ユダヤ教内のキリスト信仰


第二章 パレスチナ黙示思想の流れとその変遷

                   ―― ユダ書とペトロ第二書簡 ――

 

第一節 ユダ書

                        (本節で書名のない引用箇所の数字は、すべてユダ書の節をさします。)

 

    ユダ書の成立

著者

 本書の著者は自らを「イエス・キリストの僕で、ヤコブの兄弟であるユダ」と名乗っています(一節)。新約聖書で何の肩書きや説明のない形の「ヤコブ」は、主の兄弟ヤコブ以外には考えられませんので、著者は自分を「主の兄弟ヤコブ」の兄弟、したがって「イエスの兄弟」であるユダ(マルコ六・三)としていることになります。

 ここでも、その洗練されたギリシア語から(ユダ書のギリシア語は複雑な用語を多用した立派なものです)、アラム語を母語とするガリラヤのユダヤ人ユダが著者であることが問題になります。しかし、もしユダが(コリントT九・五が示唆するように)各地を巡回して福音を説いていたのであれば、長い間ギリシア語圏のユダヤ人の間で働いている間に、このようなレベルのギリシア語を使えるようになっていたことも不自然ではありません。本書は、七十人訳ギリシア語聖書ではなくヘブライ語聖書を用いていること、その解釈方法、外典の黙示文書の使用や強い黙示思想的色彩など、パレスチナのユダヤ教徒のキリスト信仰を指し示す指標が多くあります。従って本書は、イエスの兄弟であるユダ自身か、あるいはユダにきわめて近いパレスチナのユダヤ人でギリシア語をよくする人物が書いた可能性が高いといえます。後者の場合を含めて、わたしたちは本書をイエスの兄弟のユダから出ているものと見てよいでしょう。

成立年代

 著者がイエスの兄弟であるユダ自身か、ユダと共にいる身近なユダヤ人だとすると、本書の成立はユダヤ戦争以前の使徒時代となり、新約聖書の中では(パウロ書簡と並んで)もっとも初期の文書の一つとなります。エーゲ海地域でパウロ書簡が書かれていた時期に、パレスチナのどこかで本書が成立していたと見られます。本書は、パレスチナにおける、イエスの肉親を指導者とするユダヤ教徒のキリスト信仰を垣間見させる貴重な文書となります。この点で、本書は著者の兄弟であるヤコブの書とされる「ヤコブ書」と同系の文書となります。

宛先

 本書は手紙の形式で書かれています。最初の「挨拶」の部分(一〜二節)で、発信人、宛先人、祝福の祈りが明示され、当時の手紙の形式を取って書かれています。しかし、その宛先は特定の個人や集会ではなく、「父である神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人たち」一般となっています。この文書がギリシア語で書かれている事実から、宛先の人たちをパレスチナのユダヤ教徒(彼らは大部分アラム語系です)に限定できず、ギリシア語を話す世界でイエス・キリストを信じる人たちを広く指しています。本書が「公同書簡」の一つとされる所以です。しかし、本書が当時の黙示文学の思想や聖書解釈を当然のように前提していることから、やはり宛先の人たちはユダヤ教徒か、異邦人であってもかなり深くユダヤ教に通じている人たちであると見るのが順当でしょう。異教的環境で、反律法主義(アンティノミアニズム)的な傾向の教師たちの影響を受けて、信仰的に危険な状況にあるユダヤ人共同体(異邦人を含むこともありえます)に宛てて、本書が書き送られたと見られます。


    ユダ書の目的と内容

ユダ書の執筆目的(三節)

 著者はこの手紙の執筆目的を次のように語っています。

 愛する人たち、わたしたちが共にあずかる救いについて書き送りたいと、ひたすら願っておりました。あなたがたに手紙を書いて、聖なる者たちに一度伝えられた信仰のために戦うことを、勧めなければならないと思ったからです。(三節)

 著者は「聖なる者たちに一度伝えられた信仰」が危険にさらされていることを強く感じています。それで、「わたしたちが共にあずかる救い」について書き送って、信仰を励まし、その信仰の確立のために戦うことを勧めようとします。「わたしたちが共にあずかる救い」とは、後に続く本文からすぐ分かるように、主イエス・キリストが栄光の中に来られる「来臨《パルーシア》」の時に与えられる救いです。その時に与えられる救いが「永遠の命」であり、今はその終わりの時を「待ち望む」べき時です(二一節)。このような表現にパレスチナ・ユダヤ人共同体の強い黙示思想的待望がうかがわれます。

 この終わりの時が差し迫ったとき、メシア・キリストであるイエスが現れて、終わりの日の救いにあずかる神の民を集められました。このイエスをメシア・キリストと信じる信仰によって集められた者が「聖なる者たち、聖徒」と呼ばれ、その信仰が「聖なる者たちにひとたび(=他にはない、決定的な仕方で)伝えられた信仰」と呼ばれます。この尊い信仰、「最も聖なる信仰」(二〇節)を危うくし、終わりの日にあずかる救いを台無しにしようとする危険な試みに対抗して、この信仰の確立のために戦うことを勧め励ますために、この手紙が書かれます。

 この励ましは、手紙の最後に具体的な形で出てきます(二〇〜二三節)。しかし、その前に著者は、このような励ましが必要になった危険な状況を明らかにします。

偽りの教師の侵入(四節)

 その危険な状況とは、「わたしたちの神の恵みをみだらな楽しみに変え、また、唯一の支配者であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定する」「不信心な者たち」が、聖徒たちの中にひそかに紛れ込んで来て、聖徒たちの信仰を覆そうとしているからです。この表現から、著者のいう「不信心な者たち」、偽りを説く教師たちとは、霊的なカリスマ豊かな巡回伝道者の中で、神の恵みが力強く働いているのだから、自分たちはもはや律法に拘束されてはいない、自由なのだとして、自分の考えだけに従って律法に違反する生活をする、あるいはそのような傾向を見せる人たちではないかと考えられます。このような傾向の動きがパレスチナの信仰運動にあったことは、マタイも取り上げています(マタイ七・二一〜二三)。彼らは、神の定めを無視する者、「不法をなす者」として、唯一の支配者である主イエス・キリストの支配権を否定する者とされます。マタイと共に、律法の支配を絶対とする姿勢に、本書のユダヤ教体質が出ています。

 著者は続いて、そのような神の裁きに定められ、滅びに定められた「不信心な者たち」が、終わりの日に現れることは、昔から聖書に預言されていたことだとして、聖書や外典を引用し、独自の解釈で彼らの裁きを語ります(五〜一六節)。

聖書の中の三つの予型 (五〜七節)

 著者は、読者が聖書(その外典での解釈まで含めて)によく通じていることを前提にして(五節前半)、聖書から三つの事例をあげて、自分の勧告を根拠づけます。まず第一に、イスラエルの民がエジプトから救い出された後、荒野で主に背いたために滅ぼされたという歴史的事実(民数記一四章)を思い起こさせます(五節後半)。
 次に、自分の本来の住まい(領域)を捨てて、地上の女と交わることを求めたので、神が「永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込めた」天使たちのことが語られます(六節)。これは創世記六章(一〜四節)にある神の子たちが人間の娘と交わったという記事について、黙示文書(エチオピア語エノク書六〜一九章)に見られる解釈です。

 第三に、悪名高いソドムとゴモラの性的退廃が実例としてあげられます(七節)。ソドムとゴモラの民が犯した罪は、創世記六章の天使たちの場合と同じく、性の交わりに関する創造者の秩序を破り、「不自然な肉の欲の満足を追い求めた」ことにあるとされます。

偽預言者の危険(八〜一三節)

