福音の史的展開 8

 
    第三章 エルサレムとアンティオキア(その3  

  

                     ( 本稿で書名のない引用箇所は使徒言行録の章節です。)



    第3節  エルサレム会議とその前後

                                                                           
はじめに

  この「福音の史的展開」シリーズでは、第一章で「エルサレム共同体の成立」の経緯をたどった上で、成立したばかりのエルサレム共同体の福音告知の内容を見ました。続いて第二章「ユダヤ教の外に向かう福音」では、ギリシア語系ユダヤ人の活動と、後に異邦人伝道の担い手となるアンティオキア共同体の成立とパウロの回心を扱いました。そして、この第三章「エルサレムとアンティオキア」では、最初期の前期(七〇年のエルサレム神殿の崩壊まで)の福音活動の二つの拠点となるエルサレム共同体とアンティオキア共同体の状況と両者の関わりを扱うことになります。前々号でエルサレム共同体の状況とエルサレムを中心とするアラム語系ユダヤ人のユダヤ人に対する福音活動を概観し、前号ではアンティオキアを拠点とするギリシア語系ユダヤ人の福音活動、とくにパウロによって担われた異邦人への福音告知の最初の活動を見ました。本号でこの二つの共同体の関わりを、その頂点をなすエルサレム会議を中心に検討した上で、この最初期における福音活動の諸潮流をまとめます。本号は、第三章「エルサレムとアンティオキア」の第三節になります。


  T ルカが伝えるエルサレム会議

異邦人信者に対する割礼の要求

 本章第二節「アンティオキア共同体とその福音活動」(前号)で見たように、アンティオキアに成立したキリスト信仰共同体は周囲の異邦人(ユダヤ教徒でない人たち)に向かって活発に福音告知の活動を進めていきます。その代表的な事例として、ルカはパウロとバルナバによるキプロスとガラテヤ州南部の諸都市への福音活動を詳しく記述しました。そのさいアンティオキアでも他の地域でも、福音を信じた異邦人に割礼を受けることは求められませんでした。信じた異邦人はバプテスマを受けてイエスを主《キュリオス》と言い表しましたが、割礼を受けてユダヤ教徒になることは求められませんでした。パウロとバルナバが告知した福音は、異邦人は割礼を受けなくても、言い換えれば異邦人はユダヤ教徒にならなくても異邦人のままで、イエスを主と言い表すことによって救われ、神の民となるという福音でした。これを短く言えば「無割礼の福音」(割礼を必要としない福音)と言えるでしょう。
 ところが、アンティオキア共同体が進めるこの「無割礼の福音」について問題が起こります。

 ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。(一五・一)
 このユダヤからアンティオキアに下って来た「ある人々」というのは、実質的にはエルサレム共同体の一部の人たちでしょう。エルサレム共同体は、先にペトロのコルネリウス一族の人たちへの働きのところで見たように、異邦人を割礼のないままで受け入れていました(前号44頁「無割礼の福音の確立」を参照)。しかし、ペトロが異邦人コルネリウスの家で食事をしたことを激しく批判した人たちもいた事実は、エルサレム共同体にはなおモーセ律法の厳格な順守を主張する体質があったことを物語っています。それは、エルサレム共同体がおもにパレスチナ生まれのアラム語系ユダヤ人の共同体であった以上、自然なことです。 

 この傾向と体質は、43年のヘロデ・アグリッパによる迫害によりペトロをはじめ使徒たちがエルサレムを去り、主の兄弟ヤコブが共同体を統率するようになってからは、ますます強くなっていったものと考えられます。ヤコブは、周囲のファリサイ派ユダヤ教徒からも「義人」と呼ばれて、その律法順守の厳格さで一目置かれていた人物です。無割礼の異邦人を受け入れることに理解のあったペトロに代わって、「義人」ヤコブがエルサレム共同体を代表するようになって、ユダヤ教律法を絶対とする傾向の人たちの勢力が強くなっていったことは、容易に想像することができます。また、ますます多くのエッセネ派の人たちが共同体に加わるようになって、この傾向は加速されたことでしょう。エッセネ派はファリサイ派以上に律法順守に厳格なユダヤ教徒でした。

 このような傾向のユダヤ教徒にとって、アンティオキアの仲間たちが異邦人を無割礼のまま受け入れていることを座視することはできませんでした。エルサレム共同体の人たちがこの時期(43年のヘロデ・アグリッパの迫害以降四〇年代後半にかけて)、アンティオキア共同体に対して異邦人信者に割礼を施すように求めるようになったのは、たんにモーセ律法の順守という原理的な理由からだけでなく、当時エルサレム共同体が置かれていた実際的な状況があったと考えられます。

 一世紀前半のユダヤは、律法順守の熱心を標榜する「熱心党」《ゼーロータイ》の影響もあって、だんだんと律法に対する原理主義的な熱心が燃え上がるようになる時代でした。その中で、時代の黙示思想的な終末待望を共にしながらも、すでにステファノ事件に見られるように、モーセ律法に対する姿勢に問題があると見られていたエルサレム共同体は、周囲のユダヤ教徒たちから疑いの目で見られることが多かったと考えられます。十二人の一人のヤコブが訴えられてヘロデ・アグリッパによって処刑されたのも、律法を汚しているというような律法の問題が訴因であったと推察されます。この処刑がエルサレムのユダヤ人たちに喜ばれるのを見て、ヘロデはさらにペトロを捕らえ、エルサレム共同体に対する弾圧を強めます。この事実は、この時期のエルサレム共同体が律法問題に関して困難な状況にあったことを物語っています。念のために申し添えておきますが、ここで「律法問題」というのは道徳的問題ではなく、ユダヤ教の宗教的諸規定(たとえば安息日規定とか食事規定など)に関する問題です。

 このような状況にあったエルサレム共同体の中で、律法に熱心な人たちから見ればアンティオキア共同体が無割礼の異邦人を受け入れ、交わりを持っていることは放置できない問題でした。ユダヤ教徒から見れば、異邦人(異教徒)は律法を守っていないのですから汚れた民です。その汚れた民と接触することは自身が汚れを受けることであり、到底許されることではありません。市場で異邦人と接触した可能性がある場合など、ユダヤ教徒は手洗いや沐浴などの儀礼をもって汚れを清めるのに励みました。そのようなユダヤ教徒からすれば、アンティオキアのイエスを信じるユダヤ人共同体が異邦人を受け入れ、日常的に接触していることは認めることはできません。そのような者たちと仲間であることが、エルサレムのユダヤ教徒に知られると、ただでさえ律法を汚しているという疑いの目でみられているのに、ますます疑念と批判を強めることになります。

 このエルサレム共同体の「ある人たち」も、異邦人にイエス・キリストを告知することに反対したのではありません。ただ、イエスを信じた異邦人が割礼を受けることなく異邦人のままでいると、律法上は汚れた者である異邦人と交わることになり、そのような交わりから汚れることになります。そして、そのようにして律法を汚しているユダヤ人の仲間として、エルサレム共同体も周囲のユダヤ教徒から律法を汚しているという批判を免れないと心配したのです。イエスを信じた異邦人も割礼を受けてユダヤ教徒になれば、問題はなくなります。それで、エルサレムから「ある人たち」がアンティオキアに下っていって、異邦人信者に割礼を施すことを求めます。そのさい、表向きの理由は、割礼は神はご自身の民に契約のしるしとして割礼を求めておられるのであるから、割礼を受けなければ神の民となることはできない、すなわち「割礼を受けなければ救われない」という原理的な主張になります。

 

会議に至る状況

 それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。(一五・二a)

 パウロとバルナバはすでに何年も、アンティオキア共同体を代表して異邦人に福音を告知する働きを進めていました。キプロスとガラテヤ州南部の諸都市への伝道活動も、その典型的な実例です。その中でパウロとバルナバは、信仰に入った異邦人に割礼を受けることを求めませんでした。二人は「無割礼の福音」を告知したのです。ですから、エルサレムから下ってきた「ある人たち」が異邦人信者に割礼を施し、正規のユダヤ教徒にするように要求したとき、反対せざるをえませんでした。彼らとパウロ・バルナバの間に「激しい意見の対立と論争が生じた」のも当然です。

 この論争は彼らの間では解決できませんでした。エルサレムから来た人たちは、自分たちの主張はエルサレム共同体の意向であるとしたことでしょう。パウロとバルナバは、そのような要求はすべての民に向けられた無条件の恩恵を内容とするキリストの福音を、モーセ律法の順守という条件をつけることで台無しにし、自分たちの福音告知の働きをユダヤ教一派の改宗運動にしてしまうものとして、到底受け入れることはできません。しかし、エルサレム共同体との関係は断ち切ることはできません。エルサレム共同体はイエスの働きの継承者として、世界のキリストの民にとってイエス・キリストの福音の根っこです。根っこから切り離された福音は、時代の宗教思想の流れに押し流される根無しの浮き草になってしまいます。

 この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。(一五・二b)

 パウロとバルナバはアンティオキア共同体を代表する教師であり伝道者です。とくにバルナバは、エルサレム共同体のキリスト信仰とイエス伝承をアンティオキアにもたらし、アンティオキア共同体の設立にたづさわった、両共同体の結び目のような立場の指導者です。パウロは、アンティオキア共同体の「無割礼の福音」を代弁する指導者です。二人はほかの数名を連れてエルサレムへ上ることが決まります。「決まった」というのは、アンティオキア共同体が決めたということです。原文は「人々はパウロとバルナバ・・・・をエルサレムの使徒と長老たちのもとに上らせるために任命した」と訳すこともできます(RSV参照)。この問題はアンティオキア共同体の存立にかかわる大問題です。アンティオキア共同体は、パウロとバルナバとほか数名を代表団としてエルサレムに送ることを決めます。

 さて、一行は教会の人々から送り出されて、フェニキアとサマリア地方を通り、道すがら、兄弟たちに異邦人が改宗した次第を詳しく伝え、皆を大いに喜ばせた。(一五・三)

 パウロとバルナバおよびほか数名の一行は、アンティオキア共同体の祈りによって送り出されます。一行は、エルサレムに向かう途中、フェニキアとサマリア地方を通り、その地方の兄弟たちに自分たちの異邦人伝道の様子と成果を詳しく伝えます。それを聞いたその地方の異邦人の兄弟たちは大いに喜び、励まされます。一行は地中海沿岸地方のフェニキアを通って南下、おそらくカイサリアに立ち寄り、内陸部に入ってサマリア経由でエルサレムに向かったのでしょう。彼らが船便を利用せず、陸路フェニキアを旅したのは、その地方にできていた信者の群れを励ますためであったのでしょう。冬で船便がなかったという可能性もあります。

 ただ、ここで新共同訳が「異邦人が改宗した次第」と訳していることが問題です。原語は「心の向きとか生き方を変えること」を意味する語で、「回心」(コンバージョン)が近いでしょう。まだキリスト教という宗教はないのですから、他の宗教からキリスト教へ「改宗」したのではなく、イエスを主《キュリオス》と言い表すことによって偶像から生けるまことの神の礼拝へと回心したことを指しています。

