市川喜一著作集 > 第24巻 福音と宗教U > 第2講

第二節 宗教改革の時代におけるキリスト教と福音

T 宗教改革に向かう動き ― 東と西で

A 東方キリスト教における胎動

パウロ派

 東方キリスト教は、ビザンティン帝国と呼ばれるようになる東ローマ帝国皇帝が公同の教会の首長となる、いわゆる皇帝教皇主義の体制をとります。皇帝が主催する公同の主教会議である公会議の決定が、キリスト教の教義と祭儀の在り方を決め、その決議に従う教会が「正教会」(オーソドックス)と言われます。東方キリスト教はギリシア語を公用語としていたので、それは「ギリシア正教」とも言われます。その決議に従わず、基本的にはイエスをキリストと信じる信仰を共有しながら、公会議の決定と違う教理や祭儀や聖職制度で形成された東方の教会を「諸教会」と言っています。正教会と諸教会の分裂は、四五一年に開かれたカルケドン公会議で決定的になります。この公会議はキリストの人性(人間としての本性)と神性(神としての本性)の関係を巡る論争に決着をつけるために開かれ、その両性が「混合することなく、変化することなく、分割することなく、分離することなく」存在することが、すべて否定文の微妙な表現で認められました。この時に決議されたカルケドン信条を批判して、どちらかの本性だけを認めるとか重視する傾向の信条(単性論)を奉じる諸教会が、カルケドン信条を受け入れる正教会から離れ、東方諸教会と呼ばれるようになります。したがって、東方諸教会は単性論的な信条をもって形成された教会ということになります(本書三一頁の「東方正教会と東方諸教会」の項を参照)。東方諸教会にはネストリウス派教会、コプト教会、エチオピア教会、アルメニア教会、ヤコブ派教会などが含まれます。それぞれの教会、とくに東方正教会は、その内部で自己の教義や祭儀や聖職者制度とは異なるキリスト者の運動や共同体を「異端」として排撃し、時には迫害を加えてその絶滅を図ります。東方正教会が「異端」として排撃した運動の中で重要なものをあげますと、まず「パウロ派」と呼ばれる信仰運動があります。
パウロ派は七世紀以降に東方正教会に起こった大規模の分派運動であり、正教会が異端として弾圧します。パウロ派の起源は諸説あって明らかではありませんが、アルメニアで起こったらしいと言われています。シリアから来た修道士があるアルメニア人の世話になり、お礼に福音書とパウロ書簡を贈ったのがきっかけとなって、そのアルメニア人が回心して伝道活動を始め、七世紀の後半にアナトリアのポントスの山間に集会を作ったのがパウロ派の始まりのようです。このアルメニア人はパウロの弟子シルヴァノスを自称していました。また、パウロ派を正教会に復帰させるために派遣された役人のシメオンが、逆に説得されてパウロ派の指導者となり、ティトスと自称しました。その後パウロ派は内紛や弾圧で消長を続け、活動地も変わりますが、ずっとパウロ派と呼ばれたのは、おそらく彼らが使徒パウロを最高の使徒として尊び、パウロの福音を信仰の基準としたからではないかと推察されます。それは、その派の指導者の多くが、テモテとかシルワノとかエパフラス(新共同訳での呼び方)というようなパウロの弟子の名を名乗っていたり、教会の名をパウロの活動の地名から取ったりしていることからも推察されます。
パウロ派の一方の旗頭として活動した人物にセルギオスという人がいますが、この人は正教会のギリシア人ですが、ある時出会ったパウロ派の女性に聖書を読むように勧められてパウロ派になります。その頃は聖職者でも聖書を読み通すことはまれで、彼は聖書によって新しい世界を見出したのでしょう。彼は、八世紀末(七八三年)にはすでにパウロ派の指導者となっていたハバネスと対立し、九世紀の前半にビザンティン帝国の迫害を避けて、イスラム支配下の地に教会を建てています(キリスト教徒も税金を払えばイスラム治下でも信仰生活ができました)。その頃からパウロ派も軍事的な性格を強めるようになります。パウロ派は一切の図像表現を拒否していましたから、ビザンティン帝国がイコノクラスム(聖画像破壊)を拒否して聖画像崇拝を容認したとき、それを不満とする兵士が多数パウロ派に入ったようです。パウロ派は一時皇帝がパウロ派ではないかと言われるほど正教会に浸透します。パウロ派は分離や分裂を繰り返し、その盛衰と活動地域について詳しく述べることはできませんが、一つだけ取り上げておきます。九世紀の後半、迫害を逃れた信徒が増えたバルカン半島でパウロ派は勢力を伸ばし、十世紀前半のボゴミル派(後述)の形成に決定的な役割を果たします。
パウロ派の教義は一貫していないので確定的なことは言えませんが、その教義の特色を示唆する数点を取り上げておきます。キリスト理解では、三世紀のサモサタのパウロスが唱えた養子論(イエスは聖霊を受けたとき神の子となったとする説)を継承しているようです。全般的には二元論的な傾向を見せており、人間と目に見える天地万物を創造した創造神は、人間を愛してキリストを送り、キリストの教えにより人間が天の父を知るようにし、その父への信仰によって救われるようにしたというのです。したがって、旧約聖書は退けられ、新約聖書の中で福音書(とくにルカ福音書)とパウロ書簡(ラオディキア書を含む)が正典とされます。ペトロ書簡は退けられています。この点ではマルキオンと似ていますが、マルキオンのように正典の字句を修正して自説の根拠とするのではなく、不都合な字句はそのままにして、もっぱら独自の解釈で自派の主張をしています。パウロ派が正教会から異端として弾圧されたのは、彼らがほとんどの教会制度を否定したからです。パウロ派は叙任された聖職者を認めず、教会の聖職者制度を否定し、洗礼も聖餐も行わず、聖母崇拝を否定し、イコンをはじめあらゆる物質的象徴を退け、禁欲を退け、修道制を否定しました。修道士は「黒い衣をまとった悪魔」とみなされました。イコンと修道制への敵対的な態度はイコノクラスム(聖像破壊)に通じ、パウロ派はビザンティン帝国のイコノクラスムの時代に勢力を伸ばします。
パウロ派は各地に分派の小会派を残しますが、十二世紀以降は歴史の舞台から姿を消し、ボゴミル派に席を譲ります。そのボゴミル派について、次項でごく簡単に見ておきます。

ボゴミル派

パウロ派の影響は東方の各地に及びますが、バルカン半島の北西部のマケドニア地方の司祭のボゴミルが、パウロ派の信仰を受け継ぐ形で、おもに貧しい農村部で新しい信仰運動を起こします。ボゴミルというのは「神に愛された者」(ギリシア語ではテオフィロス)のスラブ語で、本名か自称か分かりませんが、彼の一派はボゴミル派と呼ばれています。ボゴミルはこの世はサタンが創造した悪の世であると教え、そこからの逃避を勧め、国家とか教会という既成の秩序に対して反抗します。しかし一時のパウロ派のように武装して戦うようなことはなく、消極的反抗に止まります。創造神を悪と見る二元論的な立場から、旧約聖書を退け、新約聖書だけを正典とし、その中では福音書と使徒言行録を尊重しています。その聖書に基づいて教会制度や典礼は否定され、聖職者は盲目のファリサイ人、教会堂は悪魔の住処とされ、洗礼、聖餐、聖母崇拝、聖遺物崇拝、イコンは退けられます。とくに水の洗礼は退けられ(水は悪の世である物質界に属すからとされ、洗礼者ヨハネは否定されます)、入信儀礼として聖霊のバプテスマが行われたと伝えられています。この聖霊のバプテスマにも二段階があり、信徒になるためのバプテスマと、さらに進んで完全者とも称される《テオトコイ》(神の子)となるバプテスマです。聖職者制を否定するこの派の共同体は、完全者《テオトコイ》によって導かれるとし、信じる者各自に聖霊が宿るとされます。しかし、この聖霊のバプテスマの具体的な詳細は分かりません。この世を悪とするので、実際の生活面でも結婚を否認し、肉食と飲酒は悪魔からのものと考え、厳格な禁欲主義に向かいます。このような教義や実践から、ボゴミル派は、バルカン半島における最初のプロテスタントとも呼ばれました。
ボゴミル派は伝道熱心で、最初に興ったマケドニア地方から西のトラキア地方に伝えられ、北に広がるブルガリア帝国全体に広がります。ブルガリア帝国は、北方から移動してきたスラブ人とアジア系遊牧民のブルガール族が建てた国家ですが、両民族の融和を図るために、統率者のボリス一世は、ビザンティン帝国との戦いに破れたとき、キリスト教への改宗を含む和議に応じ、八六四年にギリシア正教に改宗します。そこではスラブ語での礼拝が認められ、スラブ語をギリシア文字で表記するキリル文字が使用され、ブルガリア帝国のスラブ化が進みます。この正教のブルガリア帝国は一時期、西のフランク王国と肩を並べる大国になりますが、ビザンティン帝国から猛攻を受けて敗北し、一〇一八年にビザンティン帝国に併合されます。この併合はボゴミル派がビザンティンの各地に浸透する機会となります。首都のコンスタンティノポリスにも広まり、帝国の高官や貴族の間にも信奉者を獲得していきます。この事実はボゴミル派がかなり高度な神学と普遍性を持っていたことを推察させます。帝国はボゴミル派を異端として弾圧しますが、正教への改宗に力を注ぎ、火刑に処せられて殉教者となったのは首都のボゴミル派指導者バシレイオス一人だったと伝えられています。
ビザンティン帝国からの重税に苦しんだ北ブルガリア地方の反乱から、アセン兄弟が蜂起して、一一八七年にアセンを皇帝とする第二次ブルガリア帝国が成立します。この帝国は十三世紀に発展します。十三世紀初頭には第四回十字軍がコンスタンティノポリスを占領しますが、この時パウロ派の軍が勇敢に十字軍と戦ったので、第二次ブルガリア帝国はパウロ派やボゴミル派に寛容であり、ボゴミル派は十三世紀に最も繁栄し、黒海からピレネー山脈まで、アジアとヨーロッパの広大な地域に浸透します。ヨーロッパのカタリ派に影響を与えたのもこの時期のボゴミル派でしょう。しかし、一四世紀に入るとその勢力は衰え、オスマン・トルコが小アジアとその近くの地域を制圧するに及んで、ブルガリアのボゴミル派は、イスラムや正教に改宗して消滅します。

アトスの静寂主義

東方キリスト教には正教会に代表される公式の体制的な神学と、修道院に見られる神秘主義的な体験から出る神学の流れがあります。前者は七回の公会議決議を権威として固定化していきますが、後者は深い霊性から出る生命力を見せることになり、東方キリスト教の特質となります。正教会の固定した教義と外面化した儀礼に飽き足らず内面的な充足を求める人たちは、変革を求めて運動を起こしますが、それらの霊的な運動は異端のレッテルを貼られて、権力と結びついている正教会から弾圧されることになります。パウロ派やボゴミル派はそのような正教会内の改革運動でした。一方、修道院では禁欲生活の中で祈りと瞑想に集中する魂の奥底に体験するところから出る神学が求められます。すでに十世紀のシメオンは、「神の光に照らされると、聖なる人は完全に聖霊とともに燃焼し、その中で自己の神格化の神秘を予期しうる」と言っています。このような神秘的な神と人の結びつきが東方キリスト教の特質となります。
先に東方キリスト教の修道制の中心地となったアトスの修道院群のことは述べましたが(本書三七頁)、そのアトスで特殊な修業の方法によって「神の光」を見ることができるとされ、人は神の実体を見ることができると主張されました。その聖書的根拠として、キリストの変容の時にペトロ、ヤコブ、ヨハネが見た光(マタイ一七・一〜一三)は「非創造の光」であって、それによって神と人との合一が可能になるとされました。この主張が「静寂主義」(ヘシュカスモス)とよばれて、十四世紀のビザンティン教会の最大の論争点になります。この論争は、普通タボル山と呼ばれる山でのキリスト変容の際に現れた光の本質は何であるのかの問題となり、アトスの修道士グレゴリオス・パラマスはこの静寂主義を擁護して論陣を張ります。彼は神を実体と働き《エネルゲイア》に分けて説明し、タボル山の「非創造の光」は神のエネルゲイアの現れであるから、人もそれを見ることができるとしました。それを見る人間が神と合体してしまうのではなく、エネルゲイアによって神と結ばれ、自己の内に神を有し、無限に神に近づくのであるとし、神との合一の理論を弁護します。
静寂主義をめぐる問題は東方キリスト教会での大問題となって、その正否をめぐって七回もの主教会議が開かれ、一三四四年の主教会議では静寂主義は異端とされ、パラマスは投獄されています。しかし遂に一三五一年の会議でパラマスの教説の正統性が認められ、パラマスは後にテサロニケ大主教に任じられ、聖人にも列せられています。パラマスの神秘主義的な神学はビザンティン神学の最後の輝き、最高の水準を示すと言われます。この神学は、神が実在する以上、人間が聖霊の恩恵を得て、思弁的にではなく感覚的に神に無限に近づくことができるという、パラマスの信念から出ています。十六世紀にはロシアの修道士がアトスでこれを学んでロシアに伝えます。その結果、静寂主義といえばロシアの修道院を思い起こすほど、盛んに行われるようになります。ロシアの思想や哲学や文学に霊性の深みが感じられるのは、このような修道院で培われた神秘主義的な土壌があるからではないかと思わされます。

 このように東方正教会の中にも、体制化されたキリスト教会のイコンに満たされた教会堂での形式的な礼拝に飽き足らず、それを改革して聖書が指し示しているような使徒的な生活を送ろうとする動きがありました。しかしパウロ派やボゴミル派に見られる正教会内におけるその動きは、時代と状況からくる制約からか、時には不足したり行き過ぎた場合もあったようです。とくに正教会側からは、この世を悪神の創造によるものとするマニ教の二元論的異端とする非難が絶えませんでした。しかし印刷術が知られる以前、民衆に聖書が普及していない時代に、聖書だけに基づいて使徒時代の信仰を回復して、形式化して重い軛と化した教会を、圧迫や迫害に抗して改革しようとする情熱は見逃すことができません。一方、修道院でも改革の動きはあったようで、ここではアトスの静寂主義に見られるように、神との直接の出会いと交わりを追求する神秘主義的な方向に向い、霊性の変革を通して教会を改革しようとする動きも見られました。しかしビザンティン帝国そのものが滅亡したので、それらの改革の胎動も流産に終わることになります。東方キリスト教にはついに宗教改革は起こりませんでした。ビザンティン帝国の滅亡によって、東方のキリスト教はギリシア正教とかロシア正教というような各民族の正教会と東方諸教会に担われることになり、それぞれの歴史を歩むことになります。

