市川喜一著作集 > 第21巻 福音の史的展開U > 第5講

第二節 ローマ帝国社会での迫害と福音の進展

       ― ローマ関連文書におけるキリスト信仰

はじめに

 本章では「パウロ以後のキリストの福音」を扱っていますが、前節でパウロ名書簡によって、エーゲ海地域の異邦人諸集会におけるパウロ以後の福音の進展と、その質の微妙な変化を見ました。それに続いて本節では、エーゲ海地域と深い関わりにあった帝都ローマの共同体の成立と、使徒以後の時期におけるローマ共同体とエーゲ海地域諸集会との関わりを見ることになります。
 この時期にはローマ帝国社会におけるキリスト者への迫害が目立つようになり、迫害の中でキリスト信仰を堅持するように励ます文書が書かれるようになります。ペトロ第一書簡やヘブライ書が典型です。両書ともローマとの関わりが深く、この時期に成立した使徒名書簡としての性格をもつ文書です。なお、ローマ帝国による迫害に対抗する代表的文書としては、ヨハネ黙示録があります。これは使徒名書簡ではありませんが、この時期における福音の進展を扱うさい、ローマ帝国との関連で欠かすことはできませんので、ここで取り扱います。

T ローマにおけるキリスト者共同体

ローマのユダヤ人

 一世紀にはローマ帝国の首都ローマにも多くのユダヤ人が住んでいました。そのことは、ルカも使徒言行録の最後の章で伝えています。パウロが皇帝の裁判を受けるためにローマに護送されてきたとき、パウロはローマ在住のユダヤ人の代表者たちと接触し(二八・一七)、数日後には大勢のユダヤ人と会合をもって(二八・二三)、自分の信仰と立場を弁証しています。また、その少し前に書かれたローマの人たちへの手紙(ローマ書)においても、ローマの共同体にユダヤ人と異邦人の両方のグループがあることが証言されており(一四・一〜一五・一三)、最後の挨拶(一六章)でも多くのユダヤ人の名があげられています。福音が伝えられる前にユダヤ人の共同体があったことが、ローマのキリスト者共同体の成立に重要な前提となっているので、まずローマにおけるユダヤ人共同体の実態を見ておきましょう。
 地中海世界東部の諸都市には、捕囚以後の早い時期からディアスポラ・ユダヤ人の共同体があり、パレスチナに近いアンティオキアやアレクサンドリアなどの大都市には大きなユダヤ人共同体があったのに較べ、西部へのユダヤ人の移住は比較的遅く、ローマがユダヤ人共同体の存在が確認される最初の都市になります。
 文献上でユダヤ人とローマの接触が最初に確認されるのは、前二世紀半ばにマカベヤ家のユダがローマに使節を送りローマと同盟関係を結び、その同盟が彼の後継者ヨナタンとシモンによって遣わされた使節によって更新された時(マカバイT八・一七〜三二、一二・一〜四、一四・二四)が最初です。他にローマ側の文献では、ティベリウス帝時代のローマの歴史家マキシムスが前一三九年の出来事の記録として、ペレグリヌスというローマ市の役人がユダヤ人を(カルディア人や占星術師らと共に)ローマから追放したという記事を書いています。その追放の理由は、ユダヤ人が「ユピテル・サバツィウスの祭儀」というローマの風習に反する祭儀を持ち込んだからだとしています。この祭儀の名については様々な説明がされていますが、「ヤハウェ・ツァバオス」(万軍の主)のローマ側の呼び方とする見方や、サバス(安息日)を特色とするユダヤ教の祭儀を指すローマ側の名と見る説が有力です。断片的な記事ながら、前二世紀の後半には、勃興期のローマとハスモン朝時代のユダヤ人の交流が始まり、ローマにユダヤ人が在住し始めていたことがうかがわれます。
 歴史的に確実なのは、ハスモン王朝の後継争いに乗じて介入したポンペイウスが前六三年にパレスチナとエルサレムを征服し、多くの戦争捕虜のユダヤ人を奴隷としてローマに強制移住させた出来事です。彼らの多くは間もなく解放され、テベレ川西岸地区に定住し、人口も増し加わっていきます。前五九年にエルサレム神殿に関わる事件でキケロが公開の場で彼の仲間を弁護する演説をしたとき、多くのユダヤ人が押し寄せたことが伝えられています。この演説で、キケロはユダヤ人を「野蛮な迷信」に従う愚かな群衆として非難していますが、それはその後に続くローマ人のユダヤ人に対する反感をよく代弁しています。前一世紀には、ローマのユダヤ人が改宗者を得ようとして熱心に活動していることが、ローマ側の文書にも現れるようになります。
 ヘロデ大王はカエサルと友好関係を結び、カエサルからユダヤ人に好意的な多くの布告を得ていました(ヨセフス『古代史』一四巻一八五以下参照)。この布告はコンスタンティヌス帝に至るまで実質的には保持されたようです。この布告により、ユダヤ人は三つの主要な特権を与えられました。第一は集会と礼拝の完全な自由、第二は兵役の免除、第三は独自の法廷をもつ権利です。ユダヤ教は帝国の「レリギオ・リキタ」(合法宗教)として公認され、帝国のユダヤ人はみな国家の宗教祭儀への参加を免除されました。
 しかし、ローマ社会には、ローマ古来の伝統に反するユダヤ人の宗教習慣には反発する気風が強く、ローマの政策も寛容と弾圧の間を揺れ動きます。初代の皇帝アウグストゥスはユダヤ人に対して比較的寛容であったようですが、次のティベリウス帝(在位一四〜三七年)は厳しく扱い、一九年に武器を取れる年齢のユダヤ人青年男性多数をサルディニアの戦場に送って、ユダヤ人共同体に打撃を与えたとされています。
 クラウディウス帝(在位四一〜五四年)がユダヤ人をローマから追放したことが伝えられています。スエトニウスはその著『皇帝伝』のクラウディウスの事跡を記した箇所で、「彼はクレストゥスの扇動によって絶えず騒乱を起こすユダヤ人をローマから追放した」と書いています。これは四九年のこととされています。ところが、同じくローマの歴史家ディオ・カッシウスは、クラウディウスはユダヤ人の集会を禁止しただけだと伝えています。この二つの記事は共に事実であって、おそらく騒乱を抑えるために集会を禁止したが、効果がなかったので追放に進んだという二段階の措置を指していると見られます。この追放令の結果コリントに移住してきていたアキラ・プリスキラ夫妻と、五〇年にコリントに到着したパウロが出会うことになります(一八・二)。

この二つの記事を調和させるために、追放は騒乱の当事者だけであり、使徒言行録一八・二の「すべてのユダヤ人をローマから退去させた」はルカの誇張だと見る説もありますが、二段階と見て、ルカの記事は事実を伝えているとするのが順当でしょう。

 クラウディウスの後を継いだネロ(在位五四〜六八年)はユダヤ人追放令を解き、ユダヤ人に対して比較的好意的な態度をとります。これは寵妃ポッピアがユダヤ教に帰依する「神を畏れる者」であったので(ヨセフス)、その影響と見られます。ユダヤ人歴史家のヨセフスは、この皇妃の庇護の下で活動し、「ユダヤ戦記」などを著述しています。
 ネロの時代に始まったユダヤ戦争は、七〇年のエルサレム陥落と神殿の崩壊を頂点として七三年に終結します。ネロの次のヴェスパシアヌス帝(在位六九〜七九年)は、ユダヤ戦争を指揮した将軍であり、戦後ユダヤ人に対して厳しい姿勢で臨みます。彼は「ユダヤ金庫」を創設、それまでエルサレム神殿に納めていた年二ドラクマの神殿税をユピテル・カピトリヌス神殿に納めるように命じます。このユダヤ人にとって屈辱的な税金は、ドミティアヌス帝によって極めて厳しく取り立てられるようになります。

「ユダヤ金庫」については、本書15頁を参照してください。

 ローマのユダヤ人共同体の規模について最初に現れる証言は、前四年のヘロデ大王の死にさいしてパレスチナのユダヤ人がアウグストゥス帝に送った請願の使節団を、ローマのユダヤ人八〇〇〇人が出迎えて随行したというヨセフスの記事です(古代誌)。この頃すでにローマのユダヤ人在住者はかなりの規模になっていたことがうかがえます。一九年にティベリウスがサルディニアに送った青年男子は四〇〇〇人と記録されていますので、その家族や親族を含めますと、パウロの時代のローマのユダヤ人人口はほぼ二万人規模であったと推計されます。ローマ市の人口は約一〇〇万(あるいは八〇万人)と推定されていますので、ユダヤ人はローマ人口の約二パーセントを占めていたことになります。この数はユダヤ戦争以後にさらに増えたと考えられます。ヨセフスの「ユダヤ戦記」によると、戦後に一〇万人のユダヤ人が安い価格で奴隷に売られたと報告されており、その中のかなりの部分がローマに来たと推定されるからです。
 ローマのユダヤ人は、アレクサンドリアのユダヤ人とは対照的に、一つの共同体を形成していませんでした。アレクサンドリアでは、五つの市区の中の二つをユダヤ人が占め、《エスナルケー》(民族の長)と呼ばれる一人の指導者の下に《ポリテウマ》と呼ばれる単一の自治共同体を形成していたのに対し、ローマではそのような単一の組織はなく、《シュナゴゲー》と呼ばれる複数のユダヤ人共同体がローマの各地に散在して活動していました。この場合の《シュナゴゲー》は礼拝のための会堂を指すのではなく、それぞれのユダヤ人共同体を指し、それぞれの地区や保護者の名前で呼ばれていました。その中でテベレ川西岸地区の《シュナゴゲー》はもっとも古く、アラム語を使う人たちであったからか、「ヘブライ人の《シュナゴゲー》」と呼ばれていました。現在では十一の《シュナゴゲー》の存在が確認されていますが、その中の五つはパウロのローマ到着以前に存在していたと見られています。
 それぞれの《シュナゴゲー》は「長老会議」《ゲルーシア》によって統制されていました。この「長老会議」は《シュナゴゲー》共同体の宗教的、法律的、財政的運営を司り、《ゲルーシアルク》と呼ばれるその議長が《シュナゴゲー》共同体を代表することになります。その下に、《グラマテウス》(律法の専門家)とか、礼拝を司会する《アルキシュナゴーゴス》(会堂司)とか、各種の基金を集める係とか、聖具を保管する係などがいたようです。
 ローマのユダヤ人共同体はその生活と集会でギリシア語を用いていました。これは当時のディアスポラ・ユダヤ人として自然なことですが、政府の公用語であったラテン語ではなく、当時広く地中海世界の庶民の共通語であったギリシア語を用いていたことは、ユダヤ人の間で生まれ育ったローマのキリスト者共同体がギリシア語を用いる共同体となり、パウロが母語のギリシア語で語りかけることができる共同体であり、広くエーゲ海地域の共同体と交流を深めることができる共同体となる基盤となります。
 ローマのユダヤ人は、その歴史が他のヘレニズム世界の大都市と較べて若いせいか、商業活動で資産をなした者や都市の有力者として活動した者は記録されておらず、カタコウム(地下墓地)の墓碑などからすると、奴隷をはじめ比較的貧しい階層に属するものが多かったようです。
 ローマのユダヤ人共同体の特色は、アレクサンドリアのユダヤ人共同体のように一つの組織をもった共同体を形成せず、多くの《シュナゴゲー》共同体が個別に活動していたことです。この事実は、ローマに形成されたキリスト者共同体の在り方に大きく影響します。

ローマにおけるキリスト者共同体の形成

 ローマにいつ誰によって福音が伝えられたのかは確認できません。異邦人への使徒パウロは、帝国の首都ローマに福音をもたらすことを熱烈に志していましたが果たすことはできず(ローマ一・九〜一三)、五六年にコリントからローマの人たちに手紙(ローマ書)を書いたときには、すでにローマには小規模ながらキリスト者の共同体が存在していました。ローマ書は、この時期(五〇年代半ば)におけるローマのキリスト者共同体に関するもっとも重要な証言であり資料です。
 先に見たように、クラウディウス帝は四九年に「クレストゥスの扇動によって絶えず騒乱を起こすユダヤ人をローマから追放した」とローマの歴史家によって記録されていますが、この「クレストゥス」は明らかに《クリストス》の不正確な表記ですから、四九年にはローマのユダヤ人の間にキリストの福音が伝えられ、キリスト信仰をめぐってユダヤ人の間に論争と騒乱が起こっていたことが確認できます。そうすると、三〇年のイエスの十字架・復活の出来事の後二〇年足らずの間に、少なくともローマのユダヤ人にはキリストの福音が伝えられ、信じる者の活動が始まっていたことが分かります。
 このことは、ディアスポラ・ユダヤ人と聖都エルサレムとの密接な交流からすれば、当然のこととして理解できます。とくに、エルサレムには「リベルテン(解放された者)の会堂」があり(六・九)、ローマから来住している解放された奴隷のユダヤ人が多数いたのですから、エルサレムで起こったイエスの十字架と復活の出来事と、それを告知する使徒たちの働きを体験した者が、イエスをメシア・キリストとする信仰をローマのユダヤ人共同体に伝えたことは当然です。
 最初期にイエスをメシア・キリストとする信仰をローマに伝えたユダヤ人の名は伝えられていませんが、ローマのユダヤ人共同体《シュナゴゲー》の成員でエルサレムに巡礼した人たちがその信仰をローマにもたらしたことも推察されます。エルサレムまたはパレスチナの無名の信者たちによってローマに伝えられた可能性もあります。ローマ書一六章七節のアンドロニコとユニア(おそらく夫妻)も、そのようなユダヤ人の伝道者であった可能性があります。この二人は、パウロより先にキリストを信じる者となっており、「使徒たちの中で目立った」働きをし、パウロと一緒に投獄されたこともある先輩使徒として紹介されています。

ここは新共同訳を含め多くの訳で「アンドロニコとユニアス」と訳され、二人の男性とされていますが、原文では対格の「ユニアン」は、ユニアスという男性ではなくユニアという女性であることが、P・ランペの詳しい研究によって確認されています。この点について詳しくは、左記の文献を参照してください。
 K.P.Donfried, edt. " THE ROMANS DEBATE " p.223

 ローマでキリスト信仰の証のために活動したユダヤ人の中でもっとも目立つのは、アキラ・プリスキラ夫妻です。この夫妻の名が最初に登場するのは、四九年のクラウディウス帝によるローマからのユダヤ人追放令によってローマからコリントに来て、そこでパウロに会ったときです(一八・二)。夫妻はパウロと会ってすぐに協力して福音を伝える働きをしているのですから、ローマですでにキリスト者であったことは明らかです。そうするとキリストをめぐるローマのユダヤ人の間での論争と騒乱の当事者であったことになります。アキラとプリスキラが証言するキリストをめぐって、ユダヤ人からの激しい反対があり、その論争が騒乱にまで発展したのでしょう。おそらく、ローマ総督によって十字架刑にされたイエスがイスラエルに約束されたメシアであると信じることに対する反対だけでなく、イエスを信じるユダヤ人たちのモーセ律法に対する軽視が論争の的となったのではないかと推察されます。アキラ・プリスキラ夫妻は、すぐ後にパウロと意気投合して活動している事実から、パウロ的な律法から自由なキリスト信仰を主張したと見られます。
 アキラは「ポントス州出身のユダヤ人」と紹介されています(一八・二)。ポントス州に福音が伝えられるのはずっと後のことですから、アキラはローマに出てきて福音に接し、信仰に入ったものと見られます。プリスキラ(短縮形のプリスカと呼ばれることも多い)との結婚もおそらくローマに来てからのことでしょう。プリスキラという名は奴隷にはなく、そこそこの富裕な家柄の女性であったと推察され、夫妻の名があげられるとき、「プリスキラとアキラ」と、テント職人のアキラよりも先になるのはそのためであると見る人もいます。もっともこの順序はプリスキラの方が福音活動において主導的であったからだとする説が有力です。

アキラ・プリスキラ夫妻がかなりの規模のテント製造業者であり、パウロを世話したり、集会をすることができる家をもつことができる富裕層の夫妻であったとする説もありますが(ヘンゲルも)、これは確認できません。むしろ、多くの記事が普通のテント職人であることを示唆しています。

