たちから来るのではなく、復活者キリストご自身から来るものであることを主張しないではおれません(ガラテヤ一・一)。エルサレムの使徒たちが伝えるイエス伝承を、自分が告知する福音の根拠とすることはできません。
 このことと関連して、エルサレムを中心とするパレスチナ・ユダヤ人の福音告知において重要な位置を占めている「人の子」が、パウロの福音告知においては出てこないことが目立ちます。パレスチナ・ユダヤ人の福音告知がイエスをユダヤ教黙示思想の「人の子」としたのに対して、パウロはキリストの来臨を語るときも、この称号を用いることはありません。
 また、ユダヤ人にイエスが約束されたメシアであることを論証するときに重要な項目になる「ダビデの子」についても、ユダヤ人の間で形成された定型的な福音告知の言葉(ローマ一・三〜四)を引用するとき以外は、語ることはありません。

異邦人に対するパウロの福音告知

 聖書を知らない異邦人に語るときには、アテネでの「アレオパゴス説教」(一七・二二〜三一)に見られるように、パウロは聴衆の宗教心に訴え、万物の創造者である唯一の神が、万民に対する恵みの働きとして、最終的な裁きの前にこのキリストの出来事を成し遂げられたことを告げ知らせます。
 ユダヤ人以外の諸国民(異邦人)は多くの神々を拝み、また神々を「主」《キュリオス》と呼んで拝んでいましたが、そのような異邦人に福音を宣べ伝えるとき、まず神は唯一であること、また主《キュリオス》も唯一であることを語らなければなりませんでした。異邦人の間では神々が主《キュリオス》と呼ばれていたのですが、パウロはイエスを「主《キュリオス》」として宣べ伝えるために、万物の創造者を「神《テオス》」と呼び、イエス・キリストを「主《キュリオス》」と呼んで区別しています。この段階(パウロの異邦人に対する独立の福音活動の段階)では、先に見たように、「イエス・キリスト」はもはや「キリスト(メシア)であるイエス」という称号を伴った名ではなく、一人の個人名となっています。そのイエス・キリストが主《キュリオス》であることを、パウロは異邦諸国民に告知します。そのことは、後にパウロが書いた手紙に次のように定式化されています。

 「現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです」。(コリントT八・五〜六)

 唯一の神は「父なる神」と呼ばれ、万物の創始者であり、万物が帰着する目標であるとされています。留意すべき点は、異邦人に神が唯一であることを語るときに、万物を創造された神は唯一であることを語るだけでなく、その神が全世界を裁く方であり、万物を完成する方であること、聖書的な用語で言えば、その神が救済史の神として告知されていることです。万物の根源である創造者は、世界の歴史の中でその支配と救済の働きを進め、終わりの日に世界を裁き、その働きを完成されるという告知です。
 イエスが主であるという告知も、この救済史における決定的な救済の出来事として告知されています。そのことはパウロの「アレオパゴス説教」の結尾のところでこう言われています。

 「神はこのような無知の時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです」。(一七・三〇〜三一)

 これはルカによる要約文ですが、パウロが異邦諸国民に告知した福音と、ルカが周囲のギリシア文化圏の読者に提示しようとする福音が重なって、最初期共同体の異邦世界への福音告知が見事に要約されています。イエスを信じ従うようにという呼びかけは、たんにイエスは今も病気をいやし、正しい生き方を教える霊能者教師であるからではなく、死者の中から復活したイエスこそ、神の救済史を実現成就する方であるからです。神はイエスを死者の中から復活させて、この方こそ終わりの日に世界を裁き、神の支配を実現し、神の栄光に満ちた世界を完成する方であることを確証されたのです。
 同時に福音は、この方が十字架につけられて死なれたのは、この方を信じる者が罪を赦され、終わりの日の栄光にあずかることができるようになるためであることを告知します。このことはパウロがテサロニケで宣べ伝えた福音について、パウロ自身が語っている言葉によって証言されています。

 「(人々は言い広めている)あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです」。(テサロニケT一・九〜一〇)

 このように異邦人に福音を宣べ伝えるときも、パウロはあくまで聖書的な救済史の枠組みを前提にして、イエス・キリストの出来事をすべての民の救いとして告知しています。そして、救済史の枠組みは、「キリストの来臨《パルーシア》」の告知によって代表され、典型的に告知されています。「キリストの来臨」は救済史の完成であり、人は救済史の体現者であるキリストを信じることによって、万物の創造者なる神の救済史にあずかる(参与する)のです。
 パウロは異邦諸国民にこのイエス・キリストが主《キュリオス》であると告知し、このイエスを《キュリオス》と信じて言い表すことが救いであると宣べ伝えます。そのことは、後に書いた手紙の中でこのように表現されています。

 「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」。(ローマ一〇・九)

 ここにはキリストの十字架の意義もキリスト来臨の約束も語られていません。しかし、復活者キリストを《キュリオス》と言い表して全存在を委ねるとき、生けるキリストとの交わりの中で、キリストにおいて成し遂げられた神の救いの業がその身に現実となり、キリストにおける聖霊の働きにより命の豊かさを体験することになります。その中に、十字架の死による贖罪や来臨による栄光の完成などが含まれます。信仰は教義内容に対する確信ではなく、生ける人格への全托投身です。そのキリストにおける救いの豊かな現実を、パウロは後に信じる者たちに書き送った手紙で詳しく語り示すことになります。

U パウロにおける福音とユダヤ教

無割礼の福音

 パウロがユダヤ人以外の異邦諸国民に宣べ伝えた福音において最も重要な面は、キリストを信じて神の民となるのに割礼は必要ないとしたことです。キリストを信じるのにユダヤ教への入信儀礼である割礼は必要ないということは、現代ではあまりにも当然のことになっているので、この主張の重要性は実感されませんが、パウロの時代にはこれは衝撃的な主張であり、これを主張することは命がけの戦いだったのです。事実、パウロはこの主張のために命を捧げることになるのです。
 もともと福音はユダヤ人の間に起こった救いの出来事を告知する運動でした。ユダヤ人というのはユダヤ教徒のことであり、福音はユダヤ教という宗教の中で起こった、ナザレのイエスをメシアと信じる信仰運動でした。これまでの各章で見てきたように、復活されたイエスの顕現を体験した弟子たちが、ユダヤ教の聖地エルサレムでイエスをメシアとして宣べ伝え、そう信じるユダヤ教徒が聖霊を受けて終末的な救済を体験し、自分たちこそ終わりの日の神の民であるという終末的自覚に生きる共同体を形成したのでした。彼らは全員ユダヤ教徒でしたから、その信仰運動では聖書(旧約聖書)が神の啓示の書であり、信仰の根拠とされました。その聖書に命じられている律法の諸規定は、新しい信仰共同体においても当然順守すべきものであり、その外に神の民が存在する場があるとは到底考えられませんでした。
 ところが、そのユダヤ教徒の中でギリシア語を使う一部の者が、ギリシア語を用いる周囲の非ユダヤ教徒(一括して「ギリシア人」と呼ばれる異邦諸民族の人たち)にもイエスを宣べ伝え、それらの異邦人の中からもイエスを信じる者たちが出たことで、事態は変わりました。異邦人でイエスを信じる人たちを多く含むようになったアンティオキア共同体に対して、ユダヤ教の枠の中にあるエルサレム共同体は、異邦人信者も割礼を受けてユダヤ教徒になり、ユダヤ教律法の諸規定を守らなければ神の民と認めることはできないとして、異邦人信者に割礼を要求しました。そこで、それに反対するアンティオキア共同体の代表者バルナバやパウロとの間に激しい論争となります。
 異邦人信者に割礼を施す必要があるかないかの論争については、前章「エルサレムとアンティオキア」の第三節「エルサレム会議とその前後」でやや詳しく見ました。律法順守に熱心なユダヤ教徒で構成されるエルサレム共同体の指導層が、異邦人信者には割礼の必要はない、したがってユダヤ教律法の順守は必要でないとするパウロとバルナバの主張を認めたのは、パウロとバルナバが宣べ伝える福音を信じた異邦人が、割礼のないまま聖霊を受けた事実を否定できなかったからです。このことは、パウロとバルナバの証言でも明らかでしたが、なによりも使徒たちの筆頭者であり、エルサレム共同体を代表するペトロの体験が決定的でした。ペトロは神の啓示によってコルネリウスのところに導かれ、無割礼の異邦人が福音を聴いて信じたときに聖霊を受けたことを体験し、それを神から出たことと理解したのでした(使徒言行録一〇章)。
 前節で見たように、パウロはアンティオキアを出て、異邦諸国民に向かって独立の福音活動を進めますが、そのさい異邦人で信仰に入った者たちに割礼を求めませんでした。キリストを信じて神の民となるのに無割礼の異邦人に割礼を求めないこの福音は、「無割礼の福音」と呼んでよいでしょう。

「ユダヤ主義者」の対抗運動

 パウロはこの「無割礼の福音」を携えて、ガラテヤ地方からマケドニア州、アカイア州と福音活動を進め(いわゆる「第二次伝道旅行」)、ガラテヤの諸集会、フィリピの集会、テサロニケ集会、ベレア集会、コリント集会など、異邦人を多く含む集会を形成します。使徒言行録(一五章)でルカが書いているように、この福音活動を始める前に、パウロはエルサレム共同体の指導層から「無割礼の福音」を認められていたと見られますが、それで問題がなくなったのではありませんでした。イエスを信じるユダヤ教徒の中でモーセ律法が永遠絶対であると堅く信じる人たちが、パウロが形成した諸集会にやって来て、異邦人信者に割礼を受けるように働きかけます。割礼を受けるということは、ユダヤ教に改宗してユダヤ教徒になり、ユダヤ教律法の諸規定を順守する義務を負うことを意味します。彼らは異邦人信者をユダヤ教に改宗させようとしたと言えます。このようなユダヤ人の働き人は普通「ユダヤ主義者」と呼ばれていますが、彼らは「ユダヤ教絶対主義者」であり、「ユダヤ化主義者」(Judaizer)です。
 彼らはその主張をするにあたって、聖書の規定を論拠にして説得したことでしょう。聖書知識の乏しい異邦人は、彼らの説得に対抗できず、割礼を受けたり、受けようとする者が出てきます。それだけでなく、彼らはパウロがエルサレムの使徒たちの認証を受けた正式の使徒でないことを宣伝して、パウロの「無割礼の福音」を攻撃したと見られます。このようなパウロの「無割礼の福音」に対する彼らの執拗な対抗活動に、パウロは異邦人伝道の全期間悩まなければならい状況に置かれます。そのことは、この第二次伝道旅行中に書かれたパウロの書簡(テサロニケ第一書簡)と個人書簡であるフィレモン書を除くパウロ五書簡が証言しています。
 先に(本書450頁以下の「コリントからエルサレムに向かう」の項で)見たように、パウロはマケドニア州とアカイア州での福音活動の最後に一年半ほどコリントに滞在しますが、そこでの騒乱でコリントを去るようになったとき、年来の目的地であるローマに向かわず、反対方向のエルサレムに行ったのは、コリント滞在中に聞こえてきた、成立したばかりの異邦人諸集会に対する「ユダヤ主義者」の割礼要求の働きかけに対処するために、改めてエルサレム共同体の指導層と協議する必要に迫られたからであると考えられます。

