市川喜一著作集 > 第27巻 > 第15講

第一五講  キリスト教の外のキリスト


しかし今や、律法とは別に、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が現されています。すなわち、イエス・キリスト信仰による神の義であり、すべて信じる者に与えられるのです。 そこには何の差別もないからです。

 

(ローマ書 三章二一〜二二節)


 この文章はこれまで長い間、多くの新約聖書学者によってパウロの中心主題であると認められてきました。この文章は句ごとに順を追って訳すと次のようになります。「しかし今や、律法とは別に、神の義が現されました、律法と預言者によって証しされて、すなわち神の義です、信仰による、イエス・キリストの、すべて信じる者に。そこにはないから、何の差別も」。

 句の順序に注目してください。「しかし今や」という接続詞の後に、現在の状況を示す文の最初に「律法とは別に」という句が来ています。この事実はこの句が強調されているということを指し示しています。自分が長年宣べ伝えてきた福音の本質を示すのに、パウロは最初に「律法とは別に」と叫ばざるをえなかったのです。この事実は何を意味しているのでしょうか。それはパウロにとって、神の救いの働きにおいてこの事実が最も重要でかつ最も印象深いものであったからです。その理由はわたしたちが、ダマスコ途上で突然自分の救い主の顕現を体験する以前の、パウロの生涯と経験を知ると解ります。

パウロはユダヤ教の中でも最も熱心な一派であるファリサイ派の一員でした。手紙の中に出てくる彼自身の告白を聞いてみましょう。彼はこう書いています、「あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました」(ガラテヤ書一・一三〜一四)。

 彼は「人一倍熱心で」、「ユダヤ教において進んでいた」と言っていますが、ユダヤ教において進んでいるというのは、ユダヤ教の宗教規定を順守することにおいて人一倍完璧だということです。パウロはユダヤ教のすべての規定を守ることにあらゆる努力をしました。それは彼にとってユダヤ教は、神に受け容れられ、神との交わりに到達する、短くいえば義とされるための唯一の道だったからです。パウロはユダヤ教の模範的な選手でした。

 ところが、パウロがイエスの信者を迫害しようとしてダマスコへ向かう途上で、復活されたイエスが彼に現れたのです(使徒言行録九・一〜一一)。この体験(これはよく「パウロのダマスコ体験」と呼ばれます)がパウロの生涯を明確に二つに分けます。それ以前では、パウロはキリストとしてのイエスに反対し、イエスの信者迫害の急先鋒でした。しかしその体験以後は、彼はイエス・キリストの僕となり、使徒として殉教の死に至るまで「主イエス・キリストの福音」を宣べ伝えることになります。

 本講の最初に引用したパウロの一文は、「神の義」についての彼の理解を示しています。ここでパウロはこの句を、「人を義とする神の働き」という意味で用いています。わたしたちが自分の存在の意義を満たすためには、命の源泉である神との交わりに生きる必要があります。そして神と共に生きるためには、わたしたちは義、すなわち義なる神に受け容れられる者でなければなりません。パウロは、ユダヤ人にとって唯一の真の宗教であるユダヤ教において与えられている神のすべての定めに従うことによって、義であろうとあらゆる努力をしたのでした。

 ところが彼のすべての努力は、彼をイエスをキリストと信じる者たちの迫害へと至らせただけでした。あのダマスコ途上の体験によって、彼は突如イエスを復活されたキリストと信じて従うことが、神に受け容れられる唯一の道だということを見いだしたのです。ユダヤ教のすべての規定を行うことは、救いに至り生の現実に至る道ではないことに気づいたのです。彼はユダヤ教の外に神の現実に至る道を見いだしたのです。

 先に説明したように、ふつう「律法」と訳されている《ノモス》というギリシア語は、パウロの時代ではユダヤ教という宗教の全体を指していました(第十四講、最初の一段を参照)。それでパウロが「律法なしで」とか「律法の外で」と言うときには、「ユダヤ教と関わりなく」とか「ユダヤ教の領域の外で」ということを意味していることになります。世界の諸宗教の中で、パウロにとってはユダヤ教が唯一の宗教なのですから、実はパウロはこう言っているのです、「しかし今や、宗教の領域の外で、神はご自身から離れ去った者たちを受け容れ、ご自身との交わりに歩む力を与えておられるのだ」。

