市川喜一著作集 > 第21巻 福音の史的展開U > 第12講

第二節 キリスト教を相対化する福音

はじめに

 本書『福音の史的展開』は、上下二巻にわたって、新約聖書諸文書の証言に基づき、復活されたイエスの顕現から始まってルカの二部作に至るまでの、ほぼ一世紀にわたる福音の歴史的展開を跡づけてきました。そして、この終章「キリストの福音からキリスト教へ」において、その後のほぼ一世紀の間に、地中海世界に告知された福音によって生まれたキリストを信じる民の共同体が「キリスト教会」となり、ローマ帝国社会に新しい宗教である「キリスト教」をもたらした経緯を見た上で、その「キリスト教」と福音の関係を考察しようとしています。
 前節では、おもにキリスト信仰共同体が一定の広がりをもつ社会的な勢力となり、ローマ帝国社会の中に歩んでいかなければならないという状況から、すなわち社会的な視点から、必然的にそのような展開になった歴史を概観しました。本節では、キリストの福音がキリスト教という「宗教」になる必然を、人間の霊性とか宗教性がもつ本性から原理的に考察し、その結果、現実の「キリスト教」において福音が果たすべき役割、「キリスト教」と「キリスト教会」において福音が担う課題と使命を探求し、それをもって本書全体の結びとしたいと思います。

T キリスト信仰

神の力としての福音

 本書は「福音とは何か」という問いに、福音が歴史的に展開した姿から答えることを課題としてきました。しかし、その課題は、最初に掲げた使徒パウロの次の福音の提示を、新約聖書各文書の証言で確認するという結果になりました。パウロは福音をこのように提示していました。

 「福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、すべて信じる者には、救いに至らせる神の力です」。(ローマ一・一六)

 福音は「救いに至らせる」という向きをもった「神の力」です。「空間における、大きさと向きを持った量」をベクトル量というようですが、この比喩を用いて表現しますと、福音は「キリストにある」《エン・クリストー》という場に働く「神の力」というベクトル量です。それは「神の」力ですから、「何でもできる」という、計り知れない、限りない大きさを持つ力です。そして、それは「救いに至らせる」という向きを持っています。力は変化をもたらします。その力が向かう方向が「救い」です。救いとは天の彼方や来世にあるのではありません。現に体験する変化です。人を悲惨な状態に閉じこめている罪や病気や死の支配から解放し、人間存在の根底を変容させ、ついには神の栄光にあずかる姿に完成する、解放・変容・完成の全過程です。福音という神の力は、この変化をもたらす力、「救い」に至らせるという方向に働く力です。
 「神の力」は「神の働き」です。聖書の神は存在ではありません。究極の存在とか、なにか名詞で指し示される存在ではありません。聖書の神は働きです。動詞でしか語れない働きです。その神は昔モーセに現れたとき、「わたしはエヒエーする者としてエヒエーする」と、《エヒエー》という動詞でご自身を啓示されました(出エジプト記三・一四)。《エヒエー》は「成る」という意味の動詞ですが、この神が働かれるとき、何らかの出来事が起こり、その出来事が「成る」ところに神が現れます。モーセのときは「出エジプト」という出来事が成りました。今はキリストの出来事においてその神が働き、そのキリストを告知する働きにおいて、その神が働いておられます。その事実がここで「福音は神の力である」という表現で宣言されます。
 この力は物理的な力ではなく、言葉によって働く霊的・人格的な力ですから、その言葉を信じて受け入れる者だけに働きます。この力が働く場を、パウロは《エン・クリストー》(キリストにあって)と表現しました。人が「キリストにある」とき、このような「救いに至らせる神の力」が働きます。その働きを受けるには、何の条件もありません。どの民族の者であっても、どの宗教の教徒であっても、男であっても女であっても、教養とか文化程度は問いません。過去の経歴は問いません。現在の状況も問いません。ただ「キリストにあれば」よいのです。このことをパウロは「ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、すべて信じる者には」という表現で指し示しています。
 今回は、この「キリストにある」《エン・クリストー》という場に働く神の力について、もう少し立ち入って考察したいと思います。

《エン・クリストー》

 「キリスト」、正確にフルネームでいえば「主イエス・キリスト」《キュリオス・イエスース・クリストス》は、終わりの日における神の出来事です。神は昔は選ばれたイスラエルの民の中に働き、モーセをはじめとする預言者たちを通して語りかけ、その言葉によって働いてこられました。しかし今や、終わりの日に至って、ナザレのイエスを死者の中から復活させて、主《ホ・キュリオス》またキリスト《ホ・クリストス》としてお立てになりました。そのことによってこの方こそ神が世界に遣わされた「神の子」であることをお示しになりました(ローマ一・二〜四、ヘブライ一・一)。わたしたちはこの「主イエス・キリスト」を端的に「キリスト」と呼んで指しています。
 「キリスト」は神の出来事です。「キリスト」の出来事は神の働きです。キリストがナザレのイエスという一人の人として生まれ、神の御霊の力によって多くの病人をいやし、神の恩恵を宣べ伝え、十字架につけられて死に、三日目に復活された出来事全体が神の働き、神の出来事です。この復活された主イエス・キリストを告知する働きも神の出来事です。このような神の出来事としてのキリストに自分を委ね、自分のすべてを投げ入れるとき、キリストの出来事を成らせた神が、その人に働いてくださいます。そのような事態の全体をパウロは、「キリストにある」という表現で指しています。
 人間がいる場は二つあります。パウロの表現を用いて言いますと、「アダムにある」という場と「キリストにある」という場です。「アダム」は生まれながらの人間を代表する名であり、「アダムにある」というのは人間が生まれながらの本性に従って生きている場を指します。「キリスト」は終わりの日に神が死者の中から復活させた方であり、終わりの日に新たに創造される新しい人間を代表する名です。この二つの場には別種の力が働いています。
 わたしたちはみな当然、生まれながらの人間として「アダムにある」という場にいます。その場には「罪と死の法」が働き支配しています。一方、「キリストにある」という場では「いのちの御霊の法」が働き支配しています。パウロは、もともとアダムにあるわたしたちが「キリストにある」という場に入ることによって、「アダムにある罪と死の法」から解放されて「キリストにあるいのちの御霊の法」の支配に入ることを救いとして提示しています(ローマ八・二)。このパウロの表現については後で触れることにして、ここではまず「キリストにある」場での神の働きそのものについて考察します。
 「キリストにある」という場では、神の力はどのように働くのでしょうか。働きには働きかける主体(Subject)と働きを受ける客体(Object)があります。働きかける主体はいつも神ですが、「キリストにある」という場では、神はキリストを通して働かれます。すなわち、キリストが神の働きを働かれます。わたしたち人間は働きを受ける客体であって、主体ではありません。

「キリスト信仰」

 ところが、人間は生まれながら常に働きの主体として働いてきました。自分の働きの結果として価値を生み出し、それで自分の人生を築いてきました。他者からの働きを受けるだけの者であることには耐えられない本性があります。それで、神との関わりにおいても、自分が働いて神の前に自分の価値を主張しようとします。神との関わりを与えるのは「宗教」であるとし、「宗教」が求める祭儀を行い、「宗教」が課する誡めを順守することで、神の前に自分が神との正しい関係にある者(義人)であると主張しようとします。ユダヤ教では、ユダヤ教の全体を「律法」《トーラー》と呼んでいましたから、このような人間の働きに基づく義の主張を、パウロは「律法の働き」と呼び、その「律法の働きによる義」を徹底的に退けました。人間は自分の働きでは神との本来の関係に入ることはできないのです。
 では、人間が神とのあるべき正しい関わりに入ることができるのは、どこにおいてでしょうか。パウロは「人が義とされるのは律法の働きによるのではなく、信仰による」と断言しています(ローマ三・二八)。有名な「信仰による義」の宣言です。そこで、パウロがいう「信仰」とはどういう事態かが問題となり、多くの議論を呼ぶことになります。パウロは他のところでは、「キリストの信仰」《ピスティス・クリストゥー》という表現で、人を義とする「信仰」を指しています。たとえばパウロはガラテヤ書(二・一六)で、「人は律法の実行(働き)ではなく、イエス・キリストの信仰によって義とされる」と言っています。
 この「イエス・キリストの信仰」 ― 他の箇所(ガラテヤ二・一五、フィリピ三・九)では端的に「キリストの信仰」 ― を、多くの日本語訳は「キリストへの信仰」とか「キリストを信じる信仰」と訳しています(多くの外国語訳もほぼ同じ)。しかし、この訳では、わたしがキリストを信じている、すなわち、わたしという人間が主体であって、キリストは信じるという人の働きの客体です。パウロがいう「キリストの信仰」《ピスティス・クリストゥー》は、そのような関係ではありません。
 たしかに、わたしたちは告知されたキリストを受け入れ、人々に向かってキリストを言い表して信仰を表現しています。そのような関わりを指す限りにおいて、すなわち、わたしたちが「キリストにある」という場に入ってくる姿を指す限りにおいて、この訳には理由があります。しかし、神との関わりにおいてわたしたちに現実に起こる事態を指す場合には不適切です。そこでは、すなわち「キリストにある」という場では、常にキリストが主体であって、人は客体であるからです。わたしがキリストを信じたり、忠誠や従順や犠牲を捧げているのではなく、キリストがわたしに働きかけ、新しいわたしを成起させてくださっているのです。この出来事、すなわち「キリストにあって」キリストがわたしに働きかけ、新しいわたしを成起させてくださっている事態を、パウロは「キリストの信仰」と呼んでいるのです。それは「キリストにあって」成起する事態のすべてを指しています。そして、この「キリストの信仰」だけが、人と神との正しい関わりを形成すると主張しているのです。
 わたしは、このパウロの「キリストの信仰」《ピスティス・クリストゥー》を「キリスト信仰」と呼んでいます。「キリストの」という二格を「キリストを」信じる信仰と目的格として理解したことへの反省から、これを主格の二格として、「キリストが持っておられる(または、キリストが表しておられる神の)真実」と理解すべきであるという議論もありますが、あえて名詞を並べるだけの「キリスト信仰」という曖昧な表現の方が、(二格がもつ文法的な意味を超えて)「キリストにあって」成起する事態の全体を広く指すのに適しているのではないかと考えます。

恩恵の場における聖霊の働き

 このように、「キリストにある」という場では、神がキリストを通して働かれるのであり、キリストが神の働きを働かれるのです。働きにおいて神とキリストは一つです(ヨハネ一〇・三〇)。キリストが何かを成起させる働きの主体です。わたしたちはその働きを受けるだけの客体であり、何かの働きをする主体ではありません。しかも、「キリストにある」という場でのキリストの働きは、それを受ける側の人間の資格とか善悪を問わず、父が子にするように、まったく無条件に善なることだけを成起させてくださる働きです。ご自分に背く「罪人」を赦し、子としてくださる愛の働きです。このように相手の資格に絶して無条件に善き働きをしてくださる神の働きを、聖書は「恩恵」《カリス》と呼んでいます。「キリストにある」という場は「恩恵の場」です。この恩恵の場では、わたしは無になり、キリストにおける父なる神の恩恵だけがすべてとなります。
 また、「キリストにある」という場で働かれるキリストの働きは、実際には聖霊の働きとして現れます。むしろ、「キリストにあって」という場で働かれるキリストを「聖霊」と呼ぶべきかもしれません。パウロも「主は霊である」と言っています(コリントU三・一七〜一八)。キリストという場では、働きの主体は神であり、キリストであり、聖霊であり、三者は一体として働きの主体です。神がキリストを通して聖霊によって働かれる、と言ってもよいかもしれません。
 パウロが「福音は救いに至らせる神の力である」と宣言したとき、パウロはこのような「キリストにある」という場での神・キリスト・聖霊の働きの全体を指しています。十字架と復活というキリストの出来事自体が神の働きによる出来事ですが、そのキリストを告知する福音を受け入れ、キリストに自分のすべてを投げ入れて委ねる者は、そのキリストに結ばれていることによって、すなわち「キリストにある」ことによって、その場に働く神・キリスト・聖霊の働きによって救いに至ります。
 わたしたちが福音を受け入れて「キリストにある」という場に入るとき、その場に働くキリストの働きを受けて、今までの自分とは違う別の「わたし」が生起します。この出来事を聖書は「新生」と呼んでいます(ヨハネ三・三、ペトロT一・三、二三)。今まで生きてきた生まれながらの「いのち」とは別種の「いのち」が新しく生まれ出たからです(従ってここでは「成起」ではなく「生起」という表現が適切です)。この「いのち」は、生まれながらの「いのち」とは別種ですから、それ(生まれながらの自然の生命)が死んでも(それは必ず死にます)、死ぬことはありません。それは「死んでも生きる」と言われるいのちです(ヨハネ一一・二五)。それで「キリストにあって」生まれるこの別種の「いのち」は「永遠の命」と呼ばれます。「罪と死の法」に支配されていた古いわたしとは別に、「キリストにあって」働く「いのちの御霊の法」によって「永遠の命」に生きる新しいわたしを生きることなります。それが(ローマ書八章二節が語る)救いです。

キリスト信仰複合体

 こうして「キリストにあって」新しく生まれた「わたし」は、新しい生の主体となって働き、新しい世界を創り出していきます。「キリストにあって」起こる事態の全体を「キリスト信仰」と呼ぶことにすると、キリスト信仰は、そのキリスト信仰に生きる者たちの働きによって、わたしたちが生きる世界に新しい事態を生み出していきます。「キリストにあって」起こる新しい「わたし」の誕生は、きわめて個人的な出来事ですが、その「わたし」が世界の中で生きる限り、その世界に新しい主体として働きかけ、この世界に今までにない新しい事態を創り出すことになります。
 そのさい、わたしたちが生きる世界の多様性に従い、キリスト信仰が生み出す新しい事態(今までの世界になかった別種の事態)も多様な姿をとります。前節で見たように、ローマ世界に告知された福音が、その福音を受け入れた人々によって、すなわちキリスト信仰に生きた人々によって生み出した事態の中で最も重要なものは「キリスト教会」であり、その教会がローマ世界にもたらした新しい「宗教」としての「キリスト教」でした。しかし、「教会」と「キリスト教」は、キリスト信仰が世界にもたらしたもののすべてはありません。キリスト信仰は世界に実に多様な姿でその働きの実を結びました。その実を結ぶ働きにおいて、「教会」がその働きの中核であり、前進基地とか拠点となり、「キリスト教」がその働きの看板となったことは事実です。しかし、キリスト信仰は、「教会」と「キリスト教」の周辺に、実に多様多彩な新しい事態を生み出していきました。キリスト信仰は、新しい人生観や世界観をもたらしただけでなく、人々の生活習慣や社会習慣を変え、慈善事業などの社会事業を起こし、法律制度に影響を及ぼしました。このように、キリスト信仰が世界にもたらした多様な果実の全体を(本講では)「キリスト信仰複合体」と呼ぶことにします。

