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第五章 福音告知におけるイエス伝承




第一節 パレスチナ・シリアのユダヤ教内キリスト信仰の消長

はじめに

 前章までの四章で、エルサレムから始まった福音告知の活動が東地中海各地に及んだ最初期前期の福音の史的展開をたどりました。本書が取り扱う福音活動の最初期は、七〇年のエルサレム陥落をクライマックスとするユダヤ戦争によって前期と後期に別れますが、その前期が前章で終わり、本章から後期に入ります。それでまず、時代を分けることになったユダヤ戦争の状況とその意義を見た上で、最初に福音の揺籃の地となったパレスチナとシリアにおけるその後の福音の進展の様子を見ることにします。
 これまでに見てきたように、前期においてはエルサレム共同体が担うユダヤ教内キリスト信仰の福音活動とアンティオキア共同体とパウロが担い手となるユダヤ教の外への福音活動という二つの主要潮流の関わりあいが主題でした。しかし後期には、ユダヤ教内キリスト信仰の担い手であるエルサレム共同体が歴史の舞台から退場することになり、福音の史的展開は様相が変わります。本章以下でその変化を追うことになります。

T ユダヤ戦争前後の激動

「熱心の時代」

 福音が誕生し、その揺籃の地となった一世紀のパレスチナの状況を概観し、その時代の特質を標題的に表現すると、それは「熱心の時代」と言えるでしょう。その時代のパレスチナのユダヤ教は、「律法への熱心」を合い言葉にして、各派がユダヤ教律法の実行とユダヤ教理念の実現を目指して、その熱意を競い合った時代でした。そして、その時代精神をもっとも先鋭的に表現するのは「熱心党」《ゼーロータイ》と呼ばれるユダヤ教徒たちの運動でした。
 前四年にヘロデ大王が没した後、彼の王国は三人の息子に分割されて受け継がれました。その中でユダヤとサマリアを受け継いだアルケラオスは、その暴政を皇帝に告発され、(紀元後)六年に罷免されます。その結果、ユダヤはローマが直接統治する属州となり、シリアの総督キリニウスが直接税査定のための人口調査(住民登録)を行います。この時、ガリラヤのユダがファリサイ派のツァドクと共に、異教のローマ皇帝に税を納めるのは、イスラエルの神ヤハウェの主権を侵害し、第一戒への背反だとして納税を拒否するように呼びかけ、抵抗運動を組織します。ユダの呼びかけに従った人たちは「熱心党」と呼ばれ、彼らはローマの支配から脱して神だけが支配されるユダヤ教団を確立するためには武力を用いることも辞さず、ローマの支配に協力するユダヤ人は真のユダヤ教徒ではないとして、大祭司も含めて暗殺の対象とします。彼が始めたこの反ローマ運動は二人の息子に受け継がれ、さらに孫のメナヘムは対ローマ戦争(第一次ユダヤ戦争)の指導者の一人となります。

ガリラヤのユダについては、拙著『ルカ福音書講解T』123頁の「ガリラヤ人の抵抗運動」の項を、キリニウスの人口調査については同書128頁の注記を参照してください。

 ガリラヤのユダは、たんにローマからの独立を目指す革命運動の指導者ではなく、激しい宗教的熱意から当時のユダヤ教指導層に対して異議を申し立てた新しい宗教運動の指導者です。ユダはもともとファリサイ派の人であり、彼の運動はファリサイ派の中の過激派と言えるでしょう。ヨセフスは彼の運動を、サドカイ派、ファリサイ派、エッセネ派に並ぶ第四の宗派としています。
 一世紀のユダヤ教には、終末待望の炎が燃え広がっていました。この時期の「律法への熱心」も、時代の終末待望の熱気と一体です。今イスラエルは異教徒の支配下で苦しんでいるが、神はやがて約束されたメシアを送ってイスラエルを救い、世界を裁いて神の支配を確立されるという期待が高まり、その終わりの時が近いとして、その到来を熱心に待ち望んでいました。そして、神が世界を裁きイスラエルに栄光をお与えになるとき、その栄光にあずかるのはすべてのユダヤ人ではなく、ユダヤ人の中で真に律法を守る選ばれた者だけであるとして、自分たちこそ律法を守る真のイスラエルであるというセクト的な主張が盛んになっていました。武力を用いてでも律法の理念を実現しようとする「熱心党」の律法への熱意も、この終末待望の一面です。この終末待望からする律法順守の熱意は、エッセネ派のものとされる「死海文書」にも見られます。

メシア運動の頻発

 ガリラヤのユダから始まる「熱心党」《ゼーロータイ》の運動は、四四年のヘロデ・アグリッパ一世の死を転機として一段と拡大し、パレスチナ全土を巻き込む様相を見せるようになります。ヘロデ・アグリッパ一世は、ヘロデ大王の孫で、ローマ皇帝ガイウス(在位37〜41年)と次のクラウディウス(在位41〜54年)と親しく、ヘロデ大王の三人の息子が受け継いでいた領土を次々に与えられ、四一年にはユダヤ、サマリア、ガリラヤ、ペレア、北トランス・ヨルダンと、ほぼヘロデ大王の時代と同じ領土を支配するようになっていました。彼はまた祖母マリアンメを通してハスモン家の血を引く王として、ユダヤ教徒に人気があり、彼も民心を引き寄せるために、律法に忠実なユダヤ教徒として振る舞います。彼がエルサレム共同体を弾圧したのも、このような親ユダヤ教的な姿勢の表現でしょう(一二・一〜四)。
 このヘロデ・アグリッパ一世が四四年に急死したとき、ローマは、ほとんどパレスチナ全土を含むようになっていた彼の領地を再びローマ総督直轄の属州とします。六年にユダヤがローマ総督直轄の属州とされたとき、ユダヤでユダの反ローマ運動が始まったように、このときの属州化は熱心党の反ローマ抵抗運動をパレスチナ全地に拡大し、激しさを一段と増し、民衆の多くをこの運動に巻き込むことになり、熱心党は全国民をこの運動に動員するという目標に近づきます。この時期に熱心党の運動を指導したのは、ガリラヤのユダの二人の息子シモンとヤコブでした。ローマ総督はこの二人の息子を捕らえ、磔刑に処して殺します。

四四年のヘロデ・アグリッパ一世の死が熱心党運動の転機となって運動は新しい様相を示すようになり、その運動が前期と後期に分けられることについては、M・ヘンゲル『ゼーロータイ ― 紀元後一世紀のユダヤ教「熱心党」』(大庭昭博訳・新地書房)の第六章「ゼーロータイ運動の展開」を参照してください。

 この四四年以降の時期には、このような終末信仰に燃えるセクト的運動の指導者が、自分をメシアであると主張する場合が多くなります。ガリラヤのユダが自分をメシアとしたかどうかは確認できませんが、後の時代のラビ伝承にはユダと孫のメナヘムをメシア待望の中で扱うものがあるということです。使徒言行録(五・三六)に言及されている「テウダ」もこの時期のメシア僭称者です。彼は自分が命じればヨルダン川は二つに割れて通ることができると唱え、民衆に出エジプトの再現を約束するメシア運動を率いた預言者です。 また、総督フェリクスの時代(52〜59年)には、エジプト出身の預言者がエルサレムの城壁が崩れるのを見せると唱えて、民衆をオリーヴ山に集めたことがあり、パウロがエルサレムで逮捕されたとき、その自称メシアと間違えられています(二一・三八)。その他、名は伝えられていない多くの宗教指導者がメシア的な主張を掲げて、民衆を反ローマ運動に糾合するようになります。
 四四年以降に着任した歴代のローマ総督は、頻発する反ローマのメシア運動の鎮圧に手を焼きます。この時代の雰囲気は、この時代の終末待望を反映していると見られる「マルコの小黙示録」(マルコ福音書一三章)に書きとどめられています。

 「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである」。(マルコ一三・二一〜二二)

 このように、一世紀初頭から始まったガリラヤのユダの「熱心党」の反ローマの運動は、過激な武力闘争の様相を強め、歴代のローマ総督とローマの権力によって地位を維持しているヘロデ家の王(領主)たちや大祭司の弾圧の対象となります。ヘロデ・アンティパスが洗礼者ヨハネを逮捕して処刑したのも、大祭司がイエスを総督ピラトに引き渡したのも、その運動が危険なメシア運動になることを恐れてのことでした(ヨハネ一一・四五〜五三)。イエスの十字架刑も、ローマ側から見れば、この時代の多くのメシアを僭称する叛徒の処刑の一例に過ぎませんでした。そのことはイエスの十字架につけられた「ユダヤ人の王」という罪状書きが示しています。ヘロデ・アグリッパ王がゼベダイの子のヤコブを処刑したのも(一二・一)、このような弾圧の一例でしょう。

ユダヤ戦争の勃発

 ガリラヤのユダの運動以来、パレスチナのユダヤ人には反ローマ感情が底流として流れていましたが、四四年に全パレスチナがローマ総督の直接の統治下に入ってからは、ユダヤ人の反ローマ感情はいっそう高揚し、パレスチナの内外に騒乱が続きます。「律法への熱心」を合い言葉にして、ユダヤ教による民族のアイデンティティーを追求するユダヤ人に対して、この時期の歴代ローマ総督はその民族感情を逆撫でするような行動を繰り返し、民衆の反ローマ感情の火に油を注ぎます。すでにイエスの時代の総督ピラトは、皇帝の肖像が描かれている軍旗をエルサレムに持ち込み、貨幣に異教のシンボルを刻むなど、偶像礼拝を忌み嫌うユダヤ人の宗教感情を逆撫でするなどしていましたが、この時期の総督たちも同じような行動でユダヤ人の宗教感情を刺激します。
 この時期より少し前ですが、皇帝カリグラ(在位37〜41年)は支配下にある諸民族の神殿で自分が神として崇められることを要求し、エルサレム神殿にも自分の立像を建立することを命じました。この命令は、ユダヤ人の命がけの抵抗とカリグラの暗殺で阻止されましたが、この事件はダニエル書(一一・三一)の預言を思い起こさせ、ユダヤ人の黙示録的な終末待望を一段と高揚させ、福音書の終末待望の表現の中にも入り込んでいます(マルコ一三・一四、マタイ二四・一五)。
 このようなユダヤ人の民族感情の高まりは、異邦人に対する対抗意識とか蔑視となり、周囲の異邦人との間に紛争を引き起こすことになります。その紛争にローマ軍が介入し、情勢を不穏なものにします。たとえば、総督フェリクス(52〜59年)は、カイサリアでユダヤ系住民とシリア系住民の間に対立が生じ、それが騒乱へと発展したとき、軍隊を送り、多数のユダヤ人を殺します。このような事件が各地に起こり、ユダヤ人の反ローマ感情は爆発の寸前に達します。
 そのような情勢の中で、六六年に再びカイサリアでユダヤ人とギリシア人との間に会堂を巡る些細な紛争から騒乱事件が起こります(五月)。時の総督フロルスは、ユダヤ人から賄賂を受け取りながら紛争を放置し、神殿宝庫から金銭を強奪したためエルサレムに暴動が起こります。フロルスは軍隊を送り、町を略奪し、多数のユダヤ人を磔刑にします。この事態に直面してエルサレムは、ローマとの戦争を避けようとする大祭司や貴族らの有力者たちと、武力によってローマ支配からの解放を求める勢力に分裂します。
 その頃ガリラヤのユダの孫であるメナヘムが手兵を率いて死海西岸のマサダの要塞を攻撃し、ローマ守備軍を全滅させ、略奪した武器で武装した反乱軍を率いてエルサレムに入り、メシアのように振る舞います。事ここに至り、神殿警備隊長エレアザルに率いられた若い祭司階級も抗戦派に加わり、ローマ皇帝のために犠牲を献げる祭儀を中止して、対ローマの宣言を発します。ところが、エレアザルは父であり元大祭司であるアナニアスが殺されたので、メナヘムを襲い処刑します。以後、指導層は主導権をめぐる凄惨な内ゲバを繰り返し、エルサレムは内戦状態に陥り、その滅亡を決定的にします。
 総督フロルスは軍団を派遣してエルサレムを包囲し、攻略を試みますが失敗し、撤退の途中、追跡するユダヤ人によって大敗を喫します(六六年十月)。この諮の勝利によってユダヤ人の意気は大いに上がり、エルサレムでは抗戦派が主流となり、大祭司や有力者たちも戦争準備に入ります。

