ユダヤ教内のキリスト信仰


第一章   ユダヤ教内のキリスト信仰

             ――  主の兄弟ヤコブとヤコブ書 ――

           (本章で書名のない引用箇所はすべてヤコブ書の章節をさします。)


はじめに ― 「公同書簡」という名称について

    新約聖書には、一般に「公同書簡」と呼ばれる書簡が七つ収められています。正典の新約聖書の順序では、「ヤコブの手紙」、「ペトロの手紙T」、「ペトロの手紙U」、「ヨハネの手紙T」、「ヨハネの手紙U」、「ヨハネの手紙V」、「ユダの手紙」の七つの書簡です。この七つの手紙には、特定の集会や特定の個人を指す宛先がなく、広く信徒一般に宛てられた手紙と見なされて、「公同書簡」(英語では Catholic Epistles)と呼ばれています。

 しかし、この七つの書簡は、その内容とか性格からすると、一つの名前の下にまとめて扱うことは困難です。三通の「ヨハネの手紙」は明らかにヨハネ共同体内部でやりとりされた手紙ですから、広く信徒一般に宛てた文書とは言えません。「ヤコブの手紙」や「ユダの手紙」は、ユダヤ教の枠内でキリストを信じた人たちの間の文書であって、他の異邦人諸集会に宛てられた書簡とは、あまりにも性格が違いますので、他の使徒名書簡と一まとめにして扱うことはできません。それに対して小アジアの諸集会に宛てられた「ペトロの手紙T」は、もともとはアジア州の諸集会あての回状であったと見られるエフェソ書と同じく、パウロ以後の時代の重要な使徒名書簡の一つです。

 したがって、このシリーズではこの七つの書簡を一まとめに扱うことはせず、できるだけそれぞれの成立事情と内容に即した場所で扱うことにします。三通の「ヨハネの手紙」は、ヨハネ共同体の文書として、ヨハネ福音書を中心とする「ヨハネ文書」を扱う巻で取り上げます。「ペトロの手紙T」は、その成立の事情と内容からすると、他のパウロ名書簡と同列に、「パウロ以後のキリストの福音」シリーズで扱うのが適切と考え、先に取り上げました。

 残る三つの中、「ヤコブの手紙」と「ユダの手紙」は、ユダヤ教枠内の文書として、この「パウロ以後のキリストの福音」シリーズには入らない別種の文書になります。それで、本来ならば別のシリーズで扱うべきですが、全体の構成上、他に適当な巻がありませんので、本シリーズの「附論」として取り上げておきます。

 最後に残る「ペトロの手紙U」は、ペトロの名で書かれ、「ペトロの手紙T」に続く第二の書簡と名乗っていますが、「ユダの手紙」との関連が強く、どこで扱うか決めるのが難しい書簡です。本シリーズでは便宜上、この「附論」に入れておきます。これで、天旅誌上で新約聖書の全書簡(ヨハネ黙示録も含む)を取り上げることになります。

 


   第一節 主の兄弟ヤコブ

はじめに―問題点

 新約聖書には五人のヤコブが登場します。

1 ゼベダイの子ヤコブ (マルコ一・一九他)
2 アルパヨの子ヤコブ (マルコ三・一八他)
3 ヨセフとマリアの子、イエスの兄弟ヤコブ (マルコ六・三他)
4 小ヤコブ (マルコ一四・五〇他)
5 使徒ユダの父ヤコブ (六・一六他)

 この中で、著者が自ら「ヤコブ」と名乗っている「ヤコブ書」の著者である可能性があるのは、3の「ヨセフとマリアの子、イエスの兄弟ヤコブ」だけです。このことは、ほとんどの研究者が認めています。たしかに、他のヤコブである可能性はまず考えられません。問題は、このヤコブが実際の著者であるのか、あるいは他の誰かが「主の兄弟ヤコブ」の名を用いてこの手紙を書いたのかの問題、すなわちこの手紙の真正性の問題です。この問題に関する研究者の見解は分かれています。現代では真正性を疑う人の方が多いようですが、真正性を擁護する研究者もかなりいます。聖書辞典類には両論併記が見られます。この問題を考察するために、まず「主の兄弟ヤコブ」と呼ばれている人物がどのような人物であるのか、知りうる限りの資料に基づいて、この人物の輪郭を描いた上で、この人物が「ヤコブ書」を書いた可能性について考えてみます。

 

イエスの弟ヤコブ

 福音書にはイエスの家族のことを紹介するためのまとまった記事はありません。他の事柄を語るときに、家族のことが触れられているので、その断片的な記事からイエスの家族のことが伝わってくるだけです。その中で代表的な箇所は、マルコ福音書六章三節です。イエスが故郷のナザレの会堂で教えられたとき、イエスの家族を身近に知っている故郷の人々は、その教えに驚いて、こう言ったと伝えられています。

  「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」。(マルコ六・三)

 マタイ福音書とルカ福音書にあるイエスの誕生物語は、復活者イエスを賛美する信仰告白という一面をもっていますが、そこにあるイエスの両親がヨセフとマリアであったという事実は疑う理由がありません。イエスは「ヨセフの子」と呼ばれています(ルカ四・二二、ヨハネ一・四五)。またイエスは二人の最初の子ですから、ヤコブやその後で生まれた兄弟はイエスの弟ということになります。ここに用いられている「兄弟」という用語は、実際の兄弟を意味する語であって、従兄弟というような他の意味では用いられません。ヨセフとマリアは、イエス誕生後は普通の夫婦として、数人の息子と娘を産んだということです。

 ところが、マリアの永遠の処女性を教義とするようになったローマカトリック教会は、マリアが普通の夫婦生活で子供を産んだことはありえないとして、ここの「兄弟」を「従兄弟」と解釈しました。また東方正教会は、ヤコブらをヨセフが先妻との間にもうけた子であって、ヤコブはイエスの年上の異母兄だとします。しかし、これらは教会教義からする無理な解釈であって、わたしたちは故郷の同時代人たちの証言から、イエスには弟や妹たちがいたと理解すべきです。ここで父親ヨセフが出てこないのは、イエスが公に活動された時には、ヨセフはすでに亡くなっていたと考えられます。なお、「マリアの子」という呼び方に、イエスの出生に関して世間の人たちが問題視していたことが示唆されていますが(拙著『マルコ福音書講解』の当該箇所参照)、ここではその問題には触れず、イエスにヤコブという弟がいたという事実に限定しておきます。

 ヨセフは息子たちに家業の大工の技術を教えました。それで、イエスは大工と呼ばれていますが、ヤコブも同じく大工の技術を身につけていたと考えられます。ヨセフは家業の技術だけでなく、忠実なユダヤ教徒として息子たちに律法(聖書)を熱心に教えました。聡明なイエスは、十二歳でエルサレム神殿の律法学者たちと対等に渡り合える高度な律法知識をもっていました(ルカ二・四一〜五二)。ヤコブにはそういうエピソードは伝えられていませんが、同じ親と同じ会堂での教育という環境で育った者として、彼も高度な律法の知識を身につけていたと見られます。彼は後に律法を厳格に守る人物として「義人ヤコブ」と呼ばれるようになりますが、その素地は彼の青年期までの律法教育にあったと考えられます。このヤコブの姿は、イエスの育ちを理解する上で参考にすべき材料です。イエスもヤコブも決して無学な「貧農」ではありません。

 イエスがナザレの家を出て洗礼者ヨハネの運動に身を投じ、それからガリラヤに戻って独自の「神の国」宣教の活動を始められたとき、家族たちはイエスの宣教活動に対してどのような態度を取ったのでしょうか。普通はマルコ三・二〇〜二一やヨハネ七・一〜五などを根拠にして、家族は大いに困惑したとか批判的であったと見られています。しかし、イエスの家族はイエスと行動を共にしていたという重要な証言があります。ヨハネ福音書(一・一二)は、「その後、イエスと母、兄弟たち、弟子たちはカファルナウムに下って行き、そこにしばらく滞在した」と伝えています。ここに明言されているように、イエスの母マリアとヤコブをはじめ兄弟たちがイエスに同行しているのであれば、家族はイエスの宣教活動に協力的であったと見ることができます。少なくともイエスを拒否したり、その活動に反対はしていなかったと推察されます。母マリアはカナの婚宴ではイエスを信じる者として行動しています。


   
復活者イエスのヤコブへの顕現

 イエスが最後に過越祭のためにエルサレムに上られたとき、母マリアとヤコブをはじめ兄弟たちもイエスと一緒にエルサレムに上って行きます。これは忠実なユダヤ教徒として過越祭に参加するためにエルサレムに上っただけなのか、イエスの働きに協力するために上ったのかは、確認することが困難です。母マリアとヤコブをはじめとする兄弟たちは、弟子たちと同様、エルサレムでのイエスの目覚ましい働きを期待し、それに参加するために上った可能性があります。ところが、イエスは捕らえられ、裁判にかけられ、十字架刑の判決を受けて処刑されます。目の前で起こったイエスの十字架上の刑死は、母や兄弟たち家族にとって衝撃的な出来事であったはずです。

 ところが、その後、復活されたイエスがヤコブに現れて、御自分が生きていること、神から遣わされた者であることを示されるという出来事が起こります。ルカによると、ヤコブを含むイエスの家族は、過越祭の後エルサレムに残り、生前にイエスに従った弟子たちと一緒に、ある家でひたすら祈っていますので(使徒一・一四)、この期間のあるとき復活されたイエスがヤコブに現れるという出来事が起こったのかもしれません。あるいは、過越祭が済んで失意の中に故郷のガリラヤに戻った後で、復活されたイエスがヤコブに現れ、後にヤコブがエルサレムに来て、弟子たちの集団に参加した可能性も否定できません。マルコとマタイによると、ペトロをはじめとする弟子たちはガリラヤに戻って、そこで復活者イエスの顕現を体験したのですから、ヤコブもそうであったことは十分考えられます。

 いずれにせよ、復活者イエスの顕現を体験したヤコブは、兄のイエスをイスラエルに遣わされたメシアであると信じるようになり、メシア・イエスに仕える者となります。復活されたイエスがヤコブに現れたという出来事は、重要な出来事として信徒の間で語り伝えられて伝承を形成します。その伝承のもっとも古い記録はパウロの書簡にあります。パウロは、復活されたイエスが現れた出来事を列挙してこう書いています。

 「ケファに現れ、その後十二人に現れました。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」(コリントT一五・五〜八)

 パウロは「次いで」という語を繰り返し、復活者イエスの顕現がこのような順序で順次に起こったように書いていますが、「ケファに現れ、その後十二人に現れた」という伝承と、「ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れた」という伝承はもともと別の系列の伝承であり、それぞれケファ(ペトロ)とヤコブの首位性を強調する別の顕現伝承があって、パウロがそれらを一つにまとめてここで報告していると見られます。ヤコブを筆頭にあげる顕現伝承は、後にエルサレム教団の首座についたヤコブの権威を基礎づけるために形成されたものと見られます。復活されたイエスが最初にヤコブに現れたという伝承は、「ヘブル人福音書」(断片一七)などにも伝えられています。

 

エルサレム共同体の統率者ヤコブ

 イエスをイスラエルに約束されたメシアであるとする新しい信仰運動は、当初はユダヤ教団内の運動として進展していきます。エルサレムで始まったこの信仰運動は、ユダヤ人の中での使用言語の違いによって、ごく初期からアラム語を用いるパレスチナ・ユダヤ人の共同体と、ギリシア語を用いるヘレニスト・ユダヤ人の共同体に分かれていたようです(使徒言行録六章)。ギリシア語を用いるヘレニスト・ユダヤ人の信徒たちは、ステファノの殉教のときの迫害によってエルサレムから追われ、各地に散って行きます。エルサレムにはアラム語を用いるパレスチナ・ユダヤ人信徒の共同体が残ります。当初この共同体を指導したのは、ペトロを筆頭者とする「使徒」たちでした。彼らは生前のイエスにつき従い、その教えを受けた者たちです。そして、復活されたイエスに出会い、復活者イエスから世界にイエスの教えを伝えるように派遣された者たちです。彼らが新しく生まれた信仰者の共同体を指導したのは当然です。

 ところが、ユダヤ人の共同体は、会堂(シナゴーグ)の場合に見られるように、長老によって指導統括されるのが普通でした。シナゴーグに具体的に現れるユダヤ人の共同体は、数名の長老からなる《ゲルーシア》(長老会議)によって指導され、宗教上の問題や刑事・民事の諸問題も、この《ゲルーシア》で裁かれ、諸決定がなされました。エルサレムのユダヤ人信仰者の共同体が歩み始めたとき、(使徒たちは宣教のために各地に出かけましたから)使徒たちとは別に、このような長老会議が形成されたことは想像にかたくありません。事実、少し後にエルサレム共同体から各地の集会に信仰上の指導の手紙が送られたとき、それは「使徒と長老」たちからの手紙として送られています(使徒一五・二二〜二九)。ヤコブがイエスを信じる者としてエルサレム共同体に加わったとき、彼がイエスの兄弟であるという血縁上のつながりと、すでに周囲のユダヤ人から「義人ヤコブ」として尊敬されていたという事情から、彼が長老の中でも代表格として共同体で重きをなしたと推察されます。

 ヤコブがかなり早期にエルサレム共同体を代表する立場に立つようになっていたことが、パウロの書簡からうかがえます。パウロは、「それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました」と書いています(ガラテヤ一・一八)。「それから三年後」というのは、ダマスコ途上の回心後のことですから、この最初のエルサレム訪問は35年になります。これはエルサレム共同体発足後四年から五年目ぐらいでしょう。パウロが回心後三年経ってはじめてエルサレムに上ったのは、ケファに会ってイエスに関する伝承を聞くためであったと考えられます。イエスをメシア・キリストと宣べ伝えるためには、イエスの働きと教えの言葉についてなるべく確実な情報を持っていることが必要ですから、地上のイエスにつき従った弟子たちの中で代表格のケファ(ペトロ)に会おうとしたのは当然です。しかし、そのためにエルサレムに行ったとき、パウロは他の弟子には会いませんでしたが、「ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました」。エルサレムに行って「主の兄弟ヤコブ」に会わないでおくことはできなかったのは、当時すでに「主の兄弟ヤコブ」がエルサレムの信徒共同体を代表していたからであると考えられます。パウロがヤコブを「主の兄弟ヤコブ」と呼んでいることから、イエスの弟であるという血縁上のつながりがいかに重んじられていたかがうかがわれます。

 このように、エルサレム共同体はかなり初期に長老たち、とくにその代表格である「主の兄弟ヤコブ」に統率されるようになっていました。使徒たちはその使命からしてもエルサレムを離れて各地に宣教に出かけたのに対して、長老たちはエルサレムに定住する有力なユダヤ人であるので(ヤコブはエルサレムから離れることはありません)、エルサレム共同体の指導権が長老会議に移っていったのも自然の流れだったでしょう。

