福音の史的展開 13

 
    第五章 福音告知におけるイエス伝承

   


 第二節    イエス伝承による福音の告知 ― マルコ福音書 

                       ( 本節で書名のない引用箇所はマルコ福音書の章節です。)

はじめに

 前節「パレスチナ・シリアのユダヤ教内キリスト信仰の消長」で、パレスチナ・シリア方面の最初期後期(ユダヤ戦争から二世紀初頭までのほぼ四〇年)の状況の変化と、その変化した状況での福音の進展を見てきました。この時期のこの地域は、その後のキリストの福音とキリスト教の歴史にとって決定的な影響をもたらすことになるマルコ福音書とマタイ福音書が成立した時期であり、福音の展開史においてきわめて重要な意義を担っています。


  T マルコ福音書成立の意義

標題

 前章(第五章)「使徒後時代における福音の進展」の第一節「パレスチナ・シリアのユダヤ教内キリスト信仰の消長」(二〇一〇年2号)で、「イエス伝承の集成」の概略をたどった後(項目W)、集成されたイエス伝承を用いて、キリストの福音を告知するための文書として「マルコ福音書」が成立した過程を見ました(項目X)。本章でマルコ福音書が告知するキリストの福音の内容を追求するにあたって、その理解を助けるために、マルコ福音書の成立の事情を要約し、その成立の意義を改めて見ておきたいと思います。

 マルコ福音書を一読してまず分かることは、この文書はイエスのガリラヤでの働きとエルサレムでの受難の事実を語り伝えている文書であるということです。しかし、この文書がただイエスの活動の事実を伝記的に記録して伝えるために書かれた文書ではないことは、標題に相当する文書冒頭の語句からも明らかです。この文書は次のような句で始まります。

 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。(一・一)

 著者は、この文書を「神の子イエス・キリストの福音」を告知する文書として書いています。著者は、これまで身をもって「キリストの福音」を異邦人世界に告知する活動を続けてきた人物であると推察されます。彼はギリシア語を用いる異邦人に「福音」を告知しようとして、ギリシア語でこの福音書を書いています。彼はごく自然にこの文書を「福音」《エウアンゲリオン》という、彼の使命にとって最も中心的な用語で書き始め、「これが福音だ」という宣言とし、標題とします。古代教会の伝承が伝えるように、著者がヨハネ・マルコであるとすると、彼は使徒パウロの同労者としてギリシア語世界で福音のために働いた人物ですから、このような書き出しはふさわしいと言えます。

 著者は、これからイエスの働きを伝えようとしていますが、それを「イエス・キリストの福音」と呼んでいます。すなわち、「キリストとしてのイエス」の働きを伝えることで、「キリストの福音」を告知しようとしているのです。復活してキリストとして立てられたイエスの働きを語り伝えることで、神が「キリストとしてのイエス」において成し遂げてくださった救いを提示しようとしているのです。

 ところが、著者が語りかけようとしている異邦人世界では、この頃すでに「イエス・キリスト」が一人の個人名のように用いられるようになっていたので、その「イエス・キリスト」が神から遣わされた救済者であることを指し示すために、「神の子」という称号を添えます。個人名となった「イエス・キリスト」が神から遣わされた終末的な救済者であることを指し示すのに、異邦人には理解しやすい「主」《ホ・キュリオス》という称号がよく用いられましたが、「神の子」という称号も同様によく用いられるようになっていました。著者はこの福音書の最後で、十字架の前の異邦人百人隊長に、「本当にこの人は神の子であった」と告白させ、この福音書の結論としています。標題の「イエス・キリスト」の後に「神の子」という句を欠く写本もありますが(底本も括弧に入れています)、それが後の挿入だとしても、本書の内容にふさわしい、必然的な挿入だとしなければなりません。

 ただ、著者は本書を「福音」としないで「福音のはじめ」と呼んでいます。ここで用いられている「はじめ」《アルケー》というギリシア語は、「はじめ、はじまり、最初、原初、本源、根源」という広い範囲の意味を含んでおり、われわれはこの語を「はじまり」という意味だけでなく、「根源」という意味に理解しなければなりません。著者はこれから本書で提示するイエスの働き、十字架の死に至る生涯の出来事を、告知している「キリストの福音」の根源としているのです。
 旧約聖書は、その冒頭で「はじめに神は天と地を創造された」と宣言して、神の創造の働きを全存在と全歴史の根源としています。それを承けて、新約聖書はイエスの出来事を神の終末的救済の働きの根源として提示していることになります。この「はじめ、根源」《アルケー》は、ヨハネ福音書に至って「はじめに《ロゴス》があった」と表現されることになります。

 地上のイエスの働きと出来事を「キリストの福音」の《アルケー》(根源)とするこの標題は、この福音書の成立の意義を考えるさいの重要なきっかけとなります。その意義を考えるために、これまでの福音の展開の歴史を振り返ってみましょう。

 

イエス伝承と《ケーリュグマ》伝承

 イエスの地上の働きと出来事は、それを目撃し体験した弟子たちによって語り伝えられました。しかし、その語りは、第三者として見た事実を冷静に証言するという性質のものではなく、イエスの働きと教えから受けた強烈な衝撃と、その衝撃によって根底から揺さぶられた内面から語り出される主体的な熱い言葉です。それは信仰の言葉です。イエスを信じる心から発する信仰の言葉です。

 弟子たちがこのようなイエスの働きと教えを語り伝える信仰の言葉を語り始めたのは、イエスの復活後、周囲のユダヤ人に復活されたイエスをメシア・キリストと宣べ伝え、それを信じるユダヤ人の集団がエルサレムに形成されるようになってからであると考えられます。それ以前には、イエスのことを語り伝える必要はありませんでした。しかし、エルサレムに最初の共同体が形成されたとき、ガリラヤで弟子としてイエスに従った者たちは、イエスをキリストと信じているが、イエスを知らない信者たち、すなわちイエスがなさったこと、またイエスが教えられたことを何も知らない信者たちに、イエスのことを語り伝えなければならない必要に迫られます。

 イエスをメシア・キリストと信じたユダヤ人共同体に、弟子たちが目撃し体験したイエスの働きと教えを語り伝える活動は、エルサレムにとどまらず、ユダヤ、サマリア、ガリラヤ、そしてシリアにいたまで、ユダヤ教徒が住んでいる地域に広がっていきます。弟子たちはみなガリラヤ出身のアラム語系ユダヤ人でしたから、「十二人」に代表されるイエスの弟子であった者たち、また彼らの証言でイエスを信じるようになったユダヤ人たちは、アラム語が通じるパレスチナ・ユダヤ人の間で活動を進めていったと考えられます。

 しかし、パレスチナやシリアのユダヤ人はアラム語を母語とするアラム語系ユダヤ人だけではありません。ギリシア語を母語とするギリシア語系ユダヤ人もいます。とくにエルサレムはアラム語とギリシア語の両方が通じる国際都市であり、ギリシア語系ユダヤ人も多く住んでいました。彼らの多くは、ギリシア語を母語とするディアスポラ・ユダヤ人の出身であり、パレスチナに住むことでアラム語も使うようになっていたバイリンガル(二言語)のユダヤ人でした。イエスを信じるユダヤ人の間でギリシア語系ユダヤ人が増えるに従い、イエスの働きと教えを伝える伝承(イエス伝承)もギリシア語で伝えられるようになります。それはすでにエルサレムで福音活動が始まった直後の早い時期に始まり、ダマスコやアンティオキアやアレクサンドリアなど、パレスチナと近辺の大都市に及んでいったと考えられます。このパレスチナ・ユダヤ人の間でのイエス伝承の形成と集成の過程は、先に見たとおりですが、その過程で受難伝承やイエスの語録を集めた「語録資料Q」などがギリシア語で書かれて成立することになります。

 ところで、イエスをメシア・キリストと告知する福音活動は、イエスの働きや教えを伝えることで行われたのではなく、イエスの十字架と復活の事実を証言し、その出来事の意義とイエスを信じる者に与えられる神の恵みを告知することとして行われました。そのことは使徒言行録が伝えるペトロの説教などにも見られますが、何より確実な資料はパウロの証言です。パウロは自分が宣べ伝えた福音の内容をコリントの共同体の人たちに思い起こさせていますが、そこで「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」と前置きして、その内容を次のように述べています。

 すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。(コリントT一五・三〜五)

 その上で復活されたイエスの顕現を体験した多くの証人をあげて、最後に「とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした」と結んでいます(同章一一節)。この言葉は、最初期の証人たちの福音告知の内容に一定の一致があったことを証言しています。

 パウロはこの告知の内容を「わたしも受けたものです」と言っています。パウロはこの告知内容をどこから「受けた」のでしょうか。その経緯については議論がありますが、最初の源までさかのぼれば、それはパウロの回心以前に復活者キリストの出来事を告知していたエルサレム共同体からであることは確かです。エルサレム共同体が形成した告知内容は最初期の証人たちに受け継がれ、各地に告げ知らされ、広がっていきます。

 この告知内容は《ケーリュグマ》(告知された内容を指すギリシア語)と呼ばれますが、パウロが証言するように、一定の形を取って「受けて伝える」伝承となります。この《ケーリュグマ》伝承は、地上のイエスの働きと教えを語り伝える「イエス伝承」とは別系統の伝承を形成します。パウロは《ケーリュグマ》伝承を「受けた」と言って、それを「最も大切なこと」として地中海世界の異邦人に告げ知らせます。そのさい、パウロはイエス伝承をほとんど用いていません。パウロが代表するギリシア語系ユダヤ人の異邦人世界への福音告知においては、イエス伝承はほとんど用いられていません。

 もちろん彼らの福音告知は、ここに引用したケリュグマ定式だけを語ったのではなく、イエスの十字架の死と復活が「聖書に書いてあるとおり」、すなわち神が終わりの日に成し遂げると約束しておられたことの成就として起こったこと、その十字架の死は神に背く者たちの罪を贖う死であること、復活されたイエスは栄光の座にあげられ、やがて世界を裁くために来臨すること、そのときイエスに属する者たちは復活にあずかること、イエスを信じる者には終末時の賜物として約束されている聖霊が与えられることなど、十字架と復活の出来事の意義と約束の告知を伴っていました。パウロはこのような告知内容を指して、「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、その言葉をしっかり保持していれば、あなたがたはこの福音によって救われます」と言っています(コリントT一五・二私訳)。

 パウロが告知した福音の内容は、パウロ書簡に証言されていますが、なかでも最後に書かれたローマ書は、パウロの福音がもっとも包括的かつ体系的に書かれています。福音を告知するために書かれた文書を「福音書」と呼ぶならば、ローマ書は最初に書かれた福音書です。もともと《エウアンゲリオン》というギリシア語は王などの布告を大声で町の人たちに告げ知らせた活動を指すのですが、その内容をも指すようになった語です。最初期の福音活動は口頭でイエス・キリストの出来事を告知する活動でしたが、パウロのローマ書を皮切りに、その告知内容を文書で書きとどめることが行われるようになります。その文書をも最初期の人々は《エウアンゲリオン》と呼びました。その文書に(他と区別するために)「マルコによる《エウアンゲリオン》」とか「マタイによる《エウアンゲリオン》」という句が添えられるようになって、それが後に標題として用いられるようになります。こうして《エウアンゲリオン》という語が文書をも指すようになります。

 

イエス伝承を用いた福音告知

 このエルサレム共同体から発するケリュグマ伝承は、パウロが代表するギリシア語系ユダヤ人の福音活動で継承されただけはありません。パレスチナ・シリア方面に拡大したアラム語系ユダヤ人の福音活動においても継承されたはずです。ただ、この方面で福音を告知する活動をした人たちは、おもに「十二人」を代表とするアラム語系のパレスチナ・ユダヤ人ですから、彼らが体現するイエス伝承がその告知活動に大きな位置を占めるのは必然です。その一例として、使徒言行録一〇章に伝えられているカイサリアにおけるペトロの福音告知を見ましょう。

 ペトロは最初に、自分とコルネリウスに与えられた幻や啓示によって、神が異邦人を差別せずに救いに招いておられることが分かったと前置きして(三四〜三五節)、福音を語り始めます。その最初の部分(三六〜三八節)は、洗礼者ヨハネの活動から始まるイエスの地上の働きを要約しています。そして、その後に(三九〜四一節)イエスの十字架の死、三日目の復活、使徒たちへの顕現、すべての者の審判者としての到来、イエスを信じる者への罪の赦しの約束という最初期のキリスト告知(いわゆる「ケリュグマ」)が語られます。

 キリスト告知の語りかけにおいてイエスの地上の働きを語り伝えることが比較的重視されているという特色は、この時期のアラム語系ユダヤ人の福音活動の性質を指し示しています。使徒たちを代表者とするパレスチナのアラム語系ユダヤ人こそ、イエスの地上の働きや言葉を語り伝える伝承(イエス伝承)の担い手なのですから、これは当然の特色です。実は、このような福音告知の形が、後に福音書を生み出すことになります。

 イエスをメシア・キリストと宣べ伝えるキリスト告知、すなわちイエス・キリストの十字架と復活を救いの出来事とする告知(ケリュグマ、福音)の枠の中に、イエスの地上の働きを含ませ、そのイエスの地上の働きの中にもメシア・キリストとしての姿を見て、それを語り伝えるという活動、それが後に福音書を生み出すことになるのですが、そこでは地上のイエスの姿を語ることによって復活者キリストを告知するという二重性が自然のことになります。このコルネリウスの家でのペトロのキリスト告知は、マルコ福音書の原型と見られます(C・H・ドッド)。