拙著『パウロによるキリストの福音V』の6〜17頁で、異邦人信者に割礼が必要かどうかを協議する「エルサレム会議」がいつ行われたのかの問題について、最近の議論を紹介しました。そこで見たように、その協議が行われた可能性があるのは、パウロの回心後五回のエルサレム訪問の中で、1.クラウディウス帝時代の飢饉援助の訪問の時(一一・二七〜三〇)、2.第二次伝道旅行の前(一五・一〜四)、3.第二次伝道旅行の後(一八・一八〜二一)の三回です。アンティオキア共同体は初めから異邦人信者を割礼のないまま受け入れていたのですから、この問題はアンティオキア共同体の成立の時から始まっていたのであり、この三回のどれもが可能性があることになります。その中のどれか一回に限定する必要はなく、二回または三回と繰り返し協議が行われたと見ることが可能です。パウロがガラテヤ書(二・一〜一〇)で語っているのはどのエルサレム訪問時のことであるのかは議論が残りますが、ルカの使徒言行録一五章の記事は、この問題についてのルカのまとめであり、実際には協議が複数回行われたことと矛盾しないと考えられます。ガラテヤ書によると、この協議はエルサレム共同体の「柱と目されるおもだった人々」、ヤコブとケファとヨハネの三人とパウロ・バルナバの個人的協議ですが、ルカはその協議を「主の兄弟」ヤコブを議長とする「使徒たちと長老たち」全体の公式会議として描いています。ルカは、最初期前期の福音活動において最後までとげになっていたこの問題の存在を知っていたのですが、それを「使徒たちと長老たち」全体の一回の公式会議で決着したものとして描き、エルサレム共同体が代表するユダヤ教の枠内の福音活動と異邦人世界に進出したパウロの福音活動との間で最後まで続いた亀裂を覆っています。

ガラテヤ書におけるパウロの反論

 この「ユダヤ主義者」の働きかけと、それに対するパウロの激しい反論が最もよく表現されている文書が「ガラテヤ書」です。ガラテヤ書は、パウロが第二次伝道旅行を終えてエルサレムに上り(一八・一八〜二一)、エルサレム共同体の指導者と異邦人の割礼問題について協議をした後、アナトリア(小アジア)中央の高地部を通ってエフェソに到着した直後に書かれたと見られます。おそらくパウロはこの高地部を通るさいガラテヤ地方の諸集会にも、エルサレムでの協議の結果を伝えたことでしょう。むしろ、そのために困難な高地部を通る旅を選んだと見られます。ところが数ヶ月も経たないうちに、エフェソにいるパウロの耳に、ガラテヤの人たちが「ユダヤ主義者」に説得されて割礼を受けるようになったことが聞こえてきます。「こんなにも早く」福音から離れるとはと驚いたパウロが、割礼を受けることが福音を台無しにする行為であることを説得しようとして書いた手紙がガラテヤ書です(ガラテヤ一・六〜七)。詳しいことは「ガラテヤ書講解」に委ねなければなりませんが、ここではその要旨を見ておきます。
 パウロは、一章〜二章で自分の経歴と働きを語って、自分が人間の権威によって使徒とされた者ではなく、復活者イエス・キリストから直接啓示を受け、使徒として召された者であることを強調します。これは、パウロを批判する「ユダヤ主義者」がパウロ福音活動をエルサレムの使徒たちから認められたものではないと宣伝したことに対抗するためです。このことを激しく主張した上で、パウロは自分の福音の核心を宣言します。

 「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです」。(ガラテヤ二・一六)

 ここで「律法」と言っているのは、ユダヤ教という宗教の諸規定です。ユダヤ人が《トーラー》と呼んでいるユダヤ教の総体、その全規定です。人は「律法の実行」、すなわちその諸規定を守り行う諸々の行為によっては「義とされない」と宣言されます。「義とされる」とは、神から正しい者と認められて、神に所属する者、神との交わりに生きる神の民と認められることです。ユダヤ教徒としてユダヤ教律法をすべて実行したからといって、それで神の民としての資格があるわけではない、という宣言です。これは律法を順守することが神の民の条件であるとするユダヤ教公理の否定として、パウロはユダヤ教徒から激しく憎まれることになります。
 では、何によって人は義とされるのか。パウロは「イエス・キリストの信仰」、「キリストの信仰」によってであると宣言します。「律法の実行」ではなく「キリストの信仰」によって人は義とされ、神に生きる者となる、という宣言です。パウロがいう「キリストの信仰」とは、「キリストへの信仰」というような、キリストを対象とする人間の姿勢とか態度ではなく、キリストに自分の全存在を投げ入れ、キリストに捉えられて、キリストと一つになって生きる人間の姿を指します。わたしはこの姿を「キリスト信仰」呼んでいます。パウロはこのキリストとの交わりを内容とする信仰をただ「信仰」と呼び、人は「信仰によって義とされる」とか「信仰によって救われる」と宣言します。
 こう宣言した上で、三章〜四章でその真理を様々な視点から論証します。ガラテヤの人たちが福音を聴いて信じた結果聖霊を受けた体験から(三・一〜六)、アブラハムを予型として(三・七〜一四)、世間で行われる遺言を比喩として(三・一五〜二〇)、嫡子と奴隷の対比を養育係の比喩で(三・二一〜四・七)、この真理を論証します。途中でこのように言葉を尽くして語りかける心情を吐露した後(四・八〜二〇)、聖書の物語からサラとハガルという二人の女をたとえとして奴隷と自由な者の対比を示し、再び律法の軛につながれる奴隷とならないように説き勧めます(四・二一〜五・一)。その上で、この手紙でガラテヤの人たちに言いたいことを、次のように明言します。

 「ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います」。(ガラテヤ五・二〜四)

 割礼を受けるということは、ユダヤ教に改宗してユダヤ教徒となり、ユダヤ教の諸規定をすべて行う義務を負うことを意味します。キリストを信じた異邦人が割礼を受けることは、キリスト信仰だけでは神の民の資格がないとして、ユダヤ教徒になってその資格を得ようとする行為、「律法によって義とされようとする」行為であり、キリストを不十分とすることに他なりません。神がキリストにおいて成し遂げられた最終的な救済の業を不十分とする者は、「キリストとは縁もゆかりもない者とされ」、キリストにおいて与えられている無条件絶対の恩恵の場から脱落する者となります。
 このような割礼とユダヤ教律法に対するパウロの姿勢や発言が、「幾万人ものユダヤ人が信者になって皆熱心に律法を守っている」パレスチナに誤って伝えられ、「この人たち(パレスチナのユダヤ人信者)があなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです」と言われるようになります(二一・二一)。これは誤解です。パウロは異邦人のキリスト信者は割礼を受ける必要はないと主張したのであって、ユダヤ人に「子供に割礼を施すな。モーセ律法の慣習に従うな」と教唆したのではありません。信者からもこのように誤解され批判されるのですから、信者でないユダヤ人からは聖なる律法(=ユダヤ教)を汚す者として激しく憎まれ、「疫病のような男」として命を狙われるようになります。

ユダヤ教の外で

 異邦人信者に割礼を受けることを要求した「ユダヤ主義者」は、異邦人信者をユダヤ教に改宗させ、キリストによる救いをユダヤ教徒の範囲内に限定しようとしたことになります。彼らは福音をユダヤ教の枠内に制限しようとしたのです。イエス・キリストの信仰はユダヤ教の一派になります。彼らの伝道は、イエス・キリストの福音を看板にしたユダヤ教への改宗運動になります。福音をユダヤ教の枠内に閉じこめようとする彼らの主張に、パウロは猛烈に反対します。パウロはガラテヤ書で、そのようのユダヤ教の枠内に閉じこめられた福音は、もはや福音ではないと断言します。
 この福音とユダヤ教との関係は、最初期(とくにその前期)の福音活動の大問題でした。この問題を正面から取り上げたのがガラテヤ書でしたが、その他のパウロ書簡も繰り返しこの問題に触れています。とくにパウロが伝道活動の最後の時期に書いたローマ書は、パウロが告知しているキリストの福音をもっとも包括的に提示していますが、その中でもこの福音とユダヤ教の関係が重要な主題となっています。

ローマ書の成立事情について拙著『パウロによるキリストの福音V』352頁「コリントでのローマ書の執筆」の項で述べたように、パウロは異邦人諸集会で集めた献金を手渡すためにエルサレムに行こうとしているときに、この手紙を書いています。したがって、ローマの信者に宛てた手紙 でありながら、エルサレム共同体のユダヤ人信者を意識した内容になっており、エルサレムが「隠れた宛先」となっていると見られる面があります。パウロは、自分のユダヤ教に対する態度が誤解されて、献金が受け入れられないのではないかという不安をもっています(ローマ一五・三一)。それで、福音とユダヤ教との関係について自分の理解と姿勢を弁明するためにこの書を書いたという一面が出てきます。ローマ書の内容については、拙著『パウロによる福音書―ローマ書講解T、U』に譲ります。

 パウロはローマ書において、まず律法の外にいる異邦人も律法の下にあるユダヤ人も共に神に背いている現実を指摘し、その後イエス・キリストの出来事において実現した救いについて、こう宣言します。

 「しかし今や、律法とは別に神の義が現された」。(ローマ三・二一 冒頭)

 パウロは、神が人を救われる働きを「神の義」と表現しています。ユダヤ教において「義」は様々な意味合いで用いられる語ですが、少なくともここでは神が人を御自身との交わりを持ちうる者にして受け入れてくださる神の働き、すなわち神の救いの働きを指しています。そのような「神の義」が、イエス・キリストの出来事が福音として宣べ伝えられている今、「律法とは別に」その福音の中に現された、という宣言です。
 神の義が福音によって(福音の中に、福音において)現されたという宣言は、ローマ書全体の主題として冒頭に掲げられました(ローマ 一・一六〜一七)。ここではそれが「律法とは別に」現されたことが宣言されます。原語では《コーリス・ノムウ》です。《コーリス》は、「離れて」という原意の語で、前置詞としては「〜なしで、〜とは別に」という意味です。《コーリス・ノムウ》は、「《ノモス》なしで」とか、「《ノモス》とは別に」、「《ノモス》から離れて、《ノモス》の外で」という意味になります。
 《ノモス》は「法、法律、法則」などを意味する語ですが、ユダヤ人がギリシア語で《ノモス》という時は、彼らの宗教を指すヘブライ語の《トーラー》を指しています。パウロはこの文で、「しかし今や、神の義が《トーラー》とは別に、《トーラー》の外で現された」と言っているのです。これはユダヤ人にとっては革命的、衝撃的な宣言です。ユダヤ人にとって「神の義、神の救い」が《トーラー》の外にあるなど、夢にも思い見ることはできません。
 《トーラー》はユダヤ教の全体を指すユダヤ人の用語です。ユダヤ人が自分たちの宗教を「ユダヤ教」と呼ぶことはまれで、普通は《トーラー》と呼んでいます。パウロも「ユダヤ教」という用語をまれに使っていますが(ガラテヤ一・一三と一四)、それが《トーラー》と同じ意味であることは、同じ内容を述べているフィリピ書(三・五〜六)との比較からも明らかです。パウロが「福音と律法」の関係に言及するとき、それはほとんどの場合、福音と道徳の関係を問題にしているのではなく、福音とユダヤ教の関係を問題にしているのです。
 パウロが「律法とは別に神の義が現された」と言うとき、「神の救いがユダヤ教の外で現された」と宣言しているのです。これはパウロが生涯をかけて主張してきた「無割礼の福音」を綱領的に宣言するマニフェストです。ユダヤ教の外にいる異邦人は、割礼を受けてユダヤ教に改宗しなくても、異邦人のままで、すなわちユダヤ教の外にいるままで、キリスト信仰に生き、神の救いにあずかることができる、という宣言です。この原理を確立したことところに、パウロの福音が「福音の史的展開」においてもつ最も重要な意義があります。