  エルサレムに到着すると、彼らは教会の人々、使徒たち長老たちに歓迎され、神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告した。(一五・四)
 エルサレム共同体はこのアンティオキアからの使節団を歓迎します。ここでエルサレム共同体を代表する者として「使徒たちと長老たち」という名があげられていますが、前々節の「エルサレム共同体と主の兄弟ヤコブ」で見たように、実際にはこの時期のエルサレム共同体はヤコブを筆頭者とする長老団によって統率されており、会議はこのヤコブによって取り仕切られています。「使徒たち」がどれほどエルサレムに残っていたかは分かりません。少なくともペトロはこの会議に参加していますが、そのペトロも43年のヘロデの弾圧のときエルサレムを去ってどこかへ行っていたのであり(一二・一七)、この会議のために秘かにエルサレムに戻ってきたと考えられます。カイサリアに来ていたペトロがパウロ・バルナバの一行に加わったなどと想像することも許されるでしょう。パウロの証言によると、ヨハネもいたことが分かります(ガラテヤ二・九)。

 実際はどうであれ、ルカはエルサレム共同体が「使徒たちと長老たち」によって統率されているという建前で描きます。しかし、「使徒」が登場するのは使徒言行録ではこの一五章までであり、これ以後は一切「使徒」は言及されることはありません。

 

会議の経過

 ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。(一五・五)
 パウロとバルナバを代表とするアンティオキアからの使節団を迎えたエルサレムでは、アンティオキアで行われている「無割礼の福音」を放置できないとする一派の人たちが、異邦人にも割礼を受けさせて、モーセ律法を順守するように命じるべきだと、パウロやバルナバに迫ります。この人たちは、ユダヤからアンティオキアに下って行って異邦人信者に割礼を施すことを要求した「ある人たち」がエルサレムに戻って来ていてそう主張したのかどうかは確認できませんが、その人たちと同じくモーセ律法を厳格に順守すべきであるとする律法熱心派のユダヤ教徒であったことは確かです。ルカはそのような人たちを「ファリサイ派から信者になった人たち」と呼んでいます。

 もともとファリサイ派は、神殿の外の日常の生活の中でモーセ律法を実行して、イスラエルを契約の民としてふさわしい清い民にしようとする律法に熱心なユダヤ教徒の運動です。その中の過激な人たちが「熱心党」を形成します。エルサレム共同体には、ファリサイ派よりもさらに律法に厳格なエッセネ派の人たちも含め、このような律法熱心なユダヤ教徒が加わるようになっていました。彼らはモーセ律法の厳格な実行こそ、イスラエルが神の顧みと力によって救われて、神の栄光が現れる道であると確信していました。異邦人がイエスをメシアと信じて神の救いにあずかろうとするのは結構なことだが、それもあくまで割礼を受けてユダヤ教徒になり、モーセ律法を順守してイスラエルの民に加えられてこそ資格がある。割礼のない異教徒のままでは神の民となることはけっしてできないと確信している人々でした。

 このように異邦人信者に割礼を受けてモーセ律法を順守することを要求したユダヤ人信者は、異邦人信者をユダヤ教徒にしようとした人々、すなわち「ユダヤ化主義者」と呼ばれるべき人たちですが、一般には「ユダヤ主義者」と呼ばれています。このような「ユダヤ主義者」は、パウロの「無割礼の福音」に対抗し、パウロの行き先々に現れて、パウロの福音告知の活動を妨害するようになります。パウロは彼らの対抗運動に対処するのに大変な苦労をすることになります。その問題をエルサレムの「使徒と長老たち」との会議で決着を図ろうとして、パウロとバルナバはエルサレムに来たのでした。

 そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。(一五・六)

 ヘロデ王の迫害でエルサレムを去っていた使徒たちがどれだけこの会議に参加したかは不明です。ペトロとヨハネがいたことは確認できますが、他の使徒は確認できません。長老というのも実質的にはエルサレム共同体の長老を指します。しかし、ルカはこの集まりを「使徒たちと長老たち」の会議として、当時の福音活動全体を統率する最高の決定機関としています。

 もちろん異邦人信者に割礼を求める「ユダヤ主義者」も、「無割礼の福音」を主張するパウロとバルナバなどアンティオキア共同体の使節団も同席して激しい議論が行われたはずです。両者とも主張を譲らず、その議論はなかなか決着しません。その時、ペトロが立ち上がって決定的な発言をします。

 議論を重ねた後、ペトロが立って彼らに言った。「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」(一五・七〜一一)

 「議論を重ねた後」とあります。異邦人に割礼を施すように要求する人たちが立ち上がって、次々にその論拠を言い立て、それに対してパウロやバルナバが反論するという議論が延々と続いたのでしょう。その後にペトロが立ち上がって意見を述べます。

 ペトロはまず、自分が遣わされてコルネリウスたちに福音を伝え、彼らが信じて聖霊を受けた出来事を取り上げます(一〇章)。そのことは「ずっと以前に」ペトロがエルサレムの共同体に報告したことですから(一一・一〜一八)、聴き手は十分承知していることとして、論拠として取り上げています。コルネリウスの回心は、四三年のヘロデの迫害でペトロがエルサレムを去る以前のことであり、このエルサレム会議を四八年とすると、少なくとも五年以上は前のことになります。ペトロはこの出来事を、異邦人が福音の言葉を聞いて信じるようになるために、神が自分を選ばれた出来事だとします(七節)。
 コルネリウスら異邦人がペトロの語る福音の言葉を信仰によって聞いている間に、彼らに聖霊が下りました。それは神が彼らを清い者として受け入れてくださったことの証明であるとして、ペトロは神がユダヤ教徒と異邦人との間に何の差別もされなかったことを強調します。ユダヤ人もただモーセ律法の下にいるというだけでは神の民ではなく、聖霊を受けることによってはじめて神に属する清い民とされるという点で、ユダヤ人と異邦人の間に差別はありません(八〜九節)。

 そうであるのに、今聖霊を受けて神の民とされた彼ら異邦人に割礼を受けさせ、モーセ律法の順守という軛を彼らの首に懸けるのは神を試みることだとして、ペトロは明確にユダヤ主義者に反対します。ユダヤ人はモーセ律法の順守を「律法の軛を負う」と表現し、律法をもつことを誇りとしていましたが、その求めるところを満たすことはできませんでした。律法は「先祖もわたしたち(ここに集まっている現在のユダヤ人)も負いきれなかった軛」でした(一〇節)。最後にペトロは、わたしたちユダヤ人も律法を持っているから、あるいは律法を行っているから救われているのではなく、主イエスの出来事において現された神の恩恵によって救われていると信じているが、この恩恵によって救われているということは、律法をもたない異邦人も同じである、と締めくくります(一一節)。

 ここのペトロの主張は、そのままパウロの言葉としても通ります。これは、まさにパウロが言いたかったことに他なりません。その主張を、ペトロがコルネリウスの出来事を論拠にして語っているのです。パウロは論争の一方の当事者ですから、ルカはそれをパウロの主張として紹介するのではなく、イエスの筆頭弟子として最初期共同体で広く権威を認められていたペトロに語らせることによって、この論争の決着をつけます。

 すると全会衆は静かになり、バルナバとパウロが、自分たちを通して神が異邦人の間で行われた、あらゆるしるしと不思議な業について話すのを聞いていた。(一五・一二)

 ペトロの発言は決定的でした。それでもなお異邦人信者に割礼を施すように求める声は上がりませんでした。そこでバルナバとパウロが立ち上がって、これまでに異邦人の間で行ってきた福音告知の働きと、そのさい神がパウロとバルナバの手によって異邦人の間で行われた、あらゆるしるしと不思議な業について詳しく物語ります。その中には当然、先に二人がキプロスとガラテヤ州南部の諸都市で行った福音告知の活動(前号参照)が含まれていたはずです。パウロとバルナバは、それを語ることで無割礼の福音を納得してもらおうとしたのではなく、すでにペトロの発言によって反対が沈黙しているところで、神のなされた「あらゆるしるしと不思議な業」によって、その主張に神の承認があることを加えたことになります。

 

ヤコブの裁定

 二人が話を終えると、ヤコブが答えた。「兄弟たち、聞いてください。神が初めに心を配られ、異邦人の中から御自分の名を信じる民を選び出そうとなさった次第については、シメオンが話してくれました」。(一五・一三〜一四)

 最後にヤコブが立ち上がり、意見を述べます。ヤコブは、神が最初に異邦人の中から御自身の民を選び出されたのは、シメオン(ペトロ)によってであるとしています。実際は、最初に異邦人に福音を宣べ伝えたのはステファノ・グループと、ステファノ事件の時に各地に散らされたギリシア語系ユダヤ人たちでした。しかしルカは、ペトロによるコルネリウスの回心の出来事を、異邦人が神の民に加わった最初の決定的な出来事として大きく取り扱っています。ここでもヤコブがそれを認めたとして、これがエルサレム共同体の公式の見方であると描いています。ヤコブはパウロとバルナバの働きには触れないで、ペトロの働きだけを取り上げて語っています。この書き方は、異邦人を受け入れることが、使徒の代表であるペトロによっても、エルサレム共同体の筆頭者であるヤコブによっても認められた公式の立場であることを強調するためでしょう。

 「預言者たちの言ったことも、これと一致しています。次のように書いてあるとおりです。『「その後、わたしは戻って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。その破壊された所を建て直して、元どおりにする。それは、人々のうちの残った者や、わたしの名で呼ばれる異邦人が皆、主を求めるようになるためだ」。昔から知らされていたことを行う主は、こう言われる』」。(一五・一五〜一八)

 ヤコブは預言者の言葉(アモス九・一一〜一二)を引用して、異邦人を受け入れることが神の御計画に適っていることを根拠づけます。「その後、わたしは戻って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す」という預言は、終わりの日にイスラエルが回復されることを預言していますが、そのことが起こるとき、異邦人も主を求めるようになると預言されており、今ペトロが語った異邦人の回心はまさにこの預言の成就であり、神がなされたことであるとします。

 「それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません」。(一五・一九)

 「それで、わたしはこう判断します」という発言は、ヤコブが会議の議長として最終決定を下す立場であることを示しています。「わたしは」が強調されていて、「このわたしはこう裁決します」という発言です。法廷ではないので「判決する」ではありませんが、会議の結論を決める発言です。このこともヤコブがエルサレム共同体の代表者であり、ひいてはこの時期の福音活動全体を統括する立場にいたことを物語っています。ペトロもパウロもバルナバもこのヤコブの統率に従う立場です。

 ヤコブの裁決は、「神に立ち帰る異邦人を悩ませてはならない」というものです。「悩ます」というのは、さらに重荷を負わせる、さらに難しいことを加えるという意味の動詞です。偶像を捨ててイスラエルの神を礼拝するようになった異邦人に、さらに割礼を施し、モーセ律法の規定を守るように要求してはならない、という裁決です。すなわち、異邦人に割礼を施し、モーセの慣例を守るように要求した「ユダヤ主義者」の主張は退けられ、パウロとバルナバが求め、ペトロが擁護した立場、すなわち「無割礼の福音」が認められたのです。
 ところが、ヤコブはこの裁決に一つの条件をつけます。イスラエルの神に回心した異邦人に書簡を送って、次の諸点だけは守るように求めるべきだとします。

 「ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです」。(一五・二〇〜二一)

 異邦人信者が避けるべき諸点とは、「偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血」の四点にまとめられています。この四点の内容(二〇節)については、このことを求めた書簡を扱うところ(項目V)で触れることになりますが、ここではそれを求める理由(二一節)についてだけ触れておきます。

