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第 六 講  キリスト信仰とキリスト教信仰


わたしたちは生れながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。

(ガラテヤ書二章一五〜一六節)


 これはアンティオキアの集会で、ペトロが異邦人との交わりの食卓から身をひいて離れていったとき、そのペトロの行動についてパウロが言った言葉です。「ヤコブのもとからある人々が来るまでは、ペトロは異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです」(ガラテヤ書二・一二)。ユダヤ教ではユダヤ人(ユダヤ教徒)が異邦人(異教徒)と一緒に食事をすることは、汚れを受けることを避けるために禁じられていました。けれどもパウロが指導的な立場にいたアンティオキアの集会では(使徒言行録一三・一)、ユダヤ人信者と異邦人信者は同じ食卓で食事をし、共に神を礼拝していました。しかしヤコブの指導下にあるエルサレムの共同体から数人の人たちが来たとき、ペトロはユダヤ教の規定を破っていると批判されることを恐れて食卓の交わりから身をひいたのです。ユダヤ人集会員の多くがペトロに従いました。集会の指導者バルナバさえその中の一人でした。ユダヤ教の規定がユダヤ人信者と異邦人を引き離したのです。これは宗教規定の実行によって起こる分断の典型的な実例です。

 パウロのこの叱責の言葉の中で、「律法の実行」と「キリストの信仰」という二つの句が正確に対比されて繰り返されています。ここにパウロによって「人は律法の行為によって義とされるのではなく、イエス・キリストへの信仰によるのだ」という真理または現実が強調され、ペトロは「福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていない」と非難されることになります(ガラテヤ書二・一四)。生まれながらのユダヤ人であり、すべてのユダヤ教規定を順守するように厳しく訓練されて来たパウロは、ダマスコへの途上で突如復活されたキリストに出会って、「人は律法に従うことで義とされるのではなく、イエス・キリストへの信仰によって義とされるのだ」ということを悟ったのです。これこそが福音の真理または福音の実体なのです。

 ここで「律法」という語はギリシア語の《ノモス》の翻訳であり、その《ノモス》というギリシア語は当時ギリシア語を話すユダヤ人の間では《トーラー》すなわちユダヤの聖なる宗教ユダヤ教を指していたということを指摘しておきたいのです。当時のユダヤ人は《トーラー》と言って自分たちの宗教ユダヤ教を指していたのです。それで、ここで「律法の働き」というのは、たとえば割礼の儀式を受けるとか、安息日の定めを守るとか、食べ物規制を守る、あるいはその他の宗教儀礼とか倫理規定を順守するなど、ユダヤ教の従順な実行を指しているのです。福音活動の初期の段階で一部のユダヤ人信者が、異邦人の信者は割礼を受けてユダヤ教に改宗すべきだと主張しました。彼らは、救いはただ契約の民であるユダヤ人だけに与えられるのだと確信していたのです。このような人たちに、パウロはその全生涯を通じて熱烈に反対したのです。

 パウロはユダヤ人ですから、「義とされる」という表現を用います。「義とされる」というのは、しばしば法廷で「罪」と認められないとか、無罪と判決されることだと理解されています。しかしユダヤ教ではそれはもっとずっと広い意味なのです。それは神との交わりに受け容れられて、神の栄光にあずかることを意味します。それは永遠の命、来たるべき世での命です。それはユダヤ人の宗教的努力の目標です。しかしパウロは、いかなる人も《トーラー》に従う行為をもって義とされて、神との交わりに達することはできないのだと主張します。それは《トーラー》すなわちユダヤ教という聖なる宗教を、その目標にいたる道として否定することです。それはユダヤ人にとってまことにショッキングな宣言です。パウロはここで神との交わりはただ「キリストの信仰によって」のみ到達できるのだと宣言しているのです。では、その「キリストの信仰」とはどういうものなのでしょうか。