 パウロがコリントに一年半滞在した後、エルサレムに向かって出発したとき、アキラ・プリスキラ夫妻も同行してエフェソまで来ます。パウロがそこからさらに船を乗り継いでエルサレムに向かったとき、夫妻はエフェソに残り、このアジア州の州都エフェソで福音活動を進めます(一八・一八〜二八)。パウロがエルサレムでの使命(使徒たちとの会談)を終えて、内陸の高地地方を通ってエフェソに戻ってきて活動を始めたとき、アキラ・プリスキラ夫妻はすでに自分の家で集会をして活動しています(コリントT一六・一九)。パウロはローマ書(一六・四)の挨拶で、この二人を「わたしの命のために首を差し出してくれた」人たちと呼んでいます。これはおそらくエフェソでの騒乱でパウロが危機に陥ったときに、この二人が自分の命の危険を顧みずにパウロを助けたことを指していると見られます。
 クラウディウスが亡くなってネロが後を継いだとき(五四年)、ローマからのユダヤ人追放令は廃止され、アキラ・プリスキラ夫妻はローマに戻ります。パウロが五六年にローマ書を書き送ったとき、夫妻はローマにいます(ローマ一六・三〜五)。この五年に及ぶユダヤ人追放令はローマのキリスト者共同体に大きな変化をもたらします。
 四九年の追放令までは、ローマのキリスト者はおもに各ユダヤ人共同体《シュナゴゲー》の中のユダヤ人信者と、《シュナゴゲー》の礼拝に参加していた異邦人の「神を敬う者」であり、《シュナゴゲー》の中にいました。ユダヤ人がローマから追放されていなくなった後では、異邦人信者は《シュナゴゲー》とは別に集会を形成せざるをえなくなります。しかし、それまで各《シュナゴゲー》にいたキリスト者は、《シュナゴゲー》から離れても別々の共同体を形成し、一つの組織体とはならなかったようです。ここで、ローマのユダヤ人共同体が単一の組織体ではなく、複数の《シュナゴゲー》共同体に別れていたことが、ローマのキリスト者共同体の在り方に影響を及ぼしていることが見られます。
 「レリギオ・リキタ」(合法宗教)として様々な特権を認められているユダヤ教の庇(ひさし)を失った異邦人信者の共同体は、東方の宗教や習慣に対する周囲のローマ市民の反感を避けて、秘かに小さな集会をして信仰を維持したのではないかと想像されます。追放令が廃止されてユダヤ人信者がローマに戻ってきたとき、すでに形成されている異邦人信者の共同体との関係が問題になります。ローマに戻ってきたユダヤ人は当然元の共同体《シュナゴゲー》を形成したことでしょう。そのさい、別に形成されていた異邦人信者の共同体とどういう形で関わったのかが問題となります。パウロはこの時期のローマの人たちに手紙を書いてこの問題に触れていますので、この問題は次項(U)で扱うことにします。
 ネロ(在位五四〜六八年)の時代に、ローマのキリスト者共同体には衝撃的な事件が起こります。ネロはローマの大火の責任を、周囲のローマ市民から反感をもって見られていたキリスト教徒に負わせ、多数の信者を処刑します(六四年)。これは、それまでユダヤ教徒の一部として扱われていたキリスト教徒が、当局によってユダヤ教徒とは別の教徒として扱われるようになったことを意味します。この区別は、ユダヤ教に傾倒していた皇妃ポッピアの影響によると見られます。このネロの時代の後半に、パウロもペトロもローマで殉教します。ネロの時代は、ユダヤ教徒には有利な時代でしたが、ローマのキリスト者共同体には過酷な時代となります。

U ローマの共同体とローマ書

「ローマ書を最初に受け取った人びと」

 パウロは、二年余りのエフェソでの福音活動を終え、マケドニア州とアカイア州の諸集会を訪れて献金を集め、それを届けるためにエルサレムに行こうとして、コリントで船便を待っています(五五年から五六年にかけての冬、ネロ時代の初期)。そのエルサレムでの使命を果たした後、宿願のローマ訪問を果たし、ローマの人びとに送られてイスパニア(スペイン)にまで福音を携えて行こうとして、ローマの人びとあてに手紙を書きます(ローマ一五・二二〜二九)。それがローマ書です。ローマ書はパウロが告知したキリストの福音をもっとも包括的に提示する文書として、新約聖書の中でも最も重要な文書の一つであり、その内容の研究は山をなしていますが、同時にその時点でのローマのキリスト者共同体の様子を証言する資料でもあります。ここでは、ローマ書によってそれを受け取ったローマの共同体の様子を見てみたいと思います。

ローマ書が送られてきた時のローマの共同体の様子については、水垣渉氏の『ローマ書を最初に受け取った人びと』という、ユニークで優れた論稿がありますので(『天旅』二〇〇七年3号所収)、それをそのまま紹介したいのですが、紙数の都合でできません。それで、その論文から教えられた内容の要点を紹介して、この時期のローマの共同体の実情を描くことにします。

 最初の二世紀間、ローマのキリスト者は市内の別々の場所に分かれて集会をもっており、全員が集まる中央の集会所はありませんでした。それで、パウロはローマの人たちに手紙を書くとき、宛先として(コリント書簡TとUのように)「ローマにある神の《エクレーシア》へ」と書くことはできませんでした。パウロは「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ」と書いています(ローマ一・七)。《エクレーシア》という語は、プリスカとアキラの家に集まる集会を指すときだけに出てきます(ローマ一六・五)。本体部分(一〜一五章)には出てきません。
 パウロは書簡の最後(ローマ一六・三〜一六)で、ローマにいる知人たちに挨拶を送っています。そこに出てくる人名とグループから、当時のローマのキリスト者共同体の実態を垣間見ることができます。ここにあげられている28人の個人の中、アリストブロとナルキソはキリスト者ではないので、26人がキリスト者であり、その中の24人の名前が挙げられています。その26人のキリスト者の中の9人は女性で、男性は17人です(七節のユニアを女性と数えて)。各人に添えられている賛辞からすると、女性の方に福音のために協力し苦労した人が多いようです。
 名前の由来や頻度から自由人か奴隷出身者かがある程度判明します。研究者によると、名前のデータがとれる13人中、三分の二以上が奴隷出身、すなわち解放奴隷であり、ローマのキリスト者は東方出身者が多く、たいていローマ市民ではない属州民であったとされます。
 ローマ書一六章にはローマで活動していたいくつかの集会やグループがあげられています。1 アキラとプリスカの家の集会(五節)、2 アリストブロ家の人びと(一〇節)、3 ナルキソ家の信者たち(一一節)、4 アシンクリトらのグループ(一四節)、5 フィロロゴらのグループ(一五節)の五つがあげられていますが、他の14人がすべて同一のグループとは考えにくいので、少なくと他に二つのグループがあり、後のパウロ自身のグループ(使徒二八・三〇〜三一)を入れると八つのグループがあったことになります。
 各グループは名前をあげられている人の他に数人または十数人いたとすると、八グループの人数は30人から140人の間となりますが、ローマのキリスト者の総数は、コリント集会とほぼ同じ程度の50人前後と推定してよいのではないかと考えられます。
 このようなグループはどこで集会をしたのでしょうか。それはおもに「インスラ」の借家で行われていたと見られます。「インスラ」(島という意味の語)というのは、数階建ての集合住宅で、各家は街路に通じる階段から直接入れました。現代の公団住宅のようなものですが、四階まではセメントですが五階以上は木で造られていました。貴族や富裕階層は一戸建ての邸宅(ドムス)に住んでいましたが、大多数の民衆は一部屋または数部屋のインスラの住居に住みました。狭い市域に当時で(推定で)八〇万人ほどが住んでいたので、人口密度は平均的な日本の現代都市と較べると四倍以上になり、庶民は採光も悪く下水設備もない非衛生な住居にひしめくように住んでいたことになります。
 コリントでは、パウロ一行とコリントの共同体全体を世話することができる邸宅(ドムス)を持つガイオの家に集まっていましたが(ローマ一六・二三)、ローマでは小さなグループごとにこのようなインスラの部屋に集まっていたと推察されます。使徒パウロから送られてきた手紙(ローマ書)は、このような部屋に集まる小さい集会に次々に回されて朗読され、聴く者はアーメンと応えてパウロの告知する福音の言葉によって神を賛美したことでしょう。
 ローマ書はけっして冷徹な神学論議ではなく、パウロがその生涯をかけて告知してきた福音の全身全霊をかけた告白であり、それにふさわしい高揚した文体で書かれています。パウロの高揚した魂から迸り出る言葉の口述筆記で書かれたこの手紙は、それが朗読されるのを聴く者にも、魂の高揚を呼び起こします。現代のわれわれはローマ書のこのような性格を理解し、「パウロの肉声による福音書」(水垣)として受け取ることが重要です。

以上は水垣渉氏の論稿『ローマ書を最初に受け取った人びと』の不十分な要約ですが、この論稿の最後の「どのように読まれたか」は、ローマ書という文書の性格を理解する上できわめて重要な示唆であり、ローマ書の解釈に変革を迫るものと考えられます。

「強い者」と「弱い者」

 パウロはローマ書において、他の手紙と同じように、まずはじめに(一章から一一章で)福音の真理を提示して、その後で福音にふさわしく歩むように実際的な勧告を行っています。ローマ書では一二章から一五章でその勧告がなされていますが、前半の一二章と一三章でキリスト者としての生き方の一般的な勧告をした後、一四章からローマの共同体に特有の問題を取り上げています。その特有の問題とは「強い者」と「弱い者」の対立であり、それによってローマの共同体の中に生じている裂け目の問題です。パウロはこの箇所(一四・一〜一五・一三)で、なんとかしてこの対立を克服して、ローマの共同体が主にあって裂け目のない交わりを形成するように、心を砕き、言葉を尽くして勧告しています。
 ローマの共同体にこのような対立があることを、パウロはおそらくアキラ・プリスキラ夫妻のようなローマ在住の同志からの手紙などで聞いていたのでしょう。自分がローマに行く前に、このような対立が克服されて、温かい交わりの共同体に受け入れられることを願って、このような勧告を書いたと考えられます。その対立は、「確信《ピスティス》の弱い者」(一四・一)と「強い者」(一五・一)の対立です。勧告の内容を見ると、「弱い者」というのは、野菜だけを食べ肉を食べないとか、特定の日に特定の宗教行事をしなければならないと考えている人を指し、「強い人」というのは、何を食べてもよいと考え、日にこだわらないで生活している人を指しています。

新共同訳はこの箇所の《ピスティス》を「信仰」と訳していますが、この場合は「確信」と訳す方が適切であると考えられます。その理由、およびこの箇所(一四・一〜一五・一三)の勧告については、拙著『パウロによる福音書―ローマ書講解U』201頁以下の「第九章 強い者と弱い者」を参照してください。

 肉を食べず野菜だけを食べる人の問題は、コリントの集会でも問題になり、パウロはコリント第一書簡(八・一〜一三)で扱っています。集会の中で、ある人はモーセ律法で禁じられている肉(豚肉など)や偶像に供えられた肉は汚れているから食べてはならないと考え、市場で売られている肉はそういう汚れた肉である可能性があるから一切肉類は食べないで野菜だけを食べている人がいました。それに対して、キリスト者は律法から解放されており、市場で売られている肉は出所を問わないで食べる人もいました。パウロはそういう人を「強い者」と呼び、「わたしたち強い者は」(ローマ一五・一)と言って、自分を「強い者」の一員としています。それに対して、そのような自由の確信が弱く、モーセ律法の食物規定や安息日や断食日など日の規定に縛られている人を「弱い者」と呼んでいます。
 すでにこの呼び方自体に価値判断が含まれ、「弱い者」に確信の強い生き方をしてほしいという願いがこめられていますが、パウロはそれを言わず、強い者は弱い者を軽蔑せず、弱い者は強い者を(律法に違反しているなどと)裁かず、「互いに受け入れなさい」と勧告します(ローマ一五・七)。
 「弱い者」が肉を食べす日を守っているのはモーセ律法に違反しないためにそうしているのであることについては議論はありません。それで、「弱い者」とはユダヤ人信者であり、「強い者」とはモーセ律法にとらわれず自由に肉を食べている異邦人信者であるとされることが多いのですが、これは違います。それは、ユダヤ人であるパウロが「わたしたち強い者は」と言って、自分を「強い者」としていることからも明らかです。パウロの同志であるアキラ・プリスキラ夫妻も「強い者」だったでしょう。この区別はユダヤ人の間の区別です。パウロのようにユダヤ人であってもキリストにある者は律法から解放されており自由であるという確信の強い者と、キリストを信じていてもユダヤ人である限りモーセ律法を順守しなければならないと考えている人、すなわちキリストにある自由の確信の弱い人の区別です。
 パウロがローマに到着する以前に、すでに多くの異邦人が信仰に入ってきていました。多くの異邦人信者は、パウロやアキラ・プリスキラ夫妻のようなモーセ律法の規定にとらわれない生き方に共鳴して「強い者」のグループに属したことでしょう。しかし、異邦人信者の中には長年ユダヤ教会堂で学んできた「神を敬う者」であった人も多かったと考えられるので(当初信仰に入った異邦人はほとんど「神を敬う者」でした)、その中にはキリストを信じていてもモーセ律法は順守しなければならないと考える人もあったと推察されます。「弱い者」というのは、ユダヤ人であると異邦人であるとを問わず、ユダヤ教という宗教の枠内にとどまろうとする人たちであったと見られます。
 この「強い者」と「弱い者」の対立がどのような形をとっていたのかについては議論があります。「強い者」を異邦人信者のグループ、「弱い者」をユダヤ人信者のグループと見る人の中には、ローマには異邦人とユダヤ人の二つの共同体が別々の集会を形成しており、パウロが「互いに受け入れよ」と求めるのは、二つの集会が一つになって共通の礼拝をするように求めているのだとする人がいます。たしかに、五四年の追放令廃止の後にローマに戻ってきたユダヤ人は元の《シュナゴゲー》共同体に復帰し、それまでに別の共同体を形成するようになっていた異邦人集会と別になった可能性はあります。しかしこの見方は、(ここで見たように対立は異邦人信者とユダヤ人信者の対立ではないのですから)成り立ちません。むしろ、「強い者」のグループ(パウロやアキラ・プリスキラ夫妻のグループなど)と「弱い者」のグループ(弱いユダヤ人を中心に集まっているグループ)が、別個に集会をしてお互いに交わりをもたず、批判し合っていた状況が考えられます。先に見たように、ローマの共同体が多くのグループに別れて形成されていたことが、このような状況の背景にあると考えられます。
 パウロがローマ書を書き送ったのは、このようなローマの共同体の状況を克服するためであり、それがローマ書執筆の動機だと見る説があります。一方、ローマ書の執筆は、そのような具体的な状況に対応するのが主要目的ではなく(当然それも含まれますが)、ローマを拠点としてスペインにまで福音活動を進めようとするパウロが、ローマの同志たちに自分の福音理解を提示して支持基盤を堅くすることが目的であると見る説も有力です。また、宛先はローマにいる異邦人キリスト者とされていますが(ローマ一・六)、パウロがその議論を向けているのは誰であるのか、ローマのユダヤ人キリスト者であるとか、隠れた宛先はエルサレム共同体であるとの説があり、争われています。ローマ書の執筆動機と意図されている宛先についてはいまだに熱い議論が続いています。ここではその詳細に立ち入ることはできませんので、ローマの人たちにあてられたパウロの書簡は、この時点でのローマの共同体の実情を垣間見させてくれることを指摘するに止めます。

ローマ書の執筆動機や宛先およびその内容や性格についての現在の議論については、左記の論集を参考にしてください。
 Karl P. Donfried, Editor "THE ROMANS DEBATE" Hendrickson Publishers, 1991 Revised and Expanded Edition
なお、本稿の「ローマのユダヤ人」の項は左記の二論文に基づいてまとめたものです。
W. Wiefel, " The Jewish Community in Ancient Rome and the Origin of Roman Christianity " (上記論集所収)
Romano Penna, "Judaism in Rome" (Anchor Bible Dictionary)