二〇一〇年の日本基督教学学会誌「日本の神学49」に、水垣渉氏の理事長講演「『キリスト教とは何か』の問いをめぐって」が掲載されています。そこで氏はハルナックの古典的名著『キリスト教の本質』と対比しながら、今「キリスト教とは何か」と問う意義を語っておられます。その講演で氏は、その問いの状況として「キリスト教の構造的多様化とキリスト教複合体」という現代の状況を提示し、その状況に立って問うことの必要を説いておられます。たしかに現代ではキリスト教も多くの教派教団に分かれ、それぞれが「これこそがキリスト教だ」と主張して対立しています。しかも現代では、社会の多様化に対応して教会以外に多くの諸団体やキリスト教諸運動があり、その全体が相互に関連し、キリスト教の全体性を構成しているのであるから、この問いはこの全体性の認識の場で問われなければならないとされます。そして、「事情は古代においても本質的に変わらない」とされます。
ところで、本書では「キリスト教」という語を、特定の祭儀と教義と聖職者制をもつ制度的宗教の一つを指すという限定された意味で使っていますので、福音告知の活動がローマ社会にもたらした事態を「キリスト教複合体」と呼ぶことはできません。たしかに福音活動は「教会」と「キリスト教」という新しい「宗教」をもたらしましたが、それがすべてではなく周辺に多様多彩な変化をもたらしました。それは「キリスト信仰」の出来事(キリストにあってなされた聖霊の働き)がもたらしたものですから、その全体を指すのに本書では「キリスト信仰複合体」と呼ぶことにします。 もし "christian" という形容詞を「キリストにかかわる」すべてを指す広い意味で用いるならば、 そしてその名詞形の "christianity" を「キリストにかかわるすべての事態」という意味で用いるのであれば、「キリスト信仰複合体」は "christianity" と呼んでもよいでしょう。しかし現代では、この語の用例は制度的宗教としてのキリスト教やキリスト教徒を指すのに限定されていますから、ここで用いることはできません。

 すでに新約聖書がこの「キリスト信仰複合体」の多様性を指し示しています。キリストの福音がもたらすキリスト信仰の事態は同じです。「キリストにあって」は同じ主体であるキリストが働いておられ、それを受ける人間はまったくの客体であって、働きの主体であるキリストは同じだからです。しかし、同じ神が同じキリストを通して同じ御霊によって働かれたとしても、その働きの結果、新しい命に生きるようになった人間が、新しい主体として社会に向かって働き出すとき、その人が置かれている状況は様々に違うのですから、その働きも様々な形をとることになります。その状況とは、人が置かれている社会の歴史的状況ですから、キリストの福音がもたらす「キリスト信仰複合体」は、それぞれの社会の歴史的状況によって様々に違った、多様な形をとることになります。その多様性は、「最初期」すなわち新約聖書の各文書が成立する最初の一世紀にも顕著に表れています。ユダヤ教の中であるか外であるか、神殿崩壊以前であるか以後であるか、どういう宗教的文化的背景をもつ地域であるか、どういう社会階層の中であるのか、そのような歴史的状況が異なるにともなって、そこに成立する「キリスト信仰複合体」の様相も違ったものになり、それを証言する新約聖書各文書も多彩な内容を示すものとなります。

新約聖書の多様性は本書全体の主題として本論の各章で取り扱いましたが、その要約的提示は「序論2 新約聖書の多様性と一体性」でしておりますので、それを参照してください。

 もちろん命の質は同じですから、そのような多様多彩な表れを貫いて一貫するものがあるはずです。それが何かを追究することが本書『福音の史的展開』の課題です。本書は、新約聖書の各文書をそれぞれの歴史的状況に位置づけて、その多様な証言を成り立たせている根源の現実を探求してきました。このように多彩な「キリスト信仰複合体」を成立させている根源の原動力は「キリストの福音」ですから、この探求は「福音とは何か」という問いをめぐる探求となります。
 前節で見たように、キリストの福音は世界に「キリスト教」という新しい宗教をもたらしました。そして「キリスト教」は現代に至るまで二千年の歴史を経てきました。その間に「キリスト教」は世界の各地に拡がり、大きな働きをして、地球規模の実に多様多彩な「キリスト教複合体」を形成してきました。その間に「教会」は多くの教団や教派やセクトに分かれて対立し、複雑さを増し加えました。その複雑で多様な「キリスト教複合体」を貫いて、それを「キリスト教的」としている原理とか本質を問う問い、すなわち「キリスト教とは何か」という問いは、有名なハルナックの「キリスト教の本質」をはじめ、繰り返し問われてきましたが、いまだ熱い議論を呼び続けている問いです。
 本書は、この「キリスト教とは何か」という問いを、「キリスト教」の源流である「キリストの福音」に立ち戻って、「福音とは何か」という問いに限定し、その問いに答えることによって、「キリスト教」をめぐる諸問題に光を与えることを課題としている、と言うこともできます。それは、新約聖書が「キリスト教」の規範であるのですから、その新約聖書によって「福音とは何か」に答えることにより、「キリスト教とは何か」という問いに指針を与えることができると考えるからです。
 以下の各項で「キリストの福音」と「キリスト教」の関係を原理的に考察しながら、本書が到達した福音理解をもって、「キリスト教」や「教会」と福音の関わりを検討し、それをもって現代のキリスト教への本書の提言としたいと思います。

U 福音の客体化としての「キリスト教」

福音と人間本性

 前節で、キリストの福音が「キリスト教」という新しい宗教をローマ世界にもたらすに至った経緯を概観しました。そこでは、福音が一つの「宗教」となる要因を、社会的な視点から見ました。すなわち、福音によって生み出された信者の共同体が、ローマ社会において一つの社会的な勢力となり、自分たちの信仰を言い表し、社会の批判や圧力に対抗して、共同体と信仰を保持し、自分たちのアイデンティティーを維持するために、制度的な「教会」となり、他の宗教に伍する「宗教」とならざるをえなかったという経緯を見ました。
 しかし、福音が「キリスト教」という宗教になるのに、もう一つの重要な要因があることを見逃すことはできません。それは人間の本性に深く根ざした要因であり、社会的な要因よりもいっそう根源的なものであると考えられます。本項(U)で、その人間本性に根ざす要因を見ることにします。
 前項(T)で、救いに至らせる神の力としての福音が働く「キリストにあって」という場と、その場で御霊の働きによって成起する全事態を、「キリスト信仰」と名付けて描きました。その「キリスト信仰」において、全事態を成起させる働きの主体はキリストであり、人はその働きを受ける客体であること、とくにその救いに至らせるキリストの働き、正確にはキリストを通してなされる神の働きは、受ける側のわたしたちの価値とか資格を問題にしない無条件の恩恵の働きであることを見ました。
 しかし、その恩恵の働きを受ける側の人間は、自分が働きを受けるだけの客体にとどまること、しかも自分の価値をいっさい主張することができない場にとどまることに耐えられない本性があるようです。人間はいつも自分が働いて価値を生み出し、それを自分の存在の根拠として生きてきましたし、それが誇りでした。ところが、「キリストにあって」は自分が働く余地はありません。自分の価値を主張し、誇ることができません。
 人間はどのような場にあっても自分が働き、その働きによって自分の価値を主張しようとします。これは人間の本性であると言えます。それは自己主張の本性であり、それは自分に関するすべての事態を自分で支配しようとする本性、自分が支配者であることを求める本性の現れです。この支配欲は人間の本性であり、それが人に向かうと権力欲となり、物に向かうと所有欲になります。人間の権力欲と所有欲には限度がないと言われますが、ここではこの人間本性の議論に立ち入ることはできません。ここでは、この人間の本性が神との関わり、とくに「キリストにあって」という場で現れる姿に限定して考察します。
 自分が自分に関わる事態の支配者であることを求める人間の自己主張の本性は、人が完全に客体となり神の恩恵の支配に入ることを困難にしています。イエスはこの困難を、「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(マルコ一〇・二四〜二五)と表現されました。人間本性からして、人が自分を無にして恩恵に身を委ねるのは難しいことです。とくに「金持ち」には難しいことです。「金持ち」というのは資産を多く持つ者だけでなく、教養とか名誉など自分に誇りうるものを多く持つ者すべてを指しています。自分に誇りうることを多く持つ者ほど、自分を無にして恩恵の場に入ることが難しくなります。この難しさは、有名大学に入ることの難しさのように、自分の能力とか努力が及ばない難しさではありません。誰でも恩恵の場に入ることはできます。恩恵はそれを受ける者の能力とか資格とか立派さをいっさい条件とはしていません。
 聖書は、人が自己主張を捨てて神の恩恵に身を委ねるように呼びかけるのに、「悔い改めて福音を信じなさい」と言っています(マルコ一・一五)。「悔い改め」《メタノイア》は、悪を捨て善に向かうという倫理的方向転換ではなく、自己主張を捨てよという呼びかけですから、これは生まれながらの人間にとっては至難のことです。人間には自己主張の本性が存在の根っこに岩のように居座っているからです。その岩が打ち砕かれなければ、神の支配に入ることはできないのです。昔預言者はこのことを、「高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み、打ち砕かれてへりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる」(イザヤ五七・一五)と言いました。
 人間は自分でその岩を打ち砕くことはできません。その岩を打ち砕くのも神の働きです。「キリストにある」という場で起こる神の働きです。神はそれをキリストの十字架によって成し遂げてくださいました。「キリストはわたしたちの罪のために死なれた」と福音は告知します(コリントT一五・三)。わたしたちが「キリストにあって」この福音の言葉を「キリストはわたしの罪のために死なれた」と聞くとき、キリストの十字架は「わたしのために死なれた」出来事となります。キリストの十字架上の死を「わたしのため」と受け止めるとき、もはやわたしの自己主張はすべて打ち砕かれます。わたしは自分が死んでいることを見ます。パウロはこの体験を、「わたしは、キリストと共に十字架につけられています」(ガラテヤ二・一九)と言い表し、「わたしはキリストと共に死んだ」と告白します。
 このように十字架のキリストに合わせられて自分が死ぬところに、復活者キリストの命が生き始めます。パウロは「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることになると信じます」(ローマ六・八)と言っています。わたしたちは、自分の中に死に定められた命とは別の新しい命、復活に向かう別種の命が始まっていることを知ります。これが「キリストにある」恩恵の場で起こる出来事であり、「キリスト信仰」の内容です。

人間の本性としての「客体化」

 この「キリストにある」という場で起こる出来事、すなわち「キリスト信仰」の出来事においては、働きの主体はあくまでキリストであり、わたしたちはその働きを受ける客体です。わたしたち人間が主体として働いて起こすことは何もありません。このことをイエスはある宗教家との対話で次のように表現されました。

 「風は欲するままに吹く。あなたはその音を聞くが、風がどこから来てどこへ行くのか知らない。霊から生まれる者もみな、それと同じである」。(ヨハネ三・八)

 風とか息とか気とか霊を指すギリシア語《プニューマ》は同じです(ヘブライ語でも同じ)。イエスはここで《プニューマ》(霊)から生まれる事態を風《プニューマ》を比喩として用いて語っておられます。たしかに「風は欲するままに吹く」ものです。わたしたちはその音を聞いて、風が吹いていることは知りますが、その風がどこから来てどこへ行くのか知りません。まして、風に向かってどこからどこへ吹くように指示したり命令したりすることはできません。風は、人間の指示や命令と無関係に、欲するままに吹き来たり吹き去ります。
 神が働かれる霊の事態も同じである、とイエスは言われます。霊なる神が働かれるとき、正確には「キリストにあって」という場で神がキリストを通して御霊によって働かれるとき、その働きの結果である出来事をわたしたちは体験して、そこにキリストが働いておられることを知りますが、それがなぜ、どうしてそうなるのか、その理由や仕方を知ることはできません。キリストはご自身が欲するままに働かれます。わたしたちはキリストの働き方を指示したり命令したりすることはできません。ただ驚きと感謝の涙の中で、その働きを受けるだけです。
 ところが、わたしたち人間の本性は、自分がただ客体であることに耐えられない性質があります。その自分が主体となって事態を支配しようとする自己主張が完全に打ち砕かれ、自己が死んでいるのであれば、問題は起こらず、神の恩恵の支配が貫かれます。しかし、その人間本性が死にきらないままで残っているときには、キリストの福音が告知される場においても、自分が主体となって事態を支配し、神との関わりの事態を自分の指示とか意向によって決定しようとします。すなわち、自分が主体となって働き、神と人との関わりを支配しようとします。神と人との関わりを「宗教」と呼ぶならば、人間は「宗教」を自分の働きを受ける「客体」として扱うようになります。このように、本来客体でありえない事態を客体として扱おうとする人間の姿勢とか営みを「客体化」と呼びます。
 神は霊です。人も霊です。神と人との関わりは霊の事態です。そして霊の事態は、イエスが言われたように、人が風に指示や命令を出して従わせることができないのと同じように、人が主体となり「客体化」することができません。ところが、人間はその霊の事態をも自分が主体となって支配し、制度的な「宗教」を生み出さないではおれないのです。世界の諸宗教は、様々な霊的事態の様々な形での「客体化」の産物です。その実例をまず、「キリスト教」のモデルとなったユダヤ教について見てみましょう。

恵みの契約の客体化としてのユダヤ教

 昔、神はアブラハムを選び、その子孫をご自分の民として導き、その民イスラエルをモーセによって奴隷の家エジプトから救い出して、シナイ山で契約を結ばれました。神はモーセに「ヤハウェ」という名で現れ、ご自身を奴隷の家から救い出した神として示し、これからもイスラエルの民の神として共にいることを約束されました。そのさい十の条項を示し、ヤハウェの民としてそれを守ることを求められました。それは、ヤハウェだけを神として拝むことと、民の間での関わり方を示す簡潔なものでした。
 この契約共同体であるイスラエルは、カナンの地に定住するようになると、民として存続するために、周囲の諸民族と同じような王国を形成し、大きな神殿を建てて強大な宗教国家となったことは、先に見たとおりです。ダビデ・ソロモンの王国は北王国イスラエルと南王国ユダヤに分裂しますが、両王国は次々に興る強大な帝国によって滅ぼされます。この悲運を、預言者たちは民がヤハウェとの契約に背いたからだと、民の背信を厳しく批判しました。この反省から、捕囚から帰還してエルサレムに神殿を再建した民は、再び契約に背いて滅びることのないように、懸命の努力をするようになります。
 その努力は、契約の条項を神の律法として厳格に順守する方向に向かいます。再建された神殿を中心に、ヤハウェだけを拝む体制を厳密に規定します。そして、民の生活の隅々までモーセを通して与えられた誡めを実行するための細則が立てられます。この礼拝の厳密な規定と生活上の細則の全体が「モーセ五書」に集められ、「律法」《トーラー》と呼ばれて、捕囚後の民の宗教規範となります。創世記から申命記に至る旧約聖書の最初の五書は、モーセ以来の神の誡めの伝承が集成された聖なる文書として、捕囚後のイスラエルの民の至上の規範となります。その「律法」《トーラー》を順守することが「ユダヤ教」という宗教を形成します。「律法」はユダヤ教という宗教の全体を指します。ユダヤ教徒は自分たちの宗教を《トーラー》と呼んでいます。
 この《トーラー》順守の体系としてのユダヤ教は、神との関わりを「客体化」する人間の営みの壮大な実例です。神とイスラエルの民の関係は、その原型をなす神とアブラハムの関係に見られるように、決して民が律法を順守することに基づく関係ではありませんでした。神が無条件の恩恵によりアブラハムを選び、彼を祝福の基とされたのです。アブラハムはこの神を信じました。神はその信仰を彼の義とされました(創世記一五・六)。神とアブラハムの関係においては、神だけが主体であり、アブラハムは神の恵みの選びと働きを受けるだけの客体です。
 ところが、ユダヤ教においてはその関係が逆転しています。義は「律法の働き」、すなわち律法を順守する人間の働きに基づくものになっています。人間が主体となり、義という神と人間の関わりが人間の働きの対象(客体)となっています。パウロはこの逆転を暴露します。パウロが、「アブラハムは主を信じた。主はその信仰を彼の義とされた」という聖書の言葉に基づいて、義は「律法の働き」によるのではなく「信仰による」ものであることを主張するとき(ガラテヤ書やローマ書)、パウロはこのユダヤ教に見られる「客体化」を暴露し、批判していると言えます。「信仰」は、自分がただ客体として神の恩恵の働きを受けるだけですから。
 実は、イエスもユダヤ教における「客体化」を批判しておられる、と言えます。イエスが「律法の働き」を誇る「義人」を退け、律法を守ることができない「罪人」を無条件に受け入れて交わりに迎え入れられたとき、このユダヤ教における「客体化」を批判しておられることになります。自分たちが立つ原理を批判されたユダヤ教側は反発します。イエスが神の力によって大きな「しるし」を現しておられるだけに、その反発は激しく、ついにイエスを殺すに至ります。「宗教の倒錯」 ― 「宗教」においては客体であるべき人間が主体となっているという倒錯 ― は、それを暴露する者を抹殺しないではおれないほどの激しい理不尽です。パウロもこの理不尽の犠牲者です。
 このようにユダヤ教が神の恩恵の契約を「客体化」して成立した宗教であるならば、「キリスト教」という「宗教」はどうでしょうか。前節で見た「教会」と「キリスト教」の成立を素材として、この「客体化」の問題を検討してみましょう。