B 西方キリスト教における動き

カタリ派

西方のローマ・カトリックのキリスト教世界でも改革への胎動が聞こえてきます。すでに一一世紀から一二世紀にかけて、西欧の各地方に散発的に教会改革の動きが見られるようになります。カトリック側はこれらの動きを二元論に立つマニ教的異端として弾圧します。確かに彼らは使徒的な清貧の行き方を理想として、現実の世俗的生活と形式的になっている教会儀礼を厳しく批判していますが、決してマニ教的二元論に立つ異教的な運動ではなく、この世を悪と見る隠修士的な禁欲を理想とする宗教性から出た改革運動であったと考えられます。それでグレゴリウス七世による改革によってカトリック教会が改革される一一世紀後半の時期にはそれに吸収されて下火になり、一二世紀になって再び燃え盛るようになります。彼らは極度に禁欲的な戒律を奉じたために、清浄を意味する「カタリ」から、カタリ派(清浄派)と呼ばれるようになります。最初は一二世紀半ばにライン川沿いと低地帯諸都市に始まり、次第に南に広がり、南フランスと北部中部イタリアに拡大します。この運動はそれが行われた地域と時期により、アルビジョア派、パタリニ派、ブルガリ派、ブリカニ派などと呼ばれています。
先に見たように、東方の正教会では異端とされた改革運動のボゴミル派が、西方のカタリ派の運動に大きな影響を及ぼしたことは確実で、一一七〇年頃にボゴミル派司祭ニケタスが南フランスで宗教会議を開き、カタリ派の司教区を設置するなど、カタリ派の組織が強化され、その運動が盛んになります。一一七八年の第三ラテラノ公会議ではカタリ派の名があげられて異端とされ、それを受け入れることは破門とされています。南フランスではアルビがこのカタリ派の運動拠点都市になっていたので、この地方のカタリ派はアルビジョア派と呼ばれ、フランスでは大小の貴族が公然とアルビジョア派を支援していました。それで教皇特使が一二〇八年にその領地で殺害された事件を受けて、教皇イノケンティウス三世はアルビジョア十字軍を起こし、一二二九年まで約二〇年間にわたって南フランスの地におびただしい血を流します。この十字軍は南フランスを統合するというフランス王権の伸張には貢献しましたが、キリスト教徒を武力で攻撃するという点では、コンスタンティノポリスを攻めた第四回十字軍と同じ過ちを犯し、教皇権の大きな汚点となります。そしてすぐ後の一二三一年に、 教皇グレゴリウス九世は異端審問を開設して、カタリ派の追求と壊滅に向かいます。この異端審問制がいかに宗教の残忍性を見せたかについては先に触れました。こうして、都市や農村の下層階級だけでなく、富裕な商人や高位の貴族も信者として大集団となっていたカタリ派も、托鉢修道会の説教活動に対抗できず、十四世紀には衰退していくことになります。

ワルドー派

一一七三年のある日曜日、リヨンの富裕な商人ワルドーは、吟遊詩人が語るアレクシウスの伝説を聞いて感動し、使徒に倣って真のキリスト者になろうと決意します。彼は財産を妻と娘と貧民に与え無一物となって、清貧の使徒的生活を勧める説教活動を開始、数年後には多くの信者を周囲に集め、彼らは「リヨンの貧者」と呼ばれるようになります。一一七九年に第三回ラテラノ公会議がローマで 開かれたとき、ワルドーはローマに赴いて教皇から説教活動の認可を得ようとし、彼の清貧と熱意を称揚した教皇から、説教は教義には触れず道徳面に限るというような条件付きながら認可されます。ワルドーは求められて公に信仰告白をしたとき、カトリック教会の教義には決して矛盾しない教義を言い表しています。それもかかわらず、一一八四年に発せられた教皇の教書で、カタリ派と並んで「リヨンの貧者」が異端として断罪されています。おそらくカタリ派のように教義問題ではなく、教会への不服従と特異な 生活形態が問題とされたようです。ワルドーは一二〇六年ごろに没したと見られます。イタリア北部のロンバルディア地方の「ロンバルディアの貧者」と呼ばれる同じような一派は、最初はローマ教会に属していましたが、「リヨンの貧者」に近づいてワルドー派の傘下に入ります。ワルドー派にも、ワルドーが任命した教導者と信徒の別がありましたが、カタリ派のような組織体ではなく、緩やかな結びつきであったようです。教皇側の説得工作によって一部の者たちはカトリックに戻って、「カトリックの貧者」とか「和解せる貧者」となっています。
アルプス以北では、一二世紀末にはワルドー派はドイツ南部の諸都市に現れ、一三世紀に入ると植民運動の波に乗ってボヘミアやポーランド、ハンガリーに進出し、フランドル地方にも拡大していきます。この時期のワルドー派の分布図を見ますと、ヨーロッパの西端から中央部までワルドー派の拠点都市が連なっています。しかし、ドイツではカタリ派が少なかったためかワルドー派の多くが、一四世紀の厳しい異端審問の犠牲となります。ボヘミアでは一五世紀にフスが異端とされてからは、多数のワルドー派説教師がフス派に合流しています。一六世紀の宗教改革以後はプロテスタント教会に受け入れられたり保護されたりして存続し、二〇世紀にもローマに神学校を建てて活動を続けています。その歴史は、あくまで福音書に忠実であろうとした彼らの信仰の強靭さを示し、西方キリスト教の正統と異端の闘争史に異彩を放っています。この事実は、異端というレッテルを貼られた一派に、あくまで聖書に従おうとした彼らの信仰の純粋さと宗教改革への胎動があったことを示しています。

ウィクリフとフス

東方でも西方でもキリスト教の神学教育はおもに修道院が担ってきましたが、一二世紀以降の西欧では社会的・経済的・政治的構造が変化し始め、教育制度も重大な変化を受けることになります。農業本位の秩序は都市文化の隆盛によって崩れ、教育の事業は、学問研究を軽視して禁欲的修業を中心とする修道会から都市の大学に移っていきます。一二世紀まで大学はボローニア、ローマ、パリ、オックスフォードなどごく僅かでしたが、一三世紀から一五世紀にかけて、多くの大学がヨーロッパ各地の都市に形成されていきます。それらの大学はスコラ学の形成の場になりますが、同時に神学の改革にも大きな役割を果たすようにもなります。現代の著名な大学の多くはこの時期に出来ています。
オックスフォード大学の神学教授ジョン・ウィクリフは、イギリスと教皇庁の間の財政紛争の交渉に当たり、イギリス国王の立場を代弁しています。その際、教皇の権威も教会の伝承も聖書から出ることを確信したからでしょうか、彼は聖書の権威への確信から、聖書の英訳を提唱しています。彼は聖書に基づいて、聖職階層性を否定、聖ペトロの後継者としてのローマ教皇の首位性の否定、聖餐などのサクラメントの軽視、聖職者の世俗財産支配の否定、世俗領主の教会支配の肯定、恩寵の重視など、宗教改革の先駆となるような主張をしています。とくに一三七九年に出した著書『聖餐について』において、カトリックの公式の教義である聖餐化体説を否定し、聖別されたパンとぶどう酒の性質はそれを受ける者の信仰の状態によって決まると説いています。イングランド教会と教皇庁は彼の著作の一部を異端と判定します。彼自身は平穏に生涯を終えますが、死後三〇年目の一四一四年に開かれたコンスタンツ公会議で彼は公式に異端と判定され、その後に彼の墓は暴かれ、遺体は川に投げ捨てられます。
ウィクリフの改革的な主張は、ボヘミアの改革者ヤン・フスに受け継がれます。当時ヨーロッパ中央部のボヘミアは神聖ローマ帝国皇帝カール四世に統治されていました。彼自身はドイツ人ですが、チェコ民族主義を深く理解し、首都プラハの美観を整え、プラハ司教区をマインツ管区から分離して独立の大司教区とし、プラハに大学を建て、「黄金のプラハ」を築きます。一四世紀はボヘミアの黄金時代となります。プラハの大学には各地から優れた学者を招き、大学は教会改革の拠点となります。とくにカール四世の末娘がイギリス国王と結婚してからはオックスフォードに学ぶ者が増え、ウィクリフの著作はボヘミアでも広く知られるようになります。貧農の家に生まれたフスは、プラハ大学で神学を学び、長じて同大学で神学の講義を担当し、哲学部長を経て、一四〇三年に大学長になります。フスは以前から礼拝堂ではチェコ語で説教し、民衆の教会改革の熱意を高めます。彼は聖書のチェコ語訳を行い、チェコ語の正字法を手がけ、チェコ人の民族教育に力を注ぎます。一四〇三年に大学のドイツ人教授団はウィクリフの著作を講義することを禁止しますが、フスは従わなかったので大司教から破門されます。一四一〇年には大司教館の前でウィクリフの著作が焼かれます。この頃、教皇はナポリ王に対する十字軍を企て、その戦費のために免罪符の販売が行われたので、フスは激しく批判し、キリスト教徒に向けられる十字軍そのものに反対します。十字軍に参加することになっていた国王(カール四世の次の国王)の庇護も失い、彼は支持者の手で南ボヘミアの城館にこもり著述に没頭します。一四一四年のコンスタンツ公会議に呼び出されたとき、皇帝の通行証の保証を得て出頭しますが、教皇派の策略で逮捕され、聖餐論や聖職者批判を撤回するように求められますが彼が拒否したので、有罪とされ火刑に処せられます。
この事件にボヘミアの民衆と貴族が激怒して、一四一九年にプラハで暴動が起こり、全土の教会と修道院の略奪が発生します。フス派は、南ボヘミアの城塞都市タボルを拠点として千年王国を待望する終末論的急進派から、平信徒も聖杯を受けることを主張したプラハの都市貴族や大学を中心とする穏健派まで多様な集団でしたが、説教の自由やパンとぶどう酒の両形色による聖体拝領などを求める「プラハ四カ条」の改革綱領で一致し、よく統制された軍隊で五回に及ぶ対フス十字軍を打ち破ります。後に内紛で穏健派が急進派を破り、一四三二年のバーゼル公会議で穏健派と教会側の平和交渉が行われ、穏健フス派の要求がほぼ認められることになります。この社会革命的なフス運動は政治的には永続性がありませんでしたが、宗教的にはその後のボヘミア兄弟団に受け継がれ、チェコ民族の霊性の中心に生き続けることになります。この一五世紀のボヘミアの宗教改革の運動は、次の一六世紀のドイツのルターによる宗教改革の烽火となります。

ルネサンス人文主義と印刷術

以上ここまで、本項Tの「宗教改革に向かう動き」で取り上げた東方と西方での改革運動は、いずれも正統派からは異端として弾圧されたキリスト教内部の改革に向かう動きでした。東方ではビザンティン帝国が滅亡したため、その動きは各教会の問題に止まり、キリスト教そのものを改革することなく流産しました。しかし西方ではイタリアを中心にルネサンス運動が起こり 、古典期の学問や美術に対する関心が深まり、上からの宗教による拘束から解放されて人間性の開花の土壌となる人文主義が進行します。このような内面的・精神的土壌の変化と、グーテンベルクによって発明された印刷術の普及によって、聖書と改革的な著作が民衆に行き渡るという外面的・技術的な要因も加わって、西方で宗教改革の運動がキリスト教自体の変革に向かう方向に進むことになり、「宗教改革」が実現します。ここで宗教改革の土壌となった西欧の内面と外面の両方における変化を見ておきます。なお、用語について一言しておきます。現代ではヒューマニズムという語は人間を尊重する思想や倫理一般を指す語として広く用いられていますが、ここで人文主義という語は歴史概念であって、ヒューマニズムが歴史の特定の時期、ここでは西欧ルネサンス期、とくに一五世紀のイタリアを頂点に開花した人間肯定の知的運動を指しています。
ローマ教皇庁がアビニオンに移されてその勢威が末期的症状を呈していた一四世紀に、イタリア人でアビニオンで活動した詩人ペトラルカが、「人間の本質を知らず、何故われわれは生まれたのか、どこから来て、どこへ行くのかということに関心をもたずに追求されるような学問は無意味である」と唱えて古典に没頭し、人間の悲惨と高貴をあるがままに追求しようとします。ペトラルカは人間尊重の学問である人文主義の開祖であると言えます。このペトラルカの精神を受け継いだ弟子たちがフィレンツェの修道院でサークルを形成、対象もラテン古典からギリシア古典に拡大し、そこから優れた政治家であり同時に古典学者たちを輩出します。このフィレンツェ人文主義はイタリア各地に多くの共鳴者を呼び、初期人文主義の伝統を形成します。そして人文主義の基盤となるギリシア学は一五世紀に目覚しく発展します。それは当時オスマン帝国の圧迫によって滅亡寸前のコンスタンティノポリスから一流の学者が渡来して西欧の古典研究のレベルを高めたからです。その中でもプラトン研究は傑出していたと言われています。こうしてメディチ家の支援もあって、フィレンツェは多くの優れた文化人を集め、花の都と呼ばれて世界中から留学生を迎えます。
このイタリアの人文主義は、一六世紀になると宗教改革者から批判されたりして枯渇していきます。しかしアルプス以北に波及した人文主義は、宗教改革の進展と交差しながら活動を拡大します。オランダのアグリコラ、ドイツのメランヒトン、フランスのビュデ、イギリスのモアらが代表的な人文主義者です。中でもオランダ出身で元修道司祭のエラスムスは、宗教改革運動の中で大きな役割を果たし、ルネサンス期最大の人文主義者と言われています。彼は神学研究のためにパリ大学に留学しますが、その後は修道院に戻らず、言葉の正確な理解に基づく歴史的な方法によって聖書や教父、また異教古代を研究し、当時開発された印刷術によって多くの古代文献を活字化します。とくに一五一六年に新約聖書のギリシア語原典を史上初めて活字化し、詳細な注解とラテン語訳を添えた『校定ギリシア語新約聖書』を出版したことは、当時の宗教改革運動にとって、そして後世のキリスト教神学の進展にとって極めて重要な意義をもつ功績です。彼は真の信仰生活は各個人が聖書、とりわけその根幹になる福音書とパウロ書簡に直接触れることだとし、中世カトリックの教理、典礼、伝統、修道制などを二義的とする新しい信仰を指し示し、福音主義の基礎を示し、宗教改革への道備えをしています。彼は様々な分野で警世の筆を振るい、『痴愚神礼賛』やその他多くの書を出版して、ヒューマニストとしての本領を発揮しています。彼はルターの宗教改革運動にも協力していますが、後に人間の自由意志論や教会問題でルターと決別します(後述)。彼はヨーロッパ各地を転々として、最後はバーゼルで一五三六年に没しています。彼は人文主義をキリスト教の基盤の上に置き、近代のキリスト教に自由と寛容の精神を植えつけます。エラスムスの功績と価値は後世の歴史が評価することになるでしょう。
もう一つの印刷術の発明と普及も、西欧における宗教改革の進展にとって見逃すことはできません。ドイツの古い文化商業都市マインツで、書物の機械的製作という新技術開発の先頭に立ったのがグーテンベルクです。彼は文字の機械的再生産の技術を研究、それを用いて書物を安く多量につくる着想を、印刷機の形で実現します。彼は一四五五年に四二行聖書と呼ばれるラテン語聖書の印刷を完成させます。当初、出版されたのは二〇〇冊ほどで、グーテンベルク聖書と呼ばれ、その最初の活版印刷のゴシック書体の美しい聖書は人々を驚かせます。しかし彼自身は多額の研究費をマインツの資産家フストから借りており、それを返却できず、訴えられて提携を解消され、一四六八年に貧困と忘却の中で没します。印刷の事業は彼の弟子とフストによって続けられ、その新技術は急速に全ヨーロッパに広まり、人文主義者や宗教改革者の著作を民衆に普及させ、何よりも聖書の普及によって宗教改革運動を技術の面で支えることになります。