 ヤコブはそれを求める理由として、モーセ律法は「昔からどの町にも」よく知られており、実際「安息日ごとに会堂で読まれている」ことをあげています。「昔からどの町にも」というのは、捕囚以後の時代には、当時のユダヤ人の視野が及ぶ限りの地中海世界の諸都市にユダヤ人が住み、会堂を核とする共同体を形成していたことを指しています。そのようなユダヤ人共同体に福音が告知され、新しい神の民が形成されることを前提として、そこに異邦人が加わる場合を想定しています。そこに「無割礼の福音」が宣べ伝えられて、割礼を受けていない異邦人が神の民の中に入ってきたとき、ユダヤ人は異邦人と一緒に新しい共同体を形成することになりますが、そのさいユダヤ人が異邦人と交わりを持つことができるための最低限の要求として、この四つのことを避けるように異邦人信者に求めたのです。

 この要求を知らせる「使徒たちと長老たち」からの書簡が異邦人信者あてに送られます(一五・二二〜三三)。この書簡は「使徒通達」とか「使徒教令」と呼ばれていますが、この書簡については様々な問題がありますので、項を改めて(項目Vで)扱うことにします。
 以上はルカが伝えるエルサレム会議の様子です。しかし、このエルサレム会議については、当事者のパウロ自身が書いているところがありますので、パウロの立場から見た会議の内容を見ることにします。



  U パウロから見たエルサレム会議

「おもだった人たち」との個人的会談

 このエルサレム会議に一方の当事者として参加したパウロが、後にガラテヤの諸集会に書き送った手紙の中でこの会議の経緯と結果について触れています(ガラテヤ二・一〜一一)ので、その記事に基づいて、パウロの側から見たエルサレム会議の性格と意義について検討しておきたいと思います。

 その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際、テトスも連れて行きました。(ガラテヤ二・一)

 まずここでエルサレム会議の時期が示されています。「その後十四年たってから」というのは、直前にある回心後最初のエルサレム訪問(ガラテヤ一・一八〜二〇)からの年数を指していますので、それが回心後三年目の三五年だとすると、「その後十四年たってから」は(当時の数え方の習慣で足掛け十四年後と見て)四八年になります。

 パウロはバルナバと一緒にエルサレムに上りますが、そのさいテトスを連れて行きます。これまでのテトスの経歴は分かりませんが、ギリシア人である、すなわちユダヤ教徒ではない異邦人であることは確かです(二・三)。テトスは割礼を受けないままで、アンティオキア共同体の有力なメンバーとしてパウロやバルナバと協力して福音活動に励んでいた異邦人信者でした。そのテトスを連れて行ったのは、割礼を受けていない異邦人信者の代表として、エルサレム共同体の指導者たちがテトスを受け入れるかどうかで、無割礼の異邦人信者を受け入れるかどうかを確認するためでした。

 エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。(二・二a)

 この「啓示」がパウロの個人的な祈りの中で与えられたものか、あるいは共同体の祈りの中で霊感を受けた預言者によって語られたもの(一三・二のように)かは確認できません。さらに、この時のエルサレム訪問を飢饉援助のときの訪問(一一・二七〜三〇)として、この「啓示」をアガボという預言者によるものとする研究者もいます。いずれにせよ、パウロがこのエルサレム訪問を「啓示による」とするのは、このエルサレム訪問がエルサレム側からの召喚とか提案でなされたものではなく、神の働きかけに応じてパウロの側からなされた自発的な訪問であることを強調しています。

 わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。(ガラテヤ二・二b)

 ここの原文は、「わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音を提示した」で始まっています。ここに用いられている動詞は「(相手の判断を求めて)述べる、示す、差し出す」という意味の動詞です。提示の仕方は「おもだった人たちに個人的に(ひそかに)」であって、この点はルカの記述がヤコブを議長とする「使徒たちと長老たち」の公式の会議で議論されたとなっているのと違います。

 この違いから、使徒言行録一五章とガラテヤ書二章は別の出来事を伝えているのではないかという見方が出てきます。この二つの記事の関係については、エルサレム会議の時期の問題と絡んで複雑な問題を提起していますので、後でまとめて見ることにして、ここではパウロの立場から語られるエルサレム会議の内容についてだけに焦点を当てて見ていきます。

 パウロがこのようにエルサレムの「おもだった人たち」に「自分が異邦人に宣べ伝えている福音を提示した」目的は、「自分が無意味に走っていることにならないために、また走ったことにならないため」(私訳)です。ここでパウロは「走る」という意味の動詞を違った時制で重ねて用いています。パウロはこの動詞を、目標を目指して奮闘努力することを比喩的に語るときによく用いています(ローマ九・一六、コリントT九・二四、フィリピ二・一六)。パウロがこの動詞を用いるときは、先にガラテヤ州南部の諸都市への伝道活動のところで見たように、文字通り死ぬ思いをして苦労してきたことが念頭にあるのでしょう。
 もしエルサレム共同体の「おもだった人たち」が、今ガラテヤの諸集会にユダヤ主義者が要求しているように異邦人信者には割礼を施すように求めたならば、パウロがこれまで宣べ伝えてきた「無割礼の福音」は倒れてしまいます。パウロのこれまでの苦労は無意味となり無駄になってしまいます。パウロはエルサレム共同体とは別に(=から分離して)福音が成り立つとは考えていません。ここは何としてもエルサレム共同体の「おもだった人たち」に自分の「無割礼の福音」を理解してもらって、異邦人信者には割礼の必要がないことを確認してもらい、エルサレムの権威をかざして異邦人信者に割礼を要求する「ユダヤ主義者」の活動を封じなければなりません。パウロとバルナバは、これまで自分たちを通してなされた神の働きの数々をあげて、異邦人の回心の事実を語り、異邦人が無割礼のままイエスを主《キュリオス》と言い表して神の民として祝福の中に歩んでいることを語ったことでしょう。

 

テトスは割礼を強制されず

 しかし、わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。(ガラテヤ二・三)

 この会談の結果について、パウロはギリシア人であるテトスが「割礼を受けることを強制されなかった」という事実を伝えるだけです。しかし、この事実が何よりも雄弁に、パウロが主張する「無割礼の福音」がエルサレム共同体の「おもだった人たち」に認められたことを物語っています。
 しかし、この結果は容易に得られたものではないことが以下の文で語られます。

 潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。彼らは、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした。福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように、わたしたちは、片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした。(ガラテヤ二・四〜五)

 ここに、エルサレム共同体にはテトスに割礼を施すように要求した人たちがいたことが明言されています。彼らは異邦人信者が割礼を受けなければ、自分たちユダヤ人と同じ終わりの日の神の民と認めることはできないと強硬に主張し、「おもだった人たち」にテトスの割礼を要求したものと考えられます。彼らには、モーセ律法の外にいる神の民は考えられなかったのです。

 そのようにテトスに割礼を要求したエルサレム共同体の一部のユダヤ人を、パウロは「潜り込んで来た偽の兄弟たち」と呼んでいます。おそらくこれは、エルサレムの「おもだった人たち」の前で論敵をそのように呼んだのではなく、今ガラテヤの諸集会の異邦人信者に割礼を要求している「ユダヤ主義者」に対する激しい思いが、このエルサレム会議の時の論敵に重ねられたものと思われます。パウロにとって、今ガラテヤの異邦人集会に割礼を求める「ユダヤ主義者」は、羊の囲いの中に門を通らず忍び込んできた狼であり盗人です(ヨハネ一〇・一)。彼らが付けねらっているのは、「わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由」です。彼らはその自由を奪って、「わたしたちを奴隷にしようとして」いるのだ、とパウロは激しい口調で「ユダヤ主義者」を非難します。

 ここでパウロが「自由」というのはモーセ律法からの自由、すなわちユダヤ教という宗教の諸規定から解放された信仰の歩みです。今ガラテヤの異邦人信者に割礼を求める「ユダヤ主義者」は、異邦人信者をモーセ律法の拘束の下に置いて、律法の奴隷としようとしているのだと断じます。
 パウロはこの自由、すなわちモーセ律法の外で、律法(ユダヤ教)と関係なく、ただ「キリストの信仰」によって神の民として受け入れられるという現実を「福音の真理」と呼びます。この福音の真理が確立され、後々の異邦人信者の共同体にとどまるようになるために、あのエルサレム会議でテトスに割礼を要求するユダヤ人勢力に屈服せず、一歩も譲歩しなかったのだ、と回顧します。

 おもだった人たちからも強制されませんでした。―― この人たちがそもそもどんな人であったにせよ、それは、わたしにはどうでもよいこことです。神は人を分け隔てなさいません。―― 実際、そのおもだった人たちは、わたしにどんな義務も負わせませんでした。(ガラテヤ二・六)
 テトスに割礼を要求したユダヤ人たちは、エルサレム共同体の「おもだった人たち」にそれを求めたのでしょう。しかし、「おもだった人たち」は、パウロとバルナバが証言する「無割礼の福音」の成果を認め、テトスに割礼を強制しませんでした。それだけでなく、彼らはパウロにいかなる付加的な義務も負わせなかった、とパウロは証言しています。この証言の中でパウロは、この「おもだった人たち」がどのような立場の人であろうと、それは自分には関係がないことで、自分が告知する福音の真理は彼らの了解の上に、また彼らの権威によって成立するものではなく、パウロに直接与えられた啓示に基づくものであることを強調する文を挿入します。

一致の握手

 それどころか、彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。割礼を受けた人々に対する使徒としたの任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。(ガラテヤ二・七〜八)

 「おもだった人たち」は、テトスの割礼を強要せず、パウロに何の付加的な義務も負わせなかっただけでなく、神がパウロに「無割礼の福音」を委ねておられることを認めました。「任されている」という受動態の動詞の行為者は神です。神がパウロに「無割礼の福音」を任されたのです。神はペトロに「割礼の福音」を任されたように、パウロには「無割礼の福音」を任されたのです。

 ここに用いられている「割礼の福音」とか「無割礼の福音」という表現(直訳)は、新共同訳が訳しているように「割礼を受けた人々に対する福音」と「割礼を受けていない人々に対する福音」という意味であることは確かです。しかし、「割礼を受けていない人々に対する福音」は、その人たちが割礼を受けないままで救われて神の民に加わることをも意味していますので、「割礼を必要としない福音」、「割礼なしの福音」という意味も含むことになります。この二重の意味での「無割礼の福音」を、パウロは神から任されたのです。パウロはこの「無割礼の福音」、とくに「割礼なしの福音」という意味での「無割礼の福音」を確立するため、命をかけた厳しい戦いをすることになります。

 彼らがこれを認めたのは、事実、「割礼を受けた人々に対する使徒としたの任務のためにペトロに働きかけた方」、すなわち復活者キリストが「異邦人に対する使徒としての任務につかせるためにパウロにも働きかけられた」からです。パウロは「異邦人に対する使徒としての任務」を復活されたキリストから受け取りました。たしかにペトロは生前のイエスに召されて弟子となり、多くの教えを聴き、イエスのなされる働きを目撃しました。しかし、ペトロが復活者キリストの証人としての使徒として召されたのは、復活されたイエスに出会い、復活者イエスから「わが羊を飼え」という委託を受けたからです。その使徒としての任務は、当初はユダヤ人(割礼を受けた人々)に対するものでしたが、今やその復活者キリストが異邦人に復活者キリストを告知するためにパウロに現れ、パウロを使徒としてその任務につかせたのです。この復活者キリストから使徒としての任務に召されたという点で、パウロは自分をペトロと同じ立場の使徒であると自覚しています。

 また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。(ガラテヤ二・九)
 七節から九節までは、切れ目のない長い一文です。主文は「ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました」という部分です。その主文の前に、七節の「・・・・を知り」と九節冒頭の「・・・・を認め」という理由を示す二つの文があり、主文の後に「それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです」という結果を示す文が続くという構造になっています。