儀礼の客体化としての「サクラメント」

 前節で、最初期の霊的な共同体である《エクレーシア》が制度的な「教会」となる要因の一つとして、「バプテスマと聖餐のサクラメント化」をあげました。ここで、バプテスマと聖餐という儀礼がサクラメント(=それにあずかることが救いの保証となる儀礼)となることの意義を「客体化」という視点から検討してみましょう。
 御霊の力強い働きによって形成された最初期の共同体にも、バプテスマと聖餐という二つの儀礼が行われていました。バプテスマは告知された福音を受け入れ、主イエス・キリストを信じることを言い表すために、イエスの名によって水に浸される儀礼でした。それは一種の入信儀礼として、福音が告知されるところで広く行われていました。しかし、本来信じる者をキリストの出来事に組み込み、キリストの民の一員とするのは、そのような儀礼ではなく、復活者キリストが授ける聖霊のバプテスマであることは広く体験されていて、「水のバプテスマ」との対比で「聖霊のバプテスマ」として福音書などにも明記されるようになっていました(マルコ一・八、ヨハネ一・三三、使徒一・五)。
 「聖霊のバプテスマ」は、「キリストにある」という場における聖霊の働きの総体です。そこでの働きの主体は復活者キリスト、霊なる主キリストです。そのキリストが信じる者をご自分の中に浸しこみ、ご自身の体である《エクレーシア》に組み入れてくださる働きの総体が「聖霊のバプテスマ」です。人はこの「聖霊のバプテスマ」によってはじめてキリストの民、キリストに属する者となるのです(コリントT一二・一三)。そのようなものとして、「聖霊によってバプテスマする方」キリストは、地上で「罪の赦しを告知する」だけの儀礼を施す洗礼者ヨハネとは、「わたしはその方のサンダルの紐を解く値打ちもない」とヨハネ自身が言うように、全然次元が違う方です。
 ところが、先に見たように、この聖霊の働きは、風が欲するままに吹くように、主体であるキリストが自由に行われる働きであって、人間の指示や命令によって起こるものではありません。人間はあくまで聖霊の働きの客体であって、主体ではありません。そのような客体にとどまることに耐えられない人間の本性が、聖霊の働きを自分たちの支配下に置こうとして、バプテスマという儀礼をその装置とします。すなわち、資格のある聖職者によって、正しい形式で施されたバプテスマの儀礼は、救いを保証すると主張するようになります。救いを保証する儀礼として、バプテスマは「サクラメント」となります。「救いを保証する」ということは、聖霊の働きの総体である救いを、人間が行う祭儀によって指示する行為です。この祭儀にあずかる者は、神の救いの働きを受けることになると、人間が決めているのです。こうして人間の本性が、バプテスマという儀礼を聖霊の働きを指示し支配するための装置、すなわち聖霊の働きを客体化する装置にします。
 「聖餐」についても同じことが言えます。「聖餐」は、主イエスの十字架上の死が「わたしたちのため」、「わたしたちの罪のため」の死であったことを覚えるために、最初期の共同体で行われていた「主の晩餐」(コリントT一一・二三〜二六)が儀礼化したものです。それは本来、「十字架の言葉」という神の語りかけを聴いていることを象徴する行為でした。ところが、その儀礼が、それにあずかる者に救いを保証するサクラメントになります。資格のある聖職者によって聖別されたパンは、それ自体の中に神の命を与える力をもつ実体とされ、それを受ける者に永遠の命を保証します。「聖餐」というサクラメントを与える資格とか、それを受ける資格は人間が決めます。こうして、「聖餐」は神の命を与える働きを人間が決める装置となります。これは、命を与えるという神の働きが「客体化」されて、人間が神の働きを指示し決定していることになります。
 バプテスマとか聖餐という儀礼は、本来神の語りかけに対するわたしたちの応答、わたしたちが神の言葉を聞いていることを確認する行為でした。あくまで神が主体で、わたしたちは客体でした。そのような神の言葉の出来事が、自分が主体となってすべてを客体化しないではおれない人間本性によって、客体化され、その神の言葉の出来事を象徴する儀礼が「サクラメント」になります。バプテスマと聖餐のサクラメント化は、人間本性から出る「客体化」の結果であると言えるでしょう。

信仰告白の客体化としての信条と教理

 前節の項目U「正統主義の確立」で見たように、共同体は福音を福音として保持するために多くの論争をしなければなりませんでした。その論争の結果、福音を正しく表現する言葉として、共同体が広く一致して承認しうる「信条」が形成され、「教理」が整えられるようになりました。また、数多く生み出された信仰文書の中から、共同体が信仰の規準として受け入れることができる文書が選び出されて「正典」が決められました。
 信仰は、なによりも「言葉の出来事」です。神が語りかけ、人間がそれを聴くところに起こる出来事です。ヘブライ書(一・一〜二)が言うように、神は、かって預言者たちによって様々な仕方でイスラエルの民に語られましたが、この終わりの時には御子キリストによって世界に語られました。神はキリストによって最終的な言葉を語りかけられました。その言葉を聞き取ることが信仰です。神の語りかけとそれを聴き取る人間の信仰によって、「言葉の出来事」としての神の働きが起こります。そのさい、神の言葉を聞き取る人間の行為は《ホモロギア》と言われます。《ホモロギア》とは「同じことを言う」という意味の動詞《ホモロゲオー》の名詞形で、「同じ言葉を言うこと」です。神の言葉を聴いた人間が、その神の言葉を口にして言い表すことです。神はイエスを死者の中から復活させて、主《キュリオス》またキリスト《クリストス》としてお立てになり、それを「福音」として世界に告知されました。その告知を聞いて、「口でイエスは主《キュリオス》であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるのです」(ローマ一〇・九)。ここで「公に言い表し」と訳されている動詞が《ホモロゲオー》です。ここでは「心で信じる」と「口で言い表す」が一体で、神がイエスを復活させて《キュリオス》とされたことを告知する言葉に対する応答とされています。その応答が起こるとき、そこに「救う」という神の働きが起こります。それが「言葉の出来事」です。
 このように救いをもたらす「言葉の出来事」においては、神が語りかける主体であり、人間はそれを聴いて応答するだけの客体です。ところが、同じく「キリストにあって」聞く言葉も、様々に違った状況にある人間が聴き取るとき、様々に違った形になります。その様々な形が、それぞれに神の言葉だと主張されますと、収拾がつかないことになります。それで多くの議論が起こることになるのですが、その議論を通して、すなわち人間の討論と合意によって、言い表す言葉を統一し、固定しようとします。その結果、キリスト共同体に属する者はこのように「心に信じ、口に言い表す」べきであるとして、「信条」が決められます。そして、言い表すべき言葉を正確に理解するための説明が、「教理」として議論され、討議され、決定されます。
 このように、神が主体として語りかけられた言葉は、それを人間が言い表すという応答において、人間の側の討議と決定で、神の言葉はこのように聞かなければならないとされることになります。すなわち、神の言葉が人間の働きの客体とされ、その結果が「信条」や「教理」として固定されます。すでに新約聖書に、神の語りかけの言葉の内容を定型化する動きも見られます。たとえば、使徒たちが告知した福音の言葉は、一定の形にまとめられ、「受けて伝える」伝承として継承されたことが見られます。そのような定型的な伝承は新約聖書に散見され(コリントT一五・三〜五、ローマ一・二〜四など)、告知された福音の内容として「ケリュグマ」(告知内容を意味するギリシア語)と呼ばれています。
 前節で見たように、二世紀には福音理解をめぐる論争は激しくなり、二世紀の終わり頃にはほぼ実質的に正統派の信条が出来上がります。その間も、そしてその後も多くの論争が起こり、繰り返し開かれた司教会議で多くの「信条」が決定され公布されます。いったん決定されて公布されますと、その信条と一字一句違っても、異なる言葉を使って信仰を言い表す者は「異端者」として排撃されることになります。教会史に見られる「信条」や「教理」のこのような固定化は、すべてを客体化して自分が支配しようとする人間本性がもたらした結果であることが見えてきます。
 ここで、正統信条の形成と深く関わる「正典」の問題に触れておきます。これも前節で概観したように、古代教会は共同体が生み出した多くの文書の中から、自分たちの信仰の規準として受け入れることができる文書を選び出し、「正典」(カノン)を確定しました。《カノン》というギリシア語はもともと「物差し、規準」を意味します。どの文書を「正典」として受け入れるかは、地域や司教などによって違うこともあり、必ずしも一様ではありませんでした。しかし、成立しつつあった「カトリック教会」は、数百年をかけて合意を形成していき、四世紀になってようやく最終的に現在の新約聖書に収められている二七書巻を「正典」と決定するに至りました。そのさい判断の基準とされたのは、その文書の「使徒性」でした。その文書が使徒自身かまたは直接使徒に連なる人物から出たもので、使徒が伝えた伝承を正しく伝えているかどうかが判断の基準とされました。
 そのような経緯を考慮するとき、現在の新約聖書二七巻が「正典」として「教会」に伝えられたことの意義はきわめて重く、決して軽視することはできません。しかし、その文書の内容を一律に絶対化することは「正典」が求めているところではありません。キリストを言い表す共同体の信仰告白は、福音を受ける側の歴史的状況によってある程度違った面が出てくるのは当然ですが、ある時代のある地域の共同体が確定した「正典」を永遠に固定してしまうことは「贔屓(ひいき)の引き倒し」(価値を過当評価することで、かえって本人を不利に導くこと)であって、避けるべきことです。「正典」は、その成立の経緯が示しているように、本来流動的なものです。新約聖書二七巻は「古代教会の正典」であって、現代のわれわれには、「福音」の本質からする判断から、現代にふさわしい「正典」理解を形成することが求められます。

水垣渉氏の講演「正典と正典研究史のために」に、「古代教会の正典は、古代教会のみの正典であることを承認することが歴史的には必要となる。それが現代の信仰共同体にとってそのまま正典となるわけではないからである。在来の正典の伝統に対する態度を決めつつ自らの正典を承認すること ― これは事実上『信仰告白』に等しい ― が必要になる」とありますが、この提言は真剣に考慮されなければなりません。なおこの講演は 2011年11月に京大で行われた Colloquim Patristicum での D L. Dungan, Constantine's Bible: Politics and the Making of the New Testament に対する書評としてなされたものです。

《エクレーシア》の客体化としての「教会」

 前節の項目T「教会の形成」で見たように、もともとすぐれて個人的内面的な出来事である「キリスト信仰」の事態も、キリスト信仰に生きる者たちが共同体を形成して社会的な勢力となると、必然的に制度的な「教会」とならざるをえませんでした。もともとキリスト信仰がもたらす人と人の「コイノニア」(交わり)は、霊的なものであり、その交わりの中で成立する《エクレーシア》は、自由な聖霊の働きの実であって、制度には馴染まないものでした。ところが、その共同体が一定の規模となり、現実の社会の中で存続し、共同体としての意思を統一して社会に働きかけるには、何らかの職制をもち、組織化する必要に迫られます。その必要に応えるべく、人間の働きが造り上げたのが「教会」でした。
 使徒時代の《エクレーシア》では、聖霊の働きが自ずから共同体を形成していました。たとえば、ステファノら数人のギリシア語系ユダヤ人が聖霊に満たされて福音を告知する働きに献身していたので、彼らは自然にギリシア語系ユダヤ人の共同体で指導的な立場に立つことになっていました。ペトロら使徒たちはその事実を認めて、彼らに按手してその事実を公示しました。ペトロたちは聖霊の働きを追認しただけで、働きの主体は聖霊です。また、パウロ書簡(たとえばコリントT一二章)が示しているように、聖霊の働きが《エクレーシア》の活動に必要な能力とか賜物(カリスマ)を各人に分け与えることによって、《エクレーシア》を形成していました。
 ところが、最初期の末期になると、「牧会書簡」が示しているように、共同体の内部に「監督」とか「長老」とか「奉仕者」という継続的職務が現れ、その職務に任ずべき人物の資格が議論されるようになります。資格があると認めた人物をその職務に選び出すのは人間の働きですから、ここに本来聖霊の働きの結果として形成されていた《エクレーシア》が、人間の働きの客体となり、制度的教会が生み出されることになります。ここでは《エクレーシア》の客体化が起こっている、と言えることになります。
 この客体化はその後ますます進み、単独監督(司教、主教)の下に司祭とか執事などの職制をもつ制度的な共同体(各個教会)が成立し、その単独監督(司教、主教)の合議(司教会議)によって各個教会は統合され、「カトリック教会」(公同教会)が形成されるにいたった経緯については、前節で見た通りです。このような経過がすべて人間の働きであるとは言えません。たしかに、そこには聖霊の働きがあり、立派な指導者が聖霊に促されてそのような動きを進めたという面があります。しかし、このような制度として「教会」が形成されるには、歴史の中にいる人間が、歴史的状況に迫られて、主体として働いて造り上げていったという「客体化」の原理が働いたと言わざるをえません。