エルサレム陥落と神殿の崩壊

 ローマにとってパレスチナは、東方の宿敵パルティアと対峙するために重要な位置を占める地域であり、これを失うことはできません。事態を重視した皇帝ネロは、翌年(六七年)の春、将軍ヴェスパシアヌスを指揮官とする軍団をパレスチナに派遣します。ヴェスパシアヌスはガリラヤを攻略し、その年末までにほぼガリラヤ全土を制圧します。このガリラヤ戦役で、ヨタパタの砦の守備隊長に任ぜられていた祭司ヨセフスは捕虜となりますが、ヴェスパシアヌスがやがて皇帝になると予言して気に入られ、戦後は実際に皇帝になったヴェスパシアヌスとその後継者の庇護の下で執筆活動をし、「ユダヤ戦記」を著してこの戦争の経過を詳しく伝えます。現在われわれがこの戦争について知りうるのは、おもにこのヨセフスの著作によってです。
 六八年六月にネロが死に、ヴェスパシアヌスはエルサレムへの進攻を中断してローマの様子をうかがいます。この好機にもエルサレムの指導層は内戦を繰り返し、戦争難民で溢れるエルサレムは混乱を極めます。六九年の九月にヴェスパシアヌスは攻撃を再開し、エルサレム以外の全土をほぼ制圧します。東方の軍団から皇帝に推挙されたヴェスパシアヌスは、この年の末にはローマでその支配を確立します。
 皇帝となったヴェスパシアヌスは、ユダヤ戦争の指揮を息子のティトゥスに委ねます。七〇年の春、ティトゥスは四軍団を率いてエルサレムに到着し包囲戦を開始します。包囲されたエルサレムは食料が尽き、親が子の肉を食べるという凄惨な飢餓状態に陥ります。八月にはローマ軍が市内に突入し、神殿が炎上します。そして、九月には全市が陥落します。
 神殿が炎上し、エルサレムが陥落しましたが、それで戦争が終わったのではありません。反乱軍はなお死海西岸のマサダ要塞に籠城して抵抗を続けます。これはヘロデ大王が築いた堅固な山岳要塞で、さすがのローマ軍も攻めあぐみますが、七三年についに陥落し、籠城した女性を含むユダヤ人全員が自決してこの戦争が終結します。
 このユダヤ戦争は六六年に勃発して七三年に終結した戦争ですが、七〇年のエルサレム陥落と神殿崩壊がユダヤ教団にとってはもちろん、福音の展開史にとっても決定的な意義を担う出来事ですので、七〇年を時代を区切る年として、「七〇年以前」「七〇年以後」という言い方がされるようになります。
 なお、死海西岸、マサダの少し北にあるクムランの山地に共同生活を送っていたエッセネ派の建造物も、六八年にローマ軍によって破壊されます。エッセネ派も対ローマ戦争に参戦していたからです。そのさい、共同体の人たちは自分たちが用いていた文書類を壺に入れて周囲の洞窟に隠します。その文書群が二十世紀の半ばに、偶然の出来事によって発見されます。その文書群は「死海文書」と呼ばれ、一世紀のユダヤ教の実情を伝える貴重な資料として脚光を浴びることになります。

神殿崩壊後のユダヤ教

 バビロン捕囚後に再建されたエルサレム神殿は、ユダヤ教徒がイスラエルの神ヤハウェを礼拝することができる唯一の場所として、ユダヤ教の中心でした。貧弱であったその神殿(第二神殿)を、建築マニアのヘロデ大王が改築して、「世界の七つの驚異」の一つに数えられるほどの壮麗な神殿にします。その工事は前二〇年に始まり、六四年に完成します。ところが、完成後わずか六年で焼失することになります。その神殿を失ったユダヤ教団がその後どうなったのか、この時点以後の福音の展開と関わる面がありますので、ごく簡単に見ておきましょう。
 神殿の崩壊によって、神殿を権力の基盤としていたサドカイ派祭司階級は没落します。ユダヤ戦争に参加して本拠地クムランをローマ軍によって破壊されたエッセネ派も勢力を失います。もちろんユダヤ戦争を主導した武闘派の熱心党は壊滅します。その結果、エルサレム神殿破壊後のユダヤ教を担ったのは、生き残ったファリサイ派のラビたちだけとなります。もともと神殿の外で清さを実現しようとした非祭司階級の運動であったファリサイ派は、神殿なき時代のユダヤ教を担うことができる体質があったと言えます。
 包囲されたエルサレムから辛うじて脱出した高名なラビ、ヨハナン・ベン・ザッカイ(ヒレルの高弟)を中心とするファリサイ派のラビたちは、海沿いの地方の小都市ヤムニアにサンヘドリン(最高法院)の権限を受け継ぐ「ベト・ディン」(法院)を創設し、そこから「決定」を出して、ヘレニズム世界の各地にある会堂を指導するという形で、神殿祭儀なきユダヤ教を再建し維持します。こうして、エルサレム神殿破壊後のユダヤ教はファリサイ派ユダヤ教となります。
 この時代のファリサイ派ユダヤ教は、過激な終末待望とメシア主義がユダヤ戦争の悲劇を招いたとして、黙示思想に反対し、律法の厳格な順守を求めるようになります。そしてイエスを信じるユダヤ人を、黙示思想的なメシア主義の危険分子として、また異邦人と交わり律法を汚している者として弾圧し、「ナザレ派の異端」として会堂から追放するようになります。この時期には、イエスを信じるユダヤ人はもはやユダヤ教会堂の一員として、合法宗教であるユダヤ教の庇(ひさし)の下にいることはできなくなります。

この「会堂からの追放」処分について詳しくは、拙著『対話編・永遠の命 ― ヨハネ福音書講解T』357頁の「会堂からの追放決議」の項を参照してください。

 ローマはその支配に対する反乱とか騒乱には厳しく対応し、その強大な武力によって徹底的に鎮圧しますが、被支配民族の宗教を尊重するという基本的政策を変えたわけではありません。戦後も合法宗教としてのユダヤ教の存続は認めています。ただ、皇帝ヴェスパシアヌスは戦後「ユダヤ金庫」と呼ばれるユダヤ人税を創設し、帝国内でユダヤ教律法を守ってユダヤ教徒として生活する者は、これまでエルサレム神殿に納めていた二ドラクマの神殿税を、ローマの守護神ユピテル・カピトリヌスに納める義務を課しました。これはユダヤ教徒には屈辱的な税ですが、この税さえ納めればユダヤ教生活を保証されるという面もあったわけです。
 この税は申告制であったようで、キリスト信仰共同体で異邦人信者は申告しませんし、ユダヤ人信者も、会堂からの追放決議もあることですし、申告しないようになります。そうすると、異教祭儀に加わらない一神教の民の中でユダヤ教徒でない者がはっきりと区別されるようになります。こうしてこの時期には、神々を拝む異教徒ではないがユダヤ教徒でもない民が《クリスティアノイ》(キリスト教徒)として、外の人たちからも区別して扱われるようになります。
 ルカによると、イエスをキリストと信じる者が《クリスティアノイ》と呼ばれるようになったのはアンティオキアから始まったとされていますが(一一・二六)、実際にローマ帝国内で広くこの呼称が現れるのはかなり後期で、新約聖書の文書の中でこの用語が出てくるのは、ルカ文書以外では最後期のペトロ第一書簡(四・一六)の一箇所だけです。

「ユダヤ金庫」については、保坂高殿『ローマ帝政初期のユダヤ・キリスト教迫害』(教文館)285頁以下を参照してください。

U エルサレム共同体の命運

パウロの最後の訪問時のエルサレム

 ヘロデ・アグリッパ一世の弾圧によってゼベダイの子のヤコブが殺され、ペトロが(おそらく他の使徒たちも)エルサレムを去って、主の兄弟のヤコブがエルサレム共同体を取り仕切るようになった次第と、その後のエルサレム共同体の歩みについては、先に述べました(前著『福音の史的展開T』258頁以下の項目VとW)。そこで見たように、主の兄弟ヤコブに統率されるエルサレム共同体は、四四年のヘロデ・アグリッパの死後ますます激化する反ローマの民族主義の高揚の時代において、その存立を脅かされる困難な状況に直面します。その時期のエルサレム共同体の状況を垣間見させる記事が使徒言行録にありますので、それを見ておきます。
 五六年にパウロが異邦人諸集会からの献金を携えてエルサレムに来たとき、ヤコブは律法への熱心が燃えているパレスチナの状況を説明し、パウロに清めの儀式に参加し、律法を尊重していることを示すように勧告します(二一・一七〜二六)。エルサレム共同体は異邦人諸集会からの献金を必要としながら、異邦人とのつながりを周囲のユダヤ教徒から疑われることを恐れ、またパウロの律法に対する姿勢を批判する長老たちの反対から、素直に献金を受け入れることができず、パウロに律法尊重の姿勢を公に示すことを求めたと推察されます。この恐れがあることは、パウロ自身も理解し、献金が受け入れられるかどうかについて不安を感じていました(ローマ一五・三一)。
 パウロがヤコブの勧告に従って神殿に入ったとき、パウロの批判者がパウロが異邦人を神殿に入れたと言い立て、騒乱が起こります。この騒乱事件によってパウロはローマ軍に逮捕され、総督の裁判を受ける身になります。この事件を報じる使徒言行録(二一・二七以下)の記事にも、当時の「律法への熱心」に燃えるエルサレムの熱気が伝わってきます。そしてこの事件は、エルサレム共同体に対する周囲のユダヤ教徒の疑念と圧力を一段と強くする結果になったことでしょう。
 逮捕されたパウロは、カイサリアにいる総督のもとに送られる前に、エルサレムの最高法院で取り調べられ弁明しています(二二・三〇以下)。ということは、この騒乱事件が最高法院というユダヤ教の最高機関によって審理され、この事件を起こしたエルサレム共同体がユダヤ教社会の最高権力からさらに一段と強く警戒される結果となったことを意味しています。
 モーセ律法を冒?しているとしてパウロを強く恨んでいる律法熱心なユダヤ教徒の一団が、パウロを暗殺する陰謀を企みます(二三・一二〜二二)。このような暗殺計画は、当時の「熱心の時代」のエルサレムでは珍しくありませんでした。熱心党の一部の人たちは、異教のローマの支配に協力して律法を汚す者は、大祭司であれ暗殺の対象として、懐に短剣(シカリ)を忍ばせて狙っていたのです。彼らは「シカリ派」と呼ばれていました。
 暗殺計画を察知したローマ軍は、厳重な警備をつけてパウロをカイサリアの総督府に護送します。パウロはカイサリアで総督フェリクスの裁判を受けることになります。ところが総督フェリクスは裁判を開始した後、二年も法廷を開かず、パウロを監禁したまま放置します(二三・二三〜二四・二七)。フェリクスの後任として赴任してきた次の総督フェストゥスは、着任後直ちにパウロの裁判を開始します。その裁判でパウロは皇帝への上告を求め、認められてローマへ護送されることになります(二五・一以下)。この総督フェストゥスの任期は五九年から六二年とされています。実はこの総督フェストゥスが任期中の六二年に急死したとき事件が起こります。後任のアルビノスがローマからアレクサンドリア経由でカイサリアに着任するまでの僅かの期間、総督がいない状況が生じます。この空白期間を利用して、時の大祭司アナノスがヤコブを最高法院に引き出し、裁判にかけ石打の刑で殺すという事件が起こります。

主の兄弟ヤコブの殉教

 この事件についてはヨセフスが次のように伝えています。このヨセフスの記事は、イエスに関する記事に見られるような後の時代のキリスト教徒による改変や編集の跡がなく、ほぼ歴史的事実として信頼できます。

カイサルはフェストゥスの死を知ると、アルビノスを総督としてユダヤに派遣した。アグリッパ王はヨセポスから大祭司職を取り上げ、その後任にアナノスの子で、父と同名のアナノスを選んだ。・・・・・
さて、大祭司職に任ぜられた前述の若い方のアナノスは性急な性格で、かつ驚くほど大胆であった。彼はサドカイ派の宗派に属していたが、すでに述べたように、この人たちは裁きという点では、他のユダヤ人よりも冷酷無情なのが通例であった。加えて、アナノスの性格が性格であった。彼はフェストスが死に後任のアルビノスがまだ赴任の途上にあるこの時こそ絶好の機会と考えた。そこで彼はスュネドリオン(最高法院)の裁判官たちを招集した。そして彼はキリストと呼ばれたイエスの兄弟ヤコブとその他の人々をそこへ引き出し、彼らを律法を犯したかどで訴え、石打ちの刑にされるべきであるとして引き渡した。
市中でもっとも公正な精神の持ち主とされている人たちや、律法の遵守に厳格な人たちは、この事件に立腹した。そこで彼らはアグリッパ王にたいしてひそかに使いを出して、今後二度とこのようなことを行わないように命令してほしいと願い出た。・・・・
(ヨセフス『ユダヤ古代誌』 秦剛平訳 二〇・一九九〜二〇一、一部人名を新共同訳聖書に準じて変更)

 この記事では、次の諸点が注目されます。
 ヤコブは「キリストと呼ばれたイエスの兄弟」と呼ばれています。この時代にエルサレムにイエスをメシア・キリストとする信仰運動があり、イエスの兄弟であるヤコブがその指導者として知られていたことが、ヨセフスのような同時代の歴史家によって証言されていることになります。
 ヤコブの処刑はユダヤ教式の石打の刑でした。イエスの場合は、最高法院に死刑を執行する権限がなかったので、ローマ総督に訴え出て、ローマ式の十字架刑によって処刑されましたが、ヤコブの場合はローマ総督がいない時を利用したのですから、最高法院自身が判決し、石打の刑で処刑しています。
 この処刑に対して、エルサレムの「律法の遵守に厳格な人たち」が憤慨して、アグリッパ王に訴え、またアレクサンドリアから赴任途上のアルビノスに使いを出してアナノスの越権行為を訴え、アナノスは大祭司職を三ヶ月で解任されています(先のヨセフスの引用文の続き)。この事実は、ヤコブがエルサレム共同体の外の「律法の遵守に厳格な人たち」からも義人として尊敬されていたことを示しています。
 大祭司たちの本当の動機は、自分たちの支配体制にとって危険なヤコブを取り除きたかったのでしょうが、最高法院の法廷では「律法を犯したかどで」死刑を言い渡します。おそらく民を惑わす偽りの教師、異端の扇動者として裁いたのでしょう。
 ヘゲシッポス(二世紀半ばのパレスチナのユダヤ人キリスト者の著述家)が、ヤコブの殉教の様子を詳しく伝えています(エウセビオス『教会史』第二巻二三・八〜一八)。それによると、律法学者やファリサイ派の人たちは、義人ヤコブがエルサレムの民衆から尊敬されているのを知っているので、民衆にイエスをメシアと信じて誤りに陥らないよう説得することを求めて、ヤコブを神殿の高い所に連れて行き、そこから語らせます。ところが、ヤコブは「人の子は天において大いなる力の右に座し、天の雲に乗って来られる」と叫んだので、彼らはヤコブを突き落とし、石を投げつけますが、ヤコブがまだ死なず、「父よ、彼らを赦したまえ。彼らはしていることが分からないのです」と祈ります。ところが、布さらし職人の一人が仕事に使う棍棒でヤコブの頭を打ち、死に至らしめます。ヘゲシッポスは最後にこう書いています、「人々は彼を神殿の傍らのその場所に葬った。彼の墓石(ギリシア語原語では《ステーレー》)は今も神殿の傍らにある」。
 エウセビオスはこのようにヘゲシッポスを引用してヤコブの殉教を描いた後に、「ユダヤ人の中でさえ知恵ある人たちは、これ(ヤコブの殺害)こそヤコブの殉教の直後に起こったエルサレムの包囲攻撃の原因であると考えた」と書いています(『教会史』第二巻二三・一九)。

