福音の史的展開 1 


    序章 復活者イエスの顕現  

                           ―― 受難の過越祭から五旬節まで ――



はじめに― 本シリーズの内容と性格

 本号から「福音の史的展開」という標題のシリーズを連載しますが、シリーズ連載を始めるにあたって、その内容と性格について、簡単にお断りをしておきます。

 福音とは、神が主イエス・キリストの出来事、とくに十字架の死と復活の出来事において、わたしたち人間の救いを成し遂げてくださったという告知であり、またその告知を宣べ伝える活動です。神の救いの出来事は、イエスの生涯だけでなく、それを準備するイスラエル二千年の歴史と、その福音告知の活動が始まってから現在に至る二千年のキリスト教の歴史の中で展開されています。従って、「福音の史的展開」とは、広い意味ではその歴史の全体を含むことになります。しかし、そのような膨大な内容を扱うことはできませんので、このシリーズでは、イエスの復活後に開始された福音告知の活動の最初期だけを扱います。それは、この時期に福音がもっとも純粋にその姿を現しており、範例的な意義を持っているからです。

 ここで「最初期」というのは、イエスの復活後、この福音告知の活動が始まってから、新約聖書に収められている諸文書が成立する期間を指しています。具体的には、新約聖書のもっとも遅い文書の成立がほぼ一世紀末か二世紀初頭であると考えられるので、30年のイエスの十字架と復活からほぼ70年とか80年の期間を指します。この期間は、前号で「新約聖書の多様性と一体性」を論じた論考が扱った時期と同じです。この時期を「新約聖書時代」と呼んでよいでしょう。

 この「最初期」は、ユダヤ戦争におけるエルサレムの陥落・神殿の崩壊(70年)を境として、前期と後期に分かれます。前期は、ほぼイエスの弟子である使徒たちが活躍した時期であり、使徒時代と呼べるでしょう。後期は、使徒たちの後継者が活動した時期であり、使徒後時代、正確には使徒直後時代ということになります。

 ルカもこの時期を代々の《エクレーシア》にとって範例となる時期として「使徒言行録」を書いていますが、ルカは前期しか扱っていません。それも前期のすべてではなく、パウロのローマ到着までです。これは、前号の「ルカ二部作の成立」で見ましたように、ルカの著作意図から出たことです。しかし、新約聖書全体がわたしたちの福音理解の基準とされるのであれば、現代のわれわれは新約聖書文書の成立時期全体を扱うべきであると考え、このシリーズでは前期だけでなく、後期も含めて「新約聖書時代」を扱うことにします。

 前期を扱うさいの資料としては「使徒言行録」があります。しかし、このシリーズは、使徒言行録を講解するのではなく、使徒言行録を批判的に検討して資料として用い、この時期の福音運動の実像に迫りたいと願っています。この時期に関しては、パウロ書簡という一次資料もあるので、この一次資料の視点からルカの使徒言行録の記述の意義を理解することも重要な作業になると考えます。したがって、使徒言行録はその全体の講解ではなく、ルカの意図や福音理解(神学)を明らかにするのに有益で必要な形での(部分的な)取り扱いになると思います。

 後期については、その歴史を記述した使徒言行録のような著作はありませんので、その時代に成立した文書を資料として、その時期の福音の展開を追わなければなりません。そのさい、新約聖書の多くの文書がこの時期に成立していますので、それを資料として用います。さらに、新約聖書の外にもこの時期に成立した文書がありますので、それも併せて用いて、この時期の福音の史的展開をたどることになります。


    T イエスの十字架と弟子たち

イエスの十字架上の死を見届けた女性たち

 主イエス・キリストの福音を世界に告知する福音活動は、復活されたイエスの顕現を体験した弟子たちが、この復活者イエスをイスラエルに約束されたメシア、神から人の救い主として立てられて世に遣わされたキリストとして宣べ伝えた活動から始まります。では、弟子たちが復活者イエスの顕現を体験したというのは、どういう出来事だったのでしょうか。その出来事を検討するために、それが起こった状況を見ておきたいと思います。

 イエスはガリラヤで「神の国」を宣べ伝える活動をされましたが、その間、祭りの度ごとにエルサレムに上っておられます。それは、忠実なユダヤ教徒として当然のことであり、ヨハネ福音書が伝える通りであると考えられます。しかしマルコ福音書は、福音にとって重要な意義をもつことになる最後の過越祭のときのエルサレム上りだけを伝えています。その過越祭こそ、イエスの受難の時となるからです。イエスが最後にエルサレムに上られたとき、弟子の一団と数人の女性たちがイエスに従ってエルサレムに上りました。

 その時、イエスはエルサレムでの死を覚悟して、受難を予告しながらエルサレムへの道を進まれます。それに対して弟子たちは、ガリラヤで神の力によって数々の奇跡を行われたイエスは、エルサレムで大いなる業を現して神の支配を打ち立てられるのだと期待し、そのとき誰が高い地位につけられるかなどと議論していました。しかしエルサレムでは、イエスは逮捕され、ローマ総督に引き渡され、十字架刑で処刑されることになります。弟子たちは落胆し、悲嘆にくれます。

 イエスが十字架を担って刑場へ引かれていくとき、刑場まで従って行き、イエスの十字架の上での最後を見届けたのは、ガリラヤから従ってきた数人の女性だけでした。福音書はその女性の名を伝えています。マルコ福音書(一五・四〇)では、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、サロメの三人です。マタイ福音書(二七・五六)では、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母の三人とされています。マルコとマタイの報告をつきあわせると、「ゼベダイの子らの母」の名はサロメということになります。ルカ福音書(二三・四九)は、イエスの最後を見届けた女性たちを、名をあげずに「ガリラヤから従ってきた婦人たち」とひとまとめにして伝えています。これらの共観福音書では、女性たちは「遠くから見守っていた」と伝えられています。

 ヨハネ福音書(一九・二五)では、「その母(イエスの母マリア)、母の姉妹、クロパの妻マリア、マグダラのマリア」の四人の女性があげられています。イエスの母マリアが十字架のそばにいたことを伝えているのはヨハネ福音書だけです。

 共観福音書と違ってヨハネ福音書では、女性たちは遠くから見守ったのではなく、十字架上のイエスと会話ができる位置にいたことになります。さらに、その場に「イエスが愛された弟子」もいたと伝えられています。共観福音書が伝えることが事実だとすれば、ヨハネ福音書は「イエスが愛された弟子」がイエスの母マリアを引き取ったことを説明するために、母マリアと愛弟子が十字架の側に居合わせた記事(ヨハネ一九・二六〜二七)を入れて構成したことになります。

 イエスの十字架のとき、男性の弟子たちはどこにいたのでしょうか。弟子たちは、刑場に立ち会わなかったのはもちろん、遠くから見守ることもなく、「ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(ヨハネ二〇・一九)のです。これは当然です。イエスはユダヤ教の最高法院で死刑の判決を受け、ローマ総督からも反逆罪の判決を受けて十字架刑に処せられたのです。その弟子も仲間として探索され、逮捕される危険があります。壮年の弟子たちが、逮捕を恐れて身を隠したのも当然です。イエスの最後を遠くからでも見届けることができたのは女性だけということになります。十字架後の弟子たちの行動については、後でもう少し詳しく見ることにします。

 ヨハネ福音書が伝えるように、「イエスが愛された弟子」が十字架の側にいたとすれば、この男性の弟子はまだ少年で、母親のような年代の女性たちの間に隠れて近づくことができたとしなければなりません。

 

イエスの埋葬

 イエスが十字架の上で絶命されたのは、日没が迫っている夕暮れでした。「その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので」(マルコ一五・四二)、日没までに急いで遺体を十字架から取り降ろして埋葬しなければなりません。日没とともに安息日が始まると、このような作業は安息日律法で禁止されているのでできなくなり、「木にかけられた死体は、かならずその日のうちに埋めなければならない」(申命記二一・二二〜二三)という律法を守れなくなるからです。

 十字架の側には弟子はいません。誰も埋葬しなければ、当時の律法規定により、イエスの遺体は犯罪者墓地に放棄されることになります。この状況を見た一人の有力な人物が、「勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるように」と願い出ます。それは、「アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフ」でした(マルコ一五・四三)。これは勇気のいる行動です。イエスはユダヤ教の最高法院で神を汚す者として死刑の判決を受け、ローマ総督によって反逆の罪で処刑された人物です。そのイエスの遺体を引き取って葬ることは、自分もイエスの仲間と見られる危険があります。それまで「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた」(ヨハネ一九・三八)ヨセフは、ここにきて意を決してイエスの仲間であることを公に言い表す行動に出るのです。ヨセフは、このとき「ユダヤ人たちを恐れて」逃げ去った弟子たちよりも、信仰では勝ります。また、まだ復活の報知もない時に十字架につけられたイエスを言い表すことにおいて、われわれの信仰に勝ります。このヨセフの行動は、福音の宣教において「空の墓」という証言を可能にする重要な意味を持つことになるので、四つの福音書はみな詳しく報告しています。