福音の客体化としての「キリスト教」

 以上に見たように、客体化の結果として、サクラメント化したバプテスマや聖餐の儀礼を行い、固定した「信条」と「教理」で信仰を言い表し、制度化した聖職者をもつ「教会」がローマ社会にもたらした新しい「宗教」である「キリスト教」は、本来神の働きの出来事である福音と、福音がもたらす事態である「キリスト信仰」を客体化したものであることが見えてきます。先に(項目Tで)見たように、福音はキリストの出来事を神からの救いとして告知し、その福音を受け入れて「キリストにある」場に身を委ねた者には(=信じた者には)、「救いに至らせる神の力」として働きます。そこで働く主体はキリストです。ところが、「宗教」としての「キリスト教」においては、教会の聖職者が施すバプテスマというサクラメントを受け、聖餐というサクラメントにあずかり、教会が定めた信条をその通りに言い表し、教会の教理を代弁する司教の教え(生活の細則も含まれます)に忠実に従うことが救いを保証します。これらの働きはすべて人間の側の働きです。ここでは福音、すなわちキリストの出来事は客体化され、人間の働きによってその救いを与える対象となります。これらの働きをしない者は、「教会」の外にいる異教徒として、救いが拒否されます。
 「キリスト教」という宗教が要求するこれらの働きを「宗教の働き」と呼ぶならば、「教会」は「宗教の働き」によって救いを与える機関となります。すべての「宗教」はそうなのですが、「キリスト教」も「宗教」の一つとして、「キリスト教」という宗教が要求する働きをする者に、そしてその者だけに、救いを保証します。「教会の外に救いはない」のです。「キリスト教の外に救いはない」ことになります。
 ここで先にあげたユダヤ教の実例を思い起こしていただきたいのです。典型的な「宗教」として、ユダヤ教は「ユダヤ教の働き」をする者だけを神の民と認め、最終的な救いを保証します。すなわち、割礼を受け、安息日の規定などモーセ律法の規定を順守する者だけが神の民として救いにあずかります。割礼を受けず、モーセ律法の規定を守らない者は「異教徒」として救いから除外されます。ユダヤ教徒は自分たちの宗教であるユダヤ教を《トーラー》(律法)と呼んでいましたから、パウロが「人は律法の働きでは義とされない」と叫んだとき、彼は「(ユダヤ教という)宗教の働き」では救われないと宣言しているのです。
 なぜ「宗教の働き」では救われないのか。それは、「宗教の働き」は人間の働きであるからです。人を救うのは神の恩恵の働きであって、人間の働きではないからです。人間はただ神の恩恵の働きの客体として、神の働きを受けるだけです。「キリスト信仰」はこのことを指し示しています。「キリストにある」場では、働くのはキリストだけです。正確には、キリストを通して働く神の恩恵だけ、と言うべきかもしれません。人間はキリストの働きを受けるだけです。そこに働く聖霊が救いの現実を成起させます。この事態が「キリスト信仰」です。したがって、わたしたちが救われるのは「キリスト信仰」によるのであって、「(キリスト教という)宗教の働き」によるものではありません。すなわち、バプテスマを受け、聖餐にあずかり、正統信条を信じることを言い表し、教会の教えに従って生活していることが、人を神の子とし、永遠の命を与え、最終的な救いを保証するものではありません。
 風が欲するままに自由に吹くように、聖霊によるキリストの働きはいつどのようになされるのか、人間は指定したり命令したりすることはできません。そのように自分がまったくの客体であることに耐えられない人間は、自分が主体として御霊の働きを指示しようとして、キリスト信仰の事態を客体化して、自分がこれだけのことをすれば救いが保証されるシステムを造り上げます。それが「キリスト教」という「宗教」です。こうして、福音を客体化したところに「キリスト教」が生まれます。

V 福音による「キリスト教」の相対化

「絶対化」と「相対化」

 以上に見たように、「キリスト教」は福音が客体化されて形成された「宗教」ですが、だから「キリスト教」は要らないとか、「キリスト教」は無意味であると言っているのではありません。人間が歴史の中に生きる限り、キリスト信仰共同体が「教会」となり、福音が「キリスト教」なるのは、前節で見たように必然であり、それは「福音の史的展開における必然」と言ってもよいものです。この必然によって形成された「教会」と「キリスト教」の中に福音は保持され、神に背く人間の様々な反抗の中で福音は保護されてきたのです。そして、この「キリスト教」の中に保持されている福音によって、「キリスト教」は実に多くのキリスト信仰に生きる聖徒を生み出し、人類の歴史にかけがえのない価値を生み出してきました。わたし自身は、広い意味での「教会」に属する者であると自覚し、「キリスト教」の伝統の流れの中にある者として、懸命に「キリスト教」の歴史と伝統を学んでいます。
 では、キリスト信仰に生きるわたしたちは、福音を客体化した事態としての「キリスト教」に対してどういう関わり方をすべきなのでしょうか。これが「終章」、とくに第二節の主題となるのですが、結論から先に述べると、わたしたち福音によってキリスト信仰に生きる者は、「キリスト教」を歴史のなかでの福音の史的展開における必然として、その歴史と伝統の価値を認めた上で、「キリスト教」という「宗教」を絶対化することなく、福音によって「相対化」しなければならない、とわたしは考えています。本項(V)で、この「相対化」とはどういうことかを見ていくことになります。
 「相対化」は「絶対化」の反対です。「宗教」は自己を絶対化する傾向があります。「傾向」というより、自己絶対化は「宗教」の本質であるというべきかもしれません。歴史の中で共同体の結合原理として成立した「宗教」は、共同体の成員に向かって、その「宗教」を順守することを強要します。この「宗教」を順守しても順守なくてもどちらでもよいとは決して言いません。その「宗教」を順守しない者の存在を許すことはできません。「宗教」はそれを順守しない者を共同体から追い出し、抹殺しようとします。ローマ帝国がキリスト教徒を迫害したのも、ローマの神々を拝まないキリスト教徒を、宗教共同体としてローマ帝国から抹殺するための暴力でした。このように、「宗教」が共同体において絶対的な価値を主張し、「宗教」の順守を無条件に要求する事態を、ここでは「宗教の絶対化」と呼ぶことにします。
 この「宗教の絶対化」という事態を、典型的な「宗教」であるユダヤ教を実例として見ていきましょう。先に(項目Uの小項目「恵みの契約の客体化としてのユダヤ教」で)見たように、神の恵みの選びに基づく契約関係の信仰に生きてきたイスラエルは、捕囚後「ユダヤ教」という「宗教」によって存立する神殿国家、宗教国家となりました。その共同体を形成する原理は「ユダヤ教」という「宗教」でした。それは神の恵みの選びに基づく契約関係が「客体化」された立派な「宗教」でした。
 その「宗教」ユダヤ教は、その「宗教」の中では「律法」《トーラー》と呼ばれていました。モーセによって与えられた神の命令はすべて「モーセ五書」(モーセによって書かれたとされる旧約聖書の最初の五巻)に書きとどめられているとされ、その律法を順守することがユダヤ教という「宗教」の中身でした。律法には、神殿での祭儀を中心に、唯一の神であるヤハウェを礼拝する仕方と、この神を礼拝する民としての生活の仕方が詳しく規定されていました。その書かれている規定を実際に運用するための律法学者たちが伝えた解釈や細則も、律法として順守が要求されました。その律法を守らない者は、神の民に属さない者として排斥され、律法を順守する者だけが「義人」、すなわち神に受け入れられている者だとされました。
 「宗教の絶対化」は排斥の原理として働きます。「宗教」を順守する者(=律法の働きをする者)は義人として受け入れられますが、「宗教」(ユダヤ教では律法)を順守しない者は、神の民から排除されます。その職業から律法を守ることができない階層の民(遊女や徴税人や羊飼いなど貧しい階層)は神との契約共同体に入れてもらえません。ユダヤ教では律法を順守する者が、神に受け入れられる「義人」であり、律法を順守しない(できない)者は神から排斥される「罪人」です。この自己絶対化を本質とする「宗教」は、必然的に他宗教を排除し否定します。自分の宗教に属する者だけが聖なる者、神に属する者であって、他宗教の者は滅ぶべき罪人です。ユダヤ教徒は異教徒を「汚れた者」とか「罪人」として、交わることを拒否し、接触することさえ避けました。

イエスにおけるユダヤ教の相対化

 そのようなユダヤ教社会にイエスが出現されます。福音書が伝えるところによると、イエスは「神の国」を告げ知らせる働きをされました。イエスが告知された「神の国、神の支配」は、当時のユダヤ教の黙示思想に見られ、洗礼者ヨハネも告知したのと同じく、神の終末的支配が迫っているという面があったのは事実ですが、イエスの告知には周囲のユダヤ教と決定的に違う点がありました。それは、イエスが律法を守ることができないので「罪人」と呼ばれていた人たちを受け入れて交わりをもち、その人たちこそ「神の国」を受け継ぐ人たちだとされた点です。
 イエスは神の霊の力によって、病気や障害をいやすとか悪霊を追い出すなどの力ある業(奇蹟)を数多く行われました。そのイエスが、同じ神の霊によって「罪人」たちに恵みの言葉を語り出されます。イエスの回りには、律法を守れないのでユダヤ教から「罪人」として排除されていて、イエスが示される神の力に縋る他はない「貧しい者」たちが大勢集まって来ていました。イエスが律法を守れない人たちを受け入れていることを批判した「義人」たちに、イエスは「わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」と宣言されました(マルコ二・一七)。そして、イエスは自分の回りに集まる人たちに、「あなたたち貧しい者は幸いだ。神の国はあなたたちのものだから」と語られました(ルカ六・二〇)。イエスが言われる「貧しい者」とは、ユダヤ教が言う「罪人」です。
 違いはどこにあるのでしょうか。「義人」だけを受け入れて「罪人」を排除するユダヤ教と、「義人」を招くのではなく「罪人」を招いて神の民として受け入れているイエス、違いはどこにあるのでしょうか。それは、「(律法という)宗教の働き」を条件とするかしないかの違いです。ユダヤ教も神が恵み深い方であり、人を救う方であることを知っています。ただユダヤ教は、神の救いの恵みを受けて神の民となるのに、ユダヤ教という宗教の規定を順守すること、すなわち「宗教の働き」を条件としています。それに対して、イエスは「宗教の働き」(=ユダヤ教律法の実行)を条件とされないで、無条件に神の恵みを与えておられる点が違います。イエスは、イエスの中に働く神の恵みと力に身を委ねてくる者に、その人がどれだけユダヤ教律法を順守しているかを問わないで、すなわち受ける者の資格を問わないで無条件に救いを与えておられます。そのことをイエスは、「あなたの信仰があなたを救った」と言っておられます(ルカ八・四八)。
 「宗教」がその宗教の規定(ユダヤ教ではモーセ律法)を順守することを救いの条件とすることが、「宗教の絶対化」です。「宗教」は、その宗教の規定を順守しなければその宗教共同体の一員ではなく、従って救われないとする「絶対化」の体質をもっています。ユダヤ教も「宗教」として体裁を強めるに従って、「絶対化」の傾向を強くしていきます。イエスの時代には、その「絶対化」が随分進んでいたと見られます。
 このような状況でイエスが律法の順守を条件としないで、無条件に神の救いを与えられた行動は、ユダヤ教の絶対性を否定されたことになります。イエスは決してユダヤ教を否定されたのではありません。イエスは最後までユダヤ教徒として、律法に従う生活をし、ユダヤ教の中で働かれました。イエスはユダヤ人にユダヤ教を無視せよとか捨てよとは言っておられません。いやされた者にもユダヤ教の規定に従って証明し、ユダヤ教徒として生活することを当然のこととしておられます。イエスはただユダヤ教の順守を救いの条件とすること、すなわち「ユダヤ教の絶対化」を否定されたのです。すなわち、ユダヤ教を「相対化」されたと言えます。イエスは神の恩恵の絶対性のゆえに律法(=ユダヤ教)を相対化された、と言えます。
 ところが、このユダヤ教の「相対化」は、ユダヤ教を「絶対化」してその順守を要求する「宗教家」(祭司長などユダヤ教指導層)にはユダヤ教という「宗教」の存立を脅かすものと見られ、彼らはイエスを聖なる律法を批判し神を汚す者として断罪し、死刑の判決を下します。しかし、神はイエスを死者の中から復活させて、この方が告知された無条件の恩恵の告知こそ神から出たものであることを証明されます。

パウロによるユダヤ教の相対化

 最初期共同体の中でこの「ユダヤ教の絶対化」をもっとも明確に否定し、ユダヤ教を「相対化」したのはパウロです。パウロの福音活動によって主イエス・キリストを信じ、キリスト信仰共同体に入ってきた異邦人(=非ユダヤ教徒)に、割礼を受けてユダヤ教徒にならなければ救われないと主張する一部のユダヤ人教師に対して、パウロは彼らの「ユダヤ教の絶対化」に激しく反対し、異教徒は割礼を受けてユダヤ教徒にならなくても、すなわち異邦人(=非ユダヤ教徒)のままで、ただキリスト信仰によってキリストの民でありうると主張しました。パウロはこの主張を、「人は律法の働きではなく、キリスト信仰によって義とされる(=救われる)」という形で述べています(ガラテヤ二・一六)。この主張は、「無割礼の福音」と呼んでもよいでしょう。
 パウロの「無割礼の福音」(割礼を受けてユダヤ教に改宗しなくてもキリスト信仰によって救われるという福音)は現代ではあまりにも当然のことのようになっていますが、パウロの時代では文字通り命がけの主張でした。パウロはユダヤ教を否定して別の宗教を説いたのではなく、ユダヤ教の「絶対化」を否定して「相対化」しただけです。キリスト信仰のユダヤ教徒には、ユダヤ教から離れて別の宗教に改宗するように説いたのではありません。ユダヤ教にとどまり、ユダヤ教の中でキリスト信仰に生きるように説き勧めました。ただ異邦人でキリスト信仰に入った者は、ユダヤ教に改宗する必要はなく、異邦人のままでよいとしたのです。すなわち、割礼を受けることに代表されるユダヤ教という「宗教」の働き(実行)を ― このことをユダヤ人パウロは「律法の実行」と呼んでいます ― キリストの民となる条件としなかったのです。パウロはユダヤ教を「相対化」したと言えます。
 パウロがユダヤ教を「相対化」することができたのは、聖霊によって「キリストにある」現実の絶対性を体験したからです。パウロはダマスコ途上で自分に顕現された復活者キリストと深い交わりの現実に生きて、キリストの十字架を自分のための死、そこで自分が死んでいる死として体験し、敵であった自分を受け入れる神の愛と恩恵を知りました。その聖霊体験によるキリスト信仰の絶対性のゆえに、それまで絶対的としていたユダヤ教という「宗教」を「相対化」することができたのです(フィリピ三・五〜九)。しかし、パウロの「ユダヤ教の相対化」は、イエスの場合と同じく、ユダヤ教を絶対化するユダヤ教徒からはユダヤ教の否定と見られ、生かしておけない者として追及され、ついには命を落とすことになります。

ヨハネにおける「宗教」の相対化

 パウロの延長上にあると言われるヨハネにもユダヤ教を相対化する姿勢が見られます。ヨハネはその福音書の四章で、イエスのサマリアにおける活動を大きく取り上げています。その中でイエスがサマリア教徒の女性に言われた言葉として、次の言葉が記されています。

 「女よ、わたしの言うことを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもなく、父を礼拝する時が来る。・・・・ しかし、まことの礼拝をする者たちが霊と真理によって父を礼拝する時が来るであろう。いや今がその時である。実に父はこのように礼拝する者たちを求めておられるのである。神は霊である。神を礼拝する者は霊と真理によって礼拝しなければならない」。(ヨハネ四・二一〜二四 私訳)