最近ヤコブの骨箱と見られる骨箱が発見されて大きな話題になっています。前面に「ヨセフの子、イエスの兄弟ヤコブ」というアラム語の名を刻んだ骨箱が発見されたとして、聖書考古学界だけでなく欧米では一般社会でも大きく取り上げられ、その真贋論争が燃え上がりました(二〇〇二年前後)。それはエルサレム近郊の骨董市場から出たものであるので、専門家からは偽物ではないかと疑われることになりますが、現代の一流の考古学者や古代文字の専門家で本物であることを認める人も多くいます。エウセビオスが「人々は彼を神殿の傍らのその場所に葬った。彼の墓石《ステーレー》は今も神殿の傍らにある」と伝えていますが、その《ステーレー》は、当時のユダヤ教徒の埋葬の時に用いられた「骨箱」を指すのではないかと見られます。ヤコブの殉教と骨箱について詳しくは、拙著『パウロ以後のキリストの福音』449頁の「ヤコブの殉教」と452頁の「ヤコブの骨箱」の項を参照してください。

ヤコブに関する伝承

 イエスの復活からエルサレム神殿の崩壊までという最初期のキリストの民の歴史においてもっとも重要な要の地位にあり、最後は殉教した「主の兄弟ヤコブ」についての記憶と尊敬は、その後の数百年にわたって多くの伝承や伝説を生み出すことになります。ここでヤコブに関する伝承と伝説をごく簡単にみておきます。
 ヤコブに関する伝承は、大きく二つのグループに分かれます。一つは正統派の教会に伝えられた伝承です。他の一つは、グノーシス主義諸派の中で形成された伝承です。
 正統派の教会に伝えられた伝承の多くは、これまでにしばしば引用したように、エウセビオスの『教会史』に保存されて伝えられています。その諸伝承はヤコブをエルサレム教会の初代の司教(監督・ビショップ)として、ここに述べたようなヤコブの姿を伝えています。その他に、新約聖書の正典には入れられなかった「外典」とか「偽典」と呼ばれる文書の中に、ヤコブに関する伝承が残されています。たとえば『ヘブル人福音書』には、復活したイエスが最初にヤコブに現れたとする記事があります(断片七)。ヤコブの殉教に関しては、先に引用したヘゲシッポスの他にも『ヤコブの昇天』という断片的に伝えられた文書があり、よく似た物語を伝えています。また、初期のキリスト教会に大きな影響を与えた文書に、ヤコブが書いたとされる『ヤコブ原福音書』があります。「原福音書」とは、正典福音書が記述しているイエスの誕生に先行する物語という意味で、内容はマリアの誕生から神殿での養育、ヨセフとの縁組み、イエスの誕生に至る、マリアを主人公とする物語です。この書によると、マリアは処女のまま聖霊によって妊娠して、ベツレヘム近くの洞窟でイエスを出産しますが、その後も処女のままであり、ヤコブらイエスの兄弟はヨセフの先妻の子とされています。この書では、イエスとヤコブは母が違うだけでなく、父も違うのですから兄弟とは言えなくなります。
 もう一つのグループは、ナグ・ハマディ文書に含まれるグノーシス系の文書です。『トマス福音書』では、去って行かれるイエスに弟子たちがその後のことを尋ねますが、それに対してイエスは「あなたがたは義の人ヤコブのもとに行くであろう」と義人ヤコブの名をあげ、「彼のゆえに天と地が生じたのである」と言っておられます(語録一二)。他に『ヤコブのアポクリュフォン(秘密の教え)』、『ヤコブの黙示録T』、『ヤコブの黙示録U』などがあります。ヤコブによって書かれたとされるこれらのグノーシス主義的傾向の偽名文書では、イエスが義人ヤコブに特別の秘密の啓示を委ねられたとされています。主の兄弟ヤコブの評価は、時代が下がるに従って高くなっていきます。しかも、それはイエス派のユダヤ教徒の伝承においてです。彼らに起源をもつユダヤ教グノーシス主義は、自分たちの信仰思想を、イエス派のユダヤ教徒の最高の指導者である主の兄弟ヤコブに与えられた特別の啓示によって根拠づけようとして、これらの文書を生み出したと見られます。

新約聖書の外典や偽典については、『聖書外典偽典』(教文館)を参照してください。また、ここに上げたナグ・ハマディ文書のヤコブ関連の諸文書は、『ナグ・ハマディ文書』(岩波書店)のVとWに収められています。

ヤコブ書の成立とその意義

 新約聖書にこのヤコブの名で書かれた手紙、「ヤコブ書」があります。この手紙が実際にヤコブによって書かれたとする真正説をとる有力な研究者もいますが、現代では次の理由から、ヤコブの弟子が七〇年以後に、各地に離散しているイエスを信じるユダヤ人に、ヤコブの名を用いて書いたとする見方が一般的です。その理由は、まずヤコブ書はギリシア語で書かれていますが、そのギリシア語はアラム語からの翻訳ではなく、かなり洗練されたギリシア語であるので、アラム語系ユダヤ人のヤコブの著作と考えにくいこと、挨拶などの手紙の形式もギリシア風であること、七十人訳ギリシア語聖書を用いていることがあげられ、さらに宛先が「離散している十二部族の人たち」となっていますが、これはほとんどのユダヤ人信者が離散の民となった七〇年以後の状況にふさわしいと考えられます。成立地としては、アンティオキア、カイサリア、アレクサンドリアなど近接地域が推定されていますが、ローマを推定する説もあります。
 たとえ実際にはヤコブが書いたのではないにせよ、ヤコブ書は、あくまでユダヤ教の枠の中でイエス信仰を進めることを使命としたヤコブの信仰の質をよく表現しており、「ヤコブの手紙は、ギリシア語圏においてエルサレム共同体のユダヤ教内キリスト信仰の伝承が継続していたことの大切な証言である」(H・ケスター)と言えます。
 ここでヤコブ書を詳しく検討することはできませんが、その内容の性格とか特色をまとめておきます。以下の特色は、エルサレム共同体のキリスト信仰の質をよく証言していると見られます。
 第一は、強いユダヤ教的性格です。とくにユダヤ教の知恵文学の影響は明白で、全体がユダヤ教知恵文学の延長上にあることを示しています。逆に、キリスト信仰の面はきわめて希薄で、二カ所(一・一と二・一)だけにある「主イエス・キリスト」の名を除くと、そのままユダヤ教の文書として通用すると指摘する学者もいます。しかし、これはユダヤ教の枠内でキリスト信仰を推し進めるヤコブの立場としては自然な結果です。ヤコブはユダヤ教の知恵文学の伝統を継承する新しい信仰運動の智者として現れています。
 ヤコブ書のキリスト信仰はユダヤ教の枠内にあって、パウロのようにその枠を乗り越えようとする姿勢はありません。しかし、割礼や食事規定や安息日規定の順守によってユダヤ教徒としてのアイデンティティーを死守しようとする姿勢もありません。この点ではマタイの姿勢と通じるものがあります。ヤコブ書もマタイ福音書も、神殿祭儀がなくなった後の成立です。ヤコブ書は、特殊な契約共同体であるイスラエルの中で(かなり後期になるヘレニズム期に)形成された、どの民族にも普遍的に通用する知恵思想によって、異邦人世界に生活するユダヤ教徒のキリスト信仰を健全なものに指導しようとしていると言えます。
 第二の特色は、「語録資料Q」にあるイエスの語録と同じか、よく似た言葉が全編にちりばめられていることです。その結果、「語録資料Q」を用いてユダヤ人向けの福音書を書いたマタイの福音書、とくにその福音書の典型的な箇所である「山上の説教」とよく似た内容になっています。この事実から、ヤコブは共同体を指導するとき、イエスの言葉を根拠として用い、イエスの語録を熱心に伝承したことがうかがわれます。これは、イエス伝承の担い手としてのエルサレム共同体が果たした重要な貢献です。
 第三の特色は、本書は貧しい人たちに対して強い関心を向けていることです。この点は、貧しい者への祝福を宣言する「語録資料Q」と共通していますが、ヤコブ書はさらに貧しい人たちへの具体的な配慮に満ちています。その反対に、富める者たちへの厳しい態度が目立ちます。ヤコブが率いるエルサレム共同体は「貧しい人たち」と呼ばれています(ガラテヤ二・一〇)。ヤコブ書は、この「貧しい人たち」の共同体としてのエルサレム共同体の伝承をよく伝えています。
 第四は、二・一四〜二六に見られるように、パウロの「信仰によって義とされる」という教えを強く意識して書かれているという事実です。ヤコブ書は、パウロの福音に反対しているのではなく、パウロの唱える信仰による義の誤解とか誤用に対して警告しているのですが、このパウロ批判とも受け取られかねない面が本書の特色の一つとなります。このパウロに対する警戒感は、(先に見た)エルサレム共同体のパウロに対する警戒感の証言となっています。
 第五に、ヤコブ書はエルサレム共同体の終末待望の証言です。「主イエス・キリスト」について語るところは僅かで、十字架や復活は取り上げられていません。その中で「主の来臨《パルーシア》」は明確に語られており(五・七〜八)、エルサレム共同体のキリスト信仰が《パルーシア》のキリストに集中していたことをうかがわせます。先に見たように、ヤコブは殉教のときに「人の子は天において大いなる力の右に座し、天の雲に乗って来られる」と叫んだと伝えられていますが、ステファノの殉教のときの「人の子」告白(使徒七・五六)以来、エルサレム共同体は「人の子」の顕現を待望するユダヤ教黙示思想的な終末待望に生き、その信仰を共観福音書の中に伝えることになります。

ヤコブ書について詳しくは、拙著『パウロ以後のキリストの福音』457頁以下の、第二節「ヤコブ書の成立」、第三節「ヤコブ書略解」、第四節「ヤコブ書の位置と意義」を参照してください。本稿では、それを要約して、エルサレム共同体のキリスト信仰の証言として見ました。

ペレアへの移動

 エルサレム共同体の信者たちは、殉教した主の兄弟ヤコブを葬った後もすぐエルサレムを去ることはありませんでした。少なくとも数年はエルサレムに踏みとどまり、ヤコブの遺骨を骨箱に再埋葬します。ヤコブなき後、エルサレム共同体はクロパの子シメオンを、イエスの従兄弟に当たるという理由で後継の監督職に選びます(エウセビオス『教会史』第三巻一一・一、第四巻二二・四)。ヨハネ福音書一九・二五のクロパはイエスの叔父になるといわれています。最初期のエルサレムのユダヤ人共同体では、イエスの親族であることが監督であるための重要な要件であったことがうかがわれます。
 六〇年代に入ってエルサレムの情勢は緊迫化し、その中で六二年にはヤコブの殉教も起こることになるのですが、その後ローマとの関係はますます険悪化し、ついに六六年にはユダヤ戦争が勃発します。この時期、多くのユダヤ人が戦禍を逃れて国外に脱出します。ユダヤ戦争前後の時期は、戦場となったパレスチナから多くの難民や移民がヘレニズム世界の諸都市に流れ出た激動の時代となります。ヘレニズム世界の諸都市にはすでにディアスポラ(離散)のユダヤ人が多く住み、ユダヤ人の共同体が形成されており、普段から交流も頻繁に行われていたのですから、移住は比較的しやすかったのではないかと考えられます。近くのアンティオキアやアレクサンドリア、さらに遠くのエフェソやローマに至るまで、当時の地中海世界の大都市に戦禍を逃れて移住するユダヤ人が多く、各地のユダヤ人共同体も激動を体験することになります。
 この時期にエルサレム共同体は、食料不足や過激派間の抗争で混乱状態に陥った聖都エルサレムから逃れて、ヨルダン川東岸のペラに脱出します。これは六七年または六八年と見られています。この移住は、共同体の中でなされた預言によっても促されたと見られます。共観福音書に保存されている終末預言の中で次のような預言は、熱心党の指導者が求めるようにエルサレムに籠城するのではなく、エルサレムから脱出することが主の御旨であるとして、この時期になされた預言であると見られます。

 「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら ― 読者は悟れ ― 、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。このことが冬に起こらないように、祈りなさい」。(マルコ一三・一四〜一八)

 こうしてエルサレム共同体はユダヤ戦争の後も存続はするのですが、エルサレム壊滅後の時代には、主の兄弟ヤコブも、ペトロをはじめとする使徒たちもいなくなり、パレスチナの片隅にある小さな共同体は、もはや全地のキリストの民の中核としての地位を保てなくなります。エルサレム神殿の崩壊は、エルサレム神殿を唯一の礼拝の場所としてきたユダヤ教にとって、天地が崩れるほどの衝撃的な出来事でしたが、福音進展の歴史にとっても時代を画する重要な意義をもつ出来事となりました。それまでの時代は、主の兄弟ヤコブが代表するユダヤ人のエルサレム共同体が福音活動の中核をなし、イエスをメシアと信じて救われたユダヤ人の共同体に、キリストを信じる異邦の諸民族が参与するという形で神の救済史が完成すると考えられていました。パウロもそう考えています(ローマ書九〜一一章)。ところが神殿の崩壊はイエスを拒否した不信のイスラエルに対する神の審判と理解され、七〇年以後はユダヤ人共同体は福音の表舞台から退場し、異邦諸国民の共同体が救済史を担う時代が始まると理解されるようになります。「異邦人の時代」(ルカ二一・二四)の到来です。次章(第六章)の各節で、七〇年以後では異邦人世界で進展した福音の提示がかなり変わってきていることを見ることになりますが、本節では七〇年以後におけるユダヤ教内のキリスト信仰の消長をたどっておきます。