 ピラトは、イエスの死が早いことを不審に思いますが、百人隊長に確認させて上で、イエスの遺体をヨセフに引き渡します。ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納めます(マルコ一五・四四〜四六)。ヨセフによる埋葬に関しては、四福音書は基本的に一致しています。ただ、他に誰が埋葬に居合わせたかについては、共観福音書では(弟子はもちろん女性たちもその場にはいないのですから)ヨセフだけが行ったことになりますが、ヨハネ福音書(一九・三九)では、ヨセフの他にニコデモが香料をもって駆けつけ、居合わせた女性たちと一緒にイエスを埋葬したとしています。後代の宗教画では、ヨハネ福音書に基づいて(=共観福音書の証言は無視されて)、十字架から取り下ろされたイエスの遺体を囲んで嘆く女性たちが好んで描かれるようになります。共観福音書では、女性たち(二人のマリア)が、ヨセフがイエスの遺体を埋葬した墓を見届けて(マルコ一五・四七)、安息日が明けた日曜の早朝に香料を添えるために墓に行くことになります。

 ヨハネ福音書(一九・四〇)は、イエスの埋葬が「ユダヤ人の埋葬の習慣に従って」なされたとしています。当時のエルサレムのユダヤ人は、小高い丘の中腹に掘った墓室(人が立って入れる小さな空間)に、亜麻布で巻いた遺体を安置し、数日近親者が祈りと嘆きの行事を行った後、墓室の奥に掘られた数個の細長い横穴の一つに遺体を納めます。そしてほぼ一年後、肉体が乾燥して朽ち果てた後、残された骨を骨箱に納めて定められた地区に安置します。

 この墓は、刑場の近くの園にあったので用いられたとされていますが(ヨハネ一九・四一)、マタイ(二七・六〇)だけがそれがヨセフの墓(ヨセフが自分と一族のために準備した墓)であったとしています。福音書は共通して、それが「だれもまだ葬られたことのない新しい墓」であることを強調しています。もしすでに他の誰かが葬られていたのであれば、イエスを葬った墓が空になっていたという証言は、その骨がイエスのものでないと証明しない限り、イエスの復活証言の一つとしては無意味になります。

 

十字架後の弟子たち

 イエスが十字架の上で息を引き取られ、その日のうちに埋葬されたとき、弟子たちは「自分たちのいる家の戸に鍵をかけ」、息を潜めて隠れていました。翌日の安息日も同じようにしていたと考えられます。ところが、安息日が明けた翌日(すなわち週の初めの日、日曜日)の早朝、女性たちが息を切らせて駆けつけ、イエスを葬った墓が空になっていることを報告します。

 この報告とその結果も、福音書によって違います。マルコ福音書(一六・一〜八)では、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメの三人が、日曜日の早朝、イエスの遺体に香料を添えるために墓に行き、墓が空であることを発見します。マルコは、その女性たちが墓で天使の顕現に接し、「震えが止まらず、正気を失い、墓から出て逃げ去った。そして、誰にも何も語らなかった。恐ろしかったからである」としています。

 マタイ福音書(二八・一〜八)は、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓に行き、墓が空であることを見て、天使のお告げを受け、「恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」と、マルコを修正しています。

 ルカ福音書(二四・一〜一二)は、マグダラのマリアと数名の女性が、墓が空であることを見て、使徒たちに報告しています。ところが、「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」としています。しかし、ペトロが墓まで走り、墓が空であることを確認したと伝えています。

 ヨハネ福音書(二〇・一〜一〇)では、マグダラのマリアが墓が空であることを発見して報告します。報告を受けて、ペトロと「もう一人の弟子」が墓まで走り、墓が空であることを確認しています。

 このように、出来事から四〇年以上も経って書かれた福音書では、それぞれの記者の意図によって細部の違いが出て来ていますが、このような伝承を透かして見えてくる事実が二三あります。

 弟子たちは刑場にも墓に行かず、街の隠れ家に潜んでいます。最初に墓が空であることを発見して弟子たちに伝えのは女性たちでした。その中でいつもマグダラのマリアの名が最初に置かれています。これは、復活されたイエスが最初に御自身を現されたのはマグダラのマリアであったという伝承(マルコ一六・九)を反映しています。

 弟子たちは、空の墓の報告や、復活されたイエスにお会いしたというマグダラのマリアや女性たち(マタイ二八・九)の証言を信じませんでした。失望と恐怖の中にいる弟子たちが、復活というあまりにも人の思いを超えた出来事を信じられないのも無理からぬことです。彼らが後で慚愧の思いから漏らした当時の心境が、後に「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」というルカの記事や、「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」というマルコ福音書(一六・一四)の記事になったと考えられます。

 ユダヤ教徒は、過越の祭りの期間中はエルサレムにとどまるように律法によって命じられています。祭りの期間が終わったとき、弟子たちは帰郷する巡礼団に混じってガリラヤに戻ったことでしょう。逮捕の危険があるエルサレムにとどまる理由はありません。また、弟子たちや女性たちは、祭りに参加するために巡礼としてエルサレムに来ているだけで、エルサレムには生活の基盤(住居とか生業)がありません。ガリラヤに帰ってそれぞれの家業に戻る以外に選択肢はありません。漁師のシモン・ペトロは、「わたしは漁に行く」と言う以外ありませんし、他の弟子たちも「わたしたちも一緒に行こう」と言う他ありません(ヨハネ二一・三)。


  U ガリラヤでの復活者イエスの顕現

マルコ福音書の場合

 そのような弟子たちに、復活されたイエスがご自身を現されます。弟子たちは復活者イエスの顕現を体験します。それがどのような性格の出来事であれ、弟子たちが復活者イエスの顕現を体験したことは疑いようのない事実です。それは、その後の弟子たちの命をかけた証言活動が証明しています。

 では、この体験は、誰が、いつ、どこで、どのような形で体験したのでしょうか。四つの福音書はみな、この重要な体験を報告していますが、その報告も出来事から何十年も経った時代に、それぞれの福音書記者が自分の意図にふさわしい形で様々な伝承をまとめているのですから、かなり違った形になっています。四つの福音書のまとめ方を検討して、弟子たちの顕現体験の実相に迫りたいと思います。

 まず、最初に成立したと見られるマルコ福音書から検討しましょう。先に見たように、本来のマルコ福音書は、墓が空であることを発見した女性たちが、「震えが止まらず、正気を失い、墓から出て逃げ去った。そして、誰にも何も語らなかった。恐ろしかったからである」という一六章八節の文で唐突に終わっています。九節以下は、このような終わり方を不自然と感じた後の時代の人たちが、他の福音書や伝承を用いて付け加えた記事であることが広く認められており、ギリシア語原典でも、またどの翻訳でも括弧に入れられています。本来のマルコ福音書には、空の墓の記事の後には復活者イエスの顕現の記事はなかったことになります。

 では、マルコ福音書は復活者イエスの顕現を伝えていないのでしょうか。けっしてそうではありません。マルコは独特の仕方で弟子たちの顕現体験を伝えているのです。それは、この福音書の終わり方自体に示唆されています。空になった墓で天使たちは女性たちにこう言ったとされています。
 「さあ、あなたがたは行って、弟子たちとペテロにこう言いなさい、『イエスはあなたがたに先だってガリラヤに行かれる。以前あなたがたに言われたように、あなたがたはそこでイエスにお会いすることになる』」(マルコ一六・七)。

 「以前(イエスが)あなたがたに言われたように」というのは、最後の晩餐を終えてゲツセマネに向かわれるとき、イエスが弟子たちに、彼らがイエスにつまずくことを予告して言われた次の言葉を指しています。
 「あなたがたは皆つまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると羊の群れは散らされる』と書かれているからである。しかし、わたしは復活した後、あなたがたに先だってガリラヤに行く」(マルコ一四・二七〜二八)。

 このように、マルコ福音書は、イエスご自身の予言と空の墓での天使の告知によって、エルサレムでは十字架されたイエスにつまずいた弟子たちが、ガリラヤで復活されたイエスにお会いすることになると予告して終わるのです。これは、弟子たちが過越の祭りが終わってガリラヤに戻り、そこで活者イエスの顕現を体験したことを、神の御計画によって起こったものだとするためです。

 では、ガリラヤで弟子たちが復活者イエスに出会った体験とはどのようなものだったのでしょうか。マルコはそれをどのように伝えているのでしょうか。実は、マルコは復活者イエスに出会った弟子たちの体験を、生前イエスが「神の国」を宣べ伝えてガリラヤを巡回しておられた時期の物語に組み込んで伝えているのです。その代表的な場合をあげておきます。

 ペトロをはじめ弟子たちはガリラヤに戻り、漁師の仕事を再開します。ある早朝、漁に出るためにガリラヤ湖の岸辺にいたとき、イエスが岸辺に立っておられるのを見ます。そのイエスが彼らに、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と声をかけられます。すると彼らは直ちに網を捨ててイエスに従います(マルコ一・一六〜二〇)。この記事は、生前のイエスが弟子を召された記事としては、きわめて不自然です。弟子たちは、まだイエスの働きは何も見ていません。教えの言葉も聞いていません。

