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44 イエスの涙

イエスは涙を流された。

(ヨハネ福音書 一一章三五節)


 イエスが涙を流されたことを伝えるのは、新約聖書の中でここだけです。イエスが泣かれたことは、最後にエルサレムにお入りになる直前、オリーヴ山から都を見て、都のために泣かれたことが、ルカ(一九・四一)によって伝えられていますが、「涙を流された」という表現が出てくるのはここだけです。
 イエスが涙を流されたのは、死んだラザロの墓の前で、姉妹のマリアが泣き、一緒に来ていたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになった時です。死という冷厳な事実の前に、人間の愛は引き裂かれ、打ち砕かれて、泣く以外にどうすることもできません。この事実をごらんになって、イエスは「霊に激し、心騒ぎして」(三三節直訳)涙を流されるのです。
 ここの「霊に激し」と直訳した表現は、口語訳では「激しく感動し」と訳されていましたが、新共同訳をはじめ最近の訳では、「心に憤りを覚え」と訳される傾向にあります。この訳では、人間の切実な愛を打ち砕く死の支配に対してイエスが憤りを覚えられたという、万人の救済者としてのイエスの公憤から来ていると理解されます。しかし、「涙を流された」という事実からすると、公憤よりも、死によって愛が打ち砕かれて泣いている親しい友への共感からの「激しい感動」であると見るほうが自然です。ここを「心を痛め悲しみて言い給ふ」と大胆に意訳した文語訳が近いのではないかと思います。
 ヨハネ福音書一一章は、イエスがベタニア村のマルタ、マリア、ラザロのきょうだいを愛されたことを、人間の情愛を指す動詞《フィレオー》を繰り返し用いて伝えています。悟りすました冷厳な哲学者としてではなく、イエスは温かい心の生身の人間として、彼らを愛されたのです。その愛が死によって引き裂かれ打ち砕かれる事実に、友として共感の涙を流されるのです。このイエスの涙は、イエスがわたしたちの悲しみを御自分の悲しみとしてくださっていることを伝えています。
 聖霊の愛《アガペー》は、人間の情愛を否定するものではありません。むしろ情愛を鋭敏にして深めます。そして、人間の生まれながらの本性が、利己心とか嫉妬とか猜疑とかで情愛を苦しみに変えるとき、《アガペー》がその情愛の破れを包み、つながりを最後まで担い抜く力となるのです。

                              (天旅 二〇〇二年5号)