 そのような流れを決定的にする事件が起こります。40年代の前半に、当時のユダヤの支配者ヘロデ・アグリッパ一世(在位41〜44年)が、十二人の中の一人であるゼベダイの子ヤコブを殺害します(使徒一二・一〜二)。ヘロデ大王の孫であるヘロデ・アグリッパ一世は、祖母マリアムネを介してハスモン王朝の血を引くためか、律法に忠実なユダヤ教徒に見えるように努力し、ユダヤ教の振興に力を注ぎました。彼はエルサレムのユダヤ教指導層と友好関係を築き、問題が起こったときには彼らの意に適う仕方で対処しました。おそらく何らかの律法に関する紛争でユダヤ教指導者たちがゼベダイの子でヨハネの兄弟であるヤコブを王に訴え、王はヤコブを逮捕処刑します。「それがユダヤ人に喜ばれるのをみて、さらにペトロをも捕らえ」投獄します(使徒一二・三〜四)。ペトロは奇跡的に脱獄することになります。あるいは危機一髪で逮捕を免れたことが、このような奇跡的脱獄の物語になった可能性もあります。

 ペトロはそのとき集会が行われていた家に戻り、「このことをヤコブと兄弟たちに伝えなさい」と言って、エルサレムから姿を消します(使徒一二・六〜一七)。ペトロが獄から解放されて戻った家は、「マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家」でした。ペトロは投獄されるまでこの家に住み、この家を拠点として活動していたことがうかがえます。しかし、ヤコブはその家にいません(いたらヤコブに伝えよという伝言は必要ないはずです)。ヤコブをはじめイエスの家族は別の家に集まっていたと考えられます。そして、この家の「主の兄弟ヤコブ」を中心とするイエスの家族が、エルサレム共同体の指導部を形成していたと見られます。

 この物語(使徒一二章)の「ヤコブ」は「主の兄弟ヤコブ」であり、彼がエルサレムの集会を代表していたことは、ここにもよく出ています。ペトロは「ほかのところへ行った」と伝えられるだけで、その後(一五章のエルサレム会議のとき以外は)使徒言行録に現れません。他の「使徒」も、この事件以後は使徒言行録にほとんど現れません。おそらく42年か43年に起こったこの事件を境にして、長老会議とくにその議長である「主の兄弟ヤコブ」がエルサレム集会を統率するという体制は、ますます強くなっていったと考えられます。後で見るように、48年の「エルサレム会議」では、ヤコブが議長として決定を下しています(使徒一五・一三〜二一)。ペトロもパウロもヤコブの権威に服しています。また、57年にパウロが献金を携えてエルサレムに来たとき、エルサレムの長老全員がパウロと会っていますが、そこでもヤコブが会談を取り仕切っています(使徒二一・一七〜二六)。

 ヤコブがかなり初期からその死にいたるまでエルサレム共同体を代表する立場にいた事実は、その後の共同体の伝承の中に保持されることになります。その伝承をまとめて四世紀初頭に『教会史』を著したカイサリアのエウセビオスは、ステファノの殉教を記した直後に、主の兄弟と呼ばれるヤコブがエルサレムの「初代の監督」に選ばれたと伝えています。その後に、「救い主の昇天後、ペトロとヤコブとヨハネは・・・・義人ヤコブをエルサレムの監督に選んだ」というアレクサンドリアのクレメンスの著作の中の言葉を引用して、その経緯を説明しています。その際、二人のヤコブを区別すべきだとして、一人は斬首されたヤコブ(ヨハネの兄弟)、他の一人が義人と呼ばれ、神殿の塔から突き落とされて殺されたヤコブ(イエスの兄弟)という説明も加えています(エウセビオス『教会史』U一・二〜三)。


「義人ヤコブ」

 ヤコブがエルサレム共同体を代表する立場になっていったのは、彼が「主の兄弟」であるというイエスとの血縁関係からだけではなく、彼が厳格に律法を順守する者として「義人」と呼ばれ、共同体内のユダヤ人たちからだけでなく、外のユダヤ人たちからも尊敬されていたからです。当時のエルサレム共同体は、時代の要請から、このような「義人ヤコブ」を共同体の顔として代表者にする必要に迫られていました。

 「時代の要請」というのは、四〇年代から五〇年代にかけて、エルサレムでは宗教的民族主義がだんだんと熱気を帯びてくる時代でした。異教徒ローマ人の支配下にあって、ヤハウェだけを王とする本来のイスラエルを回復しようとする運動は、ファリサイ派やエッセネ派の律法順守の熱心として高揚し、その中でも過激な「熱心党」はローマへの税の不払いやローマに協力的なユダヤ人指導者の暗殺など、武力による反ローマ運動を展開していました。時代の合い言葉は「律法への熱心」です。そのような時代の流れの中で、イエスをメシアと信じる者の共同体が、少しでも律法に不忠実な態度を見せるならば、ユダヤ人たちの敵意の火に油を注ぐことになり、存立そのものが危うくなります。事実、共同体発足後三年ほどの時期に、ヘレニスト・ユダヤ人(ギリシア語を用いるユダヤ人)がイエスへの信仰によって神殿や律法に対して自由な態度を示したとき、それを代表して語ったステファノがユダヤ教徒の憤激を招き、石打にされるという事件が起こっています。この事件をきっかけにして、ヘレニスト・ユダヤ人の信徒に対する迫害が起こり、彼らはエルサレムから散らされて行きます。しかし、律法に忠実なパレスチナ生まれのアラム語系のユダヤ人信徒はエルサレムに残ります。エルサレム共同体は、この時からパレスチナ・ユダヤ人だけの律法に忠実なユダヤ人だけの共同体となります。そして、自分たちが律法に忠実であることを周囲のユダヤ人に示すために、厳格な律法順守のゆえに周囲のユダヤ人たちからも尊敬されている「義人ヤコブ」を代表者として押し立てることになります。

 ヤコブの義人ぶりは、まとまった文書とか記事があるわけではありませんが、この時代のことを伝える断片的な資料や伝承からうかがい知ることができます。たとえば、エウセビオス(『教会史』第二巻二三・四〜七)が引用しているヘゲシッポス(二世紀半ばのパレスチナのユダヤ人キリスト者の著述家)による伝承は、次のようにヤコブを伝えています。

   「教会の監督権は使徒とともに主の兄弟ヤコブに譲渡された。ヤコブは主の時代から今日まで誰もが義の人と呼ぶ人物である。他にも多くのヤコブがいるが、彼だけが生まれつき聖なる者である。ぶどう酒や酒をいっさい口にせず、動物の肉も食べない。頭に剃刀を当てることも、香油を体に塗ることも、沐浴もしない。彼だけは聖所に入ることができる。そのため、彼が身に着けているのは、毛織物ではなく麻布である。常に一人で聖所に入り、跪いて人々のために神に赦しを乞う。長い時間祈るので、その両膝は駱駝の膝のように堅くなっている。この上ない敬虔さのゆえに、彼は義人、あるいは砦(擁護者)と呼ばれている。彼は預言者の言葉通りの人物である」。

 ぶどう酒を飲まず、頭に剃刀を当てないことは、ヤコブが生涯「ナジル人の誓願」(民数記六章)を立てていたことを示唆しています。しかし、それだけでなく肉を食べず、香油を体に塗ることも、沐浴もしないことは、厳格な禁欲主義者の敬虔を貫いたことを示唆しています。しかし、ヤコブの禁欲主義を過大に強調してはなりません。ヤコブはあくまで社会生活の中で律法を厳格に順守したユダヤ教徒であって、砂漠の世捨て人のような修道僧ではありません。ヤコブは、他のイエスの兄弟たちと同様、結婚していたと考えられます(コリントT九・五)。結婚して子孫を得ることは、敬虔なユダヤ教徒の義務でした。

 ヤコブが「ぶどう酒を飲まず、肉を食べない」生活をしたことは注目されます。コリントやローマにおいてユダヤ人と異邦人が混じった集会の交わりの中で、「ぶどう酒を飲まず、肉を食べない」人たちと、自由に飲み食いする人たちとの関係が難しい問題になったことが、パウロ書簡からうかがえますが、このコリントやローマの「ぶどう酒を飲まず、肉を食べない」人たちとヤコブとの間に何らかの関係があったのかどうかは、十分に解明されていません。

 このようなヤコブに率いられるエルサレム共同体、およびこのエルサレム共同体を中核とするメシア・イエス運動のユダヤ人たちは、一世紀の半ばには、クムランを拠点とするエッセネ派と並んで、当時の主流を形成していたファリサイ派のラビ・ユダヤ教と対抗する一派を形成するに至っていました。もっとも一世紀には、ファリサイ派の中の過激派が「熱心党」を形成し、ヨセフスはこれをサドカイ派、ファリサイ派、エッセネ派に並ぶ「第四の哲学」と呼んでいますが、イエスをメシアとして信奉するヤコブ派も有力な一派をなしていたと見てよいでしょう。

 

調停者ヤコブ

 このようにユダヤ教律法を通常以上に厳格熱心に順守するヤコブは、異邦人にイエス・キリストの福音が宣べ伝えられ、多くの異邦人が信仰に入ってきたとき、異邦人信徒に対してどのような態度を取ったのでしょうか。使徒言行録(一五・一)の「ある人々がユダヤから下って来て、『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と兄弟たちに教えていた」という記述と、ガラテヤ書(二・一二)の「ヤコブのもとからある人々が来るまでは」とを短絡的に結びつけて、ヤコブが異邦人信徒に割礼を受けてモーセ律法を順守するように要求した(あるいはそのような要求をした勢力の黒幕である)かのように見られる場合が多いようですが、それは誤解です。ヤコブが異邦人信徒の割礼にどのような態度をとったのかという問題は、もっと正確に検討しなければなりません。

 パウロが異邦人に「無割礼の福音」を宣べ伝えて、多くの異邦人が割礼を受けないままでキリストの民として迎え入れられたとき、それに反対し、異邦人信徒も割礼を受けてモーセ律法を順守しなければならない、すなわちユダヤ教徒にならなければならないと主張して、パウロの伝道を妨害したユダヤ人信徒の勢力があったことは事実です。パウロの書簡は、パウロの活動を妨害する彼らの対抗運動に苦しめられていることを率直に述べています。このままでは自分の異邦人伝道が無意味になると恐れたパウロは、エルサレムに上ってこの問題をヤコブが主宰するエルサレム教団で決着をつけようとします。それが、パウロがガラテヤ書二章で描き、ルカが使徒言行録一五章で語っている「エルサレム会議」です。

 このエルサレム会議を議長として統括しているのは「主の兄弟ヤコブ」です。ファリサイ派から信仰に入った者たちが、パウロが無割礼の福音を宣べ伝えていることに激しく反対して、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と主張します。それに対してペトロがコルネリオの場合の体験(使徒一〇章)からパウロの立場を擁護します。パウロとバルナバが立って、改めて自分たちの働きを通して神が無割礼のまま異邦人を受け入れておられる事実を報告します。最後にヤコブが立ち上がって、「わたしはこう判断します」と言って、裁決を下します。この会議の成り行きを見ると、ペトロもパウロも他のユダヤ人信徒と共にヤコブの権威を認めている様子がうかがえます。

 ヤコブは決して異邦人に割礼を求めていません。パウロとバルナバが主張し、ペトロが擁護したように、異邦人で御名を信じた者には割礼は必要でないとします。しかし、死んでもモーセ律法は守らなければならないとするユダヤ人の立場も認め、ユダヤ人と異邦人信徒の交わりが可能になるため、異邦人信徒に最小限度の要求をしています(使徒一五・一九〜二〇)。ヤコブは厳しく対立する二つの立場を調停しようと心を砕いている様子がうかがえます。

 ヤコブは、異邦人信徒には割礼を受けてモーセ律法の諸規定を守ることを要求しませんでしたが、ユダヤ人信徒には当然モーセ律法を厳格に順守してユダヤ教徒としての立場を貫くように要求しました。このことが、異邦人信徒が多く含まれるようになっていたアンティオキアの集会で、共同の食事をめぐって衝突を引き起こすことになります(ガラテヤ二・一一〜一四)。ユダヤ人には食事に関するモーセ律法の厳格な順守を要求するヤコブの立場と、徹底的に信仰だけを義の根拠とし「律法の外で」の義を主張するパウロとの間に立って、自身はユダヤ人でありながら、異邦人に福音を説いて異邦人と食卓の交わりを持っているペトロとバルナバは動揺します。二人は結局「ヤコブのもとから来た人たち」の要求に従って、異邦人と共にしていた食卓から身を引きます。パウロはそれを偽善として批判し、アンティオキアの集会を去って、独立の宣教活動を始めることになります。

 このように、ヤコブが代表するユダヤ人信徒の立場(ユダヤ人にはモーセ律法の厳格な順守を求める立場)と、パウロが主張する「律法の外に現された神の義」の立場との間には、ユダヤ人と異邦人信徒が混在する最初期の集会で解きほぐしがたい軋轢がありました。しかし、ヤコブはパウロの「無割礼の福音」を認め(ガラテヤ二・九)、それに反対するユダヤ人信徒との間を調停しようと努力した人物であることを忘れてはなりません。パウロはこのようなヤコブが率いているエルサレム共同体を信頼し、危険を冒して、エルサレム会議で約束した「聖徒たちへの献金」を携えて来ます。パウロがエルサレムに上ってきたとき、ヤコブは厳格派のユダヤ人長老たちがパウロを受け入れることができるように苦心しています(使徒二一・一七〜二六)。ところが、このときヤコブがナジル人の誓願の儀式に参加するように求めた提案にパウロが従った結果、パウロは神殿で騒乱に巻き込まれ、ローマの守備軍に逮捕されることになります(使徒二一・二七以下)。

 

ヤコブの殉教

 パウロが逮捕されたエルサレムの騒乱事件は、56年のことと考えられます。この時期のエルサレムは、やがて66年に火ぶたを切ることになるユダヤ戦争前夜の時代で、「律法への熱心」、すなわちユダヤ教徒の宗教的民族主義が燃え上がっていた時期でした。その雰囲気は、パウロの逮捕を伝える使徒言行録の二一〜二二章もよく出ています。ヤコブが率いるエルサレム共同体も、周囲のユダヤ人たちからは疑いの目で見られ、厳しい状況に追い込まれていたと推察されます。大祭司を頂点とする体制派は、現体制を批判し否定するあらゆるメシア運動に神経質であり、弾圧の手を伸ばしてきます。

