市川喜一著作集 > 第24巻 福音と宗教U > 第27講

第三節 悟りの知恵と信仰

日本の禅仏教

この附論は「福音と仏教」と題していますが、実際は大乗仏教文化圏の日本に福音を宣べ伝えようとする時の問題を主な関心事としています。インドに起こった釈迦の仏教の中に大乗仏教運動が始まり、それが北伝東漸してチベットと中国に伝わり、大乗仏教国となった中国の仏教が朝鮮半島を経て日本まで伝わったわけです。日本は中国の漢訳仏教をそのまま受容して、大乗仏教の宗教文化を形成してきました。その際、同じ大乗仏教といっても、奈良・平安時代の鎮護国家を目指す支配階級の国家仏教と、鎌倉時代以降の選択主義によって改革された庶民仏教とでは、その性格が大きく違ってきます。もちろん奈良平安期にも庶民の救済に向かう仏教運動はありました。しかし、本書の附論第一章第三節「日本の宗教史」の項目W「鎌倉仏教 ー日本における宗教改革」で述べたように、鎌倉時代に起こった改革運動は仏教を一気に庶民の宗教とし、国民の全体を仏教の民とするようになりました。鎌倉仏教は日本における宗教改革の運動でした。その改革運動の中でもっとも大きな流れになったのは、法然・親鸞によって唱えられて大きな運動となった、浄土宗とか念仏宗と呼ばれる阿弥陀仏に対する信仰運動でした。
鎌倉時代の初期に始まった浄土信仰は、法然・親鸞の後の鎌倉中期には、各地を遍歴して念仏を広めた一遍らの活躍によって全国に広がります。しかし、鎌倉後期には日蓮が現れて、比較的後期に成立した大乗仏典の法華経を天台仏教が最高の経典としたのを継承、多くの経典の中から法華経だけを選び取り、法華経を唱え行じることを至高の仏道だと主張します。その立場から日蓮は、阿弥陀仏だけを選び取り、その名を唱える「南無阿弥陀仏」の口称念仏を激しく非難、代わって法華経への帰依を唱える「南無妙法蓮華経」の題目を提唱します。こうして法然を宗祖とする浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍が開いた時宗の浄土系宗派と日蓮の法華宗は真向から対立するように見えますが、複雑な教理論争や高度な儀礼法要、深遠な悟りを追求する修行などを必要とする聖道門を退け、この世で生活する誰にでもできる念仏や題目という「易行」による救済を唱えたことにおいて共通しています。これは「人は誰でも、宗教的な行為や価値が何もなくても、ただ信仰によって救われる」という宗教改革の原理の日本版です。こうして鎌倉仏教は日本における宗教改革を成し遂げます。
ところがこの宗教改革的な運動が進んだ鎌倉時代に、念仏とか題目の易行道の仏教とは別のタイプの仏教が並行して進展していきます。それは栄西が中国から伝えた臨済宗と、同じく道元が中国から伝えた曹洞の禅仏教です(中国の禅仏教については本書四六二頁を参照)。禅宗は、難しい経典の理解や解釈、また複雑な宗教儀礼を必要とせず、個人が直接その内面においてブッダの心に参入することを説くという点で易行門の一つであるとも言えますが、その悟りの境地に入るために厳しい座禅の修行を必要とする点で、念仏や題目の信仰による救済を唱える浄土宗や日蓮宗とは別のタイプの仏教だといえるでしょう。禅仏教の臨済宗と曹洞宗は、鎌倉時代とそれに続く室町時代に新興の武士階級に広く受け入れられ、臨済宗は鎌倉と京都にそれぞれ鎌倉五山、京都五山と称せられる五つの禅寺を建てて、時代の宗教文化を主導するだけでなく、「わび、さび」というような独自の美意識の源流となって、その後の日本文化に大きな影響を残します(日本の禅宗については本書四九四〜四九六頁を参照)。