 きわめて大づかみにまとめると、パウロに代表されるギリシア語系ユダヤ人による異邦人世界への福音告知においては、イエス伝承を用いることなく、ケリュグマ伝承に基づき、それをヘレニズム世界の思想の枠組みの中で語っていったのに対し、ペトロに代表されるアラム語系ユダヤ人のパレスチナ・シリアでの福音告知においては、イエス伝承を多く用い、それに重ねて復活者キリストの福音を告知していったと言えます。前者の福音告知を代表する文書がローマ書であり、後者の福音告知を代表する最初の文書がマルコ福音書ということになります。


 
イエス伝承とケリュグマ伝承の統合としてのマルコ福音書

 こうして、イエス伝承とケリュグマ伝承の両方が豊かに継承されているパレスチナ・シリア地域で、両者を統合した最初の福音告知の文書が成立します。それがマルコ福音書です。その地域のギリシア語の民、すなわち異邦人に福音を告知するためにギリシア語で書かれていますが、それはイエス伝承が継承されているパレスチナ・シリア地域で成立したと考えられます。このような明確な構想をもって一貫した物語を書いたのは個人であると考えられますが、その名前を特定することは困難です。古代教会の伝承は、ペトロの通訳として活動したマルコであるとしていますが、マルコはパウロの同労者として福音活動をした人物でもあり、ペトロが伝えるイエス伝承とパウロが代表するケリュグマ伝承による福音告知の統合として、この伝承はマルコ福音書の性格を指し示す象徴的な意義を示しています。本稿では、著者を伝統的な書名に従って「マルコ」と呼んで講解を進めます。

 その成立の時期は、ほぼユダヤ戦争の時期ではないかと推察されます。マタイ(二二・七)とルカ(一九・四三)はエルサレムの陥落を過去の歴史的出来事として扱っていますが、マルコにはそのような性格の記事はなく、むしろ一三章の記事はユダヤ戦争が近くに差し迫っていることを示唆しています。この「マルコの小黙示録」は後にマタイもルカも継承していますが、これはユダヤ戦争の状況を示唆しており、この「小黙示録」はユダヤ戦争が差し迫っている時期、あるいはその渦中で書かれたものと推察されます(とくに一三・七、一四〜二三)。また、マルコ福音書にはユダヤ戦争以後の状況を示唆する記事はなく、この福音書がユダヤ戦争の時期に書かれたとするのが、現在の研究者の大勢です。

 現在の福音書研究では、マルコ福音書が最初に成立し、マルコ福音書を基にして(その物語の枠組みを用いて)マタイ福音書とルカ福音書がその後に成立したと見るのが、ほぼ確立した見解となっています。そうすると、マルコはイエス伝承とケリュグマ伝承を最初に統合して、イエス伝承を用いてキリストの福音を世界に告知する文書を最初に書いた人物として、福音の展開の歴史においてきわめて重大な、時代を画する仕事を成し遂げた人物ということになります。

 


  U 復活者キリストとしてのイエス

 

復活されたイエスの顕現の舞台としてのガリラヤ

 それでは、マルコはキリストの福音を提示するためにイエス伝承をどのように用いているのでしょうか。マルコがイエス伝承とケリュグマ伝承を統合する仕方を見てみたいと思います。マルコ福音書をさっと見ますと、洗礼者ヨハネの活動から始まり、その中から現れてガリラヤで活動されたイエスの働きを語り伝え、最後にエルサレムでの十字架の死と遺体を葬った墓の記事で終わっています。その後にある復活されたイエスが弟子たちに現れた記事(一六・九以下)は、現行訳がすべて括弧に入れているように、後に加えられた付加部分です。本来のマルコ福音書は墓の記事で終わっています。すべての人生は墓で終わりますから、マルコ福音書は一見、ナザレのイエスという一人のユダヤ人の事蹟(公の働きや教え)を伝えている伝記のような印象を与えます。

 福音とは復活者イエス・キリストを告知する活動ですから、墓で終わるイエスの地上の生涯を伝えるだけでは「福音書」にはなりません。墓で終わる本文を「福音書」としては不十分と感じた人たちが、復活されたイエスの顕現伝承を付け加えることになります。しかし、本来のマルコ福音書は墓の記事で終わっているのですから、それがどのような意味で「福音書」になるのかを見ましょう。

 復活されたイエスの記事がない本来のマルコ福音書が、どのような意味で復活者イエス・キリストを告知する福音書となるのでしょうか。この問いに対する答えは、死の直前、イエスが弟子たちに語られた「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」という預言(一四・二八)と、墓で女性たちに現れた天使の「あの方は、あなたがよりも先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」(一六・七)という指示の言葉にあります。すなわち、弟子たちはイエスの死後ガリラヤに行くように指示され、そこで復活されたイエスにお会いするという構成になっています。マルコは、復活されたイエスの顕現の舞台としてガリラヤを指し示しています。

 空になった墓で天使は女性たちに言っています。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」(一六・六〜七)。この言葉で天使は、ガリラヤこそ復活されたイエスが働かれる舞台であり、そこでペトロに代表される弟子たちは復活されたイエスの働きと栄光を拝することになるという予告です。

 「ガリラヤでお目にかかれる」という預言は、復活されたイエスと会うことではなく、イエス・キリストの来臨《パルーシア》のことを指しているとする学説もありますが、ここで「先に行く」(先に行って待っている、先頭に立って導いて行く)という語が用いられていることから、これは終末時に突如として天から現れる「人の子」を待つ来臨《パルーシア》を指すとすることは無理です。


湖畔と湖上での顕現

 墓における天使の指示に従ってガリラヤに戻った弟子たちは、どういう形で復活されたイエスに出会ったのでしょうか。
 ガリラヤで弟子たちが最初にイエスと出会う記事は、一章(一六〜二〇節)にある「四人の漁師を弟子にする」の記事です。この記事は、地上のイエスがガリラヤで「神の国」を宣べ伝え始めたときの記事としては、奇異な印象を与えます。イエスはまだ何もしておられません。四人の漁師たちはまだイエスの教えも聞いていないし、力ある業も何も見ていません。ところが、イエスが彼らに「わたしについて来なさい」と言われると、彼らは網を捨て(家業を捨て)家族を残してイエスの後について行きます。一人のラビ(律法の教師)が弟子を取る行為としては、あまりにも不自然です。しかし、この記事を、イエスの逮捕と処刑にさいし恐れてガリラヤに逃げ帰り、漁師の仕事に戻っていた弟子たちが、復活されたイエスの顕現に接し、福音活動に召されるという出来事の記事として読むと、ごく自然に理解できます。

 では、イエスが地上での働きをお始めになったとき、ガリラヤの漁師たちはどのような形でイエスと出会い、イエスの弟子となり、イエスにつき従っていったのでしょうか。わたしは、ヨハネ福音書の一章(三五〜五一節)が伝えている形が実相に近いのではないかと考えています。すなわち、ペトロたちは洗礼者ヨハネの運動に参加しているときに、ヨハネのもとにおられたイエスと出会い、イエスの霊的権威に打たれ、弟子としてイエスの活動に参加するようになったのではないかと考えられます。

 ガリラヤで復活されたイエスが弟子たちに現れたという伝承が地上のイエスの働きの時期の出来事として用いられることがあることは、ヨハネ福音書二一章(一〜一四節)のガリラヤ湖畔での顕現とほぼ同じ内容の記事がルカ福音書五章(一〜一一節)で用いられていることからも十分推察できます。マルコ福音書は初めに復活されたイエスが弟子たちに現れた記事を置いて、以下のイエスのガリラヤでの働きがこのような方の働きであることを指し示します。
 もう一つ、復活されたイエスがガリラヤで弟子たちに顕現されたことを伝える典型的な記事があります。それは、ガリラヤ湖で弟子たちが逆風で漕ぎ悩んでいたとき、水の上を歩いて来られたイエスにお会いした出来事を伝える記事です(六・四五〜五二)。これをイエスが地上で働かれていた時期の出来事とすると、生身の人間が水の上を歩くことはできないのですから、この記事は作り話であるとか、弟子たちの錯覚であるとか合理的な説明をしなくてはならなくなり、福音書批判の材料にされることになります。しかし、これは復活されたイエスの顕現に接した弟子たちの体験が地上のイエスの働きの時期にもってこられたものとすると十分に理解できますし、顕現体験の貴重な報告となります。

 この出来事は、自分たちに現れた人物が初めは誰であるか分からなかったのが、その方からの語りかけでイエスだとわかるという顕現物語の特色がよく出ています。最初期の共同体でこれが復活されたイエスの顕現の出来事として理解されていたことは、マタイ(一四・三三)がこの時の弟子たちの行動を「本当にあなたは神の子です」と言ってイエスを「拝んだ」と、復活されたイエスに「ひれ伏した」(二八・一七)ときと(原語では)同じ動詞で記述していることからも確認できます。

 マルコ福音書の記事には、山上での変容(九・二〜一三)とか、荒野で民衆に食物を与えた出来事(六・三〇〜四四、八・一〜一三)など、復活されたイエスの働きと重なって語られていることを推察させる記事が他にもありますが、これらの記事は複雑な問題を含んでいますので、ここでは典型的なガリラヤでの弟子たちの顕現体験と見られる二つにとどめます。

 

力ある業

 ガリラヤでのイエスの働きを伝えるマルコの記事の特色は、悪霊を追い出し、病気をいやされるイエスの力ある業(奇跡)の記事が圧倒的に多いことです。マルコはガリラヤでのイエスの働きを、カファルナウムでの悪霊追放と多くの病人のいやしの記事で始め(一・二一〜三五)、多くの力ある業を伝えた後、長血の女性のいやしと死んだヤイロの娘を生き返らせる記事で締めくくっています(五・二一〜四三)。その間にイエスが「神の国」が迫っていることを告知されたという事実は伝えられていますが、イエスが「神の国」について教えられた言葉は、四章の「たとえ集」が目立つだけで、他にはほとんどありません。これは、後に成立したマタイ福音書やルカ福音書がイエスの語録を集成して「山上の説教」とか「平地の説教」として伝えているのと対照的です。マタイとルカがイエスの働きを「諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」と、教えと力ある業の二本立てで要約しているのと較べて、マルコは力ある業に集中しているという印象を受けます。

 わたしたちは、マタイやルカが伝えているイエスの教えの言葉に直面しますと、「神の国」に招かれているように感じますが、マルコのガリラヤでのいの働きの記事に没入すると、すでにそのような出来事の渦中にいると感じます。それは、マルコがこのような悪霊の追放とか病人のいやしの出来事を過去の出来事としてではなく、今も現に復活されたイエスが行っておられることとして伝えようとしているからだと考えられます。

 たしかにマルコは過去のイエスの働きとか言葉を語り伝える共同体の伝承、すなわち「イエス伝承」を用いています。しかし、それは単に共同体に伝えられた伝承を記録するという仕事ではなく、身近なペトロや他の使徒たちが自分で見たイエスの働きとして、また同時に自分が行っている働きとして語るところを書きとどめているのです。ペトロたちはイエスと同じ働きをイエスの名によって行ってきました。ペトロは神殿で生まれながら足の立たない人を立たせ、多くの病人をいやし、悪霊を追い出し、死人を生き返らせることまでしました。それをすべて「イエスの名によって」したのです(使徒三・六)。すなわち、それらの力ある業はすべて復活されたイエスが行っておられることとして為したのです。従って、ペトロたちが地上のイエスの働きとして語り伝える内容には、復活されたイエスが現に自分たちを通して働いておられることを語る語りが重なっています。

 この重なりは、マルコ福音書ではまだ文面には出てきていませんが、ルカ福音書になるとイエスの働きを叙述する文に、「主《ホ・キュリオス》」(復活されたイエスを指す称号)がなされたという形で出てくるようになります(ルカ七・一三など)。マルコの段階ではまだ伝承の内容と語り手の自覚が分離していませんが、ルカの時代になると伝承を客観的に見るようになり、それが記述の仕方にも表れてくるようになるのでしょう。

 このような意味で、マルコ福音書のイエスの力ある働きを伝える記事は、復活して今も働いておられるイエスを語り伝える記事となり、福音書の二重性を背負う記事となります。

 

福音書の二重性

 たしかに、マルコ福音書で語られるイエスの働きについては、地上のイエスがなされたことを語り伝える伝承(イエス伝承)が用いられています。しかし、イエスと天使の指示でガリラヤに戻ってきて、ガリラヤで復活されたイエスに出会った者の立場でイエスの働きを語り伝えるとき、そこで働いておられるのは地上のイエスの姿に復活されたイエスの姿が重なってきます。この二重性が福音書という文書の特殊性となります。

 この二重性は、たしかに空の墓での天使の指示で明らかに示されていますが、それはマルコによって構想され、マルコの文学的構成によってはじめて成立したものではありません。それは、イエス伝承を用いてキリストの福音を告知しようとする福音書自身の本質から出ています。著者は、手元にある(=共同体に伝承されている)イエス伝承を用いてキリストの福音を告知する文書を書こうとしています。著者はもちろん所属する共同体の福音告知を担っている(あるいは代表している)人物です。彼は、自分自身が体験し告知しているキリストを、この文書で世に伝え、書き残そうとしています。そのさいイエス伝承を用いるのですが、イエス伝承には固有の内容があります。それを勝手に変更することはできません。しかし、著者はこのイエスがキリストであるという確信と立場で書くのですから、その記事には自ずから著者のキリスト理解と共同体の福音告知の状況が重なってきます。この重なりは、著者が素材のイエス伝承を用いるさいの用い方によく現れてきます。