 エルサレムで逮捕されたパウロはカイサリアに護送され、総督フェリクスの裁判を受けることになります。フェリクスは、一度は法廷を開きますが、その後は任期中裁判を放棄して、パウロを二年間拘置したままにします。フェリクスの後任として58年(59年とする説もあります)に着任した総督フェストゥスは、すぐにパウロの裁判を再開します。パウロは皇帝に上訴して認められ、ローマに向かって護送されます。このパウロの裁判に関わった総督フェストゥスは、任期中に急死します。そこで皇帝は後任にアルビノスを任命しますが、彼がローマからアレクサンドリア経由でカイサリアに着任するまでの僅かの期間、総督がいない状況が生じます。この空白期間を利用して、時の大祭司アナノスがヤコブを最高法院に引き出し、裁判にかけ石打の刑で殺します。これは62年の出来事です。この事件は、ヨセフスの著作に次のように伝えられています。

    「カイサルはフェストゥスの死を知ると、アルビノスを総督としてユダヤに派遣した。アグリッパ王はヨセポスから大祭司職を取り上げ、その後任にアナノスの子で、父と同名のアナノスを選んだ。・・・・・
    さて、大祭司職に任ぜられた前述の若い方のアナノスは性急な性格で、かつ驚くほど大胆であった。彼はサドカイ派の宗派に属していたが、すでに述べたように、この人たちは裁きという点では、他のユダヤ人よりも冷酷無情なのが通例であった。加えて、アナノスの性格が性格であった。彼はフェストスが死に後任のアルビノスがまだ赴任の途上にあるこの時こそ絶好の機会と考えた。そこで彼はスュネドリオン(最高法院)の裁判官たちを招集した。そして彼はキリストと呼ばれたイエスの兄弟ヤコブとその他の人々をそこへ引き出し、彼らを律法を犯したかどで訴え、石打ちの刑にされるべきであるとして引き渡した。
    市中でもっとも公正な精神の持ち主とされている人たちや、律法の遵守に厳格な人たちは、この事件に立腹した。そこで彼らはアグリッパ王にたいしてひそかに使いを出して、今後二度とこのようなことを行わないように命令してほしいと願い出た。・・・」
 (ヨセフス『ユダヤ古代誌』二〇・一九九〜二〇一、  秦剛平訳、一部人名を新共同訳聖書に準じて変更)

 このヨセフスの記事は、イエスに関する記事に見られるような後の時代のキリスト教徒による改変や編集の跡がなく、ほぼ歴史的事実として信頼できます。ヤコブの殉教の状況が、総督の在任空白期間を利用して行われたことなど、具体的に伝えられています。その他、次のような諸点が注目されます。

 ヤコブは「キリストと呼ばれたイエスの兄弟」と呼ばれています。この時代にエルサレムにイエスをメシア・キリストとする信仰運動があり、イエスの兄弟であるヤコブがその指導者として知られていたことが、ヨセフスのような同時代の歴史家によって証言されていることになります。

 ヤコブの処刑はユダヤ教式の石打の刑でした。イエスの場合は、最高法院に死刑を執行する権限がなかったので、ローマ総督に訴え出て、ローマ式の十字架刑によって処刑されましたが、ヤコブの場合はローマ総督がいない時を利用したのですから、最高法院自身が判決し、石打の刑で処刑しています。

 この処刑に対して、エルサレムの「律法の遵守に厳格な人たち」が憤慨して、アグリッパ王に訴え、またアレクサンドリアから赴任途上のアルビノスに使いを出してアナノスの越権行為を訴え、アナノスは大祭司職を三ヶ月で解任されています。この事実は、ヤコブがエルサレム共同体の外の「律法の遵守に厳格な人たち」からも義人として尊敬されていたことを示しています。
 大祭司たちの本当の動機は、自分たちの支配体制にとって危険なヤコブを取り除きたかったのでしょうが、最高法院の法廷では「律法を犯したかどで」石打刑を言い渡します。おそらく(申命記一三章に規定されている)民を惑わす偽りの教師、異端の扇動者として裁いたのでしょう。

 先にヤコブの義人ぶりを描くのに引用したヘゲシッポスは、その記事の続きでヤコブの殉教の様子を詳しく伝えています(エウセビオス『教会史』第二巻二三・八〜一八)。それによると、律法学者やファリサイ派の人たちは、義人ヤコブがエルサレムの民衆から尊敬されているのを知っているので、民衆にイエスをメシアと信じて誤りに陥らないよう説得することを求めて、ヤコブを神殿の高い所に連れて行き、そこから語らせます。ところが、ヤコブは「人の子は天において大いなる力の右に座し、天の雲に乗って来られる」と叫んだので、彼らはヤコブを突き落とし、石を投げつけますが、ヤコブがまだ死なず、「父よ、彼らを赦したまえ。彼らはしていることが分からないのです」と祈ります。ところが、布さらし職人の一人が仕事に使う棍棒でヤコブの頭を打ち、死に至らしめます。ヘゲシッポスは最後にこう書いています、「人々は彼を神殿の傍らのその場所に葬った。彼の墓石(ギリシア語原語では《ステーレー》)は今も神殿の傍らにある」。

 エウセビオスはこのようにヘゲシッポスを引用してヤコブの殉教を描いた後に、「ユダヤ人の中でさえ知恵ある人たちは、これ(ヤコブの殺害)こそヤコブの殉教の直後に起こったローマ軍によるエルサレムの包囲攻撃の原因であると考えた」と書いています(『教会史』第二巻二三・一九)。

 

ヤコブの骨箱

 このように大祭司によって石打刑で殺されたヤコブは、彼を敬愛するエルサレム共同体の信徒らによって「ユダヤ人の埋葬の習慣に従って」神殿の傍らに丁重に葬られます。その「埋葬の習慣」では、遺体を亜麻布で巻き、香料を添えて横穴式の墓穴に安置し、入口を塞ぎます。墓所は、人が立って入れる大きさの小部屋に面して、その奥に数個の遺体安置用の墓穴(一人の遺体を横たえるだけの寸法の横穴)が掘られていました。そして、一年か二年経って遺体が腐敗して肉が落ちた時期に、乾燥した骨だけを骨箱(オシュアリー)に納めて、定められた区域に並べて安置します。この骨箱は長さ50センチ、幅25センチ、高さ30センチ程度の小さい石灰石の蓋付きの箱で、その前面に誰の遺骨であるかを示す名前や墓碑の言葉が刻まれます。この墓地区域に並べられた骨箱の名前や墓碑は、当時の社会や生活を推察させる重要な考古学的資料であり、最近はその研究が進んでいるようです。たとえば、その墓碑の言語はアラム語かギリシア語ですが、その割合から当時のエルサレムの言語状況が推察され、アラム語系のユダヤ人とギリシア語系のユダヤ人の人口比率も推定されることになります。

 ところで、最近ヤコブの骨箱と見られる骨箱が発見されて大きな話題になっています。前面に「ヨセフの子、イエスの兄弟ヤコブ」というアラム語の名を刻んだ骨箱が発見されたとして、聖書考古学界だけでなく欧米では一般社会でも大きく取り上げられ、その真贋論争が燃え上がりました(二〇〇二年前後)。それはエルサレム近郊の骨董市場から出たものであるので、専門家からは偽物ではないかと疑われることになりますが、現代の一流の考古学者や古代文字の専門家で本物であることを認める人も多くいます。また、石灰石の材質やパチナ(長年の間に石の表面にできた薄い膜)の科学的な分析結果も本物であることを認めています。

 本物であれば、ヤコブがイエスの兄弟としてエルサレム共同体で尊敬されていた指導者であることを示す物的証拠となり(このような埋葬はそれを示しています)、また、イエスに最も近い唯一の考古学的資料となり、この骨箱の発見は「世紀の大発見」ということになります。この骨箱は、これについての考古学学会が開かれたカナダのオントリオールに運ばれ、現在はそこの博物館に展示されています。

 

ヤコブ以後のエルサレム共同体

 エルサレム共同体の信徒たちは、殉教した主の兄弟ヤコブを葬った後もすぐエルサレムを去ることはありませんでした。少なくとも数年はエルサレムに踏みとどまり、ヤコブの遺骨を骨箱に再埋葬します。ヤコブなき後、エルサレム共同体はクロパの子シメオンを、イエスの従兄弟に当たるという理由で後継の監督職に選びます(エウセビオス『教会史』第三巻一一・一、第四巻二二・四)。ヨハネ福音書一九・二五のクロパはイエスの叔父になるといわれています。最初期のエルサレムのユダヤ人共同体では、イエスの親族であることが監督であるための重要な要件であったことがうかがわれます。

 六〇年代に入ってエルサレムの情勢は緊迫化し、その中で62年にはヤコブの殉教も起こることになるのですが、その後ローマとの関係はますます険悪化し、ついに66年には第一次ユダヤ戦争が勃発します。この時期、多くのユダヤ人が戦禍を逃れて国外に脱出します。この前後の時期にエルサレム共同体は、食料不足や過激派間の抗争で混乱状態に陥った聖都を見限り、逃れるようにという預言もあって、ヨルダン川東岸のペラに脱出します。これは67年または68年と見られています。一部の者たちは、エルサレムと緊密なつながりのある集会が形成されていたアンティオキアに逃れたと推察されます。

  70年に至ってついにエルサレムは陥落し、神殿は炎上します。この神殿の崩壊は、エルサレム神殿を唯一の礼拝の場所としてきたユダヤ教にとって、天地が崩れるほどの衝撃的な出来事でしたが、福音進展の歴史にとっても時代を画する重要な意義をもつ出来事となりました。それまでの時代は、主の兄弟ヤコブを長と仰ぐユダヤ人のエルサレム共同体が福音活動の中核をなし、イエスをメシアと信じて救われたユダヤ人の共同体に、異邦の諸民族が参与するという形で神の救済史が完成すると考えられていました。パウロもそう考えています(ローマ書九〜一一章)。ところが70年以後は、ユダヤ人共同体は福音の表舞台から退場し、異邦諸国民の信徒共同体が救済史を担う時代が始まりました。「異邦人の時代」(ルカ二一・二四)の到来です。このエルサレム神殿の崩壊の前と後では、福音の提示がかなり変わってきていることについては、別稿の「パウロとパウロ以後」で見ることになります。

 しかし、イエスの復活からエルサレム神殿の崩壊までという最初期のキリストの民の歴史において、もっとも重要な要の地位にあった「主の兄弟ヤコブ」についての記憶と尊敬は、その後の数百年にわたって多くの伝承や伝説を生み出すことになります。最後に、このヤコブに関する伝承と伝説を、ごく簡単にスケッチしておきます。

 

ヤコブに関する伝承

 ヤコブに関する伝承は、大きく二つのグループに分かれます。一つは正統派の教会に伝えられた伝承です。他の一つは、グノーシス主義諸派の中で形成された伝承です。

 正統派の教会に伝えられた伝承の多くは、これまでにしばしば引用したように、エウセビオスの『教会史』に保存されて伝えられています。その諸伝承はヤコブをエルサレム教会の初代の司教(監督・ビショップ)として、ここに述べたようなヤコブの姿を伝えています。その他に、新約聖書の正典には入れられなかった「外典」とか「偽典」と呼ばれる文書の中に、ヤコブに関する伝承が残されています。たとえば『ヘブル人福音書』には、復活したイエスが最初にヤコブに現れたとする記事があります(断片七)。ヤコブの殉教に関しては、先に引用したヘゲシッポスの他にも『ヤコブの昇天』という断片的に伝えられた文書があり、よく似た物語を伝えています。また、初期のキリスト教会に大きな影響を与えた文書に、ヤコブが書いたとされる『ヤコブ原福音書』があります。「原福音書」とは、正典福音書が記述しているイエスの誕生に先行する物語という意味で、内容はマリアの誕生から神殿での養育、ヨセフとの縁組み、イエスの誕生に至る、マリアを主人公とする物語です。この書によると、マリアは処女のまま聖霊によって妊娠して、ベツレヘム近くの洞窟でイエスを出産しますが、その後も処女のままであり、ヤコブらイエスの兄弟はヨセフの先妻の子とされています。この書では、イエスとヤコブは母が違うだけでなく、父も違うのですから兄弟とは言えなくなります。

 もう一つのグループは、ナグ・ハマディ文書に含まれるグノーシス系の文書です。『トマス福音書』では、去って行かれるイエスに弟子たちがその後のことを尋ねますが、それに対してイエスは「あなたがたは義の人ヤコブのもとに行くであろう」と義人ヤコブの名をあげ、「彼のゆえに天と地が生じたのである」と言っておられます(語録一二)。他に『ヤコブのアポクリュフォン(秘密の教え)』、『ヤコブの黙示録T』、『ヤコブの黙示録U』などがあります。ヤコブによって書かれたとされるこれらのグノーシス主義的傾向の偽名文書では、イエスが義人ヤコブに特別の秘密の啓示を委ねられたとされています。主の兄弟ヤコブの評価は、時代が下がるに従って高くなっていきます。しかも、それはユダヤ教内キリスト信仰の伝承においてです。ユダヤ教内キリスト信仰に起源をもつグノーシス主義は、自分たちの信仰思想を、ユダヤ教内キリスト信仰の最高の指導者である主の兄弟ヤコブに与えられた特別の啓示によって根拠づけようとして、これらの文書を生み出したと見られます。

 しかし、主の兄弟ヤコブを知る上でもっとも重要な文書は、新約聖書の正典に収められている「ヤコブ書」です。この書がどういう書であるのかを理解するために、またこの書によって「主の兄弟ヤコブ」を知るために、まず次の第二節でこの書の成立について考察した上で、第三節でその内容の概略を見ることにします。

 


  第二節 ヤコブ書の成立

 

著者と宛先

 ヤコブ書は「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします」という挨拶で始まります(一・一)。この「ヤコブ」は、イエスの兄弟であるヤコブ以外には可能性がないことについては、本章の冒頭で触れました。このように自分の名前だけで広く信徒の群れに呼びかけることができるのは、その名が広く知れ渡っている、よほど権威ある人物だけです。問題は、本書がこのヤコブの筆になる文書か、またはヤコブ以後の人物がヤコブの名を用いて書いた文書かです。すなわち真正性の問題です。最近の批判的な聖書学は真正性を疑う説に傾いていますが、有力な研究者で真正性を擁護する人もかなりいます。聖書事典類は、真正の文書であればこう、偽名文書であればこう理解できるというように、両論併記で説明するケースが多いようです。