仏教の基本的教説 ー 縁起と空

仏教の中で、すなわち創造者なる神を立てない仏教の中で、人間の救済を根拠づける試みが様々な仕方で試みられてきました。インドでは阿弥陀仏を信仰する浄土系の信仰の後に密教が起こって、それが中国に伝えられ、さらに日本にも伝えられて平安時代の仏教を主導します。密教は大乗仏教の一つの到達点として現れた多くの「ほとけ」たちのシステム化を図り、大日如来を頂点とする諸仏の宇宙を形成します。それを象徴する図像が「マンダラ」です。諸仏の統合という統一性と、加持祈祷の密儀宗教としての仏教が朝廷や貴族階級に受け入れられて、律令統一国家の平安時代に鎮護国家の宗教として尊重されます。平安時代の密教のうち、高野山を拠点とした空海は、もともとはバラモンの真言《マントラ》信仰を核とする純粋な密教である真言宗を形成しますが、比叡山を拠点とした最澄は天台密教を教えるだけでなく、大乗仏教の各派の経典を学ぶ総合大学の方向を目指し、法華経を中心経典とする天台宗を立ち上げます。実にこの比叡山から鎌倉期以後の仏教各派が生まれ出ることになるのです。源信、法然、親鸞の浄土信仰の祖師はみな比叡山で仏教を学んだ学僧です。念仏に徹底的に反対した日蓮も比叡山に学び、法華信仰を中核とした天台宗の復興を唱えて活動します。浄土信仰とともに鎌倉室町期以後の日本仏教の主流の一つとなる禅仏教も、天台との共学を唱えた栄西が建てた建仁寺から始まることになります。ここで鎌倉時代以後の日本仏教の主要な潮流の一つとなる禅仏教を見ておかなければなりませんが、その前に仏教の基本になる「空」の思想の性格について考察しておきましょう。
釈迦は解脱に至る道筋として「縁起」を理解するように説きました。この世を存在させ動かしている超越的な神を認めないとしても、この世には様々なことが起こり、その出来事の連鎖の中で人間の生は苦しみに満ち、最後には死に至るという現実は変わりません。釈迦は人間の現実を生・老・病・死の苦であると觀じ、その苦からの脱出の道を説いたのです。その第一歩として、この世の出来事のすべては縁起によっていることを理解するように求めました。縁起というのは、詳しくは「因縁生起」といい、「此生ずる故に彼生ず。此滅する故に彼滅す」という原理、平たく言えば「これによって、あれがある」という原理です。この世の出来事は先行する出来事を原因として、その結果として起こっているのであり、世界の万象は相互関係の上に成り立っており、普遍的で固定した実体というものはないという原理であり、釈迦はバラモン教のブラフマンとかアートマンというような存在の実体性を否定したのです。この縁起の理解が、実体を否定する仏教の「空」の思想を基礎づけることになります。
釈迦は、人間の苦悩の原因は突き詰めると無明(知識の欠如)にあるとして、無明から様々な的外れの行為が生じ、過ぎ去るものへの執着が渇愛と煩悩を生み、その結果生老病死の苦が生じるとしました。このような存在の根源的な苦悩から脱するには、この縁起の法を明らかに理解して(明らめること、諦めるの原意)、過ぎ行く現象に執着することなく、我執の炎が消え去って滅した境地、すなわち「ニルバーナ」(涅槃)の境地に入るように教えたのでした。初期の仏教では、この無明から生老病死の苦が生じる縁起の連鎖が、十二の段階を経ることが説かれて「十二支縁起」という教説にまとめられています。しかし大乗仏教の運動が起こると、人間の心理的過程を詳しく分析する縁起の理解よりも、縁起説の根本にある「空」の思想を説くようになります。その教説は大乗仏教運動の初期に成立した多くの般若経典群に説かれています。
「空」とはある場所にあるものが無いという状態です。電車は人をその中に入れて運ぶ箱ですが、その電車の中に人がいなければ、その電車は空っぽである、空(から)であるといいます。数学で0(ゼロ)という数を使用して、何も無いことの重要な意味を発見したのはインド人だと言われています。仏教がいう「空(くう)」とは、この宇宙にはブラフマンとかアートマン、神とか自我というような永遠に固定した実体は無い、すなわち「空」だという主張です。縁起説というのは、わたしたち人間がこの世で体験する現象界は、ある現象が原因となって、その結果である現象が生起する過程に他ならないとする考え方であって、平たく言えば、この世には常なるものはなく、一切は無常であるということになります。従って、この世のもの、無常なるものに執着するのは、真理を知る智慧の欠如であり、その欠如(無明)から生じる様々な我執が苦悩を生むことになります。苦悩を脱し涅槃に至るためには、何よりもすべては空であるという真理を直観する智慧が求められます。そして、この「空」の智慧を説く経典が般若経典です。
「般若」というのは、叡智とか智慧という意味の原語の俗語(パーニャ)を漢字に移したもので、それに彼岸に達したとか完成したという意味の語(パーラミター)の音訳「波羅蜜多」を付して、「完成した叡智」という意味の漢語で、その完成した叡智の思想を説く「般若波羅蜜多経」とか「般若経」と称する経典が、大乗仏教運動の中で当初から長年にわたって多く生み出されます。その集大成が「大般若経」で、これは六百巻に及び仏典の中で最大のものです。その般若経典があまりにも大きいので、般若経典の心臓部という意味で、仏教の叡智である「空」の思想をきわめて短く要約した「般若心経」が成立し、その玄奘訳が大乗仏教の中国と日本の仏教界に広く普及します。今は「空」の思想の詳細に立ち入ることはできませんので、この般若心経が説くところに従って、仏教の根本思想である「空」について簡単に触れておくことにします。
このきわめて短い般若心経の中に、「色はすなわちこれ空、空はすなわちこれ色なり」(色即是空、空即是色)という有名な句があり、これが仏教の空をもっともよく表現する句として広く普及しています。この句を岩波版では「およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである」と訳しています。先に「空」とはある場所にあるものが無いという状態であるといいましたが、その場所が「色」と呼ばれていて、わたしたちの人生に起こる様々な出来事、この世界に生じる諸々の現象を指しています。わたしたちがその中に生きている現象界には、いつまでも変わらない実体は無いという主張です。そして、その実体がない空が、この世界に様々な形で現象して、色と呼ばれる世界を形成しているのです。
この「色即是空、空即是色」という句の前に、「色不異空、空不異色」という句があり、岩波版では「実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことと離れて物質的現象であるのではない」となっています。サンスクリットからの現代語訳での「物質的現象」は、物質的という語感よりもう少し広く、この世に起こる事象全般とか人間が体験する現象世界のすべてと理解してもよいのではないかと考えられます。般若心経の「色即是空、空即是色」の句の後には、「受想行識亦復如是」という句が続いています。「受想行識」は仏教学説の用語ですが、岩波版現代語訳では「それと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである」となっています。人間が体験する感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて空であって実体がないのであり、そのような無常なるものに執着することが無明、無知だということになります。