 ここで著者は、聖徒たちの中に紛れ込んできた偽教師・偽預言者たちを、「夢の中で幻を見る者たち」と呼び、彼らの特色を「身を汚し、権威を認めようとはせず、栄光ある者たちをあざける」者たちだと描きます(八節)。主の言葉を受けて語る真の預言者に対して、自分の心の思いから出たものを主の言葉として語る偽預言者を「夢を見た者」と呼ぶのは、エレミヤ(二三・二五〜三二)以来の伝統です。彼らは、先にあげた創世記の天使たちやソドム・ゴモラの住民たちと「同じように」性的退廃に陥り、それによって律法を定められた主の権威を汚し、「諸々の栄光」を嘲ったのです。この「諸々の栄光を嘲った」という表現は、おそらく宇宙的秩序・道徳的秩序の維持者としての地位(栄光)をもつ天使たちを嘲ったことを指していると考えられます。彼らは、自分たちの霊的体験(幻)を誇り、自分たちこそいっそうまさる悟り(グノーシス)をもつ者として、律法や秩序を嘲り、身体の行為は霊的救済に関係ないとして、性的な無秩序に走ったと考えられます。

 ここで著者は、天使たちを嘲る偽教師の傲慢を批判するために、「大天使ミカエル」の事例を引き合いに出します(九節)。この時代のユダヤ教、とくに黙示文学では、ミカエルが天使たちの長として「大天使ミカエル」の称号で呼ばれていました(ダニエル一二・一など多数)。黙示文書の一つである「モーセの昇天」はギリシア語の引用断片が僅かに残るだけですが、それによると大天使ミカエルは、モーセの遺体の埋葬にあたって悪魔と論争します。悪魔は、モーセはエジプト人を殺したのだからその遺体は自分のものだと主張します。それに対してミカエルは、「主がお前を懲らしめてくださるように」とだけ言って、裁きを主に委ねたとされています。この大天使ミカエルと比べて、天使たちを嘲る偽預言者たちの傲慢が対比されます。

 この「モーセの昇天」は、ラテン語訳だけが伝えられている「モーセの遺訓」の一部と見られ、その全体はヘブライ語またはアラム語で書かれていたと推察されています。著者はこの黙示文書をよく読んでおり、読者もその内容は聞き及んでいることを予想してこの書を書いています。この事実は、このユダ書がユダヤ教の領域内での文書であることを、強く示唆しています。

 続いて、この「夢想家たち」に対する非難が、「知らないこと」と「本能的に知っている事柄」に対する彼らの態度を対照して語られます(一〇節)。彼らは自分の知識(グノーシス)こそ最高だと誇り、栄光ある天使たちをののしっていますが、それは彼らが霊界の実相を知らないからだとします。彼らは「知らない」聖なるものを「冒瀆している」(直訳)のです。彼らが誇る知識(グノーシス)は「本性によって」知っているだけのものであり、理性のない動物が本能的に知っているのと変わらないとします。そのような人間の本性から出る知識で本能的に行動するので、彼らは性的な退廃に陥り、神の秩序から「堕落する」(直訳)のです。

 このように著者は偽預言者を非難し、「不幸な者たちよ」と禍いの詞を投げつけます(一一節前半)。この「禍いだ」(直訳)という表現は、「幸いだ」の反対表現として、マタイが二三章で繰り返しユダヤ教会堂に投げつけた「禍いだ」と同じです。さらに読者に馴染み深い聖書の実例を三例あげて、彼らの姿を描きます(一一節後半)。カインは高ぶりから自分の兄弟を滅ぼした最初の人間です。バラムは金銭欲のためにイスラエルの民を背教へ誘った偽預言者の代表です。コラはモーセの権威に反抗して滅んだ者であり、分裂をもたらす者の典型です。

 続いて著者は、このような偽預言者の行動を具体的に描きます(一二節前半)。著者はまず彼らを近寄ると危険な「暗礁」だと言います(多くの訳は「しみ、汚点」と訳していますが、本来は「(隠れた)岩礁」の意味の語です)。彼らは「あなたたちの愛餐《アガペー》で臆面もなく(恐れなく)共に供応に列する暗礁」だとし、そうして「自分自身を養う牧者たち」だとします。「しみ」でも意味は通りますが、表面的には分からない隠れた誤りであるが、接触すると人を破船させる危険な存在として、「暗礁」の方が適切ではないかと思います。ここで、最初期の信徒たちの集会の中心であった共同の食事が「愛餐《アガペー》」と呼ばれていることが注目されます。その食事において、主イエスの最後の晩餐の言葉と意義が繰り返し確認されていたと推察されます。彼らは、臆面もなく聖徒たちの集会に連なり、指導者顔をして自分の利益を計っている者、昔エゼキエル(三四章)が非難した「自分自身を養う牧者」であるとします。

 その上で、「風に追われて雨を降らさぬ雲、実らず根こぎにされて枯れ果ててしまった晩秋の木、わが身の恥を泡に吹き出す海の荒波、永遠に暗闇が待ちもうける迷い星」と、多くの比喩を重ねて彼らの空しさを印象づけます(一二節後半〜一三節)。雲の比喩は箴言二五・一四にあります。木の比喩では「二度死んで根を引き抜かれた木」という表現が用いられています。この表現は、信仰に入る前の死と、入ってからの主への反抗による死を指すと象徴的に解釈されることもあります。荒波の比喩はイザヤ書五七・二〇からでしょう。迷い星はエノク書(一八・一五〜一六)の比喩をそのまま用いています。彼らは、思い上がって定められた軌道から離れ、深い永遠の暗闇に投げ込まれる星にたとえられます。マタイ(七・一五〜二〇)も偽預言者について、「羊の皮をまとった狼」と「木と実」の比喩を用いて警告をしています。

エノクの予言(一四〜一六節)

 彼ら偽教師・偽預言者については、大昔から「アダムから数えて七代目に当たるエノク」も予言していることだと、著者は当時の黙示文書の一つであるエノク書の一節(エチオピア語エノク書一・九)を引用します。著者はエノクの預言に「主《キュリオス》」を挿入して、主イエスの来臨《パルーシア》を語る預言とし、彼らが来臨される主イエスによって断罪されることを語る預言の言葉とします(一四〜一五節)。

 その上でもう一度彼ら「夢想家」の本質を、自分の運命に不平を鳴らす不満家、自分の欲望のまま振舞う者、枠を超えて壮語する者、利益のためにへつらう者と描いて、彼らを厳しく非難します(一六節)。

使徒たちの予告(一七〜一九節)

 著者は改めて読者に「愛する人たちよ」と呼びかけて、「わたしたちの主イエス・キリストの使徒たちが前もって語った言葉」を思い起こさせます(一七節)。ここに引用されている「終わりの時には、あざける者どもが現れ、不信心な欲望のままにふるまう」という言葉は、特定の使徒の言葉ではなく、使徒たちの説教や終末預言を要約しているものでしょう(一八節)。その上で著者は、彼らの本質を(先に一六節でしていましたがもう一度)自分の言葉で判定します(一九節)。著者は彼らを「分裂を引き起こす者、霊を持たない《プシュキコイ》」だとします。

 ここで著者が「霊を持たない《プシュキコイ》」という表現を用いていることが注目されます。これはおそらく、著者が非難する偽教師たちが、「われわれは霊を持ち、究極の知識に基づいて歩んでいるので、伝統的な教義や倫理規範には拘束されず、自由である。それに対して一般の信徒は、伝えられた教えに外面的に従っているだけで、霊的悟りの段階に達していない」とし、自分たちを《プニューマティコトイ》(霊の人)、一般の信徒を《プシュキコイ》(魂の人)と呼んだのを逆手にとって、彼らこそ「御霊を持たない《プシュキコイ》」だと反論していると考えられます。新共同訳は《プシューケー》を「自然の命」と訳していますので(コリントT一五・四四以下)、ここでも《プシュキコイ》を「この世の命のままに生きる者」と説明的に訳しています。そうするとこの《プシュキコイ》は、パウロの表現に従えば、「肉によって」歩んでいる人たちということになります。