 事実ヨハネ福音書は、イエスがガリラヤで宣教活動をお始めになる前に、ペトロたちは洗礼者ヨハネのバプテスマ運動の中でイエスと出会い、そこで弟子となり、ガリラヤに戻ってきたことを伝えています(ヨハネ一章)。マルコの記事は、弟子たちが復活者イエスに出会い、その復活者イエスの召しに従って漁師の生業を捨てて、復活者イエスを宣べ伝える生涯に入ったことを語る記事と見る方が自然です。この見方を根拠づける記事がルカ福音書にありますが、これはルカ福音書を扱うところで触れることにします。

 もう一つの重要な記事は、ガリラヤ湖で漁をしていた弟子たちが、嵐で漕ぎ悩んでいたとき、イエスが水の上を歩いて近づいて来られたという記事です(マルコ六・四五〜五二)。生身の人間が水の上を歩くことは可能でないとして、岸辺を歩くイエスを見誤ったのだと合理的に解釈するとか、聖書の記事の信憑性を疑う材料にされたりしますが、それはこの記事の性格を見誤っているからです。これは、弟子たちが湖上で復活者イエスに出会ったことを伝える記事です。この記事は、現れた方がはじめは誰であるか分からないとか、その方が声をかけてはじめてイエスであると分かったなど、復活者の顕現を語る伝承の特色を備えています。復活者イエスの顕現であれば、それが湖上で起こることは問題ではありません。

 

マタイ福音書の場合

 マタイは、マルコ福音書を枠組みとして用いて、それに自分たちが継承してきた「語録資料Q」を組み入れて、ユダヤ人信者に語りかける福音書を書きました。しかし、マルコ福音書が一六章八節で唐突に終わっていることを不自然として、かなり訂正しています。マルコでは、日曜日の早朝、空の墓で天使の顕現に遭遇した女性たちは、あまりにも驚き恐れて、そのことを誰にも話さなかったとしていますが、マタイ福音書では、女性たちは走って帰ってペトロたちに報告します。しかも、その途中で復活されたイエスに出会い、「イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」とされています。このとき復活者イエスは女性たちに、「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と言っておられます(二八・八〜一〇)。そして、弟子たちは空の墓での天使のお告げと復活されたイエスの指示に従ってガリラヤに行き、イエスが指示された山に登って、そこで復活者イエスにお会いしたという記事を加えています(マタイ二八・一六〜二〇)。

 マタイは、マルコが弟子たちのガリラヤでの復活者イエスとの出会いの体験を地上のイエスの働きの中に組み込んで伝えた書き方を継承し、湖畔での顕現や湖上での顕現を同じように書いています。ただ、マタイはこれらの出来事、とくに湖上の顕現を復活者の顕現の出来事であると理解していることを、その書き方で示唆しています。すなわち、マタイは水の上を歩いて近づいてこられたイエスを見たとき、弟子たちは「本当に、あなたは神の子です」と言って、イエスを拝んだと書いています(一四・三三)。この「イエスを拝んだ」という動詞は、復活後ガリラヤの山で復活者イエスにお会いしたとき、「イエスに会い、ひれ伏した」とある「ひれ伏す」と同じ動詞です(二八・一七、二八・九も同じ)。二つの箇所で同じように、弟子たちは復活者イエスを神の子として拝んでいることになります。

 マルコ福音書では、弟子たちはイエスの言葉や人格の奥義を理解できない者として叱責されていますが、総じてマタイ福音書では弟子たちは理想化されて、イエスの言葉や出来事の意義をよく理解していると描かれています。伝承の用い方やその意義づけにおいて、マルコとマタイでは違いが見られますが、マルコ・マタイ系の伝承では、弟子たちはガリラヤで復活者イエスと出会ったことになります。


 

  V エルサレムでの復活者イエスの顕現

 

ヨハネ福音書の場合

 マルコ福音書が、弟子たちは復活者イエスの顕現をガリラヤで体験したとしているのに対し、ヨハネ福音書はそれがエルサレムで起こったとしています。これは、マルコがイエスの働きをほとんどガリラヤに限っているのに対して、ヨハネはイエスの働きをエルサレム中心に描いていることの延長上にあり、ヨハネ福音書では復活されたイエスもエルサレムで弟子たちに顕現されます。これは、ヨハネ福音書を生み出した共同体の指導者ヨハネがエルサレムの住人であり、イエスのエルサレムでの働きに協力していた人物であったからでしょう。

 ヨハネ福音書では、復活されたイエスは最初にマグダラのマリアに現れ、彼女が弟子たちにイエスの復活を告げ知らせています(二〇・一一〜一八)。日曜日の早朝、イエスを葬った墓に行ったのはマグダラのマリアだけです。彼女は墓が空であることを弟子たちに報告し、一緒に墓に走ります。二人の弟子が空の墓を確認して帰った後、マリアは墓の外に立って泣いています。そのとき復活されたイエスがマリアに現れ、「わたしの兄弟たちのところへ行って、彼らに『わたしは、わたしの父であり、あなたたちの父である方、わたしの神であり、あなたたちの神である方のところに昇る』と言いなさい」と告げておられます。「わたしはガリラヤに行く。そこでわたしに会う」とは言っておられません。

 その日、すなわち週の初めの日(日曜日)の夕方に復活さたイエスは、戸に鍵をかけて閉じこもっている弟子たちのいる部屋に現れ、「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたたちを遣わす」と言って、息を吹きかけ、聖霊を賦与されます(二〇・一九〜二三)。そのとき部屋にいなかったトマスは、「わたしたちは主を見た」という他の弟子たちの証言を信じませんでしたが、そのトマスに復活されたイエスが八日後に現れておられます(二〇・二四〜二九)。こうして、エルサレムにおける顕現を三例報告して、ヨハネ福音書の本体部(一〜二〇章)は閉じられます。

 ところが、結びの言葉(二〇・三〇〜三一)で一度完結したこの福音書に、後に補遺として二一章が加えられることになります。その補遺では、「その後、イエスはティベリアスの海辺で、再び弟子たちに御自身を現された。それは、このように現されたのである」として、ペトロをはじめ七人の弟子がガリラヤ湖に漁に出かけたときに復活者イエスが姿を現された出来事が詳しく報告され、このガリラヤ湖での顕現が、弟子たちへの三度目の顕現とされています(二一・一〜一四)。

 この補遺の記事によってヨハネ共同体も、弟子たちが十字架のあと一度ガリラヤへ戻った事実、およびガリラヤでの復活者イエスの顕現の伝承を知っていることを示しています。このガリラヤ湖での復活者イエスの顕現を、この補遺を加えた編集者は「三度目」と数えます。ということは、編集者は本体部分(二〇章)の顕現を二度と数えていることになります。すなわち、マグダラのマリアへの個人的顕現は別にして、「弟子たち」への顕現は週の初めの日と八日目の二回とし、これを三度目の顕現としていることになります。

 本来イエスの働きをエルサレム中心に描き、復活されたイエスの顕現もエルサレムに限ってきたこの福音書本体の後に、このようにガリラヤでの顕現伝承を用いた補遺を加えたのはなぜか、その動機とか理由がずいぶん議論されてきました。断定的なことは言えませんが、おそらくこの補遺は、ヨハネ共同体がペトロを代表的使徒と仰ぐ周囲の主流の共同体と協調する必要が生じた状況で、本体に加えられたのでしょう。本体部では、「イエスが愛された弟子」がペトロと対抗するように、ペトロに勝る証人として描かれていますが、この(十二使徒団の外に立つ)「もう一人の弟子」は、そのイエス証言によりヨハネ共同体を形成した指導者であると見られます。この独自の歩みを続けてきた共同体も、この弟子(共同体で「長老」と呼ばれている指導者)の晩年に、分裂の危機を体験し(ヨハネT二・九)、多くの兄弟たちが交わりから出て行きました。残った兄弟たちに、正しい信仰と愛の交わりにとどまるように説き勧めた長老の回状が「ヨハネの第一の手紙」であると見られます。その長老が高齢で召された後、出て行ったグノーシス主義的傾向の者たちに対抗して、残った兄弟たちはペトロ系の伝承に従っている周囲の主流の共同体と協調するようになり、このようなペトロへの顕現と、ペトロと長老ヨハネの関係を主題とする補遺を加えたのではないかと考えられます。

 