 パウロはこの宣言の後に「律法と預言者に証しされて」という句を加えています。「律法」という語が「預言者」と一組になって用いられている句では、この「律法」はユダヤ教で《トーラー》と呼ばれている「モーセの最初の五書」を指しています。この《トーラー》はユダヤ教の基礎であり、最も重要な部分と見られていました。「律法と預言者」という表現は、イエスやパウロの時代のユダヤ教では聖なる書の全体を指していました。どのラビ(ユダヤ教の教師)も自分の教説を根拠づけるのに、「律法」からの一節と「預言者」からの一節を引用しました。

 ここでパウロは、「ユダヤ教の外で神の義が現された」という彼の福音の中心主題を、わたしたちが「旧約聖書」と呼んでいるユダヤ教の聖典で基礎づけているのです。パウロはユダヤ教そのものがパウロの福音を支持しているのだと主張しているのです。パウロ自身、彼の福音の主題を根拠づけるのに、しばしば旧約聖書を引用しています。たとえば、パウロはローマ書の三章でした「人は宗教の働きではなく信仰によって義とされる」という主張を根拠づけるのに、続く同書の四章で創世記一五章のアブラハムの生涯と経験を引用しています。

 ユダヤ教に対するパウロの態度には二つの面があります。この両側面はローマ書三章二一節の一つの節で述べられています。一つの面は「律法とは別に」という句で示され、もう一つの面は「律法と預言者に証しされて」という句で示されています。「律法とは別に」すなわち「ユダヤ教の外で」という原理は、異邦人信者に割礼を要求した者たちに対するパウロの熱烈な反対に、その実践的な表現を見ることができます。

 ユダヤ人信者の一部の者たちが、異邦人信者は割礼を受けるべきだと主張しました。割礼を受けるということはユダヤ教への改宗を意味し、ユダヤ教はその信者に聖なる宗教ユダヤ教の諸規定のすべてを守るように要求します。それで、異邦人信者に割礼を受けることを求めるのは、人は救われるためにはユダヤ教に所属するユダヤ教徒でなければならないと主張することになります。それは救いをユダヤ教の中に限定することです。パウロはこの限定に激しく反対したのです。「福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、すべて信じる者を救いに至らせる神の力です」(第一講)。救いに至らせる神の力は、割礼を受けている者にも、割礼を受けていない者にも、同様に与えられるのです。

 キリスト者の使命は、キリストにおける神の救いの働きの告知であるキリストの福音を宣べ伝えることです。人々をキリスト教に改宗させることではありません。キリスト教会の宣教師たちはたいてい、他の宗教の民を、水の洗礼を施すことでキリスト教に改宗させることに努めています。しかし聞いてください、パウロは「キリストがわたしを遣わされたのは洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためです」と言っています(コリント第一書一・一七)。もしあなたのバプテスマがキリスト信仰の真実の告白であるならば、あなたは復活のキリストから聖霊によるバプテスマを受け、あなたの内に神の働きを体験することになるでしょう。あなたは神の恩恵の現実と自分の内に神の働きを体験するのです。

 さてここで、ユダヤ教に対するパウロの態度のもう一つの面について説明しておかなければなりません。パウロは「律法とは別に神の義が現された」と言ったすぐ後に、「律法と預言者によって証しされて」という句を付け加えています。キリストにおける神の救いの働きは、イスラエルの聖なる書すべての証言によって現されたのです。ユダヤ教は宗教です。ユダヤ人パウロにとってユダヤ教は唯一の真の宗教、宗教そのものなのです。

 救いのための必要な条件としてのユダヤ教への所属は、「ユダヤ教の外で」という句で否定されました。しかしユダヤ教は証言として重要な役割を与えられています。ユダヤ教は救いに必要だという主張は、福音によって否定されました。「ユダヤ教とは別に」または「ユダヤ教の外で」わたしたちは救われるのです。しかしユダヤ教は証人あるいは指し示す者としての位置ないし意義を与えられています。わたしはユダヤ教のこの二つの面を「ユダヤ教の相対性」と呼んでいるのです。

