市川喜一著作集 > 第22巻 続・聖書百話 > 第4講

4 無条件の世界

だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。

(マタイ福音書 七章八節)


 イエスのこの言葉は、原文では「・・・だからである」という意味の語で始まっており、直前の「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」という宣言の理由を述べています。この「求めなさい。そうすれば、与えられる・・・・」というイエスの宣言は有名で、諦めず努力すれば必ず報われるという励ましとして世間で広く用いられています。その理由を述べる標題の言葉の方はあまり知られていませんが、この言葉は実に驚くべき言葉です。
 わたしたちの経験はイエスの宣言とは逆です。求めても与えられず、探しても見つからず、門をたたいても開かれません。名誉や富を求めても獲得できません。幸運を探しても見つかりません。希望の会社や学校の門をたたいても門は開かれません。それを獲得できるのは、才能や境遇に恵まれたごく少数の人だけです。この世界では、求めるものを獲得するには厳しい条件がつけられ、ふさわしい資格が要求されます。
 イエスは「求める者は与えられる」と宣言し、その理由として「だれでも求める者は与えられるからだ」と言われます。この「だれでも」が重要です。イエスは、与えられるための条件や資格を何も求めておられません。「だれでも」求めさえすれば与えられるのです。いったいそのような世界がどこにあるのでしょうか。それはわたしたちが現実に経験している世界とは別の世界です。イエスはそのような別の世界、全く無条件に求めるものが与えられる世界があることを、自分のもとに来る病人はだれでも癒すという働きによって、それをしるしとして指し示されました。
 厳しい条件で成り立っているこの現実の世界とは別に、全く無条件に求めるものが与えられる世界があります。それは神と人とが関わる世界です。わたしたちが神に何かを求めるとき、自分の側の資格を申し立てることはできません。神は無条件に求めるものを与えてくださいます。その無条件に御自身のよいものを与えてくださる神を、イエスはわたしたちの父として指し示されました。イエスが示される神は、絶対無条件の恩恵の神です。愛そのものです。わたしたちがこの現実世界において閉じこめられている不安や苦悩や悲しみから救い出されて、真実の命に生きるようになるのは、ただ父なる神の絶対無条件の恩恵によります。