聖なる信仰を守りなさい(二〇〜二三節)

 著者は最初にこの手紙を書く目的を、「聖なる者たちに一度伝えられた信仰のために戦うことを勧めなければならない」と思ったからだと明言していました(三節)。しかし、なぜその必要があるのか、宛先の人々が直面している危険な状況を明らかにするため、偽教師・偽預言者に対する警告を語らなければなりませんでした。それを語り終えて、ここでやっと著者は意図する勧告を書き記します。

 この箇所は、これまでの偽りを説く一派の人たちを指す「彼ら」との対照を強調する「しかしあなたがたは」という表現で始まっています。あなたたちは「彼ら」に惑わされることなく、「あなたがたの最も聖なる信仰」によって「自らを築き上げなさい」と勧告します。「あなたがたの信仰」という句は、「聖なる者たち(としてのあなたがた)に一度伝えられた信仰」を指しています。それが「最も聖なる信仰」なのです。なお、新共同訳はここの動詞を「生活しなさい」と訳していますが、原文は「築き上げる」という動詞です。

 「信仰によって自らを築き上げる」のに最も大切なことは、「聖霊によって祈る」ことです。信仰生活において祈りは最も基本的な営みですが、たんに祈りの言葉(たとえば「主の祈り」)を唱えておればよいのではなく、内から溢れ出てくる思いで賛美し、願い、執り成すという性質の祈りが必要です。最初期のキリスト者には当然のこととして、著者はとくに説明を加えていません。キリスト者は祈りの中で教えられ、鍛えられ、建て上げられていきます。聖霊による祈り(父への語りかけ)こそ、神の子とされた者の実質です(二〇節)。

 父として子であるわたしたちを愛してくださる神の愛にとどまることによって、この世の欲や偽教師たちの高ぶりと堕落に陥らないように自分を守り、来るべき主の来臨に備えるように説きます。そして、その来臨への待望が、「永遠の命へ至らせる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい」と表現されます。最初期のユダヤ教内のキリスト信仰においては、当時のファリサイ派ユダヤ教がそうであったように、「永遠の命」は終わりの日に実現する「来るべき世」での命のことでした。キリストに属する者は、主の恩恵によって、その終わりの日に裁かれることなく、永遠の命に導き入れられるという希望が、その信仰の内容でした。この表現は、最初期のユダヤ教内のキリスト信仰のエッセンスをよく伝えています(二一節)。この短い箇所(二〇〜二一節)に、信仰と愛と希望という、キリスト信仰の三つの本質的な相が凝縮して表現されています。

 最後に、この希望に「疑いを抱いている人たちを憐れみ」、偽教師によって惑わされている「ほかの人たちを(審判の)火の中から引き出して助け」るように勧告します。そのさい、自分が偽りの教えに惑わされないように用心し、彼らの性的放縦に巻き込まれないように、「肉によって汚れてしまった彼らの下着さえも忌み嫌う」ように勧めます(二二〜二三節)。

賛美の祈り(二四〜二五節)

 著者は勧告を語り終えて、自分が切に祈り求めていること、すなわち、宛先の人たちが「罪に陥ることなく、喜びにあふれて非のうちどころのない者として、栄光に輝く御前に立つようになる」ことを実現してくださる神を、主イエス・キリストを通して賛美して、この勧告の書を結びます(二四〜二五節)。

 



        第二節 ペトロ第二書簡

                                  (本節で書名のない引用箇所はすべてペトロ第二書簡の章節をさします。)

  ペテロ第二書簡の成立

遺訓文学文書としてのペテロ第二書簡

 本書は手紙の形式で書かれています。最初に差出人、宛先、挨拶が明記されています。本書が新約聖書に多く見られる書簡形式の文書であることは明らかです。しかし、本書には(おそらくテモテUを例外として)他の書簡にない性格が見られます。それは、本書が使徒ペテロの遺訓としての形で書かれているという事実です。本書でペテロは死を間近にしている者とされています(一・一二〜一五)。著者は本書を使徒ペテロの遺訓として書き、読者にこの「使徒ペトロ」の勧告に従うように強くアピールしています。

 「遺訓文学」という類型は、聖書に登場する著名な人物が死に臨んで子孫や弟子たちに最後の教えを与えるという形式で書かれた文学類型です。創世記四九章のヤコブの祝福、申命記三三章のモーセのイスラエルの民への遺訓、ヨハネ福音書一三〜一七章のイエスの訣別遺訓などがその典型です。遺訓文学に属する文書には、残される者たちへの祝福、これまでの教えのまとめ、将来起こることの予告、将来の危険への警告、その時のための勧告や励ましなどが含まれます。このような性格と内容の遺訓文学の著作は、とくにヘレニズム期後期(新約時代前後)のユダヤ教において多く生み出されました。この時期のユダヤ教には、「アブラハムの遺訓」、「モーセの遺訓」、「十二族長の遺訓」、「レビの遺訓」(死海文書)など多くの遺訓文学作品があります。

 本書も典型的にユダヤ教遺訓文学の特色を示しています。本書で使徒ペテロは、世を去る時が近いことを予感して、それまでの教えをまとめ、後に残る者たちに将来に起こる危険を予告・警告し、それに対処する心構えを諭しています。本書がユダヤ教遺訓文学の形で書かれているという事実がすでに、この書がユダヤ教内の福音運動の中で成立した文書であることを強く示唆しています。


著者と宛先

 本書は使徒ペテロからの書簡とされていますが(一・一)、ペテロ自身が書いたものではなく、ペテロの死後に別の人物がペテロの名によって書いた文書であることは明らかです。遺訓文学の形式そのものが、著者が別人であることを指し示しています。著者は、誤った教えをもたらす偽教師たちが現れることをペテロの予告として未来形で書いていますが(二・一〜三、三・一〜四)、それに対処するための勧告は自分の時代のこととして現在形で書いています(二・一〇〜二二、三・五、九、一六)。本書のギリシア語はアラム語を母語とするペテロのものとは考えられず、用語や概念もヘレニズム世界の色彩の強いものを多用した複雑な文章であり、著者はギリシア的教養の深いユダヤ人と見られます。

 宛先は、「わたしたちと同じ尊い救いを受けた人たちへ」とあるだけで、特定の集会とか、特定の地域は指定されていません。ペテロ第一書簡(一・一)では小アジア全域の「離散の人たち」が宛先とされていましたが、このペテロ第二書簡ではそのような指定はありません。本書が「公同書簡」と見られる理由です。ユダヤ教遺訓文学の形式で書かれていますが、対象はユダヤ人だけに限らず、異邦人信徒も含むすべてのキリストの民です。むしろ「情欲に染まったこの世の退廃から」逃れてきたという描写は異邦人の回心者を指していると見られます(一・四、二・二〇)。ヘレニズム世界のどの大都市も対象地となりえますが、ペテロ第一書簡を知っていて、パウロ書簡もよく知られている地域としては、やはりエフェソを中心とする小アジア地域がまず考えられます。

