市川喜一著作集 > 第22巻 続・聖書百話 > 第15講

15 子とする御霊

 あなたがたは、再び恐れに陥れる奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によってわたしたちは「アッバ、父よ」と叫ぶのです。

(ローマ書 八章一五節)


 福音は信じる者を救いに至らせる神の力です。それは、福音が告知するキリストにおいて神の御霊が働くからです。この力の働きの最初の現れが解放です。先に(曙光14で)見たように、罪と死の支配からの解放です。拘束や抑圧から解放された状態が自由です。新約聖書のギリシア語では同じ語が解放と自由の両方を指しています。わたしたちを罪の支配から解放した神の御霊は人間を、処罰に対する恐れから主人に従う奴隷にする霊ではなく、父から愛されていて自発的に喜びをもって父と一緒に暮らす息子とする霊です。ここで奴隷と息子が対比されています。宗教はしばしば人を奴隷にします。福音は人を自由な神の子とします。
 キリストにおいて働く神の霊によって神の子とされた者は、その御霊によって神に向かって「アッバ、父よ」と祈ります。それは教えられ定められた祈祷ではなく、御霊に促されて魂の奥底から発する自発的な叫びです。「アッバ!」というのは、イエスが使われていたアラム語で「お父様!」という意味です。キリストにあって神の子とされた者は、神の子であるイエスと同じように「アッバ、父よ」と祈るのです。この事実が、わたしたちが神の子とされていることを証言しています。パウロも標題の言葉のすぐ後に「この御霊ご自身が、わたしたちが神の子であることを、わたしたちの霊に証ししてくださるのです」と続けています。
 では、神の子は自由であるのであれば、自分の欲するところ何をしてもよいのでしょうか。違います。逆です。神の子は自分の魂の底から父の意志を行いたいと願わざるをえないのです。自分に由る、すなわち自分の内から自発的に発する願いによって行為することが自由ですが、神の子はその自由によって父に従います。神の子は父に従わないではおれないのです。これが神の子の従順です。
 神に対する人間の関わり方を信仰と呼ぶならば、わたしたちの信仰は「聖霊による信仰」です。宗教的な祭儀にあずかることや、特定の教義を信奉することや、道徳的な生活をすることで成りたっている信仰ではなく、ただ神の霊の働きによって内に形成された信仰です。それは内なる命、神の御霊が生み出してくださった命の表現です。