 まず言語の問題から見ていきましょう。ヤコブ書はかなり洗練されたギリシア語で書かれています。パレスチナ生まれのアラム語を母語とするユダヤ人であり、長年アラム語系のユダヤ人からなるエルサレム共同体で働いてきた「主の兄弟ヤコブ」が、このような洗練されたギリシア語で書けるかが問題になります。ヤコブがアラム語で書いたものを後でギリシア語に翻訳したという説明もなされますが、ギリシア語でなければ成立しない言い回しもあり、翻訳説は成立しません。たしかに、パレスチナ・ユダヤ人のヤコブはこのようなギリシア語は書けないとすることはできません。当時のパレスチナのユダヤ人は、生活の必要上、ギリシア語もかなり使うことができました。ヤコブの場合は、その生涯の後半をバイリンガル都市であるエルサレムで過ごしたのですから、かなりギリシア語ができても不思議ではありません。ヤコブの周囲にはバルナバやマルコやシラスなどギリシア語をよくするパレスチナ生まれの(=アラム語系の)ユダヤ人が多くいました。しかし、本書のように洗練された文学的なギリシア語は、ヤコブが書いたとすることは不可能ではないにしても、他の人物が書いた可能性も推察するように促します。真正説をとる人も、ヤコブがギリシア語に堪能な秘書とか筆記者を用いて書いたとする場合が多いようです。

 本書は「離散している十二部族の人たち」に語りかけています。「離散している」も「十二部族」も、共にイスラエルの民を指す用語です。「十二部族」はイスラエルの民を指す典型的な表現ですし、「離散している」は捕囚後のユダヤ人について用いられる用語であって、異邦人について用いられることはありません。本書を、広く当時のユダヤ人全体に呼びかけている文書と見る人もいますが、内容からするとやはりイエスを信じているユダヤ人に呼びかけていると見るのが順当でしょう。第一節で見たように、ヤコブはユダヤ人にメシアとしてのイエスを告知し、イエスの信仰に導くことを使命としました。自らユダヤ教律法を厳格に実行し、イエスを信じたユダヤ人には律法の順守を求めた指導者でした。ヤコブは、あくまでユダヤ教の枠の中でイエス信仰を進めることを使命とし、それに生涯をかけた人物です。本書は、この呼びかけの表現からも、またその内容がきわめて強いユダヤ教的色彩に貫かれていることからも、ユダヤ教内の信仰文書であるという性格が明らかです。

 本書は「離散している」ユダヤ人に語りかけています。ヤコブがエルサレムで活動していた時代にも、離散のユダヤ人の中にイエスを信じる者が多くいたのですから、エルサレムから離れることのなかったヤコブが、ユダヤ教の「ディアスポラ書簡」に倣って、遠くに住む離散のユダヤ人信徒にこのような勧告の手紙を書いたとしても不自然ではありません。しかし、ほとんどのユダヤ人信徒が離散の民となった70年以後の状況に置いてみると、本書はいっそう適切に理解できるのではないかと考えられます。この点については、後で検討することになります。

 

ヤコブ書の特色

 ヤコブ書は、一読するだけでも、次のような四つの特色があることが分かります。第一は、強いユダヤ教的性格です。とくにユダヤ教の知恵文学の影響は明白で(個々の場合は次節の「略解」で指摘します)、全体がユダヤ教知恵文学の延長上にあることを示しています。逆に、キリスト教的な面はきわめて希薄で、二カ所(一・一と二・一)だけにある「主イエス・キリスト」の名を除くと、そのままユダヤ教の文書として通用すると指摘する学者もいます。しかし、これはユダヤ教の枠内でイエス信仰を推し進めるヤコブの立場としては自然な結果です。ヤコブはユダヤ教の知恵文学の伝統を継承する新しい信仰運動の知者として現れています。

 第二の特色は、「語録資料Q」にあるイエスの語録と同じか、よく似た言葉が全編にちりばめられていることです。その結果、「語録資料Q」を用いてユダヤ人向けの福音書を書いたマタイの福音書、とくにその福音書の典型的な箇所である「山上の説教」とよく似た内容になっています。この事実は、必ずしもヤコブが「語録資料Q」に依存していることを示すものではなく、ヤコブが兄でありメシアとして仕えているイエスの言葉を尊んで忠実に伝えていることを示してます。むしろ、「語録資料Q」がこのようなヤコブのイエス運動から出ている面を考慮しなければなりません。ヤコブ書と「語録資料Q」との重なりは、最初期におけるユダヤ教内のイエス運動の性格について多くの示唆を与えます。

 第三の特色は、本書は貧しい人たちに対して強い関心を向けていることです。この点は、貧しい者への祝福を宣言する「語録資料Q」と共通していますが、ヤコブ書はさらに貧しい人たちへの具体的な配慮に満ちています。その反対に、富める者たちへの厳しい態度が目立ちます。ヤコブが率いるエルサレム共同体は「貧しい人たち」と呼ばれています(ガラテヤ二・一〇)。ヤコブ書は、この「貧しい人たち」の共同体としてのエルサレム共同体の伝承をよく伝えています。

 第四は、二・一四〜二六に見られるように、パウロの「信仰によって義とされる」という教えを強く意識して書かれているという事実です。ヤコブ書は、パウロの福音に反対しているのではなく、(後でその箇所の略解で見ますが)パウロの唱える信仰による義の誤解とか誤用に対して警告しているのですが、このパウロ批判とも受け取られかねない面が本書の特色の一つであり、後の時代(パウロ的福音に立った宗教改革の時代)に、本書が福音にとって価値のない「藁の書簡」(ルター)として無視される原因になります。しかし、最初期(70年まで)において最も重要な人物である「主の兄弟ヤコブ」(その地位はペトロやパウロよりも重いものでした)の姿を伝える文書として、また、ヤコブが代表したエルサレム共同体の伝承を伝える文書として、本書はけっして無視されてはなりません。

 

ヘレニズム世界におけるユダヤ教内キリスト信仰の証言

 本書がヤコブ自身によってエルサレムで書かれたという可能性は否定できません。その場合は、ギリシア語に堪能な秘書とか筆記者を用いたと推察されますが、その内容は直接ヤコブ自身の声を響かせていることになります。本書がパウロの宣教を意識していることから、その成立はエルサレムでパウロの活動が問題となった時期以後となり、55年頃(クラウス・ベルガー)とか、殉教少し前の57年とか58年頃と推定されています。

 しかし、本書がエルサレムのユダヤ人信徒に向けられた勧告ではなく(そうであればアラム語で書かれているはずです)、広くヘレニズム世界に離散して信仰生活をしているユダヤ人に、ヤコブの勧告を伝えようとしていることは明らかです。それは、この文書がギリシア語で書かれていること、七十人訳ギリシャ語聖書を典拠として用いていること、《カイレイン》という典型的なギリシア風の挨拶を用いていること(一・一)などからも確認できます。

 そうであれば、イエスを信じるユダヤ人がほとんど皆「離散している」状況にあった70年以後の時期の成立の可能性がより高くなります。この場合、ヤコブは62年に殉教しているのですから、他の人物が書いたことになりますが、この著者は師ヤコブの信仰を十分身に体して、自ら離散の状況の中から離散の同胞にヤコブの教えを伝えようとして、ヤコブの名によってこの勧告の手紙を書いたことになります。この場合も、この手紙が(間接的ながら)ヤコブの声を響かせ、エルサレム共同体の信仰を伝えていることには変わりはありません。「ヤコブの手紙は、ギリシア語圏においてエルサレム教会のユダヤ人キリスト教伝承が継続していたことの大切な証言である」(H・ケスター)。

 70年以後の成立とする場合、どの地域で成立したかが問題となりますが、それを確定することは困難です。エルサレムから脱出したユダヤ人信徒の避難先としては、シリア方面が第一に考えられますが、その中でもやはりエルサレム共同体と深いつながりのあった強力な集会が活動しているアンティオキアが第一の候補となるでしょう。ペインターもアンティオキアを推定しています。アンティオキアでは、ユダヤ人信徒の中からイエスの語録伝承を基にしたマタイ福音書が生まれています。また、「ディダケー」と呼ばれるユダヤ教的色彩の強い勧告の文書も、シリアでの成立が推定されています。危機的状況の聖都から脱出したエルサレム共同体の一部のメンバーが、アンティオキアにヤコブの教えとエルサレム共同体の伝承を携えてきて、このような「離散のユダヤ人」信徒に向けた勧告の文書が成立したと見てよいでしょう。アンティオキアでなくても、ローマとかアレクサンドリアとか、ギリシア語圏の大都市において、ヤコブを権威とするエルサレムのユダヤ人共同体の伝承が、このような「ユダヤ教内のキリスト信仰」を証言するギリシア語の文書を生み出した事実が、福音の展開史において重要な意味があります。

     アンティオキア成立説にも、シリアの教会がかなり遅くまでヤコブ書を知らなかったという困難があります。注解者の中には、ヤコブ書二・一四〜二六がパウロのローマ書を知っていると見られること、また、ローマでの成立と見られる「ヘルマスの牧者」とかペトロ第一書簡やクレメンス書簡が、用語とか思想でヤコブ書に近い点があることから、ヤコブ書がローマにおいて早くから知られていて、ローマで成立したと推定する人もいます(たとえばAnchor Bible DictionaryのReicke )。ローマには多くのユダヤ人信徒がいたのですから、この推定も有力です。あるいはパレスチナの周縁地域(カイサリアなど)やエジプト(アレクサンドリア)での成立を推定する研究者もいます。


                             
附論―「ユダヤ人キリスト教」という用語について

 「主の兄弟ヤコブ」が代表する最初期のエルサレム共同体の信仰は、この時代を扱う神学書において「ユダヤ人キリスト教」と呼ばれるのが普通です。しかしこの用語は、実態に即しないので、誤解を招きやすく、再検討の必要があると考えます。
 実態に即していないというのは、この時期にはまだユダヤ教とは別の「キリスト教」という宗教はなかったからです。彼らは、イエスをメシア・キリストと信じましたが、ユダヤ教を放棄して別の宗教に変わったのではなく、ユダヤ教徒のままです。だいたい新約聖書の時代では、「ユダヤ人」というのはユダヤ教徒のことです。「異邦人」というのは、ユダヤ教徒から見た「異教徒」のことです。「ユダヤ教徒のキリスト教」は実態に即していません。

    「ユダヤ人キリスト教」は、英語では Jewish Christianity と言われています。 しかし最近、最初期にイエスをメシア・キリストと信じたユダヤ人の信仰、 とくに「主の兄弟ヤコブ」に代表されるエルサレム共同体のユダヤ人の信仰は、  Jewish Christianity というより Christian Judaism と呼ぶ方が適切であるという主張が強くなっています。 彼らは、ユダヤ教からChristianity という新しい宗教に変わったのではなく、ユダヤ教徒のままであり、彼らの宗教は Judaism(ユダヤ教)であるからです。ただ、そのユダヤ教がイエスをメシア・キリストと信じるという内容をもつ特別なユダヤ教になっただけです。このイエスをメシア・キリストと信じるという信仰を Christianという形容詞で表すならば、彼らの信仰はまさに Christian Judaism と呼ぶことができます。

 ヤコブが代表するユダヤ人のキリスト信仰(イエスをメシア・キリストと信じる信仰)は、あくまでユダヤ教の枠内でのキリスト信仰です。わたしは、これを「ユダヤ教内キリスト信仰」と呼ぶ方が実態に即していると考えます。それに対して、パウロはユダヤ教徒以外の人は、割礼を受けてユダヤ教徒にならなくても、キリスト信仰によって救われ、神の民となると主張しました。パウロは「異邦人キリスト教」の代表者と言われますが、これも正確に表現すると、「ユダヤ教外のキリスト信仰」と言うべきでしょう。「律法の外で《コーリス・ノムゥ》」というのは「ユダヤ教の外で」という意味です。
 このような理解から、この講解では「ユダヤ人キリスト教」という表現は、他の文献からの引用など場合を除いて、原則として避け、「ユダヤ教内キリスト信仰」を用いることにします。


                                                                                                
  第三節 ヤコブ書略解

      この略解は新共同訳とその段落区分に基づいて行います。

 

挨拶(一・一)

 著者は、エルサレムのユダヤ人信徒共同体の伝統を継承する者として、その代表者ヤコブの名をもって、ヘレニズム世界の各地に離散し、苦しい状況にあるユダヤ人キリスト者に、信仰生活の指針としての勧告書を送ります。「十二部族」はイスラエルの民であるユダヤ人を指す定型的な用語です。

 ここでヤコブは、パウロ書簡やペトロ書簡のように「使徒」とは言われていません。「神の僕」という旧約聖書に典型的な称号を用い、それに「と主イエス・キリストの」という句を添えています。「神の僕」という称号は、使徒よりも権威ある特別な地位を感じさせます。エルサレム共同体はイエスに「僕」という称号を用いています(使徒四・二七)。
 最後に《カイレイン》という挨拶語がつけられています。この語は「喜びがあるように」(日本語では、ご機嫌よう)という意味で、ギリシア語の手紙では日常の定型的な挨拶語で、新約聖書ではここと使徒言行録で二回(一五・二三、二三・二六)用いられているだけです。

 本書は差出人と宛先で始まる手紙の形式をとっていますが、パウロ書簡のように特定の集会の具体的な問題を扱ってはおらず、一般的な実践的勧告の書となっています。著者はヤコブの名によって書いています。すなわちヤコブが語る勧告として書いているのですから、以下の略解ではヤコブが語る文として講解していきます。

 

信仰と知恵(一・二〜八)

 挨拶の最後の語を受けて、勧告は「この上ない喜び」に兄弟姉妹たちを招く呼びかけで始まります。喜びが信仰者の基調であることは、パウロ書簡の場合と同じです。しかも、その喜びは苦しい状況の中での喜びです。その苦しい状況は、信仰を鍛えるための「試練」として受け取られ、それを忍耐によって乗り越えることによって、「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人」になるために与えられているのだとします(二〜四節)。苦難を信仰を鍛えるための訓練と受け取ることは、パウロ書簡(ローマ五・三〜四)やペトロ書簡(T一・六〜七)と同じです。

 ここの苦難の中での喜びを語る箇所はマタイ五・一一〜一二に、完全になることを語るところはマタイ五・四八に並行表現が見られます。ヤコブ書とマタイ福音書は同じイエス伝承を継承していることが、以下の講解で繰り返し指摘されることになります。
 四節最後の「欠けたところのない」という語を受けて、「知恵の欠けている人」に対して勧告がなされます。「知恵」という用語が出てくるのは、ここと三・一三〜一七だけですが、ヤコブ書は全体として知恵の書と言ってよいような内容になっています。信仰者にとって何よりも必要なものは知恵であるとされます。ヤコブ書がいう知恵とは、人間の知識や体験から得られる人生知ではなく、神から与えられる世界と人間に関わる洞察と、そこから生まれる神の御心に従った生き方をもたらす英知です。それは旧約聖書の知恵文学が追い求めた知恵に他なりません。ヤコブは、その知恵を疑うことなく信仰をもって神に祈り求めるように促します(五〜八節)。
 神は「だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神」です。この表現には、用語は違いますが、良き者にも悪しき者にも太陽を昇らせ雨を降らせてくださる、無条件の恩恵の父を語られたイエスのお言葉(マタイ五・四五)が響いています。また、「願いなさい。そうすれば、与えられます」という言葉はマタイ(七・七)に伝えられているイエスの語録と同じです(原語の用語は同じです)。