成立地と成立年代

 本書は「二度目の手紙」であると言っています(三・一)。これは同じくペテロの名で書かれたペテロ第一書簡を前提にして言っていることになりますが、同じ著者であるかどうかは確認できません。しかし、ペテロ第一書簡がローマのペテログループから出た書簡であるように、本書も同じローマのペテログループから出た可能性は高いと考えられます。それは、一節の「義によって」というパウロ的表現やパウロ書簡への言及(三・一五〜一六)から、パウロの影響の強い土地での成立が推定され、またローマ成立であることが知られているクレメンスの手紙や「ヘルマスの牧者」などと通じる用語や思想が見られることが示唆しています。当時のローマ集会は、コリント集会に対するクレメンスの手紙などに見られるように、地方の諸集会に対して牧会の責任を感じていたようです。ペテロ書簡もそのような活動の一端であったことも考えられます。
 成立年代はかなり遅いと推察されます。80年代の成立と推定されるペテロ第一書簡よりも後であり、また、後で見るように、本書がユダ書に依存していることから、ユダ書よりも後であることは確実です。下限は本書を利用している「ペテロの黙示録」成立の時期とされる一三五年頃となります。本書の内容が示唆する状況はこの期間の情勢と適合します。本書の成立を二世紀初頭と見る研究者が多くいます。そうすると、本書は新約聖書の全文書の中でもっともおそい時期の文書の一つということになります。

ペトロ第二書簡の目的

 70年にエルサレム神殿が崩壊しても「キリストの来臨」はありませんでした。その後数十年が経っても「来臨」は起こりませんでした。その間に福音はヘレニズム世界に進出して、キリストの民も圧倒的に異邦人が多くなり、そのキリスト信仰もヘレニズム思想の影響がますます強くなってきました。もともと使徒たちはみなユダヤ人でしたから、その福音にはユダヤ教の救済史的な枠組みがしっかりと残っていました。しかも、時代の強い黙示思想的な傾向から、またイエスご自身の終末的な「神の国」宣教の一面から、「キリストの来臨」が熱く待望されてきました。とくに、エルサレム共同体を中心とするユダヤ教内のキリスト信仰においては、来臨待望が信仰の中核的な位置を占めていました。ところが、70年以降は「来臨の遅延」が問題になるようになり、「主が来られるという約束は、いったいどうなったのだ」(三・四)と言って、来臨待望をあざける者たちが出てきます。こうして、信仰理解がますますギリシア化する傾向の中で、来臨待望をどのように位置づけるかが問題となってきていました。そのようなギリシア化の流れの中で、使徒ペトロの継承者として著者は、使徒が伝えた信仰の重要な一面である来臨待望を維持し、この信仰を励ますために本書を書き送ります。

 同時に、来臨待望の弛緩と関連して、著者は倫理的な危機を感じていたようです。ヘレニズム世界の人たちはユダヤ教の倫理的厳格主義には相容れないものを感じていたようです。霊魂と身体の二元論的なヘレニズム世界の宗教思想から、キリスト信仰を霊的な次元に限り、身体の行動は霊の次元に影響しないとして、霊的な信仰と(ユダヤ教の律法から見れば)放縦な生活が両立するように考え、そのように説く教師たちが現れてきていました。著者は、このような倫理上・生活上の放縦は終末待望の弛緩と一体であると見て、このように説く教師たちを異端を持ち込む偽りの教師、偽預言者として厳しく批判します。そうすることで、キリストの民が「不法」(アノミズム、放縦主義)に陥ることを防ごうとします。これが、本書の目的の一つの面となっています。

 この二つの面をもつ目的を果たすために、著者は本書を使徒ペトロの名で書きます。しかし、著者はただ使徒ペトロの使信をそのまま繰り返すのではなく、すっかりヘレニズム世界に取り囲まれた環境で歩んでいる読者に語りかけるために、ギリシア宗教思想の用語と概念を多く用いて語りかけます。著者は、使徒の使信を新しい環境に適応させるために苦闘しています。こうして本書は、福音がユダヤ教環境からヘレニズム世界へ、使徒時代から使徒後時代(=使徒名書簡の時代)を経て次の時代に移行するための苦闘を証言する文書となっています。


    ペトロ第二書簡略解

挨拶(一・一〜二)

 著者は「シメオン」というセム語形の呼び名を用いることで、もともとパレスチナユダヤ人としてペトロとは身近な関係であることを示唆しているようです。また、「救い主」《ソーテール》とか「知識、霊知」《エピグノーシス》というような、パウロ名書簡(前者は牧会書簡、後者はコロサイ・エフェソ書)に特徴的な用語が用いられていることが注目されます。

使徒ペトロの使信の要約(一・三〜一一)

 この一段は使徒ペトロの説教を要約しているような三段階の構造を見せています。1 まず、主イエスがわたしたちのために成し遂げてくださったことが語られます(三〜四節)。2 次に、それゆえにわたしたちが努め行うべき実践的な勧告が続きます(五〜九節)。3 そして最後に、それを行うならば終わりの日に与えられる栄光の約束が語られます(一〇〜一一節)。

    使徒はまず、主イエスがすでに「御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださった」事実を思い起こさせます。すべては神がキリストにおいて為してくださったことから始まります。しかも、わたしたちに「命と信心とにかかわるすべてのもの」が与えられたのは、「わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方」の《エピグノーシス》(認識)を通してであることが付け加えられます(三節)。この《エピグノーシス》は、コロサイ書やエフェソ書に見られるように、使徒名書簡時代のキーワードでした。本書が偽教師として弾劾する人たちも、この語を掲げて自分たちの悟りを誇った人たちでした。

 「御自身の栄光と力ある業」というのは、神が主イエス・キリストを通して為してくださった癒しなどの奇蹟の働きと十字架・復活という栄光の出来事全体を指していると考えられますが、その全体は「情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるため」という目的をもつ「尊くすばらしい約束」となっています(四節)。ここで救済が「神の本性にあずかる」という、ヘレニズム宗教の理想を語る言葉で表現されていることが注目されます。著者は、キリストによる救済をヘレニズム世界の人々に納得させようと努めています。

 2   神が主イエスによってすでにこのような尊い救いを与えてくださっているのであるから、それを受けたわたしたちは、その救いを確実なものとし、終わりの日に現れる栄光にあずかるために、力を尽くして励み努めなければならないとして、そのための実践的な勧告がなされます。まず、「信仰《ピスティス》には徳《アレテー》を、徳には知識《グノーシス》を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心《エウセベイア》を、信心には兄弟愛《フィラデルフィア》を、兄弟愛には愛《アガペー》を加えなさい」と勧められます(五〜七節)。ここにあげられている徳目は、パウロが「御霊の実」としてあげる徳目と似ていますし、とくに《アガペー》がその究極の価値とされるところも同じです。しかし、それが内から溢れる御霊の実としてではなく、行うべき実践目標とされている点が、やはりパウロとの違いを感じさせます。また、その徳目がヘレニズム世界の宗教とか倫理で尊ばれている用語で語られていることも目立ちます。そして、このような実践が「主イエス・キリストの《エピグノーシス》」に至ることを目標としていることが語られます(八節)。信仰生活においてこのような徳目を備えていない者は、「目が見えない」者であって、この世の快楽や誉れというような「近くのものしか見えず」、キリストの出来事において「以前の罪が清められたこと」や、将来の栄光に召されていることを忘れてしまっているのだと戒められます(九節)。

    以上に勧められたことを実践すれば、それは「召されていること、選ばれていることを確かなものとする」ことであり、やがて現れる「わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国」に入ることが確かになると、キリスト来臨の希望で締めくくられます(一〇〜一一節)。

使徒ペトロの遺訓としての書簡(一・一二〜一五)

 著者はこの書簡を、「自分がこの仮の宿(身体)を間もなく離れなければならないことをよく承知している」ペトロの言葉として、すなわち使徒ペトロの遺訓として書いています。使徒が「この体を仮の宿としている間」に説いたことを、使徒が「世を去った後も」キリストの民が思い起こすために、この書簡を書いています。この一段は、本書が典型的な「遺訓文学」の類型の文書であることを示しています。