V ローマ帝国社会における迫害

都市民衆の反感と迫害

 ローマ帝国内の諸都市に成立したキリスト者の共同体は、成立の当初から、ユダヤ人からだけでなく周囲の異教徒民衆から、様々ないやがらせや迫害を受けていました。それは、すでにパウロ書簡や使徒言行録で証言されています(テサロニケT二・一四など)。ここでは、キリスト者共同体への迫害がローマ帝国の公の問題となったネロの時代から以降のキリスト者への迫害の性格と内容を見ていきます。
 ローマ皇帝がキリスト教徒の迫害に関与してくるのはネロ以降のことであり、また例外的な事例であって、皇帝がキリスト教徒の迫害を命じたことは、二五〇年前後のデキウス帝の迫害以前にはありません。それ以前は、都市の民衆のキリスト教徒に対する反感が迫害の原動力でした。都市民衆の反感からキリスト教徒が告訴され、騒乱が起こりましたが、これに対処する官憲、総督、皇帝などローマの権力者たちは(以下に見るネロやドミティアヌスのような例外的な場合は別として)総じて法規に照らして冷静に処理しました。このことはすでにパウロの福音活動に対して引き起こされたエフェソでの騒乱事件が実例を示しています。騒乱は銀細工職人の扇動で民衆の騒乱となりましたが、都市の役人の法手続への訴えで終息しています。
 ローマ帝国内の諸都市でのキリスト者への反感は、ユダヤ教徒への反感の延長上にあり、キリスト教徒がユダヤ教徒から区別されるようになって直接向けられるようになったものです。先に(「ローマのユダヤ人」の項で)見たように、政治的な配慮からユダヤ教は「レリギオ・リキタ」と認められ、ユダヤ人はローマの宗教に従うことを免除されていましたが、一般のローマの民衆、とくにローマ固有の伝統を重んじる階層の人たちからは、反感と軽蔑の目で見られていました。キケロはユダヤ人を「野蛮な迷信」に従う愚かな輩と非難しています。ローマの民衆から見れば、ローマの神々を拝まず、ローマの市民共同体の交わりに参加しようとしないユダヤ人は、無神論者、国家の敵、人類憎悪者として非難されました。
 その反感は、ユダヤ戦争終結後に創設された「ユダヤ金庫」によって、登録するユダヤ教徒と登録しないキリスト教徒が区別されるようになって(前述)、キリスト教徒に直接向けられるようになります。ローマの神々を拝まないキリスト教徒は、「無神論者、国家(市民共同体)の敵、人類の憎悪者」というレッテルを貼られて、ことあるごとに告訴されたり、騒乱の種とされます。このような告訴や騒乱に対して、ローマの支配層がどのように対処したかは、以下に扱う「トラヤヌスとプリニウスの往復書簡」で見ることになります。

本書では原則としてキリスト信仰に生きる人を「キリスト者」と呼んでいますが、ローマ社会でキリスト信仰の者がユダヤ教徒から区別されて「クレスティアーニ」と呼ばれるようになったときの状況で、この語の訳語として「キリスト教徒」も用いることにします。「キリスト教徒」はローマ側から見たキリスト者の呼称です。

 何かの事件や特別な状況によっては告訴や騒乱という事態もありましたが、普段の日常生活ではキリスト者も周囲の民衆と同じように暮らしていたのであり、その中でキリスト者としての信仰を保持し、また言い表して福音を伝えていたのです。そのような日常が普通であったからこそ、最初期に福音が急速にローマの諸都市に伝播していったのです。その異教社会に生きるキリスト者に向かって、パウロ書簡やパウロ名書簡(とくに後者)は、普段の生活において偶像礼拝や飲酒放縦や性的退廃などの異教社会の悪習に染まることなく、キリストにあって清く生活するように勧告しています。

ローマ帝国社会に生きたキリスト教徒と周囲の市民社会との関わり方については、左記の著作がよくまとめていますので参考にしてください。
 松本宣郎『キリスト教徒が生きたローマ帝国』 (日本基督教団出版局、二〇〇六年)

ネロの迫害

 キリスト教徒を処刑した最初のローマ皇帝はネロ(在位五四〜六八年)です。ネロは、ユダヤ戦争が始まる少し前の六四年に、自分に対する放火の疑いを振り向けるスケープゴートに仕立て、ローマの大火の放火犯として多くのキリスト教徒を処刑しました。まだ宮廷ではユダヤ教徒とキリスト教徒が区別されていない時期に、キリスト教徒だけを放火犯として指名したのは、ユダヤ教に傾倒していた皇妃ポッピアの影響ではないかと推察されています。放火犯としての処刑については、ローマの歴史家タキトゥスの『年代記』(二世紀初頭の著)に伝えられています。彼は六四年のローマの大火の様子と、それがネロの仕業だとする噂を描いた後、次のように書いています。

「・・・・そこでネロはこの噂をもみ消そうとして身代わり犯人をでっち上げ、念の入った刑罰を加えた。その身代わり犯人は、悪事のゆえに憎まれていた人々で、世人がクレースティアーニ(キリスト教徒)と呼んでいた人たちである。この名の名祖のクレストゥスは、ティベリウス帝の治下、総督たるポンティウス・ピラトゥースによって処刑されていた。この有害きわまりない迷信は、当座のうちは鎮静されていたが、ふたたびそれは、この悪の発生地たるユダヤを通じてだけでなく、ローマ市においてすら爆発していたのである。・・・・それゆえまず、告白していた者が逮捕され、ついで、彼らの申し立てにもとづいて、おびただしい数の者が逮捕された。彼らは放火罪でというよりも、むしろ人類憎悪のゆえに処刑された。そして、死にゆく者たちに対して、次のような嘲弄が加えられた。すなわち、野獣の皮でおおわれた者たちは、犬によってかみさかれて死んだ。あるいは十字架につけられた人たち、あるいは燃やさるべき人たちが、そして・・・日が落ちた時に、夜の灯火用に、焼かれた。・・・・」。
  弓削達『ローマ皇帝礼拝とキリスト教徒迫害』(日本基督教団出版局、一九八四年) 95〜96頁から引用

 この記事から、ネロ以前の時代からキリスト教徒はローマの市民や知識階級から人類憎悪の輩として憎まれていたことが分かります。それが、ネロという暴君の見境のない行動を誘発した面があります。しかし、ここでネロのキリスト教徒処刑は、あくまで放火犯としての処刑であり、それもローマ市に限られた出来事であって、キリスト教徒であるがゆえの皇帝命令による処刑ではないことに留意しなければなりません。
 皇帝に上訴した使徒パウロは六〇年にローマに護送され、六二年にネロの法廷で裁かれて有罪となり、斬首で処刑されたと見られます。使徒ペトロも、古代教会の伝承によれは、ローマに来ていて六四年のキリスト教徒処刑のときに逆さ十字架刑で殉教したと伝えられています。こうしてネロは使徒たちを殺し、最初にキリスト教徒を処刑した皇帝として、キリスト教史上、もっとも「悪名高き皇帝」となります。ネロも統治の前半はセネカなどの補佐を受けて有能な統治者でしたが、後半、とくに晩年は猜疑心から、有能な政治家はもちろん、自分の兄弟や妻や母親までも処刑する暴君となり、度を超した悪行から、ついに軍団から背かれ、元老院から「国家の敵」と宣言されて、自死に追いやられます。このことから、後代の護教家は極悪人ネロに殺された者は善人であるから、ネロに殺されたキリスト教徒は善人であるという護教論を展開しています。

ドミティアヌスの迫害

 ユダヤ戦争の最中の六八年にネロが自殺し、後継をめぐる混乱の後、ユダヤ戦争のローマ軍総司令官のヴェスパシアヌスが皇帝に推挙されます(在位六八〜七九年)。先に見たように、ヴェスパシアヌスはユダヤ戦争終結後「ユダヤ金庫」を創設し、ユダヤ教徒として登録する者に、今までのユダヤ教徒の特権を認める代わりに、それまでエルサレム神殿に納めていた年二ドラクマの神殿税をユピテル・カピトリヌス神殿に納めるように命じます。この制度によって、それを納めないキリスト教徒がユダヤ教徒とは別の唯一神礼拝者(=反ローマ、反社会、人類憎悪者)であることが公に区別されるようになり、合法宗教としてのユダヤ教の外で、ローマの民衆の反感に直接曝されるようになります。
 七九年にヴェスパシアヌスが死ぬと、その子のティトスが帝位を継ぎますが八一年に熱病で死に、同じくヴェスパシアヌスの子のドミティアヌスが帝位につきます(在位八一〜九六年)。このドミティアヌスは、エウセビオス(『教会史』三・一七、四・二六・九)などによってネロと並ぶ迫害皇帝とされていますが、史料を厳密に調べると、「ドミティアヌスの迫害」はキリスト教徒の弾圧を意図したものではなく、彼の飽くなき財産欲と宮廷政治の葛藤から生じた見境のない処刑を伴う晩年の暴政を(キリスト教側が)迫害とした結果ではないかと考えられます。彼は「ユダヤ金庫」制度を厳格に執行し、「ユダヤ人の風習に染まっている」という嫌疑をかけられた高官(執政官を含む)を脱税の罪で処刑し、財産を没収しています。その中にキリスト教徒も含まれていたので「迫害皇帝」とされたのでしょう。

「ドミティアヌスの迫害」の性格については、前出の弓削達『ローマ皇帝礼拝とキリスト教徒迫害』121〜143頁が詳しく史料を分析し、それが直接キリスト教徒に向けられたものでないことを示しています。

ローマの皇帝礼拝

 ただ、ドミティアヌスは晩年自分を「主にして神」と呼び、自分を祀る神殿を建てさせたことは、その後のローマ帝国における皇帝礼拝との関連で注目されます。もともとローマ人には人間を神として祀る習慣はなく、皇帝が神とされることはありませんでした。それに対してギリシア人の都市では、かなり早い時期(アレクサンドロス以前)から、生きた人間、とくに外国の権力者に「善行者」、「救済者」、「建設者」などという称号を奉って、神として祀る習慣がありました。それで、ローマがギリシア文明の盛んな小アジアの地を支配下に置いて属州としたとき、ローマの将軍や総督に向かってこのような神として祀る祭儀が諸都市で行われるようになります。このような祭儀は、ギリシア人が外国の支配者を納得して受け入れるための伝統的な儀式であり、宗教と政治と外交とが渾然と溶け合ったギリシア人の行動様式であったのです。
 オクタビアヌスが政敵を打ち破って初代皇帝アウグストゥスとなったとき、小アジアの属州から彼を神として祀る神殿の建設を許可するようにという請願が出されます。アウグストゥスは、なお共和制精神の強いローマ人は人間神化を嫌悪することを知っているので、この請願に対してきわめて慎重に対処します。彼は、父カイサルが生前に自分を神とする要求をしたことが暗殺の引き金となったことを知っています。しかし、すでに将軍や総督が神として祀られています。彼は、カイサルも死後には神として女神ローマと一緒に祀られることを(エフェソなどの都市に)許可しています。それで、アウグストゥスは、ローマを代表する女神「ローマ」と共同であれば神殿を建て祭儀を行うことを許可します。
 アウグストゥスが許可した祭祀の形態が他の属州においても皇帝礼拝として踏襲されたが、首都ローマでは皇帝はいかなる意味でも生前に神化されることはなく、「正しい統治を行った」皇帝が死後神化を受けるきまりだった、とローマの歴史家ディオが書いています。アウグストゥスの後継者はこの原則を守りますが、この原則を破ったのがカリグラとドミティアヌスです。カリグラと呼ばれたガイウス帝(在位三七〜四一年)は、自分の像を神域に建て、自分を神として祭儀を行うことを(許可ではなく)命令します。カリグラの自己神化の言動は、フィロンの著作(『ガイウスへの遣使』三五二以下)に生き生きと描かれています。エルサレム神殿に自分の神像を建てようとした試みは、ユダヤ人の必死の抵抗により失敗します。ドミティアヌスは自分を「主にして神」と呼び、(エフェソなど属州の都市に)神殿を建てさせ、自分の像を建てて犠牲を献げるなどの祭儀を行わせます。しかし、彼は間もなく暗殺され、元老院から「記憶の抹殺」処分を受け、その恐怖政治は短期間で終わります。
 こうして小アジアのギリシア人の習慣と宗教から始まったローマの「皇帝礼拝」は、首都ローマにおいては、法律の決定によって行われる国家としての正式の(死後の)皇帝神格化と、それに伴う神殿の建設、神官の任命などの形態をとるようになります。このローマ市における国家レベルの儀式と並んで、地方の属州では皇帝の許可による属州の皇帝礼拝、さらに自由に行うことができた各都市や個人の皇帝礼拝など、様々なレベルと形態の皇帝礼拝が行われるようになります。東部より遅くローマの支配下に入ったガリアやヒスパニアなどの西部の属州には、小アジアのギリシア人のような支配者の神化と礼拝というような宗教思想はなく、むしろローマ側が支配を安定させるために積極的に皇帝礼拝を持ち込んで推し進め、ローマの支配体制の階段を上ろうとする諸族の上流階級が進んで神官などを務めて積極的に協力したようです。
 こうして広く帝国内で行われるようになった皇帝礼拝とキリスト教徒の迫害はどのように関わるのでしょうか。一般にキリスト教徒は皇帝礼拝を拒否したので処刑されたと見られていますが、史料を厳密に検討すると事態はそれほど単純ではないようです。
 一般的に古代の宗教礼拝は犠牲や供物を献げる供犠によって行われます。そのさい犠牲は神々に献げられます。皇帝礼拝においても犠牲は神々に献げられましたが、その供犠によって皇帝の無事息災や統治の平安など皇帝のための祈りが捧げられました。供犠の対象は神ですが、供犠で祈り求められる祝福の対象は人間です。この区別は当時のローマ人には自明の公理でした。このことは、先に触れたガイウスとフィロンの対話に典型的に出ています。自分を神として拝むことを求めるガイウスにフィロンが、皇帝の即位と重病と勝利のときに皇帝のために自分たちの祭壇に犠牲を献げたことを申し立てます。それに対してガイウスは「それは他の神に捧げた犠牲であって、お前たちはわたしに犠牲を献げていない」と言って、フィロンたちユダヤ人はガイウスの神性を認めない者たちだと決めつけています。
 キリスト教徒がローマの風習に背く者として告発されたとき、彼らにローマの神々に犠牲を献げて拝むことが皇帝の命令として求められ、それをすれば赦されると誘われましたが、彼らがそれを拒否したために処刑されます。ところが歴史記録や殉教記などの史料を厳密に調べると、そのさい法廷で皇帝(像)に犠牲を献げて拝むように強要されたことはありません。とくに本書で扱う初期の段階では、民衆の要求にも総督の法廷の要求にも、皇帝礼拝を強要する言動は皆無です。ローマ帝国のキリスト教徒は、皇帝を神として拝む皇帝礼拝を拒否したからではなく、それが皇帝のためであれ何のためであれ、異教の神々に犠牲を献げて拝むことを拒否したために、ローマの法に反する者として処刑されることになります。

ローマの皇帝礼拝とキリスト教徒迫害の関係については、前出の弓削達『ローマ皇帝礼拝とキリスト教徒迫害』の第二章が、史料の厳密な検討からこのような結論を出しています。同書はこの問題について、史料を綿密に分析して説得的な結論を出す学術書として優れています。次項も同書に基づいて議論を進めます。

 キリスト教徒の迫害は一般の市民民衆の反感を起爆剤として起こったものですが、ローマの法廷が裁き、国家が処刑する以上、法的根拠が必要です。このキリスト教徒を裁き処刑する法的根拠として、二世紀の初めにビティニアの総督プリニウスとトラヤヌス帝との間に交わされた往復書簡が貴重な史料になりますので、次項でそれを見ることにします。