ルカ福音書の場合

 ルカはマルコ福音書を基本的な資料として用いて福音書を書いています。しかし、復活者イエスの顕現については、大きくマルコ福音書から離れています。マルコ福音書では、イエスご自身の指示と空の墓での天使のお告げで、弟子たちはガリラヤに戻り、そこで復活されたイエスに会うことになっていました。ところがルカはこの両方を取り除いています。マルコ福音書(一四・二七〜三一)にある、最後の食事の席からゲツセマネへ行く途上でイエスが語られたとされている弟子たちの離反とガリラヤで会うという予告は、ルカの並行箇所(二二・三一〜三四)では、弟子の離反の予言だけとなり、ガリラヤへ行くようにという指示はなくなっています。空の墓での天使の告知にも、ガリラヤへ行くようにという指示はありません。マルコでは「ガリラヤで会う」とありましたが、ルカでは「ガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい」となっています。

 ルカ福音書では、復活されたイエスの顕現はエルサレムとその近郊に限られています。ルカはまずエマオ(エルサレムから北西約11キロ)へ向かう二人の弟子への顕現を詳しく物語ります(二四・一三〜三五)。この二人の名は伝えられていませんが、十一人の使徒(ユダが去った後の十二使徒)の中の二人ではありません。この二人がエマオで復活されたイエスと食事をしたという体験をしたのは、「ちょうどこの日」、すなわち女性たちが空の墓を発見した日曜日のことでした。その日の暮れにエマオの村に入り、食事をしようとしたとき、イエスの姿が見えなくなります。二人はすぐエルサレムに戻り、「十一人とその仲間」に報告します。その時、彼らは「本当に主は復活して、シモンに現れた」と言っていたとされています。するとシモン・ペトロへの顕現もその日(日曜日)に起こったことになります。

 「十一人とその仲間」がエマオから急いで戻ってきた二人の報告を受けているとき、復活されたイエスが彼らの真ん中に立ち、「シャローム」の挨拶をされます。亡霊を見ているのだと恐れおののく弟子たちに、イエスはご自分の手と足を見せ、差し出された焼き魚の一切れを食べて、亡霊ではなくイエスご自身であることを示されます。その上で、イエスこそ聖書に予言されていた苦しみを受けて復活するメシヤであることを世界に伝える使命をお与えになります。そのための力を受けるまでは、エルサレムにとどまるように命じられます。この顕現の出来事も、「その日」(=日曜日)の夕方か翌日がはじまる夜ということになります(二四・三六〜四九)。

 その後、復活者イエスは弟子たちをベタニアの辺りまで連れて行き、天に上げられます(二四・五〇〜五三)。したがってルカ福音書では、弟子たちがガリラヤに戻って、そこで復活者イエスの顕現に接するという余地はありません。ところがルカには、マルコ福音書(一・一六〜二〇)の湖畔での弟子の召命とよく似た記事があります。ルカ福音書(五・一〜一一)の湖畔での弟子の召命記事でも、マルコの場合と同じように、イエスが彼らを「人間をとる漁師になる」という言葉で召しておられます。もしマルコの召命記事が(先に見たように)復活者イエスの顕現のときの召命を地上のガリラヤ伝道の出来事として組み込んだものであれば、ルカの場合もそうではないかと考えてみなければなりません。事実、ヨハネ福音書の補遺(二一章)に、きわめてよく似た記事が、ガリラヤ湖畔での復活者イエスの顕現の記事として伝えられています。

 ヨハネ福音書二一章の記事とルカ福音書五章の記事を較べますと、細部での違いはありますが、一晩中漁をしたが何も獲れなかったこと、イエスの指示で網を降ろしたところおびただしい数の魚が獲れたこと、ペトロがひれ伏した(湖に飛び込んだ)ことなど、物語の主要な内容では一致しています。細部の違いは、同じ出来事を語り伝える伝承が、その経路の違いや福音書の記事になるさいの執筆者の意図などの違いによって生じた違いであると見られます。別の出来事が二回あったとするには、その内容があまりにも似すぎています。では、本来は地上のイエスが弟子たちを召されたときの出来事が復活者イエスの顕現の物語となったのか、それとも、もともと復活者イエスのガリラヤ湖畔での顕現の伝承が、ルカによって地上のイエスが弟子を召される物語とされたのかが問題になります。

 ヨハネ福音書の補遺を書いた編集者が、地上のイエスの物語を復活顕現の物語に用いた(それでは復活顕現の物語は作り話になります)とは考えにくく、逆にルカがガリラヤ湖での復活顕現の伝承を地上のイエスが弟子を召される記事にした動機は十分に考えられます。ルカはその二部作(福音書と使徒言行録)を聖都エルサレムを中点とする福音の進展として描いています。すなわち、イエスによるガリラヤからエルサレムへの進展、使徒たちによるエルサレムからローマへの進展です。その中点として、使徒たちの福音はエルサレムから始まらなければなりません(ルカ二四・四七〜四九)。使徒たちは力を受けるまでエルサレムにとどまっていなければなりません。使徒たちが再びガリラヤに戻って、そこで復活顕現を体験し、そこから福音を宣べ伝え始めるという順序は、ルカの図式には入って来ることはできません。それでルカは、マルコのガリラヤへ戻るようにというイエスと天使の指示を削除したのです。そして、(おそらくペトロから出た)この貴重なガリラヤ湖畔での復活顕現の伝承を、地上のイエスがペトロを弟子として召された物語として、ガリラヤ伝道の初期に置くのです。

 このこと(ルカが復活顕現の伝承を地上のイエスの働きの時期の出来事として用いたこと)は、ヨハネ福音書の記事が枝葉を多くつけた伝承としての性格を残しているのに較べて、ルカ福音書の記事は物語として滑らかにされていることとか、ペトロが「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言ったのは、先に主を三度否定したことを指していると理解できることなどからも推察することができます。また、ルカは先輩のマルコがすでに復活顕現の伝承を地上のイエスの働きの期間の出来事として用いているのを知っています。この点でルカがマルコに従ったとしても自然なことです。

 

ガリラヤかエルサレムか

 このように復活顕現の記事は四つの福音書でかなり違います。この違いはどう説明できるのでしょうか。復活者イエスは時空を超えた存在ですから、ガリラヤとエルサレムで同時にご自身を現すことはありうることです。しかし、それを体験する弟子たちは地上の人間ですから、ガリラヤとエルサレムに同時にいることはできません。では、弟子たちの体験を伝える四福音書の記事がこのように違うのはどう理解すべきなのでしょうか。

 エルサレムでの顕現を伝えるヨハネ福音書とルカ福音書は、それがイエスの十字架の死から三日目にあたる日曜日のことであるか、翌日とか八日後とか比較的短期間の出来事としています。そうすると、弟子たちはエルサレムで復活者イエスの顕現に接したのですが、その体験は直ちにエルサレムでイエスを復活者キリストとして宣べ伝えることにはならず、逮捕の危険があり、生活の基盤のない弟子たちは、エルサレムを去り、ガリラヤに帰って生業に戻ったとしなければなりません。そのガリラヤで、マルコ・マタイ系の伝承が伝えているような復活者イエスの顕現を体験し、その体験の中で宣教への召しを受け、その召しに従って生業の漁師の働きを捨て、福音の告知のために献身するようになったと見られます。

 ペトロは師イエスが逮捕されて大祭司の館に連行されたとき、館の女性使用人に問い詰められて、三度までイエスを知らないと否認しています。このことはペトロには深い自責の念となっていたはずです。もしイエスの十字架の死の直後にエルサレムで復活されたイエスの顕現に接していたとすると、そのような体験があるにもかかわらず、「ユダヤ人たちを恐れて」ガリラヤに戻り、漁師の生業に日々を過ごすようになっていたことで、ますます師を裏切った自責の念に苦しんでいたのではないかと推察されます。その自責の念が、湖畔で顕現された復活者イエスに出会ったときに、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と叫んで、水の中に飛び込ませたと考えられます。

 そのペトロを復活者イエスはありのまま受け入れ(=赦して)、「恐れることはない。わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われます。ペトロの感激はどれほどであったでしょうか。ペトロは(兄弟アンデレと共に)「すぐに網を捨てて従った」とマルコは書いています。同じように召されたゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネも、「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」とあります(マルコ一・一六〜二〇)。ルカ(五・一一)では、「彼ら(シモン・ペトロとゼベダイの子ヤコブとヨハネ)は舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」とあります。

 このような表現は、ペトロたちガリラヤの漁師が生業を捨てて、復活されたイエスをメシヤ・キリストとして宣べ伝える働きに全面的に献身したことを指し示しています。このように「すべてを捨てた」弟子たちは、どのような行動に出たのでしょうか。それが次の主題となります。


 

  W 弟子たちのエルサレムへの移住

危険なエルサレムへ

 過越祭の五十日後に五旬節(ペンテコステ)の祭りが来ます。この五旬節も三大巡礼祭の一つで、すべてのユダヤ教徒はエルサレムの神殿に詣でなければなりません。過越祭のときに師のイエスはユダヤ教の最高法院で、神を汚し、律法違反を唆す異端者として死刑の判決を受け、ローマ総督に引き渡されて、十字架刑にによって処刑されたばかりです。ペトロをはじめ弟子たちは、そのようなエルサレムに残ることはできず、過越祭がすんだ後、郷里のガリラヤに戻ったのでした。ところが、五十日後の五旬節にはエルサレムにいて、イエスをイスラエルに約束されたメシヤであると宣べ伝える活動を始めています。この過越祭と五旬節の間に何があったのでしょうか。