エビオン派

 ユダヤ戦争の戦禍を避けてエルサレム共同体が移住したペラは、デカポリス地方の十都市の一つで、ガリラヤ湖に近いヨルダン川東岸にあります(そのあたりの西岸にはスキトポリスがあります)。この共同体のその後の成り行きは分かりません。ただ二世紀の教父エイレナイオスの『異端論駁』(T二六・二)に、「エビオン派」と呼ばれる、ユダヤ教律法に固執する異端的分派があることが報告されており、これがペラに移住したエルサレム共同体のその後の姿ではないかと見られています。エビオン派という呼称が直接ペラに移住したエルサレム共同体を指すのでなくても、エイレナイオスやその後の教父たちがエビオン派について記述していることは、ペラのエルサレム共同体が代表しているパレスチナにおけるユダヤ教内キリスト信仰の質をよく表現しています。
 エイレナイオスがギリシア語で《エビオナイオイ》と呼んでいる名称は、ヘブライ語の《エブオニーム》(貧しい者たち)から来ていますが、この「貧しい者たち」という呼び方は、最初期のエルサレム共同体の自称であったと見られます。最初期のエルサレム共同体が当時のエッセネ派から大きな影響を受けていたことは先に見ましたが、エッセネ派のクムラン共同体は自分たちを「貧しい者たちの会衆」と呼んでいました。もともと「貧しい者たち」というのは、詩編などで神に縋るほかに拠り所のない心貧しい人たちを指す用語であり、イエスもご自分のもとに集まる人たちを「貧しい者たち」と呼んで祝福しておられました。エルサレム共同体がこの呼称を用いるのは自然であり、パウロもエルサレム共同体のことを「貧しい者たち」と呼んでいます(ガラテヤ二・一〇、ローマ一五・二六)。
 エイレナイオスをはじめ彼以後の教父たちは「エビオン派」を、割礼を含むユダヤ教律法の順守にこだわり、パウロを律法からの逸脱者として批判してパウロ書簡を拒否、マタイ福音書だけを用い、処女降誕を否定する異端的な分派だとしています。七〇年以後の状況で、異邦人信者が増え、異邦人共同体がキリスト信仰共同体の主流を占めるようになり、ユダヤ人信者はユダヤ教会堂からも排除されるようになって、ユダヤ人キリスト者は傍流に追いやられて孤立し、そのユダヤ教内キリスト信仰は、主流の異邦人共同体から異端視されるようになります。四世紀にエピファニウスやヒエロニムスなどが異端の分派として記述した後には言及されることはなく、エビオン派は歴史の舞台から消え去ります。

エッセネ派からの影響については、拙著『パウロによるキリストの福音T』113頁の「エルサレム教団への献金」の項を、パウロにおける「貧しい者たち」の呼称については、拙著『パウロによる福音書 ― ローマ書講解U』271頁の注記を参照してください。
教父によるエビオン派への言及については、水垣・小高編『キリスト論論争史』(日本キリスト教団出版局)66頁の「ユダヤ的キリスト教」(水垣渉)の項を参照してください。

V パレスチナ・シリアにおける進展

巡回伝道者の働き

 先に(前著『福音の史的展開T』278頁以下の「X パレスチナ・ユダヤ人のキリスト信仰」の項で)、七〇年以前のパレスチナにおけるイエスをメシア・キリストと信じるユダヤ人の信仰運動を概観しました。この運動の中心的な担い手はやはりエルサレム共同体ですが、この運動はエルサレムに止まらず、ユダヤ、サマリア、ガリラヤから北に向かってシリアに及んでいきます。南のエジプトにも伝わっていきますが、初期については資料が乏しく、確実なことは分かりません。南に向かった流れは後で見ることにして、まず北に向かった運動について見ていきます。
 イエスの弟子であった「使徒たち」は、生前のイエスから教えられていたように(マルコ六・七〜一三)、当初から町や村を巡り歩いてイエスにおける「神の国」の到来を告げ知らせたことでしょう。とくに四三年のヘロデ・アグリッパ一世による弾圧でエルサレムを去るようになってからは、各地に散って行き、イエス・キリストを告げ知らせる働きを進めたと推察されます。彼らはアラム語系ユダヤ人ですから、アラム語が用いられているパレスチナ・シリア方面に向かったことでしょう。彼らによってイエスの働きや言葉が伝えられ、その運動の中でイエス伝承が形成されていきます。
 この地域の福音活動を担ったのは彼らだけでなく、御霊によって預言の賜物をうけた「預言者たち」も各地を巡回して、イエスの名によって病人をいやし、伝えられたイエスの言葉や教えを語って、イエスを信じたユダヤ教徒を指導したと見られます。このような巡回伝道者が活動したことは、後にこの地域で成立したと見られるマタイ福音書や「ディダケー」などの文書にその痕跡が見られます。
 マタイ福音書(七・一五〜二三)は、イエスの名によって預言し、悪霊を追い出し、奇跡を行い、「預言者」と称されている者であっても、「不法を行う者」は偽預言者として警戒するように警告しています。「ディダケー」(一一)は、各地の集会に巡回してくる「使徒と預言者」に対する処遇について、滞在は一日か二日にせよとか、食事とか金銭の出し方まで具体的に指示しています。このような記事は、この地域における福音活動が定住者の集会の間を巡回して教える「使徒と預言者」によって担われていたことを示唆しています。
 彼らの活動を「福音活動」とか「福音告知」と呼ぶのは、多少の違和感があります。それは、このパレスチナ・ユダヤ人のユダヤ教内でのキリスト信仰の運動では、その告知を「福音」と呼ぶことはないからです。この運動の中で成立した「語録資料Q」には「福音」という用語は使われていません。この用語は、パウロがキリストを告知する運動の中心に据えたもので、本来は復活者キリストを告知する告知内容《ケーリュグマ》(コリントT一五・一〜五)やそれを告知する働きを指す語です。この用語は、エーゲ海地域のパウロ系の諸集会で広く用いられますが、パレスチナのユダヤ教内のキリスト信仰運動では用いられていません。
 ところが、マルコが伝承されたイエスの働きと言葉をまとめて文書とし、それを「福音」として世に提示します(マルコ一・一ほか)。マルコはパウロの同労者ですから、イエス伝承を用いてキリストを告知する働きを「福音」という用語で語ることができたのです。そのマルコ福音書を受け入れたマタイは、もともと「福音」という用語には縁のない「語録資料Q」を生み出した運動の流れにいる人ですが、イエスの「神の国」告知の働きも「福音」という語を用いて、イエスは「御国の福音」を語られたとするようになります(マタイ四・二三、九・三五)。このようなマタイの用例からすれば、ユダヤ教内の信仰運動についても「福音」という語を用いて語ることも許されるでしょう。

「放浪のラディカリズム」?

 このような巡回伝道者は、悪霊を追い出し病気をいやすカリスマ(霊的能力)があり、イエスの名によって悪霊を追い出し病気をいやす奇跡を行いながら巡回し、イエスの教えを伝え、イエスの言葉に従って生活し、迫っている「神の支配」に備えるように説いた説教者でした。このような巡回伝道者の姿は、イエスが十二弟子を派遣されるときに語られたとされている「派遣説教」を思い起こさせます。
 十二弟子の派遣記事は共観福音書のすべてにあります。マルコ(六・七〜一三)が一番古いのかもしれませんが、七〇年以後のこの地域の実情にも触れていると見られるマタイ(一〇・五〜二五)の記事によって、派遣記事とこの時期の巡回伝道者の関係を考察してみましょう。
 彼らの告知すべき内容は、「神の支配は近づいた」ということです。そして、彼らには「汚れた霊に対する権能が授けられ」(マルコ六・七)、その権能によって「病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払う」働きをするように命じられています。この「神の支配」を告知し、病人をいやすという二つの働きは、まさにイエスがガリラヤでしておられた働きにほかなりません(マタイ四・二三)。彼らはこの働きをさらに広い地域に進めるために旅をすることが求められますが、その旅について「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない」と命令されます。それは、「働く者が食べ物を受けるのは当然である」のだから、「町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい」と指示されます。町や村に定住している「ふさわし人」(単数形)の家にとどまり、そこを拠点として福音活動をし、またそこから旅だって次の町や村に向かうのは、まさに巡回伝道者の姿そのものです。
 この時期の巡回伝道者は、自分たちはイエスが命じられた通りに福音活動をしているのだと自覚していたことでしょう。逆に、彼らの姿がイエスの「派遣説教」の伝承を形成したという面があったかもしれません。いずれにせよ、十二弟子の派遣記事はこの時期の巡回伝道者の姿をよく示しています。イエスご自身も「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(マタイ八・二〇)という生活をされました。イエスの弟子として、彼らも一カ所に定住せず、放浪の旅を続けて「神の支配」を告げ知らせる福音活動を続けていきます。
 このように世間的・常識的な社会生活を捨て、放浪の旅の形で「神の国」を追い求める生き方あるいは活動の仕方を、「放浪のラディカリズム」と呼ぶことがあります。「ラディカリズム」というのは、極端で過激な生き方ということでしょうか。イエスが「空の鳥、野の花」を指し示して、「何を食べようか、何を着ようかと思い煩うな。天の父はあなたたちに必要なものをご存知である」(マタイ六・二五〜三四)と言われたのは、このような巡回伝道に携わる弟子たちの「放浪のラディカリズム」に向かって語られた言葉であるという見方もあります。たしかに彼らはこの言葉を拠り所とし、支えとしたことでしょう。しかし、「空の鳥、野の花」の説話は、「放浪のラディカリズム」の場においてだけ聴かれるものではなく、父の慈愛と信実だけを拠り所として生きるすべての者に対するイエスの語りかけとして聴くことができますし、そう聴かなければならないと考えられます。

派遣記事における「七〇年以後」の状況

 マタイの派遣記事をマルコのそれと較べますと、前半(一〇・五〜一五)はほぼマルコ(六・七〜一二)の記事と同じですが、後半(一〇・一六〜二五)はマルコに相当する部分がなく、記事に前提される状況も前半と違ってきています。前半では「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」と言われていて、イエスの時代、または福音活動がまだユダヤ教徒の範囲内に限られていた復活後の初期の状況が前提されています。それに対して後半では、福音活動に対する迫害が「地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれる」というユダヤ教の領域だけでなく、「総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをする」というように、異邦人世界での活動が前提されています。派遣説教の内容も前半とは異なり、巡回伝道者に対する指示ではなく、終末の切迫を説くマルコ一三章の小黙示録の記事から採られています。前半と後半の違いは七〇年前か七〇年後かで線を引くことはできませんが、少なくとも後半は七〇年以後の状況、すなわちマタイ共同体がユダヤ教の領域を出て、異邦世界に乗り出している時期のものと考えられます。

マタイ共同体がユダヤ教の領域を去り、異邦世界に向かおうとしていることについては、拙著『マタイによるメシア・イエスの物語』176頁の「立ち去るイエス」の項を参照してください。また、派遣記事の構成については、同書の「第五章・弟子の派遣」を参照してください。

 マタイは、イエスの時期の十二弟子の派遣とマタイの時代の福音活動を重ねて、ひとまとまりの「派遣記事」にしましたが、ルカは十二弟子の派遣とイエス復活後の弟子の福音活動を別の記事にして、別の位置に置いています。ルカは、マルコに従って十二弟子の派遣の記事を、イエスのガリラヤでの活動の最後(九章)に置いていますが、その後エルサレムへの旅が始まった後に、「七十二人の派遣」の記事を置いています。この「七十二人の派遣」記事は、一〇章の一節から二四節に至る(新共同訳での)四つの段落を含んでおり、イエスの復活後にガリラヤなどで活動した弟子たちの体験を反映しています。
 この「七十二人の派遣」記事は、「十二弟子の派遣」記事と性格が違うことは、次のような理由からも明らかです。まず「七十二人の派遣」記事が、ルカがマルコの枠から離れて自由に独自の素材を置くことができる「旅行記」という枠の中に置かれている事実が、この出来事がイエスの地上の働きの時期のものではないことを指し示しています。さらに、この記事の表現も十二弟子の派遣の場合と違います。「十二弟子の派遣」の場合は、具体的に十二人の名前があげられていましたが、「七十二人の派遣」の場合はイエス復活後に福音活動に従事した多くの証人が、「七十二」という象徴的な数で表現されています。また行き先も「ご自分が行くつもりのすべての町や村」と一般的な表現になっています。何よりも、「七十二人の派遣」を語る記事の多くは「語録資料Q」から採られていて、この記事がイエス復活後に「語録資料Q」を生み出したパレスチナ・ユダヤ人の福音活動を反映していることを指し示しています。

「七十二人の派遣」の性格について詳しくは、拙著『ルカ福音書講解U』18頁の「七十二人の派遣記事の性格」の項を参照してください。

ガリラヤの状況

 「七十二人の派遣」記事が、イエスの地上の働きの時期のものではなく、復活後の時期のものであることは、その中にガリラヤの町々に対する断罪の言葉が含まれていることからも分かります。「七十二人の派遣」記事の中に、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムなどのガリラヤの町に対する厳しい断罪の言葉が含まれています(ルカ一〇・一三〜一六)。このような終末的な断罪の宣言は、イエスの時代では考えられません。とくにカファルナウムはイエスのガリラヤでの活動の拠点であり、カファルナウムの住民はイエスがおられるところに熱狂的に集まってきています。ところがこの記事では、なされた多くの奇跡を見ても悔い改めなかったとして、これらの町は終わりの裁きの日にティルスやシドンという異教の町よりも厳しい罰を受けると宣言されています。これは、イエスの復活後にこれらの町で福音活動をした巡回伝道者たちの苦い経験を反映しています。イエスを熱狂的に受け入れていたこれらの町は、イエスが最高法院で異端者として死罪の判決を受けた後では、イエスを受け入れることは町そのものが最高法院から「誘惑された町」と判定されて厳しい取り扱いを受けることを恐れて、イエスの名で語る使者を拒否します。

