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第 五 講  無条件の恩恵の福音


イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のあらゆる病気や患いをいやされた。

(マタイ福音書 四章二三節)


 マタイはガリラヤにおけるイエスの働きを、いつも「御国の福音を宣べ伝え」と「あらゆる病気をいやされた」という二つの句で描いています。マタイの福音書の五章から九章は、この二つの句で囲まれています。このブロックでは、「御国の福音を宣べ伝え」はいわゆる「山上の説教」と呼ばれる五章から七章で記述され、「すべての病気をいやされた」は八章から九章に集められています。さて、五章から七章に集められているイエスの教えの収集は、「山上の説教」と呼ばれて有名ですが、それはイエスの「神の国の福音」を示しているのです。それは弟子たちに向けられた倫理的教訓ではなく、神の国の福音なのです。

 イエスの宣言とか教説の主題は神の国(ギリシア語ではバシレイア)です。マタイは当時のユダヤ教における宗教用語の慣習から、「神」という語の代わりに「天」を用いましたから、「神の国」は「天の国」と呼ばれることになります。《バシレイア》というギリシア語は王国とか王の支配、王の支配領域という意味です。洗礼者ヨハネは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝えたとき、神の最終的な裁きが近いことを意味していました(マタイ三・一〜二)。けれどもイエスが天の国を宣べ伝えて、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言われたとき(マタイ四・一七)、イエスは実際には終わりの日に来ると約束されていた神の無条件の恩恵が近づいていると言おうとされたのでした。この洗礼者ヨハネとイエスの告知は、言葉は同じですが意味は全然違います。

 洗礼者ヨハネは契約の民に、義であり力強い王の正しい審判の前に悔い改めることを求めたのでした。われわれは皆、その王の法廷では罪人であり有罪なのであるから、ヨハネは彼らに悔い改めに相応しい実を結ぶように要求しました(ルカ三・七〜一四)。それとは対照的に、イエスは恵み深い神に立ち帰って、その神の恵みを信じることだけを人々に求めたのです。ある女性がイエスに現れた神の力と恵みを信じて長年患ってきた病からいやされたとき、イエスはその女性にただ、「あなたの信仰があなたを救ったのだ」と言われました(マタイ九・二二)。イエスは常に、神から遠く離れ去っている者たちに、自分の存在と命の根底である恵み深い創造者に帰って来るように促されたのでした。

 イエスの回りには取税人や罪人たちが多く集まり、一緒に食事をしました。そのような人たちは、ユダヤ教の規準からすれば価値無き者と見なされていた種類の人たちの代表です。彼らは、ユダヤ教の規準を厳格に守っている「義人」から、神の国に相応しくない者として軽蔑されていました。イエスは「わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われました(マタイ九・一三)。しかしイエスはそのような人たちに語りかけるときには、イエスは彼らを罪人とは呼ばれませんでした。イエスは彼らを「貧しい者」と呼び、彼らに「貧しい人たちは幸いである。神の国はあなたがたのものである」と祝福されました(ルカ六・二〇)。

 この祝福の言葉で始まる山上の説教は、倫理的な大説教ではありません。それはイエスが生きておられる最も内面の世界の告白であり記述です。イエスは貧しい方です。すなわち、イエスは神との関わりにおいて何も持たず、何も自分のものと主張されないのです。イエスは、子供が親を信じて頼っているように、神を父と呼んで、完全に父である神によりすがっておられたのです。イエスは自分自身は空っぽになって、すべてを父から受けとっておられたのです。それでイエスは自分の周りの人たちに、「貧しい者たちは幸いである」と言われたのです。宗教的な問題で霊的な知識があるのだと自分の価値を誇っている人たちは、神の無条件の恵みを必要としません。彼らは神の前に自分の価値を主張できる人たちです。

 山上の説教はイエスの神の国宣言です。神の支配は神の無条件の恩恵の支配です。このことは山上の説教の中のかの有名な言葉、「わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(マタイ五・四四〜四五)に最も明瞭に述べられています。この言葉の中に神の無条件の恩恵がもっとも明確に記述されています。太陽は悪人にも善人にも平等に昇ります。雨は義人の上にも不義な人の上にも区別しないで降ります。このような自然現象の中に、イエスは父の無条件の善意と恵み深い働きを見ておられるのです。宇宙の創造者でわたしたちの父は、その被造物である人間がどのような状態であるかにかかわらず、差別することなく、善いことをなしてくださるのです。われわれの行動はいつもわたしたちの社会的状況に条件づけられているものだと言っておられます(マタイ五・四六〜四七)。わたしたちは自分を愛してくれる者を愛し、自分に敵対する者を憎みます。わたしたちの態度はいつも相手に条件づけられています。わたしたちは常に相対的です。「相対的」というのは、受け手に関係づけられている、とか受け手によって条件づけられているということです。