プリニウスとトラヤヌスの「キリスト教書簡」

 プリニウスは、トラヤヌス帝(在位九八〜一一七年)によって派遣されて、一一一〜一一三年(一説には一〇九〜一一一年)の足かけ三年にわたって、小アジアの黒海側にあるビティニア・ポントス州の総督であった人物です。この総督プリニウスが、キリスト教徒の裁判についてトラヤヌス帝に請訓の手紙を書き(プリニウスは総督任命にあたっていかなる問題についても皇帝の訓令を仰ぐように指示されていました)、それに対してトラヤヌス帝が返書を与えています。この往復書簡は私人の間の手紙ではなく公文書であり、皇帝の書簡は当該の問題についての勅答書であり、法源としての意味をもちます。プリニウスが残している多くの書簡の中で、キリスト教徒の裁判についての請訓の手紙とそれに対するトラヤヌス帝の返書(第九六と九七書簡)は、「キリスト教書簡」と呼ばれ、以後のローマ帝国のキリスト教徒に対する処罰の法的根拠が皇帝自身の手で書き送られたものであり、最重要の史料となります。
 総督として任地の諸都市をめぐっているプリニウスのもとに、住民からキリスト教徒を訴える告訴が届けられます。この事実は、この時期(二世紀初頭)までに、小アジアではエフェソを中心とするアジア州だけでなく、北部の黒海沿岸のビティニアやポントス地方までキリスト教徒が増え広がり(ペトロT一・一参照)、周囲の民衆の反感が彼らを告訴するまでに高まっていたことを示しています。
 告訴されたキリスト教徒をどう扱うべきかについてプリニウスが請訓した内容の要点は、彼らはキリスト教徒であるという「名」のゆえだけで処罰されるのか、あるいは「名に付随する悪事」のゆえに処罰されるのかという問題と、総督の命令に従い神々に犠牲を捧げてローマの神々に帰順を表明した者には「恩恵」(=赦免)が与えられるべきかという二点です。
 ここで用いられている「名」というのは、ローマの刑事訴訟法の術語で、犯罪の名であり、告訴することは「名を告知する」、告訴を受理することは「名の受理」と呼ばれました。それまではキリスト教徒であること自体は犯罪を構成せず、あくまでキリスト教徒であるがゆえに行う悪しき行為(名に付随する悪事)が処罰されるとされてきました。ところがこの裁判では、告知された「名」は強盗とか殺人ではなく「キリスト教徒」という名であったのです。この名で告訴された者たちの中で、総督(=裁判菅)の「お前はキリスト教徒か」という三度の質問にすべて肯定で答えた者は、自白が法的に確認されたとして直ちに「厳正な手続きをとった」(=処刑した)、とプリニウスは報告しています。
 しかし、匿名の手紙で名をあげられていたために連れてこられた多くの者たちは、キリスト教徒であることを否定して、過去にはそうであったがすでに棄教したと言い、神々に犠牲を捧げてそれを証明していますが、彼らは釈放すべきでしょうか、と問い合わせています。法律の原則として、過去の犯罪行為(強盗とか殺人)は現在いくら改悛していても、その責任を免れることはできません。しかしキリスト教徒という名の特殊な場合は、彼らは「ひどい度はずれた迷信」の徒ですが行為の上での悪事をしていないことは明らかになっていますから、赦免を与えてもよいのではないでしょうか、と皇帝の訓令を待ちます。
 この請訓の書簡に対してのトラヤヌス帝の返書は、「貴官はなすべきことを行った」と、基本的にプリニウスの処置を認めています。皇帝の答えは、キリスト教徒として訴えられ、それが証明されたら処罰されるべきこと、キリスト教徒であることを供犠行為によって否定した者は釈放されるべきことを指示しています。文面には出てきませんが、これはキリスト教徒であるという「名」そのものが処罰の対象であると認めていることになります。こうして、キリスト教徒であること自体が罰せられるという法原理が確立することになります。
 トラヤヌス帝はこの返書において、「キリスト教徒は探索さるべきではない」と言っています。総督法廷は市民の告訴を受けて開かれるものであり、官憲が捜査して告発することを禁じています。また匿名文書による告発をいっさい受け付けないように(受け付けたプリニウスを)戒めています。このトラヤヌス書簡は、「名に付随する悪事」がなにもないことを知りながら、「名」そのものによってキリスト教徒を処刑したプリニウスの処置を認めることで、その後の「名」だけによるキリスト教徒処刑の法的根拠を与えたことになります。
 ではプリニウスは、トラヤヌス返書以前にどういう根拠で「名」そのものによりキリスト教徒を処刑したのかが問題になり、論争が続いていますが、ここではその問題には立ち入ることはできません。ただ、プリニウスはその時代の一流の知識人であり、先に見たキケロやタキトゥスらと同じく、キリスト教徒をローマ人の伝統と精神に反する「度はずれた迷信」の徒とし、悪である彼らに悪事が伴うのを当然とし、彼らが処罰されるべきことは自明のことだとしていたローマ帝国の都市民衆の感情を代表して行動したという面があったと見られます。

トラヤヌス帝と総督プリニウスとの間に交わされた「キリスト教書簡」については、その全訳と語句(とくにそこに用いられている多くの法律用語)の詳しい説明が、前出の弓削達『ローマ皇帝礼拝とキリスト教徒迫害』の33〜67頁にありますので参照してください。

 なお、トラヤヌス帝の時代にアンティオキア共同体の監督イグナティオスが殉教しています。彼の殉教は一一〇年頃とされており、トラヤヌス・プリニウス往復書簡とほぼ同じ頃の出来事です。イグナティオスは獣と戦う刑に処せられるためにローマに護送される途中、アジア州のスミルナとトロアスから、エフェソをはじめとするアジア州の諸集会とローマ集会およびポリュカルポスに七つの手紙を書いています。このイグナティオスの手紙は、二世紀初頭のキリスト信仰と共同体の姿を証言する史料としてきわめて重要です。われわれはほぼ同じ時期に成立した対峙する陣営の二つの書簡群、すなわち迫害する側の公式の法的書簡群と、迫害される側の信仰の告白としての書簡群をもっていることになります。この二つの書簡群は、われわれがここで扱っている時代、すなわちエルサレム神殿の崩壊から新約聖書時代の終わりに至る時代の最後に位置しており、この時代が行き着く先の姿を示しています。本節で取り扱う三つの新約聖書文書、すなわちペトロ第一書簡、ヘブライ書、ヨハネ黙示録は、いずれもこの時期の後半に成立したと見られ、ローマ帝国における迫害という状況の中でキリスト信仰がとる姿を証言しています。以下、この三つの文書によって、この時期の福音の姿、キリスト信仰の在り方を探求します。

イグナティオスの七書簡は、この時期のキリスト信仰の証言として、ここで扱う新約聖書の三文書と同等の重要性がありますが、その内容を見ることは別の機会にして、ここでは新約聖書内の文書に限ります。イグナティオス書簡については、講談社『聖書の世界』別巻4「使徒教父文書」所収の「イグナティオスの手紙」(翻訳と解説・八木誠一)を参照してください。

W ペトロ第一書簡

        (本項で書名なしの数字はペトロ第一書簡の章節を指します)

ペトロ第一書簡の成立

 本節において、帝国の首都ローマにおけるキリスト者共同体の成立とその状況を見た後、ローマ帝国内の諸都市、とくに小アジアのローマ属州における迫害の実情を見てきました。実は新約聖書の中に、この時期(七〇年以後の時期)にローマのキリスト者共同体から迫害の中にある小アジアの諸集会に宛てられた手紙があるのです。それがペトロ第一書簡です。この手紙はこう始まります。

 「イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ」。(一・一)

 この手紙は使徒ペトロから書き送られたものとされていますが、手紙の状況は明らかに七〇年以後の状況を示しており、六〇年代に殉教したペトロのものではなく、また用語や文体からして、ペトロの名によって書かれた使徒名書簡の一つとせざるをえません。しかも、この手紙の内容はきわめてパウロ的であり、このようなパウロ的な内容の手紙がペトロの名で書き送られたことが、この手紙の最大の問題点です。
 宛先の地名は当時の小アジアにあるローマ属州の名を網羅しています。この手紙が書かれたときには、パウロが福音活動をしたガラテヤ州とエフェソを中心とするアジア州だけでなく、小アジアの全域にキリスト者共同体が形成されていたことが分かります。
 この手紙がローマから書き送られたものであることは、最後にある挨拶の文から分かります。

 「わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました。この恵みにしっかり踏みとどまりなさい。共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています」。(五・一二〜一三)

 「バビロン」というのは、この時代のユダヤ人やキリスト者の間ではローマの異称であり、ローマを指しています。「シルワノによって書き送る」というのは、シルワノが(ペトロに代わって)この手紙を書いたというのではなく、シルワノを持参人としてこの手紙を送るという意味です。当時では公の手紙の持参人は、その手紙の権威(出所)と内容を保証する全権大使のような役割を果たす重要な人物です(使徒一五・二五〜二七参照、そこではユダヤ名のシラス)。ローマの共同体はその重要な役目を「忠実な兄弟と認めているシルワノ」に委ねます。当然、手紙の内容はシルワノが言いたいことであり、実際の執筆者が誰であろうと、この手紙はシルワノの信仰の表現と見ることができます。
 そうすると、この手紙のキリスト信仰がきわめてパウロ的であることも理解することができます。シルワノはパウロと一緒に福音活動を行った同労者であり、パウロ書簡の共同発信人として名を連ねています(テサロニケT一・一)。一緒にいて挨拶を送っているマルコも、ペトロが「わたしの子」と呼んでいるほど特別に親しい関係ですが、同時にパウロと福音活動を共にした間柄です。先に見たように、ローマのキリスト者たちは様々なグループが別々に活動していたと見られ、その中にシルワノやマルコを含むペトロと親しかった人たちのグループがあったと推察されます。ペトロは最後にはローマに来て活動し、ローマで殉教したのですから、ペトロと親しい人たちを中心にグループ(ペトロ・グループ)ができており、その人たちが手紙を書くとき、使徒ペトロの名によって書き送ったのも理解できます。

ペトロ第一書簡の成立について詳しくは、拙著『パウロ以後のキリストの福音』303頁以下の「ペトロ第一書簡の成立」の節を参照してください。

迫害下の兄弟たちへの手紙

 ローマは帝国の首都であり、帝国各地との交流が密接で、多くの情報が入ってきます。その中に、小アジアの兄弟たちが周囲の異教民衆からの迫害に曝されていることが伝えられます。ローマのキリスト者のグループが迫害下の小アジアの兄弟たちに特別の関心を寄せるのは、ローマのキリスト者には東方、とくに小アジアからの移住者が多く、親しい人たちも多かったからでしょう。
 ローマの共同体のあるグループが、自分たちも迫害を経験している者として、すでに殉教しているペトロを模範として、迫害のただ中にある兄弟たちを励ます手紙を書きます。ペトロの名で手紙を書く以上、ペトロはまだ生存していることになるのですから、ペトロの殉教に触れることはありませんが、それを示唆する文言はあります。たとえば、ペトロは「キリスト受難の証人、やがて現される栄光にあずかる者」(五・一)とされていますが、「証人」《マルテュス》は「殉教者」という意味にも使われる語で、ここではペトロの殉教を知っている仲間がペトロをこの称号で呼び、「やがて現される栄光にあずかる者」として尊んだと見られます。
 この手紙には、迫害によって苦しめられているキリスト者に宛てられたものであることを示す多くの表現があります。この手紙は、善を行って苦しむことを「義のために苦しみを受ける」こととし、それを幸いだとしています(おそらくペトロから伝えられたマタイ五・一〇のイエスの語録に従って)。そして、その時には穏やかに「内に抱いている希望」について説明(弁明)するように励ましています(三・一三〜一七)。さらに、周囲からの非難や迫害が、悪行のためではなく「キリストの名によって非難される」とか、「キリスト教徒《クリスティアノス》として苦しむ」のであれば、その時にこそ「栄光の霊、神の霊があなたがたの上にとどまる」から幸いだとしています(四・一四〜一六)。この表現は、先に見たように、キリスト者が「キリスト教徒である」という事実だけで、行為の上で何の悪事もないのに、その「名」で告訴されていた状況を反映しています。この手紙が書かれた(と推定される)八〇年代には、そういう告訴が行われるようになっており、それが一一〇年前後のプリニウスの頃にはローマ帝国の最高レベルの権力者(皇帝と総督)によって公の問題として取り扱われるようになったことを示しています。
 この手紙は、異教民衆の憎悪によって引き起こされる迫害を、「試みるためにあなたたちにふりかかる精錬の火」と呼び、迫害による苦難を「キリストの苦しみにあずかる」ことだとしています。そして、そのキリストの苦しみにあずかることが大きいほど、「キリストの栄光の顕現」のときに与えられる栄誉と喜びが大きいとします(四・一二〜一三)。このような表現(四・一二〜一九)は、この手紙が書かれた時代には、すでにキリスト者が「キリスト教徒である」という名のゆえに告訴され、様々な苦難を体験していたことを推察させますが、その名のゆえに有罪とされ処刑されるようになっていたかどうかは確認困難です(後述)。
 二世紀に入って、先に見たように、一一〇年頃にはプリニウスが「お前はキリスト教徒であるか」という三度の質問に肯定で答えた者は、「名」が確定した(=キリスト教徒であるという告訴事実が法的に確定した)として、直ちに「厳正な手続きをとった」(=処刑した)と書いています。それを当然のことのように報告しているのは、その頃にはこのような処刑が普通に行われていたことを示唆しています。トラヤヌス帝がこれを認めたことで、「名のゆえの」処刑が法的に確立することになります。

寄留の民の希望

 周囲の異教徒民衆から反感と憎悪をもって疎外され迫害されるキリスト者共同体は、自分たちはこの地上の都市では(市民権をもたない)よそ者であり寄留者であるという意識を強く持つようになります。すでにパウロにおいても「わたしたちの本国は天にある」という自覚がありましたが(フィリピ三・二〇)、このペトロ第一書簡の時期にはその「寄留者」としての意識がキリスト者の自覚の中心的な位置を占めるようになります。そのことは、この手紙の宛先の人たちに、「・・・・の各地に離散している選ばれた寄留者たちへ」(一・一私訳)と呼びかけていることからも分かりますが、この自覚は書簡全体を貫いて、繰り返し現れます(二・一一など)。
 寄留の民は、本国に帰り十分な権利をもつ市民として暮らす日を楽しみに、寄留の地での苦難を耐え忍びます。そのように、キリストの民は、すでにキリストが栄光の座についておられる本国(天)に迎え入れられて、そこでキリストの栄光にあずかり、祝福の中に生きるようになる日を望み見て、この地上での迫害と苦難を耐え忍びます。「寄留者」であるとの自覚は、本国(天)において栄光にあずかる者であるという希望と表裏一体です。
 この希望は、本国(天)からキリストが来臨されてご自分の民を天に迎え入れてくださるという「キリスト来臨《パルーシア》」の希望として言い表されます。パウロも「わたしたちの本国は天にあります」と言うとき、同時に「そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」と言っています(フィリピ三・二〇)。このペトロ第一書簡も、キリストが来られるときに与えられる栄光の希望を熱く語ります。本書は「希望の書」と呼ばれるにふさわしい性格の書簡になっています。
 自分たちを寄留者と自覚し、自分たちの希望を「キリストの来臨」という形で熱く語る本書は、同じような時期の成立と見られるコロサイ書やエフェソ書が「来臨」のことを語らなくなっているのと対照的です。この違いは、コロサイ書やエフェソ書がもっぱら内部の「異なる教え」に対処するために書かれているのに対し、ペトロ第一書簡は外からの迫害に対抗するために書かれているという状況の違いから来るのでしょう。
 ペトロ第一書簡が自分たちの希望を「キリストの来臨」という形で語ることは、パウロをはじめとする使徒時代の語り方と同じです。それは、この書簡を自らの信仰の表現として小アジア各地の集会にもたらしたシルワノがパウロの同労者であったことを考えると当然のことです。しかし、その語り方には微妙な違いが見られます。その違いは、まずそれを語る用語に現れています。この書簡は、このように語ります。

 「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」。(一・七)

 「あなたたちはその思いの腰帯を引き締め、醒めた姿で、イエス・キリストの顕現のときにあなたたちにもたらされることになる恩恵だけを、全面的に待ち望んでいなさい」。(一・一三私訳)