 そのさい、九節冒頭の「彼らはわたしに与えられた恵みを認め」という理由の文の内容は、八節のパウロが復活者キリストから異邦人の使徒としての任務を委ねられたという事実を指しています。パウロは自分が使徒とされたことをいつも「恵み」と言っています。「おもだった人たち」は、パウロが復活者キリストから使徒に任ぜられたことを認めたのです。それで「わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました」のです。
 ここで初めて「おもだった人たち」の名が出てきます。ヤコブとケファとヨハネの三人が「柱と目されるおもだった人たち」と呼ばれています。最初のヤコブは、「十二人」の中の一人、ゼベダイの子でヨハネの兄弟のヤコブではなく、主の兄弟のヤコブです。ゼベダイの子のヤコブはヘロデ王の迫害の時にすでに殉教しており(一二・一〜二)、その迫害で使徒たちがエルサレムを去った後、主の兄弟のヤコブがエルサレム共同体を統率する立場になっていたことは、前節(前号)の「エルサレム共同体と主の兄弟ヤコブ」で詳しく見ました。

 十二人の使徒たちは、ヘロデ王の迫害の時各地に散って行き、誰がエルサレムに残っていたかは分かりません。ペトロもその時にエルサレムを去っていますが、この会談のときにはエルサレムに戻っていたことになります。エルサレムに上るとき、パウロが(カイサリアにいる?)ペトロを誘って同行した可能性も考えられます。この会談のときに名をあげられている使徒はペトロとヨハネの二人だけです。

 ヨハネは、後にヨハネ福音書を生み出すヨハネ共同体の指導者で、「主が愛された弟子」のヨハネではなく、「十二人」の一人のゼベダイの子のヨハネであると考えられます。この前後のヨハネの動静については分かりません。兄弟のヤコブは四三年に殉教していますが、ヨハネはエルサレムまたはパレスチナで活動を続けていたと見られます。

 この三人がエルサレム共同体の「柱」とされていました。「柱」というのは、共同体を建物にたとえた表現ですが、エルサレム共同体はこの三人に支えられて存続していたのでした。この三人が、アンティオキア共同体を代表するバルナバとパウロに「一致のしるしとして右手を差し出した」ことで、最初期のキリストの民を代表するこの二つの共同体は、分裂することなく、その働きの分野を分けて、共同の福音告知の働きを進めることができるようになりました。

 パウロとバルナバが代表するアンティオキア共同体は異邦人に福音を告知する任務を引き受け、三人が代表するエルサレム共同体は割礼を受けた人々、すなわちユダヤ人に復活者キリストを告知する責任を引き受けることになりました。ただ、この分割は働きの対象の区別ではなく、信仰の場の違いを分担しているようです。その後の福音活動の進展を見ますと、パウロはどこに行ってもまずユダヤ人に福音を宣べ伝えていますし、ペトロは遠くコリントやローマに至るまで広く地中海世界の異邦人世界に働きを進めています。この分担はむしろ、エルサレム共同体は「割礼の福音」、すなわち割礼の場でのキリスト信仰、換言すればユダヤ教の枠内でのキリスト信仰を担当し、アンティオキア共同体は「無割礼の福音」、すなわち割礼を必要としない福音、ユダヤ教の外でのキリスト信仰の告知と確立を担当することになります。

 この二つの異なる場でのキリスト信仰、すなわちユダヤ教の枠内でのキリスト信仰とユダヤ教の外でのキリスト信仰の関わり方が、この最初期、とくに七〇年のエルサレム陥落までの前期における最大問題であり、この時期の福音の史的展開に深い刻印を刻み込んでいる問題です。それでこの問題は、項を改めて取り上げることにします(項目X)。

 

エルサレム共同体への援助

 ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です。(ガラテヤ二・一〇)

 このような形で信仰上の問題は決着したのですが、そのさいエルサレム共同体の代表者はアンティオキア共同体の代表者に、「貧しい人たちのことを忘れないように」という要望を付け加えました。「貧しい人たち」というのは、エルサレム共同体の人々を指しています。広く各地の貧しい階層の人たちという意味ではなく、エルサレム共同体の敬虔なユダヤ人信者を指しています。ユダヤ教徒は、現実には力ある者たちから抑圧され、ただ神に縋るほかない人たちを「貧しい者」と呼び、そのような「貧しい人たち」こそ神から顧みられる人たちであるとしてきました。預言者もそのように用い、イスラエルの祈りを記した詩編にも多く用いられ、死海文書のエッセネ派の人たちも自分たちを「貧しい者たち」と呼んでいました。イエスもこの語を用いておられ、弟子たちをこう呼んでおられます。

 しかし、そのような霊的な意味だけでなく、当時のエルサレム共同体は実際に経済的に貧窮していて、外からの援助を必要としていたようです。先に「エルサレム共同体の成立」の章で見たように、エルサレム共同体の信者は自分の資産を持ち寄って共同の生活をしていました。それは、キリストの来臨が迫っているという燃えるような終末待望が可能にした共同生活でした。しかし、成立後二〇年近く経って、持ち寄った資産を食いつぶす生活は行き詰まります。この会議の頃には外からの献金や援助が必要な状況であったと推察されます。

 これも先に見たように、アンティオキア共同体は何かにつけてエルサレムの仲間を援助してきました。今信仰上の分野に関してはそれぞれの分担が分かれたとはいえ、アンティオキア共同体がエルサレムの仲間を忘れることがないように要望が加えられたのです。この援助のことは、パウロは今までも心がけ、飢饉のときの援助など献身的に働いてきました。そして、この会議の後はますますエルサレム共同体のための援助献金のために労を惜しまず働きます。自分が形成した異邦人諸集会からエルサレム共同体への献金を集めることが、その後のパウロの働きの大きな動機となります。この献金問題は、パウロの働きの後半の重要な主題となりますので、パウロを扱う章で取り上げることにして、ここではこの会議で援助の要請があったことだけを見ておきます。

 

二つの記事の関係

 以上がパウロの証言するエルサレム会議の様子です。これは会議に参加した当事者の証言ですから、第一次資料として最高の価値があります。しかし、この証言から見ると、先に見た使徒言行録一五章のルカの報告はかなり違った面があります。たしかに、異邦人信者に割礼を施すべきかどうかが問題になっており、それをアンティオキア共同体を代表するパウロとバルナバがエルサレム共同体の一部の「ユダヤ主義者」と議論し、エルサレム共同体の代表者がパウロたちの「無割礼の福音」を認めたという基本的な内容は、両方で同じです。しかし、パウロの証言では、この話し合いはエルサレムの「おもだった人たち」とひそかに行われた個人的な話し合いであるのに、ルカの報告では、この会議はエルサレム共同体の「使徒たちと長老たち」が集まった会議で議論され、会議の議長役のヤコブの裁定で決まったという内容となっています。

 さらに、パウロはエルサレムの「おもだった人たち」はパウロにいかなる付加的な義務も負わせなかったと証言していますが、ルカの報告では異邦人信者がユダヤ人信者との交わりのために守るべき最低限として四項目の律法順守が求められています。
 このような違いから、ルカの使徒言行録一五章の記事とパウロのガラテヤ書二章の記事は別の会談のことを報告しているとする見方も出てきます。同じ会談について語っているとしても、それがいつのことかについても困難な問題があります。パウロは「それから一四年後」としていますが、それがルカが報告しているように、パウロのマケドニア・アカイア州への伝道旅行(いわゆる「第二次伝道旅行」)の前のことか、その後のエルサレム訪問(一八・一八〜二二)の時のことかが争われています。

 この二つの記事の関係は、その内容と時期の問題が絡みあって複雑な問題となっており、新約聖書の解きほぐしがたい謎の一つになっています。しかし、パウロの「無割礼の福音」がエルサレム共同体の指導層によって承認されたという内容は一致していて、「福音の史的展開」という当面のわれわれの主題にはそれで十分であると考えられますので、この問題は保留にしたまま先に進むことにします。

 このエルサレム会議は、それが第二次伝道旅行の前(四八年)であれその後(五一年)であれ、最初期前期(使徒時代)のほぼ中程の時期になります。すなわち、福音告知活動の開始(三〇年)から二〇年近く経ち、その後ほぼ二〇年後にエルサレム陥落(七〇年)が来ます。このエルサレム会議に、それまでに形成されてきた福音活動の諸潮流が姿を現し、その後諸潮流がそれぞれの流れを進める出発点となります(その諸潮流については項目Xで)。

 


  V 「使徒教令」の伝達

「使徒教令」の伝達

 ここで再び使徒言行録一五章のルカの記事に戻りましょう。ルカが伝えるエルサレム会議では、最後に議長役の主の兄弟ヤコブの裁定により、異邦人信者には割礼を求めないが、ユダヤ人信者との交わりを可能にするために四項目の律法順守が求められました。この裁定を異邦人信者を多く含む諸集会に伝えるために、文書を作成して送ることになります。この文書は、「使徒教令」とか「使徒通達」と呼ばれることになります。

 そこで、使徒たちと長老たちは、教会全体と共に、自分たちの中から人を選んで、パウロやバルナバと一緒にアンティオキアに派遣することを決定した。選ばれたのは、バルサバと呼ばれるユダおよびシラスで、兄弟たちの中で指導的な立場にいた人たちである。(一五・二二)

 公の会議の決定などを伝える書簡を送るときは、その書簡の出所と内容を保証するために、身元の確かな人物にその書簡を持参させるのが普通でした。ここでは、その手紙の内容がパウロとバルナバの希望に添っただけのものでなく、エルサレム共同体の決定であることを保証するために、エルサレム共同体で指導的な立場にあるバルサバと呼ばれるユダおよびシラスの両名を一緒に派遣することになります。

 使徒たちは、次の手紙を彼らに託した。「使徒と長老たちが兄弟として、アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たちに挨拶いたします。聞くところによると、わたしたちのうちのある者がそちらに行き、わたしたちから何の指示もないのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ動揺させたとのことです」。(一五・二三〜二四)

 二三節冒頭部分の原文は、「彼ら(使徒と長老たち)は彼ら(ユダとシラス)の手によって書き送った」となっています。これは、新共同訳が訳しているように、ユダとシラスを持参人として手紙を書き送ったという意味です。以下に引用されている手紙の本文は、典型的なギリシア風の手紙の形式で書かれています。「誰それ(差出人)から誰それ(受取人)へ」の後に《カイレイン》という挨拶語が付けられています。これは「喜びがあるように」という意味のギリシア語ですが、日本語では「ご機嫌よう」というような意味の語です。この語を用いた典型的なギリシア風書簡体は、新約聖書ではここと二三・二六のリシアの手紙およびヤコブ書一・一の三カ所に見られます。この手紙の結びの「健康を祈ります」という語も当時のギリシア風書簡の結びです。

 宛先は「アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たち」となっています。さし当たっての宛先はアンティオキア共同体ですが、アンティオキア共同体の福音告知の活動で信仰に入った周囲の地域の異邦人信者を広く含めて語りかけています。この地域が当時問題になっている異邦人信者のすべてでした。

 「使徒と長老たち」はアラム語系ユダヤ人ですが、宛先の異邦人信者はギリシア人ですから、この手紙はギリシア語で書かれています。エルサレム共同体にはギリシア語をよくするアラム語系ユダヤ人も多くいました。この手紙を持参して「口頭でも説明する」役目を与えられたユダとシラスも、エルサレム共同体の指導的立場にあるアラム語系ユダヤ人でありながら、ギリシア語をよくするから選ばれたと考えられます。書簡の文章を起草したのもこの二人であったかもしれません。

