市川喜一著作集 > 第22巻 続・聖書百話 > 第90講

90 わが幸い

主はわたしに与えられた分、わたしの杯。
あなたのほかにわたしの幸いはありません。

(詩編一六編 五節と二節から)


 世には実に様々な幸福論があります。人生において何が幸いであるのか、答えは人さまざまです。ある人は生まれながらに秀でた才能を与えられていて世にその名を広く知られ、ある人は豊かな資産のある家に生まれ生涯陽の当たる上流の生活を享受し、ある人は強固な意志の力と機会に恵まれて成功を勝ち取り、それぞれ幸福を謳っています。しかし、そのように人生を幸福にするものは、自分には何も与えられていないと嘆く人たちも多くいます。
 わたしたちキリストにある者は、主イエス・キリストに向かって、標題の詩編のように言い表し、賛歌を歌います。わたしたちの多くは、生まれながらの才能や恵まれた環境など、世が与える幸福の素材に欠けています。しかし、わたしたちはその欠けを嘆きません。わたしたちは幸福です。主キリストが与えられているからです。世の幸福に欠けていることが、キリストを与えられる機縁となったのであれば、むしろそれを喜びます。
 キリストはわたしたちの罪のために十字架上に死に、復活して今も生きておられます。そして、福音の言葉を信じ、福音が告知するイエス・キリストにひれ伏して主と言い表す者に、聖霊を与えて御自身を現してくださいます。信じる者は、今も生きておられる復活者キリストに結ばれ、キリストに合わせられて生きるようになります。その時、詩編一六編が「主はわたしの運命を支える方」とうたったように、キリストはわたしの人生を支える方となり、内面では「わたしの心は喜び、魂は踊ります」となり、この身体も「安心して憩います」となります。キリストはわたしたちに「命の道」を歩ませ、「魂を陰府に渡すことなく」復活の希望に生きる者としてくださいます。
 この幸いは、信じる者は誰でも、どのような状況にある者でも、どのような文化や宗教の中にある者でも、無条件に与えられます。聖霊により復活者キリストとの交わりに生きる現実は、民族や宗教の枠を超えた神からの賜物です。キリスト教とか仏教とかイスラームとか民族宗教とか、どれかの枠の中にいなければ与えられないものではありません。内にいても外にいても、どこにいても与えられます。ですから、福音はどの民にも宣べ伝えられなければならないのです。

                              (天旅 二〇一〇年4号)