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第三節 キリスト教の外での福音証言

宗教相対化の行き先

本章の第一節において日本の宗教相対主義の先駆者として富永仲基と内村鑑三の二人をあげましたが、この二人は宗教がまだ絶対的な権威として君臨している場合が多い世界で、宗教相対主義を掲げた稀有の人物として特筆するに値しますが、二人の間には大きな相違もあります。富永は彼の時代の体制宗教であった神道、儒教、仏教の三宗教を相対化しました。とくに仏教の相対化の論拠を提示する『出定後語』において、仏教各派が依拠する経典が釈迦以後の長い年月の後に成立した歴史的状況を明らかにして、その教説を独自の加上説で説明、その相対性を証明しました。その相対的な教説をすべて釈迦の悟りとして、釈迦の権威で絶対化している現実を明らかにして、 仏教全体を相対化しました。これは近代のヨーロッパに起こった啓蒙思想が、事実を事実として認識する人間理性への信頼から、キリスト教会の一方的な伝統による権威の主張を退け、依拠する聖典の成立とその教説の歴史的な状況を分析、各派教会の相対性を明らかにしたのと似ています。
一方、内村もキリスト教を相対化したことでは富永と同じですが、内村の場合は富永とは決定的に違う点があります。それは到達点の違いです。富永は神道、儒教、仏教という当時の日本の体制的宗教を相対化して、それらを超えて自分たちが歩むべき「誠の道」を唱えましたが、その「誠の道」とは彼の時代の日本社会の道義を理想化したものに過ぎませんでした。内村も「無教会キリスト教」を唱えて、彼の時代のキリスト教を相対化しました。先に見たように、はじめ内村の活動は当時の宣教師キリスト教会の教派教会からの独立を目指すものでしたが、後には「洗礼を受けてキリスト教に入らなくても、教会の外で、すなわちキリスト教の外で、キリスト信者として救われる」という主張となって、キリスト教そのものから一歩外に踏み出す質のものになっていました。踏み出した結果どこに行ったかというと、それは時代の理想ではなく、歴史の進歩の果てにある高い理想でもなく、そのキリスト教の深み、キリスト教以前にあってキリスト教という歴史的宗教を生み出した霊的源泉、「キリストの福音」であったのです。
キリスト教は一つの歴史的宗教です。一世紀から二世紀にかけて地中海世界に宣べ伝えられた「キリストの福音」、すなわちイエスが復活した救済者キリストであることを告げ知らせる報知を信じた者たちが形成した信仰共同体とその宗教が、三世紀から四世紀にかけて弾圧と戦いながらついにローマ帝国の国教となり、その後の欧米の歴史を支配する体制宗教となったものです。したがってキリスト教によって形成されてきた欧米の歴史では、宗教といえばキリスト教を指し、欧米のキリスト教文化圏ではキリスト教は唯一の普遍的で絶対的な宗教とされてきました。従ってルターらの十六世紀の宗教改革者が、聖書によって信仰による義を発見して、唯一の教会たるローマ・カトリック教会から一歩外へ踏み出した時も、洗礼と聖餐の儀礼や公会議決定のキリスト教正統教義を維持するキリスト教そのものからは出ることなく、コンスタンティヌス体制キリスト教の枠内に止まりました。改革の徹底を唱えた再洗礼派やピューリタン派も、その枠から出て「洗礼は必要ない」とは主張しませんでした。
ところがプロテスタント・キリスト教を受け取ったばかりの開国時代の日本の内村が、「洗礼を受けなくても、すなわちキリスト教の外にいても、キリストを信じて救われ、神の民でありうる」と主張したことは、人類の宗教史において驚嘆すべき大きな一歩だったのです。内村は聖書が告知するキリストの中に自分を全身的に投入する信仰によって、パウロが告知する「キリストの信仰」、キリストと合わせられて生きる「キリスト信仰」の境地に入り、そこから「さらなる宗教改革の必要」を唱え、パウロの「無割礼の福音」の現代版として「無洗礼の福音」を唱えるにいたり、キリスト教そのものから一歩外へ出たのです。パウロは異邦人(ユダヤ教徒以外の人)が福音を信じて、福音が告知するキリストに合わせられて生きるようになった時、その人に割礼を施すことなく、すなわちユダヤ教に改宗させることなく、神の民として受け入れて、キリストにあって神を信じて生きるように導きました。キリストを信じる異邦人に割礼を受けさせてユダヤ教徒にしようとしたユダヤ人には、パウロは断固として反対したのです。内村は彼の証言を聞いてキリストを信じた人に洗礼を授けることはなく、また彼が指導する集会では聖餐式を執り行うこともなく、その福音告知の活動を貫きました。
内村が近代化の過程を歩み始めたばかりの一九世紀末から二十世紀初めの日本で活動を進めたその時代に、ヨーロッパのキリスト教世界ではキリスト教宗教の絶対性が議論され始めていました。十六世紀に行われた宗教改革の結果、それまで千年にわたってヨーロッパを統合していたローマ・カトリック教会の枠から出たプロテスタント諸教会が歩み始め、カトリック・キリスト教とは別のプロテスタント・キリスト教を形成していました。しかしそれらプロテスタント諸教会はキリスト教という宗教そのものから外に出たわけではありません。プロテスタントもカトリックと同様、キリスト教が普遍的で絶対的な宗教であることを信じて疑いませんでした。ところが二十世紀に入る頃、プロテスタントのキリスト教神学者の中からキリスト教の絶対性を問題にする著作が発表されて、大きな議論を呼び起こすことになります。それが一九〇二年に刊行されたトレルチの『キリスト教の絶対性と宗教史』です。この書の意義については、本書も「第五章 宗教の神学」の第一節で簡単にまとめておきました(一七三頁以下)。まさにトレルチがキリスト教の絶対性について問題提起をした二十世紀の初頭に、内村は「洗礼晩餐廃止論」を唱え、雑誌『無教会』を出して、「無教会キリスト教」の旗印を鮮明にして活動していたのです。内村はトレルチの問題提起に対して、はっきりとキリスト教は一つの歴史的宗教として相対的なものであるという回答を、その実践活動で答えていたのです。