 「この山」は、この対話が行われたサマリアのシカルという町の近くにあるゲリジム山を指します。「この山での神の礼拝」は、ゲリジム山で行われているサマリア教徒の礼拝を指しています。サマリア教徒は、ユダヤ教徒と同じくイスラエルの民の後裔ですが、捕囚後の歴史的経緯からエルサレムに神殿を建てたユダヤ教徒から分離して、ゲリジム山に別の聖所を設け、別の場所でヤハウェを神として礼拝する宗教、「サマリア教」を形成しました。サマリア教の聖典はユダヤ教と同じモーセ五書です。しかし、南のユダヤ教団がマカベア時代に勢力を増し、力ずくで統一しようとしてゲリジム山の聖所を破壊します(前一二八年)。サマリア教徒は同じ場所で過越祭を中心とする礼拝を続けますが(現代も続いています)、イエスの時代のユダヤ教徒とサマリア教徒は仲が悪く、近親憎悪もあって激しく対立し、お互いに相手を汚れた民として接触することも避けていました。
 「エルサレムでの礼拝」は、エルサレム神殿における礼拝を中心とするユダヤ教を指しています。従って、イエスが「この山でもなく、エルサレムでもなく、父を礼拝する時が来る」と言われたのは、サマリア教でもなく、ユダヤ教でもなく、そういう「宗教」の枠を超えた神礼拝が実現する時が来る、と言っておられることになります。イエスは現在のサマリア教とユダヤ教の対立を前にしながら、人々がもはやサマリア教とかユダヤ教というような宗教によって神を礼拝するのではなく、「霊と真理によって父を礼拝する時」が来ることを、サマリア教徒の女性に予告されます。イエスは「そのような時が来るであろう」と未来形で予告しておられますが、ヨハネ共同体はそのような時がすでに来ていることを体験しています。それで、ヨハネはすぐに「いや今がその時である」と続けざるをえません。
 ユダヤ教とサマリア教は、イエスの身辺で体験できる主要な「宗教」でした。イエスはその「宗教」を相対化されます。「まことの礼拝をする者たちが霊と真理によって父を礼拝する」ことによって、ユダヤ教とサマリア教という「宗教」は「まことの礼拝」にとって、どちらでもよいものになります。こちらの「宗教」でなければ「まことの礼拝」を捧げる神の民ではない、というようなことではなくなります。「宗教」はまことの神の礼拝の条件ではなくなります。「神は霊である」のですから、霊による神との交わりの現実の中で自分を捧げることこそ、「霊と真理によって礼拝する」ことであって、神は「宗教の働き」としての礼拝ではなく、そのような「まことの礼拝」を求めておられるのです。

このヨハネ福音書の引用で、二二節の「あなたがたは知らない方を礼拝しているが、わたしたちは知っている方を礼拝している。救いはユダヤ人から来るからである」を省略していることについて、また引用箇所の詳しい講解については、拙著『対話編・永遠の命 ― ヨハネ福音書講解T』の当該箇所を参照してください。

 ヨハネ福音書にはもう一箇所、「宗教」を相対化する重要なイエスの言葉が伝えられています。有名な「良い羊飼い」のたとえで、イエスはこう言っておられます。

 「わたしには、この囲いに属さないほかの羊たちもいる。わたしはその羊たちをも導かなければならない。その羊たちもわたしの声を聞き分けるようになり、一つの群れ、一人の羊飼いとなるであろう」。(ヨハネ一〇・一六)

 このたとえで「囲い」は、羊飼いが自分の群れを野獣や盗賊から保護するために夜に入れておく囲いを指しています。「この囲い」というのは、いまイエスが話しかけておられるユダヤ教徒の宗教であるユダヤ教を指しています。イエスは「この囲いに属さないほかの羊たち」、すなわちユダヤ教の外にいる異邦人(=異教徒)たちも、真の羊飼いであるイエスの声を聞き分けて従うようになり、もはやどの「囲い」(宗教)の羊であるかは問題ではなくなり、一つの「群れ」(共同体)になることを(未来形の動詞を用いて)予告しておられます。
 ヨハネ共同体はすでにこの予告が成就していることを体験していました。ヨハネ共同体は、もともとユダヤ教徒の共同体だったのでしょうが、多くのサマリア教徒を含み、エフェソに移住してからは他の宗教の宗徒も多く加わるようになっていたと見られます。そのような様々な宗教的背景のある者たちが、主イエス・キリストを告げ知らせる福音に神の呼びかけを聴き取り、同じ主イエスの声に聴き従うようになり、「一つの群れ」となりました。「一つの囲いとなる」とは言われていません。世界の多くの「宗教」を一つにすることはできませんし、その必要もありません。ここでは「囲い」すなわち「宗教」は相対化され、福音と福音が告知する主イエス・キリストだけが共同体の結合原理となっています。

ヨハネ福音書のこの節の最後の文を、「一つの囲い、一人の羊飼いとなるであろう」と訳す聖書がありますが、これが間違いであることについては、拙著『対話編・永遠の命 ― ヨハネ福音書講解T』385頁「他の囲いにいる羊たち」の項を参照してください。

「キリスト教」の相対化

 このように、新約聖書ではイエスご自身をはじめ、パウロやヨハネというような有力なユダヤ教指導者が、自分が所属するユダヤ教を「相対化」しています。では、キリスト教徒は自分たちの宗教である「キリスト教」を「相対化」する必要はないのでしょうか。
 ここで改めて、イエスやパウロやヨハネがなぜユダヤ教を「相対化」しなければならなかったかを考えてみましょう。それは、イエスの場合は、父なる神の無条件絶対の恩恵の場では、ユダヤ教という宗教上の価値(どれだけ律法を行っているかどうか)を条件とすることが必要でなかったからです。パウロの場合は、聖霊によるキリスト信仰の現実においては、ユダヤ教律法の実行を条件とすることができなかったからです。パウロもその「キリストにおける」聖霊の現実を神の恩恵《カリス》の出来事と自覚してそう表現していますので、パウロも恩恵の絶対性のゆえにユダヤ教という「宗教」を相対化したと言えるでしょう。ヨハネの場合は、復活者イエスによる神の愛の啓示の絶対性が、ユダヤ教とサマリア教や諸宗教との対立を圧倒して、「宗教」を相対化していると見ることができます。
 このように、新約聖書におけるユダヤ教の「相対化」は、神の恩恵の働きが絶対的な主体であって、人間の側からは何かを付け加えることは必要でもないし可能でもないことを、聖霊によって体験した霊性が、ユダヤ教の実行を救いの条件とすることを拒否した結果であることが分かります。そうであれば、福音をキリストにおける神の恩恵の告知として受け取り、「キリストにあって」父の無条件絶対の恩恵の場に生きるキリスト者は、「キリスト教」という「宗教」が要求する働きを救いの条件とすることができるでしょうか。
 わたしは、できないと思います。「キリスト教」は福音から出たものであって特別で、他の諸宗教とは違い、まことの神からの啓示として受け取り、その要求を実行しなければ救われないとするのは、キリストの福音そのものと、そこから社会化とか客体化というような要因によって形成された「宗教」としての「キリスト教」との区別を見誤っているところから生じる「宗教の絶対化」の誤りです。「キリスト教」も「宗教」の一つであって、「絶対化」すべきではありません。すなわち、救いの条件とするべきではありません。人を救うのは福音であって「キリスト教」という「宗教」ではありません。「キリスト教」の内側、すなわち「キリスト教」という「宗教」の要求を行っているキリスト教徒も福音によって救われますし、「キリスト教」の外側にいる者、すなわち「キリスト教」が要求する儀礼にあずからず、そのすべての信条を字句通りに言い表わさず、教会組織の外にいる非キリスト教徒も、福音によって救われます。これが「キリスト教」の「相対化」です。
 では「キリスト教」は無意味であり、不必要なものでしょうか。けっしてそうではありません。前節の「キリスト教の成立」で見ましたように、「教会」と「キリスト教」の成立は「福音の史的展開における必然」です。両者は、世界の歴史の中で福音が保持されるために神が設けられた制度であり、人類の歴史の中でもっとも尊い制度です。「教会」と「キリスト教」がなければ、キリストの福音は世界の歴史の中で雲散霧消していたことでしょう。あるいは、キリストの福音とは似ても似つかない別物になっていたことでしょう。「キリスト教」が確立していたおかげで、キリストの福音はその堅固な容器の中に保持され、世界の諸国民に伝えられることができました。そして、その二千年の歴史の中で、「キリスト教」は実に豊かな知恵と知識の伝統を形成し、人類の社会と文化に大いに貢献しました。
 しかし一方、「キリスト教」も一つの「宗教」として、「宗教」がもつ自己絶対化の体質を免れてはいませんでした。そのため、その長い歴史の中で自己絶対化から生じる様々な過ちを犯してきました。ここはキリスト教の自己絶対化による過ちを歴史的に検証する場ではありませんので、その原理的な意義を考察するのにとどめます。その自己絶対化の過ちは「キリスト教」の内側における過ちと、外の世界に対する過ちの二方面に見られます。
 「キリスト教」が、キリスト教が形成する共同体の内側で犯した誤りは、「キリスト教」という宗教が要求する働きを救いの条件として、本来無条件である福音を圧迫し、ときには圧殺したという誤りです。「キリスト教」は、祭儀共同体である「キリスト教会」の宗教として、当然その祭儀の実行(祭儀にあずかること)を成員の条件とします。「教会」が認める有効な仕方でバプテスマを受け、「教会」が任じる聖職者によって行われた正規の聖餐にあずかる者だけが教会の成員と認められ、救いが保証されます。「教会の外には救いはない」のです。「キリスト教」の実行が救いの条件となっています。
 このようにサクラメント化した儀礼を行うことが救いの条件とされますと、その儀礼に有効性について際限のない議論が起こってきます。サクラメントは祭儀が客体化されものであり、その有効性は歴史の中で人間の決定によって定められたものですから、歴史的状況の違いから意見が違ってくるのは避けられません。その違いを咎めて、一方が他方を力ずくで抹殺しようとします。そこに「宗教の絶対化」が引き起こす紛争と悲劇が生じます。
 たとえば、宗教改革の時代に「アナバプテスト」(再洗礼派)と呼ばれる人たちがいました。彼らはカトリック教会が行っている幼児洗礼は無効であるとして、成人が自分の意志での信仰告白として受けるバプテスマだけが有効であると主張し、幼児洗礼を受けているキリスト教徒もバプテスマを受け直す必要があると主張しました(再洗礼の主張)。カトリック教会はそれを教会の権威を否定する異端として迫害し、彼らを川に沈めて殺しました。
 「聖餐」というサクラメントについても、幾度も争いが起こりました。一例だけあげると、これも宗教改革のさなかに、カトリック教会の在り方を批判して改革の烽火をあげたルターやカルヴァンやツヴィングリら改革者たちは、一致協力して改革の運動を進めるために話し合いましたが、他のすべての点で一致しながら、聖餐のパンがどういう意味で命を与えるのか、その理解で一致することができず、話し合いは決裂します。この事例は、改革者を含め当時の教会が聖餐をサクラメントとしていたので、そこで用いられる物質(パン)が命とか救いを与える手段として客体化されていて、そのサクラメントにあずかることが救いの条件として絶対化されていたので、それに関する人間の意見の違いが教会を分裂させる原因となっていることを示す事例です。
 「宗教の絶対化」が福音を圧迫する事例は、信条や教義の面で深刻に現れます。先に見たように、教会は福音を危険にさらすような言説に対して厳しく対処し、正統的な「信条」と「教義」を確立してきました。しかし、「信条」や「教義」はいったん確定すると固定化されて、それと一字一句でも違う言い方で信仰を言い表す者や、その信条の解釈で教会と違う解釈をする者は、異端者として追放されるようになります。たとえば、「おとめマリアから生まれ」という信条の一句について、教会会議はマリアを(神であるキリストを産んだのだから)「神の母」と呼ぶべきだと決定しますが、それに対してネストリウスは(人でもあるキリストを産んだのだから)「キリストの母」と呼ぶべきだと主張します。そのためネストリウスは教会から異端者として追放されます。
 しかし、信仰者が置かれている歴史的状況や文化的背景から、同じ福音によって聖霊の働きを受け、キリストの命に生きるようになった者でも、その言い表し方は違ってくる場合もあります。すでに新約聖書の内部でも、本論で詳しく見たように、各文書の成立の文化的背景や歴史的状況によって、その表現の仕方がかなり違っていること、ときには矛盾していることを見てきました。そのような違いを咎めて、異端者として追放したり火あぶりで殺したりすることは、「宗教の絶対化」が引き起こした教会の悲劇的な誤りです。とくに「キリスト教」がコンスタンティヌス以後ローマ帝国の権力と結びついてからは、対立に政治的・権力的要因が加わり、複雑怪奇なものになります。福音の回復と確立は、そのような力ずくの強制ではできません。それは、かえって「宗教」から脱出した場で、すなわち「宗教」が相対化された場で、福音だけを絶対的な根拠として生きる場で実現することです。この福音の回復と確立という課題は、次項(W)で具体的に扱われることになります。
 「キリスト教」が外の世界に対して犯した過ちは、これも「宗教」がもつ自己絶対化から出るものですが、「キリスト教」は自分を神から出た「宗教」として絶対的な価値を要求し、他の宗教を「異教」として蔑視し、世界がすべて「キリスト教」に帰すことになることを目標として活動し、ときには「十字軍」に見られるように、その自己主張のために武力をも用いたことです。福音は全世界に告知されなければなりませんが、それは「キリスト教」が世界を支配するようになることを意味するものではありません。このことも次項(W)で、その意義を見ることになります。

W「教会」の自己否定としての福音活動

「福音主義」

 本書は「福音とは何か」という問いに対する答えを探求することを課題としてきました。しかし、実際には、冒頭から「福音とは、すべて信じる者を救いに至らせる神の力である」というパウロの定義的な宣言を回答として掲げ、その回答の正しさを確認する作業となりました。この作業は、最初期(新約聖書の各文書が成立した二世紀初頭までの時期)における福音の歴史的展開を追究して、その展開の仕方の多様性を確認しながら、その多様性を貫いて現れている福音の本質を追究する作業となりました。そして今この「終章」において、第一節でこの福音が最初期以降に「教会」を形成し、「キリスト教」という新しい「宗教」を世界にもたらした経緯を見た上で、この第二節ではその「教会」という堅固な容器の中に保持され、「キリスト教」という「宗教」の形をとって世界に現れている福音が、真に福音であり続けるためには、福音はこの「教会」や「キリスト教」に対してどう関わるべきかが問われることになります。「キリスト教」は「宗教」であって、直ちに福音ではないからです。
 福音はキリストを告知する言葉です。福音が「信じる者を救いに至らせる神の力」であるというのは、信じる者に向かってキリストを通して働かれる霊なる神の働きであるということです。この神の働きを受けている事態を、パウロは「キリスト信仰」と呼び、それを「キリストにあって」という場での出来事として記述しました。福音は神の働きであり、キリスト信仰はそれを受ける人間の側の事態です。従って、福音とキリスト信仰は同じ現実の表裏です。
 この福音とそれがもたらすキリスト信仰だけを救いの根拠として生きる生き方とその主張を「福音主義」と呼ぶならば、本書の立場は「福音主義」と呼ぶことができるでしょう。たとえそれが福音から出たものであっても、「キリスト教」という「宗教」は福音そのものではないのですから、「福音主義」は「キリスト教」を救いの根拠とか条件とすることを拒否します。それは「キリスト教」の絶対化を拒否するということです。それは、先に見たように、「キリスト教」の「相対化」を意味します。本項(W)では、この「キリスト教」における「福音主義」の在り方を追究することになります。