U ヨーロッパにおけるプロテスタント諸教会

ドイツにおけるルターの宗教改革

マルティン・ルターは一四八三年にドイツ中部のアイスレーベンに生まれ 、エルフルト大学で法学を学びます。そのころ落雷にあった時に立てた誓願によって、彼はアウグスティヌス隠修修道会の修道院に入ります。彼は司祭として聖別されますが、救いの確かさを求めて苦闘します。神学博士となったルターは、信仰の指導を受けたシュタウピッツの後任としてウィッテンベルク大学の聖書教授となります。そこで講じたローマ書によって、人間の救いがキリストにおいて示された神の恩恵によるのだという福音的認識に導かれます。それまで修道院では、福音書に示されているイエスの言葉に従い、使徒的な清貧の生き方に徹することが救いの確かさを保証するという「行の宗教」が支配的でしたが、ルターが代表的なパウロ書簡であるローマ書によって、救いはただキリストにおける神の恩恵だけによる、従って救いは恩恵を無条件に受け取る信仰だけによるという認識に、すなわち「信の宗教」に到達したことが、キリスト教という宗教を福音によって根底から改革する宗教改革を生み出すことになります。
そのころドイツの大司教が教皇庁に納める上納金捻出のために免罪符の販売を始めます。その販売を担当したテッツェルの仕方があまりも露骨であることを批判して、ルターは一五一七年に「九十五カ条提題」を公開します。一般にルターはこの提題をウィッテンベルク城の城門に掲示したとされ、その一〇月三一日が宗教改革記念日とされています。確かにこの提題は宗教改革の狼煙(のろし)となりましたが、実際は「もっとも臆病な文書」と評されるほど、議論のためにラテン語とドイツ語で書かれた長くて慎重な文書でした。その頃のルターは教会の贖宥制度を認めています。この提題は多くの支持を受けると同時に教皇側からは激しく反対されます。翌年にルターは教会審問を受け、一五一九年にはライプチヒで教皇特使のエックとの公開討論に臨むことになります。そこでルターは聖書の権威に基づき、教皇も公会議も無謬ではないと主張して、一五二一年に破門されるに至ります。その前後にはラテン語とドイツ語で「宗教改革三部作」と称される著作、すなわち『ドイツ国民のキリスト教貴族に宛てて』、『教会のバビロン捕囚について』、『キリスト者の自由について』などの改革的な著作を公刊し、印刷が追いつかないほどの反響を呼びます。
カトリックのスペイン王カール五世が神聖ローマ帝国皇帝に選ばれて招集した一五二一年のウォルムスの国会にルターは召喚されますが、そこで「わたしはここに立つ。神よ、助けたまえ」と叫んで自説の撤回を拒否します。そのために帝国追放刑を受け、帰途選帝侯フリードリヒの保護検束でワルトブルク城にかくまわれます。その城では著作に専心して、新約聖書のドイツ語訳を成し遂げ、ドイツの宗教改革に大きな貢献を果たすだけでなく、後代のドイツ語の基準となり、ドイツ文化に深甚の影響を与えることになります。
その後ルターはウィッテンベルクに戻り、ミュンツァー(後述)らの扇動で過激な破壊運動になって混乱していた改革運動を正常化し、各地を巡回して領邦の改革信仰に立つ教会の指導と組織化を進めます。彼は大小二つの教理問答書を著して民衆の信仰教育を進めます。また、この時期一五二四年に出版されたエラスムスの『自由意志論』を反駁して『奴隷意志論』を書き、人文主義と訣別しています。この時期に彼は元修道女のカタリーナと結婚して(一五二五年)、修道制否定の姿勢を明確にしています。わたしたちには親鸞の妻帯を想起させます。ルターも親鸞も結婚によってその宗教的な確信を表現しています。一方、一五二六年ごろに高まった農民運動の中で、農民団を訪れたり著作によって、福音を短絡的に社会的要求としたり暴力に訴えることのないように訴えますが容れられず、諸侯による弾圧に至るという事態になります。このときルターは権力を委ねられた諸侯に、弾圧を励ます著作を書いています。
ドイツの領邦諸国の君主は、すでに中世末期から司教任免権や教会保護権を通じて教会への支配権を行使していましたが、ローマ教皇の支配からさらに自由になるために、ルターの改革を支持し、領内にルター派教会を成立させます。これらの改革派の領邦とカトリック派の領邦の間に紛争が絶えませんでした。その後の複雑な政治的状況から、一五二六年に招集した第一回シュパイエル国会で皇帝は改革派領邦の協力を得るためにルター主義への「暗黙の寛容」政策をとります。しかし第二回目の国会でそれを撤回したので、それにプロテスト(抗議)した改革派の代表が「プロテスタント」と呼ばれるようになり、彼らのキリスト教がプロテスタント・キリスト教とかプロテスタンティズムと呼ばれるようになります。
その後、帝国内の宗教問題に決着をつけるために、皇帝は一五三〇年にアウグスブルクに国会を招集します。この国会に改革派はメランヒトン起草の「アウグスブルク信仰告白」を提出します。人文主義者のメランヒトン起草のこの信仰告白は、福音の自由な説教が許されるならば、カトリックの教義や制度を認めるという、極めて協調的なものであったので、遠くでそれを聞いたルターは大いに失望したと伝えられています。しかし皇帝はこの妥協的な協調路線をも拒否したので、改革派諸領邦は力をもって自由を確保しなければとして軍事同盟を結成します。それがシュマルカンデン同盟です。それからの一〇年は、ウィーンまで迫ったトルコ軍と戦うために改革派諸侯の援軍を期待する皇帝軍との間に戦争はなく、同盟諸国は繁栄し、ルター派の勢力は北欧などの周辺各地に拡大します。しかし教皇側も軍事同盟を結成、一五四六年に戦端を開くことになります。これがシュマルカンデン戦争です。ルターはその年(一五四六年)にアイスレーベンで病没します。六三歳でした。
この戦争に敗れた皇帝カール五世はスペインに引退、次の皇帝が招集した一五五五年の国会で「アウグスブルク信仰和議」が決定されます。それは「カトリックとともに、アウグスブルク信仰告白を保持する教会の存在を認める」という決定であって、ここに一応の信仰の自由が認められることなります。しかし、この自由は領邦の領主がカトリックかプロテスタントかを選ぶ自由であって、個人の信仰の自由ではありません。しかもプロテスタントはルター派だけで、より戦闘的なカルヴァン派とツウィングリ派は含まれていません。こうしてドイツでは「領主の宗教が民の宗教になる」という領邦教会制が出来上がります。

ツヴィングリの宗教改革

スイスではほぼルターと同年代のツヴィングリが、スイスのドイツ語圏のチューリヒで宗教改革を開始します。ツヴィングリはウイーン大学で学んだ後、スイスで唯一の大学のバーゼル大学に移り、人文主義が盛んなその大学で熱烈な人文主義者として古典に傾倒しています。同時に恩師のヴィッテンバッハからその聖書講義を通して、聖書だけが権威であること、キリストの死のみが罪の贖いであることを学び、神学研究に励みます。エラスムスのギリシア語新約聖書がバーゼルで刊行されると(バーゼルは印刷業が盛んな都市でした)、感激のあまりすべてのパウロ書簡を原語で暗記するほど熟読したと伝えられています。学業を終えたツヴィングリは一〇年間スイスの小都市の司祭としてカトリック教会の聖職者の務めを果たしますが、その間二回にわたってスイス傭兵隊の従軍司祭としてイタリアに行っています。スイスの傭兵隊は優秀で、多くの州の収入源になっていました。とくにローマ教皇庁は最大の得意先でした。ツヴィングリは傭兵制には疑問を持っていましたが、教皇の要請には応えていました。しかしイタリアでの戦争の体験は彼を深く反省させたようです。その後、ある修道院教会の説教者として赴任したとき、カトリックの教会体制のあまりの堕落ぶりに幻滅し、改革の必要を感じるようになっています。一五一九年にチューリヒ大聖堂付説教者の地位につきます。ところが赴任間もなく、チューリヒで免罪符販売が始められます。ツヴィングリはこれに公然と反対し、市当局に働きかけて販売説教者を追放処分にします。このように反ローマの改革が次々に行われるので、傭兵の必要でスイスには寛大であった教皇も、ついに一五二三年に大司教を通じてツヴィングリの罷免を命じます。スイスはツヴィングリ支持派と反対派(カトリック派)に割れます。
すでに一五一七年にはルターの「九五箇条の提題」が刊行されて、大きな反響を呼び起こしていました。チューリヒ市当局も、すでにかなりの改革を進めていた改革派とカトリックの対立を克服するために、一五二三年に公開討論会を開きます。ツヴィングリはこの公開討論のために「六七箇条の提題」を提出し、「聖書のみ」の原理でカトリックのミサの犠牲的性格、善きわざの救済的性格、煉獄や免罪符などの中世的付加物を否定し、聖職者の結婚を勧めます(彼はすでに結婚していました)。二回の公開討論を経て、チューリヒはツヴィングリの福音主義を受け入れ、ルターの改革よりもラディカルな改革が行われます。堅信、終油、聖像、オルガンなどは廃止され、修道会の財産は没収され、司教の裁治権も否定されます。福音主義に転向したチューリヒは他州にも働きかけ、有力なバーゼル州なども転向させ、福音主義諸州の「キリスト教都市同盟」を結成、カトリック諸州の同盟と対抗します。この二つの同盟間に二回の戦争が起こり、ツヴィングリはこの二回目の戦争で戦死します。しかし、結局和議が結ばれ、各州に自らの宗教決定権が保証されます。この原則は今日まで守られています。ツヴィングリなきあと、ブリンガーが後継者としてチューリヒに招かれ、その改革的伝統を維持し、その後カルヴァンの指導下にあったフランス語圏スイスとも密接な関係を保ち、ルター派とは違ったスイス改革派の伝統を築きます。
ルターによるドイツの宗教改革もツヴィングリによるスイスの宗教改革も、聖書だけを拠り所としてキリスト教を新約聖書が証言する使徒時代の純粋な形に戻そうという聖書原理と改革の志向は同じです。しかし、実際の改革の仕方では微妙な違いもあるようです。ルターは聖書に明確に禁じられていないことは存続してもよいと考えましたが、ツヴィングリは聖書が明白に命じている以外のことはすべて撤廃すべきであると考えたようです。それでツヴィングリの改革は教会の具体的な在り方、儀式や典礼、慣習の改革を提唱し、より戦闘的な性格のものになります。農民戦争の時の姿勢にも見られるように、ルターは現行の領邦制に立つ領主側に加担し、その保守性を示していますが、ツヴィングリはチューリヒ市に対して彼の改革を実際の市政に反映させています。ルターは自分の霊的体験から出る恩恵による罪の赦しに集中するあまり、一切の人間の側の働きを否定し、エラスムスの自由意志論を否定して人文主義と訣別しています。一方ルターのような深刻な霊的体験を欠くツヴィングリは、人文主義からの影響が強く、理性を尊重し、信仰において働く理性の役割を重視しています。こうしてルターとツヴィングリというプロテスタント二陣営の融和を図った一五二九年のマールブルグ会談で、他の条項ではすべて一致しながら、聖餐論で両者は一致できず、会談が決裂しています。ルターはあくまで聖別されたパンとぶどう酒にはキリストの体と血が共在するとしましたが、ツヴィングリはパンとぶどう酒はあくまでキリストの体と血の象徴であって、信者はそれを信仰をもって受け入れるのであるとしました。後にルターはツヴィングリを評して、「わたしは彼をキリスト者と認めない」と言ったと伝えられています。