 

貧しい者と富んでいる者(一・九〜一一)

 ヤコブ書は、貧しい者と富める者との価値の逆転を力を込めて語ります(ここと二・一〜七)。貧しい者を御国の継承者として称揚し(二・五)、反対に富める者を裁きに定められた者として厳しく糾弾します(五・一〜六)。この価値の逆転は、マタイ(五・三〜四)やルカ(六・二〇〜二六)にあるイエスの語録伝承を思い起こさせます。

 ヤコブは貧しい者には「兄弟たち」と呼びかけ(九節)、明らかに信徒を指していますが、富める者については問題が残ります。後で富める者はただ滅びに定められた者として語られていて(五・一〜六)、とうてい信徒の中の富める者を指しているとは考えられませんが、ここでは「自分が低くされることを誇りに思いなさい」と勧告されています。自分が低くされたことを誇りに思う者、すなわち恩恵の場で自分が無価値であることを悟らされた者は、信仰者の姿です。ヤコブは、集会に出入りする富める者たち(二・二)に向かって、富や高い地位に誇っているならば神の裁きによる滅びは免れないと警告し、自分を低くするように求めていると見てよいでしょう。そして、彼らの富がいかにはかないものであるかを、熱風に吹き付けられる草花にたとえて思い起こさせます(一〇〜一一節)。このイザヤ(四〇・七)が用いた比喩は、ペトロ第一書簡(一・二四)でも用いられ、最初期の信徒の間でポピュラーであったことがうかがわれます。

 

試練と誘惑(一・一二〜一八)

 ヤコブは先に、人生において体験する苦難は信仰を鍛えるための試練だと説きました(一・二〜四)。ここでその主題が再び取り上げられ、「試練を耐え忍ぶ人」の幸いが語られます(一二節)。その幸いは、「その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」。同じ《ゾーエー》(命)を用いながら、本書では「命」は終わりの日に受け継ぐことを約束された命、ユダヤ教でいう「永遠の命」を指しています。パウロやヨハネのように、現在信じる者が聖霊によって生きている命ではありません。ここにも本書が当時のユダヤ教の枠組みの中にあるという特色が出ています。

 続いてヤコブは、この「試練」と同じ用語を用いて「誘惑」について語ります(一三〜一五節)。「試練」《ペイラスモス》は名詞形でしたが、誘惑について語るこの箇所はみな「誘惑する」《ペイラゾー》と動詞形で用いられています。人生の様々な体験が、一面では信仰を鍛える試練の意味を持ち、同時に罪へいざなう誘惑としての面を持つことは、「主の祈り」の講解でも触れました。ここでヤコブは、人生の諸々の体験が罪への誘惑となることについて、ユダヤ教知恵文学の路線で解釈しています。

 神が世界のすべてを統御しておられるのであるから、人生のすべての出来事も神から来るという敬虔な思想の中で、だから罪へ駆り立てる誘惑も神から来るのだという論理的な帰結がユダヤ教内にありました。しかし、すでにヘレニズム期のユダヤ教知恵思想はそれを克服しています。そのことは、たとえば「ベン・シラの知恵」(一五・一一〜二〇)などによく出ています。ヤコブは、その知恵をほとんどそのまま継承して、誘惑に遭うとき、だれも「神に誘惑されている」と言っては(=考えては)ならないと説きます。神の本質からして、神が人を罪や悪に誘惑する方ではありえないのです(一三節)。

 その上で、人生の出来事が「誘惑」となるメカニズムを明らかにします(一四〜一五節)。人生の諸体験が「誘惑」となるのは、人間の内に巣くう本性的な欲望に引かれ唆されるからだとし、それを女性の妊娠・出産を比喩として描きます。人間の本性的な欲望が、女性の胎のように、人生の出来事や思いを欲望という胎内で育て、ついに神に背く罪の生活を生み出します。そして、その罪の生涯が熟して(満ちて)、その人の死、すなわち永遠の破滅を結果することになります。ここは、パウロが「肉」について語っているところ(ローマ書七章)と一脈通じるものがあるように感じます。

 罪と悪が人間の内から(すなわち下から)生じるものであることを明らかにした上で、それと対照して、完全な善は上から、すなわち御父から来るものであることを説きます(一六〜一八節)。ここで神が「光の源である御父」と呼ばれています。ここの「光」は複数形で、「もろもろの光」という表現です。これは、太陽や月や星などの天体は創造者なる神の栄光を反射して輝いている生命体であるというユダヤ教の思想から出た表現です。このような天体はその動きによって陰が生じたりして変転します(日蝕や月蝕)。それに対して、そのもろもろの光の源である御父は、いっさいの移り変わりはなく、常に完全な善を意志し行ってくださる方です。

 その方が、御心のままに、「真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました」。この表現は、「あなたがたは・・・神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれた」という(パウロ的色彩の強い)ペトロ第一書簡(一・二三)の言葉と呼応しています。その上、こうして真理の言葉によって生まれたわたしたちが「造られたものの初穂」と呼ばれていることも、パウロを思い起こさせます。もっとも、パウロにおいてはキリストが死者の中から復活する者たちの初穂ですが、ここではキリストの民が最終的な完成に先立つ神の創造活動の初穂とされています。しかし、「初穂」という見方に共通点が感じられます。パウロとの対立面が強調されるこのヤコブ書も、意外にパウロとの共通面があることに気づきます。

     もしヤコブ書がローマで成立したものであれば、ローマのヤコブ・グループと(ペトロ書簡を生み出した)ペトロ・グループは、共にパウロの影響の下にあったので、このような共通点が出てきたと見ることになります。

 

神の言葉を聞いて実践する(一・一九〜二七)

 前節でわたしたちが「真理の言葉」によって生まれたことを述べたヤコブは、続いてその御言葉をよく聞いて、自分から言葉を発するには慎む深くあるように勧告し、信仰者は総じて「聞くのに早く、話すのに遅い」ように勧めます(一九〜二一節)。軽はずみな発言を戒める警告の言葉は、箴言(二九・二〇)やシラ書(四・二九)などの旧約知恵文学にもあります。しかし本書では、魂を救う神の言葉を聞くことに重点がかかっています。また、怒りを抑えるようにという勧告もイスラエルの知恵です(箴言二九・八、シラ書二七・三〇など)。ただ、人の怒りが神の義を実現しないことをその理由にしていることはヤコブの洞察でしょうか、旧約の知恵文学には見あたりません。

 神の言葉を聞き心に深く植え付けることは、魂の救いにとって大切なことですが、しかし「御言葉を聞くだけで行わない者」にならないように警告します(二二〜二五節)。御言葉を聞くだけで行わない者は、自分を欺く者だとし、その愚かさを鏡の比喩で説明します。「御言葉を聞くだけで行わない者」の愚かさは、マタイ福音書(七・二四〜二七)では砂の上に家を建てた人の比喩で語られています。御言葉を行うことを求める点で、マタイとヤコブは共通しています。両者の背後には共通のイエス語録伝承があるものと考えられます。

 ヤコブは、わたしたちを生んだ「真理の言葉」を「完全な自由の律法」(直訳)と呼んでいます。神の言葉は、それを聞く者にその言葉に即した行動を求めるという意味で「律法」です。しかも、それは父が完全であるように人間に完全なあり方を求める「完全な律法」です。それが「自由の律法」と呼ばれているのは、「自由をもたらす律法」(新共同訳)ではなく、自由の場で行われる律法と理解すべきでしょう。福音における律法は、外から人に行動を要求し強制するものではなく、内にある御霊の命によって自発的にそれを行わせる質の律法です。このように御霊によって御言葉を生きる者は、その生き方の中に神の祝福を実感し、「幸せになります」。

 さらに、行いのない「信心」の空しさが続いて語られます(二六〜二七節)。ここに用いられている「信心」という語は、宗教的な祭儀の勤めを指し(コロサイ二・一八)、それをいくら熱心に行っていても、「舌を制する」こともできず、軽率な発言で人を傷つけたりしているようでは、そのような人の信心は無意味であるとされます。「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守る」という倫理的な実生活こそ、父である神の御前に価値のある「信心」だとされます。これは、祭壇の供え物よりも隣人や兄弟とのよい結びつきを求められたイエスのお言葉(マタイ五・二二〜二四)と相通じています。

 

人を分け隔てしてはならない(二・一〜一三)

 この段落の最初の文は、直訳すると「人の分け隔ての中で、わたしたちの栄光の主イエス・キリストの信仰をもつことがないように」となります(一節)。これは、わたしたちのキリスト信仰は、それにふさわしい行動を伴わない場合は空しいものであるという本書の中心的な主張そのものであり、それを以下の数節で、集会での人の分け隔て扱いという実際的な場面で具体的に説明することになります(二〜四節)。

 「集まり」には《シュナゴゲー》という語が用いられています。これは本来ユダヤ教の会堂を指す用語です。ここでは、ユダヤ人のキリスト信徒が集まっている集会を指しています(《シュナゴゲー》がこの意味で用いられているのは、新約聖書ではここだけです)。この集会の場所に、金の指輪をはめた立派な身なりの人と、汚らしい服装の貧しい人が入って来たとき、金持ちは丁重に扱い、貧しい人を粗末に扱うならば、それは「自分たちの中で差別をし」、神のなさり方と反対の「悪しき判断の裁判官になった」(直訳)ことだと決めつけます。 

 ここでヤコブは、貧しい者こそ「約束された国を受け継ぐ者」として神が選ばれた者であり、反対に富める者は貧しい者を虐げ、辱める者であることを思い起こさせます(五〜七節)。ここには、貧しい人たちを幸いとされ、「神の国はあなたたちのものである」とされた主イエスのお言葉(マタイ五・三、ルカ六・二〇)が響いています。富める者は、貧しい者たちが信じているイエスの名を蔑み、冒涜する(あしざまに罵る)者が多いのが、この時代にも事実だったのでしょう。

 そしてさらに、人を分け隔てすることは律法の違反者として断罪されることになると警告します(八〜一三節)。当時のユダヤ教では、律法のすべては一体であり、その中の一つに違反することは、律法全体に背くことだとされていました。垣根を一カ所で破って乗り越える者は、垣根全体を乗り越える者となるのです。ヤコブは、このユダヤ教の原理をもって「人を分け隔てする」ことの重大さを説きます。

 ここでヤコブは、「隣人を自分のように愛しなさい」という律法を「王の律法」と呼んでいます。王としての神が与えられた律法という意味か、律法の中の王様という意味かわかりませんが、イエスご自身も律法全体の要約として引用されたように、ヤコブも「最も尊い律法」という意味で用いていることは間違いないでしょう。その律法を行っているのであれば、人を分け隔てできないはずです。もし分け隔てするなら、律法全体の違反者となるという論理です(八〜一一節)。
 最後に、キリスト者の行動の動機として、「自由の律法によって裁かれることになる者として」語り、ふるまうように勧告します(一二節)。「自由の律法」とは自由の場に成立する律法ですから、自発的になした憐れみのわざに生きた者は、神も「憐れみは裁きに打ち勝つ」という憐れみの原理で扱われますが、「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下される」ことになります(一三節)。だから、貧しい者、価値なき者に対して憐れみ深い者として生きるようにと励ますことになります。

 

行いを欠く信仰は死んだもの(二・一四〜二六)

 ヤコブ書は、御言葉を行うことの重要性を説くことを主要な主題としています。それはすでに「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」(一・二二)と言って、ここまで多くの勧告の言葉や実例や比喩でそのことを説いてきました。ここに来て、その主題がもっとも直接的で明快な形で提示されます。しかもその提示はここで、信仰者の間での合い言葉である「信仰」との関係でなされることになります。

 まず、「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つか。そのような信仰が、彼を救うことができるか」という問いの形で問題が提起されます(一四節)。そして、実際に生存のために必要な最小限の衣食がない人に、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないという場合を、例示としてあげます(一五〜一六節)。その上で、「信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」と結論します(一七節)。

 ここで間違ってはならない点は、ヤコブは信仰には慈善行為(貧しい人を助ける行為)が必要であると言っているのではなく、口先だけの援助が何の役にも立たないことを比喩として、「同じように」行いの伴わない信仰も役に立たない死んだものだと主張しているのです。信仰も、「わたしはこう信じている」と口先で言うだけで、その信仰にふさわしい行い(現実の生活)を結果しないならば、そのような信仰は空しい(実質のない観念に過ぎないものだ)と言っているのです。

 行いのない信仰は空しいものだという主張をさらに確実にするため、ヤコブは反対者の抗弁を予想して取り上げ、それに反論する形で議論を進めます(一八節)。ところが、この抗弁の文は以下の反論と論理的に整合せず、解釈者を苦しめることになります。もしこの抗弁が、「あなたには行いがあるかもしれないが、わたしには信仰がある。信仰のない行いは神の前に無意味ではないか。行いがなくても信仰があれば、信仰によって義とされるのだ」という内容であれば、「では、行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう」という反論が成り立ちます。このような抗弁の文を補ってみると、そのような抗弁をする者に向かってヤコブが、「あなたは信仰をもっている」というが、ではその行いのない信仰なるものを見せよと迫り、続いて「わたしには行いがある」、その行いによってわたしの信仰を見せましょうと、自分の立場を述べていることになります。

 行いを伴わない信仰が空しいことを、ユダヤ人(ユダヤ教徒)であれば当然規範として受け入れている聖書(旧約聖書)を論拠にして説き進めます。最初に、「神は唯一である」というユダヤ教至高の信仰箇条を取り上げ、あなたはそう信じているのは結構だが、その信仰で義とされている(神の民としての資格がある)のだとする立場を、「悪霊どももそう信じておののいています」という一撃で退けます(一九節)。

 さらにアブラハムがイサクを献げるという従順の行為(創世記二二章)を実例として取り上げて、「アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたこと」を例示します(二〇〜二二節)。そして、パウロが行いによらず信仰によって義とされるのだという主張の根拠にした、あの「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という創世記(一五・六)の箇所を、まさにこの従順の行為によって完成した信仰を指しているとして引用します(二三節)。こうして、聖書の実例を列挙した上で、「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません」という結論を掲げます(二四節)。
 さらに、娼婦ラハブも、イスラエルの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって義とされたという実例をあげ(二五節)、「魂のない肉体が死んだものであるように」という比喩を用いて、「行いを伴わない信仰は死んだもの」という主張を繰り返します(二六節)。