ガリラヤの町に対する断罪の宣言については、拙著『ルカ福音書講解U』 29頁の「使者を拒む町への断罪」と 31頁の「町単位の断罪」の項を参照してください。

 最高法院の異端判定を恐れているとすれば、この状況はまだエルサレムに最高法院があった七〇年以前の状況を推定させますが、エルサレム陥落後もヤムニアに最高法院の権限を受け継ぐ「法院」《ベト・ディン》が形成され、全ユダヤ教徒を指導監督したのですから、この状況が七〇年以前であったか以後であったかを決めることはできません。おそらく以前も以後も状況はあまり変わらなかったと推定されます。
 ガリラヤはユダヤ戦争の戦場となりました。多くのユダヤ人が戦禍を避けて他国に移住します。おそらくすぐ北に隣接するシリアに移住した者が多かったことでしょう。ガリラヤは荒廃したことでしょう。ガリラヤはイエスの「神の国」告知の舞台でした。イエスの復活後も、ガリラヤ人である使徒たちの福音告知を聞いたはずです。「語録資料Q」を生み出したユダヤ人の信仰運動も行われたはずです。ところが、イエス以後の時代、とくにユダヤ戦争以後の時代には、ガリラヤにおけるイエス運動(イエスをメシアと信じるユダヤ人の信仰運動)についてはほとんど何も聞くことができなくなります。ユダヤ戦争以後のガリラヤは、イエス運動の揺籃の地ではなく、ファリサイ派のラビ・ユダヤ教の牙城の地となります。エルサレム陥落の後、再建ユダヤ教の指導部となる「法院」は沿岸地方のヤムニアに移りますが、その後(おそらく二世紀の終わり頃)ガリラヤのティベリアスに移って活動し、ファリサイ派のラビたちはミシュナの編纂などの事業を成し遂げ、ガリラヤは以後のラビ・ユダヤ教にとって重要な地域となります。

ユダヤとサマリアの状況

 話は前後しますが、エルサレムからガリラヤに行くまでにユダヤとサマリアがあります。この地域における福音活動の進展も資料が少なく推察せざるをえません。ユダヤについては、パウロの「キリストにあるユダヤの諸集会の人々とは、顔見知りではありませんでした」(ガラテヤ一・二二)という証言があります。この「ユダヤ」がどこを指しているのかについては議論がありますが、パレスチナ南部の地域を指す可能性は十分にあります。エルサレム近辺のこの地域にキリストを信じる者たちの集会があったのは当然です。ただ、ユダヤ戦争で激戦地となり荒廃したこの地域のその後の様子は分かりません。
 サマリアについては、ヨハネ福音書四章でイエスご自身が活動されてイエスを信じる人たちが出たことが報告されています。ルカも使徒言行録八章で、かなり初期からエルサレム共同体がサマリアに福音活動を進めたことを報告しています。ルカは使徒言行録の最初に、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(一・八)と、福音の進展を綱領的に提示し、その図式に従って福音の進展を叙述していきます。サマリアも「地の果てに至るまで」の福音の進展の重要な段階となっています。
 しかし、サマリアもユダヤ戦争の戦場となります。ユダヤ戦争後のサマリアの状況は分かりません。イエスが愛された弟子を中心に交わりを形成したヨハネ共同体は、初期にはパレスチナのどこかで活動したと推察されますが、それがサマリアであったという見方もあります。イエスに対して「お前はサマリア人ではないか」(ヨハネ八・四八)という非難がなされたという伝承がありますが、それは(四章の記事と共に)ヨハネ共同体とサマリアの深いつながりを示唆しています。その活動の地がサマリアであれ、パレスチナの他の地域であれ、ユダヤ戦争の前後にヨハネ共同体はエフェソに移住します。この移住の時期については諸説がありますが、六〇年代前半という推察(ヘンゲル)が妥当ではないかと考えられます。
 サマリアについては「魔術師シモン」の伝承が注目されます。ルカは使徒言行録(八・九〜二四)でサマリアにおける使徒たちとシモンの対決のことを伝えています。シモンは奇跡の力(ルカをはじめ護教家は魔術と呼びます)で多くの追従者を得て、サマリアで一つの勢力となっていました。このシモンがイエスの教えに服するようになったのですが、その邪悪な心は変わらず、使徒たちから非難されています。ルカはシモンがその後どうしたのかは何も伝えていませんが、それはシモンが後にローマで教えを説き、キリストの民を誘惑する敵対的な勢力になっていたのを知っていたからではないかと考えられます。
 二世紀末に成立したと見られる外典の「ペトロ行伝」では、ローマにおけるペトロとシモンの対決が物語られています。その伝承は、ペトロがローマで活動していた六〇年代半ばにはシモン一派もローマで一つの勢力になっていたことを示唆しています。すでに二世紀半ばには、同じくサマリア出身の護教家ユスティノスが、シモンを悪霊がキリストを歪めて真似する見本として取り上げ批判しています。エイレナイオスをはじめその後の教父たちも、シモンをグノーシス主義の源流として激しく非難し、「すべての異端の頭」と呼んでいます。このようなシモン一派を生み出したサマリアは、ユダヤ教思想とギリシア思想の混淆が見られる帝国辺境の地として、グノーシス主義的な宗教を育むよい土壌であったのかもしれません。

シリアの状況

 パレスチナの北方にはシリアがあります。シリアの州都アンティオキアは、ヘレニズム世界有数の大都市であり、そこにごく初期からギリシア語系ユダヤ人によって福音が伝えられ、ギリシア系住民を多く含む共同体が成立し、異邦人に向かって活発な福音活動をしていたことは、これまで比較的詳しく述べてきました。そのシリアに、ユダヤ戦争によって多くのユダヤ人が難民や移住者として押し寄せることになります。パレスチナの地でユダヤ教内のキリスト信仰を維持してきたユダヤ人たちも、ユダヤ戦争前後の時期からは多くがシリアに避難してきたものと見られます。
 このようなユダヤ教内キリスト信仰のユダヤ人たちは、シリアでもその信仰を維持して活動したことでしょう。シリアでも、すでにユダヤ人が多く住み、その勢力が盛んな州都アンティオキアには、多くのユダヤ人が移住したことと推察されます。アンティオキアには、先に見たように異邦人を多く含み、割礼を要求しない共同体が活動していましたが、新たに移住してきたユダヤ教内キリスト信仰のユダヤ人たちは、それとは別に共同体を形成して活動したと推察されます。そのようなユダヤ人共同体の中に、後にマタイ福音書を生み出す共同体があります。このユダヤ人共同体を「マタイ共同体」と呼んでおきます。
 マタイ共同体は、パレスチナで「語録資料Q」を生み出す運動を担ったユダヤ人たちであったと推察されます。彼らは、七〇年前後には現在の形になっていた「語録資料Q」と、パレスチナの多くのイエス伝承を携えてシリアに来て活動します。その地域は、やはりアンティオキアが有力な候補地となります。その中の律法学者としての素養のあるユダヤ人が、すでにペトロの権威で流布していたマルコ福音書を枠組みとして用い、その中に自分の共同体が担っている「語録資料Q」を中心とするイエス伝承を再構成して用い、母体のユダヤ教会堂と厳しい対立状態で苦しい状況にあるユダヤ人信者の共同体に向かって、キリスト信仰を励ます福音書を書きます。
 この福音書の成立は八〇年代かそれ以後と見られ、使徒マタイは著者ではありえません。その福音書が古代教会の伝承で「マタイによる」と呼ばれたのは、著者を十二使徒の一人として権威づけるためであったと考えられますが、事実このユダヤ人共同体が使徒マタイが伝えた伝承を保持する共同体であったからでしょう。この福音書が提示する福音がどのようなものであるのかは、後に福音書を扱う章で詳しく検討することになりますが、ここではこの福音書が七〇年以後のシリアの状況を指し示す一つの資料であることを指摘するにとどめます。

マタイ共同体とマタイ福音書の成立については、拙著『マタイによるメシア・イエスの物語』の「序章・マタイ福音書の成立と構成」を参照してください。

 マタイ福音書は、ペトロをキリストの民全体の土台としています(マタイ一六・一八)。これは、アンティオキアを中心とするシリアにおいて、この時期にはペトロの権威が確立していたことを示しています。ペトロはかなり初期からアンティオキアに来て活動していました。パウロがアンティオキアを去ってからは、十二弟子の筆頭者であるペトロの権威が重んじられるようになっていったことが、マタイ福音書の記事からもうかがわれます。そうすると、ユダヤ教内キリスト信仰の体質を色濃く残しているユダヤ人信者のマタイ共同体と、異邦人信者を主体とし、ユダヤ教の外に向かうパウロ・バルナバ以来のアンティオキア共同体とがどのような関係に立つのかが問題になってきます。
 それ以後のアンティオキアの状況をうかがわせる資料として、「イグナティオス書簡」があります。イグナティオスは、トラヤヌス帝時代の迫害の時、アンティオキアの責任者として逮捕され、ローマに護送されて野獣と闘う刑に処せられて殉教します。それは一一〇年のこととされています。護送の途中、小アジアのスミルナとトロアスから近隣の諸集会とローマの集会に宛てた手紙七通を書いています。このイグナティオス書簡は、二世紀初頭のシリアと小アジアの諸集会の様子を示す資料として貴重です。
 イグナティオスはその書簡で、共同体の一致を強調していますが、そのさい「監督」への服従を強く求めています。監督への服従が共同体の一致と正しい使徒的な信仰を保証するとしています。「監督」は単数形で現れ、その下に「長老」(複数形)がいて、共同体の職制が出来てきていることがうかがわれます。この職制は、ほぼ同じような時期にパウロ名で書かれた牧会書簡と同じです。キリストの民の共同体は、使徒時代に見られた聖霊のカリスマ的な指導体制から、一世紀末から二世紀初頭にかけて、制度的な体制に移行しつつあったことがうかがわれます。
 イグナティオスは「アンティオキアの二代目の監督」と言われていますが、それがアンティオキア全体の監督であるのか、複数の共同体の中の一つの監督であるのかは確認できません。その内容からするとエーゲ海地域のパウロ系諸集会との深いつながりが見られ、バルナバやパウロが率いていたアンティオキア共同体を代表しているように見受けられます。その共同体にマタイ共同体のようなユダヤ人の共同体が含まれるようになっていたのか、それとも依然として別であったのかは分かりません。

イグナティオスの福音理解(神学)の内容については、本稿の範囲を超えますので別の機会に譲り、ここでは七〇年以後の進展の行方を示す資料として、その存在を指摘するに止めます。イグナティオス書簡については、講談社『聖書の世界』別巻4「使徒教父文書」所収の「イグナティオスの手紙」(翻訳と解説・八木誠一)を参照してください。

 シリアにはアンティオキアの東北東二五〇キロほどのところに交易で栄えた都市エデッサがあります。このシリア東部の都市エデッサについては、イエスと同じ時代にこの町を支配していた王アブガル五世がイエスの噂を聞き、病気の治癒を求めて廷臣を派遣し、後にトマスの命で派遣されたタダイによっていやされて、イエスを信じるようになり、多くのユダヤ人も信仰に入ったという伝説があります(エウセビオス『教会史』T一三参照)。これは伝説ですが、アブガル王朝は親ユダヤ的であり、エデッサにはユダヤ人が多くいました。またユダヤ戦争の前後に多くのユダヤ人が移住してきた可能性もあり、エデッサのキリスト信者共同体ははじめからユダヤ教内キリスト信仰の傾向が強かったことは事実であったでしょう。また、この伝説にトマスが登場するのは、エデッサにおけるトマス伝承の存在を指し示しています。
 「十二人」の一人トマスはエデッサで福音活動をしたと推察されます。ここで成立したと見られる「トマス行伝」では、トマスがインドまで行って福音を宣べ伝え、そこで殉教したとされています。トマスを主人公とするこの小説風の著作は、三世紀には成立していたと見られますが、エデッサのシリア・キリスト教がインドまで伝えられた働きを使徒トマスに帰した物語であろうと考えられます。この書には、「真珠の歌」をはじめグノーシス主義的傾向の伝承を多く含んでいます。
 エデッサで成立したと見られる重要な文書に「トマス福音書」があります。これはイエスの短い言葉を集めた語録集で、「語録資料Q」とよく似た内容の語録集です。そのコプト語訳の写本がエジプトのナグハマディで発見され、その実在が確認されましたが、原本はシリア語であり、一世紀末のエデッサでの成立が有力視されています。この「トマス福音書」は、トマスをペトロよりも権威ある使徒としており、西シリアではペトロ伝承が有力であったのに対し、東シリアではトマス系の伝承が支配的であったことを示しています。「トマス福音書」はグノーシス的な傾向が明らかに見られ、シリアで成立したと見られる多くのグノーシス文書の代表文書となります。

「トマス福音書」については、クロッペンボルグ他『Q資料・トマス福音書』(新免貢訳、日本基督教団出版局)、および荒井献『トマスによる福音書』(講談社学術文庫)を参照してください。なお、荒井献『トマス福音書』35〜39頁に、エデッサにおけるキリスト信仰の受容が解説されています。また、シリアにおけるグノーシス主義については詳しくは、H・ケスター『新しい新約聖書概説・下 ― 初期キリスト教の歴史と文献』(永田竹司訳、新地書房)276頁の「5、キリスト教グノーシス主義の発祥の地シリア」の項を参照してください。

附説 エジプトの状況

本章は、新約聖書文書の成立期の福音の進展を扱っていますので、それと関わりが深いパレスチナ・シリアでのユダヤ教内キリスト信仰の進展を見ています。それでエジプトは除外されていますが、参考までに、前著からエジプトに関連する部分をここに再録しておきます。なお、エジプトのキリスト教については、荒井献『トマスによる福音書』(講談社学術文庫)45頁以下の「エジプトのキリスト教の成立とその特徴」が簡潔にまとめています。

