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19 復活の希望

 この方(主イエス・キリスト)により、わたしたちはいま現に立っている恵みに導き入れられ、神の栄光にあずかる希望をもって歓んでいます。

(ローマ書 五章二節 私訳)


 キリスト者の標識の一つは喜びです。キリスト者の人生は、途方もない希望によって歓喜に貫かれています。キリスト者が抱く希望とは、この世で出世したり有名になることではありません。キリスト者もこの世に生きる限り、すべての人と同じく様々な苦難や苦悩を味わいます。しかし、その苦しみの中でも消えることのない希望によって喜ぶことができるのです。その希望とは「神の栄光にあずかる」という希望です。
 人間は本来神の似姿に造られた者でありながら、「すべて罪に陥ったので、神の栄光を失って」います。罪とは神からの離反です。罪によって神から切り離された人間は、神の永遠性とか聖性というような栄光を失っています。その人間が再び神の栄光にあずかる者となるという希望です。それは希望ですから将来のことです。この世を超えた永遠の世界でのことです。
 人間はその悲惨な現実の中で、神の不死性や聖性や浄福に憧れ、様々な宗教において「神の栄光にあずかる希望」が保証されることを求めてきました。そのような世界に福音の告知が響き渡ります。神は十字架につけられたイエスを死者の中から復活させてキリスト(人類の救済者)とされた、という告知です。それはたんにイエスの身に復活の奇跡が起こったことを告げ知らせる告知ではなく、このキリストであるイエスに属する民が死者の復活にあずかることによって救われることを告知するものです。これは人の思いを余りにも超える告知であるので死者の復活を否定する人たちが出てきました。彼らに向かって使徒パウロは、全収穫を代表する「初穂」という象徴を用いて説得しようとしています(コリントT一五章)。神の栄光にあずかる希望は、福音においては死者の復活に与るという具体的な(体を具えた)形で告知されているのです。
 キリストによって神の無条件の恩恵の場に導き入れられ、神の霊によって神の子とされたキリスト者は、この途方もない希望、復活の希望に生きるようにされています。この衰え滅び行く地上の体の中にあって、内なる御霊の命がやがて必ず朽ちることのない栄光の体を与えられて、神の栄光にあずかることを待ち望むことができるのです。わたしたちは「この希望へと救われている」(ローマ八・二四直訳)のです。