般若心経の日本語訳は『般若心経・金剛般若経』(岩波文庫、中村元、紀野一義訳注)にあります。この岩波版は最初に玄奘訳の漢文とその漢文の書き下ろしを掲げ、その後にサンスクリットからの日本語の現代語訳を載せています。詳しい訳注と解題も付されていて、この短い般若心経の内容の理解に好適です。本書のこの一段はこの書の日本語訳からの引用です。「金剛般若経」も同様に、最初にクマーラジーヴァ訳の漢文とその書き下し文を載せ、その後にサンスクリットからの現代語訳を示しています。この「金剛般若経」については、次の禅について述べるところで触れることになります。

禅における「空」と「無」

大乗仏教の中に、禅宗と呼ばれる特異な宗教運動が起こります。仏教の中の宗派としての禅宗は中国から始まりますが(本書四六二頁以下を参照)、宗教的修行の方法として静坐瞑想する禅そのものは、インドでは「ヨーガ」と呼ばれて、古くバラモン教の時代から広く行われており、ウパニシャッドにも説かれています。釈迦が菩提樹の下で悟りを開いたのもヨーガによるものです。そのヨーガにも種類や内容に様々なものがあり、時代を経て変遷します。大乗仏教運動が進展し始めた時代には、「ヨーガ・スートラ」が編纂されて成立し、心の作用の止滅を目標とする古典的なヨーガの技法を伝えています。前述した「バガバッド・ギーター」からは、神への絶対的な信愛と帰依に至らせる「バクティ(信愛)・ヨーガ」とか、結果とか報酬を考えずに実践する「カルマ(行為)・ヨーガ」とかが起こっています。他にも自己の真実の本体(アートマン)が宇宙の原理(ブラフマン)と同一であることを知る知識によって解脱に達しようとする「ジュニャーナ(知識)・ヨーガ」、また神秘的な力がある呪文を唱えることで究極の真実に参入しようとする「マントラ(真言)・ヨーガ」などが行われるようになります。
大乗仏教運動においては、般若の智慧である「空」の原理に徹することで涅槃の解脱に至ろうとする方向が志されます。その方向の証言として「金剛般若経」(詳しくは「(能断)金剛般若波羅蜜多経」)を取り上げておきます。金剛はダイアモンドを指し、この経典の表題は、金剛石がどんなものでも切断する(あるいは金剛石をも切断する)ような鋭さをもって、人の無明を切り裂いて悟りに至らせる智慧であることを意味しています。この般若経典は、この世には実体は無いのだという空の原理を説いていますが、「空」という用語は使っていません。また大乗と小乗という用語もありません。この事実は、「金剛般若経」は空の概念がまだ成熟せず、大乗と小乗の対比の意識も明確でなかった大乗仏教の初期に成立したことを示唆しているようです。その成立は阿弥陀経などが成立した一世紀半ばとほぼ同じではないかと考えられています。
この金剛般若経はブッダとスプーティ長老との問答を内容としていますが、例えば「仏土の建設というのは建設でないことだ。それだからこそ仏土の建設と言われるのだ」というように、「何々であることは、それでないことと同じである」、漢文では「A即非A」という即非の論理を繰り返し用いて、「Aは非Aではない」という同一性の原理に立つ分別知を乗り越えることを説いています。わたしたちは観察したり考えたりするとき、観察する主体と観察される客体を分けて観察し考えています。働く主体と働きを受ける客体を分けて考えています。このように分けて考えることを分別知と呼び、主体と客体とを分ける以前の主客未分の智慧、あるいは主客の対立を超えた全体の直観的智慧を「無分別の智慧」と呼んで、それを真の智慧、般若の智慧として追求する方向を志します。