 先に見たように、過越祭の後ガリラヤに戻った弟子たちは、復活されたイエスの顕現を体験し、この復活者イエスをメシヤ・キリストとして宣べ伝える働きに召されます。弟子たちはすでに以前、イエスがガリラヤで「神の国」を宣べ伝える働きをされていたとき、イエスに従ってガリラヤを巡り歩いてその働きを共にし、イエスの教えを聴きました。その時には、家や家族はそのままであり、弟子たちは召されたときにイエスに従ってガリラヤを巡回し、またイエスから派遣されてガリラヤの町や村に出向いて、「神の国」は近いと宣べ伝えたのでした。しかし、今回は違います。復活者イエスから宣教の召しを受けた弟子たちは、エルサレムで宣べ伝えるために、エルサレムに向かいます。なぜでしょうか。

 エルサレムは師イエスが処刑された都です。イエスを死に追いやった勢力が支配している町です。そこに行くことは、死を覚悟しなければならないほど危険な行為です。イエスがラザロを生き返らせるために、「もう一度ユダヤに行こう」と言って、「ヨルダンの向こう側」からユダヤの地に向かわれたとき、弟子たちは「ラビ、つい先には、ユダヤ人たちがあなたを石打にしようとしていました。それなのに、またそこへ行かれるのですか」と言っています。それでもイエスが行かれるので、トマスが仲間の弟子たちに、「われわれも行って、一緒に死のう」と言っています(ヨハネ一・一六)。このトマスの言葉は、この時ガリラヤからエルサレムに向かおうとする弟子たちの心境を代弁していると見られます。
 このような死地に赴くような行為を断行するためには、よほどの強い動機とそれをなさせる力が必要です。まず、弟子たちがエルサレムに向かった動機とか理由を見ましょう。

 

何のためにエルサレムへ

 弟子たちが危険を冒してエルサレムに上った動機は、復活されたイエスが神の支配を地上に実現する栄光の主として来臨されるのをエルサレムで待つためであった、とわたしは推察しています。「推察している」と言ったのは、新約聖書の中にはそれを直接根拠づける文言はなく、前後の事情からそう推察せざるをえないからです。弟子たちのエルサレム移住を伝えている唯一の資料であるルカの使徒言行録は、来臨遅延の状況で成立したルカの救済史理解から、差し迫ったキリストの来臨を待つというような動機を語ることはありません。わたしたちは、ルカが描くところよりも、当時の弟子たちの状況に身を置いて、その動機を考察すべきであると考えます。

 イエスが弟子たちと一緒におられたとき、「神の国(神の支配)」について多くの言葉で語られました。イエスが神の支配をどのようなものして教えられたのかは、福音書研究の大きな主題であり、様々な見方があって議論が続いています。ここでその議論に立ち入ることはできませんが、イエスの神の支配の告知には、少なくとも洗礼者ヨハネと同じく神の支配が差し迫っていることをイスラエルに告知されたという一面があったことは否定できません。そして、イエスが当時のユダヤ教黙示思想をどのように評価されていたかは難しい問題ですが、イエスが「人の子」という黙示思想独特の称号を用いて、ご自身のことや神の支配のことを語られたことは、イエス伝承の中でもっとも確実なことの一つです。

 イエスはその「人の子」という称号に、苦しみを受けて殺され、それによって民を贖う救済者という内容をこめられました(マルコ八・三一)。これは、弟子たちの理解を超えることでした。しかし、イエスが「人の子」という称号を用いられた以上、そこにイエスがどのような内容をこめて語られたにせよ、ユダヤ人の弟子たちがそれを、終わりの日に雲に乗って現れる超自然的な支配者の来臨を指すと理解したのは当然です。それは、イエスご自身が語られた終末預言として、マルコ福音書一三章とその並行箇所に書き記されることになります。

 イエスを神の大能の力をもって神の支配を実現するメシヤであると信じていた弟子たちが、エルサレムでイエスが処刑されるのを見たときの落胆と混乱は察するにあまりあります。ところが、イエスは三日目に復活されました。神はイエスを死人の中から復活させて、この方こそ神が遣わされた終末的な支配者であることを証明されました。もはや何も疑うことはありません。復活されたイエスは、ご自身が予告しておられたように、神の大能をもって敵対する勢力を打ち破り、神の支配を樹立するために来臨されるはずです。

 復活されたイエスが主《キュリオス》として来臨されるのはどこでしょうか。ユダヤ人である弟子たちにはエルサレム以外は考えられません。エルサレムこそ大能の神の都、そこに神の栄光と支配が現れる場所です。そして、イエスこそ神の支配をもたらされる「人の子」であることを、イスラエルの民に告知しなければなりません。そのような告知は、もはやガリラヤのような片田舎ではなく、神の民イスラエルの聖なる都エルサレムでなければなりません。しかも、全イスラエルが集まる祭りの時でなければなりません。弟子たちは、この復活者イエスによる神の支配の実現を告知するために、次の祭りである五旬節に間に合うようにエルサレムに上ります。もはや巡礼のユダヤ教徒としてではなく、終末的な神の支配の告知者としてエルサレムに上ります。

 このように弟子たちが危険を冒してエルサレムに上ったのは、そこで復活者イエスが栄光の主として来臨されるのを待つためであったという推察は、その弟子たちが形成した最初期のエルサレム共同体の姿からも確認されます。すなわち、ペトロをはじめとする使徒たちと、イエスの兄弟ヤコブが指導した最初期のエルサレム共同体は、その発足当初から一貫して「キリストの来臨《パルーシア》」を熱烈に待望する集団でした。彼らが「人の子」の来臨を命がけで待ち望み、その信仰を言い表していたことは、かなり初期のステファノの殉教や、最後の時期の「主の兄弟ヤコブ」の殉教のとき、二人とも「人の子」という表現で栄光の主イエスを言い表して死についたことからも十分うかがわれます。

 

エルサレムへ駆り立てる力

 このようにエルサレムに行く動機は十分あっても、死を覚悟してでも危険な都に行くには、よほどの力に突き動かされるのでなければ実行することはできません。わたしは、弟子たちはその力をガリラヤで復活者イエスの顕現に接した体験の中で受けていると信じています。
 ルカは、弟子たちが聖霊を与えられ、イエスを主キリストと告白し証言する力を受けたのは、ペンテコステの日の「聖霊降臨」の時であったとしています(使徒一・八と二・一以下)。しかしそれは、ルカが弟子たちの聖霊体験を彼独自の図式にまとめて描いた結果であって、実際はもっと複雑で多様な体験であったと見られます。

 パウロのダマスコ体験に見られるように、復活者イエスに出会う体験は聖霊を受ける体験と一体です。両者は切り離すことはできません。ヨハネ福音書(二〇・二二)も、復活者イエスの顕現に接することは聖霊を賦与されることであると示唆しています。イエスに復活者としての栄光を帰して示すのは聖霊の働きです(ヨハネ一六・一四)。ペトロたちがガリラヤで復活されたイエスに出会ったとき、神の霊の注ぎを受けた見るべきでしょう。
 神の霊はイエスを復活者としての栄光の中に現すだけでなく、その顕現に接した者を奥底から造り変える働きをされます。パウロはこの御霊の働きによって、イエスの敵対者からイエスの奴隷として生涯イエスに仕える者に変えられました。ペトロたちはそれ以前からイエスを師と仰ぐ者でしたから、パウロのように劇的に変えられることはありませんでしたが、それでも探索や逮捕を恐れてエルサレムからガリラヤに逃げ帰っていた者が、死をも恐れず危地に向かう勇気ある者に変えられたのです。

 

エルサレムへの移住

 復活者イエスの顕現に接したペトロたちが、五旬節の前までにエルサレムに上ったのは、祭りに上る巡礼者としてではなく(巡礼者はまた戻ってきます)、生業を捨てて、あるいは家や舟を売り払って、エルサレムに移住したと見るべきです。いわば背後の橋を切り落として、エルサレムに向かったのです。そのことは、ガリラヤ湖畔での弟子たちの召命記事にくりかえし出てくる「網を捨てて」とか、「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して」とか、「すべてを捨てて」というような表現で示唆されています。今度のエルサレム行きがそこで栄光の主の来臨を待つためであるならば、弟子たちのそのような思い切った行動も理解できます。

 この弟子団のエルサレム移住を主導したのはペトロであったと見られます。ペトロは、いつも弟子団を代表するように真っ先に行動しています。「あなたたちはわたしを誰と言うか」というイエスの問いかけにも、ペトロが真っ先に「あなたこそメシヤです」と答えています。このペトロがイエスを三度も否認して師を裏切ったことを悔いていたとき、復活されたイエスはそのペトロを受け入れて、新しく形成される弟子団の先導者としてお立てになりました。そのことはルカ福音書(二二・三一〜三四)で、最後の食事の席でイエスがペトロの信仰が無くならないように祈った上で、「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われたお言葉に示唆されています。エルサレムへの移住を先導したペトロは、その後のエルサレム共同体を代表する立場で行動することになります。