キリスト来臨の預言とその確かな根拠(一・一六〜二一)

 著者は、使徒の「キリスト来臨」の告知がけっして「巧みな作り話」《ミュトス》によるものではないことを、力を込めて強調します。使徒の「キリスト来臨」の告知は、「キリストの威光を目撃した」者の証言であるとして、ペトロが繰り返し語ったと考えられる「山上の変容」の出来事を引用します(一六〜一八節)。この引用は、「山上の変容」の出来事(マルコ九・二〜八)が、最初期の福音宣教において、キリスト来臨の根拠として、またその前兆として用いられていたことを示しています。偽教師たちは、使徒たちの「キリスト来臨」の告知は、神の啓示によるものではなく、人間の思想や願望が作り出した《ミュトス》(神話)であるとして批判していたのでしょう。その批判を封じるために、著者は「キリスト来臨」の告知の根拠として、まず使徒が「山上の変容」の目撃者である事実をあげた後、次に預言の言葉を指し示します(一九〜二一節)。

 一九節の「預言の言葉」は単数形です。しかし、この単数形は特定の預言の言葉を指しているのではなく、キリストが世界に来られることを預言した(旧約以来の)預言の総体を指す単数形でしょう。イエスがイスラエルに現れ、山上でその本来の栄光の姿が使徒たちに示され、死者の中から復活されることによって、終わりの日に栄光のキリストが来臨されるという、旧約以来の「預言の言葉はいっそう確かなものとなっています」。このキリスト来臨を預言する言葉を、夜明け前の空に昇る明けの明星のように、暗闇の中で行くべき方向を指し示す灯火として心の中に保持するように、著者は説き勧めます(一九節)。

 聖書の預言を扱う際、預言は「決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったもの」であるから、聖霊によってのみ解釈すべきであって、偽りの教師たちがしているように、人間が「自分勝手に解釈すべきではない」と戒めます(二〇〜二一節)。これは、使徒たちのキリスト来臨の告知を《ミュトス》としてあざける偽教師たちの預言解釈を、聖霊によらない人間的な解釈として非難し、彼らを偽預言者とする次章の導入としています。

偽教師出現の予告と警告(二・一〜二二)

 遺訓文学の通例と同じく、本書においては、世を去ろうとしている使徒が将来起ころうとしている危険について予告し、警告しています。しかし、この危険な状況は著者の時代の状況に他なりません。この警告の箇所(二章)では、著者は前節で見たユダ書に依存し、その多くを引用し、自分たちの状況に適応させて敷衍しています。この事実は、本書がユダ書と同じくパレスチナのユダヤ教黙示思想の系列に連なる文書であることを強く示唆しています。

 この段落(二章全体)の基本的な主旨はユダ書と同じです。ユダ書の内容については前節で見ていますので、ここでは本書がユダ書に加えている敷衍と変更から、本書独自の状況と傾向を指摘するにとどめます。

 著者は偽教師の教えを「滅びの異端」という用語を使って非難しています。この「異端」《ハイレシス》という用語は、パウロでは集会の「分裂」という意味で二回出てきますが、偽りの教えという意味で用いられるのは、使徒名書簡でもここだけです(使徒言行録には数回、形容詞形がテトス三・一〇に出てきます)。これは、本書がかなり遅い時期の成立であることを示唆しています。著者は「異端」の本質を「自分たちを贖ってくださった主を拒否する」ことだとしています(一節)。そして、「異端」のしるしとして、「みだらな楽しみ」というような倫理的放縦があげられます(二節)。また、彼らは金銭欲から働いているのだと、その動機が不純であることを暴露します(三節前半)。

 このような「異端」の教師たちが滅ぶことは、昔から定められたことであるとして(三節後半)、著者は旧約聖書と旧約外典の諸文書を用いているユダ書に依存しつつ、彼らの滅びの姿を描きます(四節以下)。「罪を犯した天使たち」のこと(四節)はユダ書六節の引用です。その後、(荒野での滅びは略して代わりに)ユダ書にはなかったノアの洪水に触れた後(五節)、ユダ書七節と同じように、ソドムとゴモラの「みだらな行い」とその滅びを偽教師たちの放縦な生活と彼らの滅びの予型として取り上げます(六〜一四節)。その中に、「栄光ある者をそしる」偽りの教師たちの傲慢な態度について、ユダ書九節が大天使ミカエルのことを外典から引用して批判していることを下敷きにして批判していると思われる箇所(一一節)もありますが、この部分は全体として異端の教師たちのみだらで放縦な生活を具体的に描いて非難することに終始しています。また、ユダ書一〇節が「知らないことをののしる」偽教師たちを「分別のない動物」にたとえていることを、「屠殺されるために生まれてきた動物」と拡大して、彼らの滅びを決めつけています(一二節)。

 ユダ書一二節が用いていた「暗礁、しみ」という語を、本書の著者は「しみ」と理解したのでしょう、「彼らは汚れやきずのようなもの」だとして、集会の共同の食事に参加する彼らの「欺き」を非難します(一三節)。ユダ書は共同の食事を「愛餐」《アガペー》と呼んでいましたが、本書はその語を用いないで、彼らはあなたたちと食卓を共にするとき「彼らの欺き《アパテー》にふける」と表現しています。

 さらに、ユダ書一一節にある「金儲けのためにバラムの道に陥り」としているところを詳しくして、異端の教師たちの金銭欲を暴露します(一五〜一六節)。その上で、「干上がった泉、嵐に吹き払われる霧」という比喩で、彼らの空しさと滅びを語ります(一七節)。この比喩は、聖書や外典からの引用で比喩を構成しているユダ書(一二節後半〜一三節)と比べると、そういう背景を知らない一般の人々にも理解できる比喩となっています。総じて本書の著者は、ユダ書の著者ほど外典文書などのユダヤ教文書に通じていないという印象を受けます。

 最後に著者は、自分たちは自由を得ていると「大言壮語」して、異教の「迷いの生活からやっと抜け出て来た」初心の信徒たちに、「自由を与える」と約束しながら、自分たちのしている「肉の欲やみだらな楽しみ」へと誘惑する異端の教師たちを、「自分自身は滅亡の奴隷です」と断定します(一八〜一九節)。彼らは「わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされ」、滅びの力の奴隷となっているのだとします。「義の道」(福音、キリストの道)を知らない時に陥っていた世の汚れは、知らないで犯した罪ですが、この「義の道」を知ってから汚れに陥るならば、それは神への背反であることを知りながら犯す意識的な罪となり、「後の状態は、前よりずっと悪くなります」。これは、主イエスが汚れた霊が戻ってきた人について語られたと伝えられているお言葉(マタイ一二・四三〜四五)と同じことを言っています (二〇〜二一節)。そして、彼らの身に起こっていることは、「犬は、自分の吐いた物のところへ戻って来る」とか「豚は、体を洗って、また、泥の中を転げ回る」というような諺の通りであると、当時の世間で広く用いられていた諺を引用して彼らの堕落を印象づけます(二二節)。

 本書は、「牧会書簡」と共に、新約聖書の中ではもっとも後期に成立した文書であると見られます。これらの最後期の文書は、使徒たちから伝えられた教えをある程度定式化して、それに反する教えやずれのある思想(福音理解)を「異端」として排撃する傾向が強くなります。それをするさい、その教えや思想の内容を議論することなく、使徒的伝承に反しているという事実だけで「異端」と断定し、それを説く者たちの倫理的堕落を強調して、彼らの誤りのしるしとして論じる傾向があります。このような傾向は、それ以後の時代の教父たちに受け継がれ、使徒的伝承を維持するとする「正統派」が、それからずれる「異端」を排撃する「異端論争」の時代のモデルとなります。