そのさい、大乗仏教の成立までの数百年間には仏教に多くの経典が生まれ、経典の理解や信仰に基づく智慧とか信仰が説かれるようになっていましたが、それらの経典に依拠する智慧は人間の言語活動の本性からして、すでに分別の智慧であり、ブッダの悟りに至ることはできないのだとして、経典の文字を経ないで、個人が直接ブッダの心とか悟りの内容を受け取るように求めます。すなわち、教外別伝、不立文字、以心伝心、直指人心の方法が強調されます。先に見たように、インドにはヨーガの伝統が強く、仏教の中にもヨーガの方法により直観的な智慧に到達して、それをブッダ直伝の悟りの境地だとして伝える伝統が生まれてきます。後の伝承によると、ブッダは弟子の迦葉に伝授、迦葉は阿難に伝え、その後二八伝して達磨(ボーディダルマ)に至るとされています。達磨は、中国に伝えられた仏教があまりにも経典中心で教説論争化していることを嘆き、ブッダ直伝の正法眼(正しい仏法の理解)を伝えんとして、六世紀ごろに中国に入り、坐禅に徹して(面壁九年の言い伝えもあります)、教外別伝、不立文字の仏法を伝えます。達磨は弟子に慧可を得て、後に中国禅宗の開祖として仰がれるようになります。達磨から五伝して慧能に至り、さらに彼から別れて宋の時代には五家七宗が活躍、禅宗が中国仏教の重要な一角を占めることになります。そして宋と明の時代に発展し独特の文化を形成した中国の禅仏教が、日本の鎌倉期と室町期に輸入されて、念仏や題目の民衆仏教とは異なる方向に進展し、武士階級に普及して日本独特の五山文化を生み出すことになった事情は、先に日本の宗教史で触れていますので、ここでは繰り返しません(本書四六二頁参照)。
このように日本の禅仏教の源流となった中国の禅仏教において、「無」の思想が進展した状況を瞥見しておきたいと思います。すでに一世紀頃からインドにおいて大乗仏教運動が起こり、その運動の中心的な思想として「空」の思想が重視されて、二世紀ごろにはそれを説く各種の般若経典群は成立していました。その空の思想は、三世紀のインドに出たナーガルジュナ(龍樹)によって深化・体系化されて、仏教全体の基本的思想とされました。さらにその著作は五世紀初頭にクマーラジーバ(羅什)によって漢訳されており、その後の中国仏教の主流となっていました。六世紀にはボーディダルマ(達磨)によって中国にもたらされた禅仏教が、六代目の南宋の慧能(七世紀末)の流れをくむ五家七宗の禅宗として、指導的な士大夫階層に浸透して発展します。その後の王朝によっては外来宗教として排斥された仏教諸派のなかで、禅宗は中国民族自身の宗教とみなされてますます盛んになり、儒教や道教思想と融合して、その後の学問や文芸や工芸などの中国文化の形成に広く貢献することになります。
その五家七宗の開祖と見られる慧能は、「わが法門は、無念を立てて宗となし、 無相を体となし、無住を本となす」と言っています。「無念」というのは、過去の思い出、現在の知覚、未来の期待や不安にとらわれている思念を捨てて、自分の心が無心となって自由になることです。「無相」というのは、わたしたちが体験する現象世界はすべて、美醜、愛憎、軽重などの相(姿)をもっています。それらの相から離れて、自分の心を空っぽにすることです。「無住」というのは、地位とか名誉や愛する者などを実体あるものとして、そこに安住することを否定することです。要するに、現象世界には不変の実体はなく、すべては空であることを知って、自分の心を無常なる対象から切り離し、空の真理を自分の心に確立することと言ってよいでしょう。こうして心を無にして、外界から自由になって生きることが禅宗の目標となります。
この目標を達成するために、禅宗では座禅による瞑想集中の工夫として「公案」が用いられます。公案というのはもともと裁判用語で、公の裁判で下された判例が先例となったものです。それが仏教では伝承されたブッダとか祖師の言葉が仏法の公理とされて、それについて集中して瞑想することによって、自分の心を無の境地に導き入れることです。無念・無相・無住という表現にはなお無という否定辞によって否定される対象がありましたが、その否定されるべき対象もなくなる絶対的な無に到達するとき、心は完全に自由となり、外的状況にとらわれない生が可能になり、生の充足が得られるのだとされます。臨済系の禅宗ではその境地に至るための手段として公案が多く用いられ、『臨済録』『碧眼録』『無門関』などの公案やその解説集が形成されることになります。一方そのような伝統的な公案を用いず、日々新しく起こってくる課題を公案とする「現成公案」の曹洞系の禅もあります。