 このように、くどいまでに繰り返される主張は、パウロの「人は行いによらず信仰によって義とされる」という主張に反論しているという印象を受けます。はたして、ヤコブはパウロの主張をよく知っていて、それを危険な主張だとして反論しているのでしょうか。この点がヤコブ書理解にとって一番重要な問題になるところですが、これは問題が大きいので、次節の「ヤコブ書の位置と意義」で「パウロとヤコブ」の関係としてまとめて扱うこととし、ここでは文意の確認にとどめます。

 

舌を制御する(三・一〜一二)

 ここでヤコブは話題を教師の仕事に移します(一節)。すでにパウロの時代に御霊の賜物によって霊的な信仰の事柄を教える教師の働きをする人たちがいましたが(使徒一三・一、コリントT一二・二八)、使徒名書簡の時代になると教師は福音宣教者や預言者と並んで集会の指導層を形成していました(エフェソ四・一一)。それで、教師になりたがる人もいたのでしょう。ヤコブはその傾向にブレーキをかけます。それは、教師は言葉によって人を導く役目ですが、人間は言葉において多くの過ちを犯す者ですから、教師はその立場上その言葉の上の誤りについて、他の人たちよりも厳しく責任を問われることになるからです(一節〜二節前半)。人が自分の発した言葉に対して終わりの日に責任を問われることについては、イエスの語録にもあり(マタイ一二・三六)、ヤコブはこのイエスのお言葉を背景にしてこう語っているのでしょう。

 言葉の上で多くの過ちを犯す人間の弱さに触れたヤコブは、ここから言葉を発する器官である舌を制御することの重要性を語ります(二節後半以下)。しかしその語り方は、もっぱら舌を制御することがいかに困難であり、その結果がいかに重大であるかという事実を述べることに終始しています。それを語ることによって、「言葉で過ちを犯さないで、自分の全身を制御できる完全な人」になるように説き勧めているわけです。

 小さな器官である舌が大きな全身を制御するものであることを、馬を御すくつわと、船を操る小さな舵の比喩で語り、舌は小さな器官であるが大きな結果を生じるものでり、その使い方が重要であると説きます(三節〜五節前半)。その上で、舌がいかに深く悪に染まっているかを述べて、舌の使い方に心するように警告します(五節後半以下)。

 まず、小さな火が大きな森を燃やしてしまう事実を例としてあげて、「舌は火です」という隠喩が語られ、その隠喩が意味するところが「不義の世界」とか「生成の車輪」というような特別な用語を用いて語られます(五節後半〜六節)。舌は「不義の世界」であるというのはどういう意味であるのか議論が多いところですが、不義の塊という意味に理解してよいでしょう。この小さな不義の塊が全身を汚すのです。また、「舌は・・・・『生成の車輪』(直訳)を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされる」という表現は、いったいどこから来たのか、また何を意味するのかも議論が多いところですが、舌は自身地獄の火に燃やされている悪の根源であり、そこから発する火は「移り変わる人生」全体を焼き尽くしてしまう業火であると言っているのでしょう。

 さらに続けて、人間はあらゆる種類の獣や鳥や、また這うものや海の生き物を「飼い慣らす」(原文の動詞)ことができるのに、悪の塊であり、死をもたらす毒に満ちているこの小さな舌を「飼い慣らす」ことができる人は一人もいないという人間の現実が描かれます(七〜八節)。舌が邪悪であるということは、心が邪悪であることを意味し、そこから発する行為が邪悪であることを意味しています。この段落の人間の描写は、パウロが「正しい者はいない、一人もいない」と言って、罪の支配下にある人間の現実を語ったところ(ローマ三・九〜一八)と相通じるものがあります。

 さらに、舌がいかに邪悪なものであるかを、人間は同じ舌で父である主を賛美すると同時に、神にかたどって造られた人間を呪うという事実をあげて描き(九〜一〇節)、それは自然の理法にも反する、あってはならないことだとして、自然界から三つの実例をあげます。泉の同じ穴から甘い水と苦い水が同時にわき出ることはないし、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことはありません。さらに、塩水が甘い水を作ることはできません(一一〜一二節)。自然界はこのように創造者の秩序を守っているのに、人間は同じ舌で賛美と呪いを出すという、あってはならないことを止めることができないでいます。

  舌を制御することの重要性と難しさを語るこの段落は、ユダヤ教知恵文学の流れの中にあります。それは、とくに箴言とシラ書によく見られる主題です。同時に、イエスの語録の解釈において、「完全な者」になることを志向するなど、マタイと同じ方向にあることをうかがわせる表現が見られます。

 

上からの知恵(三・一三〜一八)

 先にヤコブは行いが伴わない信仰の空しさを語りましたが、ここで行いが伴わない知恵は偽りであることを語ります。真の知恵は、立派な生き方の中で「知恵にふさわしい柔和な行い」として現れるはずです(一三節)。知恵を誇りながら、「内心ねたみ深く利己的であり、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしている」ようでは、その知恵は「上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たもの」に過ぎないと、その虚偽を暴きます(一四〜一六節)。ヤコブはここで、人間の利己的な本性から出るくる知恵と「上から出た知恵」を対比して、「上からの知恵」、すなわち人間の本性から出たものではなく、神の御霊によって与えられる知恵は、「何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものであり、憐れみと良い実に満ち、偏見はなく、偽善的でもない」と、それが行いに結果する姿を列挙します(一七節)。これは、パウロが「御霊の実」を列挙しているところ(ガラテヤ五・二二〜二三)を思い起こさせます。

 一八節の「義の実」という表現は、パウロも用いています(フィリピ一・一一)。義の実(神に喜ばれる正しい行い)を人生において収穫するための種は、「平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれます」。義の実は、利己心や傲慢な生活からは生じません。この一八節の表現は、真の知恵の結果としてあげられている「柔和な行い」(一三節)と一組になって、本書とマタイの親近性を示しています。「平和を実現する人たち」は、マタイ(五・九)と同じです。「柔和」はマタイ特愛の用語です(マタイ五・五、一一・二九)。マタイとヤコブは、イエスの語録を同じ方向で解釈して用いていることが、ここにもよく出ています。

 

神に服従しなさい(四・一〜一〇)

 先の段落で柔和さとか平和が強調されましたが、実際にはキリストの民の間にも「戦いや争いが起こる」現実をヤコブは見据えて、厳しく悔い改めを求めます。パウロも集会員の間に起こる不品行や争いごとに対処しなければなりませんでした(たとえばコリントT五・一や六・一)。パウロは異邦人信徒の間で、それをキリスト信仰の場で解決するように努めていますが、ヤコブはユダヤ教の枠の中で、聖書の言葉の権威により、神への服従を原理として悔い改めを迫ります。

 まず、戦いや争いが起こるのは、人間の内にある欲望がぶっつかりあって起こるのだと、その原因が示され(一節)、欲望しても得られない現実から、他人を妬んだり、争ったり、(ついには法廷などで)戦ったりするのだと、その原因と程度が高じて行く過程が分析されます(二節)。

 そして、得られないのは、「願い求めないからで、願い求めても与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」と、得られない理由が示されます(二節末尾〜三節)。ここの「願い求めても与えられない」という表現には、イエスの「求めよ。そうすれば与えられる」というお言葉が響いています(ここの「願い求める」とマタイ七・七の「求める」は原語では同じ動詞です)。イエスの語録の「求めよ」は、もちろん神に求めることです。ヤコブが「得られないのは、願い求めないから」と言うとき、それは当然神に求めないからだと言っているわけです。そして、神に願い求めても与えられないのは、神の御心に添って求めることをしないで、自分の楽しみのために求めるという間違った求め方をしているからだとします。こうしてヤコブは、人間の間に争いや戦いが起こるのは、神との正しい関わりの中に生きていない人間の間違った欲求から起こるのだとしていることになります。人間が霊的に神との親しい交わりにあり、正しく神に祈り求めているならば、満たされない欲求から争いや戦いが起こることはないはずです。それが起こることは、世の友となり、神に背いているしるしです。ヤコブは続いて、このように「神に背いている者たち」に向かって、厳しく悔い改めを迫ります(四〜一〇節)。

 ここで「神に背いている者たち」と訳されている原語は、「姦淫する者」という意味の語です(マタイも一二・三九と一六・四で用いています)。ヤコブはホセアやエレミヤなど預言者の伝統を受け継いで、心を神以外の対象に向ける者を「姦淫する者」と呼んで、悔い改めを迫ります。ここでは「世」《コスモス》に心を向け、《コスモス》のものを求める者たちをそう呼んで、世の友となることは神に対して姦淫を犯すことだとします。

 この世界《コスモス》を神と対立する原理で成り立っていると見る見方は、パウロやヨハネも同じですが、ヤコブも「世の友」となることは「神の敵」となることだと、さらに厳しく弾劾します(四節)。このヤコブの言葉の背後には、「神と富に兼ね仕えることはできない」と言われたイエスのお言葉があると考えられます。世の価値を集約するものは富ですから、イエスのこのお言葉は、神と《コスモス》が対立することを語る言葉だと見られます。

 ヤコブはこのことを聖書を引用して強調しますが、その二つの引用の第一、「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられる」(五節)は、聖書のどこを指すのか確定できません。しかしこの引用文は、だから、そのような神が熱愛される霊を宿すわたしたちも、全身全霊で神を愛すべきであると訴えています。それだけでなく、神はさらに豊かな恵みを与えてくださる方だとして、箴言三・三四を引用して「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」と語り(六節)、神の前にへりくだることを求めています。

 ヤコブは、ここまでに述べたことをまとめて、「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい」と言います。ヤコブは、わたしたちを誘う世の様々な誘惑の背後に悪魔の働きを見ています。悪魔は神に敵対し、わたしたちを神から引き離そうとする霊的な諸力の頭です。神に服従して、悪魔の働きかけに反抗するならば、悪魔は入り込むすきを見つけることができず、逃げて行くことになります(七節)。このような神に敵対する霊的諸力の頭を「悪魔」《ディアボロス》と呼ぶことは、イエスの語録にも見られます(マタイ一三・三九、二五・四一、ルカ八・一二)。また、パウロの名によって異邦人信徒に向けて書かれた書簡にも見られます(エフェソ四・二七、六・一一、その他牧会書簡に多数)。

 ヤコブは、世に向けていた心を神に向け変えて、神に近づくように求めます。それが悔い改めです。そうすれば、神はわたしたちに近づいてくださり、わたしたちは神との親しい交わりに生き、神の豊かな恵みを味わうことができます。そのような悔い改めを求めて、罪を犯す者たちには「手を清めなさい」と言います。すなわち行動を慎み、汚れた行為に手を染めないように求めます。また、「二心の者たち」(直訳)には、「心を清めなさい」、すなわち心を単一にして純粋な心で神に向かうように求めます(八節)。

 この悔い改める者になるようにという求めが、「悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい」という表現で具体的に描かれます(九節)。神の前に汚れた自分の現状を認識することなく、地上の価値や快楽を楽しみ、笑い喜んでいる者に向かって、自分の現実をしっかりと見て、「悲しみ、嘆き、泣きなさい」と説きます。この「笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい」という勧告には、終わりの日の裁きを前にして、「今泣いている人は幸いである、あなた方は笑うようになる。・・・・今笑っている人は不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる」(ルカ六・二一、二五)と言われたイエスの語録伝承が背後に響いています。そして、最後に「主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます」という要約の言葉で、この段落が締めくくられます(一〇節)。

 

兄弟を裁くな(四・一一〜一二)

 イエスも「人を裁くな」と説き、人を裁くことの倒錯を比喩を用いて語っておられます(マタイ七・一〜五)。ヤコブはすべてを律法との関わりで考える立場から、「兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者」は、「律法の悪口を言い、律法を裁くことになり」、「律法の実践者ではなくて、裁き手」となることだとして、「兄弟を裁く」ことを厳しく批判します(一一節)。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになるというのは、自分の行為によって、それを禁じた律法を無視し、嘲笑することになるという論理でしょう。そして、その律法を嘲笑する行為は、「律法を定め、裁きを行う唯一の方」の権限を侵し、自分をそのような立場の者とする?神の行為だと弾劾します(一二節)。

 

誇り高ぶるな(四・一三〜一七)

 わたしたちは将来の計画を立てて生涯を過ごしています。しかし、その計画が「主の御心であれば」という立場から離れて、自分の意志だけで行おうとする計画であるならば、それは自分が主の御許しの下でのみ存在している者であるという限度を忘れた高ぶりであると、ヤコブは指摘します(一三〜一四節)。わたしたちは、「自分の命がどうなるか、明日のことは分からない」存在であることを忘れてはなりません。それを忘れることは高ぶりです。わたしたちは、主によって生かされている存在であることを自覚し、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。すなわち、そう考え、そのような原理で生きるべきです(一五〜一六節)。

 このように、誇り高ぶりはすべて悪であるのですから、高ぶらず主の前にへりくだることが善であることになります。それが人のなすべき善、人のあるべき姿であると知りながら、そうしないことはその人の罪になります。すなわち、神から退けられる原因になります。

 

富んでいる人たちに対して(五・一〜六)

 ここに来てヤコブは、富の力によって貧しい者を虐げ抑圧している富める者に対して、厳しい断罪の言葉を投げつけます。ヤコブは先に、集会に出入りする富める者に向かって、富のはかなさを説き、自分を低くするように求めました(一・一〇)。また、集会が金持ちと貧乏人を差別しないように求めました(二・一〜一三)。しかし、ヤコブは基本的には、貧しい者と富める者の立場が終末において逆転するという(ルカが伝える)イエスの終末告知の思想を継承しています(ルカ六・二〇〜二六)。ここでヤコブは、その終末告知の中の富める者への断罪を、預言者的な激しさで語ります。

 地上の富は朽ち果てるものであることを語るところ(二節〜三節文頭)は、マタイ六・一九のイエスのお言葉を思い起こさせます。イエスは天に宝を積むように勧められましたが(マタイ六・二〇)、ヤコブは「この終わりの時にさいして」(直訳―終わりの時に直面しているにもかかわらずという意味)地上に宝を積んだ者の不義と愚かさを糾弾します。「さび」は、地上の富が神の慈愛の御心に従って貧しい人たちのために用いられず、空しく朽ち果てる事実を象徴しています。この事実が、終わりの日の裁きにおいて、富める者たちの罪の証拠として神の前に提出され、さびが地上の金銀を朽ち果てさせたように、空しい快楽で肥え太った彼らの肉を火のように食い尽くすことになると、神の裁きを予告します(三節)。