キリスト教への改宗か福音の告知か

内村はある著述の中で、「わたしが遣わされたのは洗礼を授けるためではなく、キリストの福音を宣べ伝えるためである」と言っています。これはパウロがコリントの集会に書き送った手紙の一節と同じです(コリントT一・一七)。パウロが活動した時代ではまだキリスト教という宗教はありませんでした。しかしコリントの集会では、パウロやアポロやケファ(ペトロ)から洗礼を受けた人たちが、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」と言って、分派が出来てきていることを伝え聞いたパウロが、長くコリントにとどまって指導したにもかかわらず、ごく僅かの人にしか洗礼を授けなかったことを神に感謝して書いた手紙の一部です。パウロや内村が言うように、キリストの証人の使命は福音を宣べ伝えることであって、洗礼を授けることではありません。イエスは地上で弟子たちに教えられた時には、洗礼について教えたり、洗礼を授けるようにということは一言も命じておられません。マタイ福音書の終わりに復活されたイエスが弟子たちに洗礼を授けることを命じられた一節がありますが(マタイ二八・一九)、マタイ福音書の成立は七〇年の神殿崩壊後のことであり、パウロはこの福音書を知りません。
もともと洗礼と訳されている「バプテスマ」という語は、本来「浸されること」を意味する語で、ユダヤ教の世界で差し迫っている神の最終審判に備えるために、預言者ヨハネが罪の赦しを得るための悔い改めのしるしとして、ヨルダン川の水に浸されることを求めたのでした。イエスもペトロやヨハネら弟子たちも、この「バプテスマのヨハネ」の呼びかけに神からの声を聞いて、彼からバプテスマを受けていました。それで、イエスが復活された後、そのイエスをキリストと信じた者も、すでにヨハネからバプテスマを受けていたユダヤ人は別として、イエスを主と言い表す行為としてバプテスマを受けるように求められました。ユダヤ教を尊敬する異邦人にもイエスがキリストとして宣べ伝えられるようになった時、彼らも水に浸されるバプテスマを受けて、ユダヤ人の信仰共同体である《エクレーシア》に加入しました(使徒八・二六〜三八)。さらに異邦人社会に福音が告知されて主イエス・キリストを信じて言い表す者が出た時に、異邦人はバプテスマには無縁で当然それを受けていないのですから、その人はバプテスマを受けてユダヤ人と異邦人が混在する「キリストの民」《エクレーシア》に加わったのでした(使徒一〇・四四〜四八)。先に引用したパウロの言葉も、このような状況を反映していると考えられます
ところが、キリスト教という新しい宗教が異邦人社会に成立し進展していくに従って、このバプテスマという信仰告白の行為が変質して、キリスト教という宗教への改宗、キリスト教会への加入の表現という性格の儀礼となっていきます。キリスト教という宗教は洗礼と聖餐という儀礼を、その宗教の不可欠の構成要素としているからです。異教徒は洗礼を受けてキリスト教に改宗し、キリスト教会の一員として加わり、聖餐に与ることを許されて永遠の命を受け、救われるのです。キリスト教会の外には救いはありません。滅びに定められている異教徒を救いに導くためには、洗礼を授けてキリスト教に改宗させなければなりません。伝道者の仕事はキリスト教が唯一の真正の宗教であることを教えて、洗礼を授けて異教からキリスト教へ改宗させ、それによって救いに至らせることとなります。伝道はキリスト教への改宗運動となります。この思想はキリスト教成立以来現代まで変わることなく続いています。キリスト教会の伝道者や修道士たちは、異教世界に赴き、多くの困難を超えてキリスト教を布教しました。たとえば異教國の日本への伝道は、キリシタン時代の伝道も明治以後のプロテスタント・キリスト教の伝道も、すべてキリスト教の布教活動でした。キリシタン時代の布教はローマ・カトリック教会に忠実なイエズス会の修道士たちによって行われ、洗礼を受けた改宗者はローマ・カトリック教会の一部に組み込まれました。明治時代のプロテスタント・キリスト教諸派の宣教師たちは、洗礼を受けて改宗した者たちで自派の教会を設立、その教勢を競いました。
そのキリスト教布教の長い歴史の中で、内村がはじめて「洗礼を受けてキリスト教に改宗しなくても、キリスト教の外でキリストを信じて、キリストの救いに与ることができる」と主張したのです。これは大変な宗教改革でした。先に見たように、ルターら十六世紀の宗教改革者は、パウロの信仰による義の再発見により、ローマ・カトリック教会の外にもキリストの救いはあると主張して、カトリック教会の外に出ましたが、キリスト教そのものから外に出たわけではありませんでした。ところが、数百年後にそのプロテスタント・キリスト教の中から「キリスト教の絶対性」について反省が出てきて、キリスト教の相対化に向かい始めたのでした。まさにその時に内村はすでに、キリスト教そのものの外に一歩踏み出していたのです。その時内村はすでに、キリスト教という宗教を信奉してその宗教規定に従う人間の在り方、すなわちキリスト教信仰と、生きて働かれるキリストと合わせられて生きる人間の在り方、すなわちキリスト信仰との区別を知っていたのです。確かにキリスト教信仰の中にも立派なキリスト信仰はあります。しかし誰もキリスト教の外にキリスト信仰がありうるとは宣言できませんでした。日本の内村がそれを断言し、キリスト教の外に踏み出したのです。内村は「無洗礼のキリスト教」によって、キリスト教を認めつつ、キリスト教の順守を救いの条件とすること、キリスト教という宗教を絶対化することを拒否したのです。キリス教を相対化したのです。

キリスト教の枠の外での福音活動

欧米のキリスト教は、宗教改革を経た後も現在に至るまでコンスタンティヌス体制の枠の中にあります。そのため、キリスト教の枠の中での福音活動は、ペンテコステ運動も含めてコンスタンティヌス体制のキリスト教の枠の中でのキリスト告知の活動となります。もし福音活動が、内村が試みたように、キリスト教の枠の外で行われるようになったらどうなるのでしょうか。先にも指摘したように、内村が「水の洗礼」を不要としたのは、コンスタンティヌス体制のキリスト教から一歩外に踏み出して、キリストの福音を告知する行為ではなかったでしょうか。内村の項で見たように、内村の無教会主義は決してキリスト教を否定したり不要としたものではありません。内村は熱心にキリスト教の信仰の伝統を学び、そこから聖書の深い理解を得て、キリストの福音を証言する活動を力強く進めたのでした。内村が否定したのは、キリスト教という歴史的な宗教が、この宗教の規定、信条や儀礼を順守しなければ救われないとしたこと、すなわちキリスト教規定の順守を救いの条件としたこと、キリスト教の絶対化を否定したのです。それはパウロが、キリストを信じた異邦人に割礼を施してユダヤ教の宗教規定を順守させようとしたユダヤ人に反対したのと同じ原理によるものです。パウロはユダヤ教という宗教を、内村はキリスト教という宗教を相対化したのです。
では、キリスト教という宗教の枠の外に踏み出して福音を宣べ伝えるという活動は、どのような形を取ることになるのでしょうか。先にも触れたように、「水のバプテスマ」を救いの条件とすることは、キリスト教全体の規定の順守を救いの条件とすることであり、キリスト教の絶対化です。キリスト教の外には人間の救いはないとすることです。それを否定して、キリスト教の外にも救いがあると主張する根拠は、キリストは「水のバプテスマ」を授ける方ではなく、「聖霊によるバプテスマ」を与える方であるからです。キリストの福音は、キリストは十字架の死によって神の贖いを成し遂げた方であるだけでなく、キリストが「聖霊によるバプテスマ」を与える方であるからです。「水のバプテスマ」は旧約の預言者ヨハネの仕事でしたが、「聖霊のバプテスマ」は新約のキリストの働き、復活者だけが与えるバプテスマです。キリストのバプテスマは洗礼者ヨハネが施すバプテスマに較べて、限りなく優れたものです。そしてキリストの福音は、復活者キリストを告知することで、世界にこの「キリストのバプテスマ」、「聖霊のバプテスマ」を告知しているのです。
ここで強調しておきたいことは、「聖霊のバプテスマ」というのは、キリスト教のペンテコステ派の諸教会が言うような特定の聖霊の能力や働き(カリスマ)を指すのではなく、復活者キリストが与える聖霊の働きの全体、正確に言えば、キリストにあって神が人間の内になされる人間の変容のための働き全体を指しているのです。異言や予言、神癒や奇跡なども、新約聖書が証言するように聖霊の働き、あるいは現れです。それらの霊の力は、福音告知の活動に伴って現れる時には、大きな働きをします。しかしそのような聖霊の《カリスマ》だけが、復活者キリストが与える「聖霊のバプテスマ」ではありません。復活者キリストは、求める者に聖霊を注いで、信じる者の内に働き、その人を神に背かせる罪の力から解放し、その人間性の中に今までには無かった性質を生み出し、信じるものを内側から変容させてくださいます。この人間の内に働く神の霊の働きの全体が、復活者キリストが与える「聖霊のバプテスマ」です。これは「水のバプテスマ」と比べものにならないほど優れたバプテスマです。
パウロはこの御霊の働きの全体を、彼の最後の手紙となった「ローマ書」で証言しました。わたしはその御霊の働きの全体を、解放、変容、完成の三つにまとめました。この御霊の働きの全体が「聖霊のバプテスマ」の内容である、とわたしは理解しています。もし内村のように、水のバプテスマを不要としてキリスト教の外で福音を宣べ伝えるのであれば、洗礼者ヨハネのバプテスマに代わって、復活者キリストのバプテスマ、すなわちキリストによる「聖霊のバプテスマ」を宣べ伝えなければなりません。しかしそれは聖霊の《カリスマ》を宣べ伝えることと同じではありません。異言や予言、神癒や奇跡を与えられることは本当に感謝すべきことです。それらの《カリスマ》は、キリストを証しして福音を告知するために大きな力となります。そのような聖霊の現れがあるときは、それによってキリストを賛美し、キリストにあって神を誉めたたえます。しかし、そのような《カリスマ》があるところだけに「聖霊のバプテスマ」が与えられたのではありません。「聖霊のバプテスマ」は、信じてキリストに合わせられる者すべてに与えられる神の賜物です。そしてそのバプテスマはキリストにある者の生涯にわたって続き、神が終わりの日に世界を完成される時、「神の国」が到来する時、死者からの復活となって現れます。キリストにある者はこの希望に生きていますが、この希望も「聖霊のバプテスマ」の重要な内容です。
 キリストにある者に復活者キリストが与える聖霊のバプテスマが、それを受けた人間をどのように変えるのか、それを人間存在の三つの次元に即して考察すると、それは「信仰と愛と希望」という三つの姿に要約できると思います。人間は人間を超える者、自分を存在させている働きそのものとの関わりの中に生きています。同時に人間を引きずり下ろそうとする下向きの力にも晒されています。人間はこの上下垂直方向の軸をもっています。これは人間が「ホモ・レリギオースス」であること、宗教する人間であることの表現です。同時に人間は他の人間、仲間の人間と一緒に生きていかなければ人間ではありえません。すなわち人間は水平方向の軸を持っています。さらに、人間は時間の中の存在であって、過去・現在・未来の枠組みの外に出ることはできません。人間には時間軸があります。わたしたち一人ひとりはこの垂直・水平・時間の三つの軸が交わる交点で、すなわち神と関わる宗教の次元をもつ者として、隣人と関わる社会の中で、過去と未来をもつ現在の歴史の中を生きています。
 この三つの軸の交点に生きる人間に聖霊が宿り神が内に働くとき、どのょうな変化・変容が起こるのでしょうか。パウロはこれを「信仰と愛と希望」の三つにまとめました。ここで「信仰」というのは、今までわたしたちは自分の枠の中で、自分の知恵と力に頼って、自分に閉じこもって生きてきました。ところが聖霊が働くとき、わたしたちはもはや自分を当てにすることなく、幼子が親を当てにして委ねているように、すべてを自分を存在させている働きに委ねて、その方に「父よ」と全存在を委ねて生きるようになります。わたしたちは聖霊によって神の子という身分に生きるようになるのです(ローマ八・一五〜一六)。「愛」というのは、今までのわたしたちにも親子・男女・夫婦・兄弟・友人などの間に見られる生まれながらの人間に生得的な愛《フィリア》はありました。しかし聖霊が人間にもたらす愛は、神がわたしたちを愛する愛、すなわち敵をも愛する愛であって、生まれながらの人間に生得的に備わっている愛とは別種の愛です。それはイエスが生きられた愛であり(ルカ六・二七〜三六)、パウロが描いた愛、善をもって悪に報いる愛です(ローマ一二・九〜二一)。新約聖書はこの愛を《アガペー》と呼んでいます。「希望」というのは、わたしたちキリストにある者は死から復活して、神の栄光にあずかるという途方もない希望です(ローマ五・二、八・一八〜二五)。それは地上に生きている間だけの、よい家族を得るとか出世するとか富を得るというような希望ではありません。地上の希望はすべて死によって終わります。しかし聖霊が与える希望は死に打ち勝ちます(コリントT一五章)。聖霊のバプテスマはこのような信仰と愛と希望をもたらします。このような信仰と愛と希望に生きることが「永遠の命」の内容です。