来臨遅延の問題(三・一〜一三) 

 「異端」の教えに対する警戒を使徒の遺訓として述べた後、著者はこの書簡の本来の主題に戻ります。それは「キリスト来臨」《パルーシア》の確認です。著者にとって、異端の教師たちの堕落の原因は、彼らが「キリスト来臨」の信仰と待望を捨てたところにあります。著者は、来臨待望の弛緩と倫理的放縦は表裏一体と見ています。

 著者はペトロ第一書簡を知っていて、またその書簡が当時かなり流布していて読者もよく知っていることを前提にして、この手紙を使徒ペトロの第二の手紙として書いています(一節)。そしてこの手紙の目的を、読者の「記憶を呼び起こし、純真な心を奮い立たせて」、「(旧約の)聖なる預言者たちがかつて語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた、主であり救い主である方の掟を思い出してもらうため」であると明記します(一〜二節)。ここで「掟」という言葉が用いられていますが、これは使徒たちが伝えた主イエスの言葉の全体、ここではとくに「主であり救い主である方の預言」を指していると見られます(「主《キュリオス》であり救い主《ソーテール》である方」という表現は、牧会書簡も含め、新約聖書では後期の用語の特色です)。この両方の預言が、終わりの日における主の来臨《パルーシア》を預言していることを思い起こさせ、その信仰を励まそうとします。

 そのために著者はまず、来臨遅延の事実をあげつらって、「主が来るという約束はいったいどうなったのだ」と来臨信仰をあざける者たちが現れること自体、預言の内容であることを知っておくべきだとします(三〜四節)。彼らが言う「父たちが死んでこのかた」というのは、使徒時代の信者たちが熱心に《パルーシア》を待ち望んでいたが、みな主イエスの来臨を見ることなく死んだ事実を指しているのでしょう。とくにエルサレム神殿が崩壊するというユダヤ人には天地が崩れるような大変動が起こっても、「世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらない」様子で、同じように進んでいくことを指して、彼らは来臨待望を嘲笑したのでしょう。それに対して著者は以下に数箇条の論点をあげて、彼らの誤りを指摘し、来臨の約束が確かであることを論じます(五〜九節)。

 まず第一に、すでに過去において神の約束(予告)の言葉通りに、世界が裁きによって滅んだ事実をあげます(五〜六節)。著者はノアの洪水による世界の裁きのことを言っています。原始の水から生じたとされていた大地(創世記一・二)が、そのように水から大地を生じさせた神の言葉によって裁かれ、水によって滅ぼされたのです。それと同じように、現在の世界は「火で滅ぼされるために」、同じ神の御言葉によって、定められた時まで「取っておかれる」のです(七節)。終わりの日が「火の中に現れる」という思想は、旧約聖書には馴染みがありませんが、ヘレニズム期に成立した黙示思想の文書にはよく見られるようになります。パウロも一カ所だけですが、「かの日が火と共に現れ」と言っているところがあります(コリントT三・一三)。著者は、当時ユダヤ教黙示思想の中で流布していた「火による裁き」の思想を受け継いでいると見られます。神の言葉通りに、「かの日が火と共に現れ」、「不信心な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで」、現在の世界はそのままにしておかれます。

 そして最後に、人間は神の約束の実現が「遅い」と感じているが、「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のよう」という表現で、人間と神とでは時間の単位が違うのだということを思い起こさせた上で(八節)、なぜ現在の世界がそのままにしておかれるか、その理由ないし神の意図が示されます(九節)。それは「主は約束の実現を遅らせておられるのではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるように」、神に敵対する人間の歴史を「忍耐して」、背いている人間が悔い改めて神に帰ってくるための時間を与えておられるのだとします。このように著者は、来臨の遅延というこの時代の難しい信仰問題に真剣に取り組んでいます。

義の宿る新しい天と新しい地(三・一〇〜一三)

 著者は、主の来臨の約束はどうなったのかと嘲る人たちに対して、主イエスが比喩として語られ(マタイ二四・四三)、使徒パウロも用いた「主の日は盗人のようにやって来ます」(テサロニケT五・二)という警告の言葉を繰り返します(一〇節)。著者が描く「その日」の情景は、一〇節後半と一二節後半で繰り返され、全宇宙が揺るがされ天体が震い落ち、自然界の諸要素は燃え尽き熔け去るとありますが、それは共観福音書の黙示録的な終末預言(マルコ一三・二四〜二五)に出てくる言葉と同じです。これは、当時の黙示文学の思想そのものです。

  このように地上のもの、この世のものはすべて滅び去るのであるから、主の来臨を待ち望む者は神の約束だけに身を委ねて「聖なる信心深い生活を送る」ようにし、そうすることで「それが来るのを早めるようにすべきである」とされます(一一〜一二節)。この考え方は、イスラエルの民が完全に律法を守れば、神がメシアを送ってくださる日が早められるとしたユダヤ教の考え方の影響があるようです。いずれにせよ、「その日」は天地が崩れ去り、溶け去る恐ろしい日ですが、主の来臨を待ち望んでいるキリストの民にとっては、「義の宿る新しい天と新しい地」が現れ出る栄光の日です。

 本書はヘレニズム世界に生きる読者に語りかけるために、その用語や概念はきわめて広範囲にギリシア化されたものを用いていますが、個人の霊魂の救いというようなギリシア宗教思想に埋没することなく、その基本的な思想はやはりユダヤ教の終末的な思想であり、それがギリシアの宇宙論的な視野をもって展開され、宇宙的終末論(コスミック・エスカトロジー)となっています。そのことは「義の宿る新しい天と新しい地」という表現によく示されています。そのような新しい天と地が到来することは、偽ることができない神の約束です。天地が過ぎ去っても過ぎ行くことのない確かな約束です。ここまで来て、著者の来臨待望確立のための書簡は頂点に達します。最後に結びの勧告(一四〜一八節)を記して書簡を閉じます。

結びの勧告と頌栄(一四〜一八節)

 キリスト来臨の約束を確認した著者は、最後に来臨を待望する者の生き方として、「きずや汚れが何一つなく、平和に過ごす」ように励まします。それが、裁きの日に「神に認めていただける」者の姿だからです(一四節)。来臨が遅れているのは、先に述べたように、神が忍耐をもって待っておられることを示しています。その神の忍耐が世界の救いであるとわたしたちは考えるべきであって、来臨の約束を疑うようなことがあってはなりません(一五節前半)。

 ここで著者は、パウロも同じことを教えていると、パウロを引き合いに出します(一五節後半)。著者はパウロを「わたしたちの愛する兄弟」と呼び、パウロが書き送った手紙は「神から授かった知恵に基づいて」書いたものであることを認めています。本書の宛先の諸集会では、パウロ書簡集が聖書と並んで信仰の拠り所として読まれていたことをうかがわせます。このことは、本書がかなり遅い時期の成立であることを示唆しています。

 パウロも本書と「同じように」書き送っている、と著者は言っています。パウロ書簡がキリスト来臨の待望に貫かれていることは事実です。そして、来臨に備えて清い生活を勧めているのも事実です。著者は自分の書簡がパウロと同じ路線にあることを認めています。しかし同時に、当時すでにパウロ書簡が「曲解」されていることも認めて警告しています。その「曲解」というのは、おそらくパウロが唱えた「キリストにある者の自由」が、一部の者たちの間で倫理的な歩みを無視ないし軽視する放縦主義(アノミズム)になっていることを指していると見られます。著者はそれを、「無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いている」と表現しています(一六節)。著者が本書で非難している「異端」の教師たちは、曲解したパウロ思想で聖書(旧約聖書)を解釈して、来臨待望の否定や放縦主義に陥ったと見ているのでしょう。