 書簡はまず最初に、エルサレム共同体のある者がアンティオキアに行って、異邦人も割礼を受けなければ救われないなどと、「いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ動揺させた」事実を取り上げ、それが「わたしたち(使徒と長老たち)から何の指示もないのに」行った一部の者の勝手な行動であることを断言します。それで使徒と長老たちの真意と決定を伝えるためにこの手紙を送るのだとします。

 「それで、人を選び、わたしたちの愛するバルナバとパウロとに同行させて、そちらに派遣することを、わたしたちは満場一致で決定しました。このバルナバとパウロは、わたしたちの主イエス・キリストの名のために身を献げている人たちです。それで、ユダとシラスを選んで派遣しますが、彼らは同じことを口頭でも説明するでしょう」。(一五・二五〜二七)

 バルナバとパウロはアンティオキア共同体を代表する預言者・教師です。エルサレム共同体はこの二人を「わたしたちの主イエス・キリストの名のために身を献げている人たち」と認めます。これによって、アンティオキア共同体はエルサレム共同体と並んで、主イエス・キリストの福音のために働く対等のパートナーと認められ、この時期の福音告知活動を共同で担う者となります。

 選ばれて派遣されたユダとシラスの任務は、書簡の内容をさらに詳しく口頭で説明することですが、同時にこれは、この内容がエルサレム共同体の「使徒と長老たち」から出たものであることを保証します。バルナバとパウロだけが説明するのでは、その保証になりません。では、この書簡の内容はどのようなものでしょうか。

 

「使徒教令」の内容

 「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります」。(一五・二八〜二九)
 使徒たちは「わたしたちは決めました」とは言わず、「聖霊とわたしたちは決めました」と言って、以下の決定が、ただ人間の間での協議から出たものではなく、聖霊に導かれてなされた決定であることを強調しています。ルカは、この時期の使徒たちの活動が聖霊によるものであることをこの著作で強調しています。

 その決定は、異邦人信者に「次の必要な事柄以外、一切重荷を負わせないこと」です。「重荷を負わせる」は、律法順守の義務を負わせることの慣用的な表現です。この決定は、異邦人信者に割礼を受けることでモーセ律法の諸規定を順守する義務を受け入れることを要求しないと明言しています。ただそのさい「次の必要な事柄以外」という但し書きがつきます。そして、その「必要な事柄」として四つの項目があげられます。
  1 偶像に献げられたもの
    2 血
    3 絞め殺した動物の肉
    4 みだらな行い
 この四つの項目が何を求めているのか、現代の読者には理解しにくい事柄です。ここは、このような要求をしないではおれなかったエルサレム共同体の「使徒と長老たち」の立場に身を置いて考察しなければなりません。

 この四つは「必要な事柄」と言われていますが、何に必要な事柄なのでしょうか。救われるために必要な事柄ではありません。ペトロの証言と、パウロ・バルナバの働きの事実から、異邦人も主イエス・キリストを信じることで聖霊を受け、神の民に加えられることが確認されています。しかし、この時の「使徒と長老たち」はみな律法に熱心なユダヤ教徒であり、当然終わりの日に召される神の民はユダヤ人の中で主イエスを信じた者たちであり、それに異邦人の中からイエスを信じた者たちが加わるという形で神の民が形成されると信じていました。こうして終わりの日にユダヤ人と異邦人からなるキリストの民が一つの食卓について神を礼拝するとき(最初期の集会での礼拝は食卓での交わりの中で行われました)、ユダヤ教徒が異邦人と一緒に食卓につけるために、異邦人の側で最小限順守してほしいユダヤ教の食事規定をあげたと見られます。

 そのような集会におけるユダヤ教徒と異教徒との交わりは、すでにユダヤ教会堂で以前から問題になっていました。異邦人がイスラエルの神を慕って、「神を敬う者」としてユダヤ教会堂に集まってきたとき、ユダヤ教側から会堂に集まる異邦人に最小限守るべき事柄が求められていました。その内容は、レビ記一七〜一八章にあるイスラエルの家に「寄留する者」に対する要求が基準になっていたと見られます。エルサレムの「使徒と長老たち」は、その範例に基づいて、ユダヤ人を中核とする神の民に加わる異邦人に、ユダヤ教徒が彼らと交わりをもつことができるための必要最小限の律法規定を守ることを求めたものと考えられます。従って、その内容を解釈するには、この視点から見なければなりません。

 1の「偶像に献げられたもの」というのは、正確には「偶像に献げられた肉」を意味します。偶像の宮で犠牲として屠殺され動物の肉は、一部は祭壇で焼きつくされ、一部は宮での聖なる会食に用いられ、他は一般家庭の食用として市場に売りに出されました。こうしてヘレニズム諸都市で市販されている肉は、すべて異教の神殿で屠殺されて偶像に献げられた肉ですから、そのような肉を食べることは偶像礼拝の汚れに触れることとして、律法に熱心なユダヤ教徒には忌むべきことでした。それで、信仰に入った異邦人信者もこのような肉を避けることで、律法熱心なユダヤ教徒と食事を共にすることができるように努めてほしいという要望です。

 2の「血」というのは、あまりにも一般的な表現ですが、レビ記(一七・一〇〜一四)の規定を背景として見るとき、生き物の血を食べてはならないというユダヤ教の規定を指していると理解できます。

 3の「絞め殺した動物の肉」も、先の「血を食べてはならない」の一種で、血が詰まっている肉、つまり自然に死んだ動物や野獣にかみ殺された動物、また血を注ぎ出して(血抜きをして)から調理されたものでない肉(レビ記一七・一三、一五)を食べることを禁じていると理解できます。

 4の「みだらな行い」《ポルネイア》は、ユダヤ教を背景とする文脈に出てくるときはその解釈が争われていますが(マタイ五・三二、一九・九)、ここでは性的不道徳一般ではなく、レビ記(一八・六〜一八)に禁じられているような近親者間での相姦関係を指していると見られます。

 ここにあげられている四つの「必要な事柄」はすべて、ユダヤ教徒が耐えられない祭儀上の汚れを避けるようにという要求です。そのほとんどが食事に関する祭儀的清浄規定であることが注目されます。しかし、後の時代の写本には3の「絞め殺した動物の肉」の項目を欠く三項目の「使徒教令」が現れるようになります。これは、この項目がなければ、この「使徒教令」は偶像礼拝の禁止、流血(殺人)の禁止、性的不道徳の禁止という、きわめて倫理的な禁止規定と解釈できるようになるからです。時代が進んで、ここに見たような祭儀的清浄の要求が必要でなくなり、その意味が理解できなくなったとき、権威ある使徒たちの通達を時代に生かそうとした努力の結果でしょうが、これは「使徒教令」の本来の意味ではありません。

 

持参人ユダとシラスの活動

 さて、彼ら一同は見送りを受けて出発し、アンティオキアに到着すると、信者全体を集めて手紙を手渡した。彼らはそれを読み、励ましに満ちた決定を知って喜んだ。(一五・三〇〜三一)

 アンティオキア共同体は、このような重要な使者を迎えて話を聞くときには、普段は家ごとに集まっている信者全体が、郊外の山腹にある洞窟などに集まったのでしょう。アンティオキアの信者、とくに異邦人信者は、無割礼のままキリストの民であることがエルサレムの「使徒と長老たち」に認められたことを知って、大いに励まされ喜びます。

 ユダとシラスは預言する者でもあったので、いろいろと話をして兄弟たちを励まし力づけ、しばらくここに滞在した後、兄弟たちから送別の挨拶を受けて見送られ、自分たちを派遣した人々のところへ帰って行った。(一五・三二〜三三) 

 派遣されたユダとシラスは、預言する賜物を与えられており、エルサレムでは教師として指導的な働きをしていた人物です。二人はアラム語系ユダヤ人ですが、ギリシア語をもよくするバイリンガルなユダヤ人でした。このような人物ですから、アンティオキアでもギリシア語でこのヘレニズム大都市の信者に語りかけ、エルサレム共同体に伝えられている貴重なイエス伝承を伝えて信者を励まします。二人はしばらくの期間アンティオキアに滞在して、主の言葉を伝え、それからエルサレムに帰って行きます。

 [しかし、シラスはそこにとどまることにした。](一五・三四、異本による訳文)

 ところが、少し後にパウロが、アンティオキアにいるシラスを同行者に選び、伝道旅行に旅立つという記事が出てきます(一五・四〇)。シラスはいったんユダと一緒にエルサレムに帰った後、改めてアンティオキアに来ていたことになります。しかし、パウロがシラスと一緒に伝道旅行をしたことを知っている写字生が、つながりをよくするためにこの一文を入れたのでしょう。しかし、この挿入は明らかに三三節の本文と矛盾します。

 しかし、パウロとバルナバはアンティオキアにとどまって教え、他の多くの人と一緒に主の言葉の福音を告げ知らせた。(一五・三五)

 ユダとシラスはエルサレムに戻りましたが、パウロとバルナバはアンティオキアにとどまり、共同体の他のメンバーと協力して、周囲の人たちに「主の言葉の福音」を告げ知らせる働きを続けます。

 

「使徒教令」の問題点

 以上がエルサレム会議の決定を受けて、エルサレムの「使徒と長老たち」からアンティオキアと周辺の異邦人信者に送られた手紙、「使徒教令」の概要です。ルカはエルサレム会議と「使徒教令」の出来事を一連の流れとして、使徒言行録一五章において流麗な筆致で描いていますが、この「使徒教令」にはいくつかの問題点があります。

 最大の問題点は、ルカはパウロがこの「使徒教令」をアンティオキアにもたらした一員として、当然この「使徒教令」を熟知しているものと描いていますが、パウロ書簡にはパウロがこれを知っている痕跡がないという事実です。

 「使徒教令」はユダヤ人信者と異邦人信者が食卓を共にすることができるための指針ですが、まさにこの共同の食卓の問題こそ、パウロがその後の異邦人伝道で大変苦労した問題なのです。パウロの福音告知の活動によってヘレニズム世界の諸都市に成立した集会は、ユダヤ人と異邦人で構成される場合が多かったので、しばしばその共同の食卓での礼拝において問題が起こりました。とくに市場で売られている肉は偶像の宮に献げられた肉であるから、汚れに触れることを避けるために肉を食べない人と、キリストにあって律法から解放されて自由に生きる人との間に生じた相互の批判や排斥を克服するために、パウロは苦心して説得しようとしています(コリントT八章やローマ書一四章)。ところが、そのような場合にパウロが「使徒教令」に触れることはありません。「使徒教令」はまさにこの問題を取り扱っている使徒たちの指針であり、権威あるものですが、パウロは食卓の問題を扱うときにこの文書を持ち出すことはありません。

 パウロはエルサレム会議について、「おもだった人たちは、わたしにどんな義務も負わせませんでした」と述べ、異邦人信者にユダヤ教律法の順守を求める人たちについては、「わたしたちは、片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした」と断言しています。そのようなパウロが、たとえ最小限に軽減されたものであれ、ユダヤ教律法の一部の順守を異邦人信者に求めた「使徒教令」のような指針を認めることはありえません。このような決定や文書の存在は、エルサレム会議の時のパウロがあずかり知らぬことであったはずです。
 このような重要な文書をルカが創作することは考えられません。ルカはアンティオキアでこの文書の写しを入手して用いたことは十分推察できます。この文書の存在を疑う理由はありません。しかし、この文書がいつ、どのような状況で成立したのかは、ルカよりもパウロの一次資料に基づいて検討しなければなりません。そのためには、次項(W)で見るアンティオキアでの共同の食卓で起こった問題が鍵になります。

