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第 一 講  福音は神の力


わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。

(ローマ書 一章一六節)


 福音は神の力です。福音は教理ではなく儀礼でも宗教でもありません。もちろん講義でもありません。それは神が、すなわち世界と生命の創造者である方が、世界のすべての人の救いのためにキリストにおいて成し遂げてくださったことを告げ知らせる使者の使信であり、宣言です。世界の人々が深い知識とか意味づけを追求して、新しくて深遠な宗教を期待している中で、パウロはまず最初にこのような単純な使信を宣べ伝えることを恥としないと言っているのです。

(注)福音とは何か、その内容については著作集20「福音の史的展開T」5頁の序論1「福音とは何か」を参照してください。

 使者であるパウロは、なぜこのように単純な使信を恥じていないのでしょうか。パウロはその理由を、ギリシア語で理由とか推論を示す《ガル》という語で始まる次の文で言い表しています。彼が恥としないのは、この使信はわれわれの存在と生命の根源的な土台である方、神の力を内に秘めているからです。ここで力とは一つのベクトル量であり、単に量をもつだけでなく、方向もあることを理解しておく必要があります。「それは神の力である」という句は、まずその力の大きさを示しています。神が成し得ないこと、実現できないことは何もありません(マルコ一〇・二七)。力が働くとき、運動とか速度、位置とか方向、あるいはそれが働く目的物の状態を変化させます。神の力は、被造物であるわたしたちの中に深い変化を引き起こし、その変化の質はわたしたちが理解も想像もできないほどのものです。

 その力の方向は「救いに至らせる」(直訳)という句が示しています。神の力はわたしたちの救いに向かって働いているのです。では救いとは何でしょうか。この問いは、本書の福音の使信全体の中で解明されることになるのですが、今の段階では神の力はわたしたちの救いの方向に向けられているのだと言うに止めなければなりません。この世界と宇宙では人間の中に様々な種類の力が働いています。その中にはわたしたちを不安と滅びの方向に向かわせる力も多くある中で、神の力はわたしたちを神との交わりと神の栄光への参与に、神のリアリティー(現実性)へと導くのです。

 では、この救いに向かう神の力は誰に向かって働くのでしょうか。それは「信じる者には誰にでも」働くのです! ここで「信じる」というのは、この使信を信じることです。もしある人が、この使信は偽りだとしたり、この使信は神からのものではないとするならば、この使信は救いに至らせる神の力として働くことはできません。それは当然です。神が働くとき、常に神が主体であり、わたしたちはその働きの客体です。神がわたしたち人間の救いの力として働くとき、わたしたち人間がお互いの間でしているように、神はその言葉によって働かれます。もしわたしたちが、神からの言葉であるこの福音を信じないならば、神との現実的な関わりをもつことができるでしょうか。神はこの使信を拒む不信仰な者に救いの力を示すことはできません。

 ではここでパウロの「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも」という宣言に向かいましょう。この表現はどういうことを意味しているのでしょうか。この言葉はよくパウロの伝道活動に関するものと解釈されます。確かに、パウロはユダヤ国民以外の諸国民にも福音の言葉をもたらすように召されたことは本当です。しかしこの表現はたんに「ギリシア人」以上のことを意味しており、それはユダヤ人以外の諸国民すべてを指しています。それは、ユダヤ人が「異邦人」と呼んで、神の国に関わりをもつことができない人々を指しています。けれどもパウロはこの句で異邦人をもこの「すべて信じる者」に含ませたのです。この宣言はユダヤ人にとって極めて衝撃的な宣言であって、ユダヤ人はパウロを聖なる宗教ユダヤ教の信条に背いたのだと感じました。もしユダヤ教の外にいる異教徒が神の国の分け前に与り、神の栄光に参与できるのであれば、ユダヤ教に何の意味があるのか。パウロはこのユダヤ人からの批判と迫害とに生涯戦わなくてはなりませんでした。

