8  信仰は聞くことによる

 信仰は聞くことにより、しかも聞くことはキリストの言葉による。  (ローマ書 一〇章 一七節)


 生まれながらのわたしが生きている命は死ぬべき命、死に定められた命です。わたしたちが真に必要としているのは永遠の命、死に打ち勝つ命です。どうしたらその命を受け継ぐことができるのか、これが人間の究極の関心事です。宗教は宣言します、「この宗教に入り実行しなさい。そうすれば永遠の命を得ます」。しかし宗教によって永遠の命に至ることはできないのです。そのことを人一倍宗教に熱心だったパウロが体験し、こう宣言します。「人は律法の実行ではなく、ただキリストの信仰によって義とされるのです」。ここで律法とは、パウロにとって唯一最高の宗教であるユダヤ教を指しています。

 ここで「宗教の実行」と「キリストの信仰」が対比されています。キリスト教を含め、いかに優れた宗教であっても、その宗教の教義を信奉し、その祭儀にあずかり、教えに従って生活しても、それで神に義とされて神との関わりに入り、神の命にあずかることはできません。それができるのはただ「キリストの信仰」だけです。というのは、宗教的行為を含め人間の側のいかなる立派な行為も、神に義とされて、神の命を受けるに値しないからです。人間が神の霊の働きにあずかり、神の命、永遠の命の領域に入ることができるのは、キリストにおける無条件絶対の恩恵の場だけです。

 自分のために死なれた復活者キリストに全存在を投げ入れ、キリストにあるという恩恵の場でキリストの働きだけを根拠にして生きる事態、すなわちキリストに合わせられて生きる事態の全体を、パウロは「キリストの信仰」と呼びます。このキリスト信仰を、新約聖書はただ「信仰」と呼ぶことがよくあります。標題の聖句の「信仰」もこのような信仰です。

 このような信仰は、人間の側の宗教的確信とか忠誠とか熱心によって得られる信仰とは別物です。この信仰を得るにはただひたすら「キリストの言葉」、すなわちキリストを告知する福音を聴いて、その言葉に身を委ねる他ありません。この信仰によって初めて、永遠の命を与える神の霊の働きを身に受けることができるからです。パウロはこう言っています、「あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法(宗教)を行ったからですか。それとも、福音(キリストの言葉)を聞いて信じたからですか」(ガラテヤ三・二)。

 (2013年4月21日)


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