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第 三 講 聖霊によるバプテスマ


ヨハネはこう宣べ伝えた、「わたしは水であなたたちにバプテスマを授けたが、その方は聖霊でバプテスマをお授けになる」。

(マルコ福音書一章八節)


 イスラエルの歴史で最も偉大な預言者たちの一人である洗礼者ヨハネは、その時代の民に対して多くの言葉で預言し、警告しました。しかし福音書記者マルコは、ヨハネの様々な預言を一つの点に絞りました。すなわち、来たるべき方は聖霊によってバプテスマするという預言です。来たるべき方は自分よりも遙かに偉大であると考えたので、ヨハネは自分を「その方の履き物のひもを解く値打ちもない」と言ったのです(マルコ一・七)。ヨハネは「わたしは水であなたがたをバプテスマしたが、その方はあなたがたを聖霊によってバプテスマするであろう」と証言しました(マルコ一・八)。他の共観福音書(マタイ三・一一やルカ三・一六)もこのマルコの証言と同じです。ヨハネ福音書(一・二九〜三四)も同じです。これは新約聖書の福音の基本的なメッセージです。

 ヨハネが預言した方とは誰でしょうか。それはヨハネの後に現れて働いたナザレのイエスではありません。確かにイエスは神の国が近くに迫っていることを宣べ伝え、初期にはヨハネのようにバプテスマを施しておられました。しかしヨハネが投獄された後には、イエスはガリラヤで彼独自の形で神の国を宣べ伝え始められました。ガリラヤではイエスは誰をもバプテスマせず、バプテスマについて教えることもありませんでした。ヨハネが指さした「来たるべき方」というのは、イエス・キリスト、すなわち復活者キリストとしてのイエスです。このイエス、すなわち復活したキリストが弟子たちに言われるのです、「ヨハネは水でバプテスマしたが、あなたがたはまもなく聖霊によってバプテスマされるであろう」(使徒言行録一・五)。弟子たちをいつも聖霊によってバプテスマするのは、もともと地上に現れたイエスではなく、復活されたキリストです。いつも復活者キリストがすべて信じる者を聖霊によってバプテスマされるのです。

 しかしながらキリスト教会は歴史を通じて、水のバプテスマが救いに至る唯一の道であると主張してきました。キリスト信者は、キリストの復活から二世紀または三世紀の間に地中海世界の大部分に、つねに拡大し続けるキリスト教会のネットワークを作り上げました。そして彼らは、キリスト教会が形成したキリスト教という宗教が、人類の救済にとって唯一本当の絶対的で普遍的な宗教であると宣言しました。さらに彼らは水のバプテスマをキリスト教に入るために必要な義務的儀式としました。それ以来、キリスト教の宣教師たちは、水のバプテスマによって異教徒をキリスト教に改宗させるために、あらゆる努力を重ねたのでした。

 水のバプテスマは洗礼者ヨハネの生涯の使命でした。今やキリスト教会は、本来は洗礼者ヨハネのものである使信の上に建ち、水のバプテスマを罪の赦しに至る道として宣べ伝えています(マルコ一・四とルカ二四・四六〜四七を比較)。復活者キリストによる聖霊のバプテスマは、キリスト教会の中では普通、癒やしや預言または異言などの特別の賜物として教えられており、それが永遠の命に至る道として、異教徒への中心的なメッセージとして教えられることはほとんどありません。救いとか永遠の命というのは、すべてキリストを信じる者に復活のキリストから与えられる聖霊の現実です。

 福音書記者のヨハネは叫びました、「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理(現実、実体)はイエス・キリストを通して現れたのである」(ヨハネ福音書一・一七)。それによってヨハネは、神の諸々の要求はモーセによってわれわれに来たが、われわれはそれを満たすことができなかった。しかし無条件の贈り物がイエス・キリストによって与えられ、何の値打ちもない者がキリストにあって神との交わりに受け容れられたのだ、と言っているのです。これがキリストあって与えられた恩恵です。そしてモーセの宗教が終わりの日に目指した事態が、キリスト・イエスにあるわたしたちに現実となったのです。父との交わりの現実・実体がキリストあって聖霊によりわたしたちの所に来たのです。ヨハネ福音書では、「リアリティー(現実、実体)」と「霊」は一つに結ばれています。「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理(現実、実体)をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である」(ヨハネ福音書四・二三)。

 さてここで、聖霊によって与えられる終わりの日の実体について、そのいくつかの側面をお話しすることにします。人間にはその存在に三つの次元があると考えられます。第一の次元は垂直の次元です。人間は霊的存在です。人間の上には人間を神に導こうとする善き霊があり、その下には人間を滅びに導こうとする悪しき霊があります。人間は意識的にか無意識的にか、それらの存在と力との関わりをもって生きていかなければなりません。これが垂直の次元、あるいは宗教的次元です。第二の次元は水平の次元です。人間は一人では生きていけません。わたしたちには必ず共に生きる仲間とか隣人がいます。この仲間とか隣人との関わりが、わたしたちの水平の次元、あるいは倫理的次元です。最後に、人間は時の次元に生きています。人間には過去と未来があり、過去と未来の間の瞬間である現在に生きています。わたしたちは過去を振り返り、未来のことを考えなければなりません。人間には時の次元、あるいは歴史の次元があります。