二つの道 ー これからの日本での福音活動について

現代の日本における宗教の多元化は、目を見張るものがあります。とくに戦後の日本は「宗教の博覧会場」と称してもよいほどの賑わいです。神社神道、教派神道、浄土宗や浄土真宗、日蓮宗や禅宗などの仏教各派、カトリックやプロテスタントのキリスト教各派、それに新宗教を加えれば、世界で例を見ないほどの多彩な宗教が多数その勢力を競い合っています。国の基本的な姿を規定する憲法によって、日本国民は信教の自由を保証され、どの宗教を選ぶことも、どれをも選ばず無宗教でいることも、各人の自由に委ねられています。では、日本において宗教が盛んであるのかというと、現代の日本ほど無宗教な社会はないと評される一面もあります。大多数の日本人、とくに大都市に集中してきた世代の日本人は宗教には無関心で、どの宗教も選ばず、無宗教のまま日々の世俗の生活の向上だけを目標にして生きているという風潮が見受けられます。現代の日本社会の世俗化は顕著な事実です。
しかし一方、ホモ・レリギオースス(宗教する人間)としての本性から、人間は誰もその霊性に生きる目的とか根拠を求めて、人間以上の何かに向かわないではおれません。既成の伝統的宗教は、出来上がった制度とか形式に安住して、現代人の霊的欲求に応える努力や熱意を欠いています。そこに布教の熱意に燃える新宗教が入り込んできて、都市を中心に何百万という信者数を誇る宗教教団を形成することになります。その新宗教の中にオウム真理教のような事件が起こりますと、社会に宗教への嫌悪感とか宗教には距離を置こうとする気風が増幅され、日本社会の世俗化に拍車をかけます。このような多元的な宗教の存在、伝統的な既成宗教の形式依存、近代という時代の避けられない趨勢としての世俗化という状況を考えるとき、これからの日本におけるキリストの福音告知の活動はどうあるべきか、その方法を考えざるをえません。
わたしたちの前には二つの道があるようです。一つは、これまでのようにキリスト教という宗教の中で福音を告知する方法です。もう一つは、キリスト教という宗教の外で福音を告知する方法です。第一の道は、これまでのキリスト教の歴史が見せてくれています。そもそもキリスト教という宗教は、キリストの福音の告知活動から生まれた宗教であって、神の働きによって形成されたまことに尊い宗教です。しかしそのキリスト教は、二世紀から四世紀にかけて、ギリシア・ローマ文化が支配する地中海地域に成立した歴史的な産物です。そのキリスト教は、その中にキリストの福音を保管しているという意味で、人類の歴史における神の働きの担い手です。キリスト教という宗教を布教することによって、世界の諸国民がキリスト教が指し示す救済者としての復活者キリストに出会うようにしようとしたことは、まことに尊い努力でした。しかしその努力は、本書の第四章の「キリスト教史と福音」で指摘したように、本来歴史的な所産であり相対的なキリスト教を絶対化したために、絶えず改革されなければならない歴史となり、絶対化された正統派が改革派を弾圧する歴史、時には血生臭い歴史となりました。
第二のキリスト教の外でキリストの福音を告知する方法は、キリスト教成立までの短い期間にキリストの福音が見せてきたものです。イエスの地上の働きとその死、そして復活してキリストとされた出来事は、イエスが選ばれた十二弟子が伝えました。彼らはキリストの出来事の証人です。しかし、その出来事を告げ知らせる告知の内容を「福音」という語で指し、その福音をユダヤ教徒以外の諸国民に告げ知らせたのは使徒パウロです。イエスをキリストと信じたユダヤ人の大部分は、ユダヤ教という宗教の中にいることを誇って当然とし、イエスを信じた異教徒には割礼を受けてユダヤ教に改宗することを求めました。その中でもっとも熱烈なユダヤ教徒であったパウロが、キリストを受け入れた異教徒は割礼を受けないで、ユダヤ教の外にとどまっていてもよいとしたのです。パウロはユダヤ教の外に出てキリストの福音を宣べ伝えたのです。パウロは、キリストを信じる者はユダヤ教の中にいてもよいし、ユダヤ教の外にいてもよいとしました。パウロはユダヤ教を相対化しています。そのパウロが書いた福音を証言する諸文書が、新約聖書の中で重要な部分を占めています。その中で代表的な文書がローマ書です。新約聖書は後にキリスト教の儀礼や信条の根拠を示す経典となりましたが、本来は何よりも福音を証言する文書なのです。
キリスト教は二世紀から三世紀にかけて地中海地域に成立して以来、ヨーロッパとアメリカ大陸に拡大して、現代に至るまでに拡大してきました。その間、福音は第一の道、すなわちそのキリスト教を布教して、異教徒をキリスト教に改宗させ、キリスト教の中に保持されている福音によって、キリスト教宗教の信者をキリスト信仰に導くという形をとってきました。そして、そのキリスト教への改宗のしるしが洗礼であったのです。キリスト教の布教者(神父や宣教師)は、洗礼を授けて異教徒をキリスト教に改宗させることを第一の使命としました。ところが、キリスト教が開国したばかりの日本に到達し、仏教や儒教や神道が民を支配している国で、当然のこととして先ず民をキリスト教に改宗させるための働きを進めます。そこに内村鑑三が現れて、洗礼を受けてキリスト教徒になり、特定のキリスト教会に所属しなくても、キリストに属する民、キリスト者でありうるという主張(無洗礼・無教会主義)を唱えて、キリスト教の外でキリストの福音を伝える活動、すなわち第二の道を歩み始めます。これはキリスト教が成立して「教会の外に救いはない」と宣言した時以来の大変な改革です。
キリスト教の歴史は本書の「第四章 キリスト教史と福音」で概観したように、絶えざる改革の歴史でした。一六世紀にはカトリック教会から出るという大改革も行われました。しかし、洗礼を受けなくてもよいとして、キリスト教という宗教そのものの外へ踏み出すような改革は行われませんでした。そのキリスト教の歴史において、二十世紀の日本の内村がそのキリスト教とキリスト教会の自己否定的な変革の一歩を踏み出したのです。今までに繰り返し見たように、内村はキリスト教を否定したのではなく、キリスト教の絶対性を否定してキリスト教を相対化したのですが、それは自分の絶対性に固執してきたキリスト教の自己否定的な改革でした。内村はこの改革の一歩を踏み出しました。この改革はこれからも引き継がれていきます。日本だけでなく、キリスト教そのものがキリスト教から出て、キリストの福音を世界に、この世俗化した世界に告知していかなければなりません。復活者キリストの証人として、キリストの福音を告知すること、それだけがキリスト者の使命です。キリスト者は、パウロが言ったように、「キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためである」と自覚すべきです。
福音が告知する復活者キリストもバプテスマをされます。しかしキリストのバプテスマはもはや「水によるバプテスマ」ではなく、「聖霊によるバプテスマ」です。キリストの証人として福音を告知する者は、このキリストのバプテスマ、聖霊によるバプテスマの告知を携えて、世俗化した世界に働きかけるべきです。世俗化に抵抗して再び宗教の支配を回復しようとするのではなく、世俗の世界で、神の霊による人間の変容と人間社会の変革を追求すべきです。聖霊のバプテスマをキリスト教会の内部の出来事に限定すべきではありません。キリストは自分のもとに来る者に、その限りない恩恵によって無条件に聖霊を与え、聖霊によって神の子の身分を与え、ご自分に属する民とされます。その人がキリスト教徒であるか仏教徒であるか、また他の何かの宗教の民かは問われません。民族や階級の違いも問題ではありません。道徳的な達成度も問題ではありません。キリストを受け入れて、キリストに合わせられて生きる者には、聖霊を与えて人間全体を変革されます。人間を外から拘束している宗教支配から解放し、内から変容し、復活の希望を与えて、神の霊によって導かれます。キリストが与える「聖霊のバプテスマ」とは、先に述べたように、人と社会を内から変革する神の働きの全体です。