働きとしての神を必要とする「空」

ブッダは実践的に苦から解放されるために縁起の法を理解するように求めたのですが、縁起の思想を徹底して哲学的に表現するために、大乗仏教では様々な般若経典が生み出され、仏教の基本思想として「空」を説くようになります。しかし、ある現象がその結果として先行する現象と異なる現象を引き起こすのであれば、世界には違う現象とか状態を引き起こす働きとか力、あるいはエネルギーがなければなりません。ブッダは人間の苦悩の原因を無明にあることを洞察して、人間が真実の智慧、悟りによって苦悩から救われる道を指し示しました。仏教はあくまで人間の側の智慧による内面の平安を説く宗教です。しかし人間を超える働きを指し示すことはなく、死を超える彼方の現象とか状態を起こす働きとか力については語ることがありませんでした。死の向こうには何もありませんでした。しかしそれでは人間の宗教的欲求は満たされません。大衆の霊性は死の向こうに永遠なる栄光の世界を求めて、仏教の中に浄土とそれを与える阿弥陀仏への信仰を生み出すことになります。阿弥陀信仰の成立は仏教におけるキリストの必要を示すことになります。「ブッダ」の智慧から「ほとけ」の救済を説く宗教に変容することは、仏教の必然的な流れでした(本書五七四頁の注を参照)。
それに対してイスラエルの民の宗教的体験、すなわち人間の知識とか能力を超えた方(神)が自分たちに働きかけて、自分たちを奴隷の家エジプトから救い出したという体験は、「働きとしての神」の宗教を形成してきました。イスラエルの民の宗教体験の集成である聖書の宗教は、前述したように、神を「わたしは成ろうとするものに成る」という働きそのものとして世界に示しました。しかし、これも前述したように、その働きとしての神はギリシア人の世界では究極の存在と理解されて「わたしは存在する者である」と訳されて実体化され、その不変の本性が議論されるようになります。こうして聖書の信仰を継承してギリシア文化の中で成立したキリスト教は、神を究極の存在とする有神論の宗教となり、一切を空とか無とする仏教と対立するようになりました。しかし、その対立はあくまで仏教とキリスト教という宗教の対立であって、人間の究極の智慧と死を超える働きとしての神との対立ではありません。人間の究極の智慧は、万物を存在させる根源的な働きを求めないではおれません。人間の知恵による救済を追求する仏教は、働きとしての神、すなわち万物を存在させる究極の働きである創造者なる神のキリストにおける救済の働きを要請せざるをえません。存在としての神を否定する仏教も、働きとしての神を要請することになります。福音は、この働きとしての神のキリストにおける救済の働きを仏教の世界に告知するのです。

