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84 宗教の倒錯

 「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」。

(マルコ福音書二章二七節)


 イエスの時代では、安息日はユダヤ教の生命線でした。それを守るならばユダヤ教は立ち、それを破るならばユダヤ教が倒れるという最重要の規定でした。ユダヤ教の律法では、それを故意に破る者には死刑が定められ、イスラエルの民にそれを破るように唆す教師を除く(処刑する)ことは指導者の宗教的義務でした。イエスがユダヤ教の最高法院で死刑の判決を受けるに至ったのも、イエスが民に安息日を破るように教えたと見なされたことが大きな理由となっていました。
 その安息日について、イエスがこのように発言されたと福音書に伝えられています。これは実に大胆な発言です。弟子たちが麦の穂を手で揉んたことや、イエスが生命の危険が差し迫っているのではない病人を癒されたことを、安息日を破る行為として批判したユダヤ教律法学者に、イエスがお答えになった言葉の一節です。これはユダヤ教という宗教における倒錯を見事に暴露しています。
 安息日は本来、人間の側の働きはなくても神の無条件絶対の恩恵によって救われ、神と共にある完成を祝う祝祭です。それが、働きを禁止する規定となり、それを守ることがユダヤ教という宗教の重要な中身となり、その禁止規定を守らない者を裁く外からの拘束となっていました。この倒錯を、絶対恩恵の場からイエスは暴露されるのです。 
 宗教とは本来人間の救済とか幸福を追求する人間の営みの一つであるはずですが、現実の宗教は教理や祭儀や倫理の多くの規定が一つのシステムとなって人間を拘束しています。その宗教の諸規定を守って宗教を維持することが目的となって、成員の人間はその手段となっています。この宗教における倒錯は、日常の細かい事柄にも現れてきますが、中世教会の異端審問における残酷な処刑などはそのグロテスクな現れであり、イエスの死刑判決もその典型的な場合です。
 この倒錯は宗教を絶対化することから起こります。人間の制度としての宗教は相対的なものです。もともと人間は、人間を超える絶対的な存在との関わりを求めないではおれない存在ですが、その関わりの追求から生まれる結果は、その追求がなされた場の違いによって様々な形をとる相対的なものですが、それを外面的に守ることが人間存在の目的であるかのように絶対化するところに、根本的な倒錯があります。

                              (天旅 二〇〇九年4号)