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エフェソ遺跡に立つ
京都  市川 喜一
(写真にカーソルを置くと説明が、クリックすると大きい写真が表示されます―いずれも筆者撮影)

今年(2006年)の五月、許されて念願のエフェソ遺跡訪問を果たすことができました。ローマ時代には港町であったエフェソは、現在ではクサダシの港からバスで三〇分ほど内陸に入ったところにあります。長年土砂に埋もれていた古代のエフェソが一九〇〇年代の発掘によって、その主要な町並みをわたしたちの目の前に見せるようになりました。ポンペイの発掘ほど有名ではありませんが、わたしたちにとってはそれ以上の意義がある成果です。

 わたしたちツアー一行は、(当時の)港からは東に向かって町の反対側の小高い地にあるマグネシア門から遺跡に入りました。この門からは港の方に向かって大理石で舗装され、両側に列柱の飾りをもつ、やや下り坂の立派な道路、エフェソのメインストリートが続きます。まさにこの道をパウロも歩きヨハネも急いだかと思うと、ついにその道に今自分も立っているのだと感動しました。

 エフェソはピオンとコレッソスと呼ばれる二つの丘の間に建てられた都市ですが、港から見て一番奥の高い地域は、行政機関が集まる行政アゴラです。わたしたちの遺跡見学はこの地域から始まりました。その地域には、ヴァリウスの浴場もありますが、オデオン(小型の円形劇場のような議事堂)や市庁舎もあり、女神ローマに献げられた神殿遺跡も並んでいます。これらの建造物は北側のピオンの丘の麓を利用して造られています。解説書によりますと、道の南側にルカの墓と伝えられる遺跡があるようですが、これは見逃しました。

 このメインストリートを少し下りますと、ニケの彫像をもつメミウスの記念碑やヘラクレスの浮き彫りをもつヘラクレス門があります。そのあたりの交差点にドミティアヌス神殿の遺跡があります。今は入口のアーチと基礎部分だけを残す遺跡ですが、その壮大な神殿に祀られていた「主にして神」と唱えたドミティアヌスの巨大な像の一部がここで発掘され、後で博物館で対面することになります。

 そこから道は曲がって少し北に向かい、クレテス通りとなります。その道をさらに下ると、北側にはトラヤヌスの泉やハドリアヌス神殿など、ローマ皇帝を記念する立派な建造物の遺構が見られ、南側には床にモザイク画をもつ個人の住宅跡が見られます。ハドリアヌス神殿を少し下ると、西に向かっていた道は大きく北に曲がりますが、その突き当たりにケルソス図書館の立派な遺構がそびえています。これはそれぞれ八本の円柱で支えられた二層の建物の正面部分ですが、古代遺跡の中でもっともよく保存された遺構として有名であり、エフェソ遺跡のシンボルとなっています。この図書館は、アジア州総督であった ケルソスの子息が、総督の父親を顕彰するために図書館を建てて市に寄贈したものです。わたしが行ったとき、その前の広場で皇帝や兵士や剣闘士に扮した人たちが観光客向けのショウをしていましたが、その広場は当時哲学者たちが議論を戦わせた場所であったと聞き、このような所で熱烈な説教をしたパウロの姿を想像しました。

 ケルソス図書館の近くには大きな浴場や娼館跡もあり、公衆水洗トイレまでそのまま残っていて、当時のエフェソ市民の日常の生活を垣間見る思いがしました。北へ曲がった大通りをすこし行くと、東側に円形大劇場の偉容が見えてきます。これはピオンの丘の山腹を削って造った階段状の座席をもつ野外大劇場です。二万五千人を収容したそうです。舞台と背後の建造物も一部残っており、あのパウロを巻き込んだ銀細工人による騒動のとき、この大劇場がその舞台となったかと思うと感慨はひとしおでした。

 この野外大劇場の正面から港に向かってアルカディアン通りがまっすぐに延びています。この道路も大理石で舗装され、両側の列柱で飾られた立派な道路で、皇帝や将軍たちが港からこの道を華やかな隊列を組んで行進し町へ入った様子が想像されます。両側には商店が並び、その周辺はアゴラであり、商業地区として栄えたようです。

 この道路の延長上の遠方に円錐形の小高い丘が見え、その頂上に砦があります。それは当時灯台を兼ねた砦であったようですが、そこがパウロが囚われていた牢獄であったと言い伝えられています。そこまで行くことはできませんでしたが、パウロがエフェソで投獄されたことは、ごく初期から現地の人たちの間で語り伝えられていた確かな伝承であることに強い印象を受けました。
 遺構の石が散乱する遺跡には夏草が茂り、ケシのような赤い花が咲いていたことが印象的でした。わたしたちはアルカディアン通りには入らず、大劇場からもとの道を北へ進み、バスが待つ駐車場に向かいました。

 バスで次の目的地の聖ヨハネ教会遺跡に向かう途中、アルテミス神殿の跡を見ました。それは沼地に立つ一本の石柱だけです。世界の七不思議の一つに数えられたエフェソのアルテミス神殿は、その後のキリスト教時代に聖ヨハネ教会やコンスタンティノープルのアヤソフィア大聖堂を建てるための採石場となり、所在を示す円柱一本とあたりに散在する礎石だけの遺跡となりました。

 聖ヨハネ教会は、小高い丘に建てられたビザンチン時代の要塞に隣接しています。もともとヨハネを記念する小さい教会堂を、六世紀にユスチアヌス帝が壮大な教会堂に建て替えたものです。その壮麗な昔を偲ばせる柱や床が残っており、中央にはヨハネの墓があった場所を示すプレートがあります。現地ではヨハネがエフェソで活動したことは当然のこととして語り伝えられています。もっともどのヨハネであるかは問題にせず、聖ヨハネすなわち使徒ヨハネの墓とされているようです。
 このヨハネは十字架の下で母マリアを託された弟子として、マリアを連れてエフェソに移住し、マリアはエフェソで晩年を過ごして天に召されたと言い伝えられています。マリアが晩年を過ごしたとされる小さい家があり、それは修復されてマリアを記念する行事も行われているということですが、コースから離れていたので訪れることができなかったのが残念です。

 バスで市街地に戻り、エフェソ考古学博物館を見学しました。時間が短くて駆け足の見学になりましたが、そこで展示されているドミティアヌス帝の巨大な頭部と片腕と対面して(展示されている片腕が人の身長ほどあります)、ヨハネ黙示録の執筆中でもあったので特に感慨深いものがありました。また、多くの乳房をもつアルテミス女神像にも対面しましたが、これはアルテミス神殿のものではなく、等身大の比較的小さいもので、エフェソ遺跡の市庁舎跡で発掘されたものです。

 この度のエフェソ訪問は、体力を考えて船旅にしました。クサダシの港を出港するのが暗くなってからでしたので、パトモスはその島影も見ることができず残念でした。一昼夜の航海でマルタ島に着きましたが、パウロが一四日間も漂流して生死の境をさまよった海を安楽に航海したことを申し訳なく感じました。マルタ島では、島の中央の丘にある古都の聖パウロ記念教会を訪れ、近くの展望台から遙か遠くにパウロが漂着したとされる「聖パウロの浜」を望み見ることができました。
 今回のエフェソ遺跡訪問は、聖書の理解にとって現地に立つことの重要性を痛感させる旅でした。
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