キリスト教と仏教の対話

世界の東方でインドで始まった仏教が、その民族宗教であるヒンドゥー教を越えて中国や日本にまで伝えられて、中国では民族宗教の儒教や道教と共存し、日本ではその民族宗教である神道と習合して定着、東アジアに大乗仏教圏を形成しました。一方、世界の西方ではイスラエルの一神教宗教が地中海世界のギリシア文化圏の諸民族に受け入れられ、その後にヨーロッパで発展してキリスト教文化圏を形成しました。東方の仏教圏と西方のキリスト教圏は、古代と中世の長い間、それぞれの宗教文化圏で独自の歴史を発展させ、互いに接触交流して影響し合うことはほとんどありませんでした。例外的にシルクロードを経由してキリスト教が唐の時代の中国まで伝わり景教としてしばらく栄えたり、モンゴル系の征服王朝によってアジアとヨーロッパにまたがる大帝国ができた時にキリスト教がアジアに知られたこともありました。しかし近世に入って大航海時代の到来までは、西方のキリスト教世界と東方の仏教世界との本格的な接触はありませんでした。
大航海時代と共に始まったヨーロッパ諸国のアジアにおける植民地経営は、その搾取の悲しい歴史と共に、東方の仏教文化圏の宗教の膨大な知識と資料をもたらし、世界の宗教の比較研究に向かわせ、ヨーロッパの神学と思想の世界に大きな影響を与えることになります(この点については、拙著『福音と宗教T』第一章「宗教とは何か」の第一節「近代における宗教学の開始と進展」を参照)。この接触と交流においては、世界伝道の使命感に燃えるキリスト教からの仏教文化圏の諸国に対する働きかけが圧倒的に強く、本書の附論第一章のインド、中国、日本の宗教史の項で見たように、近代においてはこれらの諸国にキリスト教の布教活動が激しく行われ、一定の成果を得ながらも、体制化していた民族宗教や仏教の既成宗教の壁に阻まれて、それらの国の統合原理としての体制宗教にはなりえませんでした。
しかし、キリスト教と並ぶ世界宗教である仏教からキリスト教世界への影響がなかったわけではありません。西方キリスト教世界の全世界への進出に伴って、東方の宗教への理解と関心が西方社会にも広がっていきました。ヨーロッパ世界における宗教学の発展は、人類の営みとしての宗教現象を、特定の信仰の立場に縛られないで探求・比較する道を開き、仏教や東方の宗教に対する理解も深まりました。ヨーロッパのキリスト教は、長らくコンスタンティヌス体制の枠の中で合理的な神学思想の支配下にありましたので、アジアの神秘的な霊性に惹かれる面があったのでしょう。たとえば、インドの神秘家ラーマクリシュナとその弟子のベビーカーナンダの「ラーマクリシュナ・ミッション」の神秘主義的な宗教運動は、十九世紀末から二十世紀初頭にかけて欧米のキリスト教世界に大きな反響を引き起こしました(本書四四七頁以下の「現代のインドと福音」の項を参照)。
仏教の中でインドのヨーガに見られる神秘的な霊性を引き継いだのは禅仏教であると見られますが、禅宗各派の形でその禅仏教を引き継いだ中国は、二十世紀の半ば以後は共産主義の独裁下にあり、禅仏教は現代では表立って活動することはできなくなりました。むしろ中国から禅仏教を受け継いだ日本が、明治の開国以来、欧米の諸国と自由に交流し、キリスト教を受け入れると同時に、インド・中国の霊性の産物である仏教を、西方のキリスト教圏の人たちに紹介する役割を果たすことが多くなります。すでに開国して間もない時代に、新渡戸稲造は『武士道』を、内村鑑三は『代表的日本人』を英文で書いて、日本の宗教文化を世界に紹介しています。しかしここで、その後仏教そのものを欧米の現代キリスト教世界に紹介した代表的人物として、鈴木大拙を取り上げておきます。
鈴木大拙は一八七〇年に金沢に生まれ、若くして上京、東京帝国大学の選科で学ぶと同時に、鎌倉五山の一つである円覚寺で参禅、大拙の道号を受けます。一八九七年に渡米して、当時盛んになっていた東洋学関係の出版に携わり、また雑誌の編集者として活躍します。一九〇九年に帰国するまでの十二年間に、『大乗起信論』などを英訳、また『大乗仏教概論』などの著作を英文で出版、欧米のキリスト教世界に仏教を紹介する活動を進めます。帰国後は東京の諸大学で教えますが、一九二一年に京都に移り、浄土真宗系の大谷大学の教授として活躍、やがて東方仏教徒協会を設立、英文雑誌「イースタン・ブディスト」誌を創刊して、仏教、とくに禅思想を広く世界に紹介します。一九四九年に文化勲章を受け、一九六六年に九五歳の高齢で没しています。

