市川喜一著作集 > 第22巻 続・聖書百話 > 第28講

28 すべて求める者は受ける

 「求めなさい。そうすれば与えられる。・・・・だれでも求める者は受けるからである・・・・」。

(マタイ福音書 七章七〜八節 私訳)


 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」というイエスの言葉は有名です。それは真剣に追求すれば必ず報われるという励ましの言葉としてよく用いられます。しかし、それに続く「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれるからである」という言葉は、あまりにも現実とかけ離れているため引用されることがありません。現実の人生においては、いくら熱心に求めても成果を得られず、いくら懸命に門をたたいても門が開かれない体験が多いからです。
 ところがイエスは、求める者は与えられるという宣言の理由として、「だれでも求める者は受けるからである」と言われます。「だれでも」です。これは凄い言葉です。価値あるものを得るためには厳しく資格や能力が求められるこの世の体験からは全く考えられない世界です。いったいイエスはどのような世界のことを語っておられるのでしょうか。
 イエスは続いて、どんな親でも自分の子供には良いものを与えるという事実をたとえにして、わたしたちの父である神は求める子には「良いもの」を与えてくださること、しかも子の善悪や価値を問わないでただ子であるゆえに与えてくださると断言されるのです。この「良いもの」とは聖霊を指すと、同じたとえをルカが解説しています。この求める者の資格や価値を問わないで無条件に聖霊を与えてくださる神の恩恵が支配する世界に生きておられるので、イエスは「だれでも求める者は受ける」と断言することができるのです。 先に(曙光27で)わたしたちに必要なのは聖霊のバプテスマであること、聖霊のバプテスマこそ神の救済の働きの全体であることを強調しました。現在のキリスト教会に力がないのは、聖霊のバプテスマの体験が希薄か喪失しているからです。それがないのは聖霊によるバプテスマを求めないからです。求めないのは聖霊によってバプテスマすることが神の約束であることを知らない、あるいは宣べ伝えないからです。聖霊でバプテスマすることは、キリストの福音、十字架の福音の重要な中身です。キリストの福音は、神の無条件の恩恵の支配を告知し、その恩恵の場で聖霊によるバプテスマを受けるように世界に呼びかけます。