 パレスチナからすぐ南にあるアフリカにも、ごく早い時期から福音が伝えられました。そのことは使徒言行録八章のエチオピアの高官の物語からもうかがえます。パレスチナの南に隣接するエジプトの州都アレクサンドリアは、当時地中海世界随一のヘレニズム文化の大都市であり、多くのユダヤ人が居住していて、エルサレムと密接な交流がありました。七十人訳ギリシア語聖書の成立や、ユダヤ人哲学者フィロンの活動に見られるように、アレクサンドリアはヘレニズム世界におけるユダヤ教の最重要拠点でした。エウセビオスの『教会史』は、マルコがエジプトに福音を伝え、アレクサンドリアの初代の司教になったと伝えていますが、この伝承は確認できません。ローマの場合と同じように、エルサレムとの密接な交流の中で、ごく初期から無名のユダヤ人信者たちによってアレクサンドリアに福音が伝えられていたと考えられます。
 アレクサンドリアには大規模で強力なユダヤ人共同体があり、そこに伝えられたキリスト信仰は、アレクサンドリアから徐々にエジプトの各地に浸透していきます。後にエジプトは、『ヘブル人福音書』など、ユダヤ教内キリスト信仰を示す多くの文書を生み出しています。また、エジプトで成立した「ヘルメス文書」に見られるように、もともとエジプトはグノーシス主義思想の盛んな土地柄です。そこにシリアからグノーシス主義的傾向の伝道者や文書が流入し、エジプトではグノーシス主義的なキリスト信仰が盛んになり、『エジプト人福音書』などのグノーシス主義文書が数多く生み出されます。これらのユダヤ教内キリスト信仰の文書や、グノーシス主義的な著作は、新約正典の形成過程で排除されたので、現在の新約聖書の中にはエジプトで成立したと見られる文書はありません。これらの排除された多くのグノーシス主義文書は、二〇世紀半ばになってナイル中流の砂漠に埋められた壺の中から発見されることになります(ナグ・ハマディ文書)。

W イエス伝承の集成

 イエスの事蹟は、イエスの側にいて直接教えを受けた弟子たちや、イエスの働きを見たりその教えを聞いた人たちによって語り伝えられて「イエス伝承」を形成します。その伝承は、後に福音書に取り入れられて、わたしたちにまで伝えられています。その語り伝えられたイエス伝承が福音書に取り入れられるまでの過程に関する研究(伝承史研究)は、新約聖書学の重要な部門であり、最近は精緻を極めています。しかし、ここではその詳細に立ち入ることはできません。ただ、その伝承の集成がこの地域この時期の福音の展開にとって示唆するところを見ておきたいと思います。

受難物語

 イエスの受難に関する伝承は、かなり早い時期に受難の地エルサレムで集成され、「受難物語」となっていたと推察されます。エルサレム共同体はイエスをメシア・キリストであると告知したのですが、そのイエスが十字架刑で処刑されたという事実を、どう理解し意義づけるかという重い課題を背負っていました。ごく初期に形成されていたキリストを告知する定型文《ケリュグマ》において、「キリストは、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだ」と宣言されていました。エルサレム共同体は、イエスの十字架上の死を、それが聖書に預言されているとおりに起こった出来事であること、すなわち神が定められたことであること、また、それはイスラエルの祭儀があらかじめ指し示していた民の贖罪のための死であるという二点を、イエス受難の出来事を語る物語の中で表現するために「受難物語」を形成します。それはたんにイエス受難の出来事を報告するものではなく、キリストの十字架の死の意義を告知する福音告知の一つの形です。
 福音活動がエルサレムから発してパレスチナからシリアへと北に進展していく過程で、この受難物語がどの程度語り伝えられたのかを確認することは困難です。この地域で形成されたとされる「語録資料Q」に受難物語が含まれていないことから、この語録集を生み出した信仰運動のユダヤ人は、キリストの贖罪を信じるキリスト信者ではなかったとする(B・マックらの)議論は奇妙な議論です。「語録資料Q」はその運動の一つの成果であって、それに含まれていないからといって彼らが受難物語や奇跡物語伝承を知らなかったと結論することはできません。エルサレムから来た使徒たちがこの地域で活動したことが推察されますので、彼らも受難物語を伝え聞いていたと推察すべきでしょう。現代の聖書学が認めているように、マルコ福音書がこの地域で成立したものとすれば、「長い序文をもった受難物語」という性格のこの福音書が成立し流布した事実は、彼らが殉難物語を受け入れていたことを推察させる有力な根拠になります。

奇跡物語

 福音書は受難物語の前にイエスの働き、とくに悪霊を追い出し病気をいやされる奇跡的な働きをおもに、大量の漁獲や嵐を一言で静められるなどの自然奇跡まで含めて、多くの奇跡を伝えています。このような奇跡物語は、それを見た人たちやそれを身に受けて体験した人たちによって語り伝えられ、奇跡物語伝承を形成します。そして時と共に、数々の奇跡物語が何らかの視点でまとめられ、「しるし集」と呼ばれるような奇跡物語集が集成されます。福音書には、福音書に用いられる前に奇跡物語の集成があったことを示唆する痕跡があります。
 奇跡物語は、それが語り伝えられる伝承である以上、その伝承の担い手の状況によって、その語り方や表現に微妙な違いとか特色が出て来ます。その違いや特色から伝承の担い手の状況を推定する研究も詳しくなってきています。ここではその代表的な例を一つだけあげておきます。
 奇跡物語は、基本的にはイエスがなされた奇跡はイエスが神から来られた方であることを指し示す「しるし」であるという立場で物語られています。しかしその物語の中に、イエスがいやされた人に「家に帰りなさい」とか「村に帰りなさい」と命じておられるものがあります。悪霊に取りつかれたゲラサの人のいやし(マルコ五・一〜二〇)はその典型です。この物語には様々な要素が含まれていて複雑な構造をしていますが、最後にイエスは、悪霊を追い出されて正気に戻った人に、「自分の家に帰りなさい」と命じておられます。この物語では、家や村から追い出されて墓場を住まいとしていた人が、イエスの奇跡的な力によっていやされ、自分の家に帰ることができたという点が、一つの焦点になっています。
 当時のユダヤ社会では、不治の病や障害で働くことができない人たちは、社会から差別され、疎外され、極端な貧窮の中で苦しんでいました。彼らにとって、病気による身体の苦痛以上に、家族や社会から疎外されている事実が大きな苦しみでした。病気や障害が取り除かれて家族のもとに帰り、社会に復帰できることが唯一の願いでした。そういう人たちをいやして、イエスは彼らに社会への復帰を実現し、人間として生きる道を回復されるのです。
 代表的な例は、当時のユダヤ教社会で「らい病《ツァーラアト》」と呼ばれていた病気の患者の場合です。この病気の患者は「神から打たれた者」とされ、不浄な存在としてユダヤ教社会から厳しく隔離されていました。「らい病」をいやすことは、死人を生き返らせるのと同じで、ただ神だけがなさることとされていました。イエスは「らい病」の人をいやしたとき、いやされた人に「行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい」と命じておられます(マルコ一・四四)。社会から隔離されるべき者かどうかを判定するのは祭司です。祭司の判定を受け、清めの献げ物を献げて、もはや汚れた者ではなく清い者であることを証明してはじめて、ユダヤ教社会に復帰できます。イエスはいやされた患者に、正式の手続きをとって社会復帰するように促しておられます。
 このように、奇跡物語におけるイエスは、社会から疎外された者を社会に復帰させておられます。(すぐ後で見るような)家族の絆を断念し、世を捨てるようなことを求められることはありません。イエスがなされた奇跡を語り伝え、その伝承を集成した人たちは、おもにこのような社会復帰を最高の価値と願いとする下層の人たちであったと推察されます。伝承史的な分析は、このような社会復帰を重視する奇跡物語伝承はイエス伝承の最古層に属するものであることを指摘しています。

言葉伝承の集成

 奇跡物語伝承と並んで、イエス伝承のもう一つの重要な伝承群は言葉伝承です。イエスが語られた言葉を伝える伝承です。代表的なものに、これまでしばしば触れてきた「語録資料Q」があります。この語録集は、これまでに見てきたように、パレスチナにおけるイエスの教えを伝えるユダヤ人の信仰運動の中で成立したものですが、ほぼユダヤ戦争前後の時期には一つの文書の形にまとめられていたと見られています。
 この文書がギリシア語で書かれていることについては諸説があります。イエスはアラム語で語られ、その言葉を語り伝える口伝伝承も当初はアラム語で伝えられたと考えられますが、文書に集成されたときにはギリシア語で書かれています。この事実を説明する仕方は様々です。アラム語の伝承が文書化され、それがギリシア語に翻訳されたという説は、文書のギリシア語がアラム語からの翻訳であることを示す痕跡がないことから無理とされています。それで、これはパレスチナにおけるギリシア語系ユダヤ人のユダヤ教内キリスト信仰運動の所産であるとか、イエスの語録伝承がディアスポラのユダヤ人の間で文書化されたからであるというような説明がされていますが、決定的な説はありません。
 先に見た「トマス福音書」も、トマスによってシリアにもたらされたイエスの語録伝承が文書化されたものです。もともとシリア語で書かれていたと見られますが、原本は失われ、ギリシア語訳もあったはずですがそれも失われ、コプト語写本だけがナグ・ハマディ文書の中に見出されることになります。この文書の発見が、共観福音書の成立を説明するための仮説上の文書であった「語録資料Q」が、実際にパレスチナのユダヤ人の信仰運動で「福音書」として用いられていたという見方を補強することになります。

エジプトにも「ヘブル人福音書」など同種の「福音書」があったことについては、H・ケスター『新しい新約聖書概説・下 ― 初期キリスト教の歴史と文献』(永田竹司訳、新地書房)293頁の「C エジプトのユダヤ人キリスト教」の項を参照してください。同書によると、アレクサンドリアでは「ヘブル人福音書」をはじめヤコブの権威を帯びる文書が用いられていたとされています。

 イエスの比較的短い言葉を集めた語録集の他に、イエスの「神の国」告知の特徴であるたとえ話も集められて「たとえ集」を形成していました。共観福音書に見られる個々の「たとえ集」については、それぞれの福音書の講解に委ね、ここでは語録集とたとえ集とを合わせて、イエスの言葉伝承の担い手について考察しておきます。
 「語録資料Q」には、「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」(Q一八・二九〜三〇)という家族の絆や通常の職業生活(畑)からの離脱を求める厳しい言葉があります。この他にも、「死人を葬ることは、死人に任せよ」(Q九・五九〜六〇)とか、「わたしは剣を投げ込むために来た」(Q一二・五一〜五三)、「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない」(Q一四・二六)など、同様の言葉が多くあります。

「Q]という記号は、「語録資料Q」の語録を、ルカ福音書の章節で示したものです。

 このようにイエスに従うために家族や通常の社会生活を放棄することを求めているような言葉は、先に見た奇跡物語伝承に見られる家族や社会に復帰を与える言葉と対照的です。この違いの理由は、イエスの言葉が向けられた対象、またその言葉を語り伝えた伝承の担い手の社会階層の違いに求められます。
 語録集やたとえ集というイエスの言葉伝承を検証すると、会食や婚宴、資産の管理を委ねる主人、資産の活用を命じて旅に出る商人、債権や債務、労働者を雇う事業者など、都市生活の素材や用語が用いられていて、言葉伝承の担い手の社会階層が通常の都市生活者の階層であることが推察されます。イエスは当時の都市生活も熟知しておられ、その中に安住して終末的な「神の国」を追い求めようとしない者たちに、このような激しい言葉で決断を求められます。その激しさはイエスの中に到来している終末的な恩恵の事態が力強い現実であることの現れです。
 イエスを通して働く神の恩恵の力は、家族や社会から放逐されて人間らしい生き方を拒否されている人たちには、人間としての通常の交わりを回復させます。一方、通常の社会生活に安住している者たちには、イエスが生きておられる「神の国」の現実が、移ろいゆく地上の生活を超えるものであることを現実に体験させ、通常の社会生活から離脱させる力となります。しかし、この放棄や離脱は、各福音書のこれらの言葉の講解で述べたように、一般の社会関係を放棄して閉鎖的な集団に帰属させるためではなく、既成のあらゆる枠を超えた開かれた人間関係を形成するためであり、終末的な霊的共同体を実現するためのものです。

言葉伝承における終末待望

 エルサレム共同体や「語録資料Q」を生み出した「Q共同体」など、パレスチナ・ユダヤ人のキリスト信仰においては、終末的な「神の支配」の到来が迫っているという待望が熱く燃えており、それを時代の黙示思想的な用語と象徴表現で語り伝えてきました。そのさい彼らは、その終末待望を「人の子」というユダヤ教黙示思想特有の称号を用いて表現しました。

パレスチナ・ユダヤ人キリスト者の言葉伝承の中での「人の子」称号の伝承については、前著『福音の史的展開T』278頁以下の「X パレスチナ・ユダヤ人のキリスト信仰」の項、とくに288頁「人の子の伝承」の項を参照してください。