鈴木大拙は二十世紀後半には欧米各地の大学で講演し、欧米のキリスト教文化圏に仏教思想を広めるのに大きな貢献をします。その英文と邦文による著作は膨大な数になりますが、『鈴木大拙全集』(三〇巻、別巻二)に収められています。『大乗仏教概論』の邦訳を始め、各地でなした啓蒙的な講演は、新書版で読みやすい形で多く出版されています。没後にはその業績を記念するために、郷里の金沢に「鈴木大拙館」が設立されています。

鈴木大拙の著作は多岐にわたっていますが、彼の仏教理解をよく示すものとして、その代表的な著作『日本的霊性』(春秋社、鈴木大拙選集 第一巻)を見ますと、大拙は浄土系の阿弥陀仏への「信仰」と禅仏教の坐禅瞑想による「悟り」を同等に重視して、この両者を大乗仏教の中心に据えているように見受けられます。大拙は若き日から禅によって空や無の仏教思想に鍛えられていたのですが、同時に長いアメリカでの働きやその後の国際的な交流を通じてキリスト教をも深く学び、仏教の場からキリスト教との対話には絶好の位置にいたといえます。彼はキリスト教世界においてきわめて神秘主義的な活動をしたスウェーデンボルグの著作を翻訳して日本に紹介しています。そして、キリスト教世界に仏教を紹介して、仏教をもっとよく理解するように呼びかけながら、同時に日本の仏教徒にもっとキリスト教を深く学んで、キリスト教徒の社会的実践に注目するように繰り返し勧告しています。
鎌倉時代に起こった日本仏教の宗教改革によって成立発展した浄土宗、浄土真宗、時宗などの浄土系の諸宗派と臨済宗や曹洞宗などの禅宗諸派は、欧米のキリスト教諸国で、とくに近代に発展した宗教学の分野で注目されるようになっています。プロテスタント諸国では、信仰によって救われることを強調した浄土系の仏教が、ルターの信仰義認による改革と通じるものがあるとして関心を寄せ、バルトはヨーロッパの宗教改革の数百年前に日本で浄土系仏教による宗教改革が起こっていたことを「神の摂理」であったとまで言っています(本書一九九頁の注を参照)。そしてカトリックでは、坐禅瞑想を強調する禅宗諸派がキリスト教神秘主義の霊性に通じるとして、親近性を感じているようです。カトリックの神父とか修道僧が日本に来て禅宗寺院で参禅し、禅仏教の理解が深まり、キリスト教と仏教の対話も始まります。とくに鈴木大拙によって禅が広く紹介されるにおよんで、禅によって仏教を理解しようとする一般社会の人々も多く出て、とくに信教の自由が保証され、国教のないアメリカは、現代の世界でもっとも活力ある仏教国だと言われるようになっています。最近ではキリスト教が国教のような場を占めているヨーロッパ諸国でも、社会情勢の不安の克服を求めて個人の内面における平安を得ようとして坐禅瞑想に向かう市民も出ているようです。