 

  W アンティオキアでの共同の食卓

ヤコブの「介入」

 パウロはガラテヤ書二章で、エルサレム会議の経緯を語った後に続けて、アンティオキアで起こった共同の食卓をめぐる衝突を報告しています(ガラテヤ二・一一〜一四)。ここでその記事に基づいて、アンティオキアで起こった出来事とその意義を検討してみましょう。

 さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。(ガラテヤ二・一一)

 ここの「ケファ(ペトロ)がアンティオキアに来たとき」とはいつのことか確認できません。エルサレム会議のことを語った後に置かれているので、それ以後との印象を受けますが、確認はできません。四三年のヘロデ王の迫害でエルサレムを去ってから後に、ペトロはアンティオキアに来訪あるいは滞在して活動した可能性は高いのですが、それがいつであったかは分かりません。

 「非難すべきところ」の内容はすぐに次節で説明されます。それを見てパウロは「面と向かって」反対します。この表現は、直接会って反対を伝えたことを意味しますが、一四節の「皆の前で」、すなわち集会で公に批判する前に、「一対一で、個人的に」という意味も含んでいると考えられます。

 なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。(ガラテヤ二・一二)

 ヘレニズム世界の大都市アンティオキアでは、ユダヤ教の牙城であるエルサレムとは違い、ユダヤ人もかなり自由に異邦人と交流し、食事を共にする機会も多かったようです。その雰囲気の中で、イエスを信じたユダヤ人は同じ信仰の異邦人の兄弟たちと食卓を共にして、主を礼拝する集会を進めていたようです。

 そのような雰囲気のアンティオキア集会にやってきたペトロは、進んでユダヤ人と異邦人の共同の食卓に参加し、礼拝を共にしていました。ペトロはすでにコルネリウスの回心を見て、神が異邦人を異邦人のままで受け入れておられることを知っているのですから、アンティオキアで「異邦人と一緒に食事をしていた」(繰り返される継続的動作)のも当然です。

 ところが、「ヤコブのもとからある人々が来る」と、その共同の食卓から「身を引いて、自分を(異邦人信者の交わりから)分離しよう」とします。これも、それを語る動詞の時制から、一気に身を引いたのではなく、ためらいながらだんだんと共同の食事に参加しなくなった様子がうかがえます。新共同訳は、「〜しだした」と表現しています。ペトロは苦しい選択を迫られ、ある期間思い悩んだようです。そのような時期に、パウロがペトロと面談して、共同の食卓から身を引かないように説得しようとしたと見られます。

 何があったのでしょうか。「ヤコブのもとから来たある人々」は何を要求したのでしょうか。明示されていませんが、結果からすると、彼らはユダヤ人信者に異邦人信者と一緒に食事をすることをやめるように要求した、あるいは説得しようとしたと見られます。このような要求を携えてアンティオキアに来た「ある人々」というのは、「使徒や長老たち」の指示もないのに来て異邦人信者に働きかけた「ある人たち」(一五・二四)の場合とは違い、はっきりと「ヤコブのもとから来た」と明示されています。すなわち、ヤコブが使節団を送って、アンティオキアのユダヤ人信者に、とくに異邦人と食卓を共にしているという行動が伝えられてきたペトロに、このような要求をしたと見なければなりません。なにしろペトロはユダヤ人にこの福音を告知する運動を代表する人物ですから、彼の行動の影響は測り知れません。

 ヤコブが代表するエルサレム共同体がこのような要求をしたのは、ユダヤ教徒としてモーセ律法を厳格に順守すべきであるという原理的な理由があったのでしょう。ペトロがコルネリウスの回心を報告したとき、エルサレム共同体の指導層の中には、ペトロが異邦人の家に入って食事を共にしたことを非難する人たちがいたのですから、そのような体質が継続していて、このような要求が出てきたとしても不思議ではありません。しかし、このような批判は、ペトロ自身が自分の行為を神の啓示によるものであるとし、コルネリウスが異邦人のままで聖霊を受けたことを根拠にして、十分に反駁しました(一一・一〜一八)。ここでも、このような原理的な要求に対しては、ペトロは動揺することはなかったはずです。この場合は、そのような原理的な律法順守の要求の他に、何か差し迫った実際的な理由があったものと推察されます。

 エルサレム共同体が置かれていた状況は、先に「エルサレム共同体と主の兄弟ヤコブ」の節(本年2号、とくに項目W)でみたところですが、すでに四三年のヘロデ・アグリッパ王の弾圧で使徒たちはエルサレムから散らされ、その弾圧がユダヤ人社会の共感を得ていたことから、エルサレム共同体がユダヤ人社会で孤立していた様子がうかがわれます。ヘロデ・アグリッパはユダヤ人の歓心を得るために、律法に熱心な姿勢をアピールしていました。そのヘロデ・アグリッパの弾圧が周囲のユダヤ人の共感を得たことは、エルサレム共同体が律法違反ないし律法軽視の疑いの目で見られていたことを示唆しています。

 ヘロデ・アグリッパはほぼヘロデ大王の領域全体を支配するに至っていたのですが、四四年に急死して、彼の支配領域は再びローマ総督が直轄する皇帝直属のローマ属州(皇帝属州)となります。このことがローマ支配に反対する熱心党を刺激し、その活動をますます活発にさせることになります。

 「律法への熱心」を合い言葉にするこの時代に、イエスをメシアと言い表すユダヤ教徒の集団であるエルサレム共同体は、周囲のユダヤ教徒から律法を軽視あるいは違反している集団ではないかという疑いの目で見られていたと推察されます。それは、律法違反の罪で処刑されたイエスの弟子たちの集団であり、律法違反の廉で訴えられて処刑されたステファノの仲間であることから当然の結果であるでしょう。そのような疑いや圧力に対抗するために、エルサレム共同体は周囲のユダヤ教徒からも「義人」と評価されているヤコブを代表者にして、その存立を図っていたのでした。

 そのような状況において、アンティオキア共同体のユダヤ人が異邦人と自由に交わり食卓も共にしているということが伝わりますと、その仲間であるエルサレム共同体はますます律法違反を疑われて困難な立場になります。とくにその時期のユダヤ教ラビたちの議論で、アンティオキアが「イスラエルの地」に属することが主張されるようになっていて、他のディアスポラ・ユダヤ人の共同体とは違った真剣さで律法違反が問題とされる状況でした。

 このような状況で、エルサレム共同体の存立に責任をもつヤコブは、アンティオキア共同体におけるユダヤ人と異邦人の共同の食卓を黙認することはできなくなりました。とくにこの運動を代表する立場にあるペトロが異邦人と食卓を共にしていることがエルサレムに伝われば、周囲のユダヤ教徒の反感の火に油を注ぐことになりかねません。このことを心配したヤコブが使者団を送り込んで、アンティオキア共同体での食卓の問題に「介入」したと推察されます。

 このような状況から見ますと、ペトロが「割礼の者たちを恐れて」しり込みして、異邦人との共同の食卓から身を引こうとしてのは、エルサレム共同体の中の「割礼の者」ではなくて(エルサレム共同体はみな割礼を受けているユダヤ人です)、外のユダヤ教徒、イエスを信じない不信のユダヤ人たちを指していると理解する方が順当ではないかと考えられます。ペトロは原理的には異邦人と食事を共にすることには確信をもっていたでしょうが、エルサレム共同体が置かれている存立の危機に配慮せざるをえなかったと推察されます。自分が異邦人との共同の食事を続けるならば、「割礼の者たち」、すなわち周囲のユダヤ教徒の反感と圧力はますます強くなり、エルサレム共同体の存立にも重大な結果をもたらしかねないと「恐れた」のではないかと考えられます。

福音の真理に従わない行為

 そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。(ガラテヤ二・一三)

 ヤコブからの使節団は説得に成功します。パウロが個人的にペトロと面談して反対したのですが、ペトロはとうとう異邦人と共にしていた食卓から身を引いて、共同の食事に参加しなくなります。そうすると、アンティオキア共同体の他のユダヤ人たちもペトロに倣って、異邦人信者と共にしていた食事に参加しなくなります。パウロはこのユダヤ人の行為を「共に偽善を行う」という動詞で記述しています。その行為は信仰の確信に反して、ただ「割礼の者たちを恐れて」した行為、「心にもないことを行う」ことであるからです。

 その上、この人だけは自分の側に立ってくれるであろうと信じていた盟友のバルナバさえも、彼らの「偽善の行為」に引きずり込まれ、異邦人とに共同の食卓に参加しなくなりました。

 しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか」。(ガラテヤ二・一四)

 パウロから見れば、ペトロとバルナバと他のユダヤ人信者の行為は「福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていない」ことです。パウロにとって「福音の真理」とは、神がイエス・キリストの十字架・復活の出来事において、信じる者を無条件絶対の恩恵をもって救っていてくださっているという事実です。その恩恵の場ではユダヤ人と異邦人の差別はありません。今ユダヤ人信者が異邦人信者との共同の食卓から身を引くのは、異邦人とユダヤ人がまったく同じ立場で恩恵によって救われているという福音の真理を否定する行為である、とパウロは反対します。

 ことここに至って、パウロはこの問題を全集会の前に持ち出して、全集会の討論に委ねなくてはならなくなりました。パウロは全集会が集まったときに、「皆の前で」ペトロにこう言って、その行為の矛盾を批判します。

 ペトロがアンティオキアに来てからは、異邦人と一緒に食卓を囲んでいました。それをパウロは、「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活している」と言います。ユダヤ教律法が禁じている異邦人との食事を共にして、そのような禁止規定のない異邦人のように生活してきたのです。ところが、今異邦人との食卓から身を引こうとしているが、それは「異邦人にユダヤ人のように生活することを強要する」行為だとして、これまでの歩み方との矛盾を突きます。

 では、なぜペトロの行為が「異邦人にユダヤ人のように生活することを強要する」ことになるのでしょうか。それを理解するためには、当時のユダヤ人の救済史理解を見なければなりません。この時期の福音運動の指導者はみなユダヤ人です。聖書の神を信じるユダヤ人です。彼らは、聖書の約束に従って、終わりの日における神の救済の出来事を信じており、それがイエス・キリストの出来事において成就したと宣べ伝えているのです。聖書の約束によれば、終わりの日のメシア・キリストの到来によって、契約の民であるイスラエルが救われて栄光に入り、周囲の異邦諸民族も招かれてそのイスラエルの救済にあずかるようになる、と信じられていました。エルサレム会議の合意も、そのイスラエルの中から終わりの日の「神の会衆」《エクレシア・トゥ・テウー》を招集する役割をヤコブ、ペトロ、ヨハネが代表するエルサレム共同体が引き受け、異邦諸民族の中からこの「神の会衆」にあずかる民を招集する役目を、パウロとバルナバが代表するアンティオキア共同体が引き受けることでした。パウロもこのような自覚で異邦人伝道に生涯を捧げたのでした。
 ところが、今ペトロが共同の食卓から身を引くことは、異邦人信者に、あなたたちもユダヤ教律法を順守するユダヤ教徒にならなければ、(ペトロが代表する終わりの日のイスラエルと)一緒に食事をすることはできない、すなわち一緒に「神の会衆」として神の救済にあずかることはできない、と宣言することになり、異邦人信者にユダヤ教徒になること、すなわちユダヤ人のように律法順守の生活をすることを強要することになるのです。