 最後にもう一度「不道徳な者たちに唆されて、堅固な足場を失わないように」警告し(一七節)、反対者の誘惑に対抗できるように「わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい」と励まします(一八節前半)。ここで著者が「キリストの恵みと知識において」と言っているのは示唆的です。パウロの福音の核心である「恩恵《カリス》の支配」の体験を確かにし、同時に異端者たちが誇る「知識」《グノーシス》においても劣ることのないように、「キリストを知る知識」(フィリピ三・八)を深めるように励ましていますが、これは、(著者がパウロ書簡をよく知っていると考えられることと共に)著者にパウロの継承者としての一面があることを示唆しています。

 著者は本書簡をすべて書き終えて、最後に主イエス・キリストへの頌栄をもって手紙を結びます(一八節後半)。

        第三節 ユダヤ教内の信仰共同体とその消長

 

ヤコブ以後のユダヤ教内共同体

 いわゆる「公同書簡」の中の三書(ヤコブ書、ユダ書、ペトロ第二書簡)を扱ったこの「附論」の二つの章では、ユダヤ教の枠内で進展したキリスト信仰の姿を描くことになりました。ユダヤ教の枠内でのキリスト信仰(イエスをメシア・キリストと信じる信仰)の運動は、エルサレム共同体が担い手でした。イエスの復活後、イエスをメシア・キリストと告知した信仰運動は、ユダヤ教の中で新しい流れを形成し、エルサレムにイエスを信じる者の共同体が形成されました。このユダヤ教徒で形成されるエルサレム共同体は、当初ガリラヤでイエスの弟子として従ったペトロらイエスの弟子たちが指導しましたが、ユダヤ人共同体の常として長老たちによって指導されるようになり、その長老の中でもイエスの家族が重要な位置を占めるようになります。とくに、42年頃に十二弟子の一人のヤコブが殉教し、ペトロ(や他の弟子)がエルサレムを去ってからは、「義人」と呼ばれる「主の兄弟ヤコブ」がエルサレム共同体を代表し統率するようになります。その状況は、62年の「義人ヤコブ」の殉教まで続きます。この時期のエルサレム共同体の歩みについては、この附論の第一章第一節「主の兄弟ヤコブ」にまとめておきました。しかし、この時期のエルサレム共同体については、使徒言行録にあるルカの断片的な報告だけで、パウロの場合のように一次資料がないので、正確な歴史を描くことは困難です。

 使徒言行録で「主の兄弟ヤコブ」とエルサレム共同体の動向が触れられるのは、パウロが献金を届けるためにエルサレムに来てヤコブと会った時(56年)のことが最後です(使徒二一章)。その後のことは、ヤコブの殉教も含めて、ヨセフスの著作とかエウセビオスの『教会史』に保存されている伝承に頼らざるをえません。それによると、ヤコブの殉教の後、エルサレムのユダヤ人信徒共同体はいよいよ過激化する反ローマナショナリズム(それは「律法への熱心」という合い言葉で表現されます)の流れの中で孤立し、周囲のユダヤ教社会からの圧迫や迫害で存立が困難になります。ヤコブ殉教(62年)の数年後にローマに対するユダヤ戦争が始まりますが(66年)、その前後の時期にエルサレム共同体は荒廃するエルサレムを脱出して、ヨルダン東岸デカポリス地方のペラに移ります。エルサレム神殿崩壊にともなう「大いなる患難の時」の予言がマルコ福音書(一三・一四〜二三)にありますが、この予言はもともと、ローマの軍勢によるエルサレムの陥落が避けられない情勢になってきたとき、共同体の中で霊感を受けた預言者によって主イエスの名によって語られたものと見られます。この予言により、ユダヤにいたイエスの民はゼーロータイ(熱心党)の者たちと一緒にエルサレムに立てこもることなく、ヨルダン川東岸のペラに脱出します。

 イエスを信じるユダヤ教徒の共同体は、エルサレムだけでなくガリラヤや他のパレスチナ諸地方にもあったと推察されますが、資料がなく、その詳細は判りません。ペラに移ったエルサレム共同体のユダヤ教徒やパレスチナのユダヤ教徒の共同体は、ユダヤ戦争後も細々と存続しますが、どんどんと拡大するヘレニズム世界の異邦人信徒の共同体の陰に埋没して影が薄くなり、影響力を失っていきます。エルサレム共同体も、もはやエルサレム陥落以前の時期のように、救済史の担い手としてキリストの民の中核に位置する共同体ではなくなります。パレスチナのユダヤ教徒の信徒共同体は、ヘレニズム世界で主流となった異邦人の共同体から「エビオーン派」と呼ばれる(主流派の教父から見て)「異端的な」一セクトとなります。

 「エビオーン」という語は、ヘブライ語の《エブヨニーム》(貧しい者たち)から来ています。クムランの人たちは自分たちをこの語で指し、死海文書はクムラン共同体を「貧しい者たちの共同体」と呼んでいます(詩編三七編注解など)。最初期のエルサレム共同体は自分たちを「貧しい者たち」と呼んでいたことが、パウロの手紙からも推察されます(ガラテヤ二・一〇、ローマ一五・二六)。エルサレム共同体の人たちが自分たちを「貧しい者たち」と呼んだことは、イエスがしばしば「貧しい者たち」への祝福を語っておられる事実から、またエルサレムにおけるエッセネ派共同体からの強い影響からも、十分推察できることです。この《エブヨニーム》という自称が、後に律法順守に固執するパレスチナユダヤ人の信徒グループを指すニックネームになったようです。

 この「エビオン派」という用語を最初に用いたのは、二世紀末に活躍した教父エイレナイオスです。エイレナイオスやその後の教父たちによると、エビオン派はマタイ福音書だけを用い、エルサレムを尊重し、割礼を含むユダヤ教律法順守に固執し、イエスの誕生は自然の誕生とし(処女降誕を否定)、イエスをたんなる預言者とするなど、主流派のキリスト告白とは異なる「異端的な」一派とされています。四世紀のエピファニウスやヒエロニムスによる言及を最後として、エビオン派は歴史の舞台から消えていきます。この一派のユダヤ人によるものとされる「エビオン人福音書」の断片が伝えられていますが、この福音書はヤコブの流れをくむヨルダン川東岸のユダヤ人共同体が二世紀前半に生み出したものとされています。


 ユダヤ教黙示思想の残照

 このように、エルサレム陥落後はヤコブに代表されるエルサレム共同体は影響力を失い、やがて歴史の舞台から消えていくことになりますが、その流れの中から生み出された諸文書は正典の中に入れられて、その後のキリスト教の歴史に永続的な影響を及ぼすことになります。今回、この附論で取り上げた三書簡の中、ヤコブ書とユダ書はパレスチナユダヤ人の共同体から出たものですが、それがギリシア語で書かれているという事実そのものがすでに、パレスチナの枠を超えてヘレニズム世界のキリストの民に広く語りかけ、その信仰に影響を与えるものであることを示しています。また、ユダ書に強く依存しているペトロ第二書簡も、その内容においてこのパレスチナ起源の二書簡と同じく、ギリシア化した環境の中でパレスチナ・ユダヤ教の伝統を維持しようとしています。