 たとえば、「福音」という用語の使われ方を見てみましょう。イエスご自身は「福音」という語をお用いにならなかったと考えられます。それは、イエスの語録を比較的忠実に伝えていると見られる「語録資料Q」には「福音」という語はないことからも推察されます。ということは、素材のイエス伝承には「福音」という用語は用いられていないことを意味します。ところが、共観福音書には「福音」とか「福音する」という最初期共同体(とくにギリシア語系ユダヤ人)の活動で中心的な位置を占めていた「福音」という語がよく出てきます。マルコ福音書では八回出てきます。

 福音書における分布を調べてまず気がつくことは、この用語がいわゆる「編集句」に用いられていることです。すなわち、福音書の著者が伝承を用いて福音書を記述するとき、伝承資料のつなぎ目にイエスの行動を要約して描くために入れる文章に用いられていることに気づきます。たとえば、マルコ福音書では一・一四が典型的な例です。

 他にイエスご自身が「福音」という語を用いて語られたとされる箇所があります。マルコ福音書には、「わたしのために、また福音のために」という形で出てくるところがありますが(八・三五、一〇・二九)、これと並行するマタイとルカには「福音のために」という句はありません。この句はマルコによる付加であると考えられます。

 また、イエスが「時は満ちた。神の国は近づいている。悔い改めて福音を信じなさい」(一・一五)と告知されたとされているのも、イエスの告知の言葉をマルコが要約して表現したものと見られます。マルコはすでに何十年も最初期共同体の福音告知の活動に携わり、「福音を信じなさい」と叫び続けてきました。その表現をイエスの活動を要約する宣言の言葉に用いたのも理解できます。それだけでなく、イエスが語られた自分たちの時代の出来事を預言するようなお言葉を伝えるのに、自分たちがしている活動を表現する用語を用いたのも理解できます(一三・一〇、一四・九)。そして、自分の著作の標題的な位置に「イエス・キリストの福音」という表現を置きます(一・一)。

 著者が用いるイエス伝承も、イエスを復活者キリストと信じている共同体で伝承されたものですから、その伝承自体に最初期共同体のキリスト信仰が染み込んでいて、その原型を回復することは困難を極めます(様式史研究が伝承の原型と共同体での伝承過程での変容に注目して研究しています)。それで福音書の二重性はきわめて複雑な様相を見せており、ここではその議論に立ち入ることはできません。本章では著者が手元のイエス伝承を用いてキリストの福音を世に告知しようとするさいの仕方(いわゆる「編集史」の視点)に限定して、各福音書の特質を見ることにします。

 

「メシアの秘密」

 このような二重性がマルコ福音書において現れるさいの特徴的な問題に、「メシアの秘密」と呼ばれる問題があります。福音書はイエスをメシア・キリストとして世界に告知しようとしますが、イエスご自身はその地上での働きの期間中は自分をメシアと宣言されたことはありません。最後の最高法院での裁判で、《エゴー・エイミ》(わたしがそれである)と宣言されて、それが自分を神とする冒?とされ死刑判決となりますが、それまでの活動期間中はそのような宣言はしておられません。本来のイエス伝承にはイエスをメシアとする伝承はありません。そのイエス伝承を用いてイエスをメシア・キリストとして告知しようとするマルコは、地上のイエスの働きを伝える伝承と告知しようとするメシア・キリストとしてのイエスとの間に横たわる溝、あるいは裂け目を埋めなければなりません。そのためにマルコが用いた手法が、イエスご自身がメシアであることを秘密にしようとされたという「メシアの秘密」と呼ばれる動機だとされます。

 イエスをメシアであると期待したり信じたりする者にそれを口外しないようにお命じになったというマルコ福音書の記事は、イエスご自身の命令ではなく、福音書の二重性を乗り越えるためのマルコの工夫であり、イエスからではなくマルコから出るのもであることを最初に明確に主張したのは、W・ヴレーデの『マルコ福音書におけるメシアの秘密』という著作です。二〇世紀初頭(一九〇一年)に発表されたこの著作は、二〇世紀における福音書研究に決定的な影響を及ぼすことになります。

 それまでは、マルコ福音書は最初に書かれた福音書として、実際のイエスの出来事に最も近く、イエスの歴史を忠実に伝える資料として用いられ、「史的イエス」探求の最も重要な資料とされていました。しかし、ヴレーデ以後はそのような素朴な見方は成り立たなくなり、伝承の内容(その変容を含めて)と伝承の用い方に見られる著者の思想(神学)が精密に探求されるようになり、二〇世紀は様式史と編集史を含む伝承史が福音書研究の中心主題となります。

 イエスは、ご自身の身分を知る悪霊に(一・二五、三四、三・一一〜一二)、奇跡を体験した者に(一・四三〜四四、五・四三、七・三六)、またイエスがメシアであると信じるにいたった弟子たちに(八・三〇、九・九)、それを口外するなと厳しく命じておられます。ヴレーデは、マルコ福音書に見られるこれらの秘密にせよという命令すべてを、イエスがご自身のメシア性を秘密にしようとされたという「メシアの秘密」の動機で説明しましたが、その後の厳密な研究によってそれぞれ違った場面がそれぞれ違った動機で説明されるようになって、ヴレーデの説はそのままでは成り立たなくなりました。しかし、「メシアの秘密」はマルコの福音書著述の手法であるとの彼の認識は、福音書の性格とか本質の探求に新しい突破口を開き、その後の福音書研究の出発点となりました。わたしの「福音書の二重性」もその延長上にあります。

 当時のユダヤ人たちのメシア待望からすると、イエスはご自身が彼らの期待するメシアであると誤解され喧伝されることを恐れて、実際にそれを語ることを禁じられたことは十分可能性があります。しかし、イエスの個々の行動ではなく、福音書の構成全体に「メシアの秘密」の動機があることは否定できません。キリストであると告知されるイエスが、地上の働きの期間ではメシアとして現れていなかったという事実は、このような説明とか構成を必要とします。このことは、秘密にせよと命令がイエスの復活までの期限付きであることから分かります。イエスは変容の山から下りてくるとき、復活者キリストの栄光を垣間見た弟子たちにこのように命じておられます。

 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。(九・九)

 イエスが復活された後では、イエスがメシア・キリストであることが公然と告知されます。しかし、それまではイエスのメシア性は隠されていなければなりません。この箇所は、マルコ福音書の「メシアの秘密」の構造を明確に指し示しています。

 この「メシアの秘密」の動機に対応して、マルコ福音書には「弟子の無理解」という動機が貫かれています。イエスが選び身近に置かれた弟子たちは、いつもイエスと一緒にいてそのなされる力ある業を見、教えの言葉を聞きながら、いつまでもイエスを正しく理解せず、イエスの叱責や失望を買っていたという記事が、マルコ福音書には散在しています(四・一三、六・五二、八・一七〜二一、三二〜三三など)。これらの箇所と並行するマタイやルカと比較すると、マルコがとくに弟子の無理解を強調していることが分かります。エルサレムに入る直前のヤコブとヨハネの願いなどは無理解の最たるものです(一〇・三五〜三七)。こうしてイエスのメシア性は、地上の働きの期間では、イエスご自身の秘密にせよという命令と弟子たちの無理解によって、隠されたままになります。それで、マルコ福音書を「隠された顕現の書」と呼ぶ研究者もいます。

 こうしてガリラヤは、イエスが実際に「神の国」を告知する働きをされた場所であり、同時に復活者キリストが顕現する舞台ともなります。この二重構造がマルコ福音書の本質を形成します。この二重性は、マルコ福音書に限らず、福音書という文学類型の基本的な性格となります。

 


  V 十字架につけられた姿のキリスト

 

キリスト受難の地エルサレム

マルコ福音書はイエスの活動を次の三部構成で描いています。

   1 ガリラヤでの「神の国」告知(一〜五章)
   2 エルサレムへの旅(六〜一〇章)
   3 エルサレムでの受難(一一〜一六章)

 この構成に見られるように、マルコ福音書ではイエスのエルサレム入りは最後の過越祭の時の一回だけになります。ところが、ヨハネ福音書によりますと、イエスは祭りの度ごとにエルサレムに上り、過越祭だけでも三回エルサレムに上っておられます。当時のユダヤ教徒としては、年三回の巡礼祭にエルサレムに上るのは当然のことですから、ヨハネの記述が事実に即したものであり、マルコの構成はイエスの働きの歴史的記録というよりは、マルコの福音告知の意図によって構成されたものと見なければなりません。

 マルコの目的・意図は、イエスの働きの歴史的事実を記録することではなく、イエス伝承を用いてキリストの福音を告知することですから、その構成は自ずからケリュグマ伝承の内容によって決まってきます。ケリュグマの第一の内容は、イエスこそ復活によってメシア・キリストとして立てられた方であるという告知です。同時にそれと並んで、そのキリストであるイエスが十字架につけられて死なれたのは、「わたしたちの罪のため」であるという告知です。すなわち、わたしたち人間の神に背く罪を赦し、罪の支配から解放して、わたしたちを神の子とするための出来事、神が成し遂げてくださった贖罪の出来事であるという告知です。そして、そのキリストの十字架・復活の出来事は、終わりの日に成し遂げると神が約束されていたことの成就であるという告知です。

 先に見たように、マルコはガリラヤでのイエスの働きに重ねて、復活されたイエスを告知しました。次ぎに、その復活者キリストであるイエスが十字架につけられて死なれたことの意義、すなわちそこで起こった神の贖罪の働きについて語ろうとします。その出来事の舞台がエルサレムです。従って、イエスの地上の生涯に重ねてキリストの出来事による救いを告知するには、ガリラヤとエルサレムという二つの舞台が必要です。それは一回あれば十分で、繰り返される必要はありません。マルコ福音書で、ガリラヤでの働きの後に、一回だけのエルサレム入りが語られるという構成は、イエスの実際の行程ではなく、福音告知の構想(=ケリュグマの構造)から帰結する構成であると言えます。

 そして二つの場所をつなぐ「旅」も、その構想の中で意義を得ます。すなわち、ガリラヤからエルサレムへの旅は、エルサレムでの受難を予告し、それに備えるための旅となります。こうしてマルコ福音書は、三部の中の二部を用いてキリスト・イエスの受難を物語ることによって、その出来事の贖罪的意義を告知することを主要内容とする文書となります。「マルコ福音書は長い序文をもつ受難物語である」(M・ケーラー)と評される所以です。このマルコの三部構成は、マタイとルカにも受け継がれ、共観福音書の基本的な構造となります。

 

受難するキリストの啓示

 マルコ福音書の第一部を構成するガリラヤでの働きの時期にも、すでに受難の影が差していました。律法を守ることができない「罪人」に無条件の恩恵による救いを告知されたイエスに対して、律法順守を救いの絶対条件とするユダヤ教の律法学者たちは厳しい批判の目を向け、安息日律法に関わる対立から、ついに律法学者たちはイエスに対して殺意を抱くようになります(二・一〜三・六)。しかし、イエスが明確に受難を語られるようになるのは、故郷のナザレで排斥されて異邦人の地に出て行かれ、それからエルサレムへと向かわれる旅を描く第二部(六〜一〇章)からです。

 イエスがガリラヤ北方の荒野に出て行かれたとき、多くの群衆がついてきて大集会となります(六・三〇〜四四)。この荒野の集まりの性格については様々な見方がありますが、イエスを王としようとした民衆の集まりであったとするヨハネ福音書(六・一五)の報告が事実に近いのではないかと考えられます。マルコは集まったのは「男五千人」とし(六・四四)、「百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした」と記述しています(六・四〇)。このような組織だった男性の集団は軍隊を思わせます。当時のメシア運動の熱気からすると、神の力によって大いなる業を現しておられるイエスを指導者(メシア)としていただき、異教のローマ支配からイスラエルを解放しようとする運動に発展したとしても、それは十分に理解できます。当時ガリラヤ北方の山地は熱心党運動の活動拠点でした。

 そのような意味でのメシアは神に召された自分の使命に反するとして、イエスは群衆から離れ一人山に退かれます。このことに失望して、多くの弟子はイエスから去ります(ヨハネ六・六六)。イエスは、去らなかった少数の弟子を引き連れて北方の異邦人の地に向かわれます。マルコは多くの弟子が去ったことを報告していませんが、大集会の後少数の弟子だけをつれて異邦の地を巡回されたという事実が、この荒野の大集会が転機となり、イエスがいよいよ受難の地エルサレムに向かう決意をされたことを物語っています。

 北方の異邦人の地を弟子たちと一緒に回られた後、イエスはいよいよ「イスラエルの地」に入ろうとして、フィリポ・カイサリアで重大なことを語り出されます。その前後の記事(八・二七〜九・一三)がマルコ福音書の山場になります。

 「あなたたちはわたしを何者だと言うか」というイエスの問いかけに、ペトロが代表して「あなたはメシアです」と答えます(六・二九)。多くの弟子が去った後もイエスにつき従った少数の弟子は、民衆から見放されたイエスに対してもなおメシアであるとの確信を捨てませんでした。しかし、彼らの理解しているメシアは、立ち去ったユダヤ人たちのメシア待望とさほど違っていなかったことはすぐに明らかになります。この時のことをマルコは次のように書いています。

 そこでイエスは弟子たちに尋ねられた、「では、あなたがたはわたしを誰であると言うか」。ペテロが答えて言った、「あなたこそメシアです」。するとイエスは弟子たちに、御自分のことを誰にも話さないようにきびしく命じたうえで、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後に復活する定めになっていることを教え始められた。しかも、あからさまにその言葉を語られた。すると、ペテロがイエスをわきへ引っ張って行き、いさめ始めた。イエスは向きなおり、弟子たちを見つめ、ペテロをきびしく叱って言われた、「サタンよ、わたしから離れよ。おまえは神のことを思わず、人間のことを思っている」。(八・二九〜三三 私訳)
 