 パウロを含め最初期前期の使徒たちが来るべき世における救済を語るとき、いつも「(キリストが)来られる」という動詞か、「(キリストの)来臨《パルーシア》」という名詞を用いました。ところがペトロ第一書簡では《パルーシア》系の語は出てきません。来たるべき救済を語るときには、(原語では)いつも「現れる」という動詞か(五・一)、「現れ、顕現《アポカリュプシス》」という名詞(一・七、一・一三、四・一三)で語られ、この用語は合わせて四回出てきます。この語の使用は、キリストは現在すでに自分たちの内に隠された形でいますのであり、時が来れば今は隠されているキリストとその栄光が世界に現れるという理解と確信を指し示しています。
 実は、この語を用いたのはパウロから始まります。パウロは伝統的な《パルーシア》も使っていますが(テサロニケ第一書簡)、同時に《アポカリュプシス》という語も使うようになっています(コリントT一・七)。とくにローマ書八章で終末待望を語るとき、もっぱら《アポカリュプシス》系の用語で語っていることが重要です。ペトロ第一書簡は、この点でパウロの継承者であると言えます。
 ペトロ第一書簡は「万物の終わりが迫っています」(四・七)と述べて、その時に備えて身を慎んで祈りに励むように、また迫害の苦難を耐え忍ぶように勧めていますが、書簡全体にはユダヤ教黙示文書や福音書の「人の子」終末論に見られるような時間的な切迫感はありません。その「迫り」は、現在すでに隠されてあるものは必ず顕わな形で現れるという原理的な確実性を指しています。この確実性は、すぐ後に見ることになりますが、聖霊によるキリスト体験の現実性から来るものであり、パウロが体験し、告知した福音の深化という面をもっています。

贖われた民

 ペトロ第一書簡のもう一つの特徴をなす用語は「贖い」です。先に見たように、コロサイ書やエフェソ書では、救いの出来事を要約するような位置で「贖い」という語が用いられ、それが「御子の血による贖い」という形で出てきています(コロサイ一・一四、エフェソ一・七)。ペトロ第一書簡でも、共同体が繰り返し唱えていたと見られる定型的な告白文(一・一八〜二一)で、「あなたたちは贖われた」という語で救いが語られています。

 あなたたちは贖われた、
先祖伝来のむなしい生活から、
 銀や金のような朽ちるものによってではなく、
きずや汚れのない小羊キリストの尊い血によって。(一・一八〜一九 私訳)

 「贖い」は旧約聖書の用語で、身代金を払って捕虜や奴隷状態の人を買い戻して自由にすることです。ここでキリストによる救いは、キリストの血という代価を払って、神がわたしたちを先祖伝来のむなしい生活から解放してくださったこととして描かれています。パウロは異邦人に福音を語るとき、この旧約聖書の宗教用語を(伝承を引用するとき以外は)あまり用いていません。むしろ、異邦人社会に親しい奴隷制の用語である「解放」とか「自由」という語で、キリストにおける救いを御霊の力による罪の支配力(奴隷状態)からの解放として語っています。したがって代価の概念は希薄ですが、パウロから数十年経った後期になると、異邦人共同体にも旧約聖書の知識が浸透した結果でしょうか、キリストによる救いを「贖い」という表象で語り、代価のことが語られるようになっています。
 キリストの民は、終わりの時に現れた世界の救済者キリスト(一・二〇)によって贖われた民です。この贖われた民の質を語るもう一つの特色ある表現が、「新しく生まれる」、「新生」という用語です。

 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。(一・二三)

 多くの生物は種から生まれます。植物でも動物でも、種から生まれるものはその種と同じ性質の生物です。朽ちる種から生まれるものは朽ちるものです。わたしたち人間も、死すべき人間である両親から生まれるわたしたち(生まれながらの人)は、同じく死すべきものです。ところが、キリストにあってわたしたちを「新たに生まれさせた」種は、朽ちることのない種です。すなわち、「神の変わることのない生きた言葉」という朽ちない種から生まれたのですから、その命は朽ちることがありません。
 わたしたちに「福音として告げられた言葉」こそ、永遠にとどまる主の言葉であり、それを信じて受け入れる者に朽ちることのない命、今まで生きていた生まれながらの命とは別種の命、永遠の命を与えるのです(一・二五)。こうして、キリストにある者は現に、この身体で生きている「生まれながらの命」とは別種の命に生きているのだという自覚はこの時期に強くなり、ヨハネ福音書(とくに三章のニコデモとの対話)に典型的に言い表されるようになります。
 この新しい命に生きているという自覚は、現在の体験として力強く言い表されています。

 この方(イエス・キリスト)を、あなたたちは見たことがないけれども愛し、今見ていないけれども信じ、言葉では表せない輝かしい喜びで歓喜しています。それは、信仰の実である魂の救いを受けているからです。(一・八〜九 私訳)

 この新しい命がもたらす魂の救いの確信と内から溢れる輝かしい歓喜、これが迫害の中にあるキリスト者を励まし、苦難に耐えさせます。キリストの名のゆえに苦しめられるとき、「栄光の霊、すなわち神の霊が上にとどまる」のです(四・一四)。この神の霊は、苦難のときに苦しめられるキリスト者の上にとどまるだけでなく、すでにキリストにあって生きている者の内にあって「言葉では表せない輝かしい喜び」となって、その姿を示しているのです。ペトロ第一書簡には聖霊という語はあまり出てきませんが、その全体に聖霊による確信と希望と喜びが溢れています。

迫害する者のために祈れ

 このように、神によって選ばれ、キリストの尊い血によって先祖伝来の空しい宗教と生活から「贖われ」、神の永遠の生ける言葉である福音によって新しい命、この世とは別種の命に生きるようになった民を、この世は黙視したり放置したりすることはできません。自分たちの神々を拝まず、自分たちが知らない神(原理)で生き、そのことで自分たちの在り方を告発する少数者を迫害します。彼らが悪しき行為をしたからではなく、自分たちとは別種の民のキリスト教徒であるという事実が耐えられないのです。このように迫害されるキリスト者の共同体は、自分たちをこの世での寄留者と自覚し、本国に迎え入れられる日の希望によって、また内から溢れる神の霊による歓喜によって、寄留の地での苦しみに耐えます。
 このような状況にあるキリストの民に向かって、この書簡は使徒ペトロの名によって励まし説き勧めます。まず周囲の異教徒たちに批判と迫害の口実を与えないように、人殺し、泥棒、悪行、他人への干渉など、悪しき行為から遠ざかるように説き(四・一五)、むしろ世の人々に貢献する善を行うように勧めます(三・一三)。そして、世の人々からも立派だと認められるように、当時の社会の標準を超える立派な夫であり妻であることを求め(三・一〜七)、奴隷には、キリストを模範として示して、苦しみに耐えて悪しき主人にも誠心誠意仕えるように求めます(二・一八〜二五)。
 迫害の状況の中でキリスト者としての振る舞いと心構えについて勧告する本書簡の発言の中で、ローマ帝国の皇帝や総督についての発言が注目されます。

 人間の立てた制度にはすべて、主のゆえに服従しなさい。支配者としての王であろうと、あるいは、悪をなす者を処罰し、善をなす者をほめるために王から遣わされた長官であろうと、服従しなさい。(二・一三〜一四 私訳)

 原文では「王、長官」ですが、帝都ローマから小アジアの諸属州に宛てられた本書の文脈では、「皇帝、総督」(新共同訳)としてよいでしょう。この発言は、ローマ書(一三・一〜七)のパウロの勧告と基本的に同じであり、本書に対するローマ書の影響を示唆しています。しかし、ローマ書の「神によらない権威はなく、現にある権威は神によって立てられたもの」という表現は本書にはなく、「人間の立てた制度」になっています。ネロの迫害を体験した後のローマのキリスト者は、パウロのようには言えなかったのでしょう。この世の法律や制度が「人間の立てた」ものであっても、キリストの民は「主のゆえに」従うべきであるとされます。すなわち、主がそう望まれるから服従するのだとされています。そして、その理由として、「善を行って、愚かな者たちの無知な発言(キリスト教徒に対する罵声や告発)を封じることが、神の御心だからです」(二・一五)と続いています。
 この発言は、キリスト者に対する迫害は周囲の異教徒民衆の「無知な発言」から来るのであり、皇帝・総督が代表するローマ帝国の支配体制は、悪を行うことなくただ善だけを行うキリスト者を処罰することはないはずだという期待が感じられます。この書簡が書かれた時期(おそらく八〇年代)には、一一〇年頃には公式に認められることになる「キリスト教徒である」という名だけによる法廷での処罰はまだなかった段階であったと見る可能性を残しています。この時期のキリスト者共同体は、民衆の理由のない反感、罵声、告発に悪魔の仕業を見ていました(五・八)。そして、ローマ帝国の体制にそれを抑える働きを期待していたと見られます。

このようなローマ帝国の支配体制についての見方から、テサロニケ第二書簡(二・六〜七)の「今抑えているもの」は、ローマ帝国とかローマ皇帝を指していると理解する可能性が出てきます。

 この書簡は、異教民衆から受ける迫害の中で苦しんでいるキリスト者に向かって、ただ善だけを行うように、すなわち悪に対して善をもって報いることを繰り返し説いています。この勧告には、直接引用されてはいませんが、イエスの「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」というお言葉(マタイ五・四四)が響いています。ペトロを通して聴いていたイエスの愛敵の教えがこのような形で生かされています。パウロが説いた「悪に悪を返さず、つねに善を行い、迫害する者のために祝福を祈りなさい」(ローマ一二・一四、一七)という勧告が受け継がれています。
 迫害されるキリスト者が、やがて現される栄光の望みよって励まされ、内から溢れる聖霊の確信と喜びによって、キリストを言い表し、苦しみに耐え、罵る者に罵り返さず、呪う者に呪いを返さず、かえって祝福を祈るという態度で迫害に対処したことが、最終的にローマ帝国がキリスト信仰を受け入れるにいたる最大の理由となります。その過程は本稿の範囲を超えますのでここでは扱えませんが、二世紀、三世紀と長い期間にわたって繰り返されエスカレートして行くローマ帝国におけるキリスト教徒迫害に耐え、遂に勝利するための土台が、このペトロ第一書簡によって置かれ、その方向が指し示されたと言えます。

今回はペトロ第一書簡をおもに迫害との関係で見てきましたが、この書簡はこの時期のキリスト信仰の諸相について重要な証言を多く残しています。その内容については、拙著『パウロ以後のキリストの福音』の第六章第二節「ペトロ第一書簡の翻訳と略解」を参照してください。

ペトロ第二書簡について

   (この項の数字はペトロ第二書簡の章節です)
 新約聖書にはペトロの名によって書かれた手紙がもう一つ収められています。ペトロ第二書簡です。この手紙は、ペトロから送られた二通目の手紙として書かれており(三・一)、しかも召される日が近いことを知っているペトロの遺言の形で書かれています(一・一二〜一五)。すなわちこの手紙は、この時期のユダヤ教文学によく見られる「遺訓文学」の類型に属する文書であり、ペトロの名を用いて将来の危険(実は現在の危険)を警告し、使徒的信仰を保持するように勧告する手紙となっています。
 本書はペトロ第一書簡が知られていることを前提していることや、パウロの影響が見られることから、ペトロ第一書簡と同じくローマのペトログループから出たものではないかと推察されますが、確実ではありません。成立の時期は、二世紀に入ってからとされ、新約聖書の中ではもっとも遅い時期の文書だとされています。
 七〇年以後の時期には「来臨の遅延」が信仰上の問題となっていましたが、時代が降るにつれて「キリストの来臨《パルーシア》」に対する待望が薄れ、それに伴って信仰の弛緩と生活の放縦が目立つようになり、使徒たちが伝えた信仰と異なる教えを持ち込む教師たちが現れるようになった状況を憂いて、著者はキリストの栄光の目撃者であるペトロの権威を用い(一・一六〜一八)、キリストの来臨の確かなことを説得しようとします。この書簡の時期には、「主が来るという約束は、いったいどうなったのか。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか」と、《パルーシア》信仰を公に嘲笑する者たちが現れていました(三・三〜四)。
 このような嘲笑に対して著者は、「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」と、人間と神とでは時間の単位が違うのだということを思い起こさせた上で、現在の世界がそのまま存続しているのは、「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」と答え、主の日が盗人のように突如地に臨み、すべてが火によって焼き尽くされた後、新天新地が実現するという(典型的な黙示思想的)終末待望を説きます(三・八〜一三)。
 著者は使徒ペトロの使信を要約した後(一・三〜一一)、使徒たちが宣べ伝えた《パルーシア》を嘲る教師たちを「偽教師」と呼び、旧約聖書やユダヤ教黙示文書に出てくる偽預言者についての記事を引用して断罪します(二・一〜二一)。この部分は、大きくユダ書に依存し、ユダ書から多くを引用し、自分たちの状況に適応させて敷衍しています。ユダ書はパレスチナ・ユダヤ人の強い黙示思想的信仰を表現しており、それを継承する本書も、強い黙示思想的な終末待望を示しています。年月が経つ中で、また迫害が繰り返される中で、ローマやエーゲ海地域の諸集会にもパレスチナの黙示思想的終末待望の火が浸透している様子が垣間見られます。

ユダ書とペトロ第二書簡の内容については、拙著『パウロ以後のキリストの福音』の494頁「第一節・ユダ書」と、503頁「第二節・ペトロ第二書簡」を参照してください。

X ヘブライ書

      (本項で書名のない数字はヘブライ書の章節です)

ヘブライ書の成立

 この時期に書かれた重要な文書で、ローマとの関連を推察させる文書が新約聖書にもう一つあります。それはヘブライ書です。この文書は手紙の形をとっていますが(一三・二二〜二五)、発信人と宛先はありません。著者と宛先は内容から推察せざるをえませんが、著者は結びの挨拶からローマとの関連が推察されます。著者は結びの挨拶で、「イタリア出身の人たちが、あなたがたによろしくと言っています」と書いています(一三・二四)。この文は、他にも解釈される可能性を残していますが、著者がイタリア以外の地(たとえばテモテへの言及が可能なエフェソ)にいて、そこからイタリアの信者たちにこの手紙を送るときに、一緒にいるイタリア出身の兄弟たちが故国の兄弟たちに挨拶を送っていると見るのが一番自然です。そして、当時イタリアのキリスト者共同体はローマ以外にはめぼしいものはありませんから、やはり著者はローマのどれかの共同体と深い関わりのある人物であるとしなければなりません。さらに、ローマのクレメンスが九六年頃にコリントの集会に書き送った勧告の手紙(第一クレメンス書)に、ヘブライ書が直接間接に引用され、用語や議論の仕方にもヘブライ書との並行が見られることからも、本書が(九六年以前に)ローマでよく知られており、重んじられていたことがうかがわれます。
 著者は自分の名をあげず、またパウロなど使徒の名を用いて書いているわけではありませんが、テモテと一緒にいることを示唆していますので(一三・二三)、テモテを同労者として共に働いたパウロの書簡であると推察されて、古代から宗教改革の時代まで、千年の長きにわたりパウロ書簡の一つとして扱われてきました。しかし、宗教改革の時代に文献批判が進み、パウロの作でないと判断され、ルターはアポロを、カルヴァンはルカかクレメンスを推定し、他にもバルナバやシラスなど様々な説が立てられるようになりました。すでにオリゲネスが「著者は神だけが知っておられる(=誰も知らない)」と言っているように、著者の名を知ることはできません。ただ、本書の聖書解釈の手法がアレクサンドリアのフィロンの影響を強く受けていることから、アレクサンドリアのヘレニスト・ユダヤ人の教養を深く身につけた人物であり、パウロの福音活動の圏内で福音に接し信仰に入った人物であろうと推察されます。本書の神学的構想はパウロとの親近性を示しています。
 本書の成立年代は八〇年代から九〇年代の初めと推察されますが、これはほぼドミティアヌス帝の在位(八一〜九六年)と重なります。本書には過去の迫害に言及した箇所がありますが(一〇・三二〜三四)、それがネロ帝の迫害かドミティアヌス帝の迫害かは分かりません。ドミティアヌス帝の迫害はごく晩年のことであり、(先に見たように)キリスト教徒に対する迫害という性格のものでもありませんし、ネロの迫害も局地的で一過性のものでしたから、本書が言及する迫害は、ローマや小アジアで起こっていた異教民衆によるキリスト教徒への罵声や告発という性格のものであった可能性が高いと言えます。このような社会的な疎外と迫害という状況で、ペトロ第一書簡がそうであったように、本書でもキリスト者はこの世では寄留者であるという自覚が強く表現されています(後述)。
 ヘブライ書は、その全体にさっと目を通すだけで分かることですが、わたしたちには大祭司であるイエス・キリストがいますことを説くことがその主要関心事です。イエス・キリストがどのような意味でわたしたちの大祭司であるのかを説く部分が、本書の本体部を構成します。その部分は四・一四から始まり、一〇・一八まで続いています。この本体部に入る前に、導入的な役割の序論部(一・一〜四・一三)があり、本体部の後にその帰結としての実践的な勧告(一〇・一九以下)が続きます。この三つが本書の主要区分ですが、それぞれの区分の中にキリストの告白と実践的勧告が緊密に織り込まれているのでその構成が複雑に見えます。しかし、本書の主要関心事を理解しますと、この三つの主要区分を見分けることは、比較的容易であると思われます。