再洗礼派における急進化

このようなツヴィングリの改革運動の中から、信仰者の在り方について師のツヴィングリよりもさらに徹底した方向に進む急進的(ラディカル)な弟子たちが出てきます。彼らから、真のキリスト者の共同体は自覚的にキリストを告白する信仰者の共同体でなければならないとし、何の信仰体験もない幼児が含まれるのは聖書的でないとして幼児洗礼を否定し、その結果真のキリスト教共同体に入ろうとする成人に、改めて洗礼を受けることを求める「再洗礼派」が生まれます。幼児洗礼はコンスタンティヌス体制キリスト教世界の典型的な表現ですので、これを否定して成人してから自覚的なキリスト告白としての洗礼(信仰洗礼)を求めたことは、使徒時代の信仰に戻ることを目指した宗教改革の当然の帰結ですが、ツヴィングリはこれを否定しています。ルターやツヴィングリも幼児洗礼を受け入れているのは、なおコンスタンティヌス体制の克服には至っていないことを示しています。千年以上続いたこの体制を一挙に覆すことは至難の事業であったのでしょう。歴史的状況からすると、この急進的な改革はあまりにも急進的であったと言えるのでしょう。事実、再洗礼派は改革派教会からも迫害されます。また後には、この再洗礼派から過激な方向に進んで道を誤る一派が出現して、ミュンスターの悲劇(後述)が起こります。これは、過激化した再洗礼派の一派が北ドイツの都市ミュンスターにこもって市民を強制的に再洗礼し、カトリックとルター派の連合軍に包囲攻撃されて、幾千の犠牲者が出るという悲劇です。このような事件によって「アナバプティスト(再洗礼派)」という名がヨーロッパのキリスト教徒に忌諱されるようになりますが、再洗礼派の理念は現代にも重要な意味をもっています。それを論じる前に、ここでごく簡単に再洗礼派運動の歴史を見ておきましょう。
最初の再洗礼派はツヴィングリの宗教改革の過程で生まれます。ツヴィングリの支持者の中でグレーベルやマンツらが、いつも市参事会の支持なしには改革を進めないツヴィングリに失望して彼から別れ、再洗礼を実行して小さな信仰共同体を形成します。この共同体は信仰者だけがパン裂きに参与する聖餐共同体として、破門を頂点とする厳しい信仰訓練で、この世から分離した使徒的共同体を形成しようとします。その再洗礼はツヴィングリから激しく批判され、彼らは市当局から迫害されます。指導者マンツは刑死します。カトリック司祭から再洗礼派に転向し、その高潔な人格と学識から批判者からも尊敬されていたザトラーが、一五二四年にシュライトハイムという僻村に再洗礼派の集会を開き、議長としてまとめた再洗礼派の綱領が「シュライトハイム信仰告白」として伝えられています。ザトラーはこの集会の直後に逮捕され、裁判にかけられ、異端者として火刑によって処刑されます。こうして形成された初期の再洗礼派である「スイス兄弟団」は厳しい迫害で長く存続できませんでした。しかし、迫害によってチューリヒから追われた再洗礼派の信仰は各地に拡散して、様々に違った形でその運動を進展させます。しかし、その間には共通点も見られます。それは個人の信仰体験の強調であり、ある種の神秘主義、敬虔主義であり、時には極端な聖書主義になります。
体制的な国教会とか領邦教会の迫害を逃れてきた再洗礼派の人たちがその活動拠点としたのがモラビアです。この地方は封建領主が分立して中央集権的でなかったので、比較的宗教的に寛容な領主の下で活動しやすかったからだと考えられます。その中でも特異な形態をとったのが、フープマイアーが形成した再洗礼派の地域教会です。彼はルターの論敵エックの下で神学を学び人文主義の教養も高かったカトリック司祭ですが、一五二三年のチューリヒの公開討論にも参加して、ツヴィングリに傾斜していきます。さらに彼が再洗礼派に転じたとき小さな町の教会を牧会していましたが、自分もその教会全体も再洗礼を受けて、地域教会全体を再洗礼派の教会にしています。彼はカトリックのオーストリア官憲から、農民戦争加担の罪で追及されてチューリヒに逃れ、そこからさらにモラビアに逃れて、ニコルスブルグという小都市に落ち着きます。そこでの活動は成果を上げて、わずかの期間にニコルスブルグの教会の全体を再洗礼主義の教会として改革することに成功します。領主までが彼の支持者となり、彼が牧する教会は、再洗礼派でないことが困難な国教会的な教会になり、本来選ばれた少数者の共同体であるはずの再洗礼派に問題を提起することになります。ニコルスブルグには迫害を逃れた再洗礼派が続々と集まるようになり、様々な種類の再洗礼派の主張が持ち込まれて混乱します。この時期にモラビア伯を兼ねることになったオーストリア大公は再洗礼派を放置できず、領主に首魁フープマイアーの引き渡しを求め、一五二八年に彼を反逆と異端の罪で、「他のどの説教者にもまさって…世俗権力への従順を教えた」と自負するこの再洗礼主義者を火刑に処します。
これと対照的に再洗礼派運動の中には、再臨信仰に基づいて世俗権力に反対した過激な一派もありました。彼らは大なり小なりミュンツァーの影響を受けていました。ミュンツァーもカトリック司祭でしたが、早くから強い反体制的志向があり、ルターの改革運動に身を投じカトリック教権制を激しく非難します。ルターの推薦でツウィッカウの説教職につきますが、そこでの霊感を主張する預言者運動に触れて、地上でのキリストの支配を追求する黙示思想的な千年王国思想を唱えるに至り、ルターの弾劾を受けます。彼は農民戦争を、背神の徒であるすべての聖俗の支配者に対する「神に選ばれた者たち」の聖戦であるとして、農民戦争に積極的に参加、指導的役割を果たします。しかし諸侯の連合軍に敗れ、一五二五年には捕らえられて処刑されます。彼はルターの聖書への依存を批判し、個人的な霊感を重視、ドイツ神秘主義の影響を強く受けていると見られます。彼は背神の徒が支配するこの世を変革するには血の革命もありうるとしました。
モラビアに集まった再洗礼主義者の中には、ハンス・フートのようにミュンツァーの再臨信仰を受け入れ(ただし剣の使用は反対しています)、その信仰を携えて農民戦争の敗北によって打ちひしがれている民衆に熱烈に布教し、ドイツ、オーストリア、モラビアに広く再洗礼派を広めていました。後にこのフートの後継者の一人フッターが一派を引き連れてモラビアに移住し、財産共有制の平和主義的再洗礼派の共同体形成を試みています。彼の信仰を受け継ぐ一派は、今もフッター派兄弟団として存続しています。フートに信仰洗礼を授けたのはハンス・デンクですが、この人は南ドイツの出身で、インゴルシュタットとバーゼルの両大学で学び、人文主義の教養を身につけ、ギリシア語とヘブライ語に堪能で、神学的にはルター編纂の『ドイツ神学』の影響を強く受けて神秘主義の傾向の学者でした。彼がニュルンベルクの神学校の校長の時にはすでに福音主義を掲げていましたが、その福音主義のためにニュルンベルクを追われたデンクはアウクスブルクに移ります。その頃の彼の文書では、「外的な洗礼は救いにとって必要ではない。それゆえに、パウロは洗礼を施すためにではなく、福音を宣べ伝えるために遣わされたのだと言う。しかし内的洗礼はなしではすまされない」と、たいへん示唆深いことを述べています。彼が神学の中心に置いたのはルターの信仰義認論よりも、「キリストへの信従」という実際の生活でした。このことは現代のボンヘッファーを思い起こさせます。このアウクスブルクで、彼はチューリヒを逃れてモラビアに向かうフープマイアーと会い、その影響で再洗礼主義に踏み切り、フープマイアーから信仰洗礼を受けて、その地方の再洗礼派の指導に当たることになります。彼は再洗礼派の教皇とかラビと呼ばれるようになります。
一五二七年は再洗礼派の歴史にとって極めて意義深い年となります。二月にはシュトライトハイムでスイス系再洗礼派が会議を開き、ザトラーが作成した有名な「シュトライトハイム信仰告白」を採択しています。五月にはプーフマイアの元に再洗礼主義を受け入れていたモラビアのニコルスブルグで公開討論が行われますが、それはフートの再臨信仰をめぐる討論でした。この会議にはデンクも参加しています。フートは再臨の時を翌年一五二八年のペンテコステとしていましたが、会議は再臨の期日の設定は不適切としながらも、主の間近な来臨に備える聖潔の生活を励ます必要では一致して、各地の教会を励ます活動に入ります。そして同年の八月に、南ドイツのアウグスブルクで史上名高い「殉教者会議」が開かれます。これはこの会議に参加した多くの再洗礼派の指導者が直後に逮捕されて殉教したので、この名で呼ばれるようになったものです。フートもこの会議の直後に逮捕され殉教(獄死)しています。この年の一連の会議はすべて、幼児洗礼に反対する姿勢では同じでも、フートが宣べ伝えた形での再洗礼主義に対する態度を決めるための会議でした。しかし結果は、再洗礼派の運動は分裂し、ある者はミュンスター事件に見られるような悲劇的な破局に突入し、ある者は絶対平和主義に徹して活路を見出します。
ミュンスターの乱とも呼ばれるミュンスター市の悲劇的な出来事は、メルキオール・ホフマンという再洗礼派の黙示思想的な再臨切迫を説く千年王国主義者の登場で始まります。彼は生業の毛皮の取引のために北欧諸国を巡回してルター派の福音主義を説教しますが、ミュンツァーの影響を受けて次第に神秘主義的傾向を強め、その直接啓示の上に千年王国思想を抱き、ルター派の反対を受けて、再洗礼派が多くいたストラスブールに逃れてきます。彼はストラスブールをキリストの再臨の時に聖徒が支配する町となると唱えて、近隣の諸地方に多くの信奉者を得ます。その頃彼は幼児洗礼の否定に到達、信仰洗礼を受けて再洗礼派に転向しています。彼の追従者は「メルキオール派」と呼ばれ、福音主義に変わったばかりのストラスブールに混乱を引き起こし、彼は逮捕され投獄されます。しかし彼の投獄と再臨予言と迫害の激しさは、メルキオール派に戦闘的な性格を与えることになります。
その頃、北ドイツのミュンスター市はルター派牧師が奉仕していましたが、同市の領主になる司教が武力に訴えて改革の動きを阻止しようとしたので、牧師も再洗礼派に傾き、市参事会も再洗礼派に同調する者が多数を占め、市長もそこから選ばれます。そこに一五三五年にメルキオール派の預言者をもって任じるヤン・マティスが、個人的な霊の啓示を受けたと唱えて乗り込んできて、ミュンスターを約束の町だと唱えて、牧師と市長に信仰洗礼を施します。こうしてミュンスター市は再洗礼派の都市となり、各地で迫害を受けた再洗礼派が続々と集合し、剣にかけてもこの町を守ろうとします。彼らに同調できない穏健派は町から去り、先の国会で再洗礼派の撃滅で一致したカトリックとルター派の連合軍が包囲して封鎖します。ヤン・マティスは神の助けを叫んで、単身敵陣に突入して戦死します。後を継いだライデンのヤンは、徹底した神政政治を行い、市民全員に成人洗礼を施し、拒む者は処刑し、ミュンスターを再洗礼派王国に仕立てます。市民は一致してよく戦いますが、包囲軍によって食料が絶たれ、ついに一五三五年に破局を迎えます。一年余りの厳しい包囲攻撃に耐えてきたミュンスターは陥落し、老幼男女の別なく五千人とも一万人ともいわれる市民がその場で殺戮され、血の川が流れます。指導者は残忍な仕方で処刑され、その遺体は鉄の檻に入れられて教会の塔に吊られます。このミュンスターの事件は再洗礼主義の運動全体に取り返しできないダメージを与えます。
しかし、この流血と荒廃と幻滅の中から、再洗礼主義を原初の聖書的・福音主義的・平和主義的立場に戻そうとする動きが出てきます。その運動を率いたのがメノー・シモンズです。今のオランダ地方に生まれたシモンズは、修道院で神学教育を受けた後、司祭に任じられて一〇年ほどその務めを義務的に果たします。その間、彼の聖書研究から達した結論は、スイス兄弟団の信仰と同じものでした。ミュンスターの悲劇の後、福音的な生き方を求める兄弟たちが司直の手を逃れてさまようのを見て決意を固め、司祭館を抜け出して彼らを再び福音共同体に集める仕事を始めます。彼には多額の懸賞金がかけられるという厳しい探索の目を逃れて、二〇数年にわたって地下活動を続け、平和主義的再洗礼主義の復興に尽力します。彼の努力によって再洗礼派は立ち直ります。信徒は自らを「メノーの徒」と称して、信教の自由を求めて東ヨーロッパへ、とくに新大陸へ移住します。現在メノナイト教会は北米だけでも五〇万人に上ります。今日アーミッシュと呼ばれる一派は、極端な保守的メノナイトの流れの人たちです。

こうして十六世紀の再洗礼派の歴史を概観すると、その指導者の大部分は元はカトリックの司祭です。その時代では聖書知識とか神学教育はその階層に限られていたからでしょう。彼らは聖書探求(とくにパウロ書簡の研究)からカトリック教会の典礼に疑問を持ち、ルターやツウィングリの福音主義に変わっています。しかしそこにも安住できず、さらに徹底的に(ラディカルに)改革を進めて、カトリックやプロテスタントの corpus christianum (全員がキリスト教徒である世界)の概念から原理的に決別して、真の回心者から成る corpus Christi (キリストのからだ)を強調したのです。彼らは、幼児洗礼はコンスタンティヌス体制の上に成り立つキリスト教世界の集約的表現であるとしてこれを否定し、成人に自覚的信仰告白を求めて信仰洗礼を施します。この一点では一致していますが、その歴史的展開ではここで見たように様々な形をとっています。その特色として現代の研究家は、教会典礼の棄却、兄弟愛に基づく共同体の形成、福音活動とそれに伴う苦難への情熱の三点では共通しているとしています。しかし「教会典礼の棄却」という面では、彼らは洗礼と聖餐という二つの典礼は聖書的であるとして強くこだわり、成人洗礼を授けることに一命をかけています。さらに徹底した(ラディカルな)改革を求めるとすれば、この再「洗礼」ということ自体を問うこともできるのではないかと考えます。事実、歴史的にはこの再洗礼派の中から、ドイツのセバスティアン・フランクのように、個人的に体験される「内なる光」こそ信仰の源泉であり、それゆえに霊は聖書の文字に優るという聖霊主義的(心霊主義的)、神秘主義的に思考し、キリスト教を超える世界宗教を志向する流れも出てきます。この方向からイギリスのクエーカー派や、日本の内村鑑三の無教会主義、すなわち洗礼や聖餐という教会典礼の外でキリストを求める運動が出てきます。現代のわれわれもこの十六世紀の再洗礼派の歴史を真剣に問わなければならないと思います。

ジュネーブにおけるカルヴァンの宗教改革

先にスイスの宗教改革者ツウィングリの後継者としてブリンガーの名をあげましたが、このブリンガーがバーゼルにいた時、フランスを脱出したカルヴァンと出会っています。一五三四年のことでした。一五〇九年生まれのジャン・カルヴァンはこの時二五歳でした。カルヴァンはかなり重要な地位の聖職者の家に生まれ、パリ大学をはじめ各地の大学で高度な教育を受けています。とくに最後に法学を志して入ったブールジュ大学では、ドイツ人教師ヴォルマールからギリシア語や人文主義者やルターの書を学んでいます。彼は二二歳のとき『セネカの「寛容論」注解』を書いて、当時改革派に弾圧を強めてきた保守勢力、とくに福音主義者たちを一様に弾圧迫害し、投獄火刑に処しているカトリック教会の不寛容さに対する批判を強めています。そして親しい友人がパリ大学の総長就任の講演で改革の必要を唱え、福音主義を表明したのが問題となり、その草案の起草者として一緒に追求されて身の危険を感じるようになり、パリから逃れることになります。彼自身の福音主義への回心については確実なことはわかりませんが、彼自身は後年の『詩篇注解』の序文で、「突然の回心」があったことを述べています。福音派としてパリを脱出したカルヴァンは転々と居を移し、プロテスタント都市バーゼルで歓迎されてブリンガーと出会うことになります。その一五三四年にカルヴァンはあの『キリスト教要綱』を執筆するのです。その年をもって宗教改革者カルヴァンの登場と見てもよいでしょう。
一五三六年に『キリスト教要綱』を公刊したカルヴァンは、しばらく改革に理解のあるイタリアの公妃のもとにに滞在し、その帰途ジュネーブに立ち寄ります。このフランス語圏スイスの主要都市であるジュネーブは、やはりフランスから脱出してきたファレルの働きによって、すでに福音主義の都市となっていました。このファレルの強い要請によって、カルヴァンもジュネーブの改革運動に協力することになります。二人は共同して教理問答、信仰告白、教会規律を作成して、これらを厳格に施行します。しかしその厳格さを嫌った者たちが、頑固なカトリック教徒と結託して二人を追放処分にします。ファレルはスイスの一都市の牧師として生涯を過ごしますが、カルヴァンはシュトラスブールの改革者ブーツァーの招きを受けて、その地の教会や学校で指導的な働きを進めます。そこで過ごした三年の間に、『ロマ書注解』などを公刊し、注解者としての名声を確立します。一方、ジュネーブでは情勢が変わり、カルヴァンに好意的な勢力が主導権を握り、彼に再赴任を求めてきます。彼は幾つかの条件をつけますが、一五四一年にジュネーブに戻り、それから一五六四年の死に至るまで二〇年あまりジュネーブにとどまって、改革の運動に邁進することになります。
ジュネーブに入ったカルヴァンは、まず新しい『教会規則』を認めさせ、この規則に従うことを求めます。そして教会生活の根幹として、聖職者と信徒から選ばれた長老とからなる「長老会議」を置き、この長老会議に教会員の日常生活の監督から破門にいたる権限を与え、教会員の指導を厳格に行います。そのほか平易なフランス語で信仰告白や礼拝式文を定め、それを用いてカトリックのサクラメントと違う改革派の礼拝を確立します。その過程でカトリック以外からの批判もあり、カルヴァンはこれとも戦わなければなりませんでした。教会規則に違反した者を刑法で処罰し、教義的な批判者を追放するなど、あまりにも冷厳な統制に反発する者たちが出てきます。たとえば、雅歌の解釈で意見を異にした僚友カステリョや、予定説を批判したポルセックを追放しています。とくにセルヴェストゥスを火刑に処した事件はカルヴァンの生涯の汚点として批判されることになります。スペイン生まれの人文主義者・医学者のセルヴェストゥスは、三位一体の教理に疑問を持つ神学者でもありました。それが問題になったとき、カルヴァンは彼を告発して裁判に持ち込み、ついに彼を火刑に処します。後にカステリョはその著書『異端は迫害されるべきか』で、罪ある者、不義なる者を七度の七〇倍まで赦すように命じられたキリストの寛容に従わない者を、どうしてキリスト者と呼ぶことができようかと、カルヴァンを非難しています。このような問題点や批判を抱えながらも、ジュネーブにおけるカルヴァンの勢力は不動のものとなり、一五五五年には選挙の結果、市当局に対する教会の優位は確立されるに至ります。こうしてジュネーブの名声が高まり、各国で迫害されたプロテスタントが続々と集まり、ジュネーブは「プロテスタントのローマ」と呼ばれるようになります。
カルヴァンの明晰で体系的な『キリスト教要綱』はプロテスタントのマニフェストとしての地位を確立していますが、カルヴァンの神学で特色ある二点を挙げると、その聖餐論と予定説を挙げることができるでしょうか。聖餐理解でルターとツウィングリが意見を異にしてついに一致できなかったのは有名ですが、カルヴァンは両者を統合するような理解を提出しています。カルヴァンは、キリストの体と血は昇天して父なる神のもとにのみ実在するが、信徒が聖餐を受けるとき、聖霊によって高められ、神のもとにあるキリストの体と血に与ることができるとしました。こうしてカルヴァンはルターの実在説とツウィングリの象徴説を生かしています。予定説については、予定の信仰は自分の救いがまったく神の恩恵だけによることを体験した者の論理的帰結ですが、カルヴァンの予定説は救われる者の予定だけでなく、滅びに定められた者も予定されているという二重予定説になって議論を醸しています。しかし神の意志は絶対的な事実であり、究極的な秘義であるので、人間が説明を求めることはできないのであって、救いに選ばれた者に救いの確信と慰めを与え、神の栄光のためにのみ奉仕する原動力となります。カルヴァンとツウィングリ派とは一五四九年に、ブリンガーが起草した「チューリヒ一致信条」において聖餐に関しても意見が一致して、共同の信条を持つに至ります。さらにカルヴァンの没後の一五六六年に同じブリンガーが起草した「第二スイス信条」が大多数のカルヴァン派教会に受け入れられることになり、カルヴァン派はルター派とは一線を画して進むことになります。