キリスト教の外での福音活動における諸問題

世俗化した日本の社会に福音を告げ知らせようとするこれからの福音活動は、第二のキリスト教の外でキリストの福音を告知する活動が重要になると考えられますが、この道には様々な問題点があります。先ずこの道は、キリスト教という枠の外に出て、霊の働きだけに依存して進められる福音活動ですから、その働きが神からの霊によるものかどうかを識別判断しなければなりません。ヨハネはそれを判断する基準としてこう言っています。「イエスを肉の形をとって来られたキリストと言い表す霊は、すべて神からの霊です」(ヨハネT四・一〜三 私訳から)。新約聖書は神からの霊によってこのように信じて告知した使徒たちの共同体の証言ですから、わたしたちは新約聖書の証言をしっかりと学び、それをわたしたちの霊的体験の基準としなければなりません。この必要から見ると、キリスト教内の福音活動は、長年の歴史の中で形成されてきた教義の枠の中におれば間違いはないとして楽な一面もありますが、その教義が絶対化されて、わたしたちの内なる霊性を束縛する危険があります。キリスト教の枠の外での活動は、霊の自由で著しい働き(カリスマ)を強調するあまり、神の霊の働きのもう一つの基準である愛《アガペー》の基準(ヨハネT四・七〜一六)から外れることがないように、細心の注意が必要です。
また、キリスト教の外での福音活動には、その組織化が課題となってきます。人間社会の運動、何かある目標に向かって前進しようとする社会的な広がりのある運動では、何らかの組織が必要であり有効であることは歴史が示しています。使徒たちとその後継者たちの霊的な福音活動は、一世紀後半から二世紀にかけて徐々に組織化されて、各地に形成された信者の集会がそれぞれ監督を頂点とする集団に組織され、その各集会の監督たちが会議(主教会議)を重ねて、さらに広域の組織体を形成していきました。こうしてついに単一の公同の「教会」が形成され、その共通の宗教儀礼と信条が「キリスト教」という一つの新しい宗教をもたらしました。このような福音活動の組織化は歴史の必然であり、それを止めることはできません。しかし、その組織化が進んで、組織が自己を絶対化して、人間の内なる霊性を外からの信条や儀礼で拘束するようになると、宗教が「軛」となってしまいます。キリスト教という組織化された宗教の枠の中で、福音を追求するのは安全な道ですが、キリスト教という宗教が内なる霊性を抑圧し、人間の霊性の自由な発展を妨げます。キリスト教の中で、神の霊の働きを受けて真理を追究した霊的な人物や集団は、組織化された信条や儀礼を改革しようとしました。第四章で見たように、キリスト教の歴史は絶えざる改革の歴史となりました。内村はその改革の徹底として、キリスト教そのものから出たのです。
キリスト教の外に出て福音活動を進めようとするとき、その運動は運動の組織化の必要と組織化がもたらす抑圧との矛盾をいかに克服するのかという困難な課題を抱えることになります。キリスト教の外で福音を宣べ伝えようとする者は、キリスト教という組織の歴史に学びつつ、その克服を目指さなければなりません。内村の無教会主義は改革の徹底を求めて、キリスト教そのものから一歩外へ出ました。わたしもこれからの福音活動はキリスト教の外で進めることが重要であると考えています。しかし宗教相対主義は、キリスト教の中での福音活動をも尊いものとして認めています。ただキリスト教の絶対化を批判し否定しているのです。キリスト教が歴史的に形成された宗教であることを認めて、自己の相対性を認識し、他宗教およびキリスト教の他派と対話しつつキリストを証言すること、内からの改革を受け入れて自己変革に努めること、またキリスト教の外での福音活動も同じキリストの告知として承認することを求めているのです。