 神は悪しき者にも善き者にも太陽を昇らせ、義なる者にも不義なる者にも同様に雨を降らせてくださいます。それは神の働きが無条件であること、受け手の価値に左右されないことを意味しています。このように神の働きは相対的ではなく絶対的です。「絶対」の本来の意味は、「他者に縛られていない」ということです。この神の無条件の恵み深さを「神の恩恵」というのです。イエスはこの神の恩恵を知って体験し、それを生涯にわたって宣べ伝えられたのです。イエスにとって「神の国」とは「神の絶対的な恩恵の支配」のことです。イエスは人々をこの神の無条件の恩恵の支配に入るように招かれたのです。

 イエスは敵を、わたしたちに敵対的な者をも愛するように、わたしたちに言われました。この言明は、倫理的な見地からすると、わたしたちには受入れがたいものです。ここでイエスは弟子たちに倫理的な要求を課しておられるのではなく、たんに弟子たちの生き方、すなわちかれらの神の恩恵の世界での生き方を描いておられるのです。キリスト・イエスにあって神の無条件の恩恵によって救われた者は、この恩恵の外側では生きられないのです。もしわたしたちが神の無条件の恩恵の領域から離れ去るならば、神との交わりの中に留まりえないのだということを、イエスはあの赦さない家来のたとえで教えられました(マタイ一八・二三〜三五)。ですから、もしわたしたちが神の恩恵の場に留まりたいと願うのであれば、わたしたちは仲間にたいして恵み深くなければならないのです。わたしたちは仲間に対して、敵に対してすら、無条件に善をもって対さなければならないのです。それこそが、彼がわたしたちに「あなたがの父が完全であるように、あなたがたも完全でありなさい」と言われたとき、イエスがわたしたちに求められたことなのです(マタイ五・四八)。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」とルカ(六・三六)が表現しているように、わたしたちは仲間に対して無条件の愛を与えることにおいて完全であるように努めなければならないのです。わたしたちがこのように生きるとき、わたしたちがなお敵であったときに、わたしたちを愛してくださった父の子となるのです(ローマ書五・八)。

 キリスト教では山上の説教は普通倫理の規則集のように解釈されますが、そうではありません。それは神の無条件の恩恵の支配についてのイエスの宣言です。それはわたしたちの父なる神の恩恵の福音です。父はその子イエスによってその恩恵を示されたのです。イエスが十字架上でわたしたちの罪のために死に、父がイエスを死者の中から復活させた時、神はその救済の働きを完成されたのです。わたしたちを創造した方が、イエスを世界の救済者キリストと宣言し、そのキリストにおける救済の働きを福音という手段によって世界に宣明しておられるのです。わたしたちが福音を信じ、神がその中で救済の働きを成し遂げてくださったキリストの中に自分を投げ込むならば、わたしたちは神の無条件の恩恵の領域にいる者となり、父との交わりに生き始めるのです。その時にわたしたちは初めて、山上の説教も含めてイエスの言葉は、神の無条件の恩恵の宣言であることを理解するようになるのです。

 神の無条件の恩恵の領域にいるわたしたちは、その仲間を無条件に愛するよう召されているのです。イエスが「敵を愛せよ」と言われたように、わたしたちは敵対する者も愛さなければなりません。わたしたちは、神の無条件の恩恵の領域に留まるために敵を愛します。キリスト教は、キリストにおける神の無条件の恩恵を示し、人類をそこに導くものであるゆえに、われわれはそれを「真の宗教」と呼ぶことができるのです。ところがキリスト教は、歴史的・社会的な一つの宗教と見られた場合、相対的なものであり、人類を究極的な現実に導き入れる力はありません。パウロは、「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神は成し遂げてくださったのです」と言っています。パウロにおいては「律法」というのは《トーラー》、すなわち宗教の中の宗教ユダヤ教を指してるということを思い起こしてください。ここのパウロの言葉は、人間本性の弱さのために、宗教は神の目標に至る道ではありえないということを言っているのです。

 恩恵に基づく諸宗教は、人間の状況の罪深さを示すことで、人間の弱さを照らし出します。無条件の恩恵の宣言は、人間本性は目標に至るには弱くて価値の無いことを指摘します。この点をよく示す実例が、日本の仏教史に見られます。典型的な恩恵の宗教である浄土仏教は、アミダの絶対的な恩恵に基づいています。浄土仏教を代表する一人、親鸞は自分の弱さとか自分の本性の矛盾を深く自覚していました。それは聖書の用語では「罪」ということです。「聖なるもの」の恩恵だけに純粋に依存する宗教、たとえば浄土仏教とかプロテスタント・キリスト教などは正しい方向に向かっています。しかしその目標を実現することができていません。

 人間本性の弱さの故に諸宗教が成し得なかったことを、神は成し遂げてくださいました。神は、キリストの福音を信じる者たちに聖霊を賜ることで、それを成し遂げられました。福音は救いに至らせる神の力です。それは人間性を神が望まれる理想へと変容する力です。恩恵の宗教は、わたしたちを聖霊の現実へと近づける神の手段として働くことができます。「律法(宗教)はモーセを通して来ました。恩恵と真理(実体)はイエス・キリストを通して来たのです」(ヨハネ福音書一・一七)。ヨハネが言おうとしたことは、ユダヤ教とその諸要求はモーセによって与えられたが、無条件の恩恵と変容する聖霊の働きの現実はイエス・キリストによって来たということだと思います。