ドイツではローマカトリック教会から分離したルター派の教会を「福音主義教会」と言います。しかし、この場合の「福音主義」は、それが「プロテスタント・キリスト教」という「宗教」となり、その「宗教」が救いの根拠とか条件になっているかぎり、ここでいう「福音主義」とは違います。ここでいう「福音主義」は、福音だけを根拠にしていっさいの「宗教」を相対化して超克しようとする姿勢であり主張です。

 なお、「福音主義」の主張を明確にするため、もう一つの用語の説明をしておかなければなりません。本書では、このように福音だけを根拠として生きる人、キリスト信仰によって生きる人を「キリスト者」と呼ぶことにします。「キリストにあって生きる者」という意味です。そして、この用語を「キリスト教徒」とは区別して用います。「キリスト教徒」は、「キリスト教」という「宗教」の祭儀にあずかり、その教義を言い表し、キリスト教会に所属している人のことです。宗教統計に出てくる「ユダヤ教徒」や「イスラム教徒」などと並ぶ「キリスト教徒」です。そして、ずっと見てきた通り「キリスト教」が直ちに福音ではないのですから、「キリスト教徒」は直ちに皆が「キリスト者」であるわけではありません。立派な「キリスト者」もいますが、「キリスト者」でない「キリスト教徒」もいます。

英語の "christian"という語は、ここで言う「キリスト教徒」も「キリスト者」も指しますので、英語ではこのような議論は困難です。他の欧米語も同じです。ここでは日本語の繊細な表現力に依拠して議論を進めます。なお、ギリシア語の《クリスティアノス》という語については、拙著『福音の史的展開T』236頁「『キリスト者』の呼び名」の項を参照してください。

 パウロは、キリストの福音の現実(リアリティー)のゆえにユダヤ教という「宗教」を相対化して、ユダヤ教の外においてもキリスト信仰によって救われることを告知しました。そのように、福音主義は「キリスト教」の外でもキリスト信仰によって救われることを主張します。もちろん、「キリスト教」の中でキリスト信仰による救いがあることは当然です。福音主義は、「キリスト教」の中か外かを問わず、福音だけが救いの根拠であることを主張します。
 この「福音主義」は、パウロの「無割礼の福音」(ユダヤ教の外での福音)に倣うものであるだけでなく、わたしは新約聖書全体の主張であると理解しています。本書『福音の史的展開』で、新約聖書の各文書をその成立の状況に位置づけて内容を検討してきましたが、その結論として、新約聖書全体は福音(主イエス・キリストによる救済の告知)がユダヤ教という宗教の枠を超えて拡がっていく神の働きのうねり(あるいは潮流)とも言うべき歴史を証言していると言えます。わたしは本書の結論として、ここで定義した意味での「福音主義」を主張することになります。

宗教改革の必然性

 ところで、福音を世界に告知していく働きの主体は「教会」です。先に、福音が世界にもたらしたものは「教会」だけでなく、その福音によって生きるようになった「キリスト者」たちによって社会の様々な分野で新しい事態をもたらしたことに注意をうながし、そのキリスト信仰によってもたらされた新しい事態の総体を「キリスト信仰複合体」と呼びました。「キリスト教とは何か」という問いは、たんに「教会」が体現している「宗教」としてだけではなく、「キリスト信仰複合体」の中で問われる必要があることは、先に述べた通りです。
 しかし、「キリスト信仰複合体」の中で中核的な位置を占めるのは、何と言っても「教会」です。先に見たように、「キリスト信仰」はきわめて個人的・内面的(あるいは神秘的)な出来事です。しかし、福音はそれを受け取る人間においてキリスト信仰となり、そのキリスト信仰に生きるようになった人々の共同体が現実の社会に働きかけるとき、「教会」となります。「教会」は福音によって形成された組織体であり、福音を世界に告知することを使命として存在する共同体です。「教会」もその使命を十分に自覚しています。「キリスト信仰複合体」も福音によって世界にもたらされた果実の総体ですが、その各部は必ずしも福音の告知を使命とするとは限りません。その中で「教会」は、世界に福音を告知することをその存在の理由とする共同体です。「教会」は福音によって存在し、福音のために存在します。
 「教会」はキリスト信仰に生きる人たち、すなわちキリスト者たちによって形成された共同体ですが、その共同体が社会に向かって働きかけるとき、一定の社会的形態を取らざるをえず、組織体となる必然については先に見たとおりです。そして、その組織体は、人間性に潜む本性から「客体化」されて、サクラメント化した儀礼と固定化した信条や教義をもつ「キリスト教」という「宗教」を生み出すことになることも、先に見たとおりです。こうして社会化と客体化の結果として形成された「教会」と「キリスト教」は、それ自体としては人に命を与える力ではありません。人に新しい命を与え救いに至らせる神の力は福音です。「教会」と「キリスト教」は、その福音を保持する器として「福音の史的展開における必然」であり、そのようなものとして価値と意義をもつものです。「教会」が保持して世界に告知する福音が、多くの優れたキリスト者を生み出し、世界の歴史の中に、「キリスト信仰複合体」を形成し、人類の文明にキリストの香りを染みこませてきました。
 ところが、「教会」はしばしば福音を圧迫する抑圧の機関となります。キリスト者が自己のキリスト信仰に忠実に生きようとして、その結果自分のキリスト信仰の源泉である福音を率直に言い表そうとするとき、それが少しでも「教会」と「キリスト教」の伝統と異なると、「教会」は「異端者」として追及し、追放し(破門)、ときには処刑したりしてきました。「教会」は、その本性上、伝統の中でサクラメント化した祭儀と固定化した信条や教義と確立した聖職制に対して少しでも異を唱える者を許容することはできないのです。「本性上」と言ったのは、「教会」はそれを「教会」として存立させる要因としての「社会化」と「客体化」の結果、一定の形式を固定化せざるをえないからです。その一定の形式と異なる形でのキリスト信仰の現れ方、御霊の働き方を許容することができないのです。しかし、福音は同じでも、それを受ける側の状況は違うのですから、キリスト信仰の現れ方は多様にならざるをえません。それは新約聖書自体に見られることは、本論で見たとおりです。それを無理に「伝統の権威」によって一定の形に閉じこめようとすると、「教会」による異端審問と迫害になります。
 このように、「教会」には矛盾した二面があります。すなわち、福音を歴史の中で保持し、世界に告知する働きの主体としてなくてはならぬ存在、「福音の史的展開における必然」とも言うべき存在であるという一面と、他方その存在の目的である福音を抑圧する存在であるという一面があります。では「教会」はこの矛盾にどう対処したらよいのでしょうか。
 この矛盾は、「教会」の形成には二つの相反する力が働いている結果です。一つは「教会」が保持する福音の本来の力の働きです。「教会」が世界に告知する福音は、「救いに至らせる神の力」として働き、世界の諸民族からキリストの民を呼び集め、世界規模の「キリスト教会」を形成してきました。同時に、その「教会」の形成にあたって人間本性から出る「客体化」の力も働き、「教会」を固定化した祭儀と信条と聖職制をもつ制度的機関にしてきました。この二つの力が「教会」を、歴史の中で福音を保持する機関とすると同時に、福音を抑圧する制度にしていることになります。
 この矛盾する二つの面が両方とも必然である以上、「教会」は常にこの二つの力の相克を克服するための「改革」の中に歩まなければなりません。「教会」は必然的に、「神の言葉にしたがって常に改革されなければならない教会」(ecclesia semper reformanda secundum verbum Dei)です。「神の言葉にしたがって」改革されるとは、「神の最終的な言葉である福音がもたらす現実に即して」という意味です。「神の力である福音の働きにしたがって」と表現してもよいでしょう。
 実際の「教会」の歴史は、このこと(改革の必然性)を示しています。「教会」は、世界に福音を告知するという使命を果たして、歴史における神の働きを推し進めてきました。しかし同時に、固定化した制度としての「教会」は、その内に起こった神の霊の自由な働きを抑圧し、抹殺しようとしてきました。固定化した制度は、風のように自由な霊の働きを入れておくことはできないのです。客体化という人間本性から出た制度は、神の霊の自由な働きを圧迫します。パウロはそのような人間本性を「肉」《サルクス》と呼び、「肉は霊に反し、霊は肉に反する」と言い、教条に固定化された言葉を「文字」《グラマ》と呼び、「文字は殺し、霊は生かす」と言っています。
 この霊の働きが固定化した制度を打破しようとするとき「改革」が起こります。「教会」の歴史は、大小の「改革」に満ちていますが、その中で歴史上最大の改革は十六世紀にヨーロッパに起こった「宗教改革」運動でしょう。ルター、カルヴァン、ツヴィングリらの「改革」は、「福音の史的展開」という視点から見るとき、きわめて重要な意義を担う出来事ですが、ここでその詳細に立ち入ることはできません。ここでは、わたしたちの身近に起こった一つの「改革」運動を取り上げ、「教会」の改革とはどういうことか、その本質に迫りたいと思います。

内村鑑三におけるキリスト教の相対化

 近代の日本における「キリスト教」の流入と受容の歴史は、「キリスト教史」においても「日本の近代化」においてもきわめて興味深い主題ですが、ここでは本稿の主題に関連する重要な出来事として、一つだけ取り上げておきます。それは、内村鑑三による「無教会主義」の主張とその運動です。
 鎖国を解き世界に門戸を開いた明治時代に、堰を切ったように世界の各方面から「キリスト教」が日本に入ってきました。西方キリスト教の代表格のローマカトリック教会は、ザビエルの活動に代表されるように、すでに戦国時代に西から日本に入ってきて「切支丹」の伝統を築いていました。明治以後には、北から東方キリスト教を受け継ぐロシア正教がニコライの活動によりこの国に到来しました。東からはアメリカのプロテスタント諸派の宣教師が多数来日してプロテスタント・キリスト教を伝えました。それに続いてヨーロッパのキリスト教各国も多くの宣教師を送り込んできます。当時欧米のキリスト教は非キリスト教世界に対する宣教の熱意に燃えていました。
 その結果、極東の島国日本には、ローマカトリック教会、ギリシア正教会、プロテスタント諸派の諸教会が林立し、明治以後の近代化の運動の中で各派のミッションスクールや社会運動の活動も盛んになり、複雑多様な「キリスト信仰複合体」を形成することになります。このように欧米の「キリスト教」を受け入れて、その在り方を当然のようにモデルとしていた日本のキリスト教界に一人、そのような欧米の伝統的な「キリスト教」と「教会」の在り方に対して批判の声をあげたキリスト者が出ます。内村鑑三です。
 内村は、武士の家庭に育った儒教的教養を背景とする日本的多神教徒でしたが、若い日にアメリカのプロテスタント教会のクラークやシーリーというような優れたキリスト者に出会って、キリスト信仰を体験し(回心体験)、「キリスト教」に改宗します。日本に帰国してからは宣教師たちと協力して「キリスト教」の伝道に励みますが、欧米の諸教会をモデルとする日本の「教会」の在り方に問題を感じ、「教会」からの支援を断ち切って独立自給の伝道活動に乗り出します。小さな集会で青年たちに聖書を説き、機関誌「聖書之研究」に拠って各地の信じる者たちの「集会」を指導し、「教会」とは別の福音運動の流れをつくり、ついに「無教会主義」を唱えるにいたります。
 内村の「無教会主義」は、端的に言うと、「洗礼を受けて聖餐にあずかることで教会に所属する者にならなくても、聖書のイエス・キリストを信じることでキリスト者でありうる」という主張です。「教会」の外でもキリスト者でありうるし、キリストの救いにあずかることができるという主張です。これはパウロの「無割礼の福音」に通じる主張です(後述)。内村の「無教会主義」は、「教会」は無くてもよいとか、「教会」を捨てよという主張ではありません。内村は「教会」を尊重し、事実多くの「教会」の牧師たちとも協力して活動しています。内村は教会員に教会から出るように説くことはありません。これはパウロのユダヤ教会堂に対する姿勢と通じます。
 内村は、当時の「教会」が自分の「教会」でなければ救われないような説き方をして、「教会」を絶対化している、すなわち特定の「教会」への所属を救いの条件としていることに抗議したのです。ヨーロッパのキリスト教史では、この各派の「教会」の自己絶対化が宗教対立を生み、宗教戦争に至り、多くの血が流されました。その「教会」絶対化の体質を日本に持ち込むことを批判したのです。
 ヨーロッパのキリスト教史においても、不毛な宗教戦争への反省から、諸教会の相違を超えてお互いに認め合い、受け容れる「寛容」の精神が求められるようになり、諸教会や諸教派の間の共存に一定の成果を上げてきました。また、「教会」と政治権力の癒着が宗教間の対立と抗争に武力を持ち込む原因になったことへの反省から、教会と国家、宗教と政治の分離が図られ、近代国家における「政教分離」の原則が確立するようになりました。
 ヨーロッパの「宗教改革」運動は、ヨーロッパのキリスト教世界を支配していたカトリック教会がすっかり制度化し固定化し、権力的な支配機構となっていたとき、その「教会」の伝統の桎梏を打破して、パウロ的な福音を回復しようとする巨大な霊的運動でした。しかし、それは「キリスト教」の絶対化そのものを批判し乗り越える運動ではありませんでした。改革者たちにとっても「キリスト教」だけが絶対的な真理であり、「宗教」としての「キリスト教」は当然の救いの前提でした。バプテスマを受け聖餐にあずかり、「教会」の一員として信仰生活をする「キリスト教徒」であることは、当然の前提でした。彼らが批判したのは、カトリック教会が聖書の福音の現実から離反して、人間的な伝統とか教理に固執し、純粋なキリスト信仰に生きようとするキリスト教徒を圧迫したからです。その抗議(プロテスト)が受け入れられないとき、抗議者(プロテスタント)も別の「教会」を形成せざるをえませんでした。
 内村の「無教会主義」は、教会の「改革」や、諸教会間の「寛容」や、キリスト教の「土着」(キリスト教を日本固有の文化的土壌に適した形で受容しようする行き方)などを超える一面があります。内村は「教会の外で」キリスト信仰があり得ると主張し、「キリスト教」の外で救いがあることを説きました。しかし、そう説くことで、別の「教会」を設立しようとはしませんでした。「教会」の外で、キリスト信仰を貫こうとしました。わたしは、内村は一つの「宗教」となっている「キリスト教」そのものを「相対化」したと理解しています。内村は「キリスト教」を否定したのではありません。彼自身「キリスト教」の伝統の中にいて、そこで学び、彼自身をその中で形成しています。しかし、彼は「キリスト教」でなければ救われないとする「キリスト教の絶対化」を否定し、もちろん「キリスト教」の中でも救われるが、「キリスト教」の外でも救われると主張したのです。
 もし「洗礼」がキリスト教に改宗して教会に所属するキリスト教徒となり、聖餐などのキリスト教儀礼にあずかり、その信条を言い表すことを代表するのであれば、「洗礼なしでも救われる」と説いた内村の「無教会主義」は、「無洗礼の福音」と言うこともできます。これは、割礼をユダヤ教に改宗することを意味する儀礼として、ユダヤ教の外での救済を唱えたパウロの福音を「無割礼の福音」と言ったのと同じです。
 パウロは「無割礼の福音」を唱えてユダヤ教を相対化しただけでなく、まだ「教会」とか「キリスト教」が姿を現してもいない時に、「キリスト教」を相対化する「無洗礼の福音」を示唆するような発言をしています。コリント集会の人たちが、おそらく洗礼を授けた伝道者の名を使って「わたしは誰それにつく」と言って対立し、分派が形成されていると伝え聞いたパウロは、自分がコリントではほとんど洗礼を授けなかった事実を引き合いに出してこう言っています。

 なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるため・・・・だからです。(コリントT一・一七)

 ここでパウロは明らかに「洗礼を授ける」ことと「福音を告げ知らせる」ことを別のこととして対比し、自分の使命を「洗礼を授ける」ことではなく「福音を告げ知らせる」ことだとしています。パウロは、洗礼を受けることは間違いだとか、洗礼は受けるなと言っているわけではありません。ただ「洗礼を授ける」ことと「福音を告げ知らせる」ことは別のことだとして、自分の使命を「福音を告げ知らせる」ことだとしているだけです。しかし、もし「洗礼を授ける」ことがキリスト教へ改宗させことを意味するならば、パウロのこの宣言はキリストによってこの世界に遣わされた者の使命は、世界をキリスト教に改宗させることではなく、キリストの福音を世界に告知することだとしていることになります。これはキリスト教を相対化している発言であり、将来「無洗礼の福音」に向かう方向を指し示す言葉となります。
 そのように「キリスト教」を相対化するには、「キリスト教」という「宗教」の他に別の救いの根拠が要ります。先に見たように、イエスとパウロの場合ではその根拠は「恩恵の絶対性」でした。内村の場合は、自身が体験した聖書の証言するキリストの働きでした。それで内村はひたすら聖書だけを拠り所として、キリストとその福音を説き、伝統的な「キリスト教」の外での救済を主張するに至ります。
 わたしの信仰の生涯においても、内村鑑三との出会いは決定的でした。わたしはもともとペンテコステ派のフィンランド宣教師の活動によって福音を聞き、いわゆる「聖霊のバプテスマ」と呼ばれる聖霊体験を与えられて信仰に入ったのですが、そこでの教会活動に疑問を感じ、独立自給の伝道活動を開始しました。そのさい、独立伝道に生涯を捧げた内村が目標となり、彼の信仰が励ましとなりました。実際には内村鑑三・藤井武・小池辰雄の無教会主義信仰の流れに接して(内村と藤井には著作を通じて、小池にはその実際の活動に接して)、大いに教えられ、励まされて聖書の研究に導かれました。その結果、新約聖書は福音がユダヤ教を相対化していることを証言している書であり、現代ではその原理で「キリスト教」を相対化しなければならないという理解に至りました。本書はその過程と結論を提示するための著作となります。

「宗教相対主義」

 本書「福音の史的展開」上下二巻は、新約聖書の全文書をそれぞれの歴史的状況に位置づけて、福音がそれぞれの状況でどのような姿をとって展開してきたかを見てきました。そこでわたしたちは、イエス・キリストを告知する言葉である福音が、聖霊の働きにより、福音を聞いて信じる者に現実の救いを与える神の力であることを確認しました。そして、その力の現れ方が状況によって異なることも見ましたが、その力は一貫して人を伝統的な「宗教」の桎梏から解放する力であることも見ました。先に「『宗教』からの脱出」という項(本書661頁)で見たように、福音は世界の諸民族を「先祖伝来の空しい生活」すなわち祭儀共同体としての異教の諸宗教から解放する力でした。それだけでなく、福音はその母体であるユダヤ教という「宗教」からも、ユダヤ教を相対化することによって人を解放しました。わたしは、新約聖書は福音がユダヤ教も含む「宗教」から人を解放する過程の証言と理解しています。
 そして「終章」において、福音が歴史的必然から「教会」を形成し、「キリスト教」という「宗教」にならざるをえなかった過程を見た上で、福音は「宗教」となった「キリスト教」をも相対化して、「キリスト教」を乗り越えていかなければならないことを述べました。ユダヤ教徒であるイエスやパウロやヨハネがユダヤ教を相対化して乗り越えたように、キリスト教徒も福音によって「キリスト教」を相対化して乗り超えていかなければなりません。内村鑑三の「無教会主義」も「キリスト教」を相対化するキリスト教徒の実践の一例として取り上げた次第です。このように「宗教」そのものを相対化することによって、世界の歴史は、「宗教」の呪縛から解放され、全人類的な共同体の形成のためのスタートラインに立つことができるでしょう。それができないと、「宗教」はいつまでも人間同士の交わりを妨げる「隔ての中垣」となって、人間にとって桎梏として残ることになります。このように「宗教」そのものを相対化する姿勢とか主張を、ここでは「宗教相対主義」と呼ぶことにします。
 「宗教相対主義」の主張を明確にするために、ここでよく似た主張である「宗教多元主義」と比較しておきたいと思います。近年キリスト教の中からも、キリスト教だけが絶対的な真理であって、他の宗教は誤った宗教だから排除するか抹殺しなければならないとか、未発達の宗教だからキリスト教に包摂して完成させなければならないというような伝統的な思想への反省から、キリスト教も世界に多くある宗教の一つであって、他の多くの宗教の存在と価値を認めなければならないとする「宗教多元主義」の思想が唱えられるようになりました。その思想の代表者が英国のキリスト教徒哲学者であるジョン・ヒックです。
 ヒックは宗教を大部分において文化の産物と見なし、それぞれの宗教を文化や伝統に基づいた形での「真実在」への適切な応答と見ます。そして、諸宗教の根幹精神における一致と現実の形態の多様性を共に承認して共存を図るべきだとします。たしかにヒックも、キリスト教を世界に現存する諸宗教に並ぶ一つの宗教とすることで、キリスト教を相対化しています。しかし、その相対化は「外からの相対化」です。ある宗教が形成した文化圏がそれ自体で完結して存在することができた時代には、その文化圏内ではそれを形成した宗教がいっさいの価値の源泉であり規範でした。たしかに異なる文化圏が遭遇したときは、受容や反発があり、宗教間の抗争や戦争もありました。しかし、それが形成した文化圏では絶対的な存在として君臨することができました。キリスト教世界ではキリスト教以外の価値や規範はありえませんでした。しかし、現代では事情が違います。各文化圏は孤立して存在できず、互いに交流し依存し合いながら存在しなければなりません。そのような世界においては、各文化圏の絶対者である宗教も、多くの宗教の中の一つとして相対化されざるをえません。これは外的状況の変化が要求した相対化、「外からの相対化」ということになります。

ジョン・ヒックの「宗教多元主義」はキリスト教界に激しい議論を引き起こしました。その議論の一端は、二〇〇三年の『日本の神学』42号のシンポジウム「キリスト教の絶対性と宗教多元主義」などに見ることができます。ヒックは宗教多元主義を神学的に根拠づける著作を多く
発表していますが、その中に『宗教多元主義への道』(間瀬・本多訳、玉川大学出版部)があります。この著作の原題は(直訳しますと)『神の受肉のメタファー ―― 多元主義時代のキリスト論』であり、宗教多元主義の立場から「受肉」をどう理解すべきかを論じています。「受肉」の教理こそ、キリスト教を絶対化する最強の論拠です。ヒックは、イエスが神の受肉であるというキリスト教の主張は一つのメタファー(比喩、隠喩)として理解すべきであると主張します。同書に対するごく簡略な紹介と批判は、拙著『教会の外のキリスト』414 頁の「『受肉』の問題」の項を参照してください。

 それに対して、ここでいう「宗教相対主義」は「内からの相対化」です。各宗教はそれぞれの内側に自己を相対化する原理を持たなければならないという立場です。「宗教」は各文化圏では絶対的な規範であっても、人類にとって最終的な規範とか共同体形成の原理となりうる性格のものではありません。「キリスト教」はその中に自己を相対化する原理として福音を保持しています。もし人が聖霊の働きによって福音を救いに至らせる神の力として体験するならば、すなわち「キリストにあって」キリスト信仰に生きるのであれば、「教会」に所属するキリスト教徒であっても、そうでなくても救いの現実は変わらないとして、「キリスト教」を相対化することができます。
 神が御自身の民に求めておられるのは、この福音を世界に告知することであって、「キリスト教」という「宗教」を世界に広めることではありません。ところが実際には「教会」の宣教活動は、異教徒を「キリスト教」に改宗させ、「教会」を形成するために行われています。「伝道」は福音を告知することであって、世界を「キリスト教」にすることではありません。「教会」は自己自身を目的とすべきではありません。自己を出て、あるいは自己を滅して、福音に仕えることが、真に生きる道です。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(マルコ八・三五)というイエスの言葉は、「教会」に向けられた言葉でもあります。福音は「教会」にも自己否定の道を歩むように求めます。

最近、このように「宗教」を相対化して、イエスの福音そのものだけを世界各地に伝える活動を続けているユダヤ教徒の活動に接し、感銘を受けました。それはエルサレムを拠点として活動する「ケレン・ハ・シュリフット」(「遣わされた者たちの基地」の意のヘブライ語、代表者ガブリエル・ゲフェン)という名称のユダヤ人のミッション団体ですが、各民族、各部族の民がその伝統的文化や宗教を捨ててキリスト教に改宗するのではなく、彼らの伝統的文化や宗教の中でイエスに従うように、イエスによる救いを説く活動を続けています。ここでいう「宗教相対主義」を実践していることになります。

 先に「キリスト教」を相対化するには「キリスト教」とは別に救済の絶対的根拠が必要であることを述べ、わたしたちにとっては福音こそがそれであることを見ました。そして、福音(あるいは福音によって成起するキリスト信仰)だけを救済の唯一の根拠とする立場を「福音主義」と呼びましたが、この用語の使用には多少のためらいがあります。というのは、ドイツなどではローマカトリック教会から別れて別の「教会」となったプロテスタント教会を「福音主義教会」と呼んでいますし、そのプロテスタント諸教会の中でも、近代の聖書の批判的研究を受け入れず聖書をそのまま信じていこうとする傾向の諸派を「福音派」と呼んだりしていて、「福音主義」という用語はここで定義している意味とは違う意味で用いられることが多いからです。このような「教会」内での立場を指し示す「福音主義」ではなく、「教会」や「キリスト教」を相対化する原理としての「福音主義」という意味は、キリスト教世界では理解されることが難しいと考えられます。しかし、他に適切な呼び方がないので、あえてこの誤解されやすい用語を使っていくことにします。
 ここで「教会」内の「福音派」が主張する「福音主義」の問題点を指摘しておく必要があります。福音派は聖書に忠実であることを標榜して、聖書を字句通りに信じて言い表すことを求めます。そのような福音派において、聖霊の働きが顕著に見られる場合があり、福音派は福音の担い手として重要な位置を占めています。ところが、聖霊の働きや聖霊のカリスマ的な体験を重視する諸派では、聖書の字句に忠実であるという要求が「キリスト教原理主義」に向かわせる傾向となって現れています。
 「キリスト教原理主義」(ファンダメンタリズム)というのは、聖書の文言は一言一句すべて神の霊感によって書かれた神の言葉であるとして(逐語霊感説)、聖書が語る六日間の天地創造、キリストの神性と処女降誕、奇跡、十字架の死の代償的意義、キリストの身体的復活と再臨、最後の審判における信者の永遠の栄光と不信者の永遠の刑罰など、キリスト教の根本的な教義内容(ファンダメンタルズ)を文字通り信じることを主張する立場です。これは、近代に入って聖書の批判的研究が進み、このようなキリスト教の根本信条が揺らいできたことに対して危機感をもったキリスト教徒たちが、聖書を歴史的文献として批判的に理解しようとする近代主義に対抗して唱えた信仰上の立場です。
 キリスト教原理主義は、当然のことながら「キリスト教」の絶対化をもたらします。福音によって「キリスト教」を相対化する「宗教相対主義」などは認めることはできませんし、キリスト教を他の諸宗教と並ぶ一宗教とする「宗教多元論」には激しく抵抗し、他宗教を排除、攻撃します。「キリスト教」の絶対化の結果、キリスト教の教義によって人間の自由な探求と発達を厳しく拘束することになります(進化論裁判にみられるように)。ここでも「贔屓(ひいき)の引き倒し」(自分の好みで偏った賞賛をすることで、かえって当の本人を不利に導くこと)が起こっています。このようなことはどの「宗教」にも見られますが、とくに聖典をいただくユダヤ教やキリスト教やイスラームで、聖典を絶対化することで起こる傾向です。そのような原理主義的になった「宗教」では、本来人間の救済の場となるべき宗教が、人間性を抑圧する桎梏となっています。
 「宗教相対主義」は「キリスト教」も「宗教」の一つとして相対化します。しかし、それはキリスト信仰を相対化するものではありません。「宗教相対主義」は、キリスト信仰とその根拠である福音の絶対性を確認し、その絶対的な福音によって「キリスト教」という「宗教」を相対化して、その本来の位置に置こうとする立場です。そのことを次項で確認して、本章の結びとします。

「宗教相対主義」については、拙著『教会の外のキリスト』の終章として収録した「キリストの絶対性とキリスト教の相対性」という論考を参照してください。

終章への結び

聖書の神

 本書は冒頭で、「福音はすべて信じる者を救いに至らせる神の力である」というテーゼを掲げて議論を進めてきましたが、ここまで「神」という用語を、特別の説明なしに前提として用いてきました。最後に改めて、信じる者を救いに至らせる力(=働き)の主体である「神」とはどういう方か、また「神を信じる」とはどういうことかを取り上げます。
 聖書は「神は霊である」と宣言しています。これはイエスが宣言された言葉(ヨハネ四・二四)であるだけでなく、聖書全体の宣言であります。そして、霊なる神と人間の実際の関わりを証言することで、神を指し示そうとしています。わたしたち人間は、聖書の証言によって霊なる神とはどういう方であり、神と関わるとはどういうことかを知ることができます。これが「聖書は神の啓示である」ということの意味です。
 「神は霊である」ということは、まず第一に、神は存在ではなく働きであることを意味します。神は、存在するこの天地万物の中に、あるいは天地万物の存在を超えたところに居ます別の存在ではありません。目には見えない存在とか、星空の彼方に居ます存在とか、万物を超絶した存在とか、様々な仕方で表現されますが、神をある種の存在と考えるのは間違いです。天地万物を存在させる働きが神です。このことを、聖書は冒頭で「はじめに神は天と地を創造された」という言葉で宣言しています。「創造する」というのは存在を存在させる働きです。その働きの主体が神であって、天地の万物はその働きの客体です。この働きそのものが神であって、存在は神ではなく、神は存在ではありません。
 実は、聖書冒頭のこの重大な宣言は、聖書(旧約聖書)を生み出したイスラエルの民の信仰にはじめからあったものではありません。アブラハムから始まるイスラエルの民の長い歴史において形成された神理解であり、おそらくバビロン捕囚から帰還した後モーセ五書が編纂されたときに、その冒頭に置かれたと考えられます。この働きとしての神は、出エジプトというイスラエルの歴史のもっとも決定的な体験において啓示されました。ご自分の民を奴隷の家エジプトから導き出された神は、預言者モーセにご自分を現すとき、《エヒエー》という動詞だけを用いて、こう名乗られました。

 神はモーセに言った、「わたしはなる(エヒエー)、わたしがなる(エヒエー)ものに」。彼は言った、「あなたはイスラエルの子らにこう言いなさい、『「わたしはなる(エヒエー)」が私をあなたたちに遣わした』と」。(岩波版 出エジプト記三・一四)