世俗化した世界における福音

先に本書の「第六章第二節 世俗化の問題」(本書三一八頁以下)で見たように、近代の世界で大きな潮流となった啓蒙主義思想によって、まず近代西欧のキリスト教世界が世俗化の方向に歩み始めました。そして今や太古の昔から続いてきた宗教の絶対的な支配体制から脱出した人間社会は、 もはや人間社会に対する宗教の全面的な支配の下にいるのではなく、その合理性の基準の上に人間自身の支配領域を広げていく根拠を見出したのです。「俗なるもの」が「聖なるもの」の支配領域を狭めていったのです。その際、「俗なるもの」が依拠する最大の根拠が科学です。実験によって確かめられた事実の合理的な理解の統合の上に成り立つ知識と思想が、人間の生活と社会の大きな領域を支配するようになってきています。世界は、その近代西欧をモデルとする「近代化」の流れの中で、その大きな部分が世俗化しつつあります。
そのような世俗化の流れの中で宗教相対主義はどのような位置を占め、どのような役割を果たすことになるのでしょうか。宗教の相対化は、宗教の絶対的な支配を否定して、人間とその社会を「宗教の軛」から解放するものですから、それは結果として社会の世俗化を助け、世界の世俗化と共通の傾向を示すことになります。このような宗教相対主義は、宗教を絶対化したい宗教家からは嫌われて、抑圧されたり弾圧されたりします。しかし、どれほど科学が発達し、人間の合理性の支配の支配領域が拡大しても、人間が自分自身で存在しているものではなく、存在させている根源的な働き、しかも人間に対して言葉で働きかける人格的根源との関係にある以上は、人間としての本源的な問いかけを、自分を存在させている人格的な働きに向けないではおれません。これは「ホモ・レリギオースス」としての人間の避けられない営みです。その問いかけを深め徹底した時に到達する場所から見ると、自分が出発した宗教が相対的なものであることが見えてきます。日本の仏教においても、それぞれの悟りや信仰を徹底して、仏教の本源に達した名僧たちは、それぞれその宗教を相対化する境地にいて、それを様々な形で表現しています。たとえば、法然はその境地を「月かげのいたらぬ里はなけれども、眺むるひとの心にぞすむ」という和歌に詠んでいます。宗教相対主義をもっともよく表現しているといわれる「分け登る麓の道は多けれど、同じ高嶺の月を見るかな」という道歌は、一休禅師の作と伝えられています。前述の富永仲基は仏教信仰の深化によってではありませんが、あらゆる仏教経典を歴史的・文献学的方法で時代と人物、言語に位置付け、仏教の歴史性を明らかにして、仏教全体を相対化しました。
これこそ普遍的で絶対的な妥当性のある宗教、「まことの宗教」であるとするキリスト教も、そのキリスト教を形成した力であり源泉であるキリストの福音に生きる場所から見ると、そのキリスト教という宗教の相対性が見えてきます。内村がこのような場からキリスト教を相対化したことは、先に見たとおりです。本書の著者も、前著の『福音の史的展開』や本著『福音と宗教』で、キリスト教が相対的なものであることを論じてきました。それがどのように優れた宗教であっても、歴史的に形成された諸宗教は相対的なものです。その相対的な宗教が自己を絶対化して、その宗教の枠の中にいなければならないとか、誰もがその宗教規定の軛を負って従わなければならないと主張するなら、諸宗教間の対話は成り立ちません。それは宗教間のお互いの改宗運動になります。その改宗運動が権力や利害関係に結びつくと、相手を服従させ、あるいは抹殺しようとする戦争という殺し合いになります。宗教が人間世界の「隔ての中垣」になるのは、諸宗教の自己絶対化の結果です。宗教間の対話が成り立つためには、各宗教が自己の相対性を自覚し、相手の宗教としての相対的価値を認める場にいることが必要です。人類が歴史の中の多様な宗教の相対的な価値と役割を認めて、お互いに他の宗教を尊重する姿勢で対することが宗教対話の前提です。
異なる宗教が遭遇する時、どのようなことが起こるかについては、これまでの宗教史の実例が数多くあります。 日本においても、先に見たように、古来の民族宗教(後に神道と呼ばれる宗教)が行われている所に、中国から儒教や仏教が入ってきて、日本固有の民族宗教と外来の仏教や儒教が「神仏習合」や「神儒習合」と呼ばれる複雑な関わり方を見せてきました。さらにそこにキリスト教が到来して、受容、反発、迫害の複雑な歴史を形成してきました。その宗教間の勢力争いに政治権力が深く関わり、それぞれの時代の権力がどの宗教とどのように関わるかによって、その時代の独自の宗教文化と歴史が形成されるという様相を示してきました。しかし近代に入って、明治の開国以来、日本が欧米諸国と共に近代化の道を進み出した時、日本の社会も世俗化の道をたどるようになります。
世俗化は外からの力によって歴史的諸宗教を相対化する力です。それに加えて現代世界では宗教の多元化が宗教相対主義に向かわせる外からの力です。宗教の多元化も本書の第六章「現代の宗教問題」で見たように、歴史的な諸宗教を相対化する実際的な力になっています。グローバル化した現代の世界は、もはやある宗教文化圏が単独で存在することを許さなくなっています。もともとキリスト教文化圏の欧米諸国にイスラム教のモスクが多く建てられ、仏教系の団体が活発に活動するなど、もはやキリスト教は欧米の唯一の宗教ではなくなっています。他の宗教文化圏も同じです。たとえば仏教を共通項とするアジアにも、ヒンドゥー教やイスラム教やキリスト教が入って来て、それらの諸宗教間で複雑な交流や交渉や対立が進み、もはや一つの宗教が社会の体制宗教として支配することは困難です。
さらに加えて、これも第六章「現代の宗教問題」で見たように、現代世界には世俗化と宗教の多元化が産み落とした鬼子として、世俗社会の民族やイデオロギー的な価値が宗教的な絶対性を主張して一つの社会を統合し、社会全体の服従を要求する「擬似宗教」が発生して拡大、現代の歴史に波乱を引き起こしています。先に見たように、ティリッヒは民族を絶対的な価値として宗教的な服従を要求したナチズムや、社会主義イデオロギーを絶対化して宗教的な勢力となったコミュニズムを擬似宗教の実例としてあげていましたが、このような大規模のものだけでなく、現代社会には様々な世俗的な価値を標榜して、宗教的な帰依を要求する擬似宗教教団が生まれています。このような世俗化、宗教多元化、擬似宗教の発生などの宗教状況を生み出す地盤は、近現代における都市化の流れです。現代社会の人口は地方の農村地帯から都市に流入し続け、都市は大都市化し、現代の大都市テクノポリスでは農村の血縁・地縁的共同体は崩壊、核家族や個人がバラバラに生きていくようになります。このように世俗化した現代の都市では、古代や中世の血縁・地縁の共同体を統合支配していた諸宗教はもやは 権威ではあり得ず、人々はその本性的な宗教心、ホモ・レリギオーススとしての宗教性を満たすものを、これまでの既成宗教以外のところに求めざるをえなくなります。このことは、先に見たように、第二次世界大戦後の日本の宗教界に典型的に起こったことでした。敗戦によってそれまで民族を統合し支配していた国家神道は崩壊、既成の諸宗教もその権威を著しく後退させていた時、急速な経済発展によって大都市に集中した人々は、生きる拠り所や目的を新宗教に求めたのでした。明治以後、とくに敗戦以後の日本の新宗教の興隆は、近代の日本社会の都市化によるものであり、とくに敗戦後の大都市への集中がその地盤を提供したと考えられます。