 「相対的」の反対は「絶対的」です。歴史上に現れた世界の諸宗教はたいてい、これこそ人が救われ、また完成されるための道であると主張します。時にはこれこそ唯一の道であると言い張ります。宗教はよく、救われたいのであればこの宗教に所属しなければならないと迫ります。ある宗教がそれへの所属を救いの条件とする時、わたしはこの主張を「宗教の絶対主義」と呼びます。宗教には絶対主義に向かう傾向があるようです。

 しかしながら、宗教は相対的です。パウロがユダヤ教を相対的なものとしたように、わたしたちはすべての宗教を相対的なものと認めるべきです。この相対性の承認を、わたしは「宗教相対主義」と呼んでいます。このような場合に「相対主義」という用語を遣うのは適切かどうかについては確信がありませんが、とにかくわたしたちは宗教はすべて相対的であることを認めなければなりません。

 ナザレのイエスもユダヤ教を相対化されました。イエスは「わたしは義人ではなく、罪人を招くために来た」と言われました(マルコ二・一七)。罪人というのは、ユダヤ教の規定を順守することができない人たちであり、自分たちはそれを順守する義人であると考えているユダヤ教指導者たちから「罪人」と呼ばれていた人たちです。イエスは彼らを「貧しい人たち」と呼び、彼らに「あなたたち貧しい者は幸いである。神の国はあなたがたのものだ」と言われました。イエスはユダヤ人としてユダヤ教の中で生きました。しかしイエスはユダヤ教の絶対性を否定されたのです。

 さて、ユダヤ教が宗教であるのと同じく、キリスト教も一つの宗教です。キリスト教には洗礼とか聖餐という独自の儀礼があり、これらの儀礼を有効にする独自の聖職者がいて、そして独自の信条とか教義があります。それで、ユダヤ教について言われたのと同じことが、キリスト教についても言われます。キリスト教の相対性を認めることは、キリスト教の絶対性を否定することです。キリスト教の絶対性は、「キリスト教の外に救いはない」と宣言します。キリスト教の絶対性は、救われたいのであれば、人は水の洗礼を受けて、キリスト教およびキリスト教会に所属しなければならないと言い張ります。

 キリストの福音は宣言します、「キリスト教とは別に、キリスト教の外で、しかしキリスト教によって証言されて、神の救いの働きが現された」。神の救いの働きはキリストの福音によって現されたのです。 それは福音こそ救いに至らせる神の力だからです(第一講)。今や、わたしたちはキリスト教の外でキリストを見いだすことができるのです。今や、わたしたちはキリスト教の外で、キリスト信仰によって救われるのです。

 では、わたしたちはキリスト教を否定しているのでしょうか。いいえ、わたしたちはキリスト教を否定していません。キリスト教には意義と役割があります。キリスト教はその中にキリストの福音を保有し、歴史を通じて福音をその中に保ってきました。キリスト教会は世界中にキリスト教を広めてきました。そして多くの人がキリスト教の中に福音とキリストとを見いだし、高貴な聖なる生涯を送ってきました。そのような人たちはキリスト教の内側でキリストを見いだしたのです。

 わたしたちはキリストをキリスト教の内側で見いだすことができます。しかし外側でも見いだすこともできるのです。キリスト教の内側にいることは、救われるために必要な条件ではありません。これはキリスト教の絶対性の否定です。キリスト教は一つの宗教として相対化されます。キリスト教は相対的な諸宗教の中の一つです。この長い歴史の中で形成されてきた諸宗教はすべて、それぞれ固有の価値があり、それぞれの状況の中でその役割を果たしてきました。その中でキリスト教は最も尊い宗教であるとわたしは信じています。というのはキリスト教こそ、その内にキリストの福音を保持しているからです。わたしたちはキリスト教に所属しているから救われるのではなく、キリストに自分を委ねるキリスト信仰によって救われるのです(第六講)。