ユダヤ教の相対化

 では、ユダヤ教は無意味なもの、もう必要のないもの、廃棄されたものなのでしょうか。そうではありません。パウロは、ユダヤ教を無意味なものとして否定しているのではありません。この宣言の文にもすぐ後に、「律法と預言者に立証されて」という文が続いています。「律法と預言者」は聖書(旧約聖書)全体を指すユダヤ人の用語ですが、とくに聖書の預言とか約束としての側面を強調しています。ユダヤ教が聖典として抱いている聖書の内容が、イエス・キリストの福音において成就・実現しているのですから、ユダヤ教が無意味とか不要になったのではありません。
 事実パウロは、キリスト信仰によって義とされる(救われる)という福音の真理を、聖書(旧約聖書)を引用して論証しています(ローマ四章など)。「律法と預言者」は福音の証人であり、論拠です。それは根であり、その上に福音という果実が実っているのです。パウロはユダヤ教を否定していません。パウロは、ローマ書では律法《ノモス》を「聖なるもの、正しいもの、善いもの」と呼んで、それを神から与えられたもの、「神の律法」としています(ローマ七・七〜二五)。
 では、パウロはユダヤ教の何を否定したのでしょうか。パウロはユダヤ教そのものを否定したのではなく、「ユダヤ教の絶対化」を否定したのです。ユダヤ教の中でないと救いはない、人はユダヤ教徒でなければ神の民ではありえないという主張、ユダヤ教諸規定を順守するユダヤ教徒であることを救いの条件とする主張を否定したのです。
 パウロは最後までユダヤ教徒でした。律法順守にもっとも熱心なユダヤ教徒のパウロが、復活者イエス・キリストに出会い、自分のために死なれたキリストを知り、そのキリストにおける神の無条件絶対の恩恵を体験したとき、律法順守を救いの道とか条件とすることの誤りを身をもって悟ったのでした。その結果、ユダヤ教律法の順守を救いの条件とすることに反対し、「無割礼の福音」を唱えたのでした。それは、ユダヤ教律法の順守を絶対必要条件とする「ユダヤ教の絶対性」に反対し、ユダヤ教を相対化したことと言えます。ユダヤ教の価値を認めながら、ユダヤ教を救いの絶対条件としないことが「ユダヤ教の相対化」です。

「ユダヤ教の相対化」について詳しくは、拙著『教会の外のキリスト』の「終章 キリストの絶対性とキリスト教の相対性」を参照してください。とくに402頁以下の「パウロにおけるユダヤ教の相対化」がこの問題を直接扱っています。

 パウロがユダヤ教を相対化し、ユダヤ教の外でキリスト信仰が成立し、神の救いがあるという原理を確立したので、キリスト信仰の民がユダヤ教の外に成立し、そこからユダヤ教とは別の宗教、キリスト教が成立することになりました。パウロが「異邦人への使徒」であるのは、たんにパウロが異邦人世界に福音を告知する働きをしたからだけでなく、異邦人が異邦人のままで神の救いを受け、神の民となる原理を確立したからです。もしパウロが唱えた「無割礼の福音」がつぶされていたら、イエス・キリストを信じる民はユダヤ教の一派にとどまり、そこから世界の民に救いをもたらす世界宗教としてのキリスト教はなかったことでしょう。それを考えると、パウロの「無割礼の福音」が救済史的に重要な意義をもつだけでなく、世界史的にも最大の重要性をもつ働きであったことが見えてきます。

V パウロのキリスト信仰

イエス・キリストの啓示

 パウロはダマスコ途上で復活されたイエスに遭遇し、神がイエスをキリストとされたことを体験しました。それは強烈な聖霊の働きでした。しかし、聖霊によるパウロのキリスト体験は、ダマスコ体験だけで終わるのではなく、パウロの生涯を貫いて続きます。この聖霊によって体験したキリストを、パウロは福音として世界に告げ知らせます。パウロの福音告知は、パウロが聖霊によって体験したキリストの告知です。
 パウロはこのキリストを各地の福音活動において熱烈な説教で語りますが、それだけでなくキリストを信じた者たちの共同体に向かって書き送った書簡の中でも、キリストについて様々な視点から語っています。パウロが伝道説教で語った内容は、先に見たようにルカによる要録が使徒言行録に残されていますが、それはルカの構想でまとめられたものですから、それをそのまま直ちにパウロのキリスト理解とすることはできません。やはりパウロ自身が書いた書簡の中で言い表されているキリストが、パウロのキリスト理解を直接表現するものとして信頼できます。ここでは、パウロ書簡に示されているパウロの「キリスト信仰」の内容をまとめてみたいと思います。
 キリストをどのような方として理解するのか、それを言葉で表現するものを神学では「キリスト論」と呼んでいます。「キリスト論」という用語は、その用語の成り立ちからすると、キリストについての「言葉、学、教え」というような意味ですが、ここではもう少し幅を拡げて、キリストにかかわる体験、理解、発言全体を扱いたいので、あいまいな用語ですが、あえてその全体を「キリスト信仰」という用語で指すことにします。
 パウロは自分のキリスト体験についてこう言っています。

 「わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、(この福音は)イエス・キリストの啓示によるものです」。(ガラテヤ一・一二 私訳)

 ここの「イエス・キリストの啓示《アポカリュプシス》」は、イエス・キリストが与えてくださった啓示という理解もできますが、すぐ後に出てくる「神が御子をわたしに啓示された《アポカリュプトー》」(ガラテヤ一・一六)と合わせて考えると、神がパウロにイエス・キリストを啓示された出来事を指していると理解する方が適切です。その体験がパウロの福音活動の源泉であり、パウロの福音告知の内容になります。
 ただ、その啓示の出来事はダマスコ体験だけでなく、その後も続いています。回心後エルサレムに来て神殿で祈っていたときに、「主にお会いして」啓示を受けています(二二・一七〜二一)。またパウロ自身、第三の天にまで引き上げられて受けた啓示について語っています(コリントU一二・一〜四)。そのような特別の啓示体験だけでなく、パウロは日常の深い祈りの中で聖霊の働きを受け、これまで親しんできた聖書の言葉が新しい光を放ってキリストを証言し、キリスト理解を深めていったと思われます(コリントT二・六〜一六参照)。こうして聖霊によって啓示され体験されたキリストが、書簡の中で信仰生活の様々な局面に対処するために語り出されていますので、それらの発言からパウロのキリスト信仰の内容を探りたいと思います。

イエス・キリスト

 当然のことながら、パウロのキリストはイエス・キリストです。イエスがキリストなのです。パウロはダマスコ途上で、神的な栄光に輝く人格存在に遭遇します。それが誰であるのか分からないパウロに、その方は「わたしはお前が迫害しているイエスである」と名乗られます。パウロは、御霊の場で自分に語りかけ働きかける方(その働きの主体がキリストです)が、漠然とした霊力とか作用ではなく、イエスという名の歴史的人物であることを深く体験しています。イエスはパウロと同時代の一人のユダヤ人です。パウロはイエスの弟子ではありませんでしたが、当時のユダヤ教社会で目立つ働きをしておられたイエスを知っていたはずです。会っていた可能性も十分あります。そのイエスが復活して、今キリストとして自分に臨んでおられることを、パウロは明確に自覚しています。敵として迫害していたイエスに、今は奴隷として仕えるようになったのです。
 この「イエス・キリスト」という名が、異邦人世界では一人の人物の名のようになったので、アンティオキア共同体と共にパウロも、この方を「主(キユリオス)イエス・キリスト」と呼んでいます。パウロが語る《キュリオス》(主)とかキリストは、イエスと別の方ではありません。たしかにパウロはその福音告知においても書簡においても、イエス伝承にあるイエスの言葉やイエスの働きを引用することはほとんどありません。しかし、パウロはイエスを無視しているのではありません。むしろ、自分がイエスの死に合わせられてイエスと一つになることによって、イエスの復活の命に生きるようになるのだという、「イエス神秘主義」ともいえる表現で、信仰を語っています(コリントU四・一〇〜一四)。パウロは、「わたしはイエスの焼き印を身に受けているのです」(ガラテヤ六・一七)という強い言葉で、イエスとの一体関係を言い表しています。

パウロがイエス伝承を用いなかった理由については、拙著『パウロによるキリストの福音T』269頁の「パウロとイエス」の項を参照してください。また、「イエス神秘主義」については、拙著『パウロによるキリストの福音V』94頁の「イエス神秘主義」の項を参照してください。
なお、「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません」というパウロの言葉(コリントU五・一六)を根拠にして、パウロが地上のイエスに関心をもっていなかったと主張する解釈もありますが、この解釈が誤りであることについては、拙著『パウロによるキリストの福音V』119頁の「新しい創造」の項、とくに121頁の注記を参照してください。

 先にアンティオキア共同体で用いられていた「キリスト賛歌」(フィリピ二・六〜一一)をパウロが引用していることを見ましたが、この賛歌はキリストを死者の中から復活して永遠に神と共にいます方として見ている信仰から出ています。そのキリスト信仰からすれば、地上のイエスの生涯は「神と等しい、神の身分であるキリスト」が「自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられた」出来事となります。パウロもこのキリスト信仰を共有しており、イエスの誕生と地上の生涯を語るとき、それは神が永遠に神と共にいます御子を地上に遣わされた出来事であるとしています(ガラテヤ四・四)。この「遣わされた」という表現は、キリストが永遠に(萬物の存在に先立って)神と共にいます御子であることを前提にしており、キリストの「先在」を語っています。イエスは、その先在のキリストが「時満ちて」人間の姿をとって歴史の中に現れた方であることになります。

フィリピ書に引用されている「キリスト賛歌」について詳しくは、本書410頁以下の「キリスト賛歌における《キュリオス》」の項を参照してください。

御霊のキリスト

 パウロにとってキリストは、イエスという人物として自分の外におられる方だけではありません。パウロにとってキリストは現実に御霊という形で自分に対して、また自分の中で働かれる方です。キリストはわたしたちの罪のために死なれましたが、三日目に復活して、ペトロや弟子たちに現れました。キリストはパウロにも現れて、パウロを御自身の僕として召されました。キリストが現れたということは、キリストがその人に対して働きかけられたということです。その働きかけは一回限りのものではなく、パウロの生涯にわたります。パウロはこのキリストの働きかけを受けて、キリストの僕として福音のために働き続けました。パウロはその働きを自分の働きとしてではなく、自分の中に働かれるキリストの働きとして自覚しています。パウロは自分の福音の働きを回顧して次のように言っています。

 「異邦人を従順に導くために、キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、わたしはあえて語ろうとは思いません。キリストが言葉とわざにおいて、しるしと不思議を現す力により、御霊の力によって働かれたのです」。(ローマ一五・一八〜一九 私訳)

 このように、パウロは自分の中にいまし、自分を通して働かれるキリストを深く自覚していました。パウロはそのキリストの働きを「御霊の力によって」なされた働きとしています。キリストの働きは御霊の働きです。パウロはこのことを「主は御霊である」と明言し(コリントU三・一七)、キリストを「霊なる主、御霊の主」と呼んでいます(コリントU三・一八)。
 パウロはこの御霊として働かれるキリストを告知します。福音を信じ、キリストを受け入れるとき、御霊のキリストがわたしたちの内に来て、わたしたちの中で働き始めてくださいます。パウロが宣べ伝えるキリストは「主」と呼ばれますが、わたしたちを外から支配する者として、わたしたちに命令する方ではありません。わたしたちの中で働き、わたしたちの中に新しい事態を創り出してくださる方です。その内容は次項「W キリストにおける救済」の主題になりますので、ここではパウロが告知するキリストは、わたしたちの中に働いてくださる御霊のキリストであるという事実だけをあげておきます。