 「語録資料Q」とは別に言葉伝承を集めて福音書を構成したマルコは、四章の「神の国」のたとえ集では、三つの「種」のたとえで「神の国」の別の一面を伝えています。「種」のたとえにおいては、「神の国」は天から突如現れるものではなく、地から生え出る収穫です。これが(一三〜二〇節の「種を蒔く人」のたとえの説明を除いて)イエスご自身の本来の「神の国」告知の内容であると考えられますが、それでもマルコは一三章でユダヤ教黙示思想の典型的な「人の子」預言を中心に用いて(二四〜二七節)、「マルコの小黙示録」と呼ばれる終末預言を形成しています。イエスは預言者としてその時代の民に神の警告の言葉を語られましたが、それはユダヤ戦争に至るパレスチナの状況の中で実現し、その伝承に自称メシアの騒乱や戦争の影が色濃く差してくるようになり、このような終末の徴を描く「小黙示録」が形成されることになります。この「小黙示録」は、イエスの言葉伝承を伝えたパレスチナ・ユダヤ人の黙示思想的な終末信仰を強烈に反映しています。
 ところで最近の「語録資料Q」の研究では、知恵の教師としてのイエスの語録が本来のイエスの思想を伝えており、終末の切迫を語る預言者的な言葉は、イエスの知恵の教えに従おうとしない民に対するQ共同体の警告とか審判預言からつけ加えられるようになったものであると見る傾向があります。たしかに「語録資料Q」にはギリシアの賢者、とくに一般の社会規範を蔑視して自然のままの生き方を唱えた犬儒学派(キュニコス学派)の言葉に通じるような語り方が見られます。しかし、それはイエスの本来の「恩恵の支配」の告知が、当時の律法に支配されているユダヤ教社会の常識を超えていたために、それを表現されるイエス特有の鋭いアフォリズム(警句、格言)的な表現が似たものになっただけで、その内容は全然別です。イエスの言葉はあくまで終末的な「神の支配」 ― それは「恩恵の支配」ですが ― の到来に焦点があります。ただ、その言葉伝承がまとっている黙示思想的な衣が、どこまでがイエス本来のもので、どこからがイエスの語録を伝承したパレスチナ・ユダヤ人のものであるのかを識別することは困難な課題です。

ユダ書について

 パレスチナ・ユダヤ人の福音告知において、その終末待望が黙示思想的な色彩を強く帯びていたことを示す文書が、新約聖書正典の中にあります。「ユダ書」です。ユダ書はあまり注目されない小書簡ですが、(ヤコブ書と共に)最初期のパレスチナにおける福音運動の質を示す貴重な証言です。
 この書簡は、「イエス・キリストの僕で、ヤコブの兄弟であるユダから」の手紙であるとしています(一節)。最初期の共同体でただ「ヤコブ」と言えば、それは「主の兄弟ヤコブ」を指しています。この書簡はヤコブの兄弟、すなわちイエスの兄弟であるユダ(マルコ六・三)が書いたものとされています。ユダ書は洗練された立派なギリシア語で書かれているので、アラム語系ユダヤ人であるユダが書いたものかどうかが争われています。これはヤコブ書の場合と同じです。長年ギリシア語圏のユダヤ人の間で活動して、ユダがギリシア語をよくするようになっていたことは十分可能です。ユダ書は、七十人訳ギリシア語聖書ではなくヘブライ語聖書を用いていること、その解釈方法、外典の黙示文書の使用や強い黙示思想的色彩など、パレスチナのユダヤ教徒のキリスト信仰を指し示す指標が多くあります。従って本書は、イエスの兄弟であるユダ自身か、あるいはユダにきわめて近いパレスチナのユダヤ人でギリシア語をよくする人物がユダの信仰に基づいて書いた可能性が高いといえます。後者の場合を含めて、わたしたちは本書をイエスの兄弟のユダから出ているものと見てよいでしょう。
 ユダ書は、「聖なる者たちに一度伝えられた信仰のために戦うこと」を勧めるために書かれています(三節)。著者は「聖なる者たちに一度伝えられた信仰」が危険にさらされていることを強く感じています。それで、「わたしたちが共にあずかる救い」について書き送って、信仰を励まし、その信仰の確立のために戦うことを勧めようとします。「わたしたちが共にあずかる救い」とは、後に続く本文からすぐ分かるように、主イエス・キリストが栄光の中に来られる「来臨《パルーシア》」の時に与えられる救いです。その時に与えられる救いが「永遠の命」であり、今はその終わりの時を「待ち望む」べき時です(二一節、二四節)。このような表現にパレスチナ・ユダヤ人共同体の強い黙示思想的待望がうかがわれます。
 この終わりの時が差し迫ったとき、メシア・キリストであるイエスが現れて、終わりの日の救いにあずかる神の民を集められました。このイエスをメシア・キリストと信じる信仰によって集められた者が「聖なる者たち、聖徒」と呼ばれ、その信仰が「聖なる者たちにひとたび(=他にはない、決定的な仕方で)伝えられた信仰」と呼ばれます。この尊い信仰、「最も聖なる信仰」(二〇節)を危うくし、終わりの日にあずかる救いを台無しにしようとする危険な試みに対抗して、この信仰の確立のために戦うことを勧め励ますために、この手紙が書かれます。この励ましは、手紙の最後に具体的な形で出てきます(二〇〜二三節)。
 しかし、その前に著者は、このような励ましが必要になった危険な状況を明らかにします(四節)。その危険とは、偽りを説く教師たちの侵入です。彼らは霊的カリスマのある巡回伝道者の中で、律法を軽視して「不法を行う者たち」(マタイ七・二一〜二三)だったのでしょう。著者は彼らに対抗するために、聖書の事例を予型として引用し(五〜七節)、偽預言者の危険を外典文書を用いて論証します(八〜一三節)。著者の議論は、読者が「モーセの昇天」などのユダヤ教の外典文書を知っており(九節)、聖書の外典での解釈にも通じていること(六節)を前提にしています。さらに著者は、当時の黙示文書の一つである「エノク書」の一節(エチオピア語エノク書一・九)を引用しています(一四〜一六節)。このような議論の進め方は、本書が黙示文書がよく読まれていたパレスチナ・ユダヤ人の間での成立であることを強く指し示しています。

ユダ書については、拙著『パウロ以後のキリストの福音』494頁以下の「第一節 ユダ書」を参照してください。

X 福音書の形成

イエス伝承の集成としての福音書

 このように当初は口頭で語り伝えられていたイエスの働きや教えの言葉の伝承が、時と共に、また必要に迫られて、主題別にまとめられ、文書化されるようになります。受難物語はかなり早期にまとめられ文書化されていたと見られます。奇跡物語もまとめられて文書化され、「しるし資料」と呼ばれるような資料となり、マルコ福音書やヨハネ福音書で用いられるようになります。イエスの教えの言葉を語り伝える言葉伝承も、語録集やたとえ集、また小黙示録という形で文書化されて伝えられるようになります。「語録資料Q」を含め、これらの伝承の文書化はほぼユダヤ戦争の時期までにはなされていたと推察されます。
 七〇年のエルサレム陥落をクライマックスとする前後八年に及ぶユダヤ戦争は、パレスチナのユダヤ人社会にとって大激動の時期でしたが、福音の進展にとっても時代を画する変動の時期でした。この頃までに、すなわち六〇年代前半には主の兄弟ヤコブをはじめ、ペトロやパウロという指導的な使徒も殉教して世を去り、他の使徒たちもこのユダヤ戦争の時期には(彼らの年齢から見ても)舞台から去ることになります。使徒たちの伝えた福音を確実に後の世に伝えるために、彼らが伝えたイエスの事跡をまとめて文書にして伝える必要が感じられるようになっていたことでしょう。
 このような機運があったことは、マルコ福音書の成立に関する古代教会の伝承が示唆しています。初代教父の一人パピアス(一三〇年頃)は、「ペトロの通訳であったマルコが記憶していたことをすべて正確に書き下ろした」と言い、六四年のペトロ殉教の後、使徒たちがいなくなる時代のために必要を感じ、イエスの働きと生涯を伝える「福音書」をローマで異邦人のために書いたとしています。この伝承が語るように、ユダヤ戦争の時期はそれまで別々に伝えられていたイエスに関わる諸伝承が、「使徒たちがいなくなる時代のために」一つにまとめられて文書化される機運が熟していたと言えるでしょう。
 それを最初にしたのがマルコです。マルコ福音書の成立についてはすぐ後で触れますが、その前にイエス伝承をまとめて福音書にするということの意義を明確にしておかなければなりません。それはけっしてイエスの伝記を書きとどめるためではありません。それはあくまで「キリストの福音」を世に告知するためのものです。
 マルコ福音書を実際に書いたのが、使徒言行録に出てくるヨハネ・マルコであるのかどうかは議論されていますが、著者がこのマルコであると見ると、福音書という文書の性格を理解するのに好都合です。マルコは、使徒言行録とパウロ書簡が示しているように、もともとはエルサレム共同体の一員でしたが、従兄弟のバルナバにアンティオキアに連れてこられて、アンティオキア共同体で働き、パウロの同労者としてパウロと共に地中海世界に「キリストの福音」を告知する働きを進める体験をしました。
 同時にマルコは、ペトロと親しい関係にあり、ペトロからイエスに関する諸伝承を直接伝えられる立場でした。ペトロはエルサレムでは「マルコと呼ばれていたヨハネの母の家」を拠点として活動していたと見られ(一二・一二)、その家にいる若いマルコを「わたしの子」と呼んでいつくしんでいたようです(ペトロT五・一三)。マルコはバルナバと同じくキプロス出身のギリシア語系ユダヤ人家族の一員ですが、エルサレムに長年在住して(エルサレムで生まれた可能性もあります)アラム語もよくするバイリンガルのユダヤ人でしたから、ギリシア語が不十分なペトロの通訳として、ペトロの地中海世界での福音活動に同伴してローマにまで行ったと見ることができます。ペトロの助手また通訳としての働きの中で、マルコはペトロが語り伝えるイエス伝承を十分聴いたことでしょう。
 このマルコが、パウロと共に告知した「キリストの福音」を世界に告知しようとして、しかもそれを「使徒たちがいなくなる時代のために」ペトロから伝えられたイエス伝承を用いて書き残そうとしたとき、出来上がったのが「マルコ福音書」であると見ると、「福音書」という文書の性格をよく理解することができます。福音書はイエスの伝記ではなく、イエス伝承を用いてキリストの福音を告知する文書です。福音書がこのような性格の文書であることから生じる福音書の特質や問題点については、後の福音書を扱う章で詳しく述べることになりますが、ここでは福音書がたんなるイエス伝承の集成ではなく、あくまで十字架と復活の《ケリュグマ》に代表される「キリストの福音」を世界に告知するために書かれた文書であることを指摘しておきます。

ペトロの権威の確立

 一口に「イエス伝承」と言っても、その担い手や地域によって多様な形を取り、一様ではありません。たとえば、パレスチナ・シリア方面で形成されて伝承されたイエス伝承で、エデッサを中心とする東シリアではトマスを権威とする伝承が確立していました。先に見たように、そこで形成されたイエスの語録集は、「トマス福音書」に見られるように、トマスをイエスの知恵の継承者として、かなりグノーシス化した語録を多く含むようになっています。それに対してアンティオキアを中心とする西シリアではペトロの権威が確立していました。
 イエスの直弟子の一人として、またイエス復活後のエルサレム共同体の形成に主導的な役割を果たした弟子として、ペトロは最初期のエルサレム共同体でもっとも中心にいる指導者でした。イエス復活後三年後に回心したパウロが、イエスについて詳しく知ることを望んでエルサレムに行ったとき、会って十五日間も一緒に過ごしたのはペトロでした。ペトロはエルサレムだけでなく、サマリアやカイサリアにまで赴き、ユダヤ教徒以外の人たちにイエスのことを伝えることにも積極的でした。四三年のヘロデ・アグリッパによる迫害でエルサレムを去った後、ペトロはアンティオキアに姿を現し、異邦人信者とも積極的に交流しています(ガラテヤ二・一一〜一四)。アンティオキアで異邦人との食卓の問題でパウロと対立しますが、パウロが去ってからはアンティオキアを中心にシリアで活動し、ペトロが伝える伝承が普及し、ペトロの権威が確立するようになります。エルサレム共同体で形成され、アンティオキア共同体が継承していた最古の《ケリュグマ》(コリントT一五・三〜五)では、復活されたイエスは最初にペトロに現れたとされています。
 この地域におけるペトロの権威の確立は、この方面のイエス伝承を素材として形成された正典の共観福音書によく示されています。十二弟子の中で最初にイエスをメシアと言い表したのはペトロです(マルコ八・二九)。イエスがご自分の教会をその上に建てる岩とされたのはペトロです(マタイ一六・一八)。散らされた弟子たちを力づけることを委ねられたのはペトロです(ルカ二二・三二)。イエスの逮捕のとき三度までイエスを否認したことも含め、正典の共観福音書に出てくる弟子の行動の叙述ではいつもペトロが主役です。この事実は、パレスチナと西シリアで伝承されたイエス伝承においては、ペトロの権威が確立していたことを指し示しています。
 正典の共観福音書だけでなく、この時期にシリアで流布していた外典の文書にも、この地域ではペトロの権威が主流であったことを示すものがあります。たとえば、エウセビオスが(『教会史』六・一二・二〜六で)言及している「ペトロ福音書」は、後に発見された断片から受難物語の大部分、空の墓、復活後の漁の話の一部を含んでいたことが確認されていますが、そこでもペトロが主役です。これもアンティオキアの司教が知っていた文書として西シリアに位置づけられます。その受難物語は正典福音書の受難物語よりも古い伝承を反映しているとされています。そのような古い受難物語伝承がペトロの名によってアンティオキアを中心とする西シリアにあった事実は、この地域でのペトロの権威が確立していたことを傍証しています。