 このエルサレム行きは、生前のイエスに付き従って教えを受けた弟子たちだけでなく、イエスの家族も一緒にエルサレムに移住したと見られます。ルカは、ガリラヤからエルサレムに移住した弟子団の十一名(裏切ったユダを除く十一名)の名を上げた後、「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと、心を合わせて熱心に祈っていた」と伝えています(使徒一・一四)。

 イエスを熱心に慕うガリラヤの女性たち(その代表格はマグダラのマリアです)が、イエスの最後の過越祭巡礼に従って行き、エルサレムでイエスの受難にさいして重要な役割を果たしたことは先に見ました。その女性たちが今回も弟子たちと一緒にエルサレムに移動または移住したのは当然です。ここで重要な事実は、イエスの母マリアとイエスの兄弟たちがエルサレムに移住していることです。イエスには四人の兄弟と数人の姉妹がありました(マルコ六・三)。姉妹たちはすでに結婚していて、おそらくこのエルサレム移住には参加しなかったことでしょう。兄弟四名全員が母マリアと一緒に移住したかどうかは確認できませんが、少なくとも弟のヤコブは一緒に移住しています。おそらく後にユダ書を書くことになるユダ(ユダ一・一)も一緒に移住したと推察されます。

 母マリアもヤコブら兄弟たちも、イエスがガリラヤで「神の国」を宣べ伝える活動をしておられたとき、イエスの働きに同行するなど、協力的でした(ヨハネ二・一二)。母マリアは、イエスの最後の過越祭のときのエルサレム行きに同行しています。兄弟たちもこの巡礼としてのエルサレム詣でには同行していると見られます。母マリアや弟ヤコブに復活されたイエスがご自身を現されたことは確認できませんが、マグダラのマリアに現れたように母マリアにも現れたと想像することは許されるでしょう。弟のヤコブに現れたという伝承があったことは確実です(このことは後で扱います)。母マリアと弟ヤコブをはじめイエスの家族(父ヨセフはすでに亡くなっています)も、弟子団と一緒にエルサレムに移住し、弟子たちと一緒にエルサレムで来臨待望の生活に入ったと推察されます。

 イエスの家族と弟子団が、ガリラヤからエルサレムに移住することはけっして容易なことではなかったでしょうが、エルサレムには新しい住まいを見つけたりして彼らの移住のために奔走するイエスの支持者もいたはずです。そのことは、最後の過越祭のときイエスと弟子の一行が過越の食事をする部屋を用意した人物がいたことからも、十分推察することができます。イエスはその人物のことを「都のあの人」と呼んでおられます(マタイ二六・一八)。その人物は弟子たちにも周知の人物でした。その人物を特定することは困難ですが、ヨハネ福音書によるとイエスは祭りの度ごとにエルサレムに上って、エルサレムで多くの力ある業を行い、教えておられるのですから(イエスのエルサレムでの働きを最後の過越祭の時だけとするマルコよりもこちらの方が事実でしょう)、エルサレムにもかなりの数の追随者がいたはずです。議員のニコデモやアリマタヤのヨセフをはじめ上流階級にも(隠れた形ながら)イエスを信じる人たちがいました。そのような人たちの中で、イエスの家族や弟子団に住まいを提供した人物がいたとしても不思議ではありません。

 ルカは、弟子たちは「オリーブ畑」と呼ばれる山から天に昇られる復活者イエスを見送った後、エルサレムに戻り、「泊まっていた家の上の部屋に上がった」と伝えています。そこで弟子たちはイエスの家族や女性たちと祈りに没頭することになります(使徒一・一二〜一四)。この「上の部屋」は、最後の食事が行われた「二階の広間」(マルコ一四・一五)と(原語での)用語は違いますが、同じ部屋ではないかと多くの研究者は推定しています。ガリラヤから身一つでエルサレムにやって来た弟子たちやイエスの家族が、とりあえず身を寄せることができるのは、先に過越祭の食事のためにイエスとその一行に「二階の広間」を提供した有力な支持者の家以外は考えられません。
 古代教会の伝承から、この家があったところに「最後の晩餐教会」が建てられたとされています。この教会は現在、エルサレム南西部の「シオン地区」にあるので、最後の晩餐が行われ、最初期のエルサレム共同体が集まったこの家は、シオン地区にあったと推定されます。このシオン地区には、城壁南西角の「エッセネ門」の存在が示唆するように、エッセネ派の活動拠点があったと考えられ、最初期のエルサレム共同体はエッセネ派から強い影響を受けているという推察が根拠づけられます。


 

  X 復活顕現の伝承

パウロ書簡における顕現伝承

 このように、イエスが十字架された過越祭から次の巡礼祭である五旬節までの七週間は、イエスの刑死で挫折・消滅したかに見えた福音運動が、復活者イエスを終末時の主キリストとして宣べ伝える新しい形で力強く息を吹き返し、将来の福音の史的展開の出発点となった重要な時期です。その原動力は、この期間中に弟子たちが復活者イエスの顕現を体験したことです。この体験がどのようなものであったかは、この体験を語り伝える伝承をたどる以外に知ることはできないのですが、その伝承が実に様々で、その全容を見渡す統一的な物語を書くことは困難です。本稿で見たように、四福音書が伝える復活顕現の物語は大きく違っていて、一つにまとめることはできません。それで最後に、福音書に書きとどめられるまでの伝承のいくつかを取り上げて、この期間に起こった復活顕現の出来事に少しでも迫ってみたいと願います。

 弟子たちが復活者イエスの顕現を体験してからそれが福音書に書きとどめられるようになるまでの間に、彼らの体験がどのように語り伝えられたのか、その過程はもはや正確に叙述することはできません。しかし、この期間の中程に、いやむしろ初期に(この表現については後述)、復活顕現の伝承を垣間見させる重要な文書記録があります。それは、パウロ書簡です。
 パウロは、コリント第一書簡の一五章で、自分が知っている顕現伝承をまとめて、次のように書いています。

 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。
 次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。
 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。
(コリントT 一五・三〜八 新共同訳)

 最初の福音書であるマルコ福音書の成立が70年前後とすると、50年代初頭のコリント第一書簡は、この期間の中程になりますが、80年代とか90年代の成立と推定される他の福音書から見ると、この期間のごく初期になります。この記録は、新約聖書の中でもっとも早い時期の文献記録であり、復活顕現の伝承をたどる上で最も重要な資料となります。ここに記録されている顕現伝承について、留意すべき重要な点を見ておきましょう。


 
ペトロと十二人への顕現

 ここでパウロは、「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」と言って、ここに引用している宣教内容がパウロ自身が受けてコリントの人々に告知した福音であることを宣言しています。ですから、この宣教内容はパウロ以前に確立していた告知内容《ケリュグマ》であり、そのもっとも古い定式であると言えます。その定式は、「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死に、葬られ、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活し、ケファに現れ、その後十二人に現れた」という部分であり、おそらく復活顕現の後数年以内に、エルサレム共同体で形成された定式であると見られます。

 この《ケリュグマ》の内容については、ここで立ち入ることはできませんが、キリストが復活したという告知が、その顕現に接した弟子たちの体験と一体として語られていることが、ここでは重要です。キリストの復活は、どこそこで地震が起こったというような、客観的・歴史的事実として報告できる事柄ではなく、特定の人たちの体験として起こったことであり、それを体験した人たちの証言によって告知され、その証言によって復活者イエスを信じる者に与えられる霊的体験です(使徒一〇・四〇〜四一参照)。

 この特定の人たち、すなわち神によってあらかじめ証人として選ばれ、この復活者イエスの顕現を体験した者は、この《ケリュグマ》では「ケファと十二人」と特定されています。「ケファ」という名は、シメオン(ギリシア語ではシモン)というガリラヤの漁師にイエスが与えられた呼び名であり、「岩」を意味するアラム語です(ヨハネ一・四二)。彼はユダヤ人の信徒仲間ではよくこの名で呼ばれています。この「岩」を意味するギリシア語が「ペトロ」であり、後にこのペトロが彼の呼び名として広く用いられるようになります。「ケファ」というアラム語の名が用いられていることは、(他のユダヤ教特有の表現と共に)この《ケリュグマ》がアラム語圏の最初期エルサレム共同体で成立したことを示しています。

 ここで(定冠詞をつけて)あの「十二人」と言われているのは、「十二人」と言えば誰のことか周知の人たちであることが前提されています。パウロがこの書簡を書いた時には、十二人の弟子団が生前のイエスの教えを継承する者として、またイエスが復活されたことを証言する者として、その権威が確立していたことを示しています。この「十二人」の名はここではあげられず、一団として扱われています(この「十二人」の意義については、ルカ二部作の講解の適当なところで扱うことになります)。