プロテスタンティズムの原理とその歴史的進展

ルターが、人間の救済が人間の側の善い行為によるのではなく、神の絶対無条件の恩恵だけによるのである、従ってその恩恵を無条件に受け入れる信仰だけによるのであるという「信仰義認」の原理、そしてそれを神からの啓示とする根拠とは、教権や伝統ではなく聖書だけであるという「聖書のみ」の原理、さらに信仰者は祭司や聖職者を仲介するのではなく各人が直接神との関わりに立つのであるという「万人祭司」の原理、この三つの原理に立ってローマ・カトリック教会に代表される中世的キリスト教を改革する運動を始めたとき、十六世紀のヨーロッパ世界に宗教改革の大きな運動が起こりました。この三つの原理に立つ信仰のプロテスタントが各地に形成したプロテスタントの共同体は、ローマ・カトリック教会と対抗して、時には激しく戦いながらヨーロッパ諸国にプロテスタント教会を確立していきます。その戦いは、ヨーロッパ諸国や諸侯の権力闘争による政治情勢と連動して、複雑な様相を見せています。その経緯の一つひとつをこの小著でたどることはできませんので、その結果だけを瞥見して、この原理でなされた各国のプロテスタント諸教会の確立とヨーロッパ大陸における現在の宗教状況を理解するための一助にしたいと願います。ただこの項ではヨーロッパ大陸に限定して、イギリスでの宗教改革とその結果については、次項のVで別に扱うことにします。

ドイツ ルターの宗教改革で始まったローマ・カトリック教会に対する改革運動は、「三十年戦争」という悲劇を通過して、やっとドイツに福音主義の教会を確立することになります。先に見たように一五五五年の「アウグスブルク信仰和議」は、ドイツの各領邦の領主に、その宗教をカトリックにするかルター派プロテスタントにするかを決める権限を与えました(本書八三頁を参照)。この決定をした国会の前後のルター派はその拡張が著しく、一五七〇年頃には帝国人口の七割ほどがルター派プロテスタントであったとされています。しかし、その後のカトリックの対抗運動が激しくなり、プロテスタントは守勢に立ち押されていくことになります。カトリック教会は失地回復に乗り出し、イエズス会(後述)の熱烈な活動により南ドイツと西ドイツのプロテスタント勢力を後退させます。ある自由都市での紛争事件が引き金となって、プロテスタント諸侯もカトリック諸侯もそれぞれ同盟し、ついに戦端を開くことになります。一六一八年に始まったこの戦争は、一六四八年に終結するまでドイツを戦場として実に三〇年の長きにわたって続き、ドイツを疲弊させます。この戦争はプロテスタント諸侯とカトリック諸侯の宗教戦争として始まりましたが、後半には、すでにプロテスタントになっていたスウェーデンの参戦、カトリックのフランスの参戦、当時オーストリアとスペインを統治していたハプスブルク家も入り乱れての戦いとなり、極めて政治色の濃い戦争となります。一六四八年のウエストファリア条約によって終結しますが、この条約であの一五五五年の「領主の宗教決定権」はそのまま存続します。ただこの条約ではその原則がドイツのカルヴァン派にも拡大されることになります。

北欧諸国 先にシュマルカンデン同盟のところで触れたように(本書八三頁参照) 、まだルターの在世中にルター派諸侯が同盟してその勢力を伸ばしていた時期に、ルター主義者たちが北欧諸国に改革を進めていました。カトリックのルンド大司教の管轄区にあったデンマークでも、一五二〇年頃より「デンマークのルター」と呼ばれるタウセンによって改革が進められ、国王の支持を得て、一五三六年にはルター派キリスト教が国教となります。
スウェーデンはウプサラ大司教区にありましたが、共にヴィッテンベルグに学んだ二人のペトリ兄弟によって改革が始められ、全聖書のスウェーデン語訳も一五四一年に完成しています。当時デンマーク王がスウェーデン王を兼任し圧政を行ったので、彼に対する反乱を指導してデンマーク人を追い出したグスターヴが王に選ばれます。このグスターヴ一世は改革を支持し、財政上の必要もあってカトリックの統制から脱して、国王が教会の頭となる体制を築きます。後の国王がカトリックに改宗するなど、紆余曲折はありましたが、一五九三年の教会会議で「アウグスブルク信仰告白」を受け入れて、改革を成功させ、ルター派の国となります。
ノルウェーも長らくカトリックの司教の下にキリスト教が布教されていましたが、一五世紀の中頃からはデンマーク国王の支配下に置かれ、デンマークのルター派教会の制度が導入されます。ノルウェーの制度的な改革も、エリクソンらの活動によって、実質的な改革が行われるようになります。フィンランドは、宗教改革当時スウェーデンの支配下にあったので、スウェーデン教会と同じく「アウグスブルク信仰告白」を受け入れてルター派の教会となります。フィンランドでも、ヴィッテンベルグに学んだミカエル・アグリコラが新約聖書をフィンランド語に訳し、改革を進めています。このように北欧ではかなり早くからルター派のプロテスタント教会が支配的となります。

フランス フランスはカルヴァンの母国であり、彼はプロテスタントのために尽力しますが、フランスではカトリックとの対立が政治的利害と絡み合って、複雑で劇的な展開を見せることになります。フランスではプロテスタントは「ユグノー」と呼ばれるようになりますが、その名の由来はよく分かりません。当初ユグノーはカトリック国のフランスで不利な状況にありましたが、着実に勢力を伸ばし、一六世紀末には四〇万人に達していたと言われています。しかし上層の貴族にも浸透して、カトリックのギーズ家とユグノー側のブルボン家の対立が激化して、一五六二年についに戦争に突入します。この「ユグノー戦争」の結果、ユグノーはパリ以外での礼拝の自由を獲得します。この両派の紛争の渦中で、一五七二年のあの「聖バルテルミーの祝日の虐殺」事件が起こり、ユグノーの指導者たちが一斉に殺されます。それにもかかわらずユグノーは壊滅することなく勢力を維持します。この戦争も数次に及ぶ和平と戦争を繰り返し三〇年続き、ついにユグノーの首領のブルボン家のアンリが勝利して、アンリ四世として王位につきます。しかし彼は国家の統一のためにカトリックに改宗しますが、一五九八年に「ナントの勅令」を発して、ユグノーに対して宗教的寛容を示し、公職に就くのにカトリックと同等の政治的権利を保証します。こうしてフランスは、異なる宗教の混在を認める最初の国家となります。しかしその後、フランスが絶対主義的な傾向を強めるに従って、カトリックの攻撃が強まり、ユグノーは圧迫されるようになります。一六八五年にはついにルイ十四世によってナントの勅令は廃止され、五〇万人以上の亡命者が国外に逃亡します。このフランスもほぼ一世紀後の一七八九年にフランス革命を迎えることになります。

オランダ 一六世紀初頭のオランダは、スペイン王を兼ねた神聖ローマ帝国皇帝カール五世(前述)に統治されていました。このオランダにもルターの改革が伝えられ、ついで再洗礼派(前述)の急進的な信仰がとくに庶民の間に広がり、さらにカルヴァン主義が入ってきて拡大し、プロテスタント勢力の主流となります。その頃ブレが起草した「ベルギー信仰告白」が、その後のオランダ・ベルギーにおける改革派の公認信条となります。ところが一五五六年にオランダの統治がカールの子でスペイン王のフィリペ二世に引き継がれるに及んで、事態は急変します。カトリックのフィリペ二世の専制的な支配に対して、自由を求めるプロテスタント諸州の同盟軍は独立戦争をもって抵抗し、カルヴァン派の北部七州は一五八一年にスペインからの独立を宣言します。その独立戦争の中心人物ウィレムがオランダ連邦共和国の初代大統領となります。イギリスの海軍が一五八八年にスペインの「無敵艦隊」を撃破したことも、この共和国の進展に大きな助けとなります。
エラスムスを生んだオランダは、もともと自由の気風が強く、人文主義運動の中心地の一つでした。神学の面でも厳格な信条主義よりも宗教的寛容を重んじる傾向があり、これが後にオランダを近代の宗教学の中心地としたのでしょう。オランダのプロテスタントはカルヴァン派の改革教会でしたが、厳格なカルヴァン主義に対する反動として、神の恩恵の普遍性と同時に人間の意志の自由を強調するアルミニウスの神学が生まれることになります。アルミニウスはライデン大学の神学教授ですが、一五八八年に改革派教会の説教者となった頃から、信条の強要と国家教会体制への批判を強め、カルヴァン的な無条件の予定や不可抗的恩恵の説に反対します。彼の死後、彼の信仰に立つアルミニウス主義者は、国会に抗議書を提出したので「抗議派」と呼ばれ、政治的紛争に発展したので、そのために招集された「ドルト会議」で少数派のアルミニウス主義者は教会から追放されます。こうしてアルミニウス主義は母国オランダでは受け入れられませんでしたが、イギリスで歓迎されてウェスレーの福音運動に影響を与えることになります。

このようにドイツとフランスを中心地とするヨーロッパ大陸の西部では、プロテスタントの勢力が大きく進展します。西南部のイベリア半島ではスペインとポルトガルの二国が強固なカトリック教国として、カトリックの対抗改革(後述)の牙城となります。ヨーロッパの中央部では、一旦プロテスタントになったポーランドがイエズス会の熱烈な活動によってカトリックに戻っています。その南のモラビアでは、先に見たように再洗礼派の活動が盛んで、ヘルンフート兄弟団に見られるように改革の精神をよく伝え、それが後に個人の霊的体験を重視するドイツ神秘主義成長の地盤となって、教条主義的に硬化しがちなドイツのルター派教会に霊的な風を送り続けることになります。さらにその南のバルカン諸国は、先に見たように東方キリスト教のギリシア正教と西方キリスト教のローマ・カトリック教の勢力が交差し、さらにプロテスタントの影響も加わって複雑な歴史をたどります。
こうして宗教改革の激しい変革の嵐が過ぎ去った後のヨーロッパ大陸のキリスト教世界に残ったのは、教会としてはカトリック教会の他に、プロテスタント教会としてはルター主義のルター教会とカルヴァン系の改革派教会の二つでした。改革の精神に燃えた多くの宗教改革の運動は、再洗礼派の場合に見られるように、セクト的な集団としてか、個人的な霊的・思想的運動としてその後の歴史に大きな影響を与えましたが、この二つの教会のように一つの社会の体制としての決定的な基盤となることはありませんでした。そのような基盤となるのは、やはり「教会」としての形をもつ「宗教」です。一六世紀ヨーロッパの宗教改革は、確かにカトリック教会とは違った教会を形成し、教会改革となりました。それはキリスト教会がその中に保っている福音が、その容器である教会を内から変革する運動でした。しかしその宗教改革は、コンスタンティヌス体制の中にあるキリスト教という宗教そのものを変革するところまでは行きませんでした。既存のローマ教会とは違った形ですが、やはりキリスト教という宗教の枠内で、教会を形成するというところに止まりました。再洗礼派は、その社会に生まれた者は自動的にキリスト教徒になるというコンスタンティヌス体制の先兵ともいうべき幼児洗礼を否定して、自覚的な信仰告白による洗礼によって真の福音共同体を形成しようとしましたが、なお洗礼というキリスト教形式の枠の中にいたために、一千年以上も続いたコンスタンティヌス体制下の当時のキリスト教世界では、「急進的」というレッテルをつけられて迫害され、その世界から放逐されてセクト化することになります。宗教改革の原理が徹底的に実現するには、なお多くの年月を、すなわち歴史を人類は経なければならないのでしょう。一六世紀ヨーロッパの宗教改革の歴史は、洗礼を受けてキリスト教徒にならなければ救われないというキリスト教という宗教の外で、人はキリスト信仰によって永遠の命にいたりうるという内村鑑三の信仰を遠く指し示しているのだと思います。

V ピューリタン革命とアメリカのキリスト教

イギリスの宗教改革

ヨーロッパ大陸に巻き起こった宗教改革の波濤は、海を隔てたイギリスにも及びます。イギリスとはブリテン島の南部のイングランドとその北にあるスコットランド、海を隔てた北アイルランドの連合王国の呼び名です。アイルランドとの連合関係は後で扱うことにして、まずイングランドとスコットランドにおける宗教改革の進展をごく簡単に見ておきます。

 イングランド イングランドでは宗教改革が国王から出ていることが特色です。イングランドにもウィクリフやその追随者ロラード派の反カトリックの動きはありましたが、王権の伸張を欲する国王たちのローマ離れの傾向を、この時代のイングランドでは国王のヘンリー八世が実行します。ヘンリーははじめは教皇に忠実な王でしたが、自分の離婚問題でローマと訣別、ローマへの上告禁止など次々と反ローマの法制を議会で通し、ついに一五三四年に「国王至上法」を成立させて、国王がイングランド教会の地上で「唯一最高の首長」であると宣言します。その後、ヘンリーは国内すべての修道院を閉鎖してその財産を没収し、英訳された聖書を公認するなど、改革的な施策を進めます。この時に制定された「十箇条」の信仰告白的な文書は、前半はプロテスタント的ですが、後半はカトリック的な内容で、イングランドの宗教改革が極めて中途半端な性格の改革であったことを示しています。
ヘンリー八世を継いだエドワード六世は、ヘンリー八世と三番目の王妃の間の子で、九歳で即位、一六歳で早世した国王です。彼自身はカルヴァン派であったと言われており、前後二人の摂政によってプロテスタント寄りの政策が進められます。英語による「祈祷書」が議会で承認され、それが「統一令」で全国の教会での礼拝で使用されるように決められ、国民教会の自覚が深められます。ところが、一五五三年にエドワードの後をメアリが継ぐに及んで事態は急変します。メアリは、ヘンリー八世によって離婚された最初のカトリック王妃の娘で、カトリックの信仰を受け継いでいました。メアリは直ちに議会を招集、エドワードの時代に制定された法令をすべて廃止し、さらにヘンリーが決めた「上告禁止法」や「国王至上法」も廃止して、ローマへの再服従の方向に舵を切ります。カトリックへの復帰を決めたメアリは「異端火刑法」を復活させ、「マシュー訳聖書」の編集者ロジャーズをはじめ、福音主義的な主教たち、プロテスタント指導者、そしてヘンリー八世以来イングランドの宗教改革を推進してきた大主教クランマーまで火刑に処します。このメアリは「血なまぐさいメアリ」と呼ばれることになります。
エリザベス一世(在位一五五八〜一六〇三年)は、ヘンリーと二番目の王妃アン・ブーリンの間の子であり、即位前から反ローマ的であり、同時に人文主義的な教養から過激な改革を好まず、イングランド教会を中庸の道に進ませようとします。首相セシルや大主教パーカーに補佐されて、一五五九年に新しい「国王至上法」を議会に通過させます。国王をかっての「首長」から「統治者」に改め、国王は教会に対して行政的権威のみを行使するものとします。「祈祷書」から反カトリック的表現を除き、一五六三年にはイングランド教会の立場を表明する「三九箇条」を、聖職者会議を経て公布します。これは大陸のプロテスタント信仰を解釈して、古来のカトリック信仰と融和させており、急激なプロテスタンティズムを避けています。これはイングランド教会の教義的立場を表明しており、ここにイングランド教会は国家と表裏一体の国教会(アングリカン・チャーチ)となります。ところが、北のスコットランド女王のメアリ・スチュアートを国王に擁立しようとする「北方の反乱」や、エリザベスの破門や王位剥奪を宣言した教皇教書、さらにカトリック司祭らやイエズス会の暗躍などがエリザベスを硬化させ、その結果一五八一年に「国教忌避者処罰法」を成立させて、イエズス会士やカトリック宣教者を処刑するにいたります。その後、イエズス会士によるエリザベス暗殺計画が発覚、メアリも加担したとしてイングランドで処刑されます。当時カトリックのスペイン王フィリペ二世は反イングランド政策をとり、スペインが世界に誇る「無敵艦隊」を出動させますが、エリザベスの海軍に大敗します(一五八八年)。これはイングランドをカトリックに戻す画策の失敗を意味し、イングランドはプロテスタント国教会の地位を確立することになります。