 

「使徒教令」との前後関係

 このパウロの証言には、エルサレム会議の直後にアンティオキアに伝えられたとされる「使徒教令」がまったく言及されていません。もし「使徒教令」が、ルカが伝えているようにエルサレム会議の直後にアンティオキアに伝えられていたのであれば、このような衝突事件は起こらなかったはずです。むしろ、アンティオキアでこのような事件が起こったので、ユダヤ人信者が割礼を受けていない異邦人信者と食卓を共にすることができるためにどうすればよいかが真剣に議論され、それがエルサレム共同体とアンティオキア共同体との折衝を経て、「使徒教令」が成立した見られます。この前後関係は多くの研究者が一致して認めています。

 先に見たように、最低限のものであれ、異邦人にユダヤ教律法の一部を順守するように要求する「使徒教令」をパウロが認めることはなかったでしょう。このような「使徒教令」の成立は、パウロが食卓の交わりでの衝突の後、アンティオキア共同体から離れて伝道旅行に出発した後のことであり、パウロはこのような書簡は知らなかったと考えられます。先に見たように(本号72頁「使徒教令」の問題点)、パウロは自分が形成した諸集会に起こった食事の問題に対処するとき、「使徒教令」を引き合いに出すことはありません。パウロは「使徒教令」の存在を知らなかったと考えられます。伝え聞いていても自分の原則に合わないとして無視した可能性もあります。ルカは、パウロの最後のエルサレム訪問のときにヤコブが「使徒教令」の存在を伝えたことを示唆する記事も書いています(二一・二五)。

 「使徒教令」がアンティオキアでの衝突事件の後のものとすると、本来割礼問題を議論した別のエルサレム会議の決定としたのは、割礼問題と食卓の問題を一挙にエルサレムの「使徒と長老たち」の裁定によって解決したものとしようとするルカの構成によると考えられます。実際の歴史的状況はもっと複雑であったと考えられます。


パウロの孤立

 ガラテヤ書ではこの後も、人は律法の行為によって義とされるのではなく、ユダヤ人も異邦人も区別なく、ただ信仰によって義とされるのであるという重要な議論が続いています(ガラテヤ二・一五〜二一)。しかしこれは、新共同訳も別の段落として扱っているように、アンティオキアにおけるペトロに対する言葉ではなく、ガラテヤの異邦人信者に割礼を求めて働きかけている「ユダヤ主義者」に対する(ガラテヤ書簡執筆時の)パウロの反論であると理解する方が順当です。アンティオキアでの出来事についての記述は一四節で終わっているとしなければなりません。

 パウロは、アンティオキアの集会でペトロを批判して対立した出来事の結末を述べていません。もしパウロの批判に応えてペトロが異邦人との共同の食事に復帰したのであれば、ガラテヤの「ユダヤ主義者」に対する何よりも強力な反論の根拠になりますから、これを省略することは考えられません。パウロはペトロやバルナバの行為を止めることはできなかったと推察せざるをえません。使徒の代表者であるペトロとアンティオキア共同体の筆頭者であるバルナバが共同の食卓から身を引いたのですから、他のユダヤ人もみな同じように身を引きます。ユダヤ人の中で、異邦人と食卓を共にしようとする者はパウロだけ、あるいはごく少数の同調者だけとなります。パウロはアンティオキア共同体で孤立します。 最初期の共同体における美しい一致、とくに使徒たち働き人の間の一致を強調したいルカは、このような衝突事件を取り上げることはありません。ルカはこの「アンティオキア事件」については一切触れていません。しかし、パウロがこの事件の後、バルナバから別れ、したがってアンティオキア共同体から別れて行動するようになったことを伝える記事を入れて、このような衝突があったことを示唆しています。

 数日の後、パウロはバルナバに言った。「さあ、前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って兄弟たちを訪問し、どのようにしているかを見て来ようではないか」。バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネも連れて行きたいと思った。しかしパウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は、連れて行くべきでないと考えた。(一五・三六〜三八)

 マルコはバルナバの従兄弟(コロサイ四・一〇)で、同じキプロス島出身のユダヤ人家族の一員と見られます(キプロス出身のバルナバと親戚ですから)。バルナバが、先に働きを共にしたマルコを連れて行こうとしたのは自然なことです。しかし、パウロはマルコを連れ行くことに反対します。前にマルコは、パウロとバルナバがキプロスでの活動を終えた後、船でパンフィリア地方の港町ベルゲに渡ったとき、そこで一行から離れエルサレムに帰ってしまいました(一三・一三)。パウロはそのような者を一緒に連れて行くことに反対します。

 マルコが一行から離れてエルサレムに帰った理由は様々に推測されています。キプロスでの経験から、前途の困難を予想してしり込みしたとか、ホームシックにかかったというような理由は、あまり説得力がありません。おそらく二人の、とくに急進的なパウロの考え方や伝道の仕方について行けなかったのではないかと考えられます。ここで、その理由を推測するために、マルコの生い立ちや立場を見ておきましょう。

 マルコと呼ばれるヨハネは、母マリアと一緒にエルサレムの家に住んでいて、この家はペトロの活動拠点となっていたようです(一二・一二)。ペトロはこの家に寄寓していた可能性もあります。マルコの家族は、エルサレムにかなりの規模の家屋を持つことができる資産のある家族であったと推察されます。この家は、最初期エルサレム共同体の集会場所として、重要な活動拠点でした。最後の晩餐や、イエスの復活直後エルサレムに移住してきた弟子たちの最初の祈りの場所(一・一三)であったという推察もあります。

 ペトロは、この家にいるときはマルコに親しくイエスの教えや出来事を語ったことでしょう。後にマルコはペトロの通訳としてローマにまで行った、と古代の伝承は伝えています。ペトロはマルコを「わたしの子」と呼んでいたことが、ペトロの名によって書かれた手紙からうかがえます(ペトロT五・一三)。
 このこと(ペトロの通訳をしたこと)は、マルコがディアスポラ・ユダヤ人の家族の中で育ち、ギリシア語をよくした青年であることを示しています。しかし同時に、エルサレムで育ち暮らしてきた経歴から、彼はアラム語もこなし、自分の家に出入りしていたペトロをはじめとするイエスの弟子たちと親しく交わりをもち、最初期のエルサレム共同体で、アラム語系ユダヤ人の共同体であるエルサレム共同体の信仰資産(イエス伝承やキリスト告知)をギリシア語で表現することに、バルナバやシラスやバルサバと呼ばれるユダらギリシア語をよくするユダヤ人と共に、重要な貢献をしたと推察されます。

 このような同郷人の青年マルコを、飢饉援助のためにエルサレムを訪問したバルナバが、アンティオキアでの福音活動を手伝わせるために連れて帰り(一二・二五)、パウロと一緒にキプロスに伝道に行くときには助手として連れて行った(一三・五)のもよく理解できます。ペトロとバルナバに近いマルコは、両者を通してパウロの「無割礼の福音」の立場もかなりよく理解していたと考えられますが、それでもまだこの時にはエルサレム共同体の体質を強く残していて、パウロが異邦人を無割礼のままどんどん受け入れていく活動方針を受け入れることができなくなっていたのではないかと推測されます。
 これも一つの推測に過ぎません。その理由はともかく、実際はアンティオキアにおける共同の食卓の問題でマルコはペトロとバルナバの側についたので、パウロは新しく伝道旅行に出発するにさいして、マルコを連れて行かなかったのですが、アンティオキアにおける衝突事件を取り上げることができないルカが、それをパンフィリアにおけるマルコの行動のせいにした可能性もあります。

 そこで、意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動をとるようになって、バルナバはマルコを連れてキプロス島へ向かって船出したが、一方、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。そして、シリア州やキリキア州を回って教会を力づけた。(一五・三九〜四一)

 「そこで、意見が激しく衝突し、彼ら(パウロとバルナバ)はついに別行動をとるようになった」とルカは書いていますが、パウロとバルナバほどの盟友がマルコを連れて行くかどうかという問題で決裂したとは考えられません。これは、共同の食卓をめぐる対立で顕わになった路線の違いとそれについての激論を、ルカがマルコの問題にして、パウロとバルナバ、ひいてはパウロとアンティオキア共同体の間の亀裂を覆い隠そうとした記事ではないかと推測されます。パウロとバルナバが「別行動をとるようになった」のは明らかな事実ですが、アンティオキアでの衝突事件を伝えることを避けたいルカは、その理由をマルコの問題にして、このような記事にしたと推察されます。

 バルナバは従兄弟のマルコを連れてキプロス島へ向かって船出します。キプロス島は二人の故郷ですし、先の伝道活動でイエスを信じる人たちの群れができていたのですから、「前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って兄弟たちを訪問し、どのようにしているかを見て来よう」という動機からも、当然の選択でしょう。

 一方、パウロはシラスを選び、陸路シリア州やキリキア州を回って、先の福音告知の活動で成立した諸集会(原語では《エクレーシア》の複数形)を強めます。この出発が使徒言行録の一六章から始まるパウロの「第二次伝道旅行」の出発となりますので、その行き先が「シリア州やキリキア州」となっていることも含め、詳しいことは「第二次伝道旅行」を扱う次章で触れることにして、ここではパウロが同伴者としてシラスを選んだことだけに触れておきます。
 「シラス(Silas)」はヘブライ名ですが、パウロはその書簡ではいつも「シルワノ(Silvanus)」というラテン名で呼んでいます。ルカが用いている「シラス」は、そのラテン名のギリシア語短縮形である可能性もあります。使徒言行録の「シラス」とパウロ書簡の「シルワノ」が同一人であることには問題はありません。

 シラスは最初期のエルサレム共同体において、ペトロたちと共に指導的な立場で働く「預言者」の一人でした(一五・二二、三二)。それでシラスも他の使徒たちと同様アラム語系ユダヤ人であると推定されますが、その指導者たちの中でもギリシア語をよくする人物でした。もっとも、シラスもバルナバのように出自はディアスポラ・ユダヤ人の家族であって(=ギリシア語系ユダヤ人であって)、エルサレムに在住してアラム語もよくするようになり、初めから使徒たちの仲間として認められていたという可能性も否定できません。いずれにせよ、シラスはエルサレム共同体でギリシア語をよくする指導者の一人であったわけです。

 それで、同じような立場の「バルサバと呼ばれるユダ」と一緒に、エルサレムの「使徒と長老たち」の決定を伝える書簡を「アンティオキアとシリア州やキリキア州に住む異邦人の兄弟たち」に送り届けて、それを口頭で(=ギリシア語で)説明する任務に選ばれたわけです。
 パウロはこの任務のためにアンティオキアに来ていたシラスを、これから出発する「シリア州やキリキア州」の諸集会を訪れる伝道旅行の同伴者・同労者として選びます。ルカの記述ではそうなりますが、「使徒教令」がアンティオキアでの衝突事件の後であるならば、当初エルサレムからしばしばアンティオキアに下ってきていた「預言者たち」の一人であったことになります(前号53頁「エルサレムとのつながり」の項を参照)。おそらくシラスは、パウロが共同の食卓の問題でペトロ・バルナバと対立したとき、パウロの側に立った数少ないユダヤ人の一人であったのでしょう。
 この後、シラスはコリントに至るパウロの「第二次伝道旅行」の同労者として、使徒言行録に名が出て来ます(一八・五まで)。また、その時期に書かれたパウロの手紙にも、共同の発信人として名を連ねることになります(テサロニケT一・一)。