御子キリスト

 著者は本書の序論部(一・一〜四・一三)で、御子キリストによる啓示と救済が究極的なものであることを、聖書によって根拠づけながら高らかに宣言します。とくに冒頭の三節に、当時のキリスト者共同体のキリスト告白が凝縮しています。

 神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。(一・一〜三)
 福音は最初期からイエス・キリストの出来事は「終わりの日」の到来であることを宣べ伝えてきました。イエス・キリストの出来事は、神が「かって預言者たちにより、様々な形と仕方で、先祖たちに(イスラエルはキリストの民の先祖でもあります)語ってこられた」ことの成就であり、世界に対する神の最終的な語りかけ(啓示の言葉)であると宣言してきました。著者は、勧告の冒頭にそれを掲げて、これからキリストに基づいてする勧告の究極性を印象づけます。
 続いて、神が世界に最終的に語りかけられた言葉である「御子」によってもたらされた救いがどのようなものであるかが述べられます。「神はこの御子を万物の相続者と定め・・・」以下の二節b〜三節の文は、内容的にはコロサイ書(一・一五〜二〇)にあるキリスト賛歌とほとんど同じです。ただ、コロサイ書ではキリストの十字架の死による「和解」が救いの土台でしたが、ここでは「罪(複数形)の清め」となっています。
 これは、さらに古いフィリピ書(二・六〜一一)のキリスト賛歌(パウロの時代)をも思い起こさせます。フィリピ書のキリスト賛歌では、キリストの死と復活による救済の働きが中心でしたが、パウロ以後になると、コロサイ書や本書のように、創造におけるキリストの役割と位置が語られるようになり、さらに「神の本質の完全な現れ」という理解が正面に出てきます。こうして、著者は冒頭にヘレニズム世界のキリストの民の間で広く唱えられているキリスト賛歌(=キリスト告白)を引用して、自分の勧告の土台とします。
 続いて、キリストは「御子」であるのだから天使よりも優れた方であることが、聖書の箇所を引いて論証されます(一・四〜一四)。このようにキリストは天使に優る御子であるのだから、「天使たちを通して語られた言葉」である律法(モーセ律法)よりも、御子キリストによって語られた救いの福音はさらに真剣に従わなければならないとします(二・一〜四)。
 フィリピ書(二・六〜一一)では、万物を超える優れた名は「主《キュリオス》」でしたが、コロサイ書や本書では「御子」という名になります。《キュリオス》は世界の万物《コスモス》に対する復活者キリストの優れた立場を指し示していましたが、「御子」という称号は、神との独自のつながりから来る優越性を表現しています。それは、《キュリオス》という称号で《コスモス》に対する優位が確立した上で、神との独自の関わり方から生じる、万物に超越する復活者キリストの地位を指し示しています。この神との独自の関わりから来るキリストの超越的な地位は、ヨハネ福音書の序詩において「父のふところにいる独り子である神」(ヨハネ一・一八)という称号でクライマックスに達します。
 「御子」は、神のふところにあって子であるだけでなく、実に人間となってわたしたちの間に現れた方です。著者は詩編(八・五〜七)を引用して、「わずかの間」天使たちよりも低いものとされ人間の姿を取られた御子が、地上のしばらくの間の苦難の後、高く天に引き上げられて栄光の座に着かれ、万物を支配する方となられたと、フィリピ書(二・六〜一一)のキリスト賛歌と同じく、御子の受肉を語ります。このように、「天使よりもはるかに優る御子」は、地上でわたしたち人間と同じ姿で歩み、同じ試練と苦難を味わわれた方イエスに他ならないことが強調され、それゆえに(イエスがわたしたちと同じ人間であるゆえに)イエスは弱い人間の苦しみが分かる「憐れみ深い、忠実な大祭司」となり、「人間の救いの創始者」となられた、と語られます(二・五〜一八)。
 御子である「イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい方」であるので、著者は昔イスラエルの民が荒野でモーセに反抗し、神の怒りにふれ安息に入ることができなかったことを反面教師として引用し、イエスに聴き従うように説き勧めます(三・一〜四・一七)。

大祭司キリスト

 古代の宗教には必ず神殿とそこで行われる供犠があり、それを行う祭司がいました。祭司階級を大祭司で代表させると、古代宗教には必ず神殿と祭儀と大祭司があったと言えます。この三つを欠く宗教はありませんでした。ところが、キリスト者だけは神殿も供犠も大祭司もない信仰生活を送っています。これは人間の宗教的本性から見ると異様な事態です。著者は本書において、この異様な事態が実は人間にとってもっとも優れた道であることを説きます。
 キリストの民にも神殿があります。天と地を含む全宇宙がわたしたちの神殿です。わたしたちにも大祭司がおられます。イエス・キリストこそ天の聖所に入られた大祭司です。本書はその主要部(四・一四〜一〇・一八)で、その大祭司キリストは聖所に入られるとき永遠の供犠を献げられたのであって、その血による一度限りの供犠は他のすべての供犠に優り、一切の供犠を完成し廃棄するものであることを説きます。とくにユダヤ教の祭儀制と較べて、大祭司イエス・キリストが完成された祭儀がいかに優れるものであるかが強調されます。

 「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか」。(四・一四)

 著者が本書で言いたいことはこれに尽きます。復活して天に上げられた御子イエス・キリストは、もろもろの天を通過して至聖所に入られた偉大な大祭司であり、そのようなわたしたちの救いを保証してくださる大祭司がいますのであるから、どのような困難にも耐えて、イエス・キリストを言い表す信仰をしっかりと保つように励ますことが本書の目的です。それで、大祭司としてのイエス・キリストを語るところと信仰を励ます勧告が交互に織り合わされて出てくることになります。
 まずこの偉大な大祭司キリストは、地上ではナザレのイエスとしてわたしたちと同じ人間の弱さをまとい、試練と苦しみを通して全うされた方であるゆえに、すべての人々に対して「永遠の救いの源」となられたことが再度強調されます(四・一四〜五・一〇)。その上で、わたしたちもこの偉大な大祭司キリストの奥義を理解することができるようになるために、著者は「教えの初歩を離れて、成熟を目指して進む」ことを求めます。成熟を目指して前進しなければ、停滞と弛緩の隙に乗じて誘惑が忍び込み、堕落する危険があるからです(五・一一〜六・八)。
 著者は、忍耐深く待って約束のものを得たアブラハムを模範として、偽ることのありえない神の約束によってこの世を逃れて永遠の御国を目指す希望に生きるようになったわたしたちキリスト者に、約束の地に入るために信仰と忍耐を説きます。そして、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となって永遠の至聖所に入られたイエスが、わたしたちの先駆者であることを思い起こさせます(六・九〜二〇)。
 イエスがメルキゼデクと等しい大祭司であることはすでに語られていましたが(五・一〇)、ここ(七章)で著者独特の論理を用いて、その意義が明らかにされます。イエスはユダ族に属する方であり、そのイエスがメルキゼデクと等しい永遠の大祭司に任じられたことによって、これまでのレビ族が担当していた祭司制が廃止され、それに伴って(その祭司制に基づいて与えられている)モーセ律法も廃止されたとします。「キリストは律法の終わりとなられた」というパウロの主張が、ヘブライ書ではこのように祭司制の変更によって根拠づけられて主張されています。
 ヘブライ書の著者は聖書に精通したユダヤ人であると考えられますが、読者がユダヤ人であれ、聖書を深く学ぶようになった異邦人であれ、モーセ律法に帰る誘惑を感じているこの時代の人たちに、著者は聖書の知識を駆使して、これまでのレビ系の祭司制とそれに基づくモーセ律法が廃止され、イエス・キリストが永遠の大祭司として、わたしたちを救いに導き、神との交わりが与えられる聖所に導き入れる唯一の方だと説きます。そのために、以下の章(八章と九章)で、これまでのモーセ律法とレビ系祭司制と較べて、大祭司キリストによって与えられる救いがいかに優れたものかが説き示されます。
 そのことを示すための著者の方法は、本体と影、実物と写しの「予型」《テュポス》の論理です。著者は自分が言いたいことを、「今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです」とまとめ、地上の幕屋とか祭儀は「天にあるものの写しであり影である」とします(八・一〜五)。著者はモーセ律法(ユダヤ教)の規定に従って行われる幕屋(神殿)での祭儀を記述した後(九・一〜七)、「この幕屋とは、今という時の比喩です」として、大祭司キリストが天にある真の幕屋で成し遂げられた永遠の贖いを提示します。

 「けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」。(九・一一〜一二)

 地上の幕屋(神殿)では、毎年繰り返し定めらた日に大祭司が犠牲の雄山羊と雄牛の血を携えて至聖所に入り民の罪の贖いをしますが、天にある真の幕屋では、終わりの日に成就する恩恵の契約の大祭司として現れたキリストが、ただ一度御自身の血を携えて至聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。このように著者は、キリストの十字架・復活・昇天・神の右への着座の出来事を、幕屋での大祭司による贖罪祭儀の成就として描きます。「律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません」(一〇・一)。キリストは律法を成就することで廃棄したのです。
 このように、ヘブライ書はパウロと同じく、「律法の外での救い」という福音の真理を、祭儀の視点から主張しています。本書は、人間は宗教祭儀なしで神の民となり、神の命に生きることができることを指し示しています。祭儀とは人間の宗教そのものですから、本書はユダヤ教という典型的な宗教を相対化しており、それによって「宗教」そのものを相対化していると言えます。

希望に生きる旅人

 主要部で、わたしたちには永遠の贖いを成し遂げてくださった大祭司キリストがいますことを述べた著者は、それを受けて第三部(一〇・一九以下)では実践的な勧告に入り、このような大祭司がいますのであるから、迫害の中でも「公に言い表した希望(原語では「希望のホモロギア」)を揺るがぬようしっかり保ち」、「愛と善行に励み」、信仰の生涯を全うしようではないかと呼びかけます。
 著者は希望を信仰生活の中心に据えています。信仰を保つとは、「希望のホモロギア」を保つことです。著者によれば、「信仰とは、望んでいる事柄の実質、見えない事実の確認である」とします(一一・一私訳)。「望んでいる事柄」と「見えない事実」は、共に神によって約束された終末の栄光の事態を指しています。ここでいう信仰の意味は、一一章に列挙されている、この質の信仰に生きた人たちの実例からも確認できます。それは、神の約束によって終わりの時に与えられると望んでいる栄光、まだ見ていない終末的な栄光の事態を、確かなリアリティーとして、現在を生きる生き方に他なりません。そうすると、この生き方はパウロが「希望」と呼んだ信仰者の生き方と同じであることが分かります。著者においては、信仰と希望は一つのものです。わたしたちの信仰は「希望のホモロギア」と呼ばれることになります。このように希望と一体である信仰は、本書の著者だけでなく、初期のキリストの民の「信仰」の質を示す共通の指標です。それは、聖書の神への信仰、すなわち救済史的唯一神への信仰がもつ必然的な姿です。
 このような質の信仰に生きた代表的人物はアブラハムです。著者はアブラハムの信仰を語る途中で、このアブラハムと同じ質の信仰に生きる人々の姿を印象深い言葉で記述しています。

 この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。(一一・一三〜一六)

 これは、アブラハムと同じ質の信仰に生きるわたしたちの姿です。それは寄留者の姿であり、地上では天の故郷に向かって旅する旅人の姿です。この点で、本書は先に見たペトロ第一書簡と同じ質の信仰を示しています。
 著者は一一章で信仰の姿を記述した上で、続く一二章と一三章で言葉を尽くして、そのような信仰に歩むための実際的な勧告を行っています。著者にとって「信仰」とは、まだ見ていない約束された終末の栄光を現実として、現在をその「告白」に忠実に生きることに他なりません。これはパウロのいう「希望」と同じです。たしかにパウロもこのような終末待望に生きています。しかしパウロが「信仰」という時には、このような終末待望に忠実な生き方という面よりは、聖霊によるキリストとの合一、すなわち十字架されたままの復活者キリストに合わせられて、自分が死に、新しい復活の命に生きるという、現在の命の現実が中心に位置しています。このような「キリストにあって」現実に体験している聖霊の現実は、よく「パウロの神秘主義」(A・シュヴァイツァー)と呼ばれますが、その呼び方の当否はさておき、ヘブライ書にはこのような「神秘主義」の一面は希薄です。
 ヘブライ書も、キリスト信仰の始まりを「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験し」と描いています(六・四〜五)。しかし、聖霊による信仰体験について触れるのはここだけで、パウロのように繰り返し「キリストにあって」聖霊により体験する現在の「変容」について語ることはありません。また、コロサイ書やエフェソ書のように霊的な「キリストの充満」を語ることもありません。ヨハネ福音書のように「永遠の命を持っている」という現在の霊的事実に集中することもありません。総じてヘブライ書の「信仰」は、終末の栄光を目指して現実の世界から出て行き、旅人として生きる実践的な側面が強く出ています。この点は、クムランの死海文書の影響を思わせるものがあります。このように、ヘブライ書の「信仰」は神秘的な面が希薄で、実践的な面が強いという特徴が、後に本書をとくに西方キリスト教世界で歓迎される書にしたものと思われます。

Y クレメンスの手紙とローマ共同体

        (この項における数字はクレメンスTの章節です)

クレメンスの手紙

 ここまで新約聖書の中でローマと関わりがある書簡三つ、すなわちローマ書、ペトロ第一書簡、ヘブライ書を取り上げて見てきました。しかし、われわれがここで扱っている時代(最初期後期)のローマの共同体の様子とそのキリスト信仰を証言する重要な文書がもう一つあります。それは新約聖書正典に入れられていませんが、この時期の後半に書かれた「クレメンスの手紙」です。
 伝統的に「クレメンスの第一の手紙」と呼ばれているこの文書は、「ローマに寄留する神のエクレシアからコリントに寄留する神のエクレシアに」(私訳)宛てられており、ヘブライ書よりも長い堂々たる文書です。本書は、初めから集会で朗読されることを期待して書かれていて、個人の手紙というより一つの共同体から他の共同体に向けて送られた公式の説諭文書です。著者個人の名は出てきません。この文書は、この文書と共にローマの共同体から派遣された使節(複数)をすみやかに送り返して、この文書に対するコリント集会の対応を報告するように求めています(六五・一)。
 著者は自分の名前を出していませんが、彼はその時代においてローマ共同体を代表する著名な人物です。古代の教父たちは一致して本書をクレメンスの書としており、エイレナイオスは彼を第三代目のローマの監督としています。本書は最初期の共同体において、使徒文書と同等に扱われ、各地の集会で朗読されていたようです。その権威が高かったので、後の諸文書がクレメンスの名で書かれるようになり、本書はそれらと区別して「クレメンスの第一の手紙」と呼ばれるようになります。しかし、使徒以外の人物によって書かれた文書であることは明らかですから、使徒性を規準として選定された正典には入れられませんでした。
 この文書は冒頭で「わたしたちに突然次々に降りかかった不運や災難のために」コリント集会の問題に対処することが遅れたことを弁解していますが、普通その災難がドミティアヌスの迫害と理解されて、この文書の成立をドミティアヌスの死の直後、九六年頃とするのが通説ですが、ここの表現は必ずしも迫害を意味するとは限らず、成立時期をもっと遅く見る説もあります。
 この文書が書き送られたのは、コリントの集会のある長老が集会内の(おそらく若手の)グループの扇動で引き起こされた紛争によって罷免されるという事件があり、それを知ったローマの共同体が、扇動者を処分してコリントの集会が一致を回復し、その長老を元の職に戻すように説諭するためです。本書はその紛争の原因とか性格に触れることなく、長老を批判する者たちを一方的に神的なエクレシアの秩序に背く者と断定して、(当時のローマの政界でよく行われた)自発的な追放処分に服させ、長老を復職させるように求めています。
 著者がそのように説得をするために用いている手法とか根拠は、おもに旧約聖書と使徒たちの伝承に基づいています。著者は、このような紛争が起こるのは嫉妬が原因であり、嫉妬を通して死が世に入ってきたとして、アブラハム、モーセ、ダビデなど聖書から多くの実例を挙げ、ペトロやパウロの死も不正な嫉妬によるものとしています(五)。紛争を引き起こした者たちに悔い改めを迫るときも、聖書から多くの実例を引いています。また、「使徒なる至福者パウロの手紙」からも多く引用しています。しかし、パウロが用いた体の比喩を用いるとき、パウロは様々な肢体が他を必要としていることを語っているのに対し、著者はその比喩を司令官に服従する兵士のたとえの中で用い、上にいる者に服従することを説くたとえにしている(三七)など、パウロと違う面も出てきています。
 そのような長い説諭の議論の後、「君たち、騒乱のもとをつくりあげた者たちは長老たちに服従し、悔い改めに至る懲戒を受けよ」と求めます(五七・一)。そして、「もし幾人か、キリストがわたしたちを通して語られている警告の言葉に反抗する者があれば、その者らは律法に違反し、小ならざる危険に自ら陥っていることを知るがよい」と警告し(五九・一)、最後に「私たちが聖霊を通して書いた事柄に君たちが服従し、この手紙に記した平和と一致についての私たちの訴えに従い、君たちがその正しからざる嫉妬の怒りをぬぐい捨ててくれるならば、それは私たちに喜びと無上の嬉しさを与えてくれるであろう」と結んでいます(六三・二)。