 「キリストへの信仰」という表現はギリシア語の《ピスティス・クリストゥ》の訳であって、このギリシア語の直訳は「キリストの信」です。ここで「《トーラー》の行い」と「キリストの信」が正確に対比されています。一つは否定され、他方は肯定されています。《トーラー》の順守実践は、神の受容と交わりに至る道としては否定されます。キリストの信という一つの道だけが、わたしたちを目標に導くのです。この「キリストの信」という句は、キリストを信じるという行為の目的語として、普通「キリストへの信仰」と解釈されています。 しかしパウロにおいて「キリストの信」というのは、キリストを神からの啓示として信じるだけでなく、キリストの中に自分の全存在を投げ入れて委ね、復活されたキリストと結ばれて生きることを指しています。われわれはそれを「キリスト信仰」と呼んでもいいでしょう。それは復活して生きておられるキリストとの交わりでの信仰、またはそのようなキリストに結ばれている信仰です。
 パウロはその書簡の中でよく《エン・クリストゥ》という表現を用いています。このギリシア語の句は「キリストとの交わり、または結びつきの中で」という意味です。もしこの「キリストにあって」という句をこの意味で用いるのであれば、「わたしたちはキリストにある信仰によって救われるのです」と言うことができます。しかしここでわたしは「キリスト信仰」と「キリスト教信仰」との違いを強調しておかなければなりません。キリスト教は一つの宗教です。人類のどの共同体も用いなければならない多くの宗教の中の一つです。キリスト教は確かに、すべての民の救済者であるキリストを指し示し、また証言しているのですから、すべての宗教の中で最も尊い宗教に違いありません。しかしキリスト教は一つの宗教であって、信条と儀礼、その儀礼を有効に執行する聖職者を有しています。キリスト教は人々にその規定を順守することを要求し、それに従う者に救済を約束します。

 キリスト教は、それによって人が救われる唯一の本当の宗教であると主張します。それでキリスト教の宣教師たちは、異教徒たちにキリスト教を説き、水による洗礼を施してキリスト教に改宗させようとします。水の洗礼こそキリスト教に入る唯一の入り口なのですから。キリスト教を信じてキリスト教に所属する者だけが、救われる資格があるとされます。けれども「キリスト信仰」は宗教ではありません。それには儀式も聖職者も信条もありません。福音はイエスをキリストとして指し示し、その事実を証言します。もっと正確にいうと、キリストであるイエスにおける神の解放あるいは救出の働きを指し示し証言するのです。この福音を信じ自分自身をキリストに委ねる者は、聖霊によってバプテスマされ、キリストにあって神との交わりに入るのです。

 「キリスト信仰」は、神の聖なる霊によって導き入れられるキリストとの交わりにおける一つの生き方です。ユダヤ人に水のバプテスマを施した洗礼者ヨハネは、自分の後に来る方キリストは、人々を聖霊によってバプテスマするであろうと証言しました(本書第三講)。新約聖書の四つの福音書はみなそう証言しています。キリスト・イエスにあって賜るこの神の霊によって、わたしたちの中に革命的な変化が起こります。人間性のこの根本的変容とか人類の変革は、キリストにおける神の霊の救いの働きによって起こるのです。パウロはこの変容を《メタモルフォーシス》と呼んでいます(コリント第二書三・一八)。この変容がなければ、人間あるいは人間性は救われません。

 パウロは「肉の弱さのために律法が成し得なかったことを、神はしてくださったのです」と言っています(ローマ書八・三)。「律法」という語はユダヤ教という宗教全体を指す《トーラー》を意味していることを思い出してください。パウロはここで、宗教が成し遂げることができなかったことを、神が成し遂げてくださったと言っています。ユダヤ人は《トーラー》が要求していることを満たすことができませんでした。何故でしょうか。パウロはそれを簡単に「肉の弱さのために」と言っています。それは「人間本性の弱さのために」ということです。わたしたちは宗教は聖なるものであり、尊ぶべきものだということを知っており、そう認めています。しかしながら人間の本性は弱くて、宗教の要求とか目標を満たす力がありません。それで宗教が人間の本性の中に成し遂げることのできなかったことを、神が成し遂げてくださったというのです。神はそれをどのようにして成し遂げてくださったのでしょうか。

 神はそれを、その恩恵によってイエス・キリストにおいて成し遂げてくださったのです。神はキリストのもとに来る者に聖霊を与えて、その聖霊によって彼ら中に革新的な変化を起こされたのです。キリスト教が宗教であるかぎり、キリスト教への信仰、すなわち水の洗礼を受け、主の晩餐の儀式を守り、教会の教理を信奉するなどキリスト教の定めを順守することは、キリスト教の目標に到達する力を与えてくれません。キリスト教に従う働きは、キリスト教の目標、すなわち神との交わりとか神の栄光にあずかるという目標に到達する力を与えてくれません。それはユダヤ教の働きがユダヤ人を義とすることができなかったのと同じです。 

