市川喜一著作集 > 第27巻 > 第9講

第 九 講  創造者としての神


はじめに神は天と地を創造された。

(創世記一章一節)


 聖書はこの宣言で始まります。この宣言の中で、初めの時の神の働きまたは活動はヘブライ語の《バーラー》という動詞で記述されています。このヘブライ語の動詞は普通「創造する」と訳されていますが、新約聖書にはその意味をさらに明確に示す文があります。「彼(アブラハム)は死者に命を与え、存在していないものを存在へと呼び出して存在させる神を信じたのです」(ローマ書四・一七)。この文が出てくるローマ人への手紙の著者パウロは、「生かす」という動詞を使っていますが、その意味は前講(第八講)で論じました。それは「命のないところに命を与える」ということですから、それは「存在しないものを存在へと呼び出す」という表現に含まれることになります。

「はじめに」という句はギリシア語の《エン・アルケー》という語の訳ですが、これは時が始まる前の、「存在しないものを存在へと呼び出す」という根源的で基礎的な神の働きを指しています。時は天と地のすべてのものと共に始まったのです。「神」という語は、存在の領域にある一つの実体を指すのではありません。そうではなく、存在しないものを存在へと呼び出すという、すべてを包括する過程を指しています。神は、わたし自身を含む天と地の万物を存在させている純粋な働きそのものです。

 このように「神」はすべてを包括する根源的な創造の働きです。けれども神が人格的存在である人間に働きかけるときは、神は人格的主体としてその言葉をもって呼びかけることから、その働きを始めます。神と人との間の人格関係においては、常に神が働く主体であり、人はその神の働きの客体、働きの対象です。それで、「わたしはあなたを大いなる民とする」とか、「わたしはあなたを祝福するであろう」というような言い方が出てきます。神はアブラハム、イサク、ヤコブらのイスラエルの父祖たちに働きかけました。神は彼らに現れ、彼らに呼びかけ、その言葉をもって彼らの生涯を導かれました。彼らは神を信じ、神の導きに従いました。神は彼らを受け入れ、彼らを義とされました。

 神が選ばれた民イスラエルがエジプトで抑圧されていたとき、神はその民に働きかけ、御自身を解放者として現されました。神はモーセを選び、彼によってその民を解放し、御自身を「ヤハウェ」という名で現されました。神はその民に、「わたしはあなたがたを奴隷の家エジプトから導き出したあなたがたの神、ヤハウェである」と語りかけました(出エジプト記二〇・二)。出エジプトが成し遂げられた後、イスラエルの民は自分たちの神を「ヤハウェ」と呼び、その「ヤハウェ」をエルサレムに建てた壮大な神殿で礼拝したのです。

 しかしながら、イスラエルの民のヤハウェ礼拝は、彼らがバビロンに捕らえ移されたとき、根本的に変わりました。それまでヤハウェは、周囲のどの民の神よりも強い神でした。ヤハウェは戦場ではいつも勝利を収め、その民に繁栄を約束しました。しかしイスラエルがバビロンに破れたとき、エルサレムのヤハウェ神殿は破壊され、ヤハウェの民はバビロンに住むことを強制されて、もはやヤハウェはその民の神でありえなくなりました。彼らにとって神は、イスラエルだけでなく世界のすべての民をその至上の意志と力で支配する神でなければなりません。神は永遠の神であり、地の果ての創造者でなければなりません(イザヤ書四〇・二八)。

 以来イスラエルは創造者としての神の概念を発展させ、それをその聖なる書の劈頭に置き、「はじめに神は天と地を創造された」と宣言することになります。われわれ人間はみな、存在しないものを存在へと呼び出す根源的な働きである創造者の被造物なのです。その創造者なる神が、イスラエルをエジプトから救出されたように、人類を終わりの日に救出して救済を成し遂げてくださるのです。キリストとしてのイエスにおいてなされた神の働きによって、わたしたちを神への背きという罪と神からの離反の結果としての死の束縛から、わたしたちを救出してくださったのです。わたしたちがここで宣べ伝えている福音とは、まさにキリストにおいて救いの働きを成し遂げてくださった、この創造者なる神の働きに関するものなのです。

福音を信じて自分自身をキリストの中に投げ入れる者は、この神の解放する働きを自分の中に体験することになります。神は霊ですから、わたしたちの中の神の働きは霊的なものです。神はわたしたちの霊に働き、わたしたちの内なる自己を根本的に変容されます。わたしたちの内に働く神の働きを、わたしたちは「聖霊」と呼ぶのです。わたしたちを変容するこの聖霊の働きを、わたしたちは「聖霊のバプテスマ」と呼んでいます(第三講)。

 どの国民もみな、それぞれ固有の創造神話をもっています。どの国民もみな、その存在の過程で自然を超える力を体験し、それに神性を示す称号を与えてきました。雷の擬人化としてはジュピター、時間にはクロノス、実りにはデメテールなどというようにです。それらの体験は断片的ですから、彼らの神々の名前も多くなります。彼らの宗教は多神教の形態をとることになります。そのうえ、それぞれの人間の共同体はそれぞれ固有の神々をもつのですから、人類の宗教史には数え切れない神々の名前が登場することになります。

イスラエルにも独自の創造神話があります。それは聖書の最初の書に見られる通りです(創世記二・四〜三・二四)。しかしながらイスラエルの人々は歴史における様々な経験について統一した見解を維持し、その様々な出来事を彼らの神ヤハウェの働きとして理解しました。彼らは捕囚の時代をも、自分たちの背きに対する処罰として、ヤハウェの働きの不可分の一部として理解しています。彼らの神ヤハウェは全世界に対する主権者であり、その主権は地の果てに及ぶのです。イスラエルの宗教は唯一神宗教となります。世界にはただ一人の神がいますのです。この唯一の神が天と地を創造し、世界の歴史を統御されているのです。

 この唯一の神がキリストとしてのイエスにおいて贖いの働きを成し遂げてくださったのです。これがわたしたちが宣べ伝えている福音です。では、「贖い」とはどういうことなのでしょうか。「贖う」という動詞は、本来「取り戻す」とか「回復する」という意味です。旧約聖書では、この動詞は贖い料(身代金)を払って捕虜を取り戻すという出来事によく用いられています。新約聖書では、この動詞はいっそう深い意味で用いられるようになり、神への背きの罪の故に牢に閉じこめられ、神との交わりから放逐された者たちを、神が解放されたことを指します。

 新約聖書では、キリストの贖いの力について大変込み入った議論がしばしば見られます。たとえばローマ人への手紙の八章二三〜二五節でパウロは次のように述べています。「それだけでなく、御霊の初穂をいただいている者たち、すなわち、わたしたち自身もまた、自分の内でうめきながら、子とされること、つまり、わたしたちの体の贖いを切に待ち望んでいます。わたしたちは救われて、このような希望を持つにいたったのです。ところで、見える希望は希望ではありません。現に見ているものを、誰が希望するでしょうか。わたしたちが見ていないものを希望するのであれば、忍耐をもって切に待ち望むのです」。要約すると、神はイエス・キリストにおいてわたしたちが神との交わりを取り戻すために必要な手段をすべて成し遂げてくださったということです。キリストにおける神の贖いによって、福音を信じてキリストの内に生きる者は、命の根っこであり土台である神との交わりを回復することができるのです。これがわたしたちの内にある永遠の命です。