スコットランド  イギリス北部のスコットランド王国は、十六世紀初頭では国力貧困で、絶えず南のイングランドから支配・併合の脅威に脅かされていたので、ややフランス寄りに傾いていました。当時スコットランドもローマカトリックの支配下にありましたが、徐々に大陸のプロテスタント信仰が浸透し、一五二八年には広く大陸の大学に学び、エラスムスの影響を受けルターの改革的教理を説いたハミルトンが火刑になり、最初の殉教者となります。次いでウィシャートがギリシア語聖書を教えたために異端の疑いを受け、イングランドや大陸に亡命、ルターやカルヴァンの教説を学んで、帰国後各地で改革的な説教を行い、カトリックの有力者によって磔刑に処せられます。このウィシャートによって回心に導かれたジョン・ノックスが、スコットランド宗教改革の立役者として活躍することになります。
ウィシャートを磔刑に処したビートン枢機卿が暗殺されて、プロテスタントがセント・アンドルーズ城にたてこもったとき、ノックスは説教者として活躍し、フランスに支援された国王軍に逮捕され、一年半のガレー船の苦役に服します。一五四九年に釈放されたノックスは、イングランドでエドワード六世の宮廷牧師を勤めますが、カトリック復帰のメアリ一世の即位後は大陸への亡命を余儀なくされ、ジュネーブでカルヴァンと親交を結び、熱烈なカルヴァン主義者になります。ノックスの留守中もスコットランドのプロテスタントは着実に勢力を伸ばしていましたが、一五五八年にメアリ・スチュアートがフランス皇太子と結婚したことが反乱に発展し、ノックスは帰国してその熱烈な説教でプロテスタントを励まします。ついに戦争が始まりますが、女王側のフランスとプロテスタント側に立ったイングランドの間の和議によって、フランス軍は撤退し、スコットランドの宗教改革はイングランドの援助によって達成されます。そして議会は一五六〇年に、ノックスが中心になって作成したカルヴァン主義の「スコットランド信仰告白」を承認、教皇の管轄権を廃し、ミサを禁止します。その後もノックスはスコットランドに長老主義の教会を形成するために勢力的に活動し、フランス王死去の後スコットランドに戻っていたメアリ・スチュアートに対抗し、一五六七年にはメアリを退位に追い込み、議会による決定で長老主義の教会制度が確立します。長老主義は、主教制の廃止、聖職者の同位制、長老会の組織、平信徒の教会政治への参加を主張します。ノックスは一五七二年にその激動の生涯を終えますが、その後メルヴィルが長老主義体制の擁護者・完成者として活躍することになります。こうしてスコットランドの宗教改革は、イングランドの宗教改革が上からの改革であったのに対して、下からの改革であったと言えます。

ピューリタンの改革運動

イングランドの国教会の中に、エリザベス一世の国教会中心主義(アングリカニズム)を不徹底な宗教改革として満足せず、カルヴァンの教会改革のモデルに従ってさらに徹底的に改革しようとする人たちがいました。彼らは保守的な人たちから、カトリック教会を批判した中世の「カタリ派」(英訳すれば puritans)になぞらえて、侮蔑的に「ピューリタン」と呼ばれましたが、やがてそれは、教会からカトリック的残滓物を排除して、聖書に従って国教会を浄化する者(purifyする者)として、彼らの自称となっていったようです。エリザベス時代にもすでに国教会改革の動きはありましたが、エリザベスの巧みな教会政治やフッカーの強力な神学論によって阻まれ、その志は達せられず、かえってブラウンらを過激な方向に向かわせ、国教会からの分離を主張する「分離派」を生むことになります。イングランド国教会主義の中道(ヴィア・メディア)の立場を擁護したフッカーの神学は、単に対立するものの妥協ではなく、すべての絶対主義的思考を拒否するもので、現代の宗教状況に対しても示唆的です。すでにエリザベス時代に、ケンブリッジ大学のトマス・カートライトが国教会内で、主教制を否定して長老制を主張していましたが、その影響を受けたロバート・ブラウンがさらに徹底して、信仰者がキリストの名によって集まるところにはつねにエクレシアがあるのだという会衆主義を主張、ロンドンに国教会の外で独立の会衆を組織するに至ります。このような急進的なピューリタンを弾圧するために「扇動的分派規制法」が成立し(一五九三年)、指導的メンバーが処刑され、多くの会衆はアムステルダムに逃れて難を避けます。
前述したようにカトリックを退け、ピューリタンを弾圧して中道を進んでアングリカニズムを完成したエリザベスが、一六〇三年に亡くなり、その後にスコットランド王のジェームズ六世が迎えられてイングランド王を兼ねることになります。彼は退位に追い込まれたスコットランド女王メアリ・スチュアートの息子で、一五六七年に生後数ヶ月で即位したのですから、この時には三〇歳代後半の壮年期に達していました。このジェームズがイングランド王としてジェームズ一世となりますが、彼がスコットランドからロンドンに赴く途中、千人余りのイングランドのピューリタンが、国教会の改革を請願する「千人請願」を提出します。ジェームズは翌年会議を開いて「教会法規」を発布しますが、「主教なければ国王なし」の思想のジェームズは国教会路線をとり、それはピューリタンには不利な内容のものとなります。その中でただ一つのピューリタンにとって大きな収穫は、新しい英語訳聖書の案が認められたことでした。この聖書は一六一一年に出版され、格調高い名訳として、現代まで「欽定訳聖書」とか「キング・ジェームズ聖書」として用いられています。
このジェームズの時代のピューリタンの中からバプテスト派が生まれます。国教会の牧師ジョン・スミスがピューリタンに転じ、分離派に加わって熱心な説教活動を行い、国教会からの圧迫によって一六〇八年にアムステルダムに移住します。彼はオランダ・メンノー派から強い影響を受け、大陸の再洗礼派と同じく幼児洗礼を否定、自己洗礼を行い、自覚的な成人洗礼によって信仰を告白する者たちの会衆を立ち上げていきます。スミスはオランダでアルミニウス主義に接近しています。スミスは一六一二年にアムステルダムで没しますが、会衆は後継の二人の牧師に率いられてロンドンに帰国して活動します。当時ロンドンの会衆派の教会にも、同じようにバプテスマを行う会衆が増えており、そのバプテスマは全身を水に浸す浸礼が普及していったようです。後にこれらの浸礼派の教会が合同で作成した「第一バプテスト信仰告白」もこの浸礼形式を項目に入れています。バプテスト派は信仰の自由と良心の自由を強く主張し、その後勢力を伸ばし、王政復古(後述)の時代には長老派と会衆派と並んで、三大非国教徒に数えられるようになっています。バプテスト派は会衆派と重なっていますが、詩人ミルトンが会衆派を、バニアンがバプテスト派を代表する作家として著名です。新大陸に伝えられたバプテスト派の教会がアメリカでは最大の教派教会の一つになっています。
同じくこのジェームズの時代に、牧師のジョン・ロビンソンに導かれて迫害を逃れてオランダに移住していた分離派会衆主義の人たちが、新大陸移住を決意し、いったんイギリス本国に戻り、他の移住者と合流して資金と入植許可を獲得、一六二〇年にメイフラワー号で新大陸に渡り、プリマス植民地を開きます。最初の冬に半数が病死するという苦難を経て、新大陸のニューイングランドにピューリタンの共同体を作ります。後に総督となるブラッドフォードが仲間を聖書にちなんで「この世の旅人(ピルグリム)」と呼んだので、彼らは後の世代から「巡礼父祖(ピルグリム・ファーザーズ)」と呼ばれ、アメリカ合衆国建国の父祖と仰がれるようになります。
一六二五年にジェームズの後を継いだのは、彼の次男のチャールズ一世でした。チャールズは父以上に王権神授説の信奉者で、「国王は誤りを犯しえない」という確信で専制的な統治を行い、議会との関係を悪化させ、ついに一六二九年に議会を解散します。このような厳しい圧政の下で、政府や教会に対する批判は封じられ、多くのピューリタンが新大陸に移住します。一六四〇年までに二万人を超えるピューリタンがニューイングランドに移住します。スコットランドではすでに長老主義のスコットランド教会が正式に成立していましたが、チャールズはイングランドとスコットランドの両教会を統一するために、カンタベリー大主教ロードの示唆で国教会以上にカトリック的な祈祷書による礼拝を強制します。これに対してスコットランド教会は激しく抵抗し、チャールズはこれを抑えるために戦争を始めますが、繰り返して敗北し、議会を開かざるをえなくなります。その長期議会で、大司教や司教や主席司祭の教会統治を根こそぎ廃止する「根こそぎ請願」が採択され、ロードは投獄されるに至ります。ここに来て一六四二年にチャールズが挙兵して、内戦が始まります。この内戦が、ピューリタンの改革運動を「ピューリタン革命」にします。

ピューリタン革命・王政復古・名誉革命

この内戦は、一方の側には主教制と祈祷書に代表される国教会と国王が専制政治的な形で存在し、他方には長老派と独立派のピューリタンおよび議会が対峙するという形をとります。両者とも宗教的な信念に駆られ、そこに政治が絡んで複雑な様相を示し、多くの破壊行為がなされます。内戦が始まって間もなく、長老派が優位なウエストミンスター会議が招集され、この会議で主教制と祈祷書が廃止され、「ウエストミンスター信仰告白」や大小の「教理問答」が作成され、最終的に一六四八年に承認されます。一方、内戦は始めの頃はよく訓練された国王軍が優位に立ちましたが、オリバー・クロムウェルが再編成して率いる独立派の軍が各所で国王軍を破り、ネイズビーの戦いで国王軍に大勝します。しかしチャールズはその後もピューリタン各派の分断の策略を弄するので、クロムウェルはチャールズが生きている限りは平和はないと知り、ついに一六四九年にチャールズを断頭台で処刑します。
国王の処刑によってピューリタン革命はその極点に達し、共和制の時代が到来します。クロムウェルは王制と上院を廃し、下院の他に国務会議を設置して実権を掌握、イングランドは「共和国にして自由国」であると宣言します。彼は新政府に抵抗するカトリックのアイルランドに侵攻、大虐殺を行います。また、チャールズ二世をかくまったスコットランドに侵攻、スコットランド軍は敗退してチャールズ二世はフランスに逃亡します。クロムウェルの権力の増大を恐れた議会は、軍隊の削減を要求しますが、クロムウェルは議会を解散して「護国卿(護民官)」となり、独裁体制を整えます。彼の軍による専制政治はアングリカンやカトリックだけでなく、ピューリタンの長老派からも嫌われ、独裁政治打倒の声が高まります。そして一六五八年の彼の死と共に護国卿政治は崩壊します。彼の息子が護国卿になりますが、各派の不満を抑えきれず翌年に辞任し、護国卿の独裁政治は終わります。
ピューリタンには、前述の長老派や会衆派やバプテスト派の教会だけでなく、レベラーズ(水平派)、ディガーズ(真性平等派)、安息日厳守派、アダム派など、多くの分派が出現しました。これらの分派は共通して制度的教会を嫌い、熱狂主義的であり、独善的・排他的で、時には千年王国思想(後述)などで過激な方向に向かうものもありました。ピューリタンの改革運動は、全体として見ると大陸の再洗礼派のように、宗教改革の徹底を目指しているのですが、中には極端な部分の絶対化の誤りに陥るものもあったようです。それらの多くの分派の中で、ジョージ・フォックスが創始したクエーカー派は、現代にも大きな意味のあるキリスト信仰の重要な一面を残しています。フォックスは一六四三年以後四年間の求道と六年間の伝道(その間二回投獄)のあと、イングランド西北部に行きそこでクエーカー運動を開始します。それは当時政治運動と化していったピューリタン主流と異なり,静寂の中で神を待ちのぞみ、深く内面的な体験によって「内なる光」を感受し,そこに救済を見いだすことを目ざすものでした。この霊的体験をした時に全身が震えたという体験から、この派は「クエーカー(震える人)」と呼ばれるようになったのですが、彼ら自身はその集会を「友の会」と呼び、「キリスト友会」とか「フレンド派」という呼称が広く行われています。彼らの集会には特定の形式がなく、特定の牧師もなく、祈りも賛美も各人が霊の導きのままに行うというもので、神の前での平等、暴力否定、心情の純粋さで最も徹底していました。それだけにどの制度的な教会からも迫害を受け、共和制時代にも多くの教徒が投獄されています。彼らのいっさいの儀式などの伝統的外枠をとり除き,霊的な境地において真理をとらえるというスピリチュアリズムは、ピューリタン革命とそれに対する王政復古などの社会的激動の嵐をのりこえて広まります。その後継者の一人ウイリアム・ペンは、海軍提督の父親から受け継いだアメリカ植民地の広大な森林地帯をこの派に提供し、このペンシルヴァニア(ペンの森)にクエーカーの理想都市としてフィラデルフィアを建設します。このクエーカー都市が、アメリカ建国の重要な舞台となるのです。日本でも新渡戸稲造など少数のすぐれた人物がこの派に属しています。クエーカーは今日では平和主義者として知られ,社会改革にも熱心です。
クロムウェルの失脚後、イギリスの大勢は王制の復活を望むようになり、大陸に逃亡していたチャールズ二世はオランダのブレダで王位を宣言し、一六六〇年に民衆の歓呼に迎えられてロンドンに入ります。イギリスは王制に戻り、王政復古が実現します。宮殿では国教会と長老派の融和のために会議が開かれますが、多くの法律ですべての文官と軍人は国教会に忠誠を誓うことを求められ、結局非国教徒を窮地に追い込みます。チャールズ二世もカトリックでしたが、彼の後を継いだ弟のジェームズ二世もカトリック教徒としてイギリスの再カトリック化を図り、政府や軍の要職にカトリック教徒を据え、イエズス会士やドミニコ会士らを引き入れます。一六八七年に「信仰寛容宣言」を発していますが、これも実際はカトリック教徒に国政への参加を自由にするためでした。ジェームズの統治が専制的になると共に、主教たちをはじめ、議会と国民の不満は募ります。そしてついにジェームズの専横に憤慨した議会は、王女メアリとその夫であるオランダのウイレム公に救援を求めます。一六八八年にウイレムがロンドンに入城すると、ジェームズはフランスに逃亡し、二人はウイリアム三世とメアリ二世として共同統治者となり、ただちに「権利章典」を制定して、将来のイギリス立憲政治の基礎を築きます。さらにその後に発布された「信仰寛容令」は、なお国教優先の寛容令でありましたが、それでもそれまでの寛容政策の中では最善のものとなります。この変革は、ジェームズが国外に逃亡していたために、流血や混乱なく行われたので「名誉革命」と言われることになります。
このようにイギリスの宗教改革の歴史を振り返ると、それは上からの宗教改革、すなわち王権がローマカトリックの支配から離脱しようとするヘンリー八世の教会制度改革から始まりました。その改革はイギリスにローマカトリックから独立したイギリス国教会制度をもたらしましたが、人々の宗教そのものを内側から改革するものではありませんでした。キリスト教会がその内に保持する福音の生命的な活力によって、下からの宗教改革、すなわち人間の内面のキリスト信仰そのものの変革から生まれる改革は、イギリスにおいてはピューリタンの改革運動に現れれました。この下からの内面的な信仰の自由を追求する改革の動きが、時代の政治的改革と絡んで、時には革命運動となって流血と混乱を招くこともありましたが、大筋においては政教分離や立憲主義などの原理を人類社会にもたらし、将来の人類の歴史に大きく貢献することになります。とくにこのピューリタン運動からアメリカ合衆国が誕生し、ピューリタンの理念を持つ大国として世界の歴史に大きな役割を果たすことになります。次の項において、このアメリカ建国の意義を少し見ておきたいと思います。