世俗化と都市化との関係については、本書二一七頁以下の「世俗化と成人性 ー コックス『世俗都市』について」を参照してください。

宗教相対主義による福音活動の歴史

宗教相対主義は、歴史的な宗教であるキリスト教という宗教が絶対的なものではなく、相対的なものであることを理解して、キリスト教の諸規定(儀礼や信条など)を救いに絶対的に必要な条件とすることはありません。キリスト教を尊い宗教として尊敬しますが、キリスト教の中にいなければならないとはしません。キリスト教の中にいてもよいし、キリスト教の外にいてもよいとします。キリスト教を相対的なものと理解するのは、キリスト教とキリストの福音を区別して、キリスト教ではなく、キリストの福音を絶対的なものとするためです。ところが今までの宣教は、キリスト教を絶対化して、キリスト教に改宗することが救いであるとして、キリスト教を布教してきました。確かにキリスト教はキリストの出来事や教えを知らせて、キリストに従う道を指し示します。それでキリスト教に入信した人は、キリスト教の中でキリストの働きを体験して、キリストにおける神の恩恵の場に生きることができます。実はそのキリスト教徒は、キリストにあって働く聖霊の働きを身に受けているのです。キリスト教はキリストを告げ知らせるという意味で、キリストの福音を含んでいます。あるいは、キリスト教はキリストの福音と重なっていると言えます。キリスト教の歴史は、キリストにあって(キリストに結ばれて)生きることの模範を示すような多くの聖徒を生み出してきました。
しかし、そのキリスト教という宗教の諸規定が絶対化されて、その諸規定の順守が救いの条件であるとなると、キリスト教という宗教とキリストにおける神の働きそのものを区別しなければならなくなります。パウロもユダヤ教という宗教と、キリストであるイエスを信じて受ける神の救いの働きを区別したのではないでしょうか。ここで宗教を相対化するとはどういうことか、歴史上の実例から見ておきましょう。
イエスは敬虔なユダヤ教徒でした。幼い時からユダヤ教の聖書を学び、ユダヤ教の中で育ち、ユダヤ教の定めに従い、ユダヤ教の祭りにはユダヤ教の定めの通りにエルサレム神殿で礼拝を捧げ、死ぬ時には聖書の一句を口にして死なれました。イエスはユダヤ教が神から与えられた宗教であることを認めておられました。しかし、イエスは父の無条件絶対の恩恵を身に受けて、父と一つになって生きておられ、それがユダヤ教の規定を順守することによって到達した結果でないことを知っておられたので、ユダヤ教規定(律法)を守れないので「罪人」と蔑まれていた貧しい人々を周囲に集めて、「あなたたち貧しい者は幸いだ。神の国はあなたたちのものだ」と宣言されたのです。イエスはユダヤ教の価値を認めつつ、ユダヤ教を救いの条件とされなかったのです。イエスはユダヤ教を相対化されました。
ペトロたち十二人の直弟子たちは、復活されたイエスを体験し、その復活の証人としてイエスをキリストとして告知しました。イエスをキリストと信じた人たちは、その告知がなされたエルサレムに最初の信仰共同体を形成しました。彼らはみなユダヤ人、すなわちユダヤ教徒であって、ユダヤ教の諸規定を守ることに熱心な人たちでした。イエスを信じたユダヤ教徒にとって、ユダヤ教の諸規定(律法)を守ることはキリストを信じることと重なっていました。彼らはユダヤ教の中にあってキリストを信じていたのです。彼らの信仰は、ユダヤ教の枠の内のキリスト信仰、「ユダヤ教内キリスト信仰」でした。ところが、そのユダヤ人の中にユダヤ教徒の地であるパレスチナの地以外の地から来ているユダヤ教徒がいました。彼らは、バビロン捕囚以来、故国パレスチナの地以外の異教徒たちの土地に住んでいた「離散のユダヤ人」、《ディアスポラ》ユダヤ人と呼ばれる人たちです。
実はこのディアスポラ・ユダヤ人が、福音がユダヤ教の枠を超えて世界的に拡大することに決定的な役割を果たすのです。過越祭やペンテコステ祭のためにエルサレムに来ていたディアスポラ・ユダヤ人たちの多くの者が、最初にエルサレムに形成されたキリスト信仰共同体に参加していました。彼らは地中海地域の多様な異教徒の中に暮らしていたユダヤ人ですから、彼らの日常の言語は当時の地中海地域の共通語であるギリシア語でした。それでエルサレムに成立した最初期のキリスト信仰共同体も、アラム語を使うパレスチナ・ユダヤ人の共同体とギリシア語を使うディアスポラ・ユダヤ人の共同体に別れることになります。そして、ギリシア語を使うディアスポラ・ユダヤ人は、周囲の異教徒住民に救い主キリストの働きを伝える活動を始めます。異教徒の中でキリストを信じて共同体に加わる者が出てきたとき、イエスの直弟子として共同体を指導していたペトロらパレスチナ・ユダヤ人が、異教徒のキリスト信者に、割礼を受けてユダヤ教に改宗することを求めたのは当然のことでした。ユダヤ教徒は、異教徒を「無割礼の民」と呼んで、神の約束に無縁な者としていました。神はご自身に属する民に割礼を受けることを求め(創世記一七章)、割礼を受けた民に救済を約束されたのです。従ってキリストを受け入れる異教徒は、まず割礼を受けてユダヤ教徒となり、ユダヤ教の一員としてキリストを信じる者でなければ、神の救いにあずかれないとしたのです。このキリストを信じる異教徒にまずユダヤ教に改宗することを求めるという考え方は、ユダヤ人に根深くあったので、割礼を受けていない異教徒が、割礼を受けないままで信仰によって救われ神の民となるという考え方に変わるには、神がユダヤ人の代表としてのペトロに不思議な方法で幻を与えるという奇跡的非常手段が必要でした(使徒一〇〜一一章)。
このような福音活動の最初期に、異教徒は割礼を受けてユダヤ教に改宗しなくても、そのままでキリストに全存在を委ねる信仰によって救われるのだという主張を掲げて、異教徒信仰者に割礼を要求し、ユダヤ教徒であることを救いの条件とするユダヤ教絶対主義者と戦ったのがパウロです。パウロもディアスポラ・ユダヤ人の一人ですが、ファリサイ派の一員としてエルサレムでユダヤ教を学び、ユダヤ教規定の順守には人一倍熱心で、ユダヤ教律法を軽視するキリスト信仰共同体を迫害したのです。しかしそのパウロがダマスコ途上で復活者キリストの顕現に接し、キリスト信仰に回心します。はじめはエルサレム共同体やアンティオキア共同体の一員としてキリストの福音を告知する活動を進めていましたが、しばらくしてそれらの共同体から離れて、独立でエーゲ海地域の諸都市に福音を伝える活動を進めます。パウロが独立で福音活動を始めたのは、キリストにおける神の絶対恩恵による救いを体験してからは、ユダヤ教律法順守を神の民の条件とするユダヤ教絶対主義者と対立、ついにアンティオキアの食卓事件でアンティオキア共同体と衝突したからです(ガラテヤ二・一一以下)。パウロはこの時には、「人は律法の実行(ユダヤ教規定の順守)ではなく、ただイエス・キリストの信仰によって義とされる(救われる)」という、パウロが全生涯をかけて主張した「信仰による義」の原則を確立していました。ユダヤ教を相対化して、キリスト信仰だけを救いの根拠としたのです。ユダヤ教ではなく、キリストだけが絶対化されたのです。パウロはこのユダヤ教相対化の原理をもって福音を告知する活動を進め、生涯ユダヤ教絶対主義者からの反対運動に悩まされ、ついには彼らの策謀によって訴えられ、殉教するに至ります。
歴史的な宗教を相対化してキリストの福音を告知した実例として、ここで一足飛びに二〇世紀の内村鑑三がキリスト教を相対化して近代日本に福音を告知した働きをあげることになります。それは、キリストの福音によって地中海世界にキリスト教という宗教が成立して以来、そのキリスト教を相対化して、キリスト教の外でキリストの福音を宣べ伝えた歴史的実例を、二〇世紀の日本の内村以外にわたしは知らないからです。先に本書の「第四章 キリスト教史における福音」で見たように、キリスト教の長い歴史には聖霊の働きを豊かに身に受けてキリスト教という制度化した宗教を内から改革した優れた聖徒や多くの運動がありました。しかし、パウロが異教徒は割礼を受けてユダヤ教に改宗しなくても、キリストにあって救われ神の民となるとして割礼を不要としたように、キリスト教を布教するにあたって、異教徒に洗礼を受けてキリスト教に改宗しなくても救われ神の民でありうると宣言して、洗礼不要を唱えてキリスト教の外に踏み出した実例を、わたしは知りません。こうして内村はキリスト教を相対化したのですが、これについては本章で詳しく述べたところですので繰り返しません。
これからの日本に福音を告知していく活動について考えるとき、キリスト教という宗教を布教し、キリスト教という宗教によって救済者である復活者キリストを指し示すのも意義ある働きですが、内村がしたようにキリスト教の外で「十字架された復活者キリスト」を直接告知する働きが重要になるのではないか、とわたしは考えます。内村が唱えた「無教会主義」という表現は、やや教会否定、キリスト教無価値の主張のニュアンスを伴いますので、わたしはそのまま使うことをためらい、「キリスト教の相対化」と表現しています。キリスト教は価値ある尊い宗教です。しかしそれが歴史的に形成され、制度化した宗教である限り相対的なものです。そのキリスト教という宗教を絶対化して、キリスト教宗教の信者としてその宗教の中にいなければ救われないとしてはなりません。では、これからの日本における福音活動はどうあるべきかは、本章で考察しているように、キリスト教の外で進められる働きが重要になってくると考えられます。