 「あなたはメシアです」と答えたペトロに対して、イエスは自分が弟子たちが期待しいている敵を討ち滅ぼす栄光のメシアではなく、「多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺される」者であることを語り出されます。イエスがここでご自分のことを「人の子」という称号を用いて指しておられること、および「三日後に復活する」と予告しておられることについては後で扱いますが、弟子たちは「殺される」という予告に圧倒され、我を失うほど驚き、思わずペトロが「イエスをわきへ引っ張って行き、いさめ始め」ます。マルコはイエスをいさめたペトロの言葉を伝えていませんが、マタイ(一六・二二)はペトロが「主よ、とんでもないことです。そんなことはあってはなりません」と言ったと伝えています。ペトロにとってメシアが敵に殺されるというようなことは「あってはならない、ありえない」ことです。メシアは敵対する者を討ち滅ぼし、神の支配を実現する者でなければなりません。イエスをいさめたペトロの姿は、ペトロのメシア待望が当時のユダヤ人たちのメシア待望と同じような内容のものであったことを示しています。ペトロたちがそれ以外のメシア待望をどうして持ち得ましょうか。

 このようにイエスをいさめたペトロに対し、イエスは「サタンよ、わたしから離れよ」と厳しく叱責されます。イエスはこのペトロの言葉にサタンの誘惑を感じて、それを厳しく退けられるのです。イエスは、バプテスマをお受けになった直後の荒野だけでなく、神から与えられた使命を成し遂げる道から引き離そうとする誘惑と生涯を通して戦われます。その誘惑は奇跡を見て歓呼する民衆やしるしを求める律法学者たちからも来ました、ここで弟子からも来るに及んで、誘惑を退けるイエスの言葉も一段と厳しくなります。

 イエスが「神のこと」と言われるのは、「神の支配」を実現するために神がとられる方法、神の道のことであり、「人間のこと」と言われるのは、「神の支配」についての人間の思想とか願望、また実現のための行為、人間の道を指しています。イエスは、イザヤが預言した「主の僕」、苦難の僕の道を神の道として受け取っておられると考えられますが、ペトロのメシア待望は真っ向からそれに対立します。イエスは神の道に歩むために、人間の道を厳しく退けられます。

 

受難予告の言葉

 ところで、エルサレムに向かう旅の途上で、イエスがエルサレムでの受難を予告された言葉は三カ所で伝えられています。第一がこの八・三一ですが、第二が九・三一、第三が一〇・三三〜三四です。この中で第二の予告が一番簡潔です。そこではこのよに語られています。

 「人の子は人々の手に渡され、人々は彼を殺す。殺されてから三日後に、彼は復活する」。(九・三一 私訳)

 最初の文は原語のギリシア語では、「人の子は人々の手に渡される」という言葉遣いがされています。アラム語では「人の子」は一般に「人」を意味するので、おそらくイエスは、「人は人々の手に引き渡される」という謎の言葉《マーシャール》を、アラム語で「人の子は人の子らの手に渡される」と言われたと推察されています(エレミアス)。ところが、イエスは普通の人ではなく、終末的な神の支配を体現する「人の子」であるという最初期共同体の理解からすれば、この文の主語はやはり「人の子」でなければならないとして、この句がギリシア語で伝承されるときには、「人の子は人々の手に渡される」という形で伝承されるようになったと推察されます。すなわち、弟子たちはイエスと一緒にいるときは、イエスが語られた「人は人々に渡される」というマーシャールを理解することはできませんでしたが、復活後イエスを終末的な「人の子」と告白するようになって、このマーシャールが終末的救済者の受難を語る預言であると理解され、現在の形で伝承されるようになったと考えられます。

 「人々は彼を殺す。殺されてから」は、謎の言葉の意味を明確にするために後から加えられた可能性がありますが、「三日後に、彼は復活する」はイエスご自身が語られた言葉として受け取ることができます。この文こそ「三日目の復活」を宣べ伝えた最初期のケリュグマから取られた事後預言であるという見方が強いですが、マタイとルカが「三日目」にと変えているのはケリュグマ伝承の影響が見られるとしても、マルコが保持している「三日後に」はイエスご自身の言葉遣いを残していると見られます。セム語では「二、三日」という表現はなく、「しばらくして」起こることは「三日後に」という慣用句を用いて表現したとされています。それで、イエスは「人は人々に渡される」という謎の表現でご自分が殺されることを語り出された後、その後すぐに続いて起こる神の勝利の出来事を「彼は三日後に復活する」と語られたと理解できます。イエスにおいては、復活、高挙、来臨、神殿の再建、世界の完成など、受難の後に来る栄光の事態は重ねて見られており、区別されていません。イエスはご自身の受難を予告すると同時に、その後に続く栄光の事態を予告されます。

 この「人は人々に渡される。そして三日後に復活する」という第二の受難予告の言葉が原型で、その言葉にすでに最初期共同体が知っているイエス受難の出来事の具体的な姿が加えられて第一と第三の受難予告が形成されたと見られます。とくに第三の予告はイエスの受難物語を要約したような内容になっています。


 
福音の言葉

 ここで八章のペトロの告白の場面に戻ります。「あなたはメシアです」と言い表したペトロに、イエスはこれから語る秘密を口外しないように命じた上で(「メシアの秘密」の動機)、苦しみを受けるメシアの秘密を語り出されます。これは人の思いにはあまりにも思いがけないこと、「心に思い浮かびもしなかった」ことであり、理解を超えたことです。しかし、それが神の道であることを、イエスは「定めになっている」(ギリシア語では《デイ》 ― 必然を指す語)という表現で語られます。この「定め」《デイ》は、黙示思想で用いられる表現で、神が定められた御計画は必ず実現することを指しています。

 この秘密、すなわち神は受難し(=殺され)復活するメシアによって最終的な救済の働きを成し遂げられるという奥義を、イエスはこの時から「教え始められた」のです。その時までは弟子たちにも隠されていた秘密を、ここではじめて弟子たちに語り出されます。「しかも、あからさまにその言葉を語られた」のです。ここに用いられている「その言葉」《ホ・ロゴス》は、最初期の福音活動においては「福音」を指していました。福音を告知することは「御言葉《ホ・ロゴス》を語る」と言われていました。マルコはその「御言葉《ホ・ロゴス》」は、ここで最初にイエスご自身が語り出されたとするのです。そして、ここで語り出されている奥義こそが《ホ・ロゴス》、すなわち福音だとして提示するのです。

 イエスがご自身の受難を語り出された言葉に続いて、マルコはそのようなイエスに従う弟子たちにも自分の十字架を背負って歩む覚悟を促し、命をかけてイエスを言い表すことを求める語録を置いています(八・三四〜三八)。おそらくイエスが様々な場面で語られた言葉の伝承を、マルコがこの場面にまとめて置いたものでしょう。最後に受難に続いて栄光が現れる日が近いことが予告されます(九・一)。

 その栄光は、イエスが高い山で祈っておられるときにその姿が輝く姿に変わったという「山上の変容」の出来事において、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子だけが垣間見ることを許されます(九・二〜八)。これは実際に起こった出来事ですが、先の受難するメシアの奥義の啓示と一緒になって、栄光に満ちた復活者キリストが地上では苦しみを受け殺されるという出来事によって、神は御自身の民を救い、終末的な完成をもたらされるという、人の思いを超えた奥義・秘密が啓示されることになります。

 この秘密は、先に見たように、イエスが復活されるまでは口外されませんでしたが(九・九)、イエス復活以後は、これこそが福音だとして、広く世界に告知されるようになります。しかし、それまでは(イエスが命令されたという建前をとっていますが実際は)弟子たちはその奥義を理解することができず、最後までまったく無理解のまま、神の道を歩まれるイエスと違った別の道、人間の道を歩み続けます。彼らの無理解は、この秘密を聞かされたペトロがイエスをいさめたことや、受難予告の謎の言葉を聞いた弟子たちは理解できず、ただ恐れただけであったことや(九・三二)、誰がいちばん偉いかを議論したり(九・三四)、ヤコブとヨハネが栄光を受けるイエスの右と左に座らせてくださいと願ったこと(一〇・三五〜四一)などに示されています。

 

最後の晩餐

 マルコ福音書によると、エルサレムに入られたイエスは、神殿で商人の台を倒し神殿から追い出すという激しい行動をされます(一一・一五〜一九)。イエス一人がなされたこの行動は、革命運動における蜂起とは縁遠い、イザヤやエレミヤに見られるような預言者の象徴的行為です。イエスはこの行動によって、神の祈りの家を強盗の巣にしてしまっている民への神の怒りを示し、神の裁きによる神殿の崩壊を予告されるのです。この行動は、たんに神殿の腐敗を指弾し粛正するという程度のものではなく、神殿の徹底的な崩壊を予告していることは、すぐ後でイエスご自身がはっきりと預言の言葉(一三・一〜二)で語っておられることからも明らかです。

 ヨハネ福音書(二・一三〜二二)は、神殿におけるイエスのこの激しい象徴行為を、イエスがガリラヤで活動を始める以前、まだ洗礼者ヨハネと一緒に活動しておられた時期のことにしています。歴史的事実としてはヨハネ福音書の方が正確ではないかと考えられますが、「ガリラヤ→エルサレム」の図式でイエスの活動を描くマルコは、この(省略できない)意義深い出来事を最後のエルサレムでの活動の時期に置きます。そうすることで、この行動がイエスの逮捕・裁判の直接のきっかけになったとします(一一・一八、一四・五八)。

 福音書の受難物語は、イエスの受難の出来事の経緯を語るだけでなく、その出来事の意義を語るのが主要な目的です。その点において、「最後の晩餐」の記事が最も重要な記事になります。そこでイエスご自身が受難の意義を語っておられるからです。

 マルコ福音書によると、イエスは「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊をほふる日」に、周到な配慮をして弟子たちと秘かに過越の食事の用意をされます(一四・一二〜一六)。それは、イエスの命を狙い逮捕を計画している大祭司勢力に気付かれず過越の食事をし、その場で弟子たちに重要なことを語っておくためです。

 最後の食事の日付と性格については議論がありますが、イエスは過越祭でエルサレムに上られたのであり、この食事が過越祭の時期に行われたことは確かです。従って、この食事の席で語られたイエスの言葉は、イスラエルの出エジプトのさいの出来事を記念する過越祭を背景として理解しなければなりません。
 食事の席で、イエスはまずこの場で食事を一緒にしている弟子の中の一人がイエスを裏切る、と語り出されます(一四・一七〜二一)。この人間的には大きな悲劇も、イエスは神の定めとして受け入れ、「人の子は書いてあるとおりに去って行く」とされます。この場面はレオナルドの「最後の晩餐」などの有名な絵画によって広く知られていますが、大切なのはその後で語られたパンと杯の言葉です。

 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してそれを裂き、弟子たちに与えて言われた、「取りなさい。これはわたしの体である」。また杯を取り、感謝の祈りを捧げ、弟子たちに与えられると、全員がその杯から飲んだ。すると、イエスは言われた、「これはわたしの血、多くの人のために流される契約の血である。よく言っておくが、神の国で新しいものを飲むかの日まで、わたしはもう決してぶどうの実から造ったものを飲むことはない」。(一四・二二〜二五 私訳)

 食事のとき、家長はパンを祝福して裂き、一同に配ります。このときイエスは不思議な言葉を語られます。「取りなさい。これはわたしの体である」という言葉を聞いたとき、弟子たちは大いに驚いたことと思います。ぶどう酒の杯を回されるときにも驚きべき言葉を語られます。ぶどう酒を飲んだ弟子たちに、イエスが「これはわたしの血である」と語り出されとき、弟子たちは驚愕したと思います。ユダヤ人にとって血を飲むことは恐るべきことです。パンを食べ杯から飲んでいる弟子たちに向かって、イエスは「あなたたちはわたしの身体を食べ、わたしの血を飲んでいるのだ」と言っておられるのです。この驚くべき、そして恐るべき言葉は何を意味しているのでしょうか。

 この食事は過越祭の時期に行われていながらメインの小羊がありません(この事実は、この食事を「祭りの準備の日」、すなわち小羊が屠られる午後の前夜とするヨハネ福音書の記事に合致します)。実は、イエスはご自分を過越の小羊(出エジプト記一二章)として差し出しておられるのです。この象徴の言葉によって、ご自身を民を救うために屠られる過越の小羊として指し示しておられるのです。そのことは「わたしの血」に添えられた「多くの人のために流される契約の血」という説明の言葉が明らかにしています。

 裂かれたパンは、流された血を象徴するぶどう酒と一体で、イエスの死が通常の死ではなく、暴力によって打ち砕かれる死であることを象徴しています。イエスは迫っている御自身の死を見据えて、その死が「多くの人のため」の死であることを明言されます。イエスはすでにエルサレムへ向かう旅の途上で、ご自分の使命を「多くの人の身代金として自分の命を与えるため」と、イザヤ書五三章の「主の僕」の姿で語っておられましたが(一〇・五四)、この最後の場面でご自分の死を、多くの人の罪を背負い、民のために神に打ち砕かれる「主の僕」の姿に重ねておられます。なお、セム語では「多くの人」は「すべての人」を意味する表現だということです。

