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今のわたし
  在 ニュージーランド  林 善一郎

 今日は 私がキリスト者の「今のわたし」に至った歩みをお話させていただきます。

 私のキリスト教との出会いは中学生時代にさかのぼります。友人の誘いで小さな日本聖公会の教会の日曜ミサに参加していました。きっかけは、小学生時代に、地元の教会が主催する日曜学校のクリスマスや復活祭の行事に参加した経験の延長線上で、興味を覚えたものと思われます。今ではその頃の自分の気持ちが全く思い出せませんが、忘れられない思い出は、1958年の11月に教会に同行していた友人のお母さんの強い勧めで、洗礼を受けたことです。教区の大きな教会で何人もの人々と共に洗礼を受け、後見人の方からステパノというクリスチャンネームと、「祝受礼、汝らの事(つか)ふべき者を今日えらべ」と書かれた新約聖書をお祝いにいただきました。(当時の私はこれがヨシュア記からのものということも分かりませんでした)何か心が引き締まる感じがしたことを微かに覚えていますが、キリスト者としての自覚には程遠いものだったと思います。その後の私は高校受験が近づいたこともあって教会から足が遠のきやがて、まことに恥ずかしい事ながら、プッツリと教会へ行かなくなりました。文字通り「迷える子羊」といったところでした。

 その後の学生時代から社会人となって約40年を経る間は、全く教会とも信仰とも接点のない生活が続きました。当時の私はひたすら自らを頼み、「独立自尊」を座右の言葉として、余人を以って替えがたい仕事を心がけながらの仕事中心の生活でした。そんな私のビジネスマン生活も、後半に入り仕事に油がのってきて、得意の絶頂の私が、大きな挫折を味わうこととなりました。日本のバブル景気が終わり、経済に大きな変化が訪れようとしていた頃、突然会社の倒産という想定外の事件が起こりました。一時は食事が喉を通らないほどのショックと深い絶望に襲われましたが、そんな気持ちに落ち込んでいる間もなく、会社の再建担当の一員に指名され、スポンサー企業の発掘と交渉、依願退職者の募集、債権者対応と裁判対策の毎日が8ヶ月間にわたり続きました。とりわけ心を痛めたのは、個人の人生をも変えてしまいかねない冷酷な人員整理と、これまで事業を応援していただいた協力企業/債権者への大変な不義理でした。最終の債権者会議と裁判所の審決をへて再建の形が整った後も、新会社で新しい経営陣を助けながら、1年間業務の引継ぎと立ち上げに協力しました。心身ともに疲労困憊していた頃、いくつかの転職のお誘いがあり、具体的に検討させていただくことになりました。

 そんな中で、提携事業や顧問としてもサポートしていただいていたアメリカ人の大学教授から、自分が学長を務めているニュージーランドのカレッジで一緒に働いてみないかと誘われました。自分の目で確かめたうえで決めたらどうかとの提案で、現地を訪れることになった際、学校の所在地がニュージーランド北島のパーマストン・ノース(以下PNと略記)と言う当時人口7万人(現在でも約8万人です)小さな学園都市であることを知らされてビックリしました。実は、1989年に私はオーストラリアへの出張の際に、業務上の必要から、パーマストン・ノース日本ニュ―ジーランド友好協会と、隣接するマッセー大学を訪ねていました。不思議な縁を感じながらの下見を経て、妻は遅れて合流することにして、単身で移動したのが1999年の7月27日のことでした。後日、永住ビザの取得条件に仕事や英語力とともに、入国時に55歳未満であることが必須要件であったことを知り、私の誕生日8月1日のわずか数日前に間一髪で入国出来たことに胸をなでおろしたのが思い起こされます。今では倒産を含めて、父なる神様のお導きがあったことを強く感じています。平日はカレッジでの仕事、日曜日はカソリック教徒の学長の誘いでタウンのカソリックの教会に通う、日本にいた時とは一変した新しい生活が始まりました。

