市川喜一著作集 > 第22巻 続・聖書百話 > 第33講

33 いっさいを創造する神

初めに神は天と地を創造された。

(創世記一章一節)


 これは宇宙の成立に関する科学的記述ではありません。聖書は救済史の書です。すなわち、神から背き去って滅びの道を歩む人間を救おうとされる神の働きの歴史を証言する書です。その神の救済の最初の働きが天地万物の創造です。それは、人間がその一部である天地万物は神の創造という働きの結果であるという宣言です。神は人間の生存と歴史の舞台としてこの天と地を用意されました。
 神は動詞です。天地万物を存在させ、保持し、変化させる働きの主語です。まず神という存在があって、その神が働くのではなく、まず働きがあって、その働きを働く主体を、われわれが「神」と呼んでいるのです。働きの主体は目に見えません。しかし、働きの結果は見えて体験されます。天地万物は目の前にあり、われわれは生きています。
 聖書の神は、救済史における様々な働きの主語を指しています。聖書の冒頭部分(創世記一〜三章)には、アダム(=人間)の創造と神からの背反の事実が神話的な衣装をまとって物語られています。それで聖書の神の働きは、自分から離反して対立する者となった人間を、自分のもとに引き戻して、ご自分の命によって生きる者として完成するための働き、すなわち救済の働きとなります。神はこの働きを人間に示すために、アブラハムを選び、その子孫であるイスラエルの民の中に働き、その民の歴史の中でその働きを進められました。その証言記録が聖書です。その他の民は、自分たちが体験する「聖なるもの」の顕現に反応するままに任されました。それが世界の宗教史を形成します。
 イスラエルの民に語りかけ働かれた神の働きは、すべて「創造する」働きです。原因があってその結果として行われる働きではなく、働く方がまったく主権的に自分の意志で働かれる働きです。そのことを典型的に示すのは、エルサレムがバビロニアに滅ぼされてイスラエルの民が捕囚を体験した時期に出た預言者の「光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである」という言葉です。人間は自分に都合のよいことだけを神の働きとしがちですが、国が滅びるという悲惨な現実をも神の働きとすることができたときに、いっさいのものを創造する神の信仰に到達したのです。そして、自分たちの救いを、この創造する方の創造の働きとして待望することができるようになったのです。