 さらに、血については「契約の血」という説明が加わります。「契約」とは神と民との関わり方を、個人や部族間の契約をモデルにして表現した用語です。人間同士の契約でも、その確認には血が用いられました。神との契約にも血が用いられました。昔、エジプトから導き出されたイスラエルの民はシナイ山でヤハウェとの契約に入りましたが、その契約は犠牲の動物の血を注ぐことで結ばれました(出エジプト記二四章、とくに八節参照)。今イエスが流される血によって、神はイエスを信じる者たちと新しい契約を結ぼうとされています。その契約は、エレミヤ(三一・三一〜三四)が預言した「新しい契約」です。その契約の内容、すなわちイエスを信じる民が神と関わる関わり方は、すでに聖霊によってキリストの民の中で体験され賛美されていますが、マルコ福音書はその現実がイエスの十字架に基づくものであることを、イエス御自身の言葉によって告知するのです。

 イエスは、「よく言っておくが、神の国で新しいものを飲むかの日まで、わたしはもう決してぶどうの実から造ったものを飲むことはない」と言って、これが地上での最後の食事となることを明言しておられますが、同時に「神の国で新しいものを飲むかの日」が来ることを見ておられます。すぐにも来る神の国で飲む「新しいぶどう酒」は、神の国の饗宴で用いられるぶどう酒、すなわち聖霊による喜びです。ここではぶどう酒はもはや流される血ではなく、本来の喜びの象徴として用いられています。イエスは受難の向こう側に復活から始まる終末的な神の支配の現実、聖霊による喜びの現実を見ておられます。

 

ゲツセマネの祈りの秘義

 食事を終えたイエスと弟子の一行は、キデロンの谷を隔てて市街の東にあるオリーヴ山の麓、いつもの祈りの場ゲツセマネに向かいます。途中、イエスは「わたしは羊飼いを打つ。すると羊の群れは散らされる」というホセヤの預言を引いて、イエスが殺されると弟子たちは離散逃亡すると予告されます。しかし同時に、「わたしは復活した後、あなたがたに先だってガリラヤに行く」と言って、復活されたイエスがガリラヤで離散した弟子団を再結集されることも予告されます(一四・二六〜三一)。それに対してペトロは、「たとえ皆がつまずいても、わたしはつまずきません。たとえあなたと一緒に死なねばならないとしても、決してあなたを否認しません」と忠誠心と堅い決意を披露しますが、人間の忠誠心とか決意がいかに脆いものかは、すぐに露呈します。

 死を前にして、イエスはいつもの祈りの場ゲツセマネで祈られます(一四・三二〜四二)。その祈りは、従容として死を迎える殉教者の祈りではなく、「恐れおののき、苦悶し」ての祈りです。イエスは突きつけられた「杯」を前にして、「わたしの魂は悲しみのあまり死ぬほどである」と洩らし、神に向かって「アッバ、父よ、この杯をわたしから取り去ってください」と繰り返し祈り求められます。このようなイエスの姿を伝えることで、マルコはイエスの死の意義を語っているのです。すなわち、イエスの死は殉教者の死ではなく、神の裁きを一身に受けての死、万民のための贖罪の死であることを示唆しているのです。

 「杯」は、ここでは神の怒りの杯です(イザヤ五一・一七〜二二、エレミヤ二五・一五〜一六)。イエスは罪の中に陥っている人間が神の怒りの前に苦しむ苦悩を苦しんでおられるのです。復活によって罪のない方として証明されたイエスが、罪に対する神の怒りを受けて苦しんでおられるのです。昔預言者が「わたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせた」と語り(イザヤ五三・六)、後にパウロが「罪と何のかかわりも方を、神はわたしたちのために罪とされた」と告知した奥義を(コリントU五・二一)、マルコはイエスの出来事を物語ることで指し示しています。

 この苦悶の祈りを繰り返すさい、イエスは弟子たちが眠りこんでいるのをごらんになります。この弟子たちの眠りについては、人間の弱さを語る記事として、イエスが彼らに「試みに陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は欲していても肉は無力なのだから」と言われたと伝えられています。しかし、これは弟子たちの眠りについて、マルコあるいはマルコ以前の伝承が与えた意義づけであって、この眠りは本来は別の性格のものではなかったかと推察されます。

 イエスの神秘が啓示される重要な場面で、それに立ち会った弟子たちが眠りこんでいたという記事は、このゲツセマネの他にイエスが山で姿が変わったという記事にも出て来ます。マルコは明言していませんが、ルカ(九・三二)は三人の弟子が「眠りに押さえつけられていた」と表現しています。そして、マタイ(二六・四三)はゲツセマネの祈りの場面で同じ動詞を用いています。マルコ(一四・四〇)はゲツセマネで「彼らの目は重くなってしまっていた」と書いています。ここにあげた三カ所の動詞は「重くなる、圧迫される」という共通の動詞です。変容やゲツセマネのような緊迫した場面で、弟子たちが自然に眠気を催すとは考えられません。これは、弟子たちが何らかの霊的な働きを受けて、通常の状態を超えた意識状態(一種のエクスタシー状態)に陥っていたことを指しているのではないかと考えられます。そのエクスタシーの中で、山ではイエスの栄光を、ゲツセマネでは贖罪者イエスの苦悩を啓示されたのではないかと考えられます。両方ともペトロとヤコブとヨハネという最も身近な弟子だけに与えられた特別な啓示体験であったと考えられます。

 イエスがこの苦悶を、「しかし、わたしが願うことではなく、あなたが欲したもうことを成し遂げてください」という全身を投げ出した祈りで克服し、「もう決着したのだ」として立ち上がられたとき、十二弟子の一人のユダが神殿警察の手勢を引き連れて現れ、イエスは逮捕されます(一四・三五二)。その時、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げ去ります。ユダは、祭りの群衆のいないところで秘かにイエスを捕縛することができる場所と機会を通報して、イエスの命を狙う勢力にイエスを引き渡したのです。

 大祭司の屋敷に連れて行かれたイエスの後を追って、ペトロは屋敷の中庭まで入り込みます。そこで召使いの女に問い詰められて、三度までイエスを否認します(一四・五三〜五四、六六〜七二)。これは、悔悟の涙と共に語ったペトロ自身から出た物語であると考えられ、信仰について重要なことを教えていますが、それは講解に委ねて、ここでは「十字架につけられたキリスト」の福音を告知するマルコの物語を追って行きます。

 

大祭司の前での宣言

 逮捕されたイエスは、ユダヤ教の最高法院とローマ総督ピラトの法廷の二つの裁判にかけられます。それぞれの裁判の法手続きと両者の関係という法制史的な問題は議論が続いていますし、イエスの裁判について公式の裁判記録が残されているわけではありませんから、イエスの裁判の過程を正確に復元することは不可能です。以下の物語は、マルコが十字架につけられたイエスが神の子キリストであると告知するために語った物語であり、この物語の中にこの福音告知を聴くことが求められています。

 大祭司の屋敷での取り調べ(一四・五五〜六五)は正式の最高法院の法廷ではなく、予審です。正式の法廷は夜間に開くことはできませんでした。イエスが逮捕されたのは夜でした。それに、異端などで死刑に相当する被告を裁くためには予審が必要でした。イエスを殺すことを決意している大祭司は、手回しよく議員や証人を呼び集めていました。祭りの群衆に妨げられないで、一刻も早くイエスを処刑することを急ぎます。この時の大祭司はカイアファでしたが、実際に予審でイエスを尋問したのは前の大祭司で、カイアファの義父であり祭司長一族の長であったアンナスです。ヨハネ福音書はこのことを詳しく記述していますが、マルコは福音の告知に関係がないとしたのか、大祭司の名をあげていません。誰であっても大祭司はイスラエルを代表する人物です。大祭司の行動を通して、全イスラエルが今イエスに対面しているのです。

 多くの証人がイエスに不利な証言をしますが、その証言が一致せず、決定的な証拠を得られないので、ついに大祭司自身が立ち上がって真ん中に進み出て、イエスに対面し、「おまえは誉むべき方の子、メシアなのか」と問いただします。これは異例の行動です。最後に被告が弁明する機会が与えられますが、大祭司はこの機会を決定的な証拠を得る機会とします。

 イエスはこれまで自分がどのような身分の者でるかは公に宣言されませんでした。秘かに弟子に洩らされたときも、それを秘密にするように厳しく命じておられました。しかし、今イスラエルを代表する大祭司がイエスに向かって、おまえは何者かと迫っています。この問いに答えることが、イエスとイスラエルの関係、ひいてはイエスと世界の関係を公に決定します。ここでイエスが宣言される身分以外の者として、イエスはイスラエルと、ひいては世界と関わることはありえません。ここではじめてイエスは公にご自分の身分を宣言されます。

 このときイエスの口から発せられた言葉は、《エゴー・エイミ》という言葉でした。イエスはヘブライ語(またはアラム語)を用いられたのでしょうが、福音書ではギリシア語で伝えられることになります。このギリシア語は、ヘブライ語聖書でモーセに神の名が啓示されたときに用いられた表現であり(出エジプト記三・一四)、預言書で神が御自身を告知されるときに用いられる《アニー・フー》(わたしがそれだ)のギリシア語訳として七十人訳ギリシア語聖書で用いられている表現です(イザヤ四三・一〜一五、とくに一〇節参照)。英語では「アイ・アム」、日本語では「わたしである」に相当します。新共同訳では「わたしはある」と訳されています。

 この《アニー・フー》という句は、イエスの時代には神の自己啓示の定式として確立し、過越と仮庵の大巡礼祭においてよく唱えられていました。ですからイエスがこの句を口にされたとき、大祭司は直ちにそれを自分を神とする罪、神を汚す大罪と決めつけることができました。これを聞いたとき、大祭司は衣を裂きます。これは、イスラエルにはあってはならない大罪に直面したときに、罪を恐れてひれ伏すことを象徴する行為です。

 イエスはこの句に続けて、「あなたがたは人の子が神の右に座し、天の雲と共に来るのを見ることになる」と宣言されます。ここでイエスはご自分をそのような「人の子」だと宣言しておられます。イエスがご自分を「人の子」とされたことについては、次項(W)で詳しく扱うことになりますが、この宣言を聞いた大祭司と議員たちは、自分を神的な終末的救済者と宣言する言葉であることを直ちに理解します。大祭司は衣を裂きながら言います、「どうして、これ以上の証人が必要であろうか。あなたがたはこの神を汚す言葉を聞いた。あなたがたはどう判断するか」。すると、議員らは全員、イエスを死刑に相当すると判決します。神を汚す者をイスラエルから取り除くことは、イスラエルの宗教的義務です。

 大祭司の屋敷での審問には弟子たちはいないのですから、この場でのイエスの言葉はどうして知ることができるのかという問題があります。しかし、議員の中には、ニコデモやアリマタヤのヨセフのように、秘かにイエスを信じている者もいたのですから、彼らから審問の経過が伝えられて、最初期共同体の貴重な伝承となり、福音書に記録されるようになったことは十分ありうることであり、わたしたちはマルコ福音書の記事を事実として信用することができます。
 イエスが《エゴー・エイミ》という言葉で宣言された事態、すなわち、イエスこそ見えない神が現れた方であり、イエスにおいて神が語り、行動し、救いの働きをなしておられるのだという告白が、キリストの福音の核心をなします。それは後に「神の子」とか様々な称号で呼ばれるようになりますが、イエス御自身の宣言はこの《エゴー・エイミ》という句と「人の子」宣言でなされています。

 

ピラトの法廷

 予審で死刑相当と結論した大祭司は、夜が明けるとすぐに正式の最高法院の法廷を開き、直ちに死刑の判決をくだします。その上で、死刑を執行してもらうためにイエスをローマ総督ピラトに引き渡します(一五・一〜五)。最高法院が死刑の判決を言い渡しながら、ユダヤ教での死刑である石打にしなかったのは、当時ユダヤ教最高法院には死刑の執行権がなかったからです(ヨハネ一八・三一)。ピラトの法廷に訴えるときは、ローマへの反逆を企てるメシア僭称者として訴えます。ユダヤ教の冒?の罪では取り上げられないことを知っており、ローマへの反逆で訴えるのです。ルカ(二三・二)はそのことを伝えていますが、マルコは明言していません。しかし、ピラトがイエスに「おまえがユダヤ人の王か」と尋問していることから、そのような罪名で訴えたのは明らかです。

 このピラトの問いに対して、「そう言うのはあなたの方だ」とだけお答えになり、後は何も答えず沈黙されます。イエスはご自分からメシアであると主張されたことはありません。ピラトの方がイエスをメシア僭称者として扱おうとしているのです。ピラトは、追従者を一人も持たず、簡単に逮捕された一人のガリラヤ人を危険な反逆者とはせず釈放しようとしますが、釈放すればユダヤ教指導層との関係を損ない、統治に支障をきたすことを恐れたのでしょう、イエスの扱いに苦慮します。それで祭りのときに囚人一人を釈放する慣例を利用してイエスを釈放しようとします。

 囚人の釈放を求める群衆は、イエスではなくバラバの釈放を求めます。バラバは「暴動のさい人殺しをして捕らえられていた暴徒」の中の有名な一人でした。「暴徒」というのは、暴動を扇動したり参加する者のことです。当時はゼーロータイ(熱心党)運動の高まりの中で、反ローマ運動が頻発し、その運動にはしばしばテロ活動が伴ったので、運動家は「人殺し」として処刑されることが多くありました。祭司長たちに扇動された群衆は、イエスではなくバラバの釈放を要求します。

 「では、ユダヤ人の王として連れてこられたイエスはどうすればよいのか」というピラトの困惑に対して、群衆は「十字架につけよ」と叫び続けます。ピラトは群衆の圧力に屈し、イエスを十字架刑に処す決定を下します(一五・六〜一五)。十字架は、支配体制に反逆する奴隷や属州民を処刑するローマ帝国の死刑の方法です。