 「ケファ」(=ペトロ)の名だけが最初にあげられ、「その後に」十二人に現れたと言われているのは、ペトロがこの「十二人」弟子団の筆頭者であり、「十二人」を代表する立場であることを表現しています。先に見たように、ペトロは弟子団を代表していつも真っ先に発言し、イエスを否認することでも代表格でしたが、その裏切りを赦されたペトロは、復活者イエスの顕現に最初に接し、弟子団が再びエルサレムに移住することを主導したと見られます。このような弟子団におけるペトロの位置は、エルサレムで十一人とその仲間が、「本当に主は復活してシモンに現れた」と言っていたというルカの記事(二四・三三〜三四)にもうかがわれます。

 弟子たちは、イエスの十字架の後ガリラヤに戻ります。そして、ガリラヤで復活されたイエスに出会います。そのことは、生前のイエスと空の墓に現れた天使が予告したこととされ、ガリラヤでの復活者イエスの顕現に接した体験が、イエスのガリラヤ伝道の時期の出来事に組み込まれて語られます(マルコ福音書)。マタイはこのマルコの語り方を踏襲しつつも、ガリラヤに戻った弟子たちがイエスの指定された山で復活されたイエスにお会いし、世界宣教の命令を受けた出来事があったとしています(マタイ二八・一六〜二〇)。マルコ福音書(九・二〜一三)にはイエスが高い山で姿が変わられたという記事がありますが、この記事とマタイの山上での復活者イエスの顕現記事との関係が問題になります。二つの記事は別の出来事を描いているのでしょうか、それとも同じ出来事を違った状況に置いて描いているのでしょうか。ルカ福音書五章とヨハネ福音書二一章にある二つのガリラヤ湖での大漁の記事の関係と同じ問題が起こります。

 山上の変容の記事には(マルコにもマタイにも)、山を下りるときイエスが弟子たちに、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことを誰にも話してはいけない」と命じられたとあります。ということは、この物語はイエスの復活後には、イエスの神の子としての栄光(地位)を告知するために、使徒たちによって繰り返し用いられていたと考えられます。事実、かなり時代は遅くなりますが、ペトロの名によって書かれた手紙に、ペトロの宣教の言葉として次のように引用されています。

 「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、『これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者』というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです」。(ペトロU一・一六〜一八)

 わたしは、マルコ福音書に伝えられている「山上の変容」は、実際にイエスの生涯にあった事実であると理解しています。マルコの記事は、きわめて具体的です。イエスが、意を決してエルサレムに上ろうとされたとき、フィリポ・カイサリア地方の高い山に登り、そこで祈りに入られたとき、そのお姿が変わり、天的な栄光に包まれたことを、弟子たちは目撃したと考えられます。その出来事が、イエスの復活後、イエスの神の子としての栄光(地位)を告知するために用いられ、マタイの復活者イエスの山上での顕現記事になったと推察されます。

 

五百人以上の兄弟への顕現

 パウロが最初期のエルサレム共同体から受けた《ケリュグマ》は五節までで、「次に」という語で始まる六節以下は、それに加えてパウロが知っている顕現伝承を列挙したものと考えられます。その最初に「五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました」という報告が来ます。この報告がどのような出来事を指しているのか、古来議論が絶えません。

 これはペンテコステの日に聖霊が多くの人に降ったときのことを指していると考える人もいます。その可能性を否定することはできませんが、弟子たちが祈っていた一部屋のことや、当時のエルサレムの街の狭さから想像すると、この可能性は小さいと考えられます。わたしはむしろ、この出来事はガリラヤで起こったのではないかと推察しています。

 イエスは生前ガリラヤの各地を巡って、多くの病人をいやし、「神の国」の福音を告げ知らされました。ガリラヤにはイエスを慕う多くの人たちがいたはずです。イエスの十字架の後、ガリラヤに戻っていたペトロら弟子たちは、ガリラヤで復活されたイエスの顕現に接し、まず周囲の人々にこの驚くべき出来事(イエスの復活)を語ったことでしょう。ある時ペトロたちの話を聞くために多くの人たちが(おそらく人里離れた寂しい場所に)集まり、イエスのエルサレムでの最後とその後の復活顕現の出来事を語るペトロたちに耳を傾けていた時、聖霊が降り、多くの人たちが同時に復活されたイエスの顕現を体験するというような出来事があったのではないかと推察されます。

 これはあくまでわたしの推察に過ぎません。しかし、エルサレムであれガリラヤであれ、このような多数の人たちに同時に復活されたイエスが御自身を現される出来事があったことは事実であり、その事実性をパウロは、「そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています」という言葉で確証しています。この出来事は30年のことであり、パウロの手紙は50年代初頭ですから、まだ二十数年しか経っていません。生存している人もかなりいたはずです。コリントの人たちから見ると、出来事があったパレスチナは遠い土地ですが、当時の地中海世界の密接な交通からすると、その体験をした生き証人に直接確かめることもできる状況です。事実、「十二人」以外でこのような復活顕現を体験したユダヤ人たちが、パウロの時代までに各地のディアスポラ・ユダヤ人に復活者イエスを宣べ伝えています(たとえばローマ書一六章に出てくるアンドロニコスとユニア)。パウロはこのような形で、多くの証人を立てて、復活顕現が事実であることを保証します。


ヤコブとすべての使徒たちへの顕現

 続いてパウロは、「次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ」と書いています。このヤコブは、十二人の一人「ゼベダイの子ヤコブ」ではなく、「主の兄弟」と呼ばれるヤコブです。復活されたイエスがどのように兄弟のヤコブに現れたのか、その具体的な出来事を確認することは困難ですが、そのような出来事があり、それを語り伝える伝承がごく初期からあって、それをパウロがここに引用しています。

 パウロは五節で《ケリュグマ》の引用を終えた後、「次いで」という語を繰り返し、その後「最後に」という表現で自分への復活されたイエスの顕現を語っています。しかしこれは、時間的な前後関係を明らかにするためではなく、本来別々の顕現伝承を列挙して、(時期的にはかなり遅い)自分への顕現をペトロやヤコブへの顕現と同じ系列に置くためであると見られます。

 「ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れた」という伝承も、もともと「すべての使徒たち」に対するヤコブの首位性を語る顕現伝承を、ペトロへの顕現と並べてここに置いたものと見られます。最初期の共同体では、復活されたイエスが最初に現れたという事実が、その人物の権威を保証する重要な要件であったようです。ヤコブはかなり初期から「主の兄弟」としてエルサレム共同体で重んじられていましたが、40年代初頭のヘロデ王による弾圧でペトロがエルサレムから去ってからは、ヤコブがエルサレム共同体を代表し統率する立場に立っていました(使徒一二章)。そのヤコブの首位性を保証する伝承が、このような形で形成されていたと見られます。この伝承はさらに発展して、後には復活されたイエスは誰よりも先に兄弟のヤコブに現れたという伝承になっていきます(ヘブル人福音書一七)。

 ペトロの場合は最初に顕現を受けたものとして「十二人」の筆頭者とされていますが、ヤコブは「すべての使徒たち」の代表者とされています。それで、「十二人」と「すべての使徒たち」がどういう関係と見られているのかが問題になります。「すべての使徒たち」は、イエスの生前に召されて弟子となった「十二人」よりも範囲が広く、最初期の福音運動で(何らかの形で)復活されたイエスの顕現に接して、そのイエスを宣べ伝えるために各地に派遣された伝道者すべてを指していると見てよいでしょう。ヤコブはこのような「使徒たち」を代表する首座にあるとされているわけで、この伝承は最初期の福音運動における「主の兄弟ヤコブ」の権威を垣間見させています。

 

パウロへの顕現

 パウロは「そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」と書いて、復活されたイエスが自分に顕現されたあのダマスコ途上の出来事を、ペトロから始まる顕現伝承の系列の最後に置いています。パウロの顕現体験は、「過越祭と五旬節の間」にあったペトロたちの体験からかなり日が経っています。三年ほど経っていると見なければなりません。しかし、パウロは自分の顕現体験をペトロたちのそれと同列に置いて、自分もまたペトロたちと同じく、復活されたイエスを見て、その復活者イエスを主キリストと宣べ伝えるために召された使徒であることを主張します(コリントT九・一)。しかもそれを「すべての(顕現の)最後」のものとしています。証人に復活されたイエスを現す出来事は、これが最後だという宣言です(この点は、四〇日目の昇天で区切るルカと違います)。

 パウロは自分に対して、イエスに直接師事した弟子ではなく、正式にエルサレムの使徒団から任命された使徒でもないという批判があることを承知しています。それで、ペトロ以下の顕現伝承に自分への顕現を加えたとき、自分を「月足らずで生まれた者」と呼び、その月足らずで生まれた自分が使徒であることを弁証して、次のように言います。

 わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。(コリントT一五・九〜一〇)