新約聖書内のモデル

このような宗教と福音活動の関係は、すでに新約聖書の中にもあったように思います。新約聖書の各文書が成立した時代には、まだキリスト教という宗教は存在しません。復活者キリストを証言しようとする者やその集団にとって、問題となる宗教はユダヤ教です。最初にキリストを証言した使徒たちはみなユダヤ人、すなわちユダヤ教徒です。彼らは聖書(旧約聖書)を神からの啓示と信じ、ユダヤ教という宗教に忠実で熱心な人たちでした。彼らがイエスを復活者キリストとして告知した福音活動は、彼らの宗教であるユダヤ教との関係で様々な形態をとることになります。
イエスは復活した後、生前に選んでおられた十二人の弟子たちに現れて、キリストであるイエスの証人となるように求められました。彼らは復活してキリストとして立てられたイエスの地上での働きや教えの言葉を伝えました。イエス復活の証言とそのイエスが地上におられた時の教えの言葉やなされた奇跡的な働きの数々は、その目撃者である十二人の弟子たちから、最初に成立したエルサレムの信者の共同体に伝えられます。その活動を代表するのがペトロです。ペトロはその活動をエルサレムから世界の各地に広げ、ついにローマに達し、そこで殉教したと伝えられていますが、ペトロなき後ペトロと活動を共にしたマルコが、ペトロが語り伝えたイエスの十字架の死にいたる生涯とイエスの働きを中心に文書にまとめたのがマルコ福音書です。したがってマルコ福音書は、目撃証人によって伝えられた、イエスの地上での働きとその生涯を知る基礎資料となります。
イエス復活の報知とイエスの教えは比較的短時日のうちに、ユダヤ人居住者の多い北方のヘレニズム大都市アンティオキアに届き、そこにユダヤ人と異邦人の両方を含む有力な信者の共同体が形成されます。エルサレム共同体はユダヤ人信者の共同体であり、当然ユダヤ教の枠内のキリスト信仰共同体です。エルサレム共同体は同じシリア州内のヘレニズム大都市アンティオキア共同体を同質のユダヤ教の枠内に止めるために、使徒や預言者を派遣して働きかけます。そのようなアンティオキア共同体の指導的な立場にあるユダヤ教律法学者の一人が、ユダヤ戦争以後の時代に動揺する信者を励ますために、イエスの生涯の枠組みについてはすでに成立していたマルコ福音書に従いつつ、アンティオキアにまで伝えられていたイエスの語録集を編集して、マタイ福音書を書きます。イエスの語録集は、イエスの教えの言葉を携えてパレスチナ各地に新しいイエス信仰を伝えたユダヤ人たちの信仰の拠り所です。それをユダヤ教律法学者が編集して福音書としたのですから、マタイ福音書はユダヤ教の枠内で福音を保持しようとする傾向が強い福音書となります。
ところがそのアンティオキア共同体の指導的な立場にあったパウロが、アンティオキアから出て独立自給でエーゲ海地域のヘレニズム都市に福音を告知する活動を始めるのです。パウロはダマスコ体験によって復活者キリストの顕現に接し、その体験で敵対者を無条件で赦す恩恵を体験、その恩恵を福音として宣べ伝える活動を始めていましたが、ユダヤ教律法の順守にこだわるアンティオキア共同体と衝突、独立の福音活動に踏み切ったのでした。ユダヤ教という宗教の枠の外で、十字架されたキリストの福音を、パウロは聖霊の力に満ちて宣べ伝える活動を進めます。その労苦に満ちた激しい福音活動の結果、テサロニケ、コリント、エフェソなどのエーゲ海地域のヘレニズム世界の中心諸都市と周辺各地に、おもに異邦人から成るキリスト信仰共同体を形成します。このパウロのユダヤ教の外での福音活動は、神の民はユダヤ教の枠の中にいなければならないと信じるユダヤ人の働き人から執拗な批判と妨害を受けることになります。パウロは自分が告知したキリストの福音の内容を、その最晩年にまとめて書き残しています。それがローマの信徒に宛てた手紙、ローマ書です。この書の中心になる「信仰による義」、すなわち「人が義とされるのは、律法の実行によるのではなく、キリストの信仰による」という主張は、人が神に受け入れられて神との本来の関わりに入るのは、ユダヤ教という宗教の実行順守ではなく、キリストの信仰、キリストに合わせられて生きることによるのであるという、ユダヤ教の外に出たパウロの宣言なのです。なお、ユダヤ教の外にいる異邦人(異教徒)が、宗教の枠の外で神に従う際の具体的な問題については、パウロはコリントの集会に宛てた手紙(とくに第一の手紙)で論じています。
パウロはイエスの地上での働きに同行した直弟子ではなかったので、イエスの地上での働きや教えの言葉を伝える福音書は書き残していません。その必要を感じて福音書を書いたのは、パウロの弟子の一人ルカです。ルカはパウロの生涯の終わりまで同行した弟子であり、古代の教養ある歴史家です。ルカはイエスとパウロにゆかりの地を巡り歩いて資料を集め、その資料に基づいてイエスの生涯と使徒としてのパウロの働きを文書にして書き残しました。それがルカ福音書と使徒言行録です。イエスの生涯をまとめるにあたっては、マルコが用いたガリラヤでの福音活動、エルサレムへの旅、エルサレムでの受難と復活という三区分の枠組みを用いつつ、その第二区分に独自に集めた資料を入れて、パウロ系の諸集会が確かなイエスの教えの言葉をもつことができるようにしました。その際、ルカはマタイが用いたのと同じイエスの語録集を用いていますが、マタイのようにユダヤ教の枠の中ではなく、ユダヤ教の外での信仰生活のためにというルカの目的に合わせて用いています。一方、パウロがユダヤ教の枠の外でという信仰の面を強調したので、ユダヤ教の枠に止まる使徒たちの信仰を低く評価し、自分の内的な知恵とか洞察を至上のものとして、ユダヤ教聖書を拒否するグノーシス主義的な方向が芽生えていましたが(その一人がマルキオン)、その方向に対抗するためにユダヤ教の信仰上の意義を強調し、ユダヤ教聖書(旧約聖書)を復活者キリストの証言(新約聖書)と並んで信仰の拠り所となる正典として受け入れます。福音書においては、キリストの出来事がすべて旧約聖書の成就であることを強調、使徒言行録では使徒たちを代表するペトロがパウロの主張と同じ趣旨の発言をしています。ルカはユダヤ教の外で福音を宣べ伝えたパウロの弟子です。しかし歴史家のルカは、歴史的な運動がシステムを必要とすることをよく理解していました。ルカのこの方向が後にキリスト教という宗教を生み出すのに有力な原動力になります。
福音書の中でヨハネ福音書は特別な性格をもつ福音書です。イエスが洗礼者ヨハネのバプテスマ運動から出て独自の「神の国」告知の運動を開始し、十字架の死に至るまでイエスに付き従った弟子の中に、イエスが選ばれた十二人の他に年若い弟子が一人混じっていました。それはエルサレムの高位の祭司の子で、幼い時(おそらく十代の半ば)から預言者ヨハネのもとに馳せ参じて求道に励んでいたヨハネです。彼は洗礼者ヨハネのバプテスマ運動の中でイエスと出会い、イエスに付き従って、イエスの働きとその教えに耳を傾けたのです。彼はイエスのことを「自分の目で見た方、手で触れた方」ということができた人物です。その年若い弟子はイエスが慈しまれた弟子であり、死にあたっては母マリアを託された弟子でした。彼は年若さのゆえにイエスの地上での活動には加わっていませんでしたが、復活されたイエスに出会ってからは、その証人としてパレスチナ各地にイエスを復活者キリストとして宣べ伝えます。しかしユダヤ戦争によってパレスチナが危険になった時、託されたマリアのこともあったのでしょう、当時の国際的な大都市エフェソに避難、移住します。ヨハネはそこでキリストとしてのイエスを告げ知らせ、多くの異邦人を含むキリスト信仰共同体を形成します。このヨハネが形成した共同体(ヨハネ共同体)の証言活動から生まれたのがヨハネ福音書です。
エフェソはパウロが最後の年月に、エーゲ海地域でユダヤ教の外での福音活動を進めた時の拠点です。エフェソにはパウロが残した信仰の遺産が根付いています。パウロの書簡だけでなく、パウロの後継者が書いたと考えられるコロサイ書やエフェソ書などのヘレニズム世界での霊的展開も、パウロが植えたユダヤ教の外でのキリスト信仰の果実でしょう。そのエフェソを中心に各地に展開したヨハネ共同体が生み出した福音書が、パウロの影響を受けるのは自然な流れです。それでヨハネ福音書には、ペトロを代表とする十二使徒団とそのユダヤ教内の共同体をキリストの民として尊重しつつ、その流れとは距離を保って独自の道を行こうとする微妙な距離感があります。
たとえば、マルコ福音書を基本的な枠組みとして独自の神学的見地から福音書を書いたマタイ福音書やルカ福音書(共観福音書)と較べると、最後の晩餐についての記述が違っています。共観福音書ではイエスは弟子たちと過越祭の食事をしてから、その後の夜中にゲツセマネで逮捕され、翌朝に裁判、死刑判決、午前中に処刑場のゴルゴダに引かれていき十字架刑、夕暮れまでに絶命、埋葬されることになります。日没から一日が始まるユダヤ暦では、このすべては同じ一日のうちに起こったことになります。ユダヤ教では過越の食事はニサンの月の十五日に行われますから、イエスの十字架刑も同じ日となります。ところがヨハネ福音書では最後の弟子たちとの食事は、過越の食事ではなく「祭りの準備の日」に行われたことになっています。すなわちイエスはニサンの月の一四日に弟子たちと最後の食事をされているので、これはユダヤ教の過越の食事ではありません。イエスは弟子たちの足を洗うという象徴的な行為をされ、訣別の言葉を与えておられますが、過越の食事を示す何もありません。従ってパンと盃によってイエスの死を意義づけ、これを繰り返し行うようにという「制定語」もありません。ということは、ヨハネ福音書には聖餐式という制度を根拠づける記事はないことになります。イエスはその夜に逮捕され、日没から始まる翌日の過越の食事のために神殿で羊が屠られるまさにその時に十字架につけられたのです。また、マタイやルカがしているように「水の洗礼」に関する命令もありません。後世のキリスト教会が必須の儀礼とした聖餐と洗礼という聖礼典(サクラメント)について、この福音書は言及を避けているような書き方です。ヨハネ共同体は洗礼や聖餐式を行なっていなかったという証拠はありませんが、このようなサクラメントに関するこの福音書の「故意の無関心」は注目されます。
ヨハネはイエスの地上の働きの目撃証人として、ユダヤ教の場で「神の国」を告知されたイエスの働きを報告する立場にあります。しかしエフェソで異邦人に働きかける活動においては、パウロのようにユダヤ教の外でキリストとしてのイエスを証言しようとします。それでもしユダヤ教の外で福音を告知する活動において、イエスの生涯を伝える福音書を書こうとするとヨハネ福音書のような形になるのでしょう。ヨハネ福音書はもはや洗礼とか聖餐式というようなユダヤ教儀礼を信仰に必要な形式とはせず、また「神の国」とか「神の支配」というようなユダヤ教固有の概念や表現はなるべく避けて、もっぱらキリストにおける神の救いの働きを「永遠の命」という人間の普遍的な目標で語ることになります。
以上に見たように、新約聖書の中にもキリストの福音を告知するにあたって、宣べ伝える者の宗教であったユダヤ教との関係で、その宗教の中で福音を告知するのか、その宗教の外で活動するのか、様々なモデルを提供しているようです。今わたしたちがキリスト教の中で福音活動を進めるのか、キリスト教の外でするのかを考えるとき、参考にすることができると思います。