 聖霊のバプテスマによって聖霊が来てわたしたちの中に働き始めるとき、終わりの日の実体がわたしたちの所に来たのです。聖霊はこのわたしたちの内なる存在の三つの次元に根本的な変化を引き起こします。垂直の次元では、聖霊はわたしたちを神の子となして、わたしたちに「アッバ、父よ!」と叫ばせます(ローマ書八・一五)。聖霊によるこの根本的な変革が起こるまでは、わたしたちは自分自身だけに頼り、自分自身の中に閉じこめられていました。今やわたしたちは、子供がその父親と母親にしているように、自分自身を父としての神に全面的に委ねることができるのです。今やキリストにあって神が、宇宙とわたしたちの中にある命を創造された神が、わたしの父なのであり、聖霊が人生のすべてのことにおいて父に委ねて、「アバ、父よ」と叫ばせてくださるのです。

 水平の次元、すなわち倫理的な次元においては、神はその命そのものである神の愛をわたしたちの心の中に注いでくださり(ローマ書五・五)、わたしたちが互いにその神の愛をもって愛すことができるようにしてくださいました。その愛は、わたしたちが生まれながらの本性では経験したことのない愛です。「わたしたちがまだ罪人であったときに、キリストがわたしたちのために死なれたことによって、神はわたしたちに対する御自身の愛を示しておられるのです」(ローマ書五・八)。「罪人」というのは神に従わず、神に背いた者たちのことです。わたしたちは罪人、神に背いた者でした。しかし神はキリスト・イエスにおいて、彼が十字架の上にいけにえの小羊として死なれた時に(ヨハネ福音書一・二九)、自分に背いた者たちへの愛を示されたのです。神は背くわたしたちにその恩恵によって無条件に赦しを与え、神との交わりに受け容れてくださいました。この新しい種類の愛に生きておられたイエスは、弟子たちに「敵を愛し、憎む者に善をなせ」と教えられました(ルカ福音書六・二七)。パウロはキリストに属する者に、愛に生き、善をもって悪に報いるように求めています(ローマ書一二・九〜二一)。ヨハネはその群れに、「愛する者たちよ、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」と言っています(ヨハネ第一の手紙四・一一)。愛は、正義と並んで、人々を一つの共同体に統合するのに最も重要な力です。

 時間の次元、あるいは歴史的な次元では、神はわたしたちを古い過去から切り離して、聖霊の現実によって歩む新しい道を備えてくださいます。この急激な変化はしばしば「新しい誕生」と呼ばれます。わたしたちが誕生と共に投げ込まれていた古い宗教の枠から解放されたのですから、キリストにおけるわたしたちの生は、古い生とは全く違ったものになっているからです。人間の社会はそれぞれ、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、仏教などの歴史的宗教のどれかによって支配され統御されています。わたしたちはそれらの宗教のどれかの枠組みの中に生まれ落ちてくるのです。しかし今は宗教の軛から解放されて、キリストとの交わりの中で新しい命を生きているのです。この新しい命は、わたしたちに未来に対する新しい希望をもたらします。すなわち、神の栄光にあずかる希望(ローマ書五・二)、死からの復活の希望(コリント第一の手紙一五章)です。わたしたちは終わりの日の現実の中に生きています。わたしたちは「御霊の最初の実」を与えられているのです(ローマ書八・二三)。それは、御霊の現実は死からの復活の前(まえ)味(あじ)だということです。「わたしたちは救われてこの希望をもっているのです」(ローマ書八・二四)。

 パウロはキリストにおける新しい命を、「信仰、愛、希望」という三語で定義しました(テサロニケ第一の手紙一・二〜三、コリント第一の手紙一五・一三)。彼にとって「信仰」とは、「アバ、父よ」と叫ぶ父または親に対する子の絶対的な依存です。それは垂直の次元、または宗教の次元において表現された聖霊の現実です。「愛」とは、キリストの十字架上の死において神が示し、わたしたちがお互いに愛し合うことができるように、わたしたちの心の中に注ぎ入れてくださった愛です。それは敵に対しても注ぎ出すような新しい種類の愛です。それは水平の次元、あるいは倫理的次元において表現された聖霊の現実です。「希望」とは、わたしたちの理解を超えて、復活によって神の栄光に与る希望です。それは時間的、歴史的次元において表現された聖霊の現実です。このように定義された信仰と愛と希望に生きること、それが永遠の命です。わたしたちがここに挙げられた形の信仰と愛と希望に生きるとき、永遠の命はすでに聖霊によってわたしたちの地上の生に組み込まれているのです。復活のキリストは、聖霊によってわたしたちをバプテスマすることによって、このような永遠の命を与えてくださっているのです。