 

 X 最初期福音活動の諸潮流

二つの主要潮流

 先にエルサレム会議の結論のところで見ましたように、エルサレム共同体の代表者とアンティオキア共同体の代表者は、福音活動の領域を「割礼の福音」と「無割礼の福音」に分けて、エルサレム共同体が「割礼の福音」を、アンティオキア共同体が「無割礼の福音」を担うことを確認しました。

 この二つの領域は、必ずしも伝道対象の区別ではなく、福音活動と信仰の場の違いを指しています。すなわち、「割礼の福音」とは割礼の場での福音、換言すればユダヤ教の枠内でのキリスト信仰を指し、「無割礼の福音」とは割礼を必要としない福音、ユダヤ教の外でのキリスト信仰を指しています。実際には、「割礼の福音」は割礼を受けている者たち(ユダヤ人)への福音告知の活動であり、「無割礼の福音」は割礼を受けていない者(異邦人)への福音告知の活動となりますが、両者はしばしば重なって、厳密な区別ではなくなります。この二つの区分は、むしろ福音が告知される場の違い、信仰の質の違いとして、大きな課題となり、両者の関わり方、とくに両者の軋轢がこの時期の福音活動を大きく特色づけることになります。

 この「割礼の福音」と「無割礼の福音」の区分が、この時期(七〇年までの最初期前期)の福音活動の二つの大きな潮流を形作ります。一つはエルサレム共同体を中心的な担い手とするユダヤ教の枠内での福音活動の流れであり、もう一つはアンティオキア共同体を主な担い手とする異邦人に対するユダヤ教の枠の外での福音活動の流れです。この二つの潮流は、重なり合ったり反発し合ったりしながら、この時期の福音活動の様相を複雑にしています。この二つの潮流の関わりがもっとも端的に現れた出来事がエルサレム会議です。先に見たように、エルサレム会議はこの時期のほぼ中間に位置し、この時期の福音活動の特色と二つの潮流の葛藤を象徴的に示す出来事でした。本章でこのエルサレム会議を主題として取り上げた機会に、本章のまとめとして、この時期の福音活動の諸潮流を概観しておきましょう。

 もっとも、この両方の潮流も一色ではなく、その中に様々に違った傾向とか独自色をもつものがあり、最初期の福音の史的展開を多様で複雑なものにしています。ここでは、それぞれの潮流を代表する人物に焦点をあてて整理してみます。

ユダヤ教内の福音活動の諸潮流

 キリストの福音は、初めはユダヤ教の中で告知され、進展して行きました。それはユダヤ教の内部での出来事でした。イエスも弟子たちもみなアラム語系ユダヤ人です。ガリラヤでイエスの「神の国」の福音を聴いた人たちも、エルサレムで弟子たちから復活者イエスをメシアとする告知を聴いた人たちもみなユダヤ人であり、ユダヤ教律法の中で生活することを当然としていた人たちでした。彼らはユダヤ教の中でイエスを約束されたメシアと信じる信仰を言い表したのでした。彼らはイエスをメシアと信じるユダヤ教徒、いわば「ユダヤ教イエス派」でした。

 このようなユダヤ教の中で、最初に復活者イエスをメシアと告知する福音を代表したのは、十二使徒団の筆頭者ペトロでした。ペトロは、この福音によって成立した最初期のエルサレム共同体を代表し、指導する人物でした。ところが、これも本章第一節の「エルサレム共同体と主の兄弟ヤコブ」で見たように、エルサレム共同体はユダヤ人の共同体の常として長老会議によって統率されますが、その長老たちの筆頭者として「主の兄弟ヤコブ」が影響力を強めてきます。とくに四三年のヘロデ王による弾圧でペトロをはじめとする使徒たちがエルサレムを去ってからは、ヤコブがエルサレム共同体を代表し、統率することになります。そして、六二年に殉教するまでの二〇年間、このエルサレム会議をほぼ中心とする前後二〇年間は、ヤコブがエルサレム共同体を取り仕切る立場にいます。

 ヤコブは周囲のユダヤ教徒から「義人」と呼ばれるほど、ユダヤ教律法の順守において厳格で模範的であったとされています。そのヤコブが、イエスをメシアと信じるユダヤ教徒の共同体を代表したのですから、ヤコブこそ「ユダヤ教内のキリスト信仰」を代表する人物であるとしてよいでしょう。
 しかし、だからといって短絡的に、ヤコブをエルサレム会議で異邦人に割礼を求めたユダヤ教徒(ユダヤ主義者)と同じ立場の人物だとしてはなりません。彼らはヤコブの指示もないのに、異邦人に割礼を求める活動をしたのです(一五・二四)。ヤコブはパウロの立場を認めて、ユダヤ主義者との間を調停しています。ヤコブが代表する「ユダヤ教内の福音活動」の潮流の中で、その中での保守派というか右派というか、異邦人に割礼を求めるユダヤ主義者の流れがあったのですが、その流れを代表する個人名をあげることはできませんので、「ユダヤ主義者」と呼んでいきます。

 エルサレム会議で、「ユダヤ教の外での福音活動」を代表するパウロに理解を示したのは、エルサレム共同体の主要メンバーであるペトロでした。ペトロは基本的には(その出自からすると)「ユダヤ教内の福音活動」を担う代表的人物の一人ですが、パウロとの深い接触と理解から、またコルネリウスの回心の時の体験などから、だんだんと「ユダヤ教の外での福音活動」に近づき、ついには自ら異邦世界に福音を告知する活動に携わり、ローマにまで至ります。ペトロは、「ユダヤ教内の福音活動」の潮流の左派、自由派を代表する人物となります。

 十二使徒は皆アラム語系ユダヤ人で、エルサレム共同体の指導層を形成する人たちであり、ヤコブが代表する「ユダヤ教内の福音活動」の潮流に属します。その働きの詳細は伝えられていませんが、おそらく彼らは同じアラム語圏のパレスチナやシリアに出ていって(とくに四三年のヘロデ王の弾圧以後には)福音活動を進めたものと考えられます。この流れの中から「語録資料Q」や「マタイ福音書」が生み出されることになります。

 ペトロ以外の十二使徒の働きはほとんど伝えられていませんが、その中でトマスについては多くの伝承が保存され、彼の働きとそのキリスト信仰の傾向を垣間見ることができます。『トマス福音書』や『トマス行伝』に代表される「トマス文書」は、東シリアのエデッサで成立したと見られ、トマスは東に福音活動を進めインドにまで達したと伝えられています。トマス福音書はグノーシス主義的傾向が見られ、「ユダヤ教内のキリスト信仰」がグノーシス化した形を示しています。

 このようにヤコブが代表する「ユダヤ教内の福音活動」あるいは「ユダヤ教内のキリスト信仰」にも様々な傾向の流れがあり、その流れがエルサレムからパレスチナ・シリヤに進展していったことがうかがわれます。

 

ユダヤ教の外での福音活動の諸潮流

 先に「第二章・ユダヤ教の外に向かう福音」で見ましたように、復活されたイエス・キリストにおける神の救いの恵みを告知する福音活動は、ごく初期からおもにギリシア語系ユダヤ人によって担われて、ユダヤ教徒以外の人々にも広がって行きます。その突破口となったのはステファノでした。ユダヤ教の固い殻を打ち破って命の御霊の流れを、ユダヤ教の外に注ぎ出すようになったのは、ステファノが命を捧げて開いた突破口を通してでした。
 ステファノの事件でエルサレムから追われたギリシア語系ユダヤ人たちはアンティオキアまで行って、そこでギリシア語の民(異邦人)に語りかけ、そこに多くの異邦人信者を含むキリストの集会が形成されます。その集会を代表したのが、エルサレムから来たバルナバでした。したがって、「無割礼の福音」を担うアンティオキア共同体の代表として、ユダヤ教の外での福音活動を代表する人物としてはまずバルナバをあげるべきでしょうが、以後の進展からすると、このユダヤ教の外での福音活動の流れ全体を代表する人物としては、やはりパウロをあげざるをえません。

 パウロはこの最初期前期(70年までの時期)において、もっとも広範囲に異邦人社会に働きを拡げ、もっとも多くの異邦人集会を形成したという実際的・量的な面からだけでなく、「無割礼の福音」、すなわちユダヤ教の外で神の民でありうるという福音の重要な側面を、もっとも明確に自覚して提示したという神学的・質的な面からも、ユダヤ教の外での福音活動を代表する人物としなければなりません。こうして、この時期の二つの主要な潮流を代表するのは、ユダヤ教内のキリスト信仰を代表するヤコブと、ユダヤ教の外での福音活動を代表するパウロの二人ということになります。

 パウロが代表するユダヤ教の外での福音活動の流れにおいて、バルナバはややエルサレム寄りの姿勢を見せています。アンティオキアにおける共同の食卓をめぐる事件に示されたように、バルナバは異邦人もユダヤ人との交わりを維持するために最小限のモーセ律法を順守すべきであるというヤコブからの要求を受け入れています。こうして、バルナバが代表するアンティオキア共同体は、その後の時期の異邦人世界への福音告知を担う主役の座を、パウロと彼の一行に譲ることになります。ルカは、エルサレム会議の後ではアンティオキア集会に触れることはほとんどありません。彼の筆はもっぱらパウロとその一行の働きに集中します。

 こうして、パウロが代表するユダヤ教の外での福音活動の流れにおいて、バルナバはややエルサレム寄りの右派を代表することになります。マルコもこの流れに属することになります。この流れは、本来ユダヤ教内の福音活動の担い手でありながら、パウロの理解者として異邦人世界にも働きを拡げたペトロの立場と重なってきます。アンティオキアの食卓事件で、ペトロとバルナバが共にヤコブの要求に従ったことは、この重なりを示す象徴的な出来事でした。

 パウロが代表するユダヤ教の外でのキリスト信仰の中で、その左派とでもいうか、パウロ以上に徹底的にユダヤ教を排除しようとした流れもありました。パウロはユダヤ教の外でキリスト信仰を確立しようとする努力の中で、キリスト信仰をユダヤ教の枠内に引き戻そうとする「ユダヤ主義者」と戦うと同時に、聖書の遺産を一切放棄して、ただギリシア的な思想の中で信仰を追求する左派の自由派とも戦わなければなりませんでした。この流れも、新約聖書の中ではその代表者の個人名をあげることはできません。後に二世紀になって、極端なパウロ主義者のマルキオンが旧約聖書を否定して、ギリシア化したグノーシス的な新しい宗教を主唱しますが、これはこの流れの極端で鬼子的な表現と見られます。

 このように、最初期前期にはヤコブに代表されるユダヤ教内の福音活動とパウロに代表されるユダヤ教の外での福音活動という二つの主要な潮流が、その中に左右の異なる傾向の諸潮流を含みながら、それぞれが互いに競合したり対抗したりして、地中海世界にキリストの福音を告げ知らせて行き、ヘレニズム世界に新しい信仰共同体を形成していきます。そのさい、それぞれの潮流を代表する指導者はみなユダヤ人であることを忘れてはなりません。それで、各潮流は代表するユダヤ人指導者のユダヤ教に対する姿勢で色分けされることになります。この状況は七〇年のエルサレム陥落を境目として大きく変わりますが、ここではそれ以前の諸潮流を概観しました。


     前節に戻る        次節に進む  

  「福音の史的展開」目次に戻る   総目次に戻る