 「あなたがたは、神の御霊があなたがたの内に宿っているかぎり、肉の次元にいるのではなく御霊の次元にいるのです。キリストの御霊を持たない者はキリストに属する者ではありません。キリストがあなたがたの内にいますならば、体は罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえに命であるのです」。(ローマ八・九〜一〇 私訳)

 「キリスト者」とはキリストに属する者のことですが、ここでパウロはキリスト者に関して重大な発言をしています。洗礼を受け、教会に所属し、日曜日に礼拝に出席し、聖餐などの儀式にあずかっていても、もしその人がキリストの御霊を持たないならば、キリストに属する者ではない、すなわちキリスト者ではない、と言っています。キリスト者とはキリストの御霊によって生きている者のことだ、と宣言しています。
 ここで「キリストの御霊を持たない者」と言われていますが、御霊は物ではないので、人間が所有することができるものではありません。ここで御霊を持つとか持たないと言われているのは、内に御霊の働きを受けているかどうかの問題です。キリストの御霊が内に働いておられるとき、その人の「内にキリストがいます」と言われます。ここで人間の内に働く霊が「神の御霊」と「キリストの御霊」として同格で語られ、その御霊が内に働くとき、それはキリスト御自身が内にあって働いておられるのだとされます。このように、御霊のキリストを内に迎え、自分の内にキリストの働きを受けている者が「キリストに属する者、キリスト者」となるのです。

十字架のキリスト

 このようにパウロのキリストは御霊のキリスト、御霊として内に働くキリストですが、そのキリストにはパウロに特有の重要な姿があります。パウロのキリストには顕著な刻印が刻み込まれています。それは十字架の刻印です。パウロは「十字架の姿をしたキリスト」を宣べ伝えました(ガラテヤ三・一)。パウロはイエスが二十年ほど前に十字架につけられて死なれた出来事を報告しているのではありません。当然それも含みますが、復活して今も働かれる御霊のキリストが十字架の姿をしておられることを告げ知らせたのです。
 このキリストをパウロは「十字架につけられたままのキリスト」と表現しています(コリントT一・二三、二・二)。パウロがここで用いている「十字架につけられた」という動詞は完了形の受動態(分詞形)で、現在働いておられる御霊のキリストの姿を表現しています。それを示すためにここでは「十字架につけられたままの」と訳しています。ガラテヤ三・一も同じ動詞形です。復活して今もわたしたちに向かって、またわたしたちの内に働かれるキリストは、その身に十字架の死を、わたしたちのための死を負っておられるのです。パウロはこの「十字架につけられたままのキリスト」を体験し、そのキリストに合わせられて生きているのです。
 パウロは、キリストが負っておられる死を「わたしのために死なれた死」と受け止め、この「十字架につけられたままのキリスト」と合わせられることによって、自分は死んだ者であること、そして自分が死んだ後に、キリストが自分の内に生きていてくださることを体験しました。その体験をこのように言い表しています。

 「わたしはキリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」。(ガラテヤ二・一九〜二〇)

 このパウロの「十字架体験」とも言うべきキリスト体験は、パウロの救済理解を決定づけます。その内容は次項(W)で見ることになりますが、最初期前期においては他には見られない独自の深みを持つことになります。最初の「福音の基本的内容」の項で見たように、イエスの十字架の死は万民の罪の贖いのための死であると理解され、広くそう告知されていました。しかし、パウロにとって十字架は、そのような救済史の中での神の働きの出来事にとどまらず、現在自分がそれに合わせられて死に、復活されたキリストの命に生きるようになる場として、現在の霊的現実です。その現実から、実に豊かな福音理解(神学)が展開されてきます。そのすべてを描き尽くすことはできませんが、次項(W)でその一端を見ることになります。

来臨のキリスト

 パウロが告知するキリストは、世界を支配するために間もなく栄光の中に来臨されるキリストです。パウロはこの来臨のキリストの告知を、最初期エルサレム共同体およびパレスチナ・ユダヤ人のキリスト告知と共有しています。パウロがテサロニケ第一書簡の四章で語っているキリストの来臨の告知は、(マルコ福音書一三章など共観福音書に保存されているパレスチナ・ユダヤ人の福音告知に見られる)ユダヤ教黙示思想の終末待望そのものです。また、コリント第一書簡の一五章(五二節)の「最後のラッパ」も、パウロがユダヤ教黙示思想の中にいることを示しています。ただ、このようなキリストを、パレスチナ・ユダヤ人の福音告知では「人の子」と呼んでいましたが、パウロはこのユダヤ教黙示思想特有の「人の子」という称号は用いません。先に見たように、栄光の中に来臨されるキリストを語るとき、パウロは「主《キュリオス》」という称号を用いて語っています。異邦人には「人の子」というユダヤ教黙示思想の用語は理解できないからです。
 キリストの来臨を指す《パルーシア》(到来という意味のギリシア語)という名詞形は、パウロ書簡では比較的少なく、テサロニケ第一書簡には四回(二・一九、三・一三、四・一五、五・二三)ありますが、他にはコリント第一書簡(一五・二三)に一回出て来るだけです。テサロニケ第一書簡では、《パルーシア》の他に「主の日」という表現で、キリストが来臨されるときについて多く語られています(五・一以下)。コリント第一書簡では、キリストの来臨は「主が来られるとき」(一一・二六)とか、「キリストの日」(一・八)、「かの日」(三・一三)、「主の日」(五・五)などの形で語られています。
 このような表現は最初期共同体の福音告知に共通していますが、パウロには独自の表現があります。パウロはキリストが栄光の中に到来されることを、「現れる」《アポカリュプトー》とか「顕現、現れ」《アポカリュプシス》という系統の用語で語っています。たとえば、コリントの共同体に対して、「その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れ《アポカリュプシス》を待ち望んでいます」と言っています(コリントT一・七)。ローマ書においては、終わりの日の出来事について語るところは比較的少ないのですが、その中でパウロは終わりの日に「現される」栄光とか、被造物が「神の子の現れ」を待ち望んでいるとか、この「現れ」《アポカリュプシス》という系統の用語で語っています(ローマ八・一八〜一九)。
 この事実は、パウロが現在わたしたちの内に働く聖霊の現実から終わりの日の栄光を見ていることを示しています。先に「御霊のキリスト」の項で見たように、キリストはすでにわたしたちの内に御霊として働いておられます。わたしたちはすでに聖霊を内に宿しています。そして、聖霊は「来るべき世」の質の命です。終末はすでに聖霊によってわたしたちの内に到来しています。しかし、その終末の栄光はわたしたちの「肉」、この生まれながらの人間本性によって覆われ隠されています。あるいは、地上の歴史の闇に覆われて、その栄光は隠されています。しかし、その命が神からの命であるかぎり、その覆いが取り除かれ、隠されていた栄光が現れる日が必ず到来します。この終末的な質の命がもつ必然が、終わりの日の栄光の顕現《アポカリュプシス》を確かな将来として待ち望ませるのです。
 このようにパウロは、主《キュリオス》が天から到来されるというユダヤ教黙示思想の《パルーシア》待望を保持しつつ、軸足を現在すでに信じる者の内に働かれる聖霊の現実に移しています。そこから終末を望み見ています。パウロのこの姿勢は、パウロ以後にパウロの名で書簡を書いた後継者たちに継承されていきます。異邦人環境で福音を語る彼らは、もはやユダヤ教黙示思想的な《パルーシア》を語ることはありません。終わりの日の栄光について語るときも、「隠されているものが現れる」という形で語ることになります(コロサイ三・三〜四)。パウロのキリスト信仰を継承していると見られるペトロ第一書簡では、終わりの日のことを語るとき、「キリストの来臨《パルーシア》」ではなく、いつも「キリストの現れ《アポカリュプシス》」という表現で語られています(ペトロT一・七、一・一三、四・一三、五・一)。この事実は、パウロの終末待望が黙示思想的な枠組みの中にありながら、黙示思想が知らなかった聖霊による終末の現臨という現実によって、黙示思想を乗りこえていることを意味します。この方向の流れが、その後の福音の展開に決定的な影響を与えることになります。

アダム・キリスト

 この黙示思想の枠組みの中にありながら黙示思想を乗りこえるパウロのキリスト信仰を表現するものに、キリストを「終わりのアダム」とする見方があります。パウロは、コリント集会に出てきた終わりの日の「死者の復活」を否定する者たちに対して、その否定は福音の否定であることを説得しようとしてコリント第一書簡の一五章を書きました。その議論は「キリストの来臨《パルーシア》」を前提とする黙示思想の枠組みの中で行われています(とくに二三節)。その中で、現在わたしたちが生きている「自然の命の体」があるのだから「霊の体」もあるのだと言って(四二〜四四節)、その後次のように続けます。

 「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。(コリントT一五・四五)

 ここでパウロはキリストを、創世記の「初めのアダム」と対比して、「終わりのアダム」と呼んでいます。「アダム」は人を意味するヘブライ語の普通名詞です。創世記のアダムの物語は、人間の姿とか本質を描く物語です。アダムは人類の代表者です。創世記は、人間は地の塵(物質)で造られた体に神の息(霊)を吹き入れられて「命のある生き物」(原文は「生きている《プシュケー》」)となった、と語っています。そのアダムの物語は現在の人間、自然の命に生きる人間の姿を物語っています。それは「この世《アイオーン》」に属する人間の物語です。創世記のアダムは、現在この《アイオーン》に生きる人類を代表しています。
 そのように、キリストは「終わりの日」、「来るべき世《アイオーン》」に創造される人間を代表する「アダム」なのです。キリストは終わりの日の人間です。終末時の人類の代表者です。この終わりの日の「人」《ホ・アントローポス、The Man 》は、死者の中から復活して永遠に生きる方であり、ご自身に属する者を「生かす」《ゾーオポイエイン》働きをされる霊的実在者です。この《ゾーオポイエイン》という動詞は、初めのアダムがただ「生きている」(《ゾーオー》という自動詞)のと違って、他者を「生かす」という他動詞で、他者に働きかける動詞です。それは《ゾーエー》を創り出すという意味を含み、命のないところに命を創り出す、すなわち復活させると同じ意味で用いられます(ローマ四・一七、八・一一、ヨハネ五・二一)。
 パウロが「人」《アントローポス》というギリシア語を、ヘブライ語のアダムが人間を代表するように、人間を代表する方としてキリストを指すのに用いていることは、次の用例にも見られます。

 死が人《アントローポス》によって来たのだから、死者の復活も人《アントローポス》によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされる(《ゾーオポイエイン》される)ことになるのです。(コリントT一五・二一〜二二)

 新共同訳(他の日本語訳も)は「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです」と訳していますが、原文には「一人の」はありません。最初の《アントローポス》が創世記のアダムを指し、後の《アントローポス》がキリストを指すことは、前の文と後の文の並行関係から明らかです。また、この並行関係から《ゾーオポイエイン》が復活を指していることも分かります。このように、パウロは創世記のアダムを、終わりの日に現れるキリストを逆の方向で予表する者として扱っています。このアダムとキリストの「予表・本体」関係は、ローマ書においては神との関係において罪と義という逆のものをもたらす代表者として現れます(ローマ五・一二以下、とくに一四節後半)。
 このようにパウロは、キリストを「《ゾーオポイエイン》する霊、復活させる霊」とすることによって、将来に来臨するキリストを現在御霊によってわれらを生かすキリストと結びつけています。こうして、パウロはキリスト来臨の待望を中核とする黙示思想的な枠組みの中にありながら、現在すでにその命を生きているという御霊の現実に軸足を移す道を切り開いたのです。