先に本書の本論「第六章 宗教の神学」の冒頭で紹介した古屋安雄『宗教の神学』の「第二章 宗教の多元化と宗際化」で、国際化した現代世界ではどの宗教も孤立して存在することはできず、お互いに影響しあい依存しあっている時代であるとして、その状況を「宗際化」と呼んでいます。そしてその章の「第二節 宗際化の現代」で、その実例として日本の仏教とキリスト教の相互依存と相互影響の関係を、多くの実例をあげて記述しています(同書のその節を参照)。キリスト教と仏教という二つの代表的な世界宗教間の対話は、本書でもこれまでしばしば取り上げてきたように、神学的にも宗教学上も、さらに宗教哲学の主題としてもきわめて重要な問題ですが、本書は「キリスト教と仏教」という宗教間の関係を論じることではなく、福音とキリスト教の区別に立って「福音と宗教」の関係を主題としていますので、キリスト教と仏教という宗教間の対話はその方面の専門書に委ねて、もっぱら日本のような仏教国で福音の証人としての立場で活動する実際的な問題に限定して論を進めます。

対話の彼方で

証人は自分が体験したことを証言することがその役目です。キリストの証人は、キリストを信じて身を委ねた結果、キリストにあって体験した神の働きを証言するために世に遣わされています。「キリストを証言する」(使徒一・八)というのは、自分が身に受けた、キリストにおける創造者なる父の働きを証言することです。これはキリスト教の立場に立って、仏教などの他の宗教と対話することとは別の役割です。キリストの証人はキリスト教徒にも仏教徒にも、どの宗教の人に対しても証言しなければなりません。その意味でキリストの証人の使命は、キリスト教の立場で仏教と対話することではありません。対話以前の問題であり、対話とは別の領域の事柄です。
しかし、キリストの証人が仏教の中にいる人たちに証言しようとする時、その人がどのような宗教文化の中にいるかを理解しておくことは有益です。相手を頭から無視したり否定して証言しようとしても、反発を招くだけでしょう。キリスト教も仏教もそれぞれの価値と意味をもつものですが、それらの宗教は絶対的なものではないことを理解して(宗教相対主義)、自分が体験したキリストにおける創造者なる父の働きを証言することが、キリストの証人である者の使命です。相手を理解するという点で、一つ参考になることをあげておきます。
先にキリスト教と仏教の両方を深く理解して、キリスト教世界に仏教を紹介した仏教徒として鈴木大拙に触れましたが、彼はとくに禅を広く紹介したので、欧米キリスト教世界では仏教といえば禅だと理解している人が多いようです。しかし先に見たように、彼は自分の宗教である大乗仏教を、坐禅瞑想によって個人の内面に深く沈潜し、般若の知恵によって到達する禅の「悟り」と、いかなる者をも救い取るという無限の慈悲と本願をもつ阿弥陀仏に身を委ねる「信仰」の二つの焦点から理解していたようです。仏教に深さを求めるならば、自己の内面に深く沈潜する禅が、そして仏教が広く民衆の宗教として普及するには、上からの他力に委ねる阿弥陀仏への信仰が求められます。大拙は禅の場にとどまりながら、阿弥陀の他力信仰の重要性をよく理解していました。そのことは最晩年の九十歳代で親鸞の『教行信証』の英訳を試みたことに示されています。わたしたちは本章の第二節「キリストを必要とする仏教」と第三節「悟りの知恵と信仰」で、阿弥陀仏の他力信仰も禅の悟りも、その両方が「働きとしての神」を要請していることを見ました。仏教はこの神の働きを待っているのです。キリストの証人はこの神のキリストにおける働きを、仏教の世界に証言しなければなりません。