 たしかにパウロは、「神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者」であることを認めています。他の使徒たちが、生前のイエスに師事して、よく準備された期間を経ているのに対して、自分は神の民を迫害している時に突然復活者イエスに遭遇し使徒とされたことを、他の使徒が正常な出産による使徒であるのに較べて、自分は正常時でない出産による使徒、すなわち異常出産による使徒だと、出産の比喩を用いているのです。

 しかし、その異常さは神の恩恵の大きさを示すためです。神の民を迫害したまさにその自分が、現に復活されたイエスを見た者として、使徒として立てられているのは神の恩恵の出来事です。そのことをパウロは、「神の恵みによって、今日の(使徒としての)わたしがあるのです」と言います。恩恵は、人間の側の価値とか資格を問わず、この場合は敵であるパウロをも、自分の懐に受け入れて、使徒とする神の無条件の愛の働きです。

 パウロに与えられた恩恵は、無駄にならず、パウロを通して巨大な働きを成し遂げました。福音を世界にもたらす使徒としてのパウロの働きは、たしかに他のすべての使徒を凌駕していました。パレスチナから発した福音は、パウロによって西方エーゲ海地域全域に広がり、帝都ローマも視野に収めるまでになっていました。パウロはこの事実をあげて、それがパウロによるものではなく、パウロを通して働く神の恩恵であるとすることで(神の恩恵は人を変革し突き動かす強烈な力です)、自分に起こった復活者イエスの顕現の事実性と、パウロに与えられた恩恵の大きさを確証します。

 

マルコ福音書への付加部分に見られる顕現伝承

 最初期の復活顕現の伝承は、パウロ書簡に記録されたこの一覧表だけでなく、様々な形で流布していたようです。それを広く収集することは今では不可能ですが、その一端がマルコ福音書の付加部分に見られます。マルコ福音書は一六章八節で終わっており、九節以下は後で付け加えられた部分であることが広く認められています。八節で唐突に終わっていることを不自然と感じた後代の編集者が、信仰者の共同体に語り伝えられている復活顕現の伝承を用いて、空の墓以後の物語を構成して、福音書の結びとしたと見られます。それで、どのテキストや翻訳でもこの部分は括弧に入れています。

 最初に、マグダラのマリアに復活者イエスが現れたという伝承が用いられています(九節)。「週の初めの日の朝早く、復活されたイエスはまずマグダラのマリアに現れた」という伝承は、最初期の共同体に広く知られていたようです。しかしこの復活されたイエスは最初にマグダラのマリアに現れたという重要な伝承は、ヨハネ福音書(二〇・一一〜一八)では大きく用いられていますが、他の福音書では「婦人たち」の中に埋没しているか(マタイ二八・九)、全然出てこないことになります(マルコ福音書本体、ルカ福音書)。パウロが引用する復活顕現の伝承にも出てきません。これについては後述します。

 次に、「彼ら(弟子たち)のうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された」という伝承が引用されています(一二節)。この伝承はルカ福音書(二四・一三〜三五)では、エマオへ向かう二人の弟子が途中で復活されたイエスにお会いして、聖書の解き明かしを受け、また食事を共にしたという詳しい物語となって伝えられています。

 その他、弟子たちが食事をしている時に復活されたイエスが現れたという伝承があったことを示唆しています(一四節)。この食事の席での顕現もルカ(二四・三六〜四六)は詳しく描いています。他にも「新しい言葉」(=異言)とか「蛇をつかんでも害をを受けない」など、ルカに特有の記事との類似性が目立ち、この付加部分を書いた編集者はルカ二部作に親しんでいて、それを要約して用いた可能性があります。しかし、マグダラのマリアの場合に見られるように、ルカとは別に広く流布している伝承を用いているのも事実です。

 

女性への顕現伝承の除外

 以上、新約聖書に伝えられている復活顕現の伝承を見てきましたが、そこには一つの顕著な傾向があることに気づきます。それは、復活されたイエスは最初にマグダラのマリアに現れたという伝承があるのに、それがヨハネ福音書以外ではほとんど用いられていないことに代表されるように、総じて女性への顕現伝承が排除されていることです。女性たちのイエスへの深い思いと、女性たちがだけがイエスの死と埋葬に立ち会ったことを考えると、マグダラのマリアだけでなく、イエスを信じ慕う女性たちにも、復活されたイエスが現れておられると推察されます。イエスの母マリアにも復活されたイエスが現れておられるからこそ、母マリアも弟子たちと一緒にエルサレム共同体に加わっていたと考えられます。しかし女性への顕現記事は、ヨハネ福音書の例外的な記述以外はほとんどありません。

 この排除には何か理由がなければなりません。その理由の一つに、ユダヤ教においては女性は法廷で正式の証人としての資格を認められていなかったという慣習があります。神はイエスを復活させて主キリストとしてお立てになったという告知は、イエスの復活顕現を体験した者の証言として語られました。最初は周囲のユダヤ人に告知されたので、女性は証人としての資格がなく、その証言をしたのはすべて男性の弟子たちでした。その結果、復活顕現の伝承は男性だけになっていったと考えられます。しかし、マグダラのマリアのような顕著な場合は、共同体内部の言い伝えとして語り伝えられたのでしょう。

 もう一つの理由として、グノーシス主義に対抗するために、正統派の共同体が女性への顕現伝承を排除したという事情が考えられます。グノーシス派は、すべてユダヤ人である使徒たちの教えは初歩に過ぎず、霊的知識《グノーシス》を与えられた自分たちこそ真の救いに至る道を教える教師であると主張していました。その霊的知識《グノーシス》は特別に選ばれた者に啓示されたとしましたが、その中にマグダラのマリアが含まれます。イエスは地上におられた時もマグダラのマリアを愛し、復活されたときには最初に彼女に現れ、彼女だけに特別の《グノーシス》を与えられたとする文書がグノーシス派には出てきます(フィリポによる福音書、マリアによる福音書など)。総じてグノーシス派では、マグダラのマリアはさらに勝る啓示の受領者として、その権威はペトロよりも上です。グノーシス派は女性にも教師の資格を認め、女性の聖職者を立てていました。

 それに対して、使徒たちの信仰を継承すると自任する「正統派」は、男性本位のユダヤ教の伝統と家父長制ローマ社会の枠の中で、女性聖職者を認めず、その根拠とされるマグダラのマリアの権威を極力排除しようとします。その傾向はすでに新約聖書内の牧会書簡にも見られますが、二世紀以後のグノーシス派との論争において、正統派の共同体はマグダラのマリアへの顕現とか啓示を主張する文書を異端として排除します。その結果、新約聖書正典に残された復活顕現の伝承は男性の弟子へのものだけになります。マグダラのマリアへの顕現を最初の顕現として例外的に重視するヨハネ福音書は、グノーシス派では親しまれますが、正統派では受け入れるのに躊躇があったようです。


  結び―顕現体験と召命体験


  復活顕現の伝承を追ってきて強く印象づけられることは、顕現体験は同時に召命体験であるという事実です。このことは、比較的その内容が詳しく伝えられているパウロの顕現体験が典型的です。パウロ自身が自分のダマスコ体験を語るときも、復活されたイエスに遭遇した体験と、その復活者イエスから異邦人に福音を宣べ伝える使命を与えられたことは、一息に語っています(ガラテヤ一・一五〜一六)。パウロのダマスコ体験を物語るルカの記事も繰り返し、パウロがこの時復活の主イエス・キリストを証人として宣べ伝える者として召されたことを語っています(使徒九・一五、二二・一四〜一五、二六・一五〜一八)。これはパウロ自身から出たことをルカが物語として書いたと見なければなりません。

 これ(顕現体験は同時に召命体験であるということ)は事の性質上当然です。復活されたイエスに出会って、何もしないでいることができるでしょうか。じっと座っていることができるでしょうか。この圧倒的な現実を体験した以上、出て行ってこの決定的な神の救済の出来事を証言せざるをえません。現代でも聖霊を受ける体験は、何らかの形で復活者イエスに出会う体験です。ペトロやパウロのような最初の証人としての救済史上の意義を担うものではありませんが、それでもやはりこの時代に復活者キリストを証言するために召されているのだという自覚をもたらします。わたし自身の小さい体験と生涯もそれを証言しています。

 わたしがガリラヤ湖畔の出来事(マルコ一・一六〜二〇、ルカ五・一〜一一)をペトロたちが復活されたイエスに出会った体験を伝える記事と見るのも、この顕現体験は同時に召命体験であるという理解からです。これは、ユダヤ教徒がラビに弟子入りする程度の出来事ではなく、復活顕現を体験した者がすべてを捨てて証人としての生涯に乗り出す様子を描く場面だと理解せざるをえません。

 こうして復活されたイエスの顕現を体験し、その証人として召された弟子たちは、いよいよ次の巡礼祭である五旬節に聖都エルサレムで、その証言の声を上げます。ここから「福音の史的展開」の本論が始まります。


     目次に戻る        次章に進む  

 「福音の史的展開」目次に戻る   総目次に戻る