 キリスト教と世界の他の諸宗教との違いは、キリスト教がその中にキリストの福音を保持しているのに対して、他の諸宗教はその中にキリストの福音がないという点にあります。それでキリスト教に改宗した者には、キリストの福音を見いだし、キリスト信仰に生きることができるということができます。ということは、終わりの日のキリストにおける神の恩恵の現実に生きることができるということです。この意味でキリスト教はユニークで大変尊い宗教です。キリスト教内の一部の人たちは、その中で聖霊の働きによってその現実を見いだしましたが、多くの人はできませんでした。キリスト信仰はキリスト教信仰とは別なのです。聖霊によって復活のキリストとの交わりに生きるということは、キリスト教に所属することとは別の現実なのです。

 キリスト教の中にも確かに真のキリスト信仰はありえます。しかしキリスト教の外にもキリスト信仰はありえるのです。パウロは言っています、「しかし今や、律法の外に神の義が顕された。律法と預言者に証言されて」。パウロにおいては「律法」はユダヤ教という宗教を指しているのだということを思い起こしてください。パウロは「今やユダヤ教の外に神の救いの働きが現れた」と言ったのです。この確信に基づいてパウロは異邦人たちに福音を宣べ伝え、異教徒をユダヤ教に改宗させるという意味を担う割礼を拒否したのです。パウロ自身を含め使徒たちはみなユダヤ人ですから、パウロはユダヤ人であることの利点をよく知っています。ユダヤ教(律法と預言者)は様々な形で福音を証言しています。ユダヤ人にとってはユダヤ教は唯一の真の宗教です。しかし今や、神はユダヤ教の外で、福音においてその救いの働きを現されたのです。

 歴史的な文脈で現在の状況については、「神の救いの働きはキリスト教とは別に、キリスト教の外で、福音によって現された」と言わなければなりません。この宣言はキリスト教会にとって大変ショッキングなものです。キリト教会は、異教徒に水のバプテスマをほどこしてキリスト教に改宗させるために、あらゆる努力をしてきたのですから。しかし今や、神はキリスト教の外でその救いの働きを現わされたのですから、水の洗礼を受けてキリスト教に改宗することは、異教徒が救われるために必要な条件ではなくなったのです。今やキリスト教は絶対的で普遍的な宗教ではありません。いかなる国、いかなる宗教の民もキリスト教の外で救われ、神の民として受け容れられるのです。ユダヤ教とキリスト教の場合についてここで示された宗教理解は、他のすべての宗教についても成り立ちます。人間の宗教はすべて相対的です。それは、いかなる宗教も人が救われて神との交わりに入り、神の栄光にあずかるために必要な条件とはならないということを意味しています。その目標に至る唯一の道はキリスト信仰、すなわち自分の中に神の霊の働きを受けるために、自分のすべてをキリスト・イエスにおける神の無条件の恩恵に委ねるという道だけです。

 英語の Christian Faith という表現はキリスト信仰とキリスト教信仰の両方を指すことができます。それでパウロの宣言はしばしば誤解されます。それはしばしば「人は律法(道徳律)の実行によってではなく、キリスト教信仰によって義とされるのである」と解釈されます。この誤解はパウロの「律法」という語の間違った解釈から起こっています。ここでパウロが「律法」と言っているのは、ユダヤ教のことを指しているのです。彼が「人は律法の実行では義とされない」と言うとき、彼はいかなる宗教でもその規定を順守する働きでは救われないのだと言おうとしているのです。人はその所属宗教が何であれ関係なく、ただキリスト信仰によって救われるのです。あなたが水の洗礼を受けキリスト教徒になっても、キリスト教という宗教はあなたを救いません。

 キリスト教はキリストを指し示します。しかし聖霊によってキリストにおける神の恩恵の働きの中へとバプテスマされ、復活のキリストとの生ける交わりの中に入るのでなければ、終わりの日の神の救済の現実を味わうことはありません(第二講参照)。このキリスト信仰とキリスト教信仰の混同は、ヨーロッパ諸国の神学に広く見受けられます。われわれはキリスト信仰とキリスト教信仰は二つの別のことであることを明らかにして、パウロの「人は宗教の実行によってではなく、キリストの信仰(キリスト信仰)によって救われるのである」という宣言を確立しなければなりません。