 やがて英語の聖書を読み、英語の説教を聴くことに慣れてきた頃、私が日本で日本聖公会に通っていたことがあることを知った学長が、パーマストン・ノースでの友人を紹介くれることになりました。その方は英国国教会系のアングリカン教会(教会の名前はAll Saints Churchと言います)の長老の方で、約束の当日彼は慈愛に満ちた笑顔で教会の入り口に立ち、私を温かく迎え入れてくださいました。今にして思い返すと、ルカの福音書にある放蕩息子の帰還の場面にも似た出会いでした。手取り足取り教会の仕組みや礼拝の段取りついて指導してくださり、一人の男性教会員を私の案内役として紹介してくださいました。その後も彼は亡くなるまで、私のメンター(Mentor/指導者、助言者)として個人的にも親しくご指導とご助言を通して、私のキリスト者としての変容を見守ってくださいました。教会の案内役の男性からは、私の長いブランクを知って聖書の通読を強く勧められ、分厚い参考書も紹介されました。長老からは毎日の聖書講読の副読本一年分がプレゼントされ、私の英語の聖書との格闘がはじまりました。また、同時に先輩の教会員が個人的に主催する平日の夜に週に一回持たれる少人数(7、8人程度)のグループによる聖書の勉強会、ハウスグループにも参加させていただくことになりました。聖書を輪読しながら、参加者の日常生活に敷衍して聖書の理解を深めていきます。時には参加者が体験した啓示についての証しも聞かせていただけます。遅れを取り戻すべく集中的、精力的に聖書を読み進む中で、私の聖書理解も徐々に深まり、自分の疑問や思いをハウスグループで参加者のみなさんに聞いていただいたり、教えを請うこともできるようになってきました。また、日本語の聖書と比べると英語の聖書の方が理解しやすい箇所もたくさんあることを発見したのもこの頃のことでした。

 しかし、同時に「ことば」と「思い」についても考えるようになってきました。聖書の文言(英語)を「理解すること」と、自分のキリスト者としての「思い」を「深めること」のギャップが気になり始めました。英語の聖書を読み英語の礼拝に参加し、英語の説教を聴く生活の中で、「思い」が「言葉」を伴って定着しない自分に不安を感じ始めていました。そんな状況の中で市川先生の「天旅」に遭遇したことは、私にとっては大きな転機となる出来事でした。先生の「信じるとは、ひれ伏して聴き、その言葉に全存在を委ねることです。自分を無にして、その言葉を真実とし、自分を投げ入れることです」とのお言葉に接し、自分の全存在を委ね、自分を投げ入れることができる言葉は、やはり私の母国語、即ち日本語でなければならないと思い至りました。原語にまでさかのぼっての先生の私訳をもとにした講解と、先生の講演録をネットで学習する毎日が始まりました。当時完成途上にあった先生のご執筆のペースで、ネットに順次書き加えられる講解を毎回楽しみに、時に待遠しく読み進ませていただいていた当時が懐かしく思い出されます。先生の「信仰は自分の確信とか誠意とか忠誠の問題ではありません。福音が聴く者に求める信仰とは、そういう自分の側の信じる能力を放棄した場で、ひたすら神の信実に身を委ねる姿勢です」に目を開かれました。特に『絶信の信』という表現には、新たな座右の言葉をいただいた思いでした。

 長いブランクにもかかわらず、再び父なる神さまの御許に立ち返らせていただいている今の私を思う時、今の私に導いてくださった多くの方々への深い感謝と、それらの人々を介して辛抱強く働いてくださった父なる神さまの御手を強く感じています。そして、自分の存在自体が父なる神さまの恩恵によるものであるとの確信を深めています。今では、先生の「人間は自我という殻を突き破って神のもとに立ち帰り、神の恩恵によって神と結ばれるようになって、初めて本来のわたしになるのです」に深く納得しています。最近は、毎年釣りにやってくる息子の手ほどきで始めた、近くの川での虹鱒つりに凝っています。父なる神さまの被造物で満たされた大自然に囲まれて(この街は三方を山に囲まれています)、四季折々風情の違いを愛でながら、ほとんど一人だけの釣りを楽しんでいると、キリストにあって、父なる神さまとの絆と交わりの中で生かしていただいている今の私の幸せに感謝の気持ちで一杯になります。コリント第一の「神の恵みによって私は今の私であるのです」(市川先生私訳)が今の私の心境です。当初は4,5年で帰国するつもりでしたが、今年で在ニュージーランド21年になります。何処にあっても所詮この世での住処が仮の庵であるならば、自分に残された日々を父なる神様のお導きで至った当地で終らせていただけたら、それも幸せと思える今日この頃です。

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