 《エヒエー》というヘブライ語の動詞は「成る、生起する、働く、(その結果として)有る」という意味の語です。ここで、神の名が名詞ではなく、動詞だけで表現されています。それは、名詞で指し示される主体がまず存在して、それが働く、というように理解されているのではなく、むしろ働くことのうちに主体が自らを啓示するのであって、主体即働き、働き即主体です。しかも動詞が未完了形であることは、その働きが常に現在的であり、かつ絶えず将来へ向かっていることを示しています。
 この《エヒエー》という動詞が、七十人訳ギリシア語聖書で「わたしは存在する者である」と訳され、神を究極の存在であるとする理解に道を開きました。しかし、聖書の神は「究極の存在」ではなく、万物を存在せしめる働きそのものです。「霊」という語が働きを指すのであれば、「神は万物を存在せしめる霊である」と言うことができるでしょう。わたしは、このような霊を「根源霊」と呼びたいと思います。すなわち、万物を存在させる働きとして、万物の存在の根源である霊、という意味です。そのような霊として神は、万物と関係のない別のところにいますのではなく、万物の中におられます。しかし、万物を存在させている働きとして、万物を超えています。神の内在と超越は、神を働きとするとき自然に理解できます。
 神がその働きによって存在せしめている万物の中で最も中心的位置を占めるのは「いのち」です。神はすべての「いのち」の根源です。神への畏敬は「生命への畏敬」となります。神を崇めることは、「いのち」を尊ぶことであり、これがすべての倫理の基本となります。
 人間は生活と歴史の中で様々な霊の働きを体験し、それぞれの働きを神として崇め、名をつけて祀ってきました。多神教は人間の宗教的な営みの自然な姿でした。その中でイスラエルの民は、自分たちを奴隷の家であるエジプトから救い出してくださった神と契約を結び、その神である《ヤハウェ》(《エヒエー》の三人称単数使役形で「彼は成らしめる」の意)だけを拝む民となりました。はじめは多くの他の神の中で《ヤハウェ》だけを拝む拝一神教でしたが、バビロン捕囚の前後に出た預言者たちの働きを通して、とくに「第二イザヤ」と呼ばれる捕囚期の大預言者によって、世界にはただ一人の神だけがいまし、その唯一の神が万物を存在せしめ、世界を統御しておられるのだという唯一神信仰に到達します。先に述べたように、聖書冒頭の「はじめに神は天と地を創造された」という宣言は、その成果です。唯一神信仰はイスラエルの民が世界にもたらした最大の遺産です。
 この働きとしての聖書の神には、重要な特色があります。それは、聖書の神は言葉によって働くという特色です。神が「光あれ」という言葉を発せられると「光があった」という出来事が起こります。神においては、言葉が即出来事です。ヘブライ語の《ダーバール》は本来言葉という意味の語ですが、同時に出来事という意味にも用いられます。この神の民であるイスラエルにとっては、自分たちの神《ヤハウェ》がどう言っておられるかが最大の問題です。その神の言葉を聞いて民に取り次ぐ役割を果たしたのが、モーセを代表とする預言者たちです。イスラエルの民の宗教は、モーセを通して与えられたとされる神の言葉を基本とし、時代に即して預言者たちに与えられた神の言葉によって形成されます。
 人間は地上に生きるとき共同体を形成します。そして、共同体が地上に歩むとき、歴史を形成します。人間は歴史の中に生きる存在です。神はその歴史に向かって語りかけ、その言葉によって歴史を形成されます。はじめに天地を創造された神は、終わりにご自身の創造を完成するために、歴史に向かって語りかけ、歴史を形成されます。神の目標は、神から離反して悲惨な状況に陥っている人間の救済と完成であり、その目標に向かって神は働き、語りかけられます。この救済に向かって神によって形成される歴史を「救済史」と呼びます。聖書の神は創造者であるだけでなく、救済史の神でもあります。聖書においては創造も救済史の始点となり、歴史は救済史の視点から見られ、終わりは神の働きの完成として待ち望まれることになります。こうして、イスラエルの民の歴史において、救済史を内容とする唯一神信仰が形成され、この「救済史的唯一神信仰」が世界への遺産として継承されることになります。

福音の絶対性

 「福音は神の力である」と言うときの「神」とはどのような方であるかを、前項「聖書の神」で見ました。その神は救済史的唯一神ですから、この神の力、この神の働きとしての福音は、万物を存在させ歴史を統御している根源霊の、救済史における決定的な語りかけであり、働きであることになります。
 最初から繰り返し見てきたように、福音とは主イエス・キリストの出来事を告知する言葉です。それは、このような根源霊である神が世界に最終的に語りかける言葉として告知されています。そして、神の語りかけの言葉《ダーバール》は、同時に神の働きであり出来事です。「主・イエス・キリスト」の出来事とは、十字架につけられて殺されたナザレのイエスを神は復活させて、主《キュリオス》またキリスト《クリストス》としてお立てになったという告知であり、その告知を信じて「主・イエス・キリスト」に自分を投げ入れて委ねる者は、神への背きという罪を赦され、神の霊を与えられて、神の子として受け入れられ、神のいのちに生きるようになるという告知です。
 この出来事は、「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、すべて信じる者」に起こる出来事です。すなわち、ユダヤ教徒であろうが、非ユダヤ教徒であろうが、奴隷であろうが自由人であろうが、都会の文明人であろうが未開部族民だろうが、いっさいの社会的・文化的背景に関係なしに起こる出来事です。そこには何の差別もありません。このように、福音はそれを受ける者の状況とか価値に絶しています。このように働きかける相手(対者)の状況とか価値に絶しているという意味で、福音は「絶対」です。これは、相手の資格とか価値を問わないで無条件に救いを与える神の恩恵の「絶対性」から出ることですから、「恩恵の絶対性」と呼んでもよいでしょう。
 同時に、福音は万物を存在せしめている根源霊の最終的な語りかけとして、他に並べて較べるものがないという意味で「絶対」です。福音が救済史的唯一神の最終的な語りかけであることは、福音が復活されたイエスを告知するものであることから来ます。それまでにも神は多くの預言者を通して民に語りかけてこられました。しかし、誰ひとり死人の中から復活した者はいません。死を見ないで天に昇ったエリヤの物語も伝承されていますが、それは「死者の復活」ではありません。イスラエルの預言者だけでなく、世界には根源霊と人間の関わりについて深く洞察した賢者や知者はいますが、死者の中から復活した者はいません。「死者の復活」は救済史的唯一神が終わりの日に成し遂げる働きとして預言され待望されていた事態であって、それがイエスの身に起こったことで、復活されたイエスこそ終わりの日における神の最終的な語りかけであることが分かります(ヘブライ一・一〜二)。
 これは、福音が救済史的唯一神の最終的な語りかけであることから来る絶対性であるので、「救済史的絶対性」と呼んでもよいでしょう。もし福音を聖書(旧約聖書)の救済史的唯一神信仰から切り離して、イエスとかパウロというような宗教的天才の思想から出る告知だとすると、他の宗教的天才の告知と並ぶ相対的な告知となり、「救済史的絶対性」は見失われます。イエスの神を旧約聖書の神とは別の神として旧約聖書を拒否したマルキオンは、この誤りを犯して、福音の絶対性を見失うことになります。グノーシス主義に対する正統派の論争は、まさにこの福音の「救済史的絶対性」を擁護するための戦いであったとも言えます。
 さらに、福音はそれを信じてキリストの働きを受ける各人の霊的体験において絶対的です。先に「キリスト信仰」の項で見たように、絶対的な主体として働きかける復活者キリストを体験した者にとって(それは聖霊による体験、すなわち聖霊体験です)、福音が告知するキリストの出来事は、他の何かと並べて価値を比較することができる相対的な価値ではありえません。それは、自分の命をかけても守らなくてはならない絶対的な価値です。事実、多くのキリスト者が、自分の命かキリストかを選ばなければならないような状況に直面したとき、キリストの絶対的な価値の故に自分の命を捧げ、殉教しました。
 このように、キリスト信仰におけるキリストの絶対性または福音の絶対性は、きわめて個人的・内面的な霊的体験の事柄です。それに対して「キリスト教」は社会的・歴史的な現実です。福音と「キリスト教」は異なる次元の現実です。この終章において、「キリスト教」も「宗教」の一つとして相対的なものであることを強調したのは、福音の絶対性を確立するための努力に他なりません。福音と「キリスト教」は異なる次元の現実ですから、「キリスト教」の絶対性が揺らいでも、福音の絶対性は揺らぎません。「キリスト教」はもともと相対的なものだからです。むしろ、福音が「キリスト教」を相対化する原理として働くことで、絶対的な福音と相対的な「キリスト教」の違いを際だたせます。福音は「キリスト教」なしでも福音でありえます。
 パウロは「律法なし《コーリス・ノムー》の神の義」を告知しました(ローマ三・二一)。これは現代的な表現では、「ユダヤ教なしの福音」または「ユダヤ教の外の福音、ユダヤ教とは別の福音」ということです。福音が「キリスト教」を相対化するのは、福音が「キリスト教」なしでも福音であるためです。「キリスト教」から解放された福音は、ユダヤ教から解放された福音が世界の諸国民にユダヤ教抜きで到達することができたように、「キリスト教」抜きで世界の諸々の宗教文化圏に到達することができるようになるでしょう。そのための「キリスト教」の相対化です。

霊による礼拝

 そのようなことが可能でしょうか。「キリスト教」抜きで福音が世界に告知されて、世界のどの宗教文化圏の民も福音によって「キリストにあって」根源霊である唯一の神を拝むようになる、というようなことはありうるでしょうか。わたしはありうると信じています。また、そうでなければならないと確信しています。以下は先に述べたことですが、「終章への結び」として、「宗教相対主義」の主張をまとめるために、もう一度引用しておきます。 イエスはサマリア教徒の女に言われました。

 「女よ、わたしの言うことを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもなく、父を礼拝する時が来る」。(ヨハネ四・二一)

 「この山」すなわちゲリジム山での礼拝とはサマリア教という「宗教」を指します。エルサレムでの礼拝とはエルサレム神殿で神を礼拝しているユダヤ教という「宗教」を指します。イエスは、もはや人間が「宗教」によってではなく神(イエスは神を父と呼んでおられます)を礼拝する時が来ることを予告しておられるのです。では、「宗教」によらない神の礼拝とはどのような礼拝でしょうか。
 「礼拝」とは、神を崇め、神との関わりの中に生きることです。「宗教」は祭儀によって神を礼拝してきました。しかし、イエスはもはや「宗教」によって神を礼拝する時は終わり、「まことの礼拝をする者たちが霊と真理によって父を礼拝する時が来るであろう」と(未来形の動詞を用いて)予告されます(ヨハネ四・二三)。ここで「宗教」による神礼拝と「霊と真理」による神礼拝が対照されています。「宗教」による神礼拝の時代が終わり、「霊と真理」による神礼拝が実現すると予告されたイエスの言葉を伝えたヨハネ共同体は、その言葉に続けて直ちに、「いや今がその時である」と付け加えないではおれませんでした。ヨハネ共同体はすでに「霊と真理によって」父を礼拝しているからです。そして、そうすべき理由として、「神は霊である」という聖書の根本的な宣言を引き合いに出します。

 「神は霊である。神を礼拝する者は霊と真理によって礼拝しなければならない」。(ヨハネ四・二四)

 神は霊であるから、神との関わりの中に生きようとする者は当然「霊と真理」によって神との関わりの中にいなければならない、というのです。問題は、ここで「宗教」と対比されている「霊と真理」とはどういう事態かということです。神は霊であり、人間もその本質は霊です。しかし、だからといって自動的に神が求めておられる本来の関わりが持てるわけではありません。霊としての神と霊としての人間の本性が背反しているからです。そのように神に背を向けていながら、神からのものを必要としている人間が、神との関わりを維持しようとする営みが「宗教」です。「宗教」が神を礼拝するために用いる手段の祭儀は、神と人間との霊の現実の結びつきがないのですから、象徴とならざるをえません。父が求めておられる礼拝とは、象徴ではなく、現実の霊のつながりです。この「現実の」という限定をヨハネ福音書は「真理」という語で指しています。
 ヨハネ福音書で「真理」《アレーセイア》という語は、影に対して本体、象徴に対して現実(リアリティー)を指しています。従って「霊と真理」によって神を礼拝するというのは、霊なる神と現実の霊の交わりにおいて礼拝することを指しています。ところが、人間の霊は自然に霊なる神との交わりに入ることはできず、また努力によって入ることができるものでもありません。霊なる神との現実の交わりをもたらすのは、神の霊の働き、聖霊の働きだけです。「霊と真理」による礼拝は、聖霊の働きによってはじめて実現します。イエスがサマリヤの女に語られたときはまだ御霊は降っていませんから(ヨハネ七・三九)、イエスはその事態を将来のこととして予告されました。しかし、ヨハネ共同体はすでに聖霊を受けてその事態に入っています。ヨハネ共同体だけでなく、キリストにあって聖霊によって歩むキリストの民は、もはや特定の「宗教」による礼拝ではなく、「霊と真理」による礼拝を実現しており、そのように神を礼拝するように世界に呼びかけます。

「宗教」の枠を超えて

 イエスは「良い羊飼い」のたとえの中で次のように言われました。

 「わたしには、この囲いに属さないほかの羊たちもいる。わたしはその羊たちをも導かなければならない。その羊たちもわたしの声を聞き分けるようになり、一つの群れ、一人の羊飼いとなるであろう」。(ヨハネ一〇・一六)

 「この囲い」というのは、今イエスが語りかけておられるユダヤ教徒たちの「宗教」であるユダヤ教を指しています。「この囲いに属さないほかの羊たち」というのは、ユダヤ教以外の「宗教」という囲いの中にいる人たちのことです。ここで「宗教」は人々を囲い込む「囲い」とされています。羊の囲いは、夜間羊を野獣や盗賊から護るためのものです。「宗教」は、道に迷いがちな民を教え導き、滅びないように保護するための囲いですが、その囲いである「宗教」が、しばしばその中の民を抑圧し、他の囲いの民との交わりを妨げる「隔ての中垣」となっています。イエスはその囲いをなくすのではなく、他の囲いの中の羊も終わりの日に現れた大牧者である主イエス・キリストの声を聞き分けて、その方について行くようになり、一つの群れとなることを予告されます。「一つの囲い」となるのではなく、多くの囲いの中の羊が一人の羊飼いに従うことによって、囲いの違いを超えた一つの群れになることを、イエスは見ておられます。すなわち、世界の「宗教」を一つにするのではなく、人間が「宗教」の桎梏から解放され、人類が「宗教」の枠を超えて、神の民となる霊性の変革を見ておられます。本書の「宗教相対主義」は、このように人類が「宗教」の枠を超えて、根源霊である神の最終的な呼びかけである福音を聞き分け、主イエス・キリストに従うことによって、一つの壮大な霊的共同体となることを目指しています。
 「宗教相対主義」は「キリスト教」をも相対化して、「教会」は「キリスト教抜きのキリストの福音」を世界に宣べ伝えるように提言します。パウロが「ユダヤ教抜きの福音」によって、かえってユダヤ教の核心である救済史的唯一神信仰を世界の諸国民に広く伝えたように、「キリスト教抜きのキリスの福音」は、かえってキリスト教の核心である「キリストの出来事において啓示された三位一体の神」を、地球上のあらゆる宗教文化圏の人々に広く伝えることになるはずです。