 昔も今も富める者、権力ある者の富は、何らかの形で労働者が働いて生み出した価値を横取りして集めた結果です。それが「畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金」と、具体的に表現されています(申命記二四・一四〜一五、エレミヤ二二・一三参照)。その不義に苦しめられた者の正義を求める叫びが「万軍の主の耳に達している」と、ヤコブは警告します(四節)。

 このような「不義の富」を蓄え、「地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ」、傲慢になっている者たちが、「義人を罪に定めて殺した」と、ヤコブは弾劾します(五〜六節)。著者がヤコブ以後の人物であるならば、この「義人」(単数形)は「義人ヤコブ」と呼ばれた著者の師を指しているのかもしれません。あるいは、さらにさかのぼってイエスを指している可能性もあります。イエスもヤコブも抵抗することなく、自分を殺す者に身を委ねました。あるいは、この「義人」(単数形)はいつの世にも神に従うゆえに迫害される人たちの総称かもしれません。富める者はいつの世にも、驕り高ぶり、義人を迫害し、裁判所に引っ張っていく者たちです(二・六)。

 この段落に「富める抑圧者への警告」という標題をつけている翻訳もあります(NRSV)。しかし、ここはもはや警告ではなく、断罪の宣告です。けれども、捕囚前の預言者の断罪の宣言がイスラエルへの悔い改めへの呼びかけを背後に響かせていたように、ヤコブも、イエスを信じる貧しい者を迫害する世の富める者に向かって、終末の裁きを指し示して悔い改めを迫っていると理解してよいでしょう。ここにはヤコブの預言者的な一面が顔を見せています。

 

忍耐と祈り(五・七〜二〇)

 最後にヤコブは、「主の来臨《パルーシア》」まで忍耐するように励まします。「主の《パルーシア》が近い」のだから、心を堅くして、苦難の中で忍耐しなさいと励まします。ヤコブはそれを「秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つ」農夫を引き合いに出して、農夫はみなそうしているのだから、「あなたがたも」(強調)忍耐しなさいと説きます(七〜八節)。
 この最後の段落に、新共同訳は「忍耐と祈り」という標題をつけています。しかし、この段落は「主の来臨は近い」という標題の方が適切ではないかと考えられます。全体を貫く主題は《パルーシア》の切迫です。その来臨に備えてどうあるべきかを説く内容に、忍耐とか祈り、不平を言うなとか誓うなという勧告が含まれるのです。

 ヤコブ書は、信仰者の実際の生き方の知恵を説くことに終始していて、パウロ書簡のようにキリストの出来事の意義とかキリストを信じることの中身について語ることはほとんどありません。その中で、「主の来臨」については、このように明確に語っていることは注目されます。この事実は、ヤコブ書が継承しているエルサレム共同体の信仰が《パルーシア》待望を基調としていたことを示唆していると見られます。この来臨の切迫を語る「(裁く方が)戸口に立っておられる」(九節)という表現は、マタイ二四・三三と同じであり、それはパレスチナのユダヤ人共同体の伝統を受け継ぐとされるヨハネ黙示録にも現れます(黙示録三・二〇)。

 主の来臨の時は裁きの時です。その時に「裁きを受けないようにするため」、互いに不平を言わず、苦しい状況の中で辛抱し忍耐するように説きます(九節)。ヤコブが「裁かれないために、不平を言うな」というとき、彼の念頭には、エジプトから救い出された後、荒野で不平を言ったため滅ぼされたイスラエルの民のことがあったのでしょう(コリントT一〇・一〇参照)。

 ヤコブは「辛抱と忍耐の模範」としてまず「主の名によって語った預言者たち」を指し示します。この預言者たちは、昔ヤハウェの言葉を語ったイスラエルの預言者たちも含みますが、とくに主イエス・キリストの名によって語り、その名によって苦しみを受けた預言者たちを指していると見られます。そしてさらに、ユダヤ教徒の間では諺となっている「ヨブの忍耐」を取り上げ、「慈しみ深く、憐れみに満ちた」主がヨブの最後を栄えさせられた物語を思い起こさせて、忍耐するように励まします(一〇〜一一節)。
 さらに続いて、終わりに日に「裁きを受けないようにするために」、誓いを立てることを厳しく禁止します(一二節)。ヤコブがとくにこの戒めを重視していたことは、「何よりもまず」という導入の句が示しています。当時のユダヤ教徒の間では、自分の言葉が真実であることを保証するために様々な形の誓いが用いられていました。直接神の名を用いることを避けるために、天とか地、エルサレムとか祭壇にかけて誓うというような形が用いられていました。イエスはそのような誓いを一切否定されました(マタイ五・三三〜三七)。ヤコブも同じように「天や地を指して、あるいは、そのほかどんな誓い方によってであろうと」誓ってはならないとします。

 誓いとは人に対して責任をとる言葉と責任をとらなくてもよい言葉を区別していることになり、すべての言葉に責任を求められる神(マタイ一二・三六)の前に不誠実な生き方になります。主に属する民においては、然りと言った以上は無条件に然りとし、否とした以上は無条件に否としなければなりません。自分の言葉すべてに無条件に責任をとらなければなりません。誓いを禁止するのは、すべての言葉に無条件の信実を求めているのです。誓いを利用して、自分の言葉に偽りを忍び込ませる者は、終わりの日の裁きにおいて偽りの責任を問われます。

     誓いの禁止についてマタイ福音書とヤコブ書に同じように伝承されている事実は、イエス語録の伝承について示唆的です。誓いの禁止について、その意義、二つの伝承の関係、エッセネ派との比較、現代の実生活における誓約の問題など、詳しくは拙著『マタイによる御国の福音―山上の説教講解』 193頁以下の「神の信実」の節を参照してください。

 差し迫っている「主の来臨」を前にして、ヤコブは実際的な勧告を続けます。「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい」と、各人の実際の状況に応じた勧告をします(一三節)。その上で、「苦しんでいる人」に向かって、祈りを励ます言葉を続けます(一四〜一八節)。

 昔も今も病気が人生の大きな苦しみであることは変わりません。主イエス・キリストを信じる民の中で病気で苦しむ者に向かって、ヤコブは「教会《エクレーシア》の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい」と指示します(一四節)。当時すでに各地の集会《エクレーシア》には「長老(複数形)」が立てられ、信仰の指導に当たっていたことがうかがわれます。

 集会を代表する長老たちが「主の名によって」祈り、病人も信仰によって祈るならば、「主がその人を起き上がらせてくださる」と、主の力ある働きが保証されます(一五節前半)。ユダヤ教徒に向かって語っている本書では、「主」は神を指すことが多いのですが、ここの「主」は「主イエス・キリスト」を指しています。「主イエス・キリスト」の名が、その御名を信じる信仰に応えて、癒しの業をなしてくださいます。そのさい、病人の信仰が触発される機縁として「オリーブ油を塗る」という行為がなされています。今はオリーブ油を塗ることはなくても、按手とか他の形での接触を通して、御名を信じる信仰が御霊の働きをもたらします。

 病気の癒しを求める祈りにおいて、「罪を犯した」という意識があれば、それは祈りを妨げます。ここの「罪」は複数形で、ユダヤ教徒の個々の律法違反の行為を指しています。そのような罪が赦されるために、罪を告白しあって「主イエスの赦し」を受け、「正しい者」とされて祈るならば、その祈りは「大きな力があり、(癒しの)効果をもたらす」とされます(一五節後半〜一六節)。ここでは「主イエス」の名が罪の赦しの名であり、癒しの力をもたらす名であるとされています。そして、「正しい人の祈りは大きな力がある」ことが、エリヤの実例で保証されます(一七〜一八節)。

 「主の来臨」を前にした実際的な勧告の最後に、「真理から迷い出た者」を「迷いの道から連れ戻す」こと、すなわち正しい信仰へと引き戻し、正しく来臨に備えさせることの意義(その罪人の魂を死から救い出す)と功績(多くの罪を覆う)が説かれて、締めくくられます(一九〜二〇節)。

 なお、この「苦しむ者」への祈りの励ましにおいて、ペトロ書簡などのように迫害による苦難が視野に入っていないことが注目されます。これは本書の成立事情について示唆的です。



  第四節 ヤコブ書の位置と意義

 

ユダヤ教枠内のキリスト信仰

 以上、ヤコブ書の概略を見てきましたが、このようにその内容を一読するだけでも、本書がユダヤ教の枠内の文書であることが分かります。しかし同時に、その立派なギリシア語と、もはやエルサレム神殿での祭儀とモーセ律法の順守について触れることのない内容から、著者も読者もヘレニズム世界に生活する離散のユダヤ教徒であることを強く示唆しています。「主の兄弟ヤコブ」の名によって書かれた本書は、ヤコブが代表した最初期のエルサレム共同体の伝承を、70年以後のヘレニズム世界において証言する重要な文書となります。

 離散のユダヤ人(ユダヤ教徒)には、異邦人(異教徒)との交わり方が問題になるはずです。事実、パウロは集会内におけるユダヤ人と異邦人の交わりの問題で苦労しています。ところが、ヤコブ書はこの問題について触れていません。ヤコブは異邦人にはユダヤ教の食事規定順守を求めなかったとしても、ユダヤ人にはその順守を求めたので、アンティオキアで共同の食卓をめぐって問題が起こりました(ガラテヤ二・一一〜一四)。ところが、ヤコブ書では読者のユダヤ人に、このような食事規定の順守などによってユダヤ教徒としての立場を明確にするように求めていません。これは当然のこととして言及しなかったのか、それとも、もうそのことは問題にならないような状況になっていたからなのか、確認することは困難です。全体としては、後者であるという印象を受けます。

 ヤコブ書のキリスト信仰はユダヤ教の枠内にあります。パウロのようにその枠を乗り越えようとする姿勢はありません。しかし、割礼や食事規定や安息日規定の順守によってユダヤ教徒としてのアイデンティティーを死守しようとする姿勢もありません。この点ではマタイの姿勢と通じるものがあります。ヤコブ書は、特殊な契約共同体であるイスラエルの中で(かなり後期になるヘレニズム期に)形成された、どの民族にも普遍的に通用する知恵思想によって、異邦人世界に生活するユダヤ教徒のキリスト信仰を健全なものに指導しようとしていると言えます。

 これが、ヤコブ書の「位置と意義」ということになりますが、そのことを内容上重要な二三の面でさらに詳しく見ておきます。

 

イエスとヤコブ

 ヤコブ書がエルサレム共同体の伝承を受け継いでいる文書であることの重要な一面は、そこにイエス語録の伝承が数多く含まれていることにあります。第一節「主の兄弟ヤコブ」で見たように、ヤコブはイエスの兄弟として、イエスの生前の活動の時期からイエスと一緒に行動していた可能性もあり、とくにイエスの復活以後に成立したエルサレム共同体では初めから「十二人」と共に指導的な立場にありました。それで、自分自身が直接耳にしたイエスの言葉と、「十二人」が伝えたイエスの言葉を統合して伝える立場にあったと言えます。

 とくに42年にゼベダイの子のヤコブが殉教し、ペトロがエルサレムを去ってからは、エルサレム共同体を代表する人物として、聖都でイエス運動の担い手として活躍しました。イエス伝承のもっとも権威ある担い手として、エルサレムだけでなく、最初期の宣教活動の中心にいました。ルカの「使徒言行録」ではペトロとパウロの陰に隠れてヤコブの姿はかすんでいますが、実際はヤコブがイエスの後継者であり、ユダヤ人の間ではそう見られていました。だからこそ、パウロもエルサレム共同体との関わりを抜きにして、自分の宣教活動を進めることはできなかったのです。それで、ヤコブ書によってヤコブが代表するエルサレム共同体の姿を知ることは、遡ってイエスの宣教活動の性格を知る上で重要な手がかりとなります。

 ヤコブがエルサレム共同体を、ひいてはすべてのユダヤ人のキリスト者を指導しようとしたとき、聖書(とくに知恵思想の部分)と共に、イエスの言葉を用いたことは、第三節「略解」で見たとおりです。ユダヤ教徒として聖書を権威として用いるのは当然ですが、それと並んでイエスの言葉を同じように権威あるものとして、勧告の根拠にしています。これは、エルサレム共同体がヤコブを通して伝えられたイエスの語録を信仰の拠り所として生きていたことを指し示しています。その結果ヤコブ書は、イエスの語録を基にしてユダヤ人キリスト者に呼びかけるマタイ福音書とよく似た文書となっています。

 マタイ福音書がイエスの言葉を集めた「語録資料Q」の流れを汲む福音書であることは顕著な事実です。最近の研究で「語録資料Q」の内容が復元されていますが、その中のイエスの語録とヤコブ書の文言とが重なっている場合が多く見られます。それは「略解」で見たとおりです。その結果、マタイ福音書とヤコブ書は同質の傾向をもつ信仰文書となっています。しかし、同じイエスの語録伝承を受け継ぎながらも、状況とか執筆意図の違いから、両者には(とくにユダヤ教団に対する態度において)違いも見られます。

 では、ヤコブが代表するエルサレム共同体はイエスの忠実な継承者であると見ることができるでしょうか。これは、一面では然り、一面では否と答えなければならないと、わたしは考えています。

 たしかにヤコブはイエスの兄弟として、イエスとユダヤ教徒としての体質を同じくしています。ヤコブはイエスの兄弟として、同じ父親から同じ律法教育を受け、同じユダヤ教会堂で学び、同じ体質のユダヤ教徒として育ちました。地上では一人のユダヤ教徒として、イエスはご自分の宣教活動の対象をユダヤ教徒に限られました(マタイ一〇・五〜六)。イエスの兄弟ヤコブは、イエスの宣教のこの一面を忠実に継承しています。イエスはユダヤ人に向かって、「神の国」の到来を告知されました。ヤコブもこの点ではイエスの忠実な継承者です。復活者イエスに出会ったヤコブは、「割礼の者たち」すなわちユダヤ教徒に向かって、イエスこそメシアであり、この方において「神の国」が到来していることを宣べ伝えることを使命としました。

 しかし、イエスの宣教にはユダヤ教を乗り越える一面がありました。律法を守ることができないので、ユダヤ教では「罪人」とされている人々を「貧しい人たち」と呼び、その人たちこそ神に受け入れられている神の民であるとされました。こうして「神の国」は、律法とは別の恩恵の原理による神の支配であることを告知されました。これが、律法を神と人との関わりを形成する唯一の原理であるとするユダヤ教指導層から、ユダヤ教に対する否定であり、神に対する冒涜とされ、ついには殺されることになります。

 同じ律法教育を受けたユダヤ教徒でありながら、イエスが兄弟のヤコブや他の弟子たちと違う原理に生きるようになられたのは、イエスだけが聖霊による決定的な体験をされたからです。そうなったのは、神がイエスを選ばれたからだとしか言えません。イエスは洗礼者ヨハネの運動に加わって荒野におられたとき、天が開いて聖霊が降るのを体験され、その神の霊によって父との親しい交わりに入り、終末の事態である父の恩恵の支配が到来していることを体験されました。その結果、律法を超える恩恵の支配を告知する者となられたのです。