パウロのアダム・キリスト論について詳しくは、拙著『パウロによるキリストの福音U』274頁の「アダムとキリスト」の項、および同書311頁の「第六節 終わりのアダム」を参照してください。

神の子・キリスト

 すでにパウロ以前のキリスト信仰において、イエス・キリストは「神の子」とされていました。先に見たように、アンティオキア共同体のキリスト賛歌はキリストを、神と共にいます、神に等しい方として賛美していました。パウロとは別の経路でローマに伝えられたキリスト告知の定式は、イエス・キリストを「神の子」としていました(ローマ一・二〜四)。また先に、エルサレム共同体の「神の僕《パイス》」であるイエスが、ギリシア語系ユダヤ人の福音告知においては「神の子《ヒュイオス》」となっていった経緯を見ました。パウロもギリシア語世界に福音を宣べ伝える者として、もっぱら「神の子《ヒュイオス》」を用いて、キリストが神と特別の関係にある「神の子」であることを語っています(コリントT一・九、コリントU一・一九、ガラテヤ二・二〇)。
 では、神の子は神とどのような関係に立つのか、また、キリストが神と等しい方であるならば、キリストであるイエスの人間性はキリストの神性とどのように関わるのか。これは後のキリスト教の歴史において大論争になる問題ですが、パウロはそのような問題には触れていません。あくまで、キリストであるイエスにおいて神の終末的な救済の働きが成し遂げられた事実に集中しています。後の時代には、イエスが神の子であることを示す事実として処女マリアからの誕生が重要視されるようになりますが、パウロは処女降誕に触れることはなく、イエスの誕生についてもただ「女から生まれ」(ガラテヤ四・四)と語って、わたしたちと同じ人間としての誕生であるとするだけです。
 イエス・キリストが神の子として神性をもつ方であるならば、イエスが父として崇められた神との関係はどうなるのか。さらに、神から発しキリストを通して与えられ、わたしたちの内に働かれる聖霊も神性をもつ霊ですから、この三者、すなわち父としての神、子としての神、聖霊としての神は、唯一であるはずの神の中でどのような関わりに立つのか。この問題と格闘して、後のキリスト教は「三位一体」の教理を形成することになりますが、パウロはこのような人間がうかがうことの許されない神の内部の奥義に触れることなく、御子イエス・キリストにおいて神が成し遂げられた人間の終末的救済の働きと、神の霊である聖霊が信じる者の内に働いて与えてくださる救済の現実に集中します。次項(W)で、そのキリストにあって聖霊により与えられる救済について、パウロが語るところを聴くことになります。

W キリストにおける救済

信仰による義

 パウロはこのようなキリストを異邦諸国民に告知します。このキリストの告知が福音ですが、パウロは福音を「救いに至らせる神の力」として世界に提示します。

 「福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にもすべて信じる者には、救いに至らせる神の力である」。(ローマ一・一六)

 福音はキリストを告知する言葉です。たしかにそれは人間が語る言葉です。しかし、福音の言葉はたんにイエス・キリストについて情報を伝える言葉ではなく、神が人間に語りかける言葉です。キリストは神が人に語りかける最終的な言葉なのです(ヘブライ一・二)。ですから、その言葉を信じて受け入れる者には、神が働いてその人を救いに至らせます。福音はすべて信じる者を救いに至らせる神の力です。パウロは彼の福音活動で、彼の福音を聞いた人たちを変えて行く神の御霊の働きを体験していますから、このように大胆に宣言することができます。
 このように、パウロが福音について掲げるマニフェストともいうべきこの文に、「ユダヤ人をはじめギリシア人にも」という句が入っている理由については、先に「U パウロにおける福音とユダヤ教」の項で詳しく述べました。この句は、パウロが宣べ伝えた「無割礼の福音」を宣言する句です。すなわち、福音はユダヤ人(ユダヤ教)の中で始まりましたが、異邦人は割礼を受けユダヤ教に改宗してユダヤ人にならなくても、異邦人のままでキリストを信じて救われるという宣言です。ここで「ギリシア人」はユダヤ人でない異邦人全体を代表しています。福音はユダヤ教の外で、すべて(=誰でも)信じる者を救いに至らせる神の力となるという宣言です。
 この宣言文に、理由を示す語で導かれる次の文が続きます。

 「福音には神の義が現れており、信仰から始まり信仰へと至らせるのです。『義人は信仰によって生きる』と書かれているとおりです」。(ローマ一・一七)

 この文は、福音が「ユダヤ人をはじめギリシア人にも、すべて信じる者に」救いへの神の力となる理由を語っています。ここの「神の義」は、人を義とする(神に受け容れられる者とする)神の働きを指しています。「福音には神の義が現れている」というのは、神がキリストの出来事において人を義とする働きを成し遂げ、それを世界に告知しておられるという意味になります。その神の義は、だれでも信じる者に現されています。この節の前半を直訳すると、「福音において神の義が信仰から信仰へと現される」となります。この神の義を受けるのは、徹頭徹尾信仰だけです。他に何の条件もありません。ですから、福音はユダヤ人とギリシア人の差別なく、だれでも信じる者を救う神の力となるのです。
 この「ユダヤ人をはじめギリシア人にも」を説明的にいうと、「ユダヤ教律法の中にいるユダヤ教徒をはじめ、ユダヤ教律法と関係のない異邦人にも」ということになります。ユダヤ教律法を順守するユダヤ教徒だけでなく、割礼なくユダヤ教律法とまったく関係のない異邦人も、福音が告知するキリストを信じ、キリストに合わせられて生きるという「信仰」によって義とされ、救いに至らせる神の力を受けるのです。このことをパウロは、「人が義とされるのは、律法の行いとは無関係に、信仰による」と宣言します(ローマ三・二八)。このことはガラテヤ書で戦闘的に激しく主張していましたが、福音を包括的に提示するローマ書においても、まずその第一部(ローマ一・一八〜五・一一)でこの「信仰による義」を詳しく取り扱っています。
 たしかに「信仰による義」は、パウロが命がけで確立しようとした「福音の真理」です。ガラテヤ書はもちろん、福音をもっとも包括的に提示するローマ書さえも、その執筆事情から、救いがユダヤ教の外で成立するという主張に力が注がれているので、「信仰による義」をパウロの救済論の中心主題としがちです。しかし、それは人間の救済という視点から見るならば、救済の殿堂の入口であり、あるいは救済が成立する場であり、救済の内容そのものではありません。キリストにおける救済の内容はずっと豊かであり、それはパウロ書簡の全体から考察されなければなりません。

ローマ書はパウロの福音をもっとも包括的に提示する文書として扱われていますが、そのローマ書の解釈において、一〜八章をローマ書の主部として扱い、三章二一〜二二節をその全体のテーゼとし、ローマ書の主題を「信仰による義」と見る解釈が多く行われています。しかし、「信仰による義」を一〜八章全体の主題とすることは無理であり、それは全体が(三部ではなく、主部を二つに分けて)四部に分けられるローマ書の第一部(一・一八〜五・一一)の主題に限定すべきであり、第二部(五・一二〜八・三九)は別の主題を扱っているとしなければなりません。むしろ第二部の「救いに至らせる神の力・働き」がローマ書の中心であると見るべきです。第一部の「信仰による義」は第二部の「救いに至らせる神の力」が働く場に入るための入口です。この点については、拙著『パウロによる福音書 ― ローマ書講解T』186頁の「第二部への序言―三楽章か四楽章か―」を参照してください。

 「義とされる」(神学では「義認」と呼ばれています)ことは、ユダヤ教徒には切実な問題でした。しかし、異邦人には神との関わりにおいて「義とされる」という表現は馴染みがないので、パウロは異邦人に向かって語るときは「義とされる」という表現よりも「和解」という語を用いて同じことを語っています(コリントU五・一八〜二一)。両方とも救いに至らせる神の力が働く場に入るための入り口です。両方の表現が並行して用いられている箇所ありますので、それを引用しておきます。

 今やキリストの血によって義とされているのですから、なおさら御怒りから救われることになります。敵であったときでさえ御子の死によって神と和解させていただいたのですから、和解させていただいている今は、なおさら御子のいのちによって救われることになるはずです。(ローマ五・九〜一〇)

「キリストにあって」
 「信仰による義」という入口から入る救済の場、すなわち救いに至らせる神の力が働く場を、パウロは「キリストにあって」《エン・クリストー》という句で指し、彼の書簡で繰り返し用いています。

「キリストにあって」または「キリスト・イエスにあって」という句は、新約聖書に76回出てきますが、すべてパウロ系書簡です(パウロ書簡52回、パウロ名書簡21回、それにパウロ系と見られるペトロ第一書簡3回)。他の文書には出てきません。ローマ書では、第一部には引用している定型句(三・二四)以外にはなく、第二部以降に12回現れます。

 「信仰によって義とされる」というときの「信仰」は、もちろんキリスト信仰のことです。パウロは「律法の行い」と対比される位置に「キリストの信仰」という表現を用いています。人は「律法の行い」によってではなく、「キリストの信仰」によって義とされるのです(ガラテヤ二・一六)。この「キリストの信仰」は、キリストに対する信仰と理解されて「キリストへの信仰」(新共同訳)とか「キリストを信じる信仰」(協会訳)と訳されることが多いようです。しかし、この「キリストの」はキリストを対象とするという意味だけではなく、キリストを内容とする信仰、キリストに全存在を委ね、キリストとの交わりに生きるという意味の信仰と理解すべきです。わたしはこのパウロの「キリストの信仰」を「キリスト信仰」と訳しています。パウロはしばしばこの「キリストの信仰」を「信仰」という語だけで指しています(たとえばガラテヤ三・二三〜二五)。
 わたしたちはこのキリスト信仰によって、「救いに至らせる神の力」が働く場である「キリストにあって」という場に入るのです。律法の実行によってはこの場に入ることはできません。わたしたちは、イエス・キリストを信じ、この方に全存在を投げ入れ、この方に合わせられて生きるとき、キリストという場《エン・クリストー》に働く「救いに至らせる神の力」によって変えられ、救われていくのです。

新共同訳は《エン・クリストー》を「キリストに結ばれて」と訳しています。この訳は、ここに見たイエス・キリストを信じ、この方に全存在を投げ入れ、この方に合わせられて生きるわたしたちの姿をよく説明しています。しかし、神の力が働く場としての《エン・クリストー》は、わたしたちの信仰よりも先にある御霊の場であって、わたしたちの信仰を描く「キリストに結ばれて」という訳が不適切になる場合があります(たとえば次に引用するローマ八・二)。日本語としては馴染みにくい表現ですが、やはり「キリストにあって」と訳さざるをえないでしょう。

御霊の働きによる解放

 キリストという場《エン・クリストー》に働く神の救いの力の働きを、パウロは次のように宣言しています。

 「キリスト・イエスにある命の御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放した」。(ローマ八・二 私訳)

 この宣言こそ、パウロの救済論の核心です。救済とは、人間を捉え苦しめ破滅させている負の力からの解放ですが、その負の力がここで「罪と死の律法(ノモス)」と語られています。そして、その負の力からわたしたちを解放する力は、「キリスト・イエスにある命の御霊の律法(ノモス)」と呼ばれています。

《ノモス》という用語がわたしたちには理解しにくいので、ほとんどの訳はここの《ノモス》を「法則」とか「原理」と訳しています。パウロがここで「律法」《ノモス》という語を用いているのは、先行する七章で「律法」とわたしたちの関係を扱った部分の結論としてこの宣言を述べているからです。神と人間の関わりをすべて「律法」という語で記述するユダヤ人においては、このような表現が出てきますが、わたしたちユダヤ教徒でない者には、「命の御霊の支配が、罪と死の支配からあなたを解放した」と読んでよいでしょう。パウロにおける「律法」という用語の意味については、拙著『パウロによる福音書―ローマ書講解T』110頁の「信仰の律法によって」の項を参照してください。