 福音書のピラトの法廷記事は一貫して、ピラトがイエスを釈放しようとしたことを強調しています。この傾向は後のマタイ、ルカ、ヨハネになるとますます強くなりますが、最初のマルコにおいてもすでに顕著に表れています。これは、ローマ社会に福音を伝えていこうとする最初期共同体が、このイエスの教えがローマ社会の体制に背くものではないことを示そうとする「護教的」姿勢から出たものと考えられます。イエスの死についてローマの責任を軽くしようとする分、ユダヤ教側の責任を重くする傾向があります。しかし、総督が千人隊長に率いられる正規軍を派遣した事実(ヨハネ一八・一二)や、ピラトの裁判と判決がきわめて短時間に行われている事実(朝に訴えを受けて九時に判決、処刑 ― ヨハネでは正午過ぎ)などから、ローマ側の積極的な準備と関与もうかがわれます。この護教的傾向の中で成立した福音書の記事を絶対化して、ユダヤ人に「キリスト殺し」の全責任を押しつけるのは、聖書の正しい理解とは言えません。
 しかし、このピラトの法廷でイエスではなくバラバを選んだ記事が象徴的に示しているように、この時代のユダヤ人はイエス・キリストの福音を拒み、バラバが代表するゼーロータイ(熱心党)の武力革命路線を選んだのは事実です。その結果、反ローマの戦争に突入し、神殿の崩壊と世界への離散という悲劇的結末に至ります。

 

イエスの十字架上の死

 ピラトの法廷で十字架刑の判決を受けたイエスが、兵士たちに嘲弄され、十字架の木を背負って刑場のゴルゴタの丘へ連行され、十字架につけられる様子を、マルコは伝承を集めて詳しく伝えています(一五・一六〜二四)。朝の九時に十字架につけられたイエスは、午後の三時に息を引き取られるのですが、その間の出来事もマルコは、その場を目撃した人たちからの伝承によって詳しく伝えています(一五・二五〜四一)。しかし、その出来事の経過は講解に委ねなければなりません。ここでは、この出来事の記述を通してマルコが告知している「キリストの福音」の内容に集中しなければなりません。

 十字架刑はローマ帝国の処刑方法であって、ユダヤ教では死刑は石打で行われます。イエスの十字架には「ユダヤ人の王」という罪状札がつけられていました。すなわち、イエスは王を自称してローマの支配に反逆した者として、ローマ総督によって処刑されたのです。しかし、ユダヤ教の最高法院がユダヤ教に背く者、神を汚す者として死刑の判決を下し、死刑を執行してもらうためにローマ総督に引き渡したのも事実です。ユダヤ教律法による死刑判決がなければ十字架もありませんでした。すなわち、イエスはユダヤ教の律法規定によって殺されたことになります。神から遣わされたキリストであるイエス(それは復活によって確証されました)を殺すことによって、ユダヤ教律法は自分を断罪したのです。後にパウロは「キリストは律法の終わりとなった」(ローマ一〇・四)と宣言しますが、マルコはこのことを実際の出来事を物語ることによって告知しているのです。

 キリストの十字架が律法の終わりとなったことを象徴する出来事が、もう一つあります。それは、イエスが十字架上に息絶えられたとき、「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」という出来事ですです(一五・三八)。「神殿の幕」というのは至聖所と聖所を隔てる幕を指し、年に一度、大贖罪日に大祭司がその幕を通って至聖所に入り、契約の箱の上の「贖罪所」に犠牲の血を注いで民の贖罪をなしました。イエスが十字架の上に血を流して命を注がれたとき、その祭儀が予表していた「永遠の贖い」が実現したのです(ヘブライ九・一一〜一二)。もはや神殿での祭儀は不要となりました。「律法」とは祭儀体系としてのユダヤ教の全体を指します。それがもはや必要ではなくなったのです。幕が実際に裂けたのが事実であったかどうかは、今では証明とか確認のしようはありません。しかし、最初期の共同体がイエスの十字架を告知するときに、このように幕が裂けたと告知したことは、祭儀体系としてユダヤ教(=律法)が終わったことを、象徴を用いて宣言しているのです。

 イエスの十字架上の死についてマルコ福音書が伝える記事の中で最も重要なものは、イエスが息を引き取られる直前に発せられた叫びの言葉です。昼の十二時に全地が暗くなり三時に及びます。三時にイエスは「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と大声で叫び、息絶えられます。イエスが叫ばれたアラム語の言葉を、マルコは読者のためにギリシア語に訳して伝えています。それは、「わが神、わが神、どうしてわたしを見捨てられたのですか」という叫びです。マルコ福音書が伝えるところでは、これはイエスが十字架上から発せられた唯一の言葉です。

 この昼の日中に全地を覆った暗闇と、その中で発せられたイエスの悲痛な叫びが何を意味するかについては、様々な解釈が行われています。暗闇については、これが聖書の預言の成就として、聖書の背景から理解しなければなりません。聖書、とくに預言者においては、闇とか暗黒は神の裁きを象徴しています。光の源である神が顔を背けるとき、世界は暗闇に陥ります。神が最終的に世界を裁かれる日には、暗闇が世界を覆うことになります。預言者たちは繰り返し裁きの日の暗闇について語っています。「その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする」(アモス八・九)。アモスだけでなく、イザヤ(一三・九〜一〇)も、エレミヤ(一五・九)も、エゼキエル(三二・八)も、ヨエル(三・四)も、同じように裁きの日の闇について語っています。

 このような聖書の背景から見るとき、マルコは全地に臨んだ暗闇を語ることによって、イエスの死を終末審判の文脈に置いていることが理解できます。いまイエスが十字架の上に絶命されようとしていますが、それは神の最終的な裁きの到来という終末的な意味をもつ出来事であると、この暗闇は指し示しているのです。そして、この裁きの闇は同時に、イスラエルがエジプトから救出されるときにエジプト全土を覆った暗闇(出エジプト記一〇・二二)のように、そこで神の救いが成し遂げられる神秘の闇でもあります。

 イエスが叫ばれた言葉についても、様々な解釈が行われています。その中で有力な解釈は、これは詩編二二編の冒頭の言葉であり、それを唱えることでイエスはこの詩編の全体を唱えておられるのであるとする理解です。この詩編は、人からも神からも見捨てられた悲痛な叫びで始まっていますが、終わりには神への信頼と賛美になっています。それで、イエスは最初の一句を叫ぶことでこの詩編全体を祈られたのであって(ユダヤでは作品全体を最初の一行で代表させる習慣がありました)、これはイエスの神への信頼と賛美の祈りであるとする解釈です。この解釈は、イエスも十字架刑という悲惨な最後に直面して結局は神への恨みごとを叫んで死んだのだという批判者たちの軽蔑に答えるために、イエスを弁護し美化して、殉教者的な信仰の英雄として描くための無理な解釈です。

 この解釈はゲッセマネの祈りを無意味にします。イエスがゲッセマネで、その魂が「悲しみのあまり死ぬほど」恐れおののき苦悶され、取り去ってくださるように三度まで父に乞われたあの「杯」は何であったのか。それは神との栄光に満ちた交わりの中で肉体の苦痛を耐え忍ぶ殉教者の死ではなかったはずです。それは、子として父と一つの交わりの中におられたイエスが、罪に対する神の裁きを味わう地獄の苦悩でした。その「杯」をいま十字架の上でイエスは飲み干しておられるのです。イエスは、その叫びの言葉通りに、神から見捨てられ、地獄の暗闇を味わい死んでいかれるのです。このとき地を覆っていた暗闇は、イエスの魂が味わっておられる神の裁きの暗闇を象徴することになります。

 イエスは神を「アッバ、父よ」と呼んで、いつも子としての親しい交わりの中におられました。そのイエスが生涯の最後において、神から見捨てられて死なれるのです。この時、イエスが神の子でなくなったのではありません。神の子であるのに神に見捨てられるところに、イエスの激しい苦しみがあります。イエスは神に見捨てられるという形で、神の子の死を死ぬ、これはわれわれの理解をはるかに超える逆説です。

 後に福音の言葉は、「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちもために罪とされた」(コリントU五・二一)とか、「キリストはわたしたちの罪のために死なれた」(コリントT一五・三)と語るようになりますが、マルコはその出来事をありのままの事実として伝えています。わたしたちはマルコ福音書の受難物語全体の中に、この福音の告知が行われていることを聴き取ることができます。

 

空の墓における復活告知

 十字架の上に息絶えたイエスの遺体は、その日の日没前に近くの墓に埋葬されます。日没と共に安息日がはじまりますから、埋葬は急いで行われました。
その埋葬は「ユダヤ人の埋葬の習慣に従い」(ヨハネ一九・四〇)、「(遺体を)亜麻布で巻き、岩に掘ってあった墓に横たえ」るという形で行われました。普通処刑された者の遺体は犯罪者墓地に放棄されることになっていましたから、このような丁重な埋葬は異例です。これは有力な議員であるアリマタヤのヨセフの勇気ある行動で実現しました(一五・四二〜四七)。

 安息日が明けた週の初めの日、すなわち日曜日の早朝、三人の女性がイエスの遺体に香料を添えるために墓に行くと、そこにはイエスの遺体はなく、若者の姿で現れた天使が、「彼はここにはおられない。復活されたのだ」と告げます。これがマルコ福音書の復活告知です。マルコ福音書はこの復活告知で終わります。そして、復活されたイエスの顕現は、先に(40頁の「復活されたイエスの顕現の舞台としてのガリラヤ」の項で)述べたように、「イエスはあなたがたに先だってガリラヤに行かれる。以前あなたがたに言われたように、あなたがたはそこでイエスにお会いすることになる」という天使の指示で、弟子たちが戻ったガリラヤで起こることになります(一六・一〜八)。

 この空の墓の証言がなくても、弟子たちは復活されたイエスの顕現を体験し、復活者イエスをキリストとして宣べ伝えることができたでしょう。しかし、その場合は、弟子たちのイエス復活の証言は、彼らの内面の出来事に過ぎないと批判されたことでしょう。墓が空であった事実が、キリストの復活を歴史と結びつけ、それが人類の歴史の中で起こった救済史的な出来事であることを指し示します。もし墓が空でなかったのであれば、弟子たちの復活告知は遅くとも五十日後のペンテコステにはエルサレムで始まっていたのですから、墓に残された遺体を示して、弟子たちの告知を粉砕することができたはずです。しかし、ユダヤ教当局はそれをすることができませんでした。彼らにできたことは、弟子たちが遺体を盗んだという偽の噂を流すことだけでした(マタイ二八・一一〜一五)。この噂はかえって墓が空であったことを確認しています。


 

  W 「人の子」イエス

 

「人の子」句の意味と用例

 マルコ福音書を読んでいて、「人の子」という耳慣れない用語にしばしば出会い、奇異な印象を受けます。日本語では、人が過ちを犯した場合などで、「あの人も人の子なのだから」というように、人間が生まれながら背負っている弱さとか不完全さを指すのに用いられています。また、聖書解釈の歴史においても「神の子」に対して人間としての本性を持つ方という意味で用いられてきました。しかし、福音書の「人の子」は、そのような意味に理解すると全然文の意味が通りません。それは、もともとこの「人の子」という表現は、ユダヤ教黙示思想で用いられていた特異な内容の称号であったからです。

 この特異な意味内容をもつ表現は、ユダヤ教徒以外の人たち(=異邦人)には理解できないので、異邦人に福音を宣べ伝えたパウロは、この句を全然用いていません。マルコ福音書の著者は、一時パウロの同労者であったマルコがそうであったように、異邦人への福音活動を十分体験している人物だと考えられ、この福音書を異邦人向けにギリシア語で書いています。それでもギリシア語ではほとんど意味不明の「人の子」という句を繰り返し用いています。それは、この句がイエスの働きと言葉を伝えるイエス伝承に深く組み込まれており、イエス伝承を用いて福音を告知しようとすれば、それを省いたり言い換えたりすることはできなかったからです。

 福音書における「人の子」という句の用例を調べますと、この句はイエスの言葉だけに出てきており、他の人物が用いることはありません。イエスご自身が重要な場面で繰り返し用いられたこの「人の子」というヘブライ語あるいはアラム語の句は、大切に伝承され、それがギリシア語で伝承されるようになっても、言い換えられたり、削除されることはありませんでした。

 イエスはパレスチナのユダヤ人の日常語であるアラム語で語られたのですが、アラム語で「人の子」という表現は「ある人」、「一人の人」という意味で用いられ、ときには自分を指す「わたし」という意味でも用いられる句です。さらに、当時ユダヤ教世界で流布しだしたダニエル書のような黙示文書で、終わりの日に天から現れて世界を裁き、神の支配を実現する超自然的人格にも用いられるようになっていたので(たとえばダニエル七・一三〜一四)、イエスがこの「人の子」という句を用いられたとき、どの意味で用いておられるのかが問題となります。

 その上、イエス伝承を担ったパレスチナ・ユダヤ人の共同体は、イエスが終末的な神の支配を地上にもたらす「人の子」として来臨されるのを熱心に待ち望む黙示思想的共同体でしたから、イエスが用いられた「人の子」句を、このような意味の句として語り伝える傾向があります。それで、福音書に出てくる「人の子」を、もともとイエスはどのような意味で用いられたのかを確認するにはきわめて複雑な問題があり、それはしばしば困難な課題となります。