(注)ユダヤ教については著作集23「福音と宗教T」117頁の第二講第一節Tの「書物の宗教ーイエスの時代のユダヤ教」を参照してください。

 ユダヤ人の中でイエスを信じている一部の人が、異邦人の信者にユダヤ教への改宗を示す割礼を受けるように要求しました。ユダヤ教に改宗した者は、安息日の規定、食物制限、特別の清めの儀式など、ユダヤ教の規則すべてを順守しなければなりません。パウロはこの要求を拒否して、彼らに激しく反対しました。もしパウロが異教徒の割礼を容認したならば、彼の福音活動のすべては異教徒のユダヤ教への改宗と、ユダヤ教の宣伝活動以上のものにはならなかったでしょう。

 ユダヤ人はユダヤ教のことを《トーラー》と呼んでいました。この語はギリシア語では普通「ノモス(律法)」と訳されています。それでパウロがギリシア語で「しかし今や神の義が律法とは関係なく現された」(ローマ三・二一)とか、「人は律法の働きとは別に信仰によって義とされるのである」(ローマ三・二八)とギリシア語で書いたとき、パウロはユダヤ教の外でも福音を信じる者はだれでも神の救いの働きを受けるのであることを言おうとしたのです。ローマ人への手紙から引用した上記の二つの文において、「律法とは別に」という句は強調されています。この句のギリシア語テキストは、「律法なしで」とか「律法の外で」とか「律法とは関係なく」と訳すこともできます。パウロは神の救いの働きは「ユダヤ教の外で」、「律法とは関係なしで」、すべて信じる者に働くことを強調しているのです。

 パウロのこの宣言は、ユダヤ教徒にとってまことに革命的であり、またショッキングなものでした。しかし「福音はすべて信じる者を救いに至らせる神の力である」というローマ書一章一六節の宣言は、パウロの時代と同様、今日においても革命的であり、またショッキングなものです。パウロの時代においてユダヤ教は、それによって人が神の国に参与できると言える唯一の宗教でした。しかしパウロが神はユダヤ教徒だけでなく異教徒にも救いを与えてくださるのだと宣言したとき、神の救いの力はユダヤ教の枠を超えて働くことが示されたのです。現代において福音を説く者が、キリスト教の外においても、すなわち水の洗礼を受けてキリスト教に改宗していない異教徒の中にも、神の救いの力は見ることができると宣言した場合を考えてみてください。キリスト教徒の多くがショックを受け、その人を批判することでしょう。彼らはキリスト教の外で、あるいはキリスト教がないところで、神がその救いを示されるという考えにショックを受けるのです。

 われわれは神の救いの力(働き)をキリスト教の中に限定すべきではありません。福音において神の救いの力(働き)が顕され、キリスト教徒をはじめ異教徒にも救いが与えられました。しかしキリスト教宣教の歴史においては、その本来の目標が異教徒をキリスト教に改宗させることに置かれ、キリスト教への改宗を示す水の洗礼を施すことが重視されました。そのような人たちは、神の救いの働きをユダヤ教の枠に限定したパウロの対立者と同じことをしているのです。

 今やわれわれはこのような制限を克服して、神の救いの働きをキリスト教の外においても認めなければなりません。わたしたちはキリスト教の外で福音を宣べ伝え、神の救いの力が異教世界にどのような宗教文化を創りだしていくのかを見なければなりません。確かにキリスト教は人類のために豊かな土壌を提供し、良い実を生み出しました。しかしキリスト教は、われわれがそれによって神の栄光とその国に到達できる唯一の宗教ではありません。キリスト教は自分を救いに至る唯一の門とすることはできません。キリスト教をはじめユダヤ教、イスラム教、仏教など、歴史の中で形成され、それぞれの社会を統合してきた諸宗教は、すべて相対的なものです。それらの諸宗教は、すべての民がそこに留まらなければならない絶対的または普遍的価値を主張することはできません。それらの諸宗教は人類の救済の条件ではありえません。われわれはあらゆる既成の宗教の枠組みの外で、キリストにおける神の救いの力を証言しなければなりません。キリスト教への改宗を目指すべきではありません。