 「キリストにあって」《エン・クリストー》という場では、「命の御霊」が支配法則(支配原理)です。そして、その「キリストにあって」という場の外では「罪と死」が支配法則です。わたしたちはキリストの内に入って来ない限り、キリストの外にあってみな「罪と死」の支配下にあります。パウロが「罪」というとき、それは律法というユダヤ教の諸規定や道徳規定に違反する諸行為ではなく、人間を神に背かせ悪に向かわせる支配力です。そのような根源的な支配力として、パウロは常に「罪」を単数形で語ります。ここの「罪」も単数形です。そして、「死」は身体の死ではなく、神の命から切り離された人間の在り方です。人間が本来もっているはずの神の栄光を失っている状態です(ローマ三・二三)。
 わたしたち生まれながらの人間はみな、「キリストにある」という場に入らない限り、このような意味における罪と死の支配下にあります。パウロは、この生まれながらの人間が陥っている(罪と死の支配下にあるという)普遍的な状態を、創世記が語っている最初の人アダムにおいて起こった出来事として描いています(ローマ五・一二〜一四)。アダムは生まれながらの人間を代表する存在です。この普遍的な状態は、「アダムにあって、人はみな罪と死の支配下にある」と表現できるでしょう。

アダムが生まれながらの人間すべてを代表する存在であることについては、拙著『パウロによる福音書―ローマ書講解T』192頁以下の「第一節 アダムとキリスト」を参照してください。

 信仰によってキリストと結ばれ、「キリストにあって」という場に入ってくるとき、その場に働く「命の御霊」によって、罪と死の支配から解放されます。この解放が救いです。救いとは本来わたしたちを捉えている負の力からの解放です。イエスは病気をいやし悪霊を追い出されましたが、いやされた者に向かって、「あなたは救われた」と言われました。それは病気や悪霊の力とか支配から解放されたという宣言です(ルカ一三・一六参照)。イエスはその解放を「神の霊」による神の支配の到来とされました(マタイ一二・二八)。パウロも病気をいやし悪霊を追い出しましたが、御霊の働きをさらに深く「罪と死の支配」からの解放として語るようになります。これは、パウロの場合にはキリストの十字架と復活がすでに起こっており、キリストが「命を与える霊」として啓示されているからです(前述の「アダム・キリスト」の項を参照)。
 「キリストにあって」《エン・クリストー》の場に働く霊は、「命を与える霊」(《ゾーオポイエイン》する霊)です。復活者キリストが「終わりのアダム」として命を与える働きをされます。この「命を与える」働きをする霊を、パウロはここで「命の御霊」と呼んでいます(その霊は神の霊ですから「御霊」と訳しています)。ここで復活者キリストと御霊が重なってきます(ローマ八・九〜一〇)。「主は霊である」と言われます(コリントU三・一七〜一八)。「キリストにあって」という霊の場では、霊なる主、復活者キリストが働きの主体であり、その場に入ってきた人間は働きを受ける客体です。人間は主体にはなりえません。わたしたち人間は、キリストという場で、圧倒的で一方的なキリストの働きを受けるだけで、救いのために何一つ働きをすることはできません。パウロはローマ書八章で、この「命の御霊」の働きを溢れるように語り出しています(その内容については後述)。

キリストが、《エン・クリストー》として神の御霊の働きの場であると同時に、働きの主体でもあることは、救いの出来事が《ディア・クリストゥー》(キリストによって)と語られていることによって示されています。

律法からの解放

 救いは人間を抑圧し苦しめる負の支配力からの解放ですが、パウロの場合「律法からの解放」が強調されていることが特異です。

 しかし今や、わたしたちは自分を縛っていたものに死んだので、律法から解放されたのです。それは、わたしたちが文字という古い次元ではなく、御霊という新しい次元において仕えるようになるためなのです。(ローマ七・六)

 「律法から解放された」という宣言は、ユダヤ人にはまことに衝撃的な発言です。ユダヤ人にとって律法はモーセを通して神から与えられた啓示であり、その諸規定を守ることで救いに至ることができる救いの土台です。その律法から「解放される」など夢にも思い浮かばないことです。ところがパウロは、すでに見たように、「律法の外で、律法とは別に」、キリストにおいて神の救いの働きがなされたことを体験し、それを宣べ伝えています。律法はもはや救いに至る道ではないのです。キリストは律法の終わりとなられました。今やキリストが救いであり、キリスト信仰が救いの唯一の道です。今や律法は、救いの条件としてその順守を迫り、わたしたちを外から拘束する支配力ではなくなったのです。このことをパウロは「わたしたちは律法から解放されている」と表現します。そして、このユダヤ教徒にはきわめて理解困難な「解放」を、結婚の比喩を用いて説得しようとします(ローマ七・一〜六)。
 このように行え、このようなことはしてはならないという形で、神から人間に課せられた要求としての律法(ユダヤ教の律法はこのように理解されていました)は、それに違反する者を断罪します。人間は律法の要求を完全に満たすことはできない者として、みな律法の呪いの下にあります(ガラテヤ三・一〇)。ところが、「キリストにあって」という場では、人はそのような要求としての律法の下にいる者ではなくなり、律法の呪いから解放されています。「キリストにあって」という場では、神の無条件絶対の恩恵が支配しています。キリストにある者は、律法の下にではなく、恩恵の下にいるのです(ローマ六・一四)。

罪という支配力が律法の下にいる者を律法を梃子にして支配している様と、キリストにある者は恩恵の支配の下にあるので、もはや律法から解放されている事実を、パウロはローマ書の六章と七章で詳細に論じています。ここではその結論だけをあげましたが、詳しくは拙著『パウロによる福音書―ローマ書講解T』の「第四章 恩恵の支配」を参照してください。ローマ書にはユダヤ人に「律法とは別の神の義(救い)」を理解してもらいたいという意図もあるので、律法の問題が詳しく扱われていますが、ここでは、パウロの福音提示において「律法からの解放」が重要な内容になっているという事実だけをあげておきます。

 では、もともと律法の下にはいない異邦人には、この「律法からの解放」は無意味なのでしょうか。けっして無意味ではありません。異邦人もある意味では律法の下にいるのです。先に「律法」というのはユダヤ教という宗教の全体を指す語であることを指摘しましたが、異邦人もそれぞれの「宗教」の拘束と支配の下にあり、「キリストにあって」という恩恵の場に来るとき、ユダヤ人がユダヤ教という「宗教」から解放されるのと同じように、「宗教」の拘束と支配から解放されるのです。
 「宗教」という語は意味内容が広く、安易に用いることはできませんが、ここでは人間の共同体が、共同体を統合する原理として用いている祭儀システムを「宗教」と呼んで、そういう意味の「宗教」からキリスト信仰は人を解放する力であることを見ておきたいと思います。ここで「祭儀システム」というのは、共同体がもつ神話、習俗とか習慣、伝統などを表現する儀礼とか儀式の総体です。人類はその誕生の太古から、このような祭儀システムとしての「宗教」なしには存在できませんでした。
 わたしたちは「宗教」を選ぶことはできません。「宗教」の中に生まれ落ちてきます。「宗教」は共同体の成員を拘束し支配します。しかし、わたしたちが「キリストにあって」恩恵の支配下に入るとき、わたしたちを支配していた「宗教」はその絶対性を失います。すなわち、共同体を形成する原理は「宗教」ではなく、キリストにあって神から与えられる愛となります。共同体の神話や伝統は尊重されますが、それを表現する「宗教」はもはや絶対的な統合原理ではなくなり、相対化されます。聖書が「あなたたちは(キリストにあって)先祖伝来のむなしい生活から贖われた」というとき(ペトロT一・一八)、このような祭儀システムとしての「宗教」から解放されたことを指しており、それはパウロのいう「律法からの解放」が異邦諸民族おいて実現している姿です。

このようにキリスト信仰は「宗教」を相対化するので、キリスト教世界においてはじめて「宗教の自由」という概念が成立します。しかし、この主題は本稿の範囲を超えますので、ここでは扱いません。「宗教の相対化」については、拙著『教会の外のキリスト』所収の論稿「終章 キリストの絶対性とキリスト教の相対性」を参照してください。

御霊の働きによる変容

 救いは解放です。しかし、救いは解放に尽きるものではありません。命を与える御霊は、解放された人間をさらに神の栄光に至らせるために働かれます。

 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。(コリントU三・一八)

 パウロはここで御霊の働きを「主の霊の働き」と呼び、その内容を「造り変える」《メタモルフォオー》という動詞を用いて表現しています。御霊は人間の霊性を変容させます。すなわち、人間をその存在の奥底から造り変えます。それは、御霊の働きを受ける人間の奥底の霊性が「鏡のように主の栄光を映し出し」、そこに働かれる栄光の御霊が、それを映す霊性を「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえ」ていかれるからです。
 ここに用いられている動詞《メタモルフォオー》は、《モルフェー》(形、像、姿)を変えるという意味の動詞です。同じく形を意味する《スケーマ》が外形を意味するのに対して、《モルフェー》は内的で本質的なものを含む姿を指します。ここでは人間の内的な姿、霊のかたちを指します。「像(かたち)」が近いかもしれません。御霊は、人間の像(かたち)を造り変えるのです。この働きは、御霊による「変容」《メタモルフォーシス》と呼べるでしょう。
 この人間の《モルフェー》を造り変える御霊の働きの目標が、「主と同じ姿に造りかえられる」と表現されています。ここは「主と同じ《エイコーン》に造り変えられる」とされています。この《エイコーン》は、七十人訳ギリシア語聖書で、神が人を御自身の像(かたち)《エイコーン》に従って造られたという創世記(一・二六〜二七)の記事に用いられている語です。神は初めにアダムを、すなわちわたしたち人間を御自身の像(かたち)に従ってお造りになりましたが、終わりの時には「主と同じ像(かたち)」に造り変えようとして働いておられます。わたしたちの主は復活者キリストですから、その究極の目標は、わたしたちキリストに属する者を死者の中から復活させて、復活者キリストと同じ像(かたち)にすることだと言えます(コリントT一五章)。その時、人間は完全な意味で神の栄光にあずかる者となります(このことについては後述)。
 これはキリストにある者の究極の希望です。しかし、このような終末的な希望に生きるキリスト者も、この地上にいる限り、この世の人々の間に歩まなければなりません。その歩みについて、パウロはやはりこの《メタモルフォーシス》という視点から、わたしたちに勧告しています。

 あなたがたは、この世と同じかたちになることなく、かたちを変えられて、意識を新たにし、何が神の御心であるのか、何が善いことであり、神が喜ばれる完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。(ローマ一二・二)