 ヤコブもイエスの恩恵の支配を受け取っています。ヤコブもイエスと同じく「貧しい者」がそのまま神に受け入れられていることを知っています。しかし、それはあくまでユダヤ教の枠の中でのことです。恩恵の支配が「律法の外にいる者」、すなわち異邦人まで及ぶことは考えていません。ヤコブと彼が代表するエルサレム共同体がそれを理解するようになるには時間がかかりました。
 イエスの宣教のこの一面、すなわち律法(=ユダヤ教)を乗り越える面があることを理解し、ユダヤ教の枠を突き破って恩恵の支配の福音を異邦人まで伝えるための突破口を開いたのは、ステファノに代表される「ヘレニスト」たちです。彼らはユダヤ教側から弾圧されてエルサレムを去り、エルサレム共同体とは別の活動拠点をアンティオキアに持つにいたります。ヤコブに代表されるエルサレム共同体は、イエスの宣教に含まれるこの面を十分に継承したとは言えないことになります。この一面は、やがて復活者イエスによって立てられた使徒パウロによって代表されることになります。このパウロとヤコブがどのように関わるのかが、次項の主題となります。

 

パウロとヤコブ

 使徒言行録では、パウロとヤコブが直接出会ったことを報告する記事は、一五章のエルサレム会議の時と、二一章の最後のエルサレム訪問(この時にパウロは逮捕される)の二回だけです。しかし、パウロが回心後三年目にエルサレムを訪問した時(使徒言行録九・二六〜三〇)のことについては、パウロ自身がペトロの他に「主の兄弟ヤコブ」に会ったと語っています(ガラテヤ一・一九)。使徒言行録には、この他に飢饉の時の援助のための訪問(一一・三〇)と、第二次伝道旅行の後コリントからエルサレムを訪問したこと(一八・二二)が伝えられています。このヤコブと会ったことに触れていない二つの記事も、当時のエルサレム共同体における代表者としてのヤコブの地位を考えると、当然パウロはヤコブに会っているとしなければなりません。そうすると、パウロは彼の伝道活動の期間中に五回エルサレムでヤコブと会っていることになります。

 この五回のパウロとヤコブの会談の中でもっとも重要な意味があるのは、パウロがガラテヤ書二章(一〜一〇節)で報告している「エルサレム会議」です。異邦人で信仰に入った者に割礼を施すべきだと主張した一部のユダヤ教徒に対して、パウロは割礼は必要ない(すなわちユダヤ教への改宗は必要でない)と主張して譲りませんでした。使徒言行録によると、最後に議長としてヤコブが立って、パウロの働きを聖書の預言にかなうもの(神のご計画の中にあるもの)として認め、ユダヤ人信徒との交わりに必要な最低限の事柄を異邦人信徒に要求する書簡を送ることで決着します。

 この会議の結論をパウロの側から見るとどうなるでしょうか。パウロはこう書いています。
 「・・・・彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです」(ガラテヤ二・九)。

 この会議で合意が成立し、ヤコブとケファとヨハネは「割礼を受けた人々」、すなわちユダヤ人に、パウロとバルナバは異邦人に、という原則が承認されたのです(原文には「行く」という動詞はなく、これからの働きの分野ではなく、原理の承認を語っています)。福音を伝える働きが、その対象から二つの分野に分けられ、「割礼の者たち」(ユダヤ教徒)への宣教はヤコブが代表するエルサレム共同体が担当し、「無割礼の者たち」(異邦人)にはパウロ・バルナバが代表するアンティオキア共同体が担うという原則が承認されたのです。こうして、異邦人で信仰に入った者には割礼(ユダヤ教への改宗)が要求されないことが確認されたわけです。

 この会議の合意は、それまでに事実として行われてきていた二つの宣教活動(ミッション)の原則が承認されたことを意味します。全体の統括者としてのヤコブは、パウロの異邦人への「割礼なしの福音」を神の恵みの働きとして認めています。これが、パウロとヤコブの関係を検討するときに基本的な事実となります。

 70年のエルサレム神殿崩壊までの最初期には、ユダヤ人への宣教活動と異邦人への宣教活動という「二つの宣教活動(ミッション)」が並行して進められていました。この二つの宣教活動(ミッション)も、その内部では違った傾向があり、一枚岩ではありませんでした。ヤコブを代表とするユダヤ人へのミッションも、最強硬派には異邦人信徒にも割礼を要求した「ファリサイ派から信者になった」者たちがいました(彼らは実はエッセネ派出身の者たちではないか、とわたしは推測しています)。そして、コルネリオの場合の体験から異邦人をそのまま受け入れることに理解をもつペトロのような、かなり自由な立場の一派もありました。

 一方、パウロに代表される「律法から自由な宣教活動(ミッション)」にも、様々な傾向があったようです。異邦人信者には割礼を要求せず、その原理で異邦人に福音を伝えることを使命としながらも、自身は律法順守によってユダヤ人としてのアイデンティティーを保持しようとしたバルナバとアンティオキア共同体のユダヤ人信者たちがいました。この傾向の人たちは、ペトロの立場の人たちと重なってきます。パウロはこのような立場の人たちとは一線を画しています(ガラテヤ二・一一〜一四)。他方、パウロの律法から自由な立場を徹底して、一切の律法規定を廃棄し、聖書(旧約聖書)そのものまで否定する極端な自由主義者も出てくることになります。後にマルキオンに代表されるようになる立場が、萌芽として始まっています。パウロは、このような自分の霊的知識を誇る自由放埒主義者を厳しく非難しています(コリント書簡)。

 それぞれの内部に異なる諸傾向を孕んでいたとはいえ、この並行して進められていた「二つの宣教活動(ミッション)」を代表する人物として、ヤコブとパウロの関係は重要です。ヤコブは、パウロの異邦人への「割礼なしの福音」、「律法から自由な福音」を、神の救済史の一部として認めていました(使徒一五・一二〜一八)。パウロは、ヤコブが代表するイスラエルへの福音宣教が存在して初めて、自分の異邦人伝道の意義が全うされることを知っています(ローマ書九〜一一章)。それで、エルサレム共同体との関係を無視して自分の宣教活動を進めようとはしませんでした。どのような困難があっても、自分の命が危険にさらされても、必要な時にはエルサレムにヤコブを訪ねることをためらいませんでした。

 ところが、エルサレムではパウロの「割礼なしの福音」が誤解されていました。パウロは、異邦人信者に割礼を求めなかっただけですが、エルサレムの律法熱心なユダヤ人の間には、パウロはディアスポラのユダヤ人たちに「子供に割礼を施すな、(モーセの)慣習に従うな」と言って、モーセから離れるように教えていると誤解されて伝わっていました(使徒二一・二一)。パウロを理解しているヤコブは、この誤解を解くために、パウロに神殿での清めの儀式に参加するように勧めます。パウロはこの勧告を受け入れますが、その結果騒乱に巻き込まれ、逮捕されることになります。

 このようにパウロとヤコブが互いに理解し承認していたという基本的な関係からすると、ヤコブ書二・一四〜二六の「行いを欠く信仰は死んだもの」の段落は、けっしてヤコブがパウロの「割礼なしの福音」とか「律法とは別の神の義」という原理を否定しているものではないことが理解できます。この段落の表現や用語からすると、ヤコブ、またはヤコブの教えの伝統を継承してヤコブ書を書いた著者は、パウロのローマ書を知っていたと考えられます。著者は信仰による義そのものを非難しているのではなく、「行いの伴わない信仰」を批判しています。「信仰によって救われる」と称して、自分には信仰があるから行いはなしでもよいとする信仰、すなわちパウロの信仰による救いの使信の誤解とか誤用を批判しているのです。パウロは、信仰があれば行いはなくてもよいとは主張していません。たしかに、キリスト信仰だけが神に受け入れられる根拠であることを際だたせるために、パウロは行いなくして義とされる者の幸いを語っています(ローマ四・四〜五)。義の根拠としての行いは厳しく排除されています(ローマ三・二七)。しかし、義とされ御霊に生きるようになったキリスト者が、御霊の実を現す行いや生活をしなくてもよいなどとは一言も言っていません。ローマ書では一二章以下で「信仰に伴う行い」を説いています。

 ヤコブ書は、どうして、どのような根拠で人は救われるのかを説く文書ではなく、主イエス・キリストを信じて救われた者がどのように生活すべきかを説く実践的な勧告の手紙です。ヤコブ書は、ローマ書の一二章以下と較べられるべき文書です。そのように比較すれば、ローマ書とヤコブ書は大差ないことが理解できます。パウロも、自分には信仰があると言っていながら、貧しい人を差別して冷遇するような信者を見たら、ヤコブと同じく、主イエスを信じる者にふさわしく行動するように戒めたことでしょう。

 

ヤコブと黙示思想

 先に「ヤコブの殉教」の項で見たように、ユダヤ教指導者たちは、民衆にイエスをメシアと信じて誤りに陥らないよう説得することを求めて、ヤコブを神殿の高い所に連れて行き、そこから語らせます。ところが、ヤコブは「人の子は天において大いなる力の右に座し、天の雲に乗って来られる」と叫んだので、彼らはヤコブを突き落とし、石を投げつけて殺します。また、復活されたイエスが最初にヤコブに現れたことを伝える伝承(『ヘブル人福音書』断片七)でも、「わたしの兄弟よ。あなたのパンを食べなさい。人の子が眠りについている者たちの間から復活したのだから」と、「人の子」という用語が使われています。

 終わりの日に天から現れて神の審判を執行し、義人を救う「人の子」という表象は、ユダヤ教黙示思想特有のものであり、異邦人には理解できないものです。それで、パウロをはじめとする異邦人へのミッションでは使われなくなります。ところが、このようにヤコブに関する伝承で「人の子」が用いられている事実は、エルサレム共同体から発するこの黙示思想の用語が、二世紀とか三世紀というかなり後の時代まで、ユダヤ人キリスト者の間で理解され用いられていたことを示しています。

 殉教のときに、石を投げつけるユダヤ人のために赦しを祈り、「人の子」を言い表した事実は、ステファノの場合(使徒七・五六)と同じです。このことから、ステファノからヤコブの殉教に至るまで、エルサレム共同体は「人の子」の来臨を差し迫ったものとして熱く待ち望む黙示思想的待望の集団であったことが分かります。このことは、すでにヘレニズム世界に生活しているという状況で書かれたと考えられる「ヤコブ書」が、「主イエス・キリストの《パルーシア》(来臨)」を強調している事実からも確認されます(五・七〜八)。先に見たように、ヤコブ書は「主イエス・キリスト」の名を二回出していますが、そのキリストがどのような方であり、どのような救いを与えてくださるのかについて語るところはほとんどありません。その中で、「主の《パルーシア》」だけが取り上げられ、それが近いことが勧告の根拠とされています。この事実は、ヤコブ書もエルサレム共同体の黙示思想的待望の体質を証言していることを意味します。

 エルサレム共同体は、その成立当初からきわめて強いメシア来臨の待望に生きる集団であったと考えられます。過越祭のエルサレムでイエスが処刑された後、ユダヤ教指導層からの追求を恐れてガリラヤへ逃げ帰っていた弟子たちが、ペンテコステまでに再び危険なエルサレムに戻ってきたのは、復活されたイエスの顕現に接し、イエスこそ終わりの日に神が遣わされたメシアであることを確信し、そのメシア・イエスがやがて栄光の中に到来されることをイスラエルの民に告知することを、復活者イエスから委ねられた使命と理解したからです。その告知は、イスラエルの民の聖所、とくにすべての民が集まる祭りの時のエルサレムでしなければなりません。また、その来臨をエルサレムで待たなければなりません。ペトロやイエスの家族はエルサレムに移住し、イエスの死から五十日後のペンテコステの祭りの時、エルサレムでイエスを復活されたメシアと告知し、その方が終わりの日の裁き主として到来されようとしていることを宣べ伝えます。その結果、エルサレムにイエスをメシアと信じ、その栄光の来臨を待ち望むユダヤ教徒の共同体が成立します。

 ヤコブも、先に(第一節で)見たように、成立当初からこのエルサレム共同体に参加しています。イエスの肉親という特別の立場から、ペトロが代表する「十二人」と共に、エルサレム共同体の中核を形成しますが、42年に「十二人」の一人のヤコブが殺され、ペトロが(そしておそらくは他の使徒たちも)エルサレムを去ってからは、ヤコブがエルサレム共同体の統率者となり、この共同体のメシア来臨待望を体現する立場に立つことになります。そのヤコブが殉教にさいして、「人の子は天において大いなる力の右に座し、天の雲に乗って来られる」と叫んだと伝えられいることは、このエルサレム共同体が黙示思想的終末待望の集団であったことを、よく物語っています。

 同時に、先に「イエスとヤコブ」の項で見たように、ヤコブがイエスの「神の国」運動の継承者であるという面を考慮するとき、このヤコブの黙示思想的終末待望の姿勢は、イエスの「神の国」宣教の性格を理解する上で重要な要素であると考えられます。イエスの「神の国」宣教にこのような終末待望の面がなければ、エルサレム共同体が突然このような黙示思想的待望に生きるようになることはなかったでしょう。イエスの語録伝承はその解釈が争われていますが、洗礼者ヨハネの宣教の中から始まったイエスの「神の国」宣教は、やはり終末的な神の支配の切迫を告知する面が基本的内容であったと理解すべきでしょう。

 ところが一方、ステファノたち「ヘレニスト」から始まりパウロが代表するようになる「律法から自由な福音」宣教の流れは、イエスの「恩恵の支配」の告知の継承として、イエスの「神の国」宣教のもう一つの面を代表しています。パウロ自身はなお黙示思想的な表現や思想の枠組みを残していますが、その次の世代になると、コロサイ書やエフェソ書で見たように、「脱黙示思想」の傾向が強まり、ヘレニズム世界の宇宙論的(コスモロジカル)なキリスト信仰が支配的になってきます。こうして、使徒以後の時代、すなわち「使徒名書簡」の時代には、ヤコブとパウロの対比が、黙示思想をめぐって、一方では黙示思想的待望を中心にもつ流れと、黙示思想を脱却してヘレニズム世界の宇宙論的(コスモロジカル)なキリスト信仰の流れの対比として受け継がれることになります。このヤコブ書は、これまでに見てきたように、黙示思想的待望のエルサレム共同体の体質をヘレニズム世界で受け継いでいます。このヤコブ書やヨハネ黙示録が代表する黙示思想的な流れは、さらにユダ書やペトロ第二書簡に現れることになります。それで、この二書が次章の主題となります。

 


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