アメリカにおけるキリスト教

コロンブスが一四九二年に新大陸を発見して以来、ヨーロッパ諸国は新大陸に植民地を獲得するために激しい競争を繰り広げていました。南米はカトリックのスペインとポルトガルの二国が、北米はイギリスのほかヨーロッパの主要な国がこぞってこの競争に加わっていました。イギリスはすでにジェームス六世の時代の一六〇七年に国教会のイングランド教会がヴァージニアに移植され、また国教会の牧師に率いられた一団が入植してジェームスタウンを建てていました。これは一六二〇年にピューリタンがメイフラワー号でアメリカに渡るより前に始まっており、その一六二〇年頃には議会が組織され、イギリス国教に所属することが義務化されていました。メイフラワー号のピューリタンたちはプリマス植民地を建設することになりますが、そのニューイングランドには一六四〇年までにチャールズ一世の圧政を逃れた二万人を超えるピューリタンが移住してきます。アメリカ東海岸のニューイングランドには、一六四〇年代にマサチューセッツ、プリマス、コネティカット、ニューヘヴンの四つの植民地ができており、そこにある五〇の教会の代表者たちがボストンの西にあるケンブリッジに集まって教会会議を開き、一六四八年に会衆派の憲章とも言える「ケンブリッジ憲章」を採択しています。この憲章は「ウエストミンスター信仰告白」を基礎として作成されていますが、それが信仰の基準としてどれだけ厳格に適用されたかはわかりません。しかしマサチューセッツ植民地では、それに違反する者は厳しく処罰され、ジュネーブ市政のアメリカ版というべき神政政治的な統制が行われます。マサチューセッツ植民地の中心都市ボストンのカルヴァン派は、一六六三年までの十数年間に十数人の女性を「魔女」として処刑しています。とくに一六九二年の「セイラムの魔女狩り」は有名で、三ヶ月の間に二〇人が犠牲になっています。これはニューイングランドの輝かしいピューリタンの歴史に拭いがたい汚点を残すことになります。
ヨーロッパ大陸の宗教改革急進派である再洗礼派にも、黙示録の字義通りの解釈から、地上に千年間のキリストの直接支配を待ち望むミュンツァーらの「千年王国」思想が起こり、それが過激化してミュンスターの悲劇を招きます。イギリスのピューリタンの中にも「千年王国」思想があり(ミード)、宗教改革においてはローマカトリック教会を反キリストとして戦うものが、イギリスにおいては国教会を反キリストとして戦う思想となり、ピューリタン革命の土壌となります。ピューリタン運動も、国教会の体制内で改革を志す「長老派」と、国教会から出て自分たちの理想を実現しようとする「独立派」に分かれますが、この独立派の中に強力な千年王国論者(グッドウィンら)が活動し、革命運動を牽引します。クロムウェルに率いられた独立派議会軍が勝利して、一六四九年に国王チャールズ一世を処刑するに及び、ピューリタン革命は頂点に達します。このピューリタン革命は、政治的・社会的・経済的要因から観察されることが多いのですが、千年王国思想を理念とした宗教的動機が重要な要因であったことが近年見直されています。当時すでに信仰の新天地を求めて新大陸に移住したピューリタンが多くいましたが、移住先のニューイングランドにもコトンのような強力な千年王国論者が現れ、本国のピューリタンを励まします。このニューイングランドの千年王国思想が、後のアメリカ独立革命の底流となっていると考えられます。

ピューリタン革命と千年王国思想との関係については、岩井淳『千年王国を夢見た革命―一七世紀英米のピューリタン』(講談社)を参照してください。

このようにニューイングランドに入植したピューリタンが様々な歴史を歩んでいる中で、やはり特筆すべきはペンシルヴァニアのクエーカー植民地でしょう。先にジョージ・フォックスが創立したクエーカー派の信仰とその苦難、彼らのペンシルヴァニア植民地の成立については簡単に触れました。クエーカー派のウイリアム・ペンが父親の提督から受け継いでいた新大陸の広大な森林地帯に到着したのは、一六八二年のことでした。ペンはそこを同名の父の名にちなんでペンシルヴァニア(ペンの森)と名付けます。ペンはこの地にヨーロッパでの迫害に苦しむクエーカー教徒を招きます。最初の二年間で三〇〇〇人以上のクエーカー教徒が入植したと伝えられています。最初の植民集落、後に首都となる町にペンは「フィラデルフィア(兄弟愛)」という名を与えます。この名は、軍隊も警察もなく、支配するのは強制力ではなく愛だけであるというペンの信仰と理想を端的に表現しています。それは移民の間だけでなく、インディアンに対しても同じで、到着して早々の一六八二年にはインディアンとの間に平和条約を結んでいます。 このようなペンシルヴァニアには、ヨーロッパ中から宗教的迫害に苦しむ人たちが集まってきます。クエーカー教徒だけでなく、ルター派もカトリック教徒もやってきます。ここでは教派の別なく、みな同じ権利が与えられていました。クエーカー教徒の自由と愛、善良、誠実、勤勉の生活倫理は、ペンの死後も受け継がれ、一八世紀以後のペンシルヴァニアを大いに発展させます。次の時代ではベンジャミン・フランクリンがその思想を代弁することになります。こうしてペンシルヴァニアは各派の多くの移民を受け入れて発展し、その首都フィラデルフィアは、アメリカの独立に際して大きな貢献を果たすことになります。
一八世紀に入ると、このような宗教的自由なペンシルヴァニアには、ヨーロッパの各派が入植して、クエーカー教徒を超えるようになります。イギリスの長老派教会もここで発展します。アイルランド長老派は、非友好的なニューイングランドのイギリス人を避けて西の山岳地帯に入植します。長老派教会はその数を増やし、フィラデルフィアで教会会議を開くまでになります。ドイツ系の諸派もこの地方で発展します。最初に来たのはオランダの再洗礼派メノー・シモンズの信仰を受け継ぐメノー派でした。彼らの信仰はクエーカー派に近く、両派は良好な協力関係を保って発展します。アーミッシュと呼ばれる人たちもメノー派の一分派です。続いて入植してきたドイツ人は、ボヘミアのフスの系統のモラビア兄弟団のドイツ派というべきヘルンフート兄弟団でした。クエーカーやこれらの兄弟団は、体制的な教会制度を軽視する分、福音を宣べ伝えることに熱心で、インディアンや黒人奴隷への伝道に大きな成果をあげます。ペンシルヴァニアで大きく進展したドイツ系諸派の中では、ルター派が目立ちます。一七四〇年代からドイツからの移民が急増しますが、これはドイツを荒廃させた三十年戦争の影響でしょう。この時期にペンシルヴァニアに来たドイツ移民は四万人に及びます。彼らの多くはルター派でしたから、各地にルター派教会が生まれ、ミューレンベルク牧師の指導で一七四八年には最初の教会会議を開いて、公式の礼拝式文を採択するにいたります。彼の三人の子息も牧師として、また学者や議員として学会・政界でも活躍し、初期のアメリカ社会にルター派の存在を根付かせます。
一八世紀はアメリカ建国の歴史とアメリカのキリスト教の歴史にとって大きな転換の世紀となります。一七世紀にピューリタン革命、王政復古、名誉革命を経たイギリス本国は、一八世紀には政局は安定し、重商主義政策が進められるにともなって、アメリカの会社経営方式による植民地は次々に王領地に変更されて、国王任命の総督に支配されるようになります。一七六二年までに一三植民地のうち、八つまでが王領地になっていました。この一八世紀の中頃には、本国のイングランドではジョン・ウェスレーのメソディスト運動が始まっており、多くのイギリス人が福音主義的な信仰の覚醒と復興を体験するようになっていました。ウェスレーはイギリス国教会の聖職者でしたが、アメリカの植民地での活躍を志しての渡航中にモラビア派の人たちと知り合い、彼らの信仰に強く惹かれます。アメリカでの伝道活動に挫折したウェスレーは、 帰国後もモラビア派の集会と交わり、一七三八年にその集会で彼が自分の「回心」とする霊的体験をします。彼はその体験において、キリスト信仰によってのみ救われるという確信を得て、宗教改革的霊性の大転換を体験します。その後も彼はツィンツェンドルフをはじめモラビア派と親交を深めます。三五歳の時から馬上の旅を開始し、イングランド、スコットランド、アイルランドの各地で福音を告げ知らせる運動を精力的に進めます。彼は終わりまで国教会の聖職者として、福音信仰に目覚めた人に国教会にとどまるように勧めますが、彼の運動は全体として分離主義に傾いてきます。ウェスレーはキリスト信仰における完全を追求し、愛において完全であることを求めました。また、信仰によって救われるとの宗教改革の信仰に固く立っていましたが、カルヴァンの予定説よりもアルミニウスの立場に親近感を覚えていたようです。
その頃アメリカのニューイングランドにも大きな信仰覚醒の運動が広がっていました。ジョナサン・エドワーズはマサチューセッツの会衆派教会の牧師でしたが、その厳格なカルヴィニズムから当時には富裕になって信仰的に弛緩した信徒や、東部で支配的であったアルミニウス主義を批判する熱烈な説教活動を行い、一七三〇年代に多くの聴衆を集める信仰復興(リバイバル)の運動を進めます。ウェスレーの感化を受けて、一七三六年に一緒にジョージア植民地にやって来たジョージ・ホィットフィールドは、いったん帰国して一七三九年に再来します。彼はエドワーズと協力して信仰復興運動に励み、彼の活動範囲はエドワーズよりも広範囲に及び、北はマサチューセッツから南はジョージアまで、西は遠くケンタッキーまで及び、多くは野外で説教を行いました。フィラデルフィアでは六万人の聴衆が集まったと言われています。一七七四年から四年間、再びニューイングランド説教活動を行い、ニューイングランドの「大覚醒」と呼ばれる宗教的高揚に大きな役割を果たします。彼はアメリカのカルヴァン主義メソディスト派の創立者と見られています。この運動が幼児洗礼肯定的であったのでやや距離を置いていたバプテスト派も、この運動の余波のおかげで教会員を一〇倍にしたと言われています。こうして一八世紀中頃に起こったこの「大覚醒」運動は、国教会左派のメソディスト派から長老派と会衆派に及び、クエーカー派にいたるほとんどの教派を含み、プロテスタント諸派の連帯感を強め、各植民地間の政治的対立を緩和し、すぐ後に始まるアメリカ独立戦争の時に、困難に耐え抜く大きな力となります。この大覚醒の運動は多くの回心体験を生み、アメリカの霊性を深めると共に、アメリカ神学の発展に寄与し、ニューイングランド神学を生み出すことになります。
イギリスの植民地である東部十三州は、本国からの厳しい統制に対抗して、一七七五年ついに母国からの自由を目指して独立戦争を開始、一七七六年に「独立宣言」を発します。ここにアメリカ合衆国という一つの国家が誕生します。この国は宗教の自由という原則を最初に達成した国として、世界史上きわめて重要な意義をもっています。もともとアメリカは移民の国です。後には世界の各地から様々な宗教の移民を迎えますが、当初はキリスト教のヨーロッパ諸国からの移民によって構成された国家です。そのアメリカがキリスト教の国となるのは自然の勢いです。とくに中心的な位置を占めるのは、イギリスから信仰の自由を求めて移ってきたピューリタンの移民です。もちろん新大陸への移民には、未開の土地での富の獲得や蓄積という動機や目的が大きかったことは事実です。しかし、その移民のほとんどすべてがいずれかのプロテスタント・キリスト教の教派に所属していました。しかし母国から遠く離れた広大な大陸では、どの教派も他を圧倒する体制的教会にはなりえず、共存しなければなりません。とくにピューリタンのように非体制的な勢力が大きな影響力をもち、ペンシルヴァニアに見られるように多くの教派のキリスト教が共存して協力することが普通になっているのですから、その新大陸に誕生した新しい国が、他者の宗教を尊重して互いに認めることは当然です。事実、この国は建国間もなく一七八七年に憲法を制定して、国教会の存在を否定、すべての教派は法の前には平等であり、任意団体として存続すると定めます。ここにコンスタンティヌス大帝以来キリスト教世界に続いてきた国教会体制を、明文の憲法で拒否する国家がはじめて地上に出現したのです。これは「アメリカ革命」と言ってもよい世界史上の革命です。
確かに宗教改革は、ローマ・カトリック教会によって統合される諸国家の統一を脱して、各地域に宗教を選ぶ権利を認めました。しかしそれは、ある社会に生まれた者は自動的にその社会の宗教に属するものとなるという体制的宗教制度の、社会の単位を帝国とか国家から領邦とか州という単位にしただけで、この国教的体制宗教の原則を変えるものではありませんでした。ヨーロッパ大陸では再洗礼派の中で、そしてイギリスにではピューリタンの中で、目覚めた個人の自覚的な選択によって共同体を形成するという原則が確認されたのです。なお依然としてコンスタンティヌス体制の中にいる当時のヨーロッパでは、再洗礼派やピューリタンの目標はあまりにも急進的すぎるとして迫害されたのですが、新天地アメリカでやっとその先進性が認められて、実際の歴史の中に、様々な人間的弱さや限界に取り囲まれながらも、やっと国家としての形を現したと言えるでしょう。大袈裟に言えば、人類の歴史において太古の昔から人間社会の当然の姿とされてきた祭政一致とは別の在り方を切り開いたのです。この祭政一致は、キリスト教の歴史においてはコンスタンティヌス体制という形で続いてきており、それは宗教改革においても宗教が統合する社会の単位を変えただけで続いていたのです。それがアメリカ革命によってはじめて、コンスタンティヌス体制を克服した国家、近代国家が誕生したのです。宗教を選ぶ個人(その中にはどの宗教も選ばない自由も含まれます)が、宗教とは別の原理で共同体を形成する時代を切り開いたのです。