クレメンスの第一の手紙の翻訳は、講談社『聖書の世界』別巻4・新約Uの『使徒教父文書』の中に小河陽訳でありますので、それを参照してください。本項での引用はこの小河訳からです。

 引用した最後の文にある「平和と一致」は、当時のローマ帝国おける至高の価値であり理念でした。著者はこのローマ社会の理念をもってエクレシアの平和と一致を訴えます。そのさい、帝国の首都にいるローマ皇帝は世界各地の平和に責任があるとして各地の紛争に介入したように、首都ローマのエクレシアは他の地域のエクレシアの騒乱に介入して「平和と一致」を確立する責任があるという気風があったように、この文書は感じさせます。もちろんこの段階ではまだ、ローマの監督がコリントの事件を裁いたり命令しているのではありませんが、後に問題となる「ローマの首位性」(ローマ教会の司教が他の司教を統括する権威)の萌芽があるように感じられます。

その後のローマの共同体

 先にパウロがローマ書を書き送った時期(五六年)のローマ共同体の様子を見ました。その頃のローマでは、ローマ在住のキリスト者全員を統合する組織はなく、小さな「家の集会」や特定の立場の者たちが形成するグループの集会が個別に活動していたようです。キリスト者の数も五〇人程度の微々たる勢力であったと推察されています。しかし、それから四〇年または五〇年ほど経った一世紀末から二世紀初頭には、クレメンス書が証言するように、帝国各地の共同体の「平和と一致」に責任をもつと自覚している、かなりの規模と勢力の共同体となっています。ローマ共同体の規模と勢力がかなりの速さで増し加わっていったことは、六四年と見られるネロの迫害の時の殉教者の数も示唆しています。一世紀末に至るローマ共同体の進展については、資料が断片的で正確なことは分かりませんが、資料が許す限りで推察してみましょう。
 クレメンスは手紙の冒頭で、「ローマに寄留する神のエクレシア(単数形の《ヘー・エクレーシア》)からコリントに寄留する神のエクレシア(同じく単数形)へ」と書いています。しかし、クレメンスの表現は理念的なものであって、必ずしも実際に一人の監督の下に統合された一つの組織体を指しているとは言えません。また、四二章で使徒たちが各地の共同体に「監督たちと執事たち」を任じたとして、監督職が使徒から発するものであること、いわゆる「使徒継承」の問題を論じているところは、ローマの監督が一人であるのかどうかを議論する材料にはなりません。
 むしろ、それから少し後(一一〇年頃)に書かれたイグナティオスの手紙では、エフェソなど小アジアの各地の集会に宛てたどの手紙でも一人の監督の名があげられて称揚されていますが、ローマの集会に宛てた手紙では監督の名はあげられず、宛先としてのローマのエクレシアが言葉を尽くして称揚されています。その中に「ローマ人の国において指導的であり」という句があるのが注目されます。ローマの共同体は、クレメンス書簡に見られるように、帝国各地の集会の「平和と一致」に責任を感じて介入するようになっており、またペトロ第一書簡に見られるように、迫害下にある帝国各地の兄弟たちに対して励ましの手紙を送るだけでなく、資金を送って援助したと伝えられています。この時期のローマ共同体にはかなりの上層の人や富裕な階層の人たちも含まれるようになっていたと見られます。たとえば、ドミティアヌス帝の迫害の時に、ユダヤの悪習に染まっているとして処刑された執政官のクレメンス(帝の従兄弟)と、流刑になったその妻ドミティラ(帝の姪)はキリスト教徒であったと見られています。

クレメンス書の著者のクレメンスは、執政官クレメンスではありませんが、親族であるとか、その家の解放奴隷であるなど、関連のある人物である可能性はあります。

 共同体の監督は一人でなければならないと主張し、エクレシアの存立にとって監督の不可欠性を強調し、自身を「シリアの監督」とするイグナティオスが、ローマ宛の手紙だけは監督に触れることなく、ローマの共同体に「あなたがた」と呼びかけて手紙を書いている事実は、この時期にはまだローマの共同体は一人の監督をいただく組織体ではなかったことを示唆しています。しかし、クレメンスはローマの共同体を代表する立場でコリントへの書簡を書いています。一つの組織体ではなくても、対外的な問題では一体として行動していたことがうかがえます。
 二世紀半ばにローマで著作された「ヘルマスの牧者」でも、「監督団と長老団」が言及されていて、一世紀末のローマが単独の監督に率いられる組織体でなかったことが推察されます。エウセビオスはその『教会史』で、ローマの監督(カトリック教会の用語では司教)を初代司教ペトロから始めて順次にあげていますが、これは単独司教制と使徒継承の理念が確立した時代から見た書き方であって、必ずしもその時代の事実を伝えているわけではありません。
 帝国の首都であり、ペトロとパウロの殉教の地となったローマは、二世紀に入って信条や正典の確立においても重要な役割を果たし、ますますその存在感を強め、二世紀末に著作したエイレナイオスによって、「すべての教会はこの教会と一致することが肝要である」と言われるまでになります。しかし、二世紀以後のことは本章が扱う限度を超えますので、別の機会(終章)で取り上げることにします。

Z ローマ帝国とヨハネ黙示録

         (この項における数字はヨハネ黙示録の章節です)

ヨハネ黙示録の成立

 迫害の中にある小アジアにおいて、キリスト信仰の立場から迫害するローマ帝国を痛烈に批判する文書が生み出されます。ヨハネ黙示録です。新約聖書の最後に置かれているこの特異な文書は、迫害下にある小アジアのキリストの民を励ますために書かれた文書ですが、迫害するローマ帝国に対する姿勢は、同じく迫害下にある小アジアのキリスト者を励ますために帝都ローマから書き送られたペトロ第一書簡とは対照的です。ペトロ第一書簡はなお、ローマ帝国の権力を神によって立てられたものとして従順を説くパウロのローマ書一三章の線上にありましたが、ヨハネ黙示録はそれとは対極的に、ローマ帝国の権力を神に敵対する悪魔的なものとし、やがて来臨されるキリストの威光と権威によって滅ぼされるものとして描きます。
 著者はヨハネと名乗り、本書をアジア州の七つの集会に宛てた手紙として書き送っています(一・四〜六)。著者ヨハネは「神の言葉とイエスの証しのゆえにパトモスと呼ばれる島にいた」としていますが(一・九)、これはキリスト信仰のゆえのパトモス島への流刑を指していると考えられます。彼はそこで復活者イエス・キリストを啓示する様々な幻を伴う強烈な霊的体験を与えられ、その啓示を「巻物に書いて(エフェソなどアジア州の)七つの集会に送れ」と命じられます。こうして書かれた巻物が「イエス・キリストの黙示《アポカリュプシス》」という標題を与えられて、アジア州の諸集会に流布します(一・一〜三)。
 ヨハネ黙示録は、一見して明らかなように、ダニエル書に始まるユダヤ教黙示文書の系譜に属する信仰文書です。ユダヤ教黙示文書では、異教帝国の支配下にあって苦しんでいるヤハウェの民イスラエルを励ますために、エリヤとかエノクのような神から選ばれた聖徒に天使を通して与えられた天界と来るべき時代の奥義(隠された知識)が、多くの幻や象徴的な表現で語られていました。一世紀のパレスチナ・ユダヤ教ではこのような黙示文書が多く流布し、異教ローマの支配下に苦しむユダヤ教徒の信仰を鼓舞していました。著者ヨハネは、このようなパレスチナ・ユダヤ教の黙示思想を吸収し、その伝統の中で活躍したキリスト信仰の預言者であると見られます。
 キリスト者共同体では、その最初期から預言者の活躍が盛んでした。聖霊の霊感を受けて共同体に語りかけた預言者たちの活動は、使徒たちの告知や教えと並んで、キリスト信仰と共同体の土台として尊重されていました(エフェソ二・二〇、三・五)。パレスチナで活動したこのような預言者集団の一つが、ユダヤ戦争の前後にパレスチナを逃れてエフェソに移住し、アジア州の諸集会に向かって預言活動をしていたと推察されます。ところが、その地域で始まったキリスト教徒弾圧によって、その預言者集団の指導者ヨハネはパトモス島に追放され、そこでこのような啓示に接したと見られます。
 それがどの迫害を指すのかについては諸説がありますが、やはり伝統的なドミティアヌス帝の時代の迫害であったと見るのが一番自然なようです。エイレナイオスを初め二世紀の教父たちは一致して、ヨハネ黙示録をドミティアヌス帝の時代の成立としています。先に見たように、ドミティアヌスの迫害は直接キリスト教徒を目標にしたものではありませんでしたが、彼はカリグラと並んで、生前に自分を神として拝むことを要求した例外的なローマ皇帝です。さすがにローマではできませんでしたが、当初から皇帝礼拝の気風がある小アジアで、とくにその代表的な都市であるエフェソでそれを実現しようとして、自分のために神殿を建て、巨大な像を造り、「主にして神」である自分を祀る祭儀を行うことを要求しました。このような皇帝礼拝を拒否する預言運動を指導したヨハネが逮捕されて流刑に処せられたと見られます。そうするとヨハネ黙示録の成立は、ドミティアヌス帝統治の末期、九〇年代半ばということになります。

ヨハネ黙示録の成立とその内容については、拙著『パウロ以後のキリストの福音』の「第四章 来臨待望と黙示思想 ― ヨハネ黙示録における終末待望 ― 」を参照してください。ここではローマ帝国との関係という視点に重点を置いて、その内容を要約しておきます。

ヨハネ黙示録におけるキリスト

 ヨハネは最初に、御霊によって示された「天上におられるキリストの姿」を語ります(一章)。キリストは「最初の者にして最後の者、また生きている者。一度は死んだが、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている」方です(一・一七〜一八)。復活して栄光の座にいます方です。しかし本書におけるキリストは、何よりも 「やがて来られる方」(一・八)です。本書は「見よ、その方は雲に乗って来られる」(一・七)という賛美で始まり、「然り、わたしはすぐに来る」(二二・二〇)という宣言で終わります。本書は、徹頭徹尾「キリストの来臨」を語る文書です。新約聖書の中で、初期の来臨待望をこれほど壮大かつ強烈に証言している文書は他にありません。
 そのキリストは「七つの金の燭台」の間にいます方、すなわち七つの集会の中に働かれる主です。その方から七つの集会に手紙を書き送るようにヨハネは命じられ、その命令に従いヨハネはアジア州の七つの集会に手紙を書きます(二〜三章)。その七つの手紙には共通の型があります。まず発信人であるキリストがどのような方であるか、あるいはどのような資格で語られるのかが、それぞれ違った形で述べられます。次にそれぞれの集会に特有の賞賛と非難の言葉が続きます(どちらかがない場合もあります)。その後に、悔い改めを促す言葉と、裁きが切迫していることを告げる言葉が来ます。そして最後に、この手紙の言葉に聴き従うことを求める文言と、最後まで忠実な者への勝利の約束が加えられます。
 その後、ヨハネは「御霊に満たされて」(=エクスタシーの状態で)天に引き上げられ、「開かれた門」から入って、「天の玉座」の前に導かれ、そこで見た光景を描きます(四〜五章)。この「天の玉座」の光景は、ユダヤ教に伝統的な表象を用いて語られていますが、その中にキリストの福音を告知する文書として決定的な特色である「小羊」が現れます。この「小羊」は一・九〜一六で語られた「天上におられるキリスト」に他なりませんが、そのキリストがここでは「屠られたような小羊」の姿で現れ、この小羊が玉座に居ます方(神)と同等に礼拝されているのです。「屠られたような小羊」とは、「世の罪を(背負って)取り除く神の小羊」(ヨハネ一・二九)であり、パウロが告知する「十字架につけられた姿の(復活者)キリスト」の象徴です。
 この「屠られたような小羊」が、神の右の手にある巻物を受け取ります。その巻物は表にも裏にも文字が書かれており、七つの封印で封じられていて、誰もそれを開くことができません。小羊だけがその封印を解いて巻物を開くことができます。これは、代々に隠された神の救済史が「十字架されたキリスト」によって成就し、その秘密が解き開かれることを象徴しています。
 そして、七つの封印が解かれるごとに、地上で終末を指し示す激しい出来事が起こり、民が選別されていく様子が描かれます(六〜七章)。そして、第七の封印が解かれると、七つのラッパが鳴り響き、最後の大患難が地に臨みます(八〜一一章)。この封印の開封とラッパの響きによって地上に展開する光景は、黙示思想が終末時に起こるとしていた破局の典型的な描写です。本書はこのような描写によって、終末時にキリストが歴史の中で裁きを行いながら進まれる様子を象徴的に描きます。ヨハネ黙示録のキリストは、神の御旨に従い黙して十字架の苦しみを受ける小羊であるだけでなく、その怒りによって敵対する者を焼き滅ぼす審判者であり、その相は「小羊の怒り」と表現されることになります(六・一六〜一七)。