 パウロはローマ書(一〜一一章)においてキリストの福音を提示した後、「そこで、兄弟たちよ、わたしは神の憐れみによってあなたがたに勧めます。あなたがたの身体を、神に喜ばれる聖なる生きたいけにえとして献げなさい。それがあなたがたの霊的な礼拝です」(ローマ一二・一)と言って、この福音に生きる者の実際の歩みについての勧告(ローマ一二〜一三章)を始めます。そして、その勧告の最初に、この世での生き方についてキリストに属する者の基本的な姿勢を示します。それがこの言葉です。
 ここでも「かたちを変えられよ」という《メタモルフォオー》の命令形が中心の位置を占めています。この命令形は現在形で、「かたちを変えられ続けよ」という意味合いを含んでいます。これは、「この世と同じかたちになる」ことを克服するためには、御霊による《メタモルフォーシス》(変容)が必要であることを示しています。キリストの民は「この世」、すなわち神に背き、滅びに定められた現在の古い《アイオーン》から救い出された民です(ガラテヤ一・四)。キリスト者は「この世」に同化して、この世と同じかたち、同じ原理で生きてはならないのです。自分でそうなることはできません。そのためには、御霊による変容が必要です。
 御霊によって霊性が造り変えられることによってはじめて、《ヌース》(思考、理知、意図、心構え、決意など人間の意識面での働き)も新たにされて、今までとは別の新しい生き方が出てきます。その新しい意識が、複雑な現実の中で「何が神の御心であるのか、何が善いことであり、神が喜ばれる完全なことであるかをわきまえるように」させ、「この世と同じかたちになることなく」、キリスト者としての新しい生き方を可能にします。この御霊による《メタモルフォーシス》こそ、キリスト者の倫理の土台です。同じことをパウロはガラテヤ書ではさらに簡潔に、「御霊によって歩め」と言っています(ガラテヤ五・一六以下)。

一二章二節の前半は「この世のかたちに同化するな。意識の革新に変容されよ」という並行句になっています。この後半句は、ほとんどの日本語訳で「心を新たにして(=新たにすることによって)造り変えられ」となっていますが(欧文訳も同じ)、心の革新(原文では三格の名詞)は変容の手段ではなく、変容の結果と理解すべきです。このことについて詳しくは拙著『パウロによる福音書―ローマ書講解U』129頁以下の「かたちを変えられて」の項を参照してください。

 パウロ書簡で《メタモルフォオー》という動詞が用いられているのは、ここにあげた二箇所(コリントU三・一八とローマ一二・二)だけですが、パウロの救済論の鍵となる重要な用語の一つです。

パウロの十字架体験

 ここに見たように、解放と変容という御霊の働きによる救済は、「キリストにあって」《エン・クリストー》という場で起こることですが、この場で働かれる主体のキリストは、(先のV「パウロのキリスト信仰」の中の「十字架のキリスト」の項で見たように)パウロにとっては「十字架につけられた姿のキリスト」です。キリストがパウロにとって十字架につけられたままのキリストであることは、パウロの救済理解の根底にある体験です。
 最初期のエルサレム共同体が告知した福音《ケリュグマ》において、イエスが十字架につけられて死なれた歴史的事実が「キリストがわたしたちの罪のために死なれた」(コリントT一五・三)と語られていたのは事実です。最初期のエルサレム共同体は、復活によってメシア・キリストとして立てられた方が十字架につけられて死なれたという事実を、神が予め定め、預言者が預言し、祭儀が予表していた民の贖罪のための出来事として告知しました。パウロも、このユダヤ人共同体で形成された《ケリュグマ》を継承しており、「信仰による義」を論証するところで、「(人は皆)・・・・ただ、キリスト・イエスにある贖いによって、神の恵みにより、無代価で義とされるのです。神はこのキリストを、信実によって、その血による贖いの場としてお立てになったのです」と言っています(ローマ三・二四〜二五)。この「キリスト・イエスにおいて神が成し遂げられた贖罪の出来事」を、ユダヤ教の「大贖罪日」の祭儀(レビ記一六章)を成就する出来事としているユダヤ人共同体の告知を、パウロはそのまま引用して、キリストの十字架上の死を「その血による贖いの場」としています。

この「贖いの場」《ヒラステーリオン》の意味については、拙著『パウロによる福音書―ローマ書講解T』101頁の「キリスト・イエスにある贖いにより」の項を参照してください。

 パウロがキリストの十字架上の死をユダヤ教の贖罪祭儀から理解しているのは事実ですが、その面を強調している様子は見られず、パウロはキリストの十字架を別の視点から掘り下げているように思われます。パウロが「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」(コリントT一・二二〜二三)と言い、「なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」(コリントT二・二)と言うときのキリストの十字架は、過去形で語られる歴史上の出来事ではなく、「十字架につけられたままの、現に十字架の姿をしたキリスト」と、現在完了形で語られる十字架です。キリストは復活して現にパウロに働きかけるキリストです。そのキリストが「十字架の姿をしたキリスト」なのです。
 パウロは現に復活者キリストが背負っておられる死を自分のための死であると迫られています。そのキリストに合わせられて、自分は死んでいるのであり、キリストにある今は自分が生きているのではなく、自分が死んだところに復活のキリストが生きておられると自覚しています。その体験をこう言い表します。

 わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。(ガラテヤ二・一九〜二〇)

 「キリストはわたしのために死なれた!」、これは神学理論ではなく、その事実に直面するパウロを狂わすばかりに迫ってくる霊なるキリストの愛です。キリストの死は、「一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人は死んだことになる」という死です(コリントU五・一三〜一五)。キリストの死は神の愛の啓示であり迫りです(ローマ五・八)。ダマスコ途上で復活者イエスに出会った後のパウロの生涯は、この神の愛に迫られて、自分のために死んでくださった主イエス・キリストに全身全霊を献げて仕える生涯となります。
 「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」というパウロの十字架体験は、ダマスコ途上の一回的な体験でなく、生涯にわたって続く聖霊によるキリスト体験の内容です。パウロの福音活動の働きも福音理解(神学)もすべてここから発します。周囲の福音告知は、キリストの十字架を民の罪のための代理の死とし、一回的な神の贖罪の業としましたが、パウロはキリストの十字架をそこで自分が死に、新しい復活の命が始まる場とした点で、独自の十字架理解を示しています。

復活の命の現実

 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスの中にバプテスマされた者は、キリストの死の中にバプテスマされたのです。死の中にバプテスマされることによって、わたしたちはキリストと共に葬られたのです。それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちもまた命の新しい次元に歩むようになるためです。もしわたしたちがキリストの死の形に合わせられたのであれば、その復活の形にも合わせられることになるからです。(ローマ六・三〜五)

 わたしたちが信仰によって「キリストにあって」という場に入るとき、わたしたちは聖霊の働きによってキリストに合わせられます。わたしたちがキリストに合わせられるのは、「十字架の姿のキリスト」に合わせられるのであり、それはキリストの死に合わせられて、わたしが死ぬことです。古いわたしが死ぬのは、復活のキリストがわたしたちの内に生きてくださるようになるためです。わたしたちの内に生きてくださる復活者キリストは、わたしたちの内に始まる新しい「命」《ゾーエー》です。これは、「キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられた」のと同じことが、わたしたちの内に起こっているのです。
 もしこれを「復活」と呼ぶならば、キリストにあってわたしたちは復活を体験していることになります。事実、パウロ以後のキリスト者の中に、「復活はすでに起こった」と言う人たちが出てきました(テモテU二・一八)。しかし、パウロは御霊による新しい命の誕生を「復活」とは呼びません。パウロにとって「復活」はあくまで将来の終末の出来事です。「わたしたちがキリストの死の形に合わせられた」ことは過去形で語られますが、「その復活の形にも合わせられることになる」は未来形で語られます。現在の霊的体験を「復活」と呼んで、将来の終末時における「死者たちの復活」を否定する者たちを反駁するために、パウロはコリント第一書簡の一五章を書きました。
 わたしたちがキリストに合わせられて死ぬとき、聖霊によって内に始まる新しい命を、パウロはいつも《ゾーエー》という語で指しています。ギリシア語には「いのち」を指す用語として、《ビオス》(生命、生涯)とか《プシュケー》(魂、いのち、人)という語がありますが、パウロはキリストにあってわたしたちの内に新しく始まった命を指すときは、それらの生まれながらの命を指す語と区別して、いつも《ゾーエー》を用いるようになります。
 この新しい命《ゾーエー》は、イエスを死者の中から復活させ、また終わりの日にはわたしたちを復活させてくださる方の命ですから、それは復活の質をもった命、復活に至らざるをえない命という意味で、「復活の命」と呼べるでしょう。わたしたちの生まれながらの命である《ビオス》とか《プシュケー》は、死に定められた命です。その死すべき命の中に、それとは別の「復活の命」が始まっているのです。
 パウロも「永遠の命」《ゾーエー・アイオーニオス》という語を用いていますが(計五回)、パウロがこの語を用いるときはいつも終末時に、すなわち「来るべき世《アイオーン》」で与えられる命を指しています(ローマ六・二二〜二三)。これは、当時のユダヤ教における用法ですが(マルコ一〇・一七)、パウロはそれを踏襲しています。それは、パウロが聖書(旧約聖書)の救済史の信仰を保持し、当時のユダヤ教黙示思想の枠組みで思考しているからです。しかしパウロは、その「永遠の命」が聖霊の働きとして現にわたしたちの内に始まっていることを明確に語るようになった点で、新約聖書における福音の史的展開の上で画期的な一歩を画した証人です。パウロが切り開いたこの《ゾーエー》の現実を中心に福音を語るようになったのがヨハネ福音書です。

終末的完成の希望

このようにパウロにおいて救済とは、「キリストにあって」という場で、さらに正確に言えば「十字架された姿のキリストにあって」、キリストが御霊によって働き、わたしたちを律法の呪い、罪と死の支配から解放し、復活の命に歩むようにしてくださり、さらに御霊の働きによってわたしたちを奥底から造り変えて栄光へと変容してくださる過程です。しかし、そのような御霊の働きを受けるわたしたちは、現実には古い人間性の中にあり、「この世」、すなわち古い《アイオーン》の中に生きています。この古い世に生きるわたしたちの生まれながらの命の質を、パウロは「肉」《サルクス》と呼びます。キリストにあって新しく上から与えられた御霊の命《ゾーエー》は、わたしたちの生まれながらの命とは、その質が逆方向に向いており、わたしたちを逆の方向に引っ張っていこうとします。それで、わたしたちがこの世の歩みにおいて、復活の命の実現を目指すのであれば、肉の欲するところに従わず、御霊の導きに従うようにという勧告が必要になってきます。

 御霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、御霊に反し、御霊の望むところは、肉に反するからです。(ガラテヤ五・一六〜一七)

 この「御霊の導きに従って歩む」ことが、キリストにある者の倫理のすべてです。キリストにある者は律法から解放されています。では、キリスト者は律法と無関係に何をしてもよいのでしょうか。決してそうではありません。律法は神がわたしたちに欲しておられるところを示しています。ただ、それが外からわたしたちを拘束する規定であるときは、わたしたちは律法の呪いの下にありました。「肉の志向は神に敵対し、神の定めに従わないし、そもそも従うことができないからです」(ローマ八・七)。キリストにあって恩恵の下にいる今は、恩恵によって与えられる御霊が内から律法の求めるところを満たしてくださるのです。「律法の正しい要求が、肉に従ってではなく御霊に従って歩むわたしたちにおいて満たされる」のです(ローマ八・四)。そして、御霊によって満たされる神の御旨が愛であることが、パウロ書簡の各所で語られることになります。典型的な箇所は、御霊の賜物を扱うところで、愛《アガペー》こそが御霊に従う「最高の道」であることをうたいあげたコリント第一書簡の一三章でしょう。パウロは御霊の実(御霊がキリスト者の実践とか人格に現れる結果)を語るときに、それを愛の諸相として語っています(ガラテヤ五・二二)。「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」(ローマ一三・一〇)。
 パウロはローマ書の八章で、命の御霊によって罪と死の支配から解放され、御霊の導きに従って歩む者の姿を描いていますが、それは第一に律法の成就としての愛ですが、それと並んで父への信頼と終わりの日に現される栄光への希望が溢れています。御霊はわたしたちを「神の子とする霊」です。わたしたちは御霊によって「アッバ、父よ」と祈り、わたしたちの存在と必要のすべてを委ね、子としての信頼に生きます(ローマ八・一五)。そして、子である以上相続人でもありますから、終わりの日に現される栄光にあずかるという希望に溢れています。