W カトリックの改革運動と世界伝道の開始

トリエント公会議とカトリシズム復興

中世後期のカトリック教会の衰微と堕落は明らかであり、カトリック教徒にも改革の必要は痛感されていました。とくに霊性の深みを追求する司祭や修道士が、カトリック教会の改革を目指して様々な活動を進めていました。ルターの改革もその中の一つでした。ルターが一五一七年にウィッテンベルグの城教会に「九五箇条提題」を掲げた時、それはカトリック教会の改革を目指したものでした。しかしその改革は、カトリック教会からの破門に至る圧迫と当時のドイツ諸侯がローマの支配からの離脱を欲していたという政治的な理由から、ローマカトリック教会の存在を否定して別の教会を形成するという改革になっていきました。その改革はヨーロッパ全体に及び、宗教改革の時代を呼び起こしました。しかし、カトリック教会側も改革の必要は十分感じており、カトリック教会をその内部において改革しようとする自己改革の動きは様々な形で始まっていました。修道院や修道会の改革や共同生活兄弟団、さらに『イミタチオ・クリスティ』というような霊性改革の神秘主義的な修練書も多く現れ、改革の気運は熟していました。イエズス会の設立もその一つですが、これは後で別に扱います。
このようなカトリック教会内の改革の全体を、教皇庁自体がまとめるために公会議が招集されます。それがトリエント公会議です。この公会議は一五四五年から一五六三年に及ぶ長期の会議となり、カトリック教会の教理の確定と教会諸制度の改革の二つが行われました。教理に関しては、真理の源泉として聖書だけでなく、教会によって伝えられた聖伝も対等の権威とされます。ラテン語のウルガタ聖書の権威が認められ、教会だけがその解釈の権利を持つとされます。プロテスタントの「義認」に対して、単に罪の赦しだけではなく、聖化と内的更新を含む「義化」が強調されます。サクラメントについては中世以来のカトリック教会の七つのサクラメントがすべて認められ、聖餐についてはパンとぶどう酒がキリストの肉と血に変化するという実体変化説と、それがキリストの十字架の犠牲の再現であるとするミサ聖祭が承認されます。こうしてこのトリエント公会議は、プロテスタント宗教改革に対してカトリック教会が与えた回答として、カトリックの対抗改革の宣言となります。
ヨーロッパに宗教改革の波が押し寄せていた一六世紀の半ばから一七世紀にかけて、カトリックの側でもトリエント公会議の後も歴代の教皇は上からのカトリック教会の改革を進め、下からも修道院や修道会の中から神秘主義的な霊性の改革運動が盛り上がってきます。たとえばスペインのアビラのテレサは、同地のカルメル会所属の修道院に入り、一五五四年のある日に神秘的なキリスト体験をして修道生活を深め、一五六二年に教皇から改革修道院設立の認可を受けて、同じスペイン人の十字架のヨハネと呼ばれる神秘家との協力で、「跣足カルメル会」と呼ばれる多くの修道院をスペインに創設します。これらの修道院から神観想のカルメル会的霊性がヨーロッパのキリスト教世界に広がります。このように宗教改革運動に刺激されて、カトリック側にもカトリシズムの復興とも呼ばれるような信仰復興が起こり、ヨーロッパにキリスト教信仰に根ざす芸術が花咲きます。絵画ではティツィアーノ、ルーベンス、エル・グレコ、音楽ではパレストリーナ、文学ではセルバンテスらです。しかしこの時期には、カトリック教会の教義的な締め付けも厳しく、ジョルダーノ・ブルーノをコペルニクスに賛同してカトリック教義に反する哲学を唱えたとして磔刑に処し(一六〇〇年)、ガリレオ・ガリレイを宗教裁判にかけ(一六三三年)、地動説の撤回を迫るなど、近代化の動きにブレーキをかける動きも見せています。

イエズス会の活動

このカトリック教会の対抗改革の中で、イエズス会の設立とその活動が重要な要素となります。イエズス会の創立者イグナティオス・デ・ロヨラは一四九六年にスペインのバスク地方のロヨラ城で貴族の子として生まれています。この当時のスペインは、イベリア半島からイスラム勢力を追い出して半島全体の支配を回復する、八世紀に及ぶレコンキスタ(再征服)と呼ばれる国土回復戦争を一四九二年に成し遂げたばかりで、政情はまだ不安定な時期でした。この国土回復戦争の過程でスペインとポルトガルの両国家が成立し、イベリア・ナショナリズムが生まれるのですが、このイベリア半島はカトリックの牙城としてヨーロッパのキリスト教史に大きな役割を果たしています。そこで、ここで少し立ち止まってイベリア・カトリシズムの歴史を振り返っておきましょう。

ヨーロッパ大陸の西南端のイベリア半島には、六世紀の民族大移動の時代に西ゴート族が移住してきて国を立てますが、この時までにローマ帝国に確立していたキリスト教を受け入れ、キリスト教国としての西ゴート王国が成立します。その宮廷は五六〇年以来トレドに置かれます。トレドは四〇〇年にイベリアの全キリスト教会が司教会議を開いて以来の古都で、王国の首都として西ゴート王国の時代にはイベリア全土の中心地となります。ここで教会会議も一七回開かれ、トレドの司教座はイベリア全土の首都司教座として聖俗両界に君臨します。そのキリスト教王国も七一一年にはジブラルタル海峡を超えて侵入してきたイスラム勢力に敗れて滅びます。イスラム勢力はコルドバを首都として、イベリア半島の東部と南部を支配します。彼らはその支配地域を「アル・アンダルス」と呼びますが、これはバンダル人の地という名から出ており、後にスペイン南部の「アンダルシア」という地名になります。イスラムのアル・アンダルス支配は長く続きますが、北部のキリスト教スペインには一一世紀にカステリア王国とアラゴン王国が成立、トレドやリスボンを奪回、優位に立ちます。北部と西部のキリスト教スペイン諸国は国土回復のために長い戦いを続け、ついに一四九二年にイスラム最後の拠点グラナダを落としてレコンキスタを完了します。グラナダにあったイスラム最後の王朝の宮殿遺構が有名なアルハンブラ宮殿です。
このような経緯から、イベリア半島は古代から中世にかけてカトリック・キリスト教が力を注いできた地であり、宗教改革の波はピレネー山脈を越えてイベリアには及ばず、イベリア・カトリシズムは宗教改革前後にはローマ・カトリック教会の忠実な擁護者として対抗改革の先頭に立ちます。先にスペイン出身のドミニクスが托鉢修道会のドミニコ会を立ち上げ、学問を尊重してトマス・アクィナスらの神学者を輩出して、カトリック教義の確立に貢献しています。カトリック教会が異端審問を開始した時、教皇直属の異端裁判所の審問官に多くのドミニコ会士を登用しています。結婚によってアラゴン王国とカステリア王国を統合して、イスラム最後の拠点コルドバを落としてレコンキスタを完成した両国の王には、教皇から「カトリック王」の称号が与えられ、二人は絶対主義国家の統治機関の一つとして異端審問制を強化します。その苛酷さで有名な大審問官トルケマダのもとで、スペインの異端審問制は類例のない強大な権力を与えられ、新大陸の植民地を含む大きな領土で、カトリック信仰擁護のイデオロギー機関となります。このようなイベリア・カトリシズムの霊的雰囲気と宗教改革の歴史的背景からすると、共にスペイン出身のイグナティウス・デ・ロヨラやその同志のフランシスコ・デ・ザビエルらがイエズス会を設立して、「より大いなる神の栄光のために」というモットーのもとに、異端を根絶し、異教徒を回心させ、説教、教理教育、愛徳事業を通じて、キリスト教を広めることの上に、教皇への絶対服従を修道会誓願の最上位に加えたのも理解できます。

さて、イグナティウス・デ・ロヨラは貴族の一員として軍人となり、若い時にはかなり奔放な生活をしますが、従軍したとき重傷を負い、長い療養のあと回復してロヨラ城を去り、モンセラート修道院に入ります。その後の祈りの生活と極端な禁欲生活の中で、神秘的な体験をしてその生涯を神の栄光と教会への奉仕に捧げます。そのときの体験をもとに彼は『霊操(心霊修行)』の大半を著しています。彼は一からラテン語を学び、各地の大学を経て最後にパリ大学に入り、そこで七年間、哲学と神学を学び、一五三五年にはマギステルの称号を得ています。パリ大学はカルヴァンも学んだ大学であり、カルヴァンと仲間たちがミサに対する攻撃を開始したのと同じ年に、イグナティウスは彼の『霊操』に導かれた六人の仲間と堅い団結を誓っています。その仲間の一人がフランシスコ・デ・ザビエルです。彼もスペインのある城主の子ですが、パリ大学で学んでいるときに、ある戦場で一緒だったイグナティウスと会い、その誓約に加わることになります。彼らは一人を除いてみな司祭の叙階を受けます。イエズス会はキリストとその地上の代理者である教皇のために戦う軍隊的な集団であり、彼らは一五四〇年に教皇からの認可を受けて、正式に聖職者修道会の「イエズス会」が発足することになります。
イエズス会に入って「会士」となるには、二年間の修練期間を経た後、清貧、貞潔、従順の三誓願を立てるのですが、それには終身の総会長(初代はイグナティウス)への絶対服従も含まれます。会士にも四つのクラスがあり、三誓願の上に教皇への絶対服従の誓願を立てるクラスが最高位を構成して、管区長や総会長に選ばれる資格を持ちます。イエズス会士はその目的に向かって多方面に活躍します。諸侯・貴族の告解霊父、顧問、教師となる者、イエズス会は学問や教育の領域では、学者として研究に専念する者、教育の分野で諸大学や学校の教師として活躍するする者、教会で一般信徒の告解霊父として働く者、さらに宣教師として海外で活躍する多くの会士が出ます(後述)。このような多方面の活動により、イエズス会士は次第にカトリック教会内の一大勢力となり、トリエント公会議後のカトリックの反宗教改革活動の担い手となっていきます。

世界伝道の開始

航海術の発達にともなってヨーロッパ人の航路開発は拡大し、一四九二年のコロンブスによるアメリカ大陸発見、一四九八年のヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見などによって、ヨーロッパ人の海外の富に対する欲望は急速に高まっていきます。一六世紀は宗教改革の世紀であると同時に、ヨーロッパの海外進出、植民地主義開始の世紀となります。プロテスタント側は改革運動の確立に専心しなければならない状況にあり、海外進出は一七世紀になってイギリスのピューリタン諸派とヨーロッパ諸国の迫害されているプロテスタントが宗教の自由を求めて北アメリカに入植しただけで(前述)、少数の人たちの自分たちの信仰と教会の確立に止まっていましたが、カトリック側は宗教改革によって失った支配領域の失地回復の動機も重なって、海外進出、すなわち海外宣教の熱意に燃えていました。いずれの側もキリスト教の海外進出は、植民地主義と複雑に絡み合って進められることになります。
植民地獲得の先頭を切ったカトリックの国スペインは、キリスト教の海外進出でも先頭を走り、すでに一五〇〇年にフランシスコ会士によって、後にドミニコ会士も加わって西インド諸島に伝道を開始、司教座を設置するにいたっています。同時にスペイン政府が開始し、組織的に行われるようになった黒人奴隷の導入による奴隷制度を批判して、ドミニコ会士のカサスが現地人の保護を求める活動をして、ついに一五四二年に「インド新法」を公布させ、「西インド諸島の使徒」と呼ばれるようになっています。一五二四年に「征服者」コルテスに占領されたメキシコには、ヨーロッパから多くの修道士が渡ってきて多数の修道院を建設、一五四〇年頃までにメキシコを始め中南米諸地域に数百万の改宗者を得たと言われています。わずか一八〇人の軍を率いてインカ帝国にやってきたスペインの将軍ピサロは、南米の太平洋沿岸(現在のペルーの地)に国を立てていたインカ帝国を、数年かかって一五三四年に策略をもって滅ぼし、リマに新都を建設します。こうして中南米と南アメリカ大陸の西部はスペインの支配下に入ります。当初は内紛などで混乱もありましたが、一六世紀末にはほぼ教会組織も固まり、リマ大司教の管轄の下に多数の司教区が形成されます。この地域の教会は原住民インディオの改宗にも熱心で、リマ大司教の中には長年インデオの集落をめぐってキリスト教を伝え、「インディオの使徒」と呼ばれる者もありました。この地域には多くの修道会の会士が活躍しましたが、中でもイエズス会士の増加が目立っています。
東部のブラジルは一五〇〇年に発見されていましたが、おもにポルトガルからの入植者が多く、その軍人や商人の無法な争いで混乱し、スペインやイタリアからのフランシスコ会士の伝道は成果を上げることはできませんでした。その中でもイエズス会士の働きは目覚ましく、インディオの保護区を設定したり、奴隷制度を廃止したりして活躍します。教皇は一五七二年にポルトガルの全教会収入の三分の二をブラジルと日本伝道に当てるように指令を出し、以後ブラジルの伝道はおおいに進捗し、インディオのキリスト教徒は大幅に増加します。中でも一五五三年にやって来て四〇年以上にわたって伝道、教育、著述に活躍したポルトガル人イエズス会士のジョーゼ・デ・アンキエタは「ブラジルの使徒」と呼ばれるようになります。ブラジルは今もラテンアメリカで唯一のポルトガル語を使う国です。こうしてラテンアメリカはスペインとポルトガルの植民地となって、宗教的にはカトリックの支配領域となります。

イエズス会の海外宣教でわれわれが注目すべきは、やはりフランシスコ・デ・ザビエルの日本伝道でしょう。ザビエル(彼は日本ではこう呼ばれています)は、スペインのナバラ王国の名門貴族の生まれで、はじめは軍人を志し、この王国をめぐる紛争で戦争に参加して重傷を負います。その後パリ大学に留学、高位聖職者を目指しますが、そのパリ大学に来たイグナティウス・デ・ロヨラと出会い、ロヨラを中心に創設された新修道会イエズス会に同志として参加、終生イエズス会士としてキリストと教皇のために尽くします。一五四一年に東インド布教にイエズス会士の登用を決めたポルトガル王の要請に応え、ザビエルは教皇特使としてインドに赴き、インドのポルトガル植民地ゴアを中心にインド半島沿岸、セイロン島、マラッカなどの地域に精力的に伝道します。一五四七年にマラッカで日本人アンジローに出会って日本行きを決意、翌年の一五四九年に数名のイエズス会士を伴ってアンジローの出身地鹿児島に到着、それから二年余りの短期間に鹿児島、平戸、博多、山口を経て、京都、豊後を訪れ、千名ほどの改宗者を得て、日本開教の志を果たします。彼は藩主らと会って説得し、その支配地域にキリスト教を広める方策をとっています。その日本滞在中に、日本人がその宗教や文化を中国に学び、中国を崇拝していることを見て、日本伝道の完成には中国伝道が必要であることを痛感、中国伝道を志します。彼はいったんゴアに戻り、準備を整えて広東付近の上川島に上陸しますが、そこで熱病に倒れて、一五五二年に四七歳で病没します。彼の死の三〇年後、一五八二年にイタリア人イエズス会士のマテオ・リッチがマカオに到着、中国に入って中国伝道を開始します。ザビエルのインドと日本での活動は、イエズス会の海外伝道の一環として、また日本におけるキリスト教の出発点として、きわめて重要な意味を持っていますが、それがキリストの福音をはじめて日本に告知した活動であるとともに、同時にカトリック・キリスト教への改宗運動であった点に深い問題をはらんでいます。この点については項を改めて論じることになります。