 イエスはご自身のことをメシアとか神の子であるとは一度も主張されませんでした。ご自分の使命や立場について発言されるときは、いつも「人の子」という表現を用いられた、と福音書は報告しています。マルコ福音書では「人の子」という句は原語で一三回、新共同訳で一六回出てきます(原語の代名詞を「人の子」と訳出している場合があるので)。どの場合も、イエスの発言の中に出てきます。その新共同訳における用例を見ますと、イエスの「人の子」発言はほぼ次の三つの場合に分類することができます。

1 終わりの日に天から現れて神の支配を地上に実現する黙示思想の「人の子」について語られる場合(八・三八、一三・二六、一三・二七、一三・二九、一四・六二の五回)

2 受難と復活を予告される場合(八・三一、九・九、九・一二、九・三一、一〇・三三、一〇・三四、一〇・四五、一四・二一、一四・四一の九回)

3 地上のイエスがもつ権威や立場について語られる場合(二・一〇、二・二八の二回)

 この三つの場合について、イエスの「人の子」発言の意味内容を、福音書に記録されるまでの過程と状況の背景を考慮に入れて検討してみましょう。

 

終わりの日に天から現れる「人の子」

 イエスは「神の支配は近づいている」と宣べ伝えられました。神の支配が恩恵の支配として到来しているという事実がイエスの福音告知の核心でしたが、神の終末的な支配が近づいているという告知もイエスの福音告知の重要な一面でした。その一面が当時のユダヤ教社会に行き渡っていた黙示思想の用語でなされたとしても不思議ではありません。もっとも「人の子」句を用いた終末告知は内輪の弟子たちに秘かに語られたものであり、群衆の前で宣言されたことはありません。

 一口に黙示思想と言っても、終末の到来については様々な語り方がなされており一様ではありません。その中で天から「人の子」が現れることによって、神の支配が地上に実現するという語り方が有力でした。すでに黙示思想の端緒となったダニエル書においても次のように語られています。

 夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない。(ダニエル七・一三〜一四)

 前二世紀半ばのダニエル書の後、イエスの時代までに多くの黙示思想文書が出て、このような「人の子」の到来を語りました。イエスの時代のユダヤ人は、ローマの圧政に苦しみながら、神の民としての栄光が回復される時代の到来を待ち望んでいましたが、その待望はメシア的人物による異教支配からの解放という形で待ち望まれる一方、このような「人の子」の来臨という形でも待ち望まれていました。

 イエスは、神から遣わされた自分を拒否するイスラエルは破滅の道を歩み、その神殿は破壊されるにいたることを見通し、神殿の崩壊を予告されました(一三・一〜二)。イスラエルの民にとっては世の終わりともいうべき神殿の崩壊が起こるのはいつか、またどのような前兆があるのかという弟子の質問に、イエスは苦難の時代の到来を予告した上で、次のような言葉で「人の子」の到来を語られます。

 「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」。(一三・二四〜二七)

 「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」という表現は、すでに預言者の終末預言にもあり(たとえばイザヤ一三・九〜一〇)、その後の黙示文書も、この世の終わりに恐るべき神の審判によって天地が震われるという宇宙的破局を描くようになります(たとえば「モーセの昇天」一〇章)。ここ(マルコ福音書)でも新しい世《アイオーン》の到来が典型的な黙示思想的表現で語られています。全体が黙示思想的な思想と表現で語られているので、マルコ福音書一三章の「人の子」の到来を中心とする終末預言は、「マルコの小黙示録」と呼ばれることになります。

 イエスがこのような終末的な意味の「人の子」について発言された箇所が他にも二箇所あります。一つは、ご自身の受難を予告された後、弟子たちにも苦難の道を覚悟するように求められたところで、こう言っておられます。

 「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」。(八・三八)

 もう一つは、逮捕された後、大祭司の尋問にお答えになったところです。

 「わたしはある。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」。(一四・六二)

 このような箇所で、イエスは「人の子」という黙示録的称号を用いて、自分ではない別の人物を指しおられるという学説があります。たしかに、このような言葉を聞いたとき、弟子たちは自分たちと同じ姿のイエスと、天から栄光をまとって現れる「人の子」は結びつかず、イエスとは別の天的な人物を指して、新しい《アイオーン》の到来を語っておられると受け取ったことでしょう。

 しかし、弟子たちはその後、復活されたイエスの顕現を体験し、イエスが復活し、天に上げられ、神の右に座す方であることを知り、かつ確信するにいたります。その弟子たちにとって、イエスが語られた「人の子」は、復活されたイエス以外にはありえません。復活して神の右に座すイエスは、そこから「父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来る」方です。復活されたイエスこそが、黙示文書が終わりの日に現れると言っていた「人の子」に他なりません。弟子たちは、「人の子」の到来を待ち望んでいたユダヤ人に、イエスを「人の子」として宣べ伝え始めます。

 イエスが「人の子」という句をどのような意味で用いられたのか、また、ここに上げたような場合にご自分を指して用いられたのか、あるいは別の人物を指して用いられたのか、今では確認することは極めて困難です。しかし、イエスが「人の子」という句を用いられたことと、復活されたイエスを体験した弟子たちが、そのイエスを「人の子」として告知したことは、確かな事実です。福音書における「人の子」の記事は、この二つの確実な事実の結果です。

 最初期のエルサレム共同体も、「語録資料Q」を担った「Q共同体」も、総じてパレスチナ・ユダヤ人の福音活動においては、イエスを「人の子」として告知し、その「人の子」イエスが栄光に包まれて来臨し、神の支配を確立されるという「人の子」来臨の待望が熱く燃えていたことは、これまで様々な機会に述べてきた通りです。それが、パレスチナ・ユダヤ人のイエス伝承に深く刻み込まれ、福音書の記事としてわれわれに伝えられることになります。

 ところが、福音がユダヤ人以外の民に宣べ伝えられるにいたり、ユダヤ教徒以外には理解できない「人の子」という表現は用いられなくなります。それで、「人の子」来臨の待望は、「人の子」という表現を外して、「キリストの来臨《パルーシア》」という形で維持され、異邦人共同体にも継承されることになります。パウロがテサロニケ第一書簡の四章で証言しているような「キリストの来臨」の待望は、パレスチナ・ユダヤ人共同体の「人の子」来臨待望の形を変えた版(バージョン)に他なりません。その来臨待望が七〇年以後の異邦人共同体でどのように変化したかは、前章で見たとおりですが、パレスチナ・ユダヤ人共同体が伝えた「人の子」イエスの伝承は、福音書に記録されて代々のキリスト者共同体に維持されることになります。

 

苦しみを受ける「人の子」

 マルコ福音書は、復活してキリストとされたイエスが、地上では十字架刑で処刑されたという事実が何を意味するかを世に語り伝えることを主要な課題とする福音書であることは、これまでに見てきたとおりです。従って、イエスを天から現れて神の支配を確立する「人の子」と告知するするにさいして、そのような「人の子」であるイエスが十字架につけられたという、ユダヤ人には理解も想像もできない出来事の意味を解明しなければなりません。マルコは、それをまずイエスご自身がされたとして、イエスの言葉を伝えます。それが三回繰り返されるイエスの受難予告の言葉です。

 先に見たように、イエスはペトロのメシア告白の時からエルサレムに入られるまでに三回にわたってご自身の受難を予告しておられますが、その三回とも、苦しみを受けることを語る文の主語は「人の子」です(八・三一、九・三一、一〇・三三)。先に見たように(53頁以下)、イエスご自身が、「人の子」は苦しみを受けなければならないと、その必然を語っておられることになります。そこで見たように、もともとイエスの予告の言葉は、第二の予告に見られる「人は人々に引き渡される」というだけの謎の言葉で、「わたしは人々に引き渡される」と予告されたのかもしれません。そのような意味を表現するアラム語の「人の子は人の子らに引き渡される」という言葉が、「人の子」の来臨を待ち望むパレスチナ・ユダヤ人の共同体で伝承される過程で、主語の「人の子」の表現が終末的な「人の子」を指す用語として保持され、それに彼らがよく知っているイエスのエルサレムでの受難の出来事を描写する記述が加えられて、第一と第三の受難予告が形成されたと推察されます。

 受難予告の他に、もう一つ「人の子」の受難の意義について語る重要な語録が伝えられています。

 「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、多くの人の身代金として自分の命を与えるためである」。(一〇・四五)

 このイエスの言葉は、受難の地エルサレムに入る直前、少しでも人の上に立って支配する者になろうとして言い争った弟子たちを戒めるために語られた言葉の結びの位置に置かれています(一〇・三五〜四五)。ここで「人の子」が果たす役割が、「多くの人の身代金として自分の命を与える」ことであると、第二イザヤの「主の僕」《エベド・ヤハウェ》の姿(イザヤ五三章)で語られています。

 イエスはご自身の召しと使命を、イザヤ書の「主の僕」として自覚しておられたことが福音書の記事からうかがえます。まず、ヨルダン川で洗礼者ヨハネからバプテスマをお受けになったとき、「あなたはわたしの僕、わが愛する者、わたしの心に適う者」という召命の言葉を受け、「主の僕」としての自覚をもって生涯を貫かれたと考えられます。

 イエスが「主の僕」としての使命感をもって歩まれたことは、ここや最後の晩餐のときの言葉のように、福音書に伝えられている言葉の端々から垣間見るだけですが、最初期のエルサレム共同体がイエスを「僕」と呼んだ事実もこれを傍証しています。こうして、イエスが「主の僕」としての自覚から語り出された「多くの人の身代金として自分の命を与えるため」という言葉が、イエスを「人の子」と告知するパレスチナ・ユダヤ人の福音告知において、「人の子」を主語とする文で伝えられるようになったと推察されます。

 多くの人のために苦しみを受ける「主の僕」と、栄光の中に到来する「人の子」という二つの姿の融合は、イエス以前のパレスチナ・ユダヤ教にも痕跡が認められますが(拙著『福音の史的展開』T402頁の注記参照)、やはりイエスご自身の独自の自覚から発し、それを伝承した最初期のパレスチナ・ユダヤ人の共同体で形成され、福音書に記録されるに至ったものと考えられます。このような内容のキリスト告知は、それまでのユダヤ教が知らなかったものであり、以後のキリスト共同体のキリスト信仰に深い刻印を刻むことになります。

 

地上での「人の子」イエスの権威

 マルコ福音書には、地上のイエスが「人の子」としての権威を行使しておられることを語る言葉が二つ伝えられています。一つは、イエスがからだの萎えた人を立たせた記事の最後で、イエスが次のように宣言しておられる言葉です。

  「人の子は地上で罪を赦す権威を持っている」(二・一〇)

 からだの萎えた人が床に乗せられてイエスのもとに運ばれてきたとき、イエスは彼らの信仰を見て、「子よ、あなたの罪は赦されている」と言われます。それを聞いた律法学者たちは心の中で、「彼は神を汚している。神おひとりのほかに誰が罪を赦すことができようか」と批判します。それを見抜かれたイエスは、「からだの麻痺した人に、あなたの罪は赦されている、と言うのと、立ち上がって床を取り上げて歩け、と言うのとどちらがたやすいか。だが、人の子は地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るようになるために」と言って、からだの麻痺した人を立ち上がらせます。こうして、地上のイエスが「人の子」として罪を赦す権威を持つことを証明されます(二・一〜一二)。

 「人の子」は終わりの日に天から現れて神の裁きを執行します。その裁き赦す権能を、イエスが地上で行使しておられるのだ、とマルコ福音書はこの記事で語っているのです。からだの萎えた人を立ち上がらせるという、神だけがなすことのできる奇跡をしるしとして、イエスはご自身がこの権能をもつ「人の子」であることを示しておられるとするのです。アラム語の「人の子」の用例からすると、イエスはこのとき「地上の(一人の)人間が罪を赦す権威を持っていることを示すために」とか、「わたしは罪を赦す権威を持っていることを示すために」ということを意味されたのかもしれません。しかし、この言葉を伝承したパレスチナ・ユダヤ人の共同体は、これを「人の子」を主語とする文で伝えて、イエスを「人の子」として告知している自分たちの信仰を言い表します。すなわち、この記事で福音書は、イエスは地上に現れた「人の子」であると言い表していることになります。これは、復活されたイエスを「人の子」と告知するパレスチナ・ユダヤ人のキリスト告知と、地上のイエスの働きを語り伝えるイエス伝承が重なっている「福音書の二重性」の表れということができるでしょう。

 もう一つの言葉は、弟子たちが安息日に麦の穂を摘んだ行為を安息日律法違反だと批判した律法学者たちに、イエスがお答えになった答えの最後にある言葉です。

  「人の子は安息日の主である」。(二・二八)

 律法学者たちの批判に対して、イエスは聖書にあるダビデの故事を引用して、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」とお答えになり、この言葉を語られます(二・二三〜二八)。

 ここもアラム語の用例からすると、「安息日は、人間のために定められた。人間が安息日のためにあるのではない。だから、人間が安息日の主人(目的)なのだ」という意味で語られたのかもしれません。しかし、ギリシア語で伝えられた文では、最後の文だけが「人の子」を主語にしており、他はただ「人」だけになっています。ということは、この語録はイエスご自身から発しているとしても、この伝え方には最初期のパレスチナ・ユダヤ人共同体の「人の子」告白が重なってきていることを指し示しています。

 最初期の共同体は、自分たちはもはやユダヤ教の安息日律法の支配下にはいない、復活されたイエスの支配下に生きているので、ユダヤ教の安息日律法には拘束されていないと主張するために、「人の子」は安息日の主である、すなわち復活されたイエスはユダヤ教安息日律法を超える方であるという形で宣べ伝えたと考えられます。