 子であるなら相続人でもあります。神の相続人であり、キリストと共に栄光にあずかるためにキリストと共に苦しむかぎり、キリストと共同の相続人です。今の時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとしている栄光の前では、取るに足りないとわたしは見なしています。 被造物は首をのばして神の子たちの顕現を待ち望んでいるのです。被造物は虚無に服させられていますが、それは自分からではなく、希望の中に虚無に服させた者によるのです。すなわち、被造物自身もまた滅びへの隷属から解放されて、神の子たちの栄光への解放にあずかるようになるという希望です。(ローマ八・一七〜二一)

 御霊によって生きるパウロの視線は、現在の苦しみを貫いてキリストの栄光にあずかる日に達しています。そして彼の視野は、神の子たちの顕現と全被造物の解放という全宇宙的救済史の規模に広がっています。この壮大な終末的希望を語るところで、「やがてわたしたちに現されようとしている栄光」とか「神の子たちの顕現」というように、「現される」とか「顕現」という語が用いて語られていることが注目されます。
 終末の希望を語る一般のキリスト者共同体の用語は「キリストの来臨《パルーシア》」です。《パルーシア》は「来訪、到着、臨席」を意味する語で、復活して今は神の右に座すキリストが、やがて世界に到来されて支配される終末的事態を指しています。《パルーシア》には、今はおられないが近い将来に到来されるキリストを待ち望むという意味が支配的です。エルサレム共同体もアンティオキア共同体もこの語を用いて間近に迫ったキリストの来臨を告知しました。この告知にはユダヤ教黙示思想の特色が色濃く表れています。パウロもこの終末待望を共有していることは、テサロニケ第一書簡の四章に見られる通りです。パウロはそれを《パルーシア》という語で言い表していることは先に見ました(本書508頁の「来臨のキリスト」の項)。そこで述べたように、このような最初期共同体の《パルーシア》待望の熱気の中で、パウロは御霊によってわたしたちの内に働いておられるキリストの現実から終わりの日の完成を見るという見方に移っていきます。
 終末の事態は聖霊によってすでに来ているのです。しかし、その現実はこの世の悲惨の中に、また人間の肉の弱さに覆われて隠されています。しかし、「隠されているもので現れないものはない」。隠されているものが神からのものである限り、必ず顕わな形で現れます。その必然は、黙示思想では神の計画として語られていましたが、パウロは御霊の命の必然として語ります。イエスはたとえの形でこの必然を語られましたが、パウロはもはやたとえではなく、明確な用語で語り出します。この終末的希望を「来臨」ではなく、御霊の命の「顕現」として語る傾向は、パウロ以後の使徒名書簡(コロサイ書、エフェソ書、ペトロ第一書簡など)に継承され、強められていきます。
 以上に見たように、キリストにあって働く聖霊はわたしたちの内に「信仰と愛と希望」を生み出していきます。パウロは書簡の中で、「信仰と愛と希望」の三つをキリスト者の標識としてあげていますが(テサロニケT一・三、コリントT一三・一三)、この三つは聖霊がわたしたちの内に形成する新しい命の姿です。わたしたち人間は、神との関わりという垂直軸、隣人とか社会との関わりという水平軸、そして時間の中にある存在として時間軸という三つの次元をもつ存在です。御霊の命が垂直軸に現れた姿が信仰です。ここの「信仰」は、御霊の場に入るための入口としてのキリスト信仰ではなく、子の身分を与える御霊がわたしたちの内に形成してくださる父への全き信頼、「アッバ、父よ」と呼んで歩む父との交わりです。水平軸に現れた姿が無条件絶対の愛、敵を愛する愛、《アガペー》です。そして、時間軸に現れた姿が希望です。終わりの日に現れる栄光を確かな事実として現在を生きる生き方です。この三つがキリストにあって救われた者の標識であり、御霊の命、すなわち永遠の命の標識です。

パウロにおける《エクレーシア》

 パウロはこのような(第V項に見たような)キリストを宣べ伝え、このキリストを信じた人たちはこのような(第W項で見たような)救いを経験しました。こうして、キリストにあって救われ、新しい命に生きるようになった人たちは、同じ信仰、同じ命に生きる者として、自然に交わりをもち、共同体を形成します。事実(前節で見たように)パウロが福音を告知したエーゲ海地域の諸都市に、おもに異邦人からなるキリストを信じる者たちの共同体が形成されました。パウロはこれらの新しく形成された共同体に、彼らの信仰を励まし、福音にふさわしい歩みをするように勧告するための手紙を書き送ります。その手紙の中で、パウロはこの新しい信仰共同体をどのようなものとして扱っているかを、最後に見ておきます。
 パウロは各地の信仰者の共同体を《エクレーシア》という語で指しています。このギリシア語は、先に(本書246頁以下の「T 神の会衆」の項で)見たように、本来最初期のエルサレム共同体が自分たちを終末時の「神の会衆」として呼んだ名称《カハル・エール》のギリシア語訳《エクレーシア・トゥ・テウ》に用いられた語でした。パウロも新しく形成された各地のキリスト者の共同体をこの《エクレーシア・トゥ・テウ》という名で呼んでいます(コリントT一・二など)。こう呼ぶことでパウロは新たに形成された異邦人の諸集会も、エルサレム共同体と同じく終末的な神の民であるとしています。
 しかし同時に、パウロは各地に成立し活動している信者の個々のグループや共同体をも《エクレーシア》と呼んでいます。パウロの福音活動によって生まれたばかりの共同体は、まだ個人の家に集まって集会をするという形が多かったので、パウロは手紙でそれを「〜の家に集まる《エクレーシア》」という句で指しています(コリントT一六・一九、ローマ一六・五、フィレモン二)。家の集会の実際の活動を語るとき、「あなたたちが《エクレーシア》に集まるとき」とか「《エクレーシア》では」と言っています(コリントT一一・一八、一四・三四〜三五)。
 一定の地域にある諸集会を指すときは、「ガラテヤの諸《エクレーシア》」というように複数形で用いていますが(ガラテヤ一・二)、コリントの場合は一カ所に集まっていたからでしょうか、「コリントにある神の《エクレーシア》」と単数形で呼びかけています。ケンクレアの場合(ローマ一六・一)とフィリピの場合(フィリピ四・一五)も単数形です。ローマでは個人の家の集会や特定の立場の人たちのグループが別々に活動していたからでしょうか(ローマ一六章)、ローマのキリスト者全体に呼びかけるときは、《エクレーシア》という語を用いず、「ローマ在住の神の愛される方々、召された聖徒たち一同に」と書いています(ローマ一・七)。
 このように、パウロが《エクレーシア》という語を用いるとき、単数形であれ複数形であれ、それは実際の個々の集会を指しています。これは、パウロ以後にパウロの名で書かれた書簡(コロサイ書、エフェソ書)が《エクレーシア》をもっぱら単数形で用い、終末時に世から選び出さたキリストの民全体を指しているのと対照的です。パウロにはまだそのような用例はありません。パウロはあくまで個々のキリスト者の共同体が実際に活動する仕方について教え、勧告しています。
 この《エクレーシア》の活動についての勧告が一番多いのがコリント書簡(TとU)です。《エクレーシア》という用語が出て来るのも、コリント書簡が圧倒的に多くなります(全部で四三回の中で三〇回)。それはコリントの共同体の在り方と活動に問題が多かったからですが、そのおかげで《エクレーシア》に関するパウロの考えがよく伝えられることになります。
 《エクレーシア》は信仰共同体です。同じキリスト信仰に生きる者たちが集まって形成する共同体です。「キリストにあって」という場に働く聖霊によって形成される共同体です。したがって《エクレーシア》についての実際上のもっとも重要な勧告は、聖霊の働きに関するものになります。コリント書簡(とくに第一書簡)の重要性も、この書簡が聖霊による共同体形成についてもっとも詳細かつ具体的に教えていることにあります。コリントの集会は聖霊の賜物《カリスマ》が豊かな集会で、聖霊の働きが癒しや預言や異言など様々な形で現れ、活発な霊的活動が行われていました。しかし、その賜物を受けて用いる人間の側にある高ぶりに陥りやすいという弱点から、様々の問題が発生していました。コリント第一書簡は一二章から一四章にわたってこの問題を取り扱っています。
 その詳細に立ち入ることはできませんが、要約すると、ここでパウロは聖霊の賜物を「《エクレーシア》を建てる」という目的のために、秩序正しく用いるように勧告しています。聖霊の賜物は、個人の信仰の価値を上げるために与えられているのではなく、《エクレーシア》というキリストの民の共同体を形成するために、賜物として(その個人の価値によってではなく神の恩恵によって)与えられているものであることを自覚して、謙虚に、秩序に従って用いる必要があります。そして、その秩序について、パウロは人体の比喩を用い、各人は「キリストの体」としての《エクレーシア》の一つの肢体として、その役割を果たすように求めています(コリントT一二・一二〜二七)。その上で、神は《エクレーシア》の形成に必要な役割を担う者を立てられたとして、「第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者など」という、神の恵みが立てた共同体の秩序を語っています(コリントT一二・二八)。
 共同体の秩序も、パウロの時代の《エクレーシア》においては、御霊の賜物による役割分担であり、制度的な管理体制ではありません。「監督たちと奉仕者たち」という管理者を思わせる用語が一カ所だけに出てきますが(フィリピ一・一)、両者は複数形で厳密に区別されていません。指導的な立場で集会活動に奉仕する人たちが「奉仕者」と呼ばれているところもあります(ローマ一六・一)。集会での役職も、パウロの時代にはまだ流動的であったと見られます。
 集会に集まるときに行われる礼拝行事については、定まった形式で行われたことを示唆する文言はなく、「あなたたちは集まったとき、それぞれ賛歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが・・・・」と、集会が聖霊の働きによって導かれていることを描いています(コリントT一四・二六)。集会の主要な行事は「主の晩餐」と呼ばれる食卓の交わりでしたが、この交わりを愛と秩序に従って行うべきことを、パウロは懇切に指導しています(コリントT一一・一七〜三四)。
 集会に集まる信者はバプテスマによって信仰を言い表している者であることは当然のこととして前提されていますが、それが授けた人への帰属を意味するのではないことを示すために、バプテスマという儀礼を相対化するような発言があることが注目されます(コリントT一・一〇〜一七)。
 御霊の賜物は様々であり、働きも様々ですが、《エクレーシア》という共同体を形成するのに不可欠の「最高の道」は愛《アガペー》です。人間の生まれながらの本性からは出てこない、御霊の命の質としての愛です。その愛が働く姿を、パウロはコリント第一書簡の《カリスマ》を扱う部分の真ん中で歌いあげます(コリントT一三章)。キリストにあってこの世から召し出された者たちの共同体は、この世にはない愛《アガペー》によって形成される共同体として、その愛の源である父なる神を指し示します。それがこの世における《エクレーシア》の存在理由です。
 《エクレーシア》はこの世とは異なる原理で形成される共同体であり、この世では苦難の道を歩みます。《エクレーシア》は、自分たちの国籍が天にあることを知っており(フィリピ三・二〇)、この世では旅人、または寄留者として歩みます。この「旅人、寄留者」という自覚は、パウロ以後に強くなり、明確に語り出されるようになります。パウロにおいては、(先に見たように)キリストの突然の来臨を待っているのではなく、すでに自分たちの内に始まっている御霊の事態が完全な形で栄光の中に現れる時の到来を、身を乗り出して待っているのです(ローマ八・一八〜二五)。