「ペトロ福音書」については、『聖書外典偽典』(教文館)Y141頁以下の「ペトロ福音書」(小林稔訳)を参照してください。

マルコ福音書の成立

 このようなペトロの権威が確立していたパレスチナから西シリアにおける流れの中で、最初の福音書であるマルコ福音書が成立したと見られます。先にマルコ福音書の成立について語るパピアスの証言を紹介しましたが、それはマルコ福音書の性格を示唆するには好都合でしたが、(彼のマタイに関する不正確さからして)額面通りにマルコの著作として受け取ることはできません。著者の個人名を特定することはできませんが、ペトロの権威が確立していたパレスチナから西シリアの諸伝承を用いている事実からも、この地域の福音運動の中で成立したことはほぼ確実と言えます。
 マルコ福音書はギリシア語で書かれており、用いた伝承資料にあるアラム語表現は例外なくギリシア語に訳して説明しているところから(マルコ五・四一、七・三四、一五・三四)、この福音書はこの地域のギリシア語圏で、ギリシア人を対象として、あるいはギリシア語を用いる共同体を対象として行われていた福音活動の中で成立したものと考えられます。そうするとこの福音書は、ペトロの権威が確立していた時期のアンティオキア共同体またはその周辺で成立した可能性が高いと見ることができます。著者自身は、パレスチナの地理に暗く(マルコ七・三一のイエスの旅程はきわめて不自然です)、アラム語圏のパレスチナ以外の出身であることをうかがわせます。
 マルコ福音書の成立時期については、七〇年のエルサレム神殿崩壊との関わり方が示唆を与えます。マタイ福音書とルカ福音書にはエルサレムの陥落がすでに起こったことを知っていることをうかがわせる表現がありますが(マタイ二二・七、ルカ一九・四三〜四四)、マルコには並行記事はありません。マルコ福音書一三章はエルサレム神殿の崩壊を語っていますが、それは将来の予言です(二節)。しかし、戦争が身近に迫っており(七節)、「逃げよ」という預言も具体的です(一四節以下)。このような事実から、この一三章の「小黙示録」は七〇年の神殿崩壊の直前に書かれ、福音書自体も七〇年のエルサレム陥落の前後に成立したと見られます。

エルサレム陥落という歴史的事件をマルコ福音書の成立と直接結びつける説もあります(マルクスセン、ペリン)。この説では、エルサレム共同体はエルサレム陥落の直前、エルサレムを脱出してガリラヤに移り、そこで「人の子」の来臨を待ちます。「ガリラヤでお会いすることになる」という予告(マルコ一四・二八と一六・七)は「来臨」《パルーシア》の予告であり、一三章の「小黙示録」は、前兆としてのこの大患難の時代に、「人の子」イエスの顕現を待ち望む共同体の信仰の表現とされます。

 繰り返し述べてきたように、七〇年のエルサレム陥落・神殿崩壊は、福音の展開の歴史において時期を画する重大な意義をもつ出来事でした。この出来事をもって最初期の福音の史的展開は前期と後期に分かれます。まさにその時期に最初の福音書であるマルコ福音書が成立したことは意味深い出来事です。この最初の福音書は、それまで(前期)のイエス伝承を統合して一つのまとまった物語を形成し、そのイエスの物語をもってキリストの福音を提示するという新しい類型の文書を創造し、「福音書の時代」と呼べる続く時期(後期)を切り開く突破口となります。ペトロの権威をいただくこの福音書が知られ流布するようになって、後期にはこの福音書を基礎にして、各地の共同体の状況に対応した福音書が形成されるようになります。
 マルコ福音書の内容については、後に福音書を扱う章で詳しく触れることになりますが、ここでは成立の事情を瞥見し、その成立がパレスチナ・シリア地域での福音の進展の中で起こった最大級の重要な出来事であることを示すにとどめます。

マタイ福音書の成立

 パレスチナ・シリア地域での福音の進展の中で起こったもう一つの大きな出来事は、マタイ福音書の成立です。マタイ福音書の成立事情も、マルコ福音書の場合と同じく、文書そのものの内容から推察しなければなりません。この福音書の内容と構成を子細に検討すると、基本的にはマルコ福音書の構成に従い、ガリラヤでの「神の国」告知の活動、エルサレムへの旅、エルサレムでの受難と復活という三部構造をとり、記事も字句通りマルコ福音書に従っているところが多くあります。同時にマルコ福音書にはない多くのイエスの語録を用いて五つの独自の説話を構成し、誕生から始まり十字架の死と復活で終わる壮大なメシア・イエスの物語を書き上げています。現代の研究はほぼ共通して、この福音書がマルコ福音書と「語録資料Q」とマタイの独自資料(M)を用いて書かれていることを認めています。
 後に「マタイによる福音書」と呼ばれるようになるこの福音書を生み出した共同体を「マタイ共同体」という呼称で指すと、この「マタイ共同体」は(福音書の内容から)シリアにあったユダヤ人信者の共同体であったと推定されます。マルコ福音書の使用とペトロの権威の強調はアンティオキアを中心とする西シリアでの成立を指し示しています。また、その内容はユダヤ教内キリスト信仰の体質を強く残しており、ユダヤ人の共同体であったことがうかがわれます。その内容については、後の福音書を扱う章で詳しく検討することになりますが、ここでは七〇年以後のパレスチナ・シリア地域でのユダヤ教内キリスト信仰の状況を示唆する資料として一瞥しておきます。

マタイ福音書の成立・性格・影響については、すでに前著『福音の史的展開T』の286頁「マタイ福音書の性格」の項で述べていますし、マタイ共同体について本書35頁の「シリアの状況」という項で述べていますので重複しますが、七〇年以後のシリアにおけるユダヤ教内キリスト信仰の状況について語るには欠かせない資料ですので、その観点から再説します。

 マタイ福音書には、この福音書を生み出した共同体(マタイ共同体)がもともとパレスチナで「語録資料Q」を担ってきたユダヤ人の信仰運動を継承する共同体であることを指し示す指標が多くあります。たんに「語録資料Q」からの素材を多く用いているというだけでなく、「語録資料Q」の信仰理解で貫かれており、必要ならばその信仰理解でマルコ福音書を訂正もしています。それは全体の構成にも現れ、マルコ福音書では十字架の死に至る受難が構成原理となっていて、「長い序文をもつ受難物語」の様相を示し、それを福音として提示していますが、マタイ福音書は誕生と受難を物語の枠として、主体は五つの説話にまとめられたイエスの教えの言葉です。イエスの言葉に従う生活こそが信仰であるとするQ共同体の精神が貫かれています。それで、復活されたイエスが弟子たちに与える最後の命令も、「すべての民に福音を宣べ伝えよ」ではなく、「すべての民をわたしの弟子とせよ」であり、「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えよ」となります(マタイ二八・一九〜二〇)。
 マタイ共同体が、Q共同体がそうであったユダヤ教内キリスト信仰の体質を色濃く残していることを示す指標も多くあります。ユダヤ教律法に対しては、その永続性を疑うことなく、イエスを信じることは律法を廃棄するのではなく完成するのだと宣言します(マタイ五・一七)。霊的能力を現しながらも「不法をなす者」(律法を軽視ないし無視する者)に対しては偽預言者として厳しく批判します(マタイ七・一五〜二三)。イエスがメシアであることを示すために、出来事の一つ一つに「聖書が成就するためである」という聖書証明を加えています。イエスがダビデに約束されたメシアであることを示す「ダビデの子」という称号を繰り返し用いています。そして、状況がすっかり変わっているのに、「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい」という、ユダヤ教内キリスト信仰に典型的な語録を残しています(マタイ一〇・五〜六)。
 このようなマタイ福音書の指標は、マタイ共同体とは、パレスチナにおいて進展したユダヤ人の信仰運動であるQ共同体が、ユダヤ戦争で荒廃したパレスチナからシリアに移住してきたものではないかという推察を促します。そして、この地ですでにペトロの権威の下に流布していたマルコ福音書を受け入れ、その枠組みを用いて、自分たちの語録伝承を主体とする福音書を構成したと見られます。
 シリアでのユダヤ人の移住先としてはまず大都会であるアンティオキアが考えられます。マタイ共同体の位置は確認できませんが、アンティオキアである可能性は高いはずです。アンティオキアには、これまでに見てきたように、異邦人信者を主体とする異邦人伝道に熱心な共同体が活動していましたが、アンティオキアのような大都会ではマタイ共同体のようなユダヤ人の共同体も別に存在することは十分にできたことでしょう。バルナバやパウロに指導されたアンティオキア共同体も、七〇年以後の時代では世代交代も進み、パウロの影響は残っていたでしょうが、パウロが去った後に確立したペトロの権威の下に、ユダヤ戦争後の新しい状況における歩みが始まっていたと推察されます。
 その新しい状況については、ユダヤ戦争後にファリサイ派の主導で再建されたユダヤ教会堂勢力とマタイ共同体の厳しい対立が注目されます。ユダヤ戦争後のユダヤ教を統率したのは、ヤムニアに置かれた「法院」でした。それはファリサイ派の律法学者たちによって構成され、最高法院の権限を受け継ぎ、「決定」を出して各地の会堂を指導しました。黙示思想的なメシア運動がエルサレムの陥落という悲運を招いたとして、ファリサイ派ラビたちが解釈する律法に忠実でない者たちを異端として厳しく排除するようになります。会堂で唱えられる「一八祈願」に異端者を呪う言葉が入れられ、その中にイエスをメシアと言い表す「ナザレ人たち」が含まれるようになります。イエスをメシアと言い表すユダヤ人は会堂から追放されるという決議がなされます。

この「会堂からの追放」決議について詳しくは、拙著『対話編・永遠の命 ― ヨハネ福音書講解T』357頁の「会堂からの追放決議」の項を参照してください。

 この決議が何年に行われたかを正確に確定することはできませんが、七〇年代と見られるこの決議以降では、イエスを信じたユダヤ人はもはやユダヤ教徒であることはできなくなります。七〇年以前では、イエスを信じたユダヤ人は周囲のユダヤ人から迫害を受け、会堂で糾弾されたり、鞭打たれたりしましたが、会堂から追放されることはありませんでした。彼らはユダヤ教徒のままで、イエスの信者でありえました。パウロでさえもそうです。パウロはあれだけユダヤ人から迫害され、会堂で何回も鞭打ちの刑を受けましたが、最後までユダヤ教徒でした。パウロは最後までユダヤ人の救済を祈り、その実現を信じています(ローマ書九〜一一章)。
 しかし、マタイの時代にはイエスを信じる者はユダヤ教徒ではありえなくなりました。すなわち、「ユダヤ教内キリスト信仰」は成り立たなくなったのです。イエスをメシア・キリストと信じるマタイ共同体とユダヤ教会堂とは決定的に断絶し、激しい非難の応酬だけとなります。マタイ福音書にはもはやユダヤ教会堂に向かって信仰を呼びかける姿勢はなく、偽善者として、地獄の子として断罪するだけになります(マタイ福音書二三章はその集成です)。
 このような状況で、マタイ共同体はもはやユダヤ教内部に留まることはできず、外の異邦人世界に乗り出そうとしています。その覚悟は、復活されたイエスからの「あなたがたは行って、すべての民を弟子とせよ」という命令として自覚されています。マタイ共同体がユダヤ教会堂から出て行こうとしている姿勢は、会堂から立ち去るイエスの姿に重ねられて語られます(マタイ一二・一五〜二一)。水の上を歩いて来られたイエスに向かって、ペトロが「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と言い、イエスの「来なさい」という言葉に従って、水の上を歩いたという、マタイだけが伝えている記事(マタイ一四・二八〜三三)は、ただ復活者イエスの言葉だけに頼って、ユダヤ教という支えがない異邦世界に乗り出そうとしているマタイ共同体の姿を重ねているとも読めます。マタイ福音書はユダヤ教内キリスト信仰の体質は濃厚ですが、もはや割礼や食物規定や安息日規定の順守を求める姿勢はありません。
 このように、パレスチナ・ユダヤ人が伝えるイエス伝承を豊富に継承し、その担い手のQ共同体のユダヤ教内キリスト信仰の質を色濃く残しながら、同時に異邦人世界に福音を伝えようとするマタイ福音書は、誕生から始まり死と復活に至るイエスの全生涯の中に、五つの重要な説話を含む壮大な構成の故に(そしておそらくは正典形成期に広く認められていたペトロの権威の故に)、正典新約聖書の最初に置かれ、「第一福音書」となります。その結果、新約聖書を読もうとする者はまずマタイ福音書を読むことになり、この福音書は後世のキリスト教の歴史に決定的な影響を及ぼすことになります。

結 び 

 本章は福音の揺籃の地となりましたパレスチナ・シリアにおける七〇年以後の福音の進展を概観しようとしていますが、その最初の課題として、本節でその地域での進展の歴史的側面をまとめてみました。使徒時代の終焉はユダヤ戦争に至る激動の六〇年代と重なりますので、その後の福音の展開に重要な影響を及ぼすことになるこのユダヤ戦争前後の時期をまず概観し(TとU)、その後のパレスチナ・シリア各地での進展を追いました(V)。そして最後に、このパレスチナ・シリア地域で語り伝えられたイエス伝承がまとめられ、文書化され、最後に福音書という形になる過程を見てきました(W、X)。
 一口にパレスチナ・シリア地域と言っても、その中にはアンティオキア共同体に担われた異邦人に向かう福音活動の流れもあったのですが、それは次章でエーゲ海地域における進展との関連で触れることにして、本節ではおもにこの地域のユダヤ教内キリスト信仰の消長を追いました。ここで見たように、ユダヤ教内キリスト信仰を代表するエルサレム共同体が、ユダヤ戦争によるエルサレム陥落で壊滅的な影響を受け、歴史の表舞台から去ることになり、救済史の中核的な担い手ではなくなります。「異邦人の時代」が始まります。しかし、当初からパレスチナ・シリア地域に展開したユダヤ教内キリスト信仰の人たちの活動は、七〇年以後の後期においてもこの地域で進展し、この地域の福音運動に豊富なイエス伝承を提供することになります。この人たちこそ当初からイエス伝承の担い手でした。彼らが伝えたイエス伝承がこの地域で進展していた「キリストの福音」を告知する運動に流れ込み、福音書を形成することになります。この地域で形成されたと見られるマルコ福音書とマタイ福音書の存在は、彼らの働きの歴史的意義を何よりも雄弁に語っています。マルコ福音書はエーゲ海地域で異邦人のために書かれたルカ福音書の基礎にもなります。こうして、後のキリスト教の主要な典拠となる福音書には、イエス伝承の担い手の体質であるユダヤ教内キリスト信仰、とくに黙示思想的終末信仰が色濃く染みこむことになります。このように見てくると、この時期のパレスチナ・シリアにおける福音の史的展開の重要性が浮かび上がってきます。