 

マルコ福音書における「人の子」キリストの告知

 以上に見てきたように、イエスをキリストと告知するために書かれたマルコ福音書は、告知するイエス・キリストを「人の子」として提示しています。先に見たように、ガリラヤでの出来事は復活されたイエスを指し示し、福音書はそのイエスが終わりの日に天から現れる「人の子」であることを端的に語っています。同時に、キリストであるイエスが受ける十字架の苦しみは、「人の子」の受難として語られることになります。さらに、イエスはすでに地上で働かれたときに、「人の子」の権能をもって語っておられることが伝えられています。

 異邦人にキリストの福音を提示するためにギリシア語で書かれたこの福音書が、異邦人には理解しがたく、ギリシア語ではほとんど意味をなさない「人の子」という句を中心に据えてキリストを告知したのは、イエスご自身が用いられ、パレスチナ・ユダヤ人の共同体がキリスト告知の中心に据えて伝承した「人の子」句を用いたからです。著者がイエス伝承を素材にしてキリストを告知する福音書を書こうとするかぎり、この書き方は必然です。イエス伝承はパレスチナ・ユダヤ人共同体が伝えたものだからです。イエスにつき従って、イエスの働きを目撃し、イエスの言葉を聴いたペトロや他の弟子たちには、イエスが語られた「人の子」句が、強烈な印象をもって耳に刻みつけられており、それがエルサレム共同体やQ共同体などのパレスチナ・ユダヤ人共同体に語り伝えられて、イエス伝承の中核となったと考えられます。

 マルコがこのようなパレスチナ・ユダヤ人共同体の伝承に忠実であったことは、異邦人に福音を告知するためにギリシア語で書きながら、異邦人共同体で復活されたイエスを指すのに用いられていた「主《ホ・キュリオス》」という称号を用いていないことからも分かります。付加部分(一六・九以下)には二箇所ありますが、マルコ福音書の本体には、イエスを「主《ホ・キュリオス》」とする箇所はありません。この事実は、イエスをしばしば「主《ホ・キュリオス》」と呼ぶルカ福音書と対照的です。

 さらに、「神の子」という称号と較べると、マルコ福音書では「人の子」称号が圧倒的に多く、重要な箇所に用いられていることが目立ちます。たしかに、この福音書は標題となる位置に「神の子、イエス・キリストの福音」という表現を用いていますが、ここの「神の子」は後からの付加である可能性が高く、議論があります。イエスの活動記事の中では、悪霊がイエスに向かって「神の子」と呼びかけている記事が二カ所(三・一一、五・七)ありますが、他にはありません。悪霊の場合は、自分たちに対するイエスの支配権を認めて恐れているだけで、イエスの栄光を認識しているとは考えられません。最後に、十字架の前で百人隊長が「この人は神の子であった」と言い表す記事があります(一五・三九)。これは他の福音書には並行記事がなく、イエス伝承からではなく、異邦人がイエスを信じるようになったことを象徴しようとするマルコの構成によるものと推察されます。

 このように見てくると、マルコはイエスを「人の子」として告知するパレスチナ・ユダヤ人共同体のイエス伝承を忠実に継承していることが理解できます。そして、このイエス伝承の忠実な継承は、マルコ福音書を土台にして成立したマタイ福音書とルカ福音書に、それぞれの特色をもって受け継がれていきます。


 

  X 聖霊でバプテスマするキリスト

 

聖霊のバプテスマについてのマルコ福音書の記事

 地上のイエスの働きを伝える福音書は、洗礼者ヨハネの活動の記事から始まるのが原則です。それは、イエスの活動が洗礼者ヨハネの運動の中から始まったからです。他の福音書はその前に誕生物語や序詩などを置いていますが、マルコ福音書は端的に洗礼者ヨハネの活動から書き起こします(一・二〜八)。これが福音告知の本来の形です。しかも、マルコ福音書の洗礼者ヨハネの記事には大きな特色があります。それは、他の福音書が大なり小なり洗礼者ヨハネの活動や使信の内容を伝えているのに対して、マルコ福音書の記事は、彼の活動の事実は伝えますが、実際の説教の内容はほとんど何も伝えず、ただ自分の後に来る方、すなわちイエス・キリストについて次のように証言したことだけが伝えられます。

 「わたしよりも力ある方が、わたしのすぐあとに来られる。かがんで、その方の履き物の紐を解く値打ちすら、わたしにはない。わたしは水でバプテスマしたにすぎないが、その方は聖霊によってバプテスマされるからである」。(一・七〜八)

 ヨハネは偉大な預言者でした。イエスがヨハネを神から遣わされた預言者と認め、彼の偉大さを口を極めて賞賛されたことが、「語録資料Q」で伝えられ、マタイ(一一・二〜一九)とルカ(七・一八〜三五)の両福音書に記録されています。また、この二つの福音書は、洗礼者ヨハネの悔い改めの説教の内容も伝えています(マタイ三・七〜一〇、ルカ三・七〜一四)。それによると、ヨハネは「来たらんとしている怒り」、すなわち間近に迫っている神の審判に備えて悔い改めるように説いた預言者でした。ヨハネはその迫っている審判を、「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と、焼き尽くす火の象徴をもって語り、自分の後に来る方について、「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水でバプテスマを授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」と語ったとされています(マタイ三・一〇〜一二)。

 ところが、マルコはこのような洗礼者ヨハネに対するイエスの賞賛の言葉も、彼の終末審判の告知の内容もいっさい伝えないで、ヨハネは後に来られる方が「聖霊によってバプテスマされる」ことだけを予告したことにしています。マルコも洗礼者ヨハネの終末審判についての告知の内容は知っていたはずです。ペトロをはじめイエスの弟子の多くは洗礼者ヨハネの弟子であったのです。マルコはペトロらから出た伝承によって洗礼者ヨハネの使信は十分承知していたはずです。しかし、キリストの福音を告知するにさいし、それは不要として、ヨハネを「聖霊によってバプテスマされる」キリストだけを予告した預言者として描きます。マルコがこのような語り方をするようになった経緯とその意義を考えてみましょう。

 ヨハネが水をもって施している自分のバプテスマと対比して、自分の後に現れる、自分よりはるかに勝る方のバプテスマについて語ったとき、それは審判の「火のバプテスマ」であったと考えられます。すなわち、「わたしは、裁きに備えて、悔い改めに導くために、あなたたちに水でバプテスマを授けているが、その方は火であなたたちをバプテスマされる、すなわち、焼き尽くす火をもってあなたたちを裁かれる(「バプテスマする」は浸すという意味です)」と語ったはずです。ヨハネの説教では、火は一貫して裁きの象徴です。

 イエスこそ、ヨハネが「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない」と語った方であり、洗礼者ヨハネが道備えをした救済者であると宣べ伝えたイエスの弟子たちは、そのイエスが授ける「火のバプテスマ」が審判の火ではなく、聖霊の火であることを体験していました。聖霊によってバプテスマされる、すなわち聖霊に浸されて、その中から新しい自分が生まれ出るという体験はさまざまな形を取りますが、使徒言行録二章のペンテコステの記事が語っているように、火とか炎が下るというように表現せざるをえないような激しい体験もあることは事実です。モーセが体験した燃える柴や火の柱、イザヤが召命のとき体験した祭壇から取られた火など、旧約聖書でも火は霊による神の臨在を示す象徴でした。弟子たちが聖霊を受けたとき、これこそヨハネが預言した「火のバプテスマ」であると理解したのは自然なことでした。復活者キリストが施される聖霊のバプテスマを体験した弟子たちは、それを火の象徴を用いて語るようになります。その結果、火は聖霊の象徴と理解されて、ヨハネの「火のバプテスマ」の預言は「聖霊のバプテスマ」の預言と解釈されて伝えられます。

 マルコはヨハネの宣教内容を、ヨハネが授ける水のバプテスマに対して、後から来る方(キリスト)は聖霊によってバプテスマするという福音的な内容だけに絞っているので、もはや「火」という象徴は用いません(一・八)。それに対してマタイ(とルカ)は、「語録資料Q」にあるヨハネの終末的審判の宣教を保存していますので、審判の象徴である火を略すことができません。それで「聖霊と火でバプテスマを授ける」という二重の表現を残すことになります。
 「聖霊と火」という二重の表現を、キリストは復活して聖霊によるバプテスマを授け、その後、再臨のキリストが火でバプテスマする、すなわち終末的な審判を行うと解釈する説もあります。しかし、審判の告知は、その時代に向かって語る預言者の告知であって、われわれの福音の場では、マルコがしているように、火を聖霊の象徴と理解して、ヨハネの告知を聖霊のバプテスマの預言の一点に絞る方が適切です。そうすることによって、マルコは「聖霊によってバプテスマするキリスト」の福音を世に告知しているのです。

 

聖霊の働きについてのマルコ福音書の記事

 では、イエス・キリストを信じて、復活者キリストによって聖霊のバプテスマを受けるとはどのような体験であるのか、また聖霊によってバプテスマされた者はどのように生きるのか、あるいは聖霊は信じる者の中でどのように働かれるのか、という問題については、イエス復活後の出来事を語る使徒言行録や、その体験から生まれた共同体で成立した使徒書簡が語ることになります。その出来事(聖霊のバプテスマ)が起こる以前のことを伝えるイエス伝承では、その事柄はほとんど扱われず、イエス伝承を素材とする福音書も、きわめて限られた範囲で示唆するにとどまります。ここでは、この聖霊の働きに関するマルコ福音書の記事を検討しておきたいと思います。

 聖霊でバプテスマされるのは十字架・復活後のキリストであることは、他の福音書では示唆されています。たとえば、ルカ福音書は復活されたイエスが「わたしは、父が約束されたもの(聖霊)をあなたがたに送る。高い所からの力(聖霊)に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ二四・四九)と言われたとしています。また、イエスは「わたしが来たのは、地上に火(聖霊)を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには(その前に)受けねばならないバプテスマ(十字架の苦しみ)がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」(ルカ一二・四九)と言っておられます。ヨハネ福音書は明確に「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている御霊について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ降っていなかったからである」(七・三九)と言っています。しかし、マルコ福音書は冒頭の洗礼者ヨハネの記事で、キリストは聖霊でバプテスマする方であることを告知するだけで、それがいつ、どのような形で起こるのかを示唆する記事はありません。

 イエス伝承は、地上のイエスの働きと言葉を伝える伝承ですから、復活されたイエスがなされる聖霊のバプテスマや、十字架・復活以後の信じる者の共同体での聖霊の働きについて語ることはなく、イエス伝承を素材とする福音書にもそのような記事がないことは当然ですが、それでも福音書が聖霊の働きについて語るところが僅かながらあります。

 マルコ福音書は冒頭で、イエスご自身が聖霊を受けて、聖霊の力によって活動されたことを伝えています。イエスがヨルダン川でヨハネからバプテスマをお受けになったとき、「水の中から上がられると、天が裂けて、御霊が鳩のように自分に下って来るのを見られた」と伝えています(一・一〇)。そして、その体験の中で「あなたこそわたしの僕」という神の召しをお受けになったことは前述しました。このようなイエスの内面の体験は、外からうかがい見ることはできないものですが、荒野の試みの伝承と同じく、おそらくイエスが弟子たちに秘かに洩らされた言葉から形成された伝承であると考えられます。

 その後、福音書は「御霊はイエスを荒野に追いやった」(一・一二)と伝えていますが、それだけでなく、その後のイエスの行動と発言はすべて御霊の導きと迫りとによるものであり、イエスが「御霊の人」、神の霊によって生きた人であることを指し示しています。ここにイエスの人格の秘密があります。福音書は冒頭でイエスを「御霊の人」とすることで、イエスの働きと力の源泉を指し示しているのです。同時に、地上のイエスの姿を、イエスの復活以後に、イエスを信じて聖霊を受ける者たちの原型として提示しているのです。

 イエスが聖霊について発言された言葉が二つ伝えられています。一つは、「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」(三・二八〜二九)という言葉です。これは、イエスが悪霊を追い出しておられる働きを「彼はベルゼブルに取りつかれている」と判断した律法学者たちに向けられた言葉ですが、これはイエスが聖霊によって働いておられるという宣言と表裏一体の宣言です。

 もう一つは、「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」(一三・九〜一一)という言葉です。これは「総督や王の前に立たされて」という表現が示唆しているように、福音が異邦人の世界にも告知される段階、すなわちイエスの復活以後の状況を指し示しています。従って、最初期の共同体が聖霊によってユダヤ人と異邦人に福音を告知するさい受ける迫害の中で、法廷では聖霊が語るべきことを教えてくださることを、イエスがあらかじめ語られたことになります。

 

   結 び

 以上、本節「イエス伝承による福音の告知 ― マルコ福音書」において、最初の福音書であるマルコ福音書が、はじめてイエス伝承を素材としてキリストの福音を告知しようとしたとき、その内容がどのようになり、そこでキリストの福音がどのように提示されているかを概観しました。それは、十字架の苦しみを受けた後、復活して今も働かれるイエスをキリストとして告知しています。そして、そのイエス・キリストが「人の子」として来臨されて、世界を裁き、神の支配を打ち立てられる時が差し迫っていることを告げ、この復活者キリストを信受して聖霊を受け、神の命に歩み、その時に備えるように説き勧めます。その中でも、このキリストであるイエスが地上では十字架の苦しみを受けたことが何を意味するのかを語る部分が大きな割合を占めているのが印象的です。マルコ福音書は、イエス伝承を用いて「十字架された姿のキリスト」を世界に告知する文書だと言えるでしょう。

 


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