仏教内キリスト信仰はありうるか

新約聖書の時代にパウロがユダヤ教内のキリスト信仰だけでなく、ユダヤ教外のキリスト信仰を認めたように、現代のキリストの証人であるわたしたちは、キリスト教内のキリスト信仰を尊びながら、キリスト教の外でキリスト信仰を宣べ伝えようとしています。では、キリスト教以外の諸宗教の中でのキリスト信仰はありうるでしょうか。たとえば仏教内のキリスト信仰というものも認めることができるでしょうか。たしかに仏教内キリスト教はありえないでしょう。しかし原理的には「仏教内キリスト信仰」はありうると、わたしは考えます。仏教は歴史的な制度的宗教であり相対的なものです。その中に絶対的なキリスト信仰が生まれることはありえます。しかし、もし仏教の中でキリスト信仰に生きる者があるとすると、その人の仏教は現在仏教と呼ばれている宗教とは随分形が違ったものになるだろうと思います。 まず仏像を本尊として供物を捧げたりして崇めることはできなくなります。仏像を見えない救済の力とか働きを指し示す象徴と理解して仏像を尊び、その文化的・芸術的価値を認めるとしても、仏像そのものを拝することはできません。また仏像の前で訳の分からぬ漢語を並べて唱えるお経がわたしたちの霊性を深めたり高めたりするとは考えられません。むしろ仏典の一節が深く心に沁みて人生の糧になることはあるでしょうが、それは長い歴史の中で深められた人間理解の共感から来るもので、仏典であろうと聖書であろうと他の賢人の書であろうと同じです。
わたしたち日本人は長い間仏教の宗教文化の中で生きてきました。先に地上の生を終えた親しい人たちを偲び、その人たちとの絆を大切にするのは人間の自然の情です。しかし仏教国の日本ではそのすべてが仏教の枠の中で行われることになります。亡き人を葬った墓地はたいていは仏教寺院の中にあります。大切な亡き人を偲ぶ記念の行事は法要という形で行われます。家庭では仏壇の前で法要が行われます。わたしたち仏教の宗教文化の中でキリスト信仰に生きる者は、このような宗教文化を頭から否定して仏像や仏壇を直ちに破壊するようなことはしません。外から形をかえるのではなく、変革された内なる霊性から自然に外の形式や社会的風習が変わって来ることを忍耐深く待ちます。それには数世紀かかるかもしれませんが、キリストにあって神を信じる者は、神の前には千年は一日のようで一日は千年のようであると、違った時間の物差しで歴史を見ています。明治新政府が国家を国家神道で統一することを急ぐあまり廃仏毀釈を行なったり、一部の宗教過激主義者が自分たちの宗教目的を達成するために武力を用いるようなことをしてはなりません。

福音共同体の形成について

わたしは、キリストの証人の使命はキリストの福音を世に告げ知らせることであって、特定の宗教の布教活動を進めることではないと信じます。キリストがその証人を世に遣わされたのは、「洗礼を授けるためでなく、福音を告げ知らせるため」です。そうであるならば、キリストの証人はキリスト教の布教ではなく、福音の告知のための活動に専心すべきです。宗教相対主義の立場では、福音を告知する活動にはキリスト教の中での活動も、キリスト教の外での活動もありえます。キリスト教の中でするにしても、キリスト教の外でするにしても、お互いにそれが福音活動である限り尊重し合わなければなりません。それがキリスト教の中で行われる場合は、大抵の場合、本書第四章の「キリスト教史における福音」で見たように、形式化したキリスト教がその形式を絶対化して、その形式から外れる福音活動を抑圧迫害する場合が多くなると考えられます。
現代の世界が世俗化しつつあり、将来ますます世俗化の傾向を強めていくと予想されます。あるキリスト教の神学者が言ったように、それは「運命としての世俗化」かもしれません。世俗化し多元化する世界で、宗教の枠に固執する必要はますます小さくなります。これからの福音活動は、パウロや内村が自分が所属する宗教の枠から外へ踏み出したように、キリスト教の外で進められる福音活動が重要な意味を持つことになるでしょう。キリスト教の中での福音活動においてもボンヘッファーのように(本書二〇五頁以下)、キリスト教という養育係の監視から脱した「成人した世界」でのキリスト信仰を予見した神学も出てきています。しかしパウロがガラテヤ書の三章で述べているように、世界がユダヤ教やキリスト教という教育係のしつけや監視から脱して成人するためには、世俗化による脱出ではなく、キリスト信仰の出現が必要です。そして世俗の中でのキリスト信仰の実現には神の霊の働き、「聖霊のバプテスマ」が必要であることを、本節で強調しました(本書六二七頁の「キリストのバプテスマ」以下の諸項を参照)。キリスト教の外での福音活動、すなわち世俗の世界での福音活動にこそ、新約聖書が「聖霊のバプテスマ」と総称する神の霊の働きが必要となります。世俗化した世界での福音活動は、十字架された復活者キリストの報知と共に聖霊によるバプテスマの約束をも携えていかなければなりません。
前項でキリスト教の外での福音活動の新約聖書内のモデルとして、パウロのユダヤ教の外での福音活動の実例をあげました。パウロは信じた異邦人に割礼を施すことに激しく反対して、自分の活動がユダヤ教への改宗運動になることを拒否しました。パウロが告知する福音を信じてキリストに従うようになった人たち(おもに異邦人)の共同体を、パウロは《エクレーシア》と呼んでいます。その《エクレーシア》は大抵個人の家に集まる小さな集まりでしたので、「誰それの家にある集会」という呼び方を用い、ある地域の諸集会全体に語りかけるときはその《エクレーシア》を複数形で用いていました。しかしパウロの次の世代になりますと、コロサイ書やエフェソ書に見られるように、世界中のキリスト信仰の民を単数形の《エクレーシア》という語で指して、キリストの民全体の信仰とその姿を記述するようになってきています。このような場合の《エクレーシア》を、わたしは神の民の総称という意味で「御民」と訳していました。本書ではこのような意味での《エクレーシア》を「福音共同体」と呼ぶことにしています。
これからの福音活動がキリスト教とキリスト教会の外で進められると、教会の外に様々な形のキリスト信仰の共同体が形成されることになります。その中で主要なものは、パウロの活動の結果生まれた個人の家に集まる集会のような家庭集会とか、キリスト信仰によって形成される各種の機能団体(たとえば地域ごとの協議会とか聖書の翻訳や出版のための団体など)の形を取るものなどが考えられます。そのような家庭とか機能団体の影響が徐々に周囲に及んで、社会がキリスト信仰に、すなわちキリストにおける神の働きに依存するようになり、それらが何らかの形で組織化されて、社会にキリスト信仰の幅広い緩やかな統合、すなわち「福音共同体」が生まれてくることを想像します。これはまだ夢とか想像の段階ですが、キリスト教という枠の外の福音活動も、何らかのシステム化を経ながら成長していくと予想されます。一つの社会がキリスト信仰の中核をもって統合されるまでには、何百年、何世紀もの長い時間がかかるかもしれませんが、われわれは「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」という聖書の言葉を忘れることなく、また種を蒔いて収穫の日を待つ農夫のように忍耐深く、御言葉という「神の国」の種を蒔き続けなければなりません(マルコ四・二六〜二九)。