 この三書簡が維持しようとしているユダヤ教的伝統とは、一つには急激にギリシア化する環境の中で、霊と身体の二元論に立つギリシア思想から、身体の行為は霊的救済に関わりがないとして、実際の生活において放縦に流れる傾向に対して、身体による行為を重視するユダヤ教の倫理的基準を維持しようとする努力です。これは、この三書簡に共通する重要な側面です。この三書簡の著者たちは、それぞれの仕方で、ユダヤ教の倫理的基準を使徒たちの教えの基準として強くアピールしています。
 しかし、それよりも重要なことは、このような倫理的弛緩の原因として、著者たちが終末待望の弛緩をあげて、ユダヤ教の黙示思想的な終末待望、具体的にはキリスト来臨の待望を熱く説いていることです。エルサレム共同体はもともと黙示思想的な終末待望に熱く燃えていた集団でした。復活されたイエスが栄光の主として世界に現れる「キリストの来臨《パルーシア》」を熱く待ち望んでいました。このエルサレム共同体の来臨待望と、この来臨待望が、パウロを経てパウロ以後の時代に至るまで、その後の福音の展開の歴史の中で、どのように変遷したかについては、本論第三章第一節「来臨待望の変遷」(本書148頁)でまとめておきました。

 そこで見たように、来臨待望はパウロを含め使徒時代にはなお熱く燃えていましたが、エルサレム陥落後の「使徒名書簡」の時代になると、ヘレニズム世界に生きる共同体では黙示思想的な終末待望に代わって、ギリシア的な宇宙論的キリスト理解が前面に出てくるようになります。この傾向はコロサイ書・エフェソ書が代表しています。さらに、ユダヤ教の枠を強く残しながらも、黙示思想的な終末待望を現在化して、現在の命の現実を説くヨハネ福音書のような文書も現れます。この時代には脱黙示思想の傾向が強くなります。ところが他方、ユダヤ教黙示思想的な来臨待望も折に触れ(迫害などに触発されて)激しく噴出してくる場合もありました。その典型がヨハネ黙示録です。

 ヨハネ黙示録はエフェソを中心とするアジア州の諸集会の間で成立していますが、その起源はパレスチナのユダヤ教黙示思想の流れの中にある預言者グループです。おそらくユダヤ戦争を体験したパレスチナの預言者集団が、戦後エーゲ海地域に移住してきて、ローマ帝国側からの迫害に直面してこのような激しい黙示文書を生み出したものと思われます。しかし、この時代にパレスチナのユダヤ教黙示思想を継承する証言はヨハネ黙示録だけではありません。「マルコの小黙示録」と呼ばれる黙示録的終末預言(マルコ一三章)は、この時代を通して継承され、後にはマタイ福音書とルカ福音書にも取り入れられ、「福音書の時代」にこのような黙示思想的待望が受け継がれていたことを証言しています。

 この附論で取り上げた三書簡も、パレスチナユダヤ人共同体の来臨待望を継承・維持するための努力を証言しています。ヨハネ黙示録のように過激ではありませんが、ギリシア化した環境の中に生きるキリストの民に、聖書的な救済史信仰に立つ「キリストの来臨」待望を励まし維持するために、言葉を尽くして説き勧めています。倫理的な実践的勧告が前面に出ていますが、背後には黙示思想的な来臨待望が熱く燃えています。ヤコブ書については、「ヤコブと黙示思想」の項(本書489頁)で見た通りです。ユダ書については、その全体にパレスチナ黙示思想文書の影響が強く見られ、キリストの来臨において与えられる救いにすべてが集中しています(ユダ二〇〜二一節)。

 ペトロ第二書簡はパレスチナ起源ではなく、ローマなどヘレニズム都市での成立が推察されますが、その内容はもっとも明白に「キリストの来臨」への待望を主題としています。「来臨の遅延」が問題になり、この信仰が揺らいでいた時代に、来臨待望を基礎づけ、その待望に生きるように励ましています。先に本論で取り上げたペトロ第一書簡も、ペトロ第二書簡と共に、ユダヤ教黙示思想の路線を継承する文書に入れてよいと考えられます。

 
時代の総合としてのルカの二部作

 このように見てくると、この時代、すなわちエルサレム陥落以後の「使徒名書簡」の時代は、一方ではユダヤ教黙示思想から脱却してヘレニズム世界の思想の枠組みの中でキリスト信仰を確立しようとする潮流があり、他方にはキリストの来臨を中心にしたユダヤ教黙示思想の枠組みを維持しようとする潮流があり、二つの潮流が絡み合い、対抗し、新しい総合を求めて模索していた時代ではないかと見られます。この総合の試みの一つが、この時代を締めくくるような意義を担って現れたルカの二部作、すなわちルカ福音書と使徒言行録ではないかと、わたしは見ています。

 ルカの二部作の成立年代については議論が続いていて確定はしていません。大体は一世紀の終わり頃と見られていますが、二世紀初頭と見る研究者もいます。実際の成立年代については、ルカ文書よりも遅いものがあるかもしれませんが、福音の展開史の視点からは、わたしはルカの二部作をこの「使徒名書簡」の時代を締めくくる位置にある著作だと見ています。本論終章の最後「ルカの福音提示」(本書427頁)にも書きましたが、ルカ文書はそれまでに伝えられたすべての伝承を統合し、これからキリストの民《エクレーシア》が進むべき方向を指し示す位置にあると見られます。

 今回ここで取り上げた時代の二つの潮流についても、ルカは両者を総合し、そこから生まれる新しい方向を模索していると、わたしは見ています。ルカは、マルコ福音書や「語録資料Q」に伝えられているイエス伝承を継承し、パレスチナユダヤ人が伝えたパレスチナの伝承を十分活用しています。その中にはマルコ一三章の「小黙示録」と呼ばれるパレスチナユダヤ教の黙示思想的伝承も含まれています。しかし同時に、ルカはエルサレム神殿はすでに崩壊し、イスラエルを核とする救済史は成り立たたなくなっていること、「異邦人の時代」が始まっていることもしっかりと見据えています。もはや黙示思想的な来臨待望だけに生きることはできません。キリストの民はこれから何百年も何千年も地上の歴史を歩む覚悟をしなければなりません。イエス・キリストの出来事において成し遂げられた救済の出来事を土台として、その上に《エクレーシア》の中に働く神の救いの歴史を築いていかなければなりません。ユダヤ人である使徒たちが伝えたように、聖書の救済史の枠組みは維持すべきですが、それはもはやパレスチナ黙示思想的な形においてではなく、ユダヤ人と異邦人とからなるキリストの民《エクレーシア》を担い手とする歴史の中での歩みの中で形成されるべきものになります。その歩みの根拠・土台として、ルカはイエス・キリストにおいて成し遂げられた神の救済の出来事と、その土台に立って歴史の中を歩むキリストの民の範例として、最初期の《エクレーシア》の姿を、二部作として書きとどめます。新しい救済史理解が始まります。この方向の先に、エイレナイオスの救済史神学が成立し、それがその後の正統派の教会の神学を方向づけます。

 ペトロ第二書簡の著者は、キリストの来臨が遅れていることをあげつらって来臨待望をあざける者たちに、「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のよう」という表現で、人間と神とでは時間の単位が違うのだということを思い起こさせています。これは、たとえ来臨が千年後になるとしても、それは神においては明日起こるというのと同じだ、すぐ来臨があるという神の約束は変わらないのだということを言いたいのです。しかし、逆に考えると、神が明日全世界を裁いて終わりの日をもたらすと決心されても、それはわたしたち人間世界では数千年後のことでもありうるわけです。この表現は、時間の枠を超えた出来事である終末を、わたしたち人間の時間的経験の枠の中で考えたり判断してはならないことを教えています。主の来臨を中心内容とする終末待望は、時間の中に生きるわたしたちの、時間を超えた現実への希望の表現です。この希望を御霊によって内にしっかりと確立して、歴史の現実の中に歩む覚悟を持つこと、これがわたしたちの課題であると思います。


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