ローマ帝国に対する戦いと勝利

 いよいよ最後の第七のラッパが吹き鳴らされます。神の《ミュステーリオン》が成就する時が来たのです(一〇・七)。それがどのように成就するのかは、一二章以下で詳しく語られますが、そこで実現する神とメシア・キリストの勝利を先取りして賛美が歌われます(一一・一五〜一九)。第七の天使がラッパを吹いたとき、天に大きな「しるし」が二つ現れます。この場合の「しるし」は、(ヨハネ福音書の場合と違い)ある霊的現実を象徴する幻という意味で用いられています。一つは、「太陽をまとい、月を足の下にし、十二の星の冠をかぶっている女」の幻です。もう一つは、「七つの頭と十本の角を持ち、七つの冠をかぶっている、火のように赤い竜」です。そして一二章全体で、この女と竜との間に起こる激しい抗争が描かれます。
 第一の幻は、古代の星辰宗教に見られる「天の女王」の姿をしています。古代オリエントでは、民族や都市が女の象徴で語られました。ここの女は、以下の記述から世々の神の民を指していることは明らかです。旧約の神の民イスラエルはメシアを地上にもたらしました。そのことが「子を産もうとしている女」とか「子を産む痛みと苦しみのために叫んでいる」と描かれています。そして、子が産まれた後も竜と女の戦いが続きますが、このときの女は新約の時代のキリストの民を指すことになります。
 竜は女が産む子を呑み込もうと待ちかまえています。古代の神話では女の生んだ男の子が悪魔を退治するのですが、ここでは女が産んだ子メシアはすぐに神のもとへ引き上げられ、女は荒野に逃れます。代わりに天使ミカエルが天で竜と戦って打ち負かします。ミカエルは神の民を守護する天使長です(ダニエル一〇・二一)。竜はその手下たちと共に地上に投げ落とされます。ここでその「巨大な竜」とは、「年を経た蛇、悪魔とかサタンと呼ばれるもの、全人類を惑わす者」であることが明示されます。
 ここで、サタンが天から投げ落とされた(ルカ一〇・一八参照)ことで現された神とメシアの支配を賛美する合唱が天に起こります(一二・一〇〜一二)。この賛美では、地上に置かれたキリストの民がサタンに打ち勝つのは殉教も辞さない忠実な証しによることが先取りされています。
 地上に投げ落とされた竜は「男の子を産んだ女」、すなわちキリストの民を追って攻撃します。女は鷲の翼を与えられて荒野に逃れ、三年半のあいだ神に養われます。竜は蛇の姿をとって口から川のように水を吐き出して女を押し流そうとしますが、大地が口を開けて水を飲み干し、女を助けます(一二・一三〜一六)。キリストの民は敵対する地上の勢力に対して暴力で立ち向かうのではなく、神の超自然の力に守られて保護される姿が、黙示文学的なイメージを用いて描かれています。
 地上に投げ落とされた竜は、海辺に立って、神の民に対する戦いのために仲間あるいは自分の分身を地上に呼び起こします。それは二匹の獣の姿をして現れます。第一の獣は海から上ってきます。第二の獣は地から上ってきます。その獣の姿が一三章で描かれます。
 海から上ってくる第一の獣(一三・一〜一〇)は、十本の角と七つの頭があり、それらの角には十の王冠があり、頭には神を冒?するさまざまの名が記されています。竜自身も「七つの頭と十本の角を持ち、七つの冠をかぶっている」と描かれていましたが、この獣は(頭ではなく)角に王冠をかぶっています。世界を征服して支配し、神の民を圧迫する強大な帝国を獣の姿で描くことは黙示文学の伝統です。ダニエル書(七・二〜八)では、アッシリヤをはじめ、世界を残酷に支配した巨大帝国が、海(諸国民を象徴します)から次々に現れる四匹の獣の姿で描かれました。その姿は、獅子、熊、豹、十本の角のある恐ろしい獣の形をしていました。ヨハネ黙示録では、その姿が一匹の獣に集約されて「豹に似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のような、十本の角をもつ獣」になります。
 この獣はローマ帝国を象徴しています。この時代に著者とキリストの民が直面している世界帝国は、ローマ帝国だけです。「王冠をかぶった十本の角と七つの頭」とは、歴代の皇帝によって支配されるローマ帝国の全体を指しています。重要なことは、「頭には神を冒?するさまざまの名が記されていた」ことです。ローマ皇帝は、「崇高なる者、神的存在、神の子、主なる神、救世主」などと呼ばれ、コインにもその名が刻印されていました。地上の人間が神として礼拝されることを要求するとき、その名は神を冒?する名となります。この時代のローマ帝国は皇帝礼拝の傾向を強めつつありました。
 「竜(サタン)がこの獣(ローマ帝国)に、自分の力と王座と大きな権威を与えた」のです。これは、上に立つ権威はすべて神によって立てられたものだとして、キリスト者にローマ帝国の権威に服するように説いた使徒パウロ(ローマ一三章)と対極に立ちます。原則論としては、たしかにパウロの言うように、地上の人間社会の秩序を維持するために立てられた政治的支配者の権威は神からのものです。キリスト者は上に立つ権威に服従すべきです。しかし、その権力が自己を絶対化して、自分を神とする時には、その権力はサタン的なものに変質します。歴史上、人類はこのような変質の悲劇を数多く体験してきました。ローマ帝国もこの変質の時代に入ろうとしているのです。
 地から上ってくる第二の獣(一三・一一〜一八)は、「小羊の角に似た二本の角があって、竜のようにものを言う」獣です。この獣は、真の神の言葉を語る小羊に「取って代わろう」とする「小羊の角に似た角がある」獣です。この獣は第一の獣の像に息を吹き込み、その像にものを言う力を与えています。この獣は、あの第一の獣の前で天から火を降らせるなどのしるしを行い、人々をあの第一の獣の像を拝むように駆り立てる偽預言者を象徴しています。それは、この獣が他の箇所(一九・二〇、二〇・一〇)で「獣(ローマ)と偽預言者」と一対で現れていることからも分かります。こうして、竜(サタン)と第一の獣(ローマ帝国)と第二の獣(偽預言者)は、神に敵対する霊的勢力の三位一体を形成します(一六・一三)。
 ヨハネはまた、「小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されている」幻を見ます(一四・一〜五)。これは、あの「獣の名」の刻印を受けた多数の者たちからは分かたれた、獣を拝まない者たちの数です。もちろんこの数は象徴であり、その数が満ちたときの神の民を表しています。彼らには獣の刻印ではなく、小羊の名が額に記されています。「刻印」という語は用いられていませんが、彼らが小羊キリストに所属する者たちであることを示しています。キリストの民は最終的には数えられない大群衆となって栄光の中に現れますが、その最終審判と救済が始まる前に、地上で限られた数の殉教者が初穂として祭壇に捧げられることが、神のご計画の中にあることを預言しています。
 ここで空高く飛ぶ三人の天使が神の裁きの時が来たことを告げ知らせます(一四・六〜一一)。まず第一の天使が、「永遠の福音」を携えて来て、地のすべての民に神の裁きの時が来たことを告げ知らせます。続いて第二の天使が大バビロンが倒れたことを知らせます。旧約の預言書や黙示文書では、バビロンはいつも神の民を抑圧する帝国を代表していましたが、ヨハネ黙示録ではローマ帝国を指しています。ローマ帝国への裁きは将来のことですが、預言者は判決がすでに執行されたものとして語ります。ローマ帝国は支配する諸国民に淫行のぶどう酒を飲ませた、すなわち偶像礼拝を強制した罪で断罪されます。第三の天使が判決を告知します。獣を礼拝する者は神の怒りによって永遠の苦しみに定められることが、黙示文学的な表現で描かれます。
 このように三人の天使によって告知された裁きの時の到来が、続いて刈り入れの幻で描かれます(一四・一四〜二〇)。終わりの日の審判は、旧約の預言書や黙示文学においても、また福音書においても刈り入れの比喩で語られてきました。終わりの日が語られるところでは、畑に鎌が入れられ、籾殻など不要なものは火で焼かれ、収穫は倉に収められるという刈り入れのイメージが繰り返し出てきます。洗礼者ヨハネの宣教もこのイメージでなされています。ここでは、その刈り入れが収穫と審判の二つの幻に分けて描かれます。
 この箇所(一二〜一四章)は、ヨハネ黙示録の核心であり頂点です。預言者は時代に向かって語ります。預言者ヨハネは、これから始まろうとしているローマ帝国のキリスト者迫害の時代に向かって、戦い勝利するようにとキリストの民に呼びかけます。
 ヨハネ黙示録には、「勝利を得る」とか「(打ち)勝つ」と訳されている動詞《ニカオー》が、繰り返し一七回も出てきます。全新約聖書で二八回の中の一七回で、本書が何よりも戦いの書であることを印象づけます。ところが、一二章までは何と戦い勝利するのか、戦いの対象が明示されていません。この箇所になってはじめて、その戦いの相手が「獣」の姿で出てきます。キリストの民が戦う相手は、竜(サタン)と第一の獣(ローマ帝国)と第二の獣(偽預言者)が形成する、神に敵対する霊的勢力の三位一体です。それは悪霊化した権力、自己を神とする(絶対化する)政治権力です。キリストの民、すなわち小羊に所属する民は、襲いかかる獣と戦い、打ち勝たなければならないのです。
 しかし、その戦いは剣(武力)による戦いではありません。小羊の民が戦い勝利を得るのは、ひたすらキリストを証しする言葉によります。「兄弟たちは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とで、彼に打ち勝った。彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった」(一二・一一)とあるように、神の言葉の証しのために血を流されたキリストに従い、キリストを証しするのに命を惜しまないこと、すなわち殉教によって勝利するのです。
 権力は剣を帯びています。その剣は本来悪を罰して社会の秩序を維持するために、神から認められたものです(ローマ一三・一〜四)。ところが、サタンに欺かれて自己神化の傲慢に陥った権力は、その剣を用いて神の真理を告白する者たちを殺します。彼らの真理の証言が自分の自己絶対化の偽りを暴くからです。多くの者が獣を拝むとき、獣は自分を拝まない者を追放し殺します。「捕らわれるべき者は、捕らわれて行く。剣で殺されるべき者は、剣で殺される」(一三・一〇)という事実が起こるとき、預言者はそれを「獣は聖なる者たちと戦い、これに勝つことが許された」(一三・七)と表現します。神がしばらくの間の勝利を許されたのです。地上の出来事としては獣が勝利しているように見えます。
 しかし、殉教者の血が流されて獣が勝利していると見えるとき、実は神の真理が勝利し、獣は敗北しているのです。預言者ヨハネは、殉教の事実を天上の視点から見ることを示して、それが勝利であることを説いてやみません。ヨハネはキリストの民全員が殉教するように考えていると見られるふしがありますが、それは殉教者の数とか範囲の問題ではなく、神と小羊を礼拝するか獣を礼拝するかの厳しい二者択一を一人ひとりに突きつけているのです。獣を礼拝して、獣と共に火の池に投げ込まれるのか、小羊を礼拝し、その証しの言葉によって勝利して栄光を受け継ぐのか、預言者は決断を迫ります。キリストの民であることは、これからの時代には、このような戦いに召されることを意味すると、預言者ヨハネは呼びかけます。そして事実、この時から四世紀初めの寛容令に至る二百数十年にわたって、このような熾烈な戦いが続くことになります。

バビロンの崩壊と新しいエルサレムの完成

 悪霊化したローマの権力支配に信仰の証しによってキリストの民が打ち勝つことを語った後も、預言者は一五章以下で世界に臨む最終的な災いと新しい天と地、新しい神の都の完成を語り続けます。すでに七つの封印と七つのラッパで起こる災害が語られましたが、さらに七人の天使が七つの金の鉢に盛られた神の怒りを地上に注ぐと、世界に様々な災害が起こります(一五〜一六章)。
 この封印、ラッパ、金の鉢という三周の災害は内容がよく似ていることもあり、その関係が問題になりますが、これは最終的な神の裁きと救済の時が来る前に、世界には大きな災いが臨むという黙示思想の基本的思考が、著者の壮大な構想の中でこのような繰り返しをもたらしたと考えられます。それで、黙示録とは災害の絵巻物のように考えられていますが、黙示録は災害を予告して恐怖心を呼び起こすために書かれたものではありません。それはむしろ、世界に起こる悲惨な現実の中に希望を読み取ろうとする信仰の産物です。歴史は悲惨な現実に満ちています。とくに抑圧された民にはそうです。そのような悲惨な現実にもかかわらず、その中にあって希望の原理を提示しようとした預言者的精神の働きが、このような黙示文書を生み出したのです。黙示思想は、悲惨な現実を天上の視点から見ることを教えます。現実がどのように悲惨でも、神が歴史を支配しておられる以上、最後には必ず正しい審判が行われ、真理が勝利するのだという信仰を根拠として、将来に希望をもつように励ます文書が黙示録です。
 世界に臨む七つの災害が三周して、災いの時が満ちたとき、いよいよ神に敵対し神の民を苦しめる悪の勢力を裁く審判が執行されます。その描き方が暗号を用いた幻によるものですから、その正確な理解は困難です。しかし、大意は明らかです。キリストの民に敵対するローマ帝国は、バビロンの異名で指され、諸国民を淫行に誘惑する大淫婦の姿で象徴され、神の裁きによって間もなく滅びます。この裁きの執行を、預言者は典型的な黙示文学の様式で描きます(一七〜一八章)。
 淫婦バビロンが滅んだ後、救済史の最終目標である小羊の婚宴、小羊であるキリストと花嫁であるキリストの民の婚宴が行われます。その過程が最後の部分(一九〜二二章)で描かれます。キリストが地上を支配される過渡的な時期を経て、サタンが裁かれ、世界に最後の審判が行われ、新しい天と地が出現し、小羊の花嫁としての新しいエルサレムが現れます。その新しい神の都エルサレムの栄光が描写され、黙示が完成します。その後、結びとして、これらの黙示(啓示)を与えられた方からの「見よ、わたしはすぐに来る」という宣言が三度繰り返され、「アーメン、主イエスよ、来てください」という祈りで結ばれます。

福音の展開史におけるヨハネ黙示録

 このような特異な性格と内容をもつヨハネ黙示録は、福音の展開の歴史においてどのような位置を占めるのでしょうか。ここで見たように、最初期共同体の熱烈なキリスト信仰が、母胎であるパレスチナ・ユダヤ教における黙示文書の影響や皇帝礼拝を要求するローマ帝国の圧力という状況の中でこのような黙示文書を生み出すことになるのですが、それがこのような特殊な状況の中で生み出されたものであるだけに、そのような特殊な状況がないその後の異邦人共同体においては、あまり理解されず、広くは受け入れられなかったようです。このことは、正典結集過程におけるヨハネ黙示録の扱い方によく現れています。

ここで扱っている最初期後期(七〇年以後)においては、キリストの民の主流は異邦人共同体が占めるようになり、黙示思想や黙示文書というユダヤ教独特の思想の枠組みは理解されにくくなります。また、迫害という状況も、古代教会史において強烈な印象を与えていますが、ローマ帝国社会でのキリスト者共同体の日常の生活や歴史という観点からは、迫害事件は(寛容令直前の大迫害の時期は別として)散発的な特異な出来事であり、通常の状況ではありません。

 本書は福音の場における預言の書として、ローマ帝国による迫害という危機の時代にその歴史的使命を十分に果たしたと言えます。しかし、本書がまとっている強烈な色彩の黙示文学的衣装のためか、ヘレニズム世界に展開し、ますます深くギリシア思想の影響を受けるようになった古代教会において、本書は素直に受け入れられなくなります。古代教会は、その時代に生み出された多くの信仰文書を選別し、自分たちの信仰の基準となるべき文書群、すなわち「正典」を確立していきますが、その過程でヨハネ黙示録は一部では長らく「疑わしい書」として扱われ、正典の中に確実な位置を占めるようになるまでにかなりの年月を要したようです。
 ヨハネ黙示録に対しては、東方と西方では温度差があり、西方ではかなり早くから正典としての位置が確立していたようですが、東方では長く議論が続きます。現在の二七巻からなる新約聖書正典は、三六七年のアタナシオスの「第三九復活祭書簡」によって確定したとされていますが、その後も東方ではヨハネ黙示録については議論が続き、それを含まない正典表が幾度も現れ、実際には尊重されず、現存する新約聖書のギリシア語写本でヨハネ黙示録を含むものは全体の三分の一ほどだということです。
 しかし、現代にいたるキリスト教史を通観しますと、危機の時代には本書の預言が繰り返し取り上げられ、その時代への使信として新しく解釈され、改革や希望の根拠として用いられてきました。そのことによって本書は、霊感によって生み出された預言の書として、福音の展開史において異彩を放っています。

ヨハネ黙示録がキリスト教の歴史において及ぼした特異な影響は、あまりにも巨大であって本書のような性格の著作では扱うことはできません。しかしその一端を、先に拙著『パウロ以後のキリストの福音』243頁以下の「第三節・ヨハネ黙示録の位置と意義」で述べていますので、それを参照してください。

結 び

 本節「ローマ帝国社会での迫害と福音の進展」では、ローマ帝国の首都ローマに成立し活動したキリスト信仰共同体と、ローマ帝国各地の都市で起こった迫害の性格について概観した後、この時期(最初期後期)に迫害の中にあった小アジアの共同体とローマの共同体との関連で成立した諸文書を取り上げて、この時期のキリスト信仰の特質を見ました。取り上げた文書は、新約聖書正典に含まれるペトロ第一書簡、ヘブライ書、ヨハネ黙示録の三つですが、ローマの共同体について語るときには除外できない文書として、それらの正典文書とほぼ同じ時期に成立し、当時は正典文書と同じような扱いを受けていた正典外のクレメンス書簡も含めました。
 ルカは、ローマを福音到達の目標地として「使徒言行録」を書きました。本節で、ローマに到達した福音がどのような実を結び、そこの共同体がどのような信仰で、どのような働きをしたかを通観しました。というより、ローマにおける福音の進展を垣間見たという程度ですが、それでも福音がいよいよローマ帝国の心臓部に到達し、キリスト信仰がローマ帝国と関わるようになった過程を見ました。それは迫害する者と迫害される者という関係でしたが、その中から、やがてキリスト教がローマ帝国の宗教となり、世界の宗教となっていく過程が始まったのです。その意味でこの時期のローマと関わる福音の進展は、福音の進展の歴史においても、世界の歴史においても